「坂の上の雲」で描かれた二百三高地の激戦   (2014.01.06)


 昨日、録画してあったNHK「坂の上の雲」の中の「二百三高地」を改めて見直しました。たまたま、ホームページでいまとりあげている『新樹の通信』に、乃木さんが「多くの兵士を殺し人に合わせる顔がない」と述べている部分がありますが、ドラマの画面でも、壮絶な突撃が繰り返されては次々に倒れていく非情のシーンが続きます。当時は、飛行機も戦車もない時代で、日本軍には要塞攻撃の経験もありませんでした。それを、「単純な」正面攻撃を繰り返して犠牲を大きくした、というのが乃木さんを批判する人たちの言い分です。東京の乃木さんの留守宅では心無い人たちの投石が続いたといいます。死傷者の数は、確かに空前の数にのぼりました。旅順要塞攻撃で日本軍の戦死者約16,000、戦傷者は延数で約44,000という数字がありますし、二百三高地の攻略戦では、投入された約6万4千の兵士のうち、戦死者が5,052名も出たといいますから、第三軍司令官としての乃木さんの苦衷のほどが偲ばれます。

 ドラマでは、「戦争が下手」な乃木さんに替って指揮をとった高橋英樹さん扮する児玉源太郎総参謀長の戦術が二百三高地の攻略を成功させたということになっています。ドラマとしてはよく出来ていますが、それは資料の一面だけが強調されているようです。旅順艦隊の壊滅にしても、その全てが203高地が攻略されてから起こったことではありませんでした。ドラマの筋書きは、あくまでも、原作者・司馬遼太郎さんの主観によるものと考えるべきでしょう。作戦の実態については、研究者、学者の間でも、評価がいろいろと分かれていて、旅順の要塞の防備に対する分析を誤った満州軍総司令部の責任に言及する意見もあります。ひとつだけ確かなことは、おそらく、乃木さんが、現地軍である第三軍司令官に任命された不運の将軍であったということでしょうか。私は、むかし、あの旅順の難攻不落といわれた要塞跡を訪れた時にも、そのような感慨を覚えました。

 乃木さんは、『新樹の通信』(25)のなかで、自刃の動機として「何よりもあの旅順口で沢山の兵士を失ったことが間断なく魂にこびりついて」いたことをあげています。これは司令官としての責任を考えれば当然のことであったかもしれません。長男・勝典、次男・保典の二人のお子さんもこの戦場で戦死していますし、乃木さんが生きていくのが「厭になった」のも無理はありません。乃木さんには二百三高地の激戦を詠んだつぎの漢詩がありますが、二百三高地の「二〇三」には「爾霊山」という字があてられて、最初と最後に2回使われています。乃木さんは、この山で多くの兵士を死なせてしまった慙愧の念が拭えなかったことでしょう。おそらく、この頃からもう、乃木さんは死ぬことのみを考えていたのではないかと思われます。

  爾霊山嶮豈難攀 
  男子功名期克艱 
  鉄血覆山山容改 
  万人斎仰爾霊山 



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   いま現実に行なわれている珠玉の霊界通信     2014.01.13


 このホームページの「リンク集」に、大空澄人氏のホームページ「いのちの波動」があります。大空氏はご自身が優れた霊能者でもあり、多くの霊界からのメッセージを含むその格調の高い文章からは、プリントしたものを何度も読み返したりしながら、私もいろいろと教えられてきました。最近の「続 いのちの波動」にも、氏は昨年の秋に99歳7か月の天寿を全うされて霊界へ還られたばかりのご母堂からの「母からのメッセージ」を載せておられます。

 もう、多くの方々がお読みになっておられると思いますが、たいへん貴重な内容で、何度でも繰り返して読みたい気持ちになります。クリックさえすれば、すぐその本文が出てきますが、敢えて、ここにもそのごく一部を、大空氏のお許しを得てご紹介させていただくことにしました。『新樹の通信』の場合は、霊界の子から地上の母への通信を浅野和三郎先生がまとめたものですが、この「母からのメッセージ」は、霊界の母から地上の子への最近の通信で、これも大空澄人氏とご母堂の、あたたかく心の通い合った、もう一つの「珠玉の霊界通信」といえるのではないでしょうか。詳しくは、どうぞ、「続 いのちの波動」でご覧下さい。


 「母からのメッセージ 6」 (2013.12.23)

