単純明快な霊的真理        (身辺雑記69)


 シルバー・バーチの教えは、近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』(潮文社刊)12巻を見てもわかるように量的にも厖大であるが、もちろん大切なのは、量だけではない。私たちのこころを打つのは、その質の高さと深さであり、そのことばの持つ意味の重大さである。私は何度か折に触れて述べてきたが、私にとってそれらは、何ものにも代えがたい「無上甚深微妙の法」となった。私はいままでの生涯で、話者自身が語ったことばをそのまま活字にしたもので、これに比肩できる文章がほかにあることを知らない。

 この『霊訓』は12巻もあって確かに厖大であるが、実は、シルバー・バーチが述べている霊的真理そのものは決して複雑多岐にわたるものではない。むしろ、極めて単純明快ないくつかがあるだけでである。ただ、私たちがあまりにもその霊的真理から遠い存在であるために、なかなかそれに近づいていくのが容易ではなく、そのために、シルバー・バーチは、いろいろと表現を変え比喩をまじえたりしながら、なんとか私たちに理解させようとしてきた。それが、『霊訓』12巻となって、いま私たちの手の届くところにおかれているのである。しかし、この12巻を全部読まなければシルバー・バーチのいう霊的真理が、たとえそのおぼろげな輪郭だけであるにせよ、理解できないというものではないであろう。

 繰り返すがシルバー・バーチの霊的真理は単純明快なのである。そして、おそらく、その一番大切な核心のひとつは、この地上に生きている私たちのすべては、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊であるということであろう。本来霊である私たちは、霊であるがゆえに永遠の存在であり、この世での死も霊界で生きることにほかならない。住む世界が変わっても、私たちのいのちは決して滅びることはなく、永遠に霊性の向上を目指しながら、神の摂理のなかで生きつづけていく。これだけの極めて単純で明快な霊的真理を地上の人間に教えるために、シルバー・バーチは半世紀にわたって、私たちに無償の奉仕を飽くこともなく続けてきた。

 この霊的真理を、試みに、シルバー・バーチの厖大なことばのなかから、敢えていくつかに集約したら、何を選んだらいいであろうか。それをここで考えてみることにしたい。過去数年間、ほとんどすべてのシルバー・バーチのことばを「学びの栞」(A) に分類してきて、このような作業をするのもそんなに困難ではない。キーワードは、神と霊と死の三つである。そのなかから、誰にとっても関心が高いはずの死についての真理から始めることにしよう。こう述べられている箇所がある。

 《"生″を正しい視野で捉えていただきたい。その中で "死″が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知----死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。》「学びの栞」(A) [2-f]

  死を「悲しむのは間違い」といわれても、死について、これだけで納得して安心立命できる人は少ないかもしれない。それに、世の中に生きていく上では、死のほかにも、いろいろと自分のこと、家族のこと、あるいは、社会のことなど心配事が絶えずつきまとう。生活上の不安もあり、予期しない不幸に襲われたりもする。しかし、死の真理は霊の真理であり、生の真理でもある。死を理解すれば、何の心配もなく生きていけるはずのこの世の「処世術」についても、シルバー・バーチは次のように言及する。

 《人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。不幸の訪れの心配は、その不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。》「学びの栞」(A) [2-zm]

 心配や不安にとりつかれることに慣れてしまっている私たちは、実は、そのような不完全な存在だからこの世に生まれてきた。完全な存在ならこの世に生まれてくることはなかった。私たちはそれぞれに弱点を持ち、欠点を持つからこそ、この世に生まれて、霊性向上のための経験や学習を重ねていく。しかし、そのためにも、私たちは、さまざまな困難辛苦を経験し乗り越えていかねばならない。逆に言うと、困難辛苦を経験しなければ、学習の効果が期待できない。困難辛苦は、だから、学校で与えられている課題のようなもので、決して「悪いこと」ではないのである。ここで、シルバー・バーチの霊の真理のことばに出会う。

 《地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 ・・・・・人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。》「学びの栞」(A) [56-i]

 世の中には、本当は、偶然や奇跡というものはなく、すべては大自然の摂理によって動いているという教えは、実に新鮮に響く。そして、これが真理であれば、実際には、この世でしばしば話題にされるような個人的、社会的不公平というものはないことになる。不公平がないのであれば、どんなことであれ、他人をうらやむ必要も全くない。それにもかかわらず人生が不公平に思えるのは、大自然の、あるいは、神の摂理を理解できないからであると、シルバー・バーチはここでは、神についての真理を教える。

 《時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に比べればはるかに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合をはるかに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。》「学びの栞」(A) [48-h]

 シルバー・バーチが、ここばかりではなく、いろいろなところで何度も、宇宙の摂理の働きを見て、「絶対的な敬意を表します」と述べているのは、私たちも十分にこころに留めておくべきであろう。宇宙の摂理とは神のことである。自分を知ることとは、つまり、神を知ることなのだが、その神を知ることの大切さも、私たちは忘れてはならないであろう。私たちはもともと神の子であって、神との縁を切ることはできない。だから、私たちは、できるだけ、「神との融合を保つことを怠ってはならない」というシルバー・バーチのことばを最後に付け加えておきたい。