  こちらに来てみると本当に幸せを感じる。生きていた時に想像していたものとは全然違う。身がとにかく軽くて邪魔になるものがない。そっちの人が考えていることが全部わかってしまう。

  狭い所でののしり合ったりしているのを見ると可哀そうに思えてしまう。私は生前よく手紙を書いたものだけど、そういうものは必要がない。自分の届く範囲の人にはすぐに思いが通じる。何と素晴らしいことか。

 こっちの人もそちらの人も心に思っていることがわかってしまう。生前に思っていた人柄はメッキがはがれて丸見えになっている。それを見るとがっかりしてしまうよ。そちらでは自分を誤魔化すことなく正直に生きる事が何より大切だと思う・・・・・


 「母からのメッセージ 8」 (2014.01.10) 

 今はそちらにいた時のような苦しみがない。余計な事を気遣う必要がないからね。体の事を気にしなくていいのは本当に楽。死んだらその悩みから解放されるからね。

 こちらから見て一番喜ばしい事は残った家族が皆、元気に生きていること。幸せを感じて生き生きと生活している姿を見ることが最も嬉しい。

 逆に悲しかったり怒ったりそういう気持ちで生活している姿を見せることはこちらの者に心配をかけることになる。死んだ者は何も知らないと思うことは間違いでこの世にいた時よりもはるかによく知っているから。

   リンク集→ 「続 いのちの波動」



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   快適な暮らしを追い求める経済成長の代償     (2014.01.22)


 昨年(2013年)11月、フィリピンを襲った台風30号は、最大瞬間風速90メートルという、観測史上最大の猛威をふるって6000人以上が死亡するという大きな犠牲者を出した。アメリカやヨーロッパでは、これまで比較的温暖であった地域で、毎年のように大寒波が襲来している。北極圏に近い北緯79度の海域では、2010年以降、それまで海を覆っていた氷が全く見られなくなっているらしい。日本でも最近は、豪雨、豪雪、猛暑、暴風などの「異常気象」が目立ってきた。そして、これらはすべて、地球規模で進んでいる二酸化炭素排出による温暖化の影響と考えられている。一昨日は、そんななかで、世界第二位の経済大国中国が、北京や大連などの大都会で昼間でも薄暗くなるほどの大気汚染に悩まされながら、昨年度も7.7パーセントの高度の経済成長を達成したことを誇らしげに発表した。

 この地球温暖化のきっかけになったのは、18世紀の産業革命であった。エネルギー源として、広範囲に石炭を使い始めるようになったからである。1950年代から石油や天然ガスなどの化石燃料が大量に使われるようになると、大気中に放出される二酸化炭素の量は急激に増え始めて、現在では、産業革命以前に比べると、3000倍にもなっているといわれている。それにもかかわらず、世界各国でいまも続く「経済成長」は、さらに二酸化炭素の排出量を増やしつつある。大気汚染に悩まされているのは中国だけではない。その深刻さに対応するために1992年以来、何度も地球サミットが開催されて、何とか世界各国の二酸化炭素の排出量を抑えようとしてきたが、様々な国家間の利害が対立して、20年以上経ったいまも、まだ合意には達していない。

 最近では、アラスカの永久凍土が溶け始めて、15万箇所からメタンガスが発生するようになっているらしい。温暖化により土中のメタン生成菌が目覚めて有機物を分解し、それをエネルギー源として活動する過程で、メタンガスが発生しているのである。憂慮すべきは、このメタンガスが、二酸化炭素の20倍もの温室効果があるということである。このまま放置すれば、地球の温暖化はいままで以上に加速されて、それがまた、さらなる温暖化を生み出すという悪循環に陥り、遂には地球の温暖化は制御不能になってしまうことになる。それでもなお、世界中の国々は、その脅威に正面から取り組んでいこうとせず、目先の「国益」と「経済成長」のみを優先させて、二酸化炭素の排出削減に効果的な手を打てないでいる。

 企業の倒産などで使われる、「自転車操業」ということばがある。『広辞苑』では、これを、「操業を停止すれば倒産するほかない企業が、赤字を承知で操業を続けていく状態を指す語」と定義している。いうまでもなくこれは、自転車が走っている限りにおいては倒れないことに例えたことばだが、実際には、遅かれ早かれ、自転車は必ず倒れて企業は倒産する。世界各国は、いまの地球上で、二酸化炭素の放出が、すでにこれ以上許容できない限界点に達していることを十分に認識してはいる。しかし、それでもなお、温暖化対策とは相容れない「経済成長」のみを目指している状況は、人類がこれまでに築き上げてきた文明を一挙に崩壊させずにはおかない壮大な「自転車操業」を続けていることになるのではないかと思えてならない。


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   司馬遼太郎氏の小さな思い違い          (2014.02.12)


 司馬遼太郎氏は、『竜馬がゆく』を書くにあたって、神保町の古本屋街で「坂本竜馬」関係の資料をほとんどすべて買い集めて、トラックで大阪の自宅へ運んだという話があります。氏の最初の長編小説で、直木賞受賞作品になった『梟の城』を読んでいても、氏は、伊賀、甲賀の忍術や忍者たちの記録に精通し、時代背景に関する膨大な資料を駆使して書いていることがよくわかります。昔の京都や周辺の地理の詳細な把握も見事ですが、おそらく大きな古地図を前にして、山や川、道路や森、家、屋敷の配置なども、十分に頭に入れながら、そのなかで、自在に登場人物を動きまわらせていたのでしょう。そのような司馬遼太郎氏の文章に魅せられて、私はいまも時おり、氏の作品を読み返したりすることがあります。

 ところで、先日、司馬遼太郎氏と井上ひさし氏の対談集『国家・宗教・日本人』(講談社文庫、1999)を読んでいますと、司馬氏が井上氏に、つぎのように語っているのに気がつきました。(23頁)

 ・・・・・阿弥陀如来が万人を平等に扱ってくださると信ずると嬉しくて躍り上がりたい気持ちになることを「歓喜踊躍」というんですが、唯円坊が「歓喜踊躍するということでございますけれども、私は死ぬということで少しも雀躍りするような気持ちにならないんですが」と聞くと、親鸞が「唯円坊もそうですか。私はこんなに高齢になってしまったけれども、私も一向に嬉しくならないんです」(笑)と答える。非常に正直なんです。

 これは、「宗教と日本人」という章のなかの一節で、もちろん、『歎異抄』の第9条のことを言っています。対談中のことばを文字にしたものですから、文章の厳密な検証にはなじみませんが、私は氏がここでは「小さな思い違い」をしていると思いました。つまり、これでは、親鸞も唯円も、「死ぬことが一向にうれしくならない」で終わってしまうことになります。この9条で述べられている大切なポイントは、むしろ反対で、浄土へ行くこと、つまり死ぬことはうれしいことなのです。その、うれしい筈の「死ぬこと」が何故うれしく思えないのか、その理由を親鸞が「人間の煩悩」にあると説明している部分です。しかし、それがこのようにすっぽりと抜けてしまっては、この『歎異抄』9条の意味がほとんどなくなってしまうのが、ちょっと残念でした。

 司馬氏は、生前、あれだけ多くの優れた著作を世に出した作家ですし、これだけのことで、司馬氏にミスや不手際があったなどと言うつもりは少しもありません。ただ、私にとっては、あの第9条は、必死にしがみついていたような命綱にもあたるものでした。本当なら、歓喜踊躍すべきなのに、急いで浄土へ行きたいと思えないのは、人間というのがよくよく深い煩悩にまみれているからだと書かれているのを読んで、私はこころから納得したのです。「仏説阿弥陀経」に繰り返し述べられている浄土への確信も、さらに強めることが出来ました。それだけに、この『歎異抄』第9条の解釈に、少しでも曖昧さや疑義が残るようなことばや文章は、私にとっては、つい看過できない大事のような気がしてしまうのです。

 ついでに書き加えておきますと、私はかつて講演会で、この、喜ぶべきことを喜ばせない「煩悩」について補足説明するために、次のような話をしたことがあります。

 むかし私が見たある外国映画の一つのシーンにつぎのようなものがありました。ヨーロッパのどこかの監獄で、一人の囚人が、三〇年も四〇年も独房に閉じこめられてよぼよぼの老人になってしまいます。老人は、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていました。
  第二次世界大戦の末期だったでしょうか、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、高い塀も頑丈な建物も崩れ落ちてしまいます。その独房の老人は生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきました。そして、よろよろと外へ向かって歩き始めます。しばらく歩いて振り返りますが、誰も追ってくる様子もありません。目の前には、広々とした野原が広がっています。それは、老人が長い年月あこがれてきた自由の世界のはずでした。老人は、また少しよろよろと歩き続けます。しかし、そこで立ち止まってしまうのです。やがて老人は、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行きました。
  自由が束縛されても、孤独の苦しみがあっても、あまりにも長い年月それに慣らされてしまいますと、もうそこから抜け出すことさえ不安になってしまいます。浄土・極楽がいかに壮麗ですばらしいところであると聞かされても、唯円が疑問に思ったように、煩悩の世界に慣れきってしまうと、「急いで行きたい」と思われないのも、無理ではないのかもしれません。
(講演集 第2集 「生と死の実相について」)