 《地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。神の力とエネルギーと援助を呼び込む手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。》「学びの栞」(A) [58-b]

    (2010.03.01)






    こころに響く救いのことば   (身辺雑記68)


 このホームページの「学びの栞」Aでは、シルバー・バーチのことばを 80 の項目に分類して取り上げてきた。はじめのうちは、シルバー・バーチのことばのうちの大切な部分と思われるところだけを拾い上げていくつもりで始めたのだが、すぐに、それは不適切であることに気がついた。ことばの一つ一つが、それぞれに大切で、それぞれに真実の重みを伝えていて、取捨選択などできるようなものではなかったからである。結局、潮文社発行の『シルバー・バーチの霊訓』12巻を、ほとんど全文、転写するような形になった。そして、それもまもなく終わろうとしている。

 「学びの栞」Bは、私の目の届く範囲内での種々の書籍から、シルバー・バーチのことばの内容と対応するものを抜き出し、同じように、できるだけ 80 の項目に分類していこうとするものである。これによって、シルバー・バーチがいっていることを、ラムサは例外としても、この地上の人びとはどのようにいっているかを、比較検討してみることもできる。このような場合、普通は、A の信憑性を補強するために、或いは、その内容を補足説明するために、B を配置するということになるのであろうが、この A と B の間には、その「真実の重み」に大きな格差があることを考えないわけにはいかない。それは、シルバー・バーチがどのような霊であるかを知れば、当然のこととも思えるのだが、シルバー・バーチのことばの前では、この世の多くの覚者、賢人のことばも、影が薄いとさえ感じられてならないのである。

 しかし、ここで、シルバー・バーチがどのような霊であるかを、改めて詮索する必要はないであろう。シルバー・バーチ自身も、かつて、地上時代での身元を訊かれて、「私は荒野に呼ばわる声です。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するにあなたがた人間世界における私の仕事が暗闇に迷える人々の心の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです」と答えている。シルバー・バーチのいうように、大切なことは、彼自身の誠意であり、ことばであろう。その彼自身のことばを、私たちは、いまも原文の英語で、一字一句、少しも憶測や誤差のない形で、読んでいくことができる。

 「文は人なり」というが、私たちは、シルバー・バーチの語ったことばを、それを忠実に再現した文章によって、シルバー・バーチが誰であるかを知り、そのことばの真実性にこころを打たれる。ある読者は、シルバー・バーチの文章について、「文章の世界にシルバーバーチの言葉に匹敵するものを私は知りません。眼識ある読者ならばそのインスピレーションが間違いなく高い神霊界を始源としていることを認めます。一見すると単純・素朴に思える言葉が時として途方もなく深遠なものを含んでいることがあります。その内部に秘められた意味に気づいて思わず立ち止まり、感嘆と感激に浸ることがあるのです」と述べているが、このような感嘆と感激を覚えるものは、無論、この読者一人ではない。このシルバー・バーチのことばの真実性と重大さは、読めばわかるのである。

 私たちは、お経をよむときに、よく、「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」というように、礼讃文を唱える。そして、「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し」とも続ける。「百千万劫」の「劫」とは、古代インドにおける最長の時間の単位で、たとえば、巨大な岩山を薄い白布で百年に一度さっと払う。それを続けて大岩石がすっかりなくなってしまうまでの時間が一劫である。それが、さらに百千万回も繰り返されるような、殆ど無限永久の時間がかかっても、なかなか聞くことができないのが、「無上甚深微妙の法」である。ところが、それを礼讃文では、「我今見聞し受持することを得たり」と唱えるのである。これは、私には、わかりにくい。

 私自身は、例えば、「般若心経」を、何百回、何千回もとなえてきたが、いまだによくわからない。「何百回、何千回ととなえてやっとわかった」といって、「般若心経」を和訳した作家もいるが、そのような和訳を読んでも理解できない。救われる思いをすることはない。だいたい、お経そのものは釈尊が書いたものではないし、すべて釈尊のいったことばのまた聞きである。しかもまた聞きしたものの漢訳である。それを日本語でいわば「棒読み」しているのである。おそらく「よくわからない」のは私だけではないであろう。そのお経が、いくら「無上甚深微妙の法」であると聞かされても、私のような者にはその有難さが実感できるはずもない。しかし、シルバー・バーチのことばは違う。その有難さは、私にも身に染みてわかるのである。私にとっては、シルバー・バーチのことばこそが、「無上甚深微妙の法」といってよい。このホームページでも、繰り返してこれからも、学んでいかなければならないと思っている所以である。

   (2010.01.01)







    スウェデンボルグの巨大な足跡   (身辺雑記67)


 「学びの栞」(B)のなかで取り上げてきたスウェデンボルグの『私は霊界を見てきた』(叢文社、今村光一抄訳・編)も、その要点を私なりに分類する作業が、まもなく終わろうとしている。スウェデンボルグの著作については、このほかにも数多くの翻訳書や研究書がわが国でも出回っているが、これらの貴重な記録を残したスウェデンボルグはどのような人であったか。その人物像と彼が残した巨大な足跡を、この機会に、その輪郭だけではあっても改めて辿り直してみることは、意味のないことではないであろう。

 スウェデンボルグは、一六八八年にスウェーデンの首都ストックホルムの敬けんなキリスト教徒の家に生まれた。ウプサラ大学を卒業後は長くスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめた後、一七一九年に貴族に叙せられ、それ以来、数十年にわたって貴族院議員として政界でも活躍している。しかしそれだけではない。彼は、当時では、超一流の科学者、数学者、哲学者でもあった。

 その学問上の業績がいかに広く、巨大で、時代の水準を遥かに超えたものであるかを示す象徴的な出来事として、この本の抄訳者は「彼が死んだのは一七七二年、滞在中の英国ロンドンにおいてだったが、その死後一四〇年を経た一九〇八年母国スウェーデンの学士院は国王に依頼して、軍艦を仕立ててこの巨人の遺骸(ロンドン郊外に葬られていた)を引き取りに行くという例のないことを行なった。彼の学問上の業績が彼の時代をはるかに越えたものであり、二〇世紀においてすら価値が高いことが、ようやく理解されたからだ」と述べている。さらに抄訳者は、次のように続けた。

 《また一九一〇年ロンドンで開かれた国際スウェデンボルグ会議には、世界中の学者、宗教家など四〇〇人が出席、それぞれ専門の二〇部門に分かれて彼の業練を二〇世紀の学問水準に立って討議、検討している。彼の学問上の業績の巨大さ高さを示すものだが、この中には現代の水準に立っても価値のあるものが少なくないとされている。いまその一々を上げることはできないが、この一方発明家としても彼は製塩磯、ピアノラ、潜水艇から飛行機まで発明するなどの巨人ぶりを示した。まさに、その巨人ぶりは、ルネッサンス期の巨人とされるダヴィンチをしのいで余りあると思う。そのわりに彼がダヴィンチほど人に知られないのは一方が絵画という人の目に映りやすいものを残したのに対し、一方は、あまりに程度の高すぎる書籍を尤大に残したために過ぎない。》(pp.236-237)

 このような巨大な足跡を残しながら、スウェデンボルグは、さらに一方では、歴史上世界最大の予言者といわれる16世紀のフランス人、ノストラダムスに対して、歴史上最大の霊媒といわれてもきた。その霊媒としてのスウェデンボルグを紹介するのは、私には荷が重過ぎるので、ここでは以下に、抄訳者の「あとがき」から、その一部を抜書きしておくに留めておきたい。

 神秘家、霊媒としてのスウェデンボルグ 

スウェデンボルグが巨大人物であるばかりか不思議の人≠ニされるのは、彼の後半生の生活とその後半生に残した尤大な「霊界著述」の内容の不思議さによってである。彼は八十四歳まで生きたがその後半生の約三〇年は、全ての学問を投げ捨て、彼のいう天の啓示に従った霊的生涯″を送るにいたり、また霊の世界と交信する霊媒としてヨーロッパ中に大きな話題を提供するに至った。スウェデンボルグの交霊能力とか千里眼能力という常人には理解されにくい不思議な能力の高さや確かさについては、謹厳で、かつ頭脳明噺なドイツの哲学者カントが、わざわざ著作(Traume eines Geister sehers)を著わし、これを保証しているほどだから、われわれも疑う余地はないだろう。なおカントはスウェデンボルグの不思議な能力について「人類史上こんな人物がいるとは思われない。また将来も現われるとは思えないが、その不思議な能力については驚くべきものがある」として大きな驚きを示している。

 スウェデンボルグの霊界著述

 スウェデンボルグの霊界著述は、日本語版にすれば、おそらく数千頁の書籍になるほど尤大なものがあり、その多くはロンドンの大英博物館などに今でも大切に保存されている。彼の霊界著述の他に比類のない特色は、彼が「全て自身で霊界に入って見聞し、あるいは、霊たちと交わって知って来た知識をもとにしている」と公言していることだ。この常人にはとても信ずべからざることを根拠にしているため奇書とされるわけだが、単に信じ難い奇書というだけでは現代まで関心を持ち続けられるはずはない。その秘密は、なるほど常人に信ずべからざる出発点を基礎とし根拠としている著述だが、その内容は、読む人に「確からしさ」の印象を十分に与えうるものだからである。

 彼の霊界著述については、過去には、英国詩人エリザベス・ブラウニング(1806〜61)や日本の鈴木大拙(禅学者1870〜1966)などをはじめ好意的批評が相当多く、ブラウニングは「霊界のことを明らかにした著述はスウェデンボルグを置いて他にない(信頼すべきものは他にない)」といっている。また、つい最近では現役の小説家で最近、訳書「オカルト」が日本でも出版されたコリン・ウィルソン(1931〜 )も、スウェデンボルグの著述から受ける「確からしさの手応え」を高く評価し、同時にその人物の偉大さを認めている。また外国には、死後二〇〇余年を経た今日でも英国スウェデンボルグ協会などがいまなお存在しているのも、彼の著述と人物の評価を示すものといえるだろう。(pp.237-238)

   (2009.11.01)







   アメリカと私―そして「9月1日」   (身辺雑記66)

  1959年の春の一日、私はアメリカのオレゴン大学(University of Oregon)の大学院修了資格最終試験に臨んでいた。1957年の夏に給費留学生に選ばれて渡米して以来、寸暇を惜しんで勉学に明け暮れた苦闘の日々は、この試験を最後に終わろうとしていた。当時の日記がまだ残っているが、その日、1959年2月20日の部分には、こう書かれている。

 《大学院修了資格試験第二日目。昨日の客観テスト三百題に代わって、今日は論文テスト五題であった。時間は昨日と同じく四時間。午前八時から十二時まで、文字通りの、血みどろの死闘である。
 八頁の答案帳三冊分、二十四頁の答案を書き上げた時には、精も根も殆んど尽き果てていた。昨日の試験といい、今日の試験といい、留学生としては残酷だとしか思われないほどの苦しい試験であった。
 しかしそれももういい。すべては終わったのである。死力をふりしぼって、最善を尽くしたのだから悔いるところはない。これで修士号がもらえないというのであれば、いさぎよくあきらめるだけである。
 過去一年半の疲れが一度に噴き出して、ぐったりする。食欲も出ない。ベットの上を転がりまわりながら、「とうとう終わった、終わった」と何度も坤き声を上げた・・・・・》

 結局、この試験もクリアして、私は無事に大学院課程を修了することが出来た。3月下旬、私は友人の家族の世話で、ダンボール箱11個にまとめた荷物をオレゴン州ポートランドに停泊中の山下汽船・山姫丸に積み込んだ。山姫丸は、1万6千トン。このポートランドで小麦を積み込んで、さらにカナダのバンクーバーへ向かい、そこでさらに木材を積み込んだあと、日本へ向かう。私は、陸路、ポートランドからシアトルを通り、バンクーバーまで旅行を続けて、そこで山姫丸に乗り込んだ。山姫丸が、バンクーバーを出港したのは、3月28日の深夜である。その日の日記には、こうある。

 《・・・・・・出港の時間が延び延びになって、船が岸壁を離れ始めたのが零時二十分。タグボートの助けも借りずに、自力で湾外へ動き出す。春とはいえ、デッキを吹き通るバンクーバーの風は、ひやりと冷たい。町全体はすっかり寝静まっていて、ネオンサインや、星を散りばめたような灯火が、少しずつ少しずつ、遠ざかっていく。バンクーバーとアメリカからも、いよいよお別れである。
 ぼんやりデッキに立っていると、S氏(東北大学医学部) が、グラスにウイスキーを注いで持ってきてくれた。いろいろと想い出の多いアメリカ生活への別れのグラスである。エンジンの力強い振動を、全身で感じとりながら、ああ、サヨナラだ、としみじみとした感慨が胸をよぎった。》

 船は太平洋を16日間かけて渡って、4月14日に横浜港に着いた。当時の日本はまだ、豊かさと繁栄を謳歌していたアメリカに比べると、段違いに貧しかった。横浜から東京へ電話するのにも、交換を通じて3時間も待たされたりしていた。アメリカから日本へ、私は大きな逆のカルチャーショックのなかで戸惑いながら、休むまもなく、大学の教壇に立った。いまから、ちょうど50年前のことである。あれから、あっという間に、半世紀もの時間が過ぎ去ってしまったことになる。

 帰国したその当時はまだ、海外渡航は自由化されていなかった。海外へ出るというのは、まだ夢物語のように思われていた時代で、私もまたアメリカへ行けるようになるとは思っていなかった。しかし、その後の日本経済の高度成長期を経て、私はさらに二度、アメリカでの長期滞在を繰り返すことになる。一九七三年の暮からは、文部省在外研究員として、そして一九八二年の夏からはフルブライト上級研究員として、である。

 1973年からの二度目のアメリカ生活は、妻と、当時、小学校5年であった長男・潔典、中学校に入ったばかりの長女・由香利を伴っていた。滞在先も、かつて私が大学院時代をすごしたオレゴン州のユジーンを選んだ。オレゴン大学の宿舎に住むようになった私たちは、家族4人で中古のシボレーに乗って、よくアメリカの街を動きまわった。3月からの春休みには、オレゴン大学で企画してくれた1週間のオレゴン州周遊旅行に参加し、州知事を表敬訪問して歓迎を受けたりした。旅行からは学べることが多い。それが、日本とは異質の社会であれば、なおさらである。私は、現地の学校に通い始めた子どもたちのためにも、できるだけ広く多く、異文化の社会に触れる機会を与えたいと思っていた。

 6月の中旬から9月の下旬まで続いた夏休みには、前半の1ヵ月半、テントと食料を車に積み込んでアメリカ一周旅行に出かけた。モンタナの山中では、夜中の嵐に襲われてテントが吹き飛ばされそうになったり、ニューヨーク・マンハッタンのど真ん中やロッキー山脈越えで車が故障して善意の人びとに助けられたりするなど、いろいろなハプニングがあった。その度に家族で協力しあって切り抜け、全行程 1万8千キロを走り終えて、なんとか無事にユジーンの町に帰り着いた。

 後半の1ヶ月は、ヨーロッパへ飛んで、オランダを起点に西欧諸国を 5千キロ近く、レンタカーで走りまわった。当時はまだ、ドイツやイギリスにも、街の一部には戦争の傷跡が残っていた。イタリアではガソリンが配給制で、外国からの旅行客だけが申告をして自由に買うことができた。フランスへ行ってもアメリカの豊かさはみられなかった。国境を越えるたびに通貨も変わり、出入国手続きもしなければならない。物価は高いのに旅費は十分にあるわけではなく、決して楽な旅ではなかったが、それでも、今から考えれば、夢のように楽しい、いわば、「光の旅」であったような気がする。

 1982年夏からの三度目の旅では、しかし、悲劇の結末を迎えた。このフルブライト上級研究員としての渡米では、アリゾナ大学(University of Arizona)からノース・カロライナ州立大学(North-Carolina State University)へ移ったあと、1983年の夏、私と家族は全く予想もできなかった国際的な大事件に巻き込まれてしまったのである。あの大韓航空機事件で、妻と長男がアメリカから帰国の途中、犠牲になった。家族にとって「希望の旅」であるはずのこのアメリカ旅行は、奈落の底に突き落とされた衝撃と慟哭のなかで幕を閉じた。

 事件が起こった直後、ほとんど錯乱状態のなかで私と長女は帰国した。その後、一度は、またアメリカに帰って、ノース・カロライナ州立大学での講義に没頭することでなんとか生き延びていこうとしたが、アメリカで立ち直ることはできなかった。私は教職を中途で辞し、同じく、ノース・カロライナ州立大学を中途退学した娘と日本へ帰ってきた。私は自宅に閉じこもって、何ヶ月か、寝たきりのような状態になった。「世界史の転換点」などともいわれた事件であっただけに、マスコミの報道は賑々しく続けられていたが、私は、それらの一切に、眼と耳を閉ざしていた。事件を正面から受け止める気力はなかった。

 しかし、事件はあまりにも非道で理不尽である。遺族の一人として、いつまでも黙っていることはできなかった。富子の夫として、潔典の父として、私はどんなに苦しくとも、明らかにすべきものは明らかにし、抗議すべきものには抗議していかねばならない。私は、事件の真相究明を訴えて、B4版の「APPEAL」を一人で発行するようになった。機会あるごとにテレビにも出て、新聞や雑誌にも書いた。苦しみのあまり、ほとんど呻きながら書き上げた『疑惑の航跡』(1985年刊、潮出版社) の「あとがき」では、私はこう付け加えている。

 《・・・・・ここでとりあげた遺族たちの勉強会や抗議運動は、このあとも続けられた。犠牲者の一周忌には、国会議員、航空専門家、弁護士、作家等を中心にして「真相究明の会」が設立されたこともあって、真相究明への動きは、着実に一歩も二歩も前進していた。
 しかし、そのようなことについては、紙数の関係で割愛せざるをえなかった。私にまだ体力と気力があれば、いずれ別の機会に稿を改めて書くことにしたい。
 一つだけ述べておきたいことがある。
 昨年秋、遺族会総会の日に、大韓航空機事件を追って精力的な仕事をしておられた柳田邦男氏は、私たち遺族を前にして新しく出たばかりの『撃墜』(下)の内容をまとめてお話し下さった。
 柳田氏が打ち出した仮説は『ナブ』切換えミスである。KAL〇〇七便は、出発時にINSのモード・セレクタースイッチをNAVモードにする前に機体を動かしてしまった。そのためにINSの現在地点のデータが狂い、結果的には五百キロ以上の航路逸脱を惹き起こした、というものであった。
 この氏の仮説については、その後、十二月十四日の「朝日ジャーナル」で、杉本茂樹氏が航空技術者の立場から、「その論拠の核心部分において、信じられないような初歩的ミスを犯している」と反論しているが、ここで述べたいのはそういうことではない。
 『ナブ』切換えミス説の解説が終わった時、私は、是非柳田氏にも聞いておきたいと思っていた一つの質問をしたのである。「アメリカはこのようなKAL〇〇七便の大幅な航路逸脱を知っていたと思いますか」という質問であった。「知っていたと思いますね」と、事も無げに柳田氏は答えられた。
 つまり、柳田氏の事件のとらえ方は、「KAL〇〇七便はたまたま人為ミスでソ連領空を侵犯してしまったのだが、アメリカはそれを知っていても警告しなかっただけだ」ということになる。
 しかし、それはそうではないであろう。
 本書では一部の根拠しか述べていないが(より具体的な根拠については、「真相を究明する会」会員諸氏の『世界』一九八五年五月号、『宝石』一九八五年六月号などの論文をご参照いただきたい)、あのKAL〇〇七便はおそらくアメリカに強制されて故意にソ連の重要軍事基地の上空に侵入したあと、ソ連戦闘機の警告を無視して逃げまわり、そして、予想に反して撃墜されてしまったのである・・・・・》

 私がノース・カロライナの自宅で事件の発生を知ったとき、KAL機は、一度はサハリンに不時着したと報道された。しかし間もなく、それはソ連政府によって否定された。その時それを伝えたCBSのアナウンサーが、大韓航空の若い女性の広報担当者に、「サハリン不時着の情報は、こういう風にソ連政府によって否定されています。これについてはどうお考えですか」と訊いた。それに対して彼女は、頬を紅潮させて一気に言い切った。「KAL機がサハリンに不時着していることは間違いありません。私たちは確かな筋からその情報を得ているのです。乗客は全員無事です。乗員も無事です。」 

 これは、日本では注目されなかったが、大韓航空の広報担当者によって「不用意に」洩らされてしまった重大な情報である。「確かな筋」とは、アメリカ軍の情報組織であったに違いない。「KAL機に領空侵犯をさせても、ソ連が民間の旅客機をまさか撃ち落すことはない。最悪の場合でも、強制着陸させるはずだ」と考えたのであろう。かつてのムルマンスク事件で味をしめたと思われるアメリカ軍の暴虐のシナリオで、これは、その後も少しずつ暴露されていった。しかし、アメリカ政府に不利な情報は、この柳田邦男氏のような例を含めて、日本のメディアでは強く抑えられていた。そのような異様な雰囲気のなかで書かれたこの本の「あとがき」は、まだ少し、つぎのように続く。

 《・・・・・大韓航空機事件は、一般の航空機事故とは全く異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そのことは、最近の防衛庁の資料で〇〇七便の意図的な領空侵犯が「証明」されてしまったいきさつからも、裏づけられているといえるであろう。
 もっとも、そういう風に考えるようになっても、まだ隠された部分が多く残っているし、それだけで私たち遺族の真相究明の「悲願」が達成されたわけではない。私自身はむしろ、アメリカが好きであった妻や子のためにも、アメリカ政府の犯罪を確信することに一層の苦しみと悩みを感ずるだけなのである。
 突飛な言い方になるかもしれないが、できればどなたか、確実な証拠と明快な論理で私たちの「確信」を突き崩していただけないものか。アメリカ政府は私たちの家族に対して決して犯罪を犯してはいなかった、ということを私たちに納得させて下されば、私たちもそれによって少しは救われるかもしれない。
 本書を書き終えたいま、アメリカ政府の犯罪に確信をもちながらも、私はまだ苦しまぎれに、そのような「期待」さえ捨てきれないでいる・・・・・》

 アメリカ政府の犯罪を確信していた私は、当時のアメリカ大統領・レーガン、国務長官・シュルツ、国防長官・ワインバーガー宛に、毎月のように、抗議の手紙を送り真相を明らかにするように要求を続けていた。この真相究明の運動は、その後も、私が代表理事の一人になった「真相を究明する会」を中心に熱心に続けられて、1988年には、私の編著となってはいるが、「真相を究明する会」会員諸氏の長年の努力の結晶が『大韓航空機事件の研究』(東京・三一書房)として刊行されている。

 この本は、事件に関する多くの重要な資料や007便の飛行データを含めた500ページを越える大冊で、おそらく、内外の類書のなかでも、もっとも真相に迫りえた研究成果であるといっていいであろう。「真相を究明する会」は、頻繁に研究会を開いていて、このほかにも研究資料の公開や小冊子の発行を続けていた。毎年、9月1日には、国会議員会館で記者会見を開き、真相究明を訴える「声明」も発表してきた。しかし、この長年の私の真相究明運動への関わりも、1991年春の私自身の渡英によって、中断されることになる。

 私はロンドン大学客員教授として、ロンドン郊外の古い町に一年間住むことになった。その間に、講義のない日には足繁くヴィクトリア駅に近い大英心霊協会を訪れていた。そして、1992年の2月、帰国の日が少しずつ迫ってきた頃、私は、深い眠りから目覚めるような魂の転機を迎えた。すぐれた霊能者のアン・ターナーに出会うべくして出会って、事件以来、長年の間、身に染みついていた絶望と苦しみから、私は初めて解放されたのである。

 私がアメリカ留学から帰国してから今年で 50年の時が経ち、事件が起こった1983年9月1日からも、すでに26年の歳月が流れた。人並みの、或いは人並み以上の教育をうけていながら、それに、滅多にない過酷な体験を学びの機会として与えられていたのに、積年の無明の闇から抜け出るまでには、その大半の時間が無為に過ぎていった。かつての私は、それだけ真理から遠い存在であったということになるのであろうか。

 今日の「9月1日」は、今の私にとっては、妻・富子と長男・潔典に対する感謝の祈りを捧げる日である。聖書の「ヨハネ伝」(12-24)には、「一粒の麦、もし地に落ちて死なずにあらば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」とある。死ぬことは生きることであり、他者を生かす一筋の道でもあろう。妻と長男もまた、私をいのちに導いてくれた「一粒の麦」であった。

  (2009.09.01)







   中国・雲岡石窟への旅   (身辺雑記 65)


 雲岡石窟の代表作といわれる第20窟。主尊佛坐像は
総高13.4メートルで顔や衣服にガンダーラ美術様式の
影響がみられる。左脇侍佛立像は9.6メートル。この右
に、第19窟、第18窟と続く。 (2009.06.20. 筆者撮影)



 雲岡石窟は、中国北部山西省の第二の都市、大同市から西へ進んで16キロのところにある。武周山の南麓に位置し、武州川の北岸に展開する仏教美術の宝庫で、2001年には世界文化遺産に登録された。甘粛省、敦煌の莫高窟、河南省の竜門石窟と共に、中国の「三大石窟群」と呼ばれている。

 このうちの敦煌の莫高窟には、私は2001年の4月に訪れている。西安から小さなプロペラ機で北西へ1,500キロの距離を3時間もかけて着いた敦煌の町は、タクラマカン砂漠の東端にある。敦煌から東南25キロの莫高窟への道も砂漠のなかであった。莫高窟は敦煌千仏洞ともいわれるだけあって広大である。鳴砂山東麓の高さ50メートルの岩壁の中腹に、約1,600メートルにもわたって点々と切れ目なく石窟は続いている。4世紀ごろ、前秦の僧・楽口が開窟したのに始まり、13世紀まで延々と掘り続けられたその数は500窟近くに達した。

 莫高窟では、あまりに数が多いので、あらかじめ訪れる石窟を決めておかねばならないのだが、やはり印象に強く残ったのは、第57窟の「美人菩薩」といわれる観音菩薩の壁画であった。全体の淡いサーモンピンクの色調のなかで、顔の部分には、眉、鼻筋、頬の輪郭などのうっすらとした墨線が見え、瞼と頬などにさした紅の暈しは艶やかさを感じさせる。初唐(618-704AD) の最高傑作とされているが、かつて、『敦煌』を書いた作家の井上靖氏は、その美しさを「永遠の恋人」と称えた。この壁画の複製と、第45窟の盛唐(705-780 AD) 時代のもう一つの傑作といわれる優美でふくよかな菩薩立像のミニチュアは、いまも私の部屋を飾っている。私は、これら二つの観音菩薩に惹かれて、ひそかに、次なる雲岡石窟への憧れを募らせていたといってよい。

 その雲岡石窟を訪れるためには、北京から西へ約500キロの大同へ向かわなければならない。大同市は山西省第二の都市で、かつては北魏(386-534年) の都が置かれていた。歴史文化遺跡で知られるほかは石炭の産地としても有名であるが、ここにはまだ空港はない。6月の半ば過ぎ、私は小さなグループのツアーに参加して、北京から夜行列車に乗った。真夜中の12時半に、4人一部屋の寝台車で北京西駅を出発して、大同駅に着いたのは午前7時前である。数人の同行者と私は、駅の近くのホテルで少憩し、朝食をとった後、マイクロバスで雲岡石窟へ向かった。

 雲岡石窟は、北魏の和平元年 (460年) にその造営が始まり、64年の歳月をかけて完成させたとされる。東西約1キロメートルにわたり、山の斜面に洞窟がうがたれている。大小さまざまの石窟群は250箇所あまり、そのなかの石造佛の数は51,000体に及ぶという。8年前に目にした、砂漠に置き去りにされたような感じの敦煌・莫高窟とはちょっと環境も違っていて、ここでは、入り口の大門までまっすぐに伸びた広い道は綺麗に舗装され、その両側には多くのみやげ物を売る屋台が並んでいる。いまでは国内外の訪問者も数多く、観光地としては、僻地の敦煌よりは、はるかによく整備されているように見えた。

 大門を入るとすぐ目の前に、石仏寺の看板がかかった石の門があり、そこをくぐりぬけると、5間4層の堂々とした木造楼閣が目の前に現われる。清の順治8年(1651年)に建立されたものだそうで、朱色に塗られた柱や欄干、それに、黄金色に輝く瑠璃瓦は豪華絢爛な色彩を放っている。それがそのまま、第五、第六窟の入り口につながっていて、この二つの洞窟のなかには、それぞれに黄金色を施した一対の大仏坐像が、神々しく、圧倒的な重量感で迫ってくる。このうち、第五窟の釈迦牟尼坐像のほうは、高さ17メートル、幅15,8メートルで、雲岡では最大の大仏坐像という。

 興味深いのは、この両大仏のいでたちが漢民族の官吏の服装を彷彿させる中国風になっていることである。解説書によれば、これらの双窟は、北魏の孝文帝(在位471〜499年)の時代に造営されたのだが、当時は、皇帝の周辺で様々な政治的難問が起こっていた。たまたま450年には、政治の中枢にいた漢人貴族たちが国史の編纂で北魏本来の文化を軽んじたとされ、時の皇帝の怒りをかって大量に処刑されている。そのために一時は凋落した漢文化を再び蘇らせて、中国的な国家体制を整えていくことに腐心したのが孝文帝であった。皇帝にも貴族たちにも、当時、国内に定着し始めていた仏教を国家再建の拠り所にしたいという強い気持ちがあったのであろう。それがすでにこの地で始まっていた石窟造営や仏像彫刻を、さらに次々と生み出していく基盤にもなった。

 北魏で仏教が広がりをみせはじめたのは、397年に北魏帝国を成立させた道武帝が仏教に深く帰依したからであった。道武帝は、翌年、平城(いまの大同)に都を移したあと、民衆に対しても仏教を広める政策をとっていった。民衆の意識を仏教の教えによって集約し、皇帝としての求心力を高めていきたいという政治的判断もあったのであろう。日本では百済の聖明王から仏像・経典が伝えられ、時の欽明天皇が仏教興隆に尽くし始めたのが538年であるから、その時より120年ほど前のことである。

 道武帝はさらに、北魏本来の鮮卑族としての文化を捨て、積極的に漢文化を取り入れていく傍ら、多くの仏教寺院の建立を命ずる詔勅も出している。いわば漢文化と仏教を新しい国家体制の支えにしたのである。後の日本も、仏教伝来以来、聖徳太子が百済からの渡来人と先進文化を積極的に受け入れ、仏教を政治基盤とする律令国家を築いていったから、当時の北魏は、そのような国造りの手法の魁であったといえるのかもしれない。こうして北魏では、漢文化の受容のなかで仏教が急速な広がりをみせていくのだが、第五、第六窟の大仏像にも漢文化の名残がみられるのも、そのためである。

 ところが、仏教に対する国家の厚い庇護が続いていくなかで、一部の僧侶たちの権力的野心と腐敗・堕落が目に余るようになっていった。424年に即位した3代の太武帝は、仏法を尊崇すると同時に道教の信奉者でもあったが、徐々に道教への傾斜を強めていた。その太武帝が、446年に、ある仏教寺院に大量の武器が秘匿されていることを発見する。その寺からは、官吏や富豪などからの夥しい寄進物も出てきた。皇帝の権威に挑戦するものとして激怒した太武帝は、廃仏令を出して仏教の大弾圧を始めたのである。先に触れた漢人貴族たちの大量処刑事件の4年前のことであった。一転して、僧侶は追われ、仏寺、仏典は徹底的に破壊され、焼き尽くされてしまった。この仏教の未曾有の受難は、452年に太武帝が没し、つぎの文成帝が即位するまで続くことになる。

 仏教の荒廃に心を痛めていた文成帝は、即位後、直ちに仏教復興の詔勅を出し、官寺の建立をはじめ仏教事業の再建にのりだした。その時に、雲岡の断崖に石窟を堀り、5体の大仏を安置することを文成帝に奏願したのが、僧として最高位の沙門統の地位にあった曇曜である。痛恨の廃仏令で地に落ちた仏教を蘇らせ、そしてそれを永遠不滅にするには、大石窟を造営するしかないと曇曜は固く信じた。その信念が文成帝を動かし、まず大仏を納めた5つの石窟の開削が460年から始まったのである。それらが「曇曜5窟」として今も残る第16窟〜第20窟である。

 第5窟や第6窟のように中国的な装いの後期の仏像とはちがって、この「曇曜5窟」の大仏たちには、まだ仏教伝来初期のインドや西域的な風貌が残されている。つまり、これらには、あのタリバンによって破壊されたアフガニスタンのバーミヤンの大仏など、西方で行なわれていた巨大仏像造営の流れがそのまま引き継がれているのである。その流れがシルクロードを通って、この雲岡で実を結び、後には、それは日本にまで及んで、奈良の大仏を産みだすことにもなった。

 250を数える石窟群のなかで、主なものは、入り口大門の向かって右側に位置する東方群(第1〜4窟)と、石仏寺から左側に展開する中央群(第5〜13窟)、さらにその左に続く「曇曜5窟」を含む西方群(第14〜20窟)に分けられる。どの石窟にも、壁や柱や天井に至るまで、あるいは風化し、あるいは剥落し、時には色鮮やかな色彩の名残をかすかに留めながら、それぞれにその存在感を示しているおびただしい数の石造仏には、ただただ圧倒されるだけであった。石窟群全体では、石造佛の数は51、000体にもなるというが、これほどの数の石仏を彫り上げるべく人びとを駆り立てていったものは一体、何であったのだろうか。

 「曇曜5窟」のなかの第18窟では、大きく開かれた明かり窓越しに、大仏立像の上半身が望まれる。堂々とした巨大な体躯と魁偉な面貌は仰ぎ見る者を強い眼差しで