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   亡くなったわが子の行方を捜し求める旅   (2014.04.14)


 4月12日の土曜日、谷口美砂子さんが自費出版した『虹色の宝石箱』の出版記念会が新宿御苑前の「ガーデンキッチン」で開かれました。谷口さんは、1992年の春にご長男を14歳で亡くされた後、悲歎の日々を送っておられたようです。ちょうどその頃、ロンドンから帰国した私は、大英心霊協会での霊能者との体験を基にして霊界の勉強に打ち込むようになり、やがて、小冊子や本なども書いて、霊的真理についての講演会を開催するようになりました。それらの講演会に、谷口さんは毎回欠かさず出席されています。その後、谷口さんはロンドンまで行って大英心霊協会を尋ね、霊界のご長男からの霊界通信で、ご長男の生存を確信するようになっていきました。この『虹色の宝石箱』には、それまでのお子さん探しの旅を「わたしの幸せさがしの旅」として、サブタイトルにしています。

 出版記念会には、谷口さんの友人、知人たち20人ほどの方々が出席していました。それらの方々を前に、私は会の冒頭で、話をするように頼まれていました。私は霊的真理について40分ほど、およそ次のような話をしました。

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 谷口さんの『虹色の宝石箱』には、「わたしの幸せさがしの旅」というサブタイトルがついています。この「幸せ探しの旅」というのは、14歳で亡くなったお子さんの行方を捜し求める「お子さん探しの旅」でもありました。

 この「幸せ探しの旅」で、本当に幸せを掴んでいくためには、実は、この世とあの世とを隔てている高くて厚い壁を乗り越えていかねばなりません。その壁を乗り越えて、私たちの本来の姿は霊であり、霊であるから不滅であって、この世からあの世へ移っても、いのちは永遠に生き続けることを知ることがどうしても必要です。それが霊的真理です。言ってみれば簡単ですが、しかし、実に重大な宇宙の真理です。本来なら、このような重大な真理を私たちに教えてくれるのが宗教です。しかし、実際には、宗教に携わるお坊さんや牧師さんなどの聖職者たちも、この真理がよく理解できていないことが決して珍しくはありません。

 それでは、このようなあの世の存在や、死後の生をどうすれば確信できるのでしょうか。それを証明するものが霊界通信や生まれ変わりです。谷口さんが、わざわざロンドンの大英心霊協会へでかけられたのも、その霊界通信のためでした。霊能者というのは日本にも無数にいますが、この世とあの世の橋渡しが出来るような優れた霊能者の数は決して多くはありません。しかし、大英心霊協会は、ヨーロッパでも長い伝統をもっていて、優れた霊能者が比較的多く集まっているといっていいでしょう。谷口さんは、この本のなかでは、キース・ホール氏とテリー・タスカー氏を通じての霊界通信を取り上げています。両氏とも、全く何の情報も得ていない谷口さんのお子さんの名前を何とか言い当てていますので、これだけでも、かなりの霊能力と言っていいかもしれません。

 しかし、このような体験をするまでもなく、日本には、例えば浅野和三郎先生の『新樹の通信』などがあります。これは浅野先生が、優れた霊能者の多慶子夫人を通じて、若くして急逝した次男・新樹氏との対話を記録したもので、あたかもこの世で電話をかけて自由に話し合っているような、極めて自然で詳細な珠玉の霊界通信になっています。現在、私のホームページでも全文を紹介していますが、このような真実の対話から、私たちは多くのことを学ぶことができます。それから、これもホームページで詳しく紹介していますが、12巻の『シルバー・バーチの霊訓』は、どの一冊を取り上げてみても、貴重な霊的真理がいっぱい詰まった奇跡の「宝石箱」といえるでしょう。

 私たちは本来が霊的存在です。そして、霊である以上、いのちは永遠です。死ぬことはありません、というより、死ぬことはできません。私たちは永遠のいのちを生きながら輪廻転生を繰り返し、様々な経験を積み学びを重ねて、霊性を磨いていきます。宇宙の摂理に従って、霊界からの指導や加護をうけながら、一歩一歩、光に向かって歩み続けます。一人の例外もなく、一切の区別もなく、人間はみんなそうなのです。これが「霊的真理」で、そして、これが谷口さんの本のタイトル『虹色の宝石箱』にもこめられたメッセージになるのではないかと思われます。


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  「神界から来た人」について考える    (2014.05.12)


  霊界というのは厳密な階層社会で、私たちがこの世を去ったあとは、魂の発達段階に従って、霊界のそれぞれにふさわしい階層の社会に居住することになると教えられています。私たちは輪廻転生を繰り返しながら修行を続け、霊格を高めて、この階層を少しずつ上に昇っていくことになります。そして遂には、もう生まれ変わる必要がなくなるまで霊格が高まると、「神界」に到達するといわれています。しかし、中には、この世の人々を導くために、「神界」の人でも、自ら選んでこの世に生まれてくることもあるようです。そんなことが本当にこの世にあるのだろうかと思ったりしますが、佐藤愛子さんが『私の遺言』のなかで触れている相曾誠治氏は、極めて稀な、そんな「神界から来た人」の実例であったかもしれません。

 相曾氏は、1910年に生まれた神道の大家で、静岡県の小さな町の町長を務めたり、保護司として非行少年の更正に尽力したこともあったそうです。そのお人柄については、佐藤さんの表現を借りるほかはありませんが、いつも質素な背広を着てひょこひょこ歩く、一見「昔の村長さん」を思わせるような素朴な風貌であったといいます。「こういう立場にある人はえてして自信や権威の匂いをふり撒いているものだが、そういうものが全くない。鋭く見透す眼光というものもない。喜怒哀楽がおもてに出たこともない」と佐藤さんは書いています。ある時、佐藤さんがふと衝動に駆られて、「失礼ですが、先生は、神界からおいでになった方ではございませんか」と訊ねたら、相曾氏は驚きも笑いもせず、頷いて、「私はことむけのみこと(『言向命』)と申します」と、きわめて平静に答えられました。

 相曾氏が、80代半ばの高齢のときにも、毎年7月に天狗さんに助けられて日帰りで富士山の登山下山を繰り返していたことは、「霊界通信集」(47)でも、紹介させていただきましたが、氏は、さまざまな透視能力や予知能力も持っていたようです。怨霊浄化のためにわざわざ北海道浦河の佐藤さんの山荘にまで出かけて、「ここに集まって来た霊たちはアイヌ民族ばかりではありませんでした。北海道開拓の時に酷使された囚人や屯田兵などの怨念も一緒になっていて、それが大きなカルマを作っています」などとも述べています。1995年1月17日の阪神淡路大震災についても、相曾氏はそれをほぼ正確に予知していました。その7日前の1月10日に、佐藤さんのところへ電話があって、相曾氏が「近々、地震が来ます。ご用心なさって下さい」といつもの穏やかな口調で言ってきたそうです。「それはどこですか? 東京ですか?」と佐藤さんが訊くと、「場所は申せません。しかし必ず来ます」と相曾氏は答えていました。

 その相曾氏が亡くなったのは、1999年12月31日の午後11時頃だったそうです。あと1時間で新年を迎えるというので、氏はご子息一家や令嬢一家も集まった席で、年越しそばを食べていました。食べ終わってから、かねてから老衰で弱っていた夫人が厠に立ったのを気遣い、様子を見ようと廊下を這って行って、途中で崩れ落ちて息が絶えたということです。相曾氏を神人として畏敬していた門人たちは、氏が年越しそばを食べた後、コップに三分の一ほどのビールにちょっと口をつけて、「皆さん、ありがとうございました」と言い、端座したままこと切れた・・・・ということにしていたようですが、それは事実ではなかったようです。しかし、病妻を心配して廊下を這って行き力尽きた姿こそが、人が理解してもしなくても、苦しむ人を助けるために東奔西走してついに力尽きた「神界から来た人」の人生の象徴であった、と佐藤さんは書いていました。佐藤さんは霊障に苦しみながら、長年に亘って氏の助力と薫陶を受けてきただけに、その述懐には、私たちをも深く頷かせるものが感じられてなりません。












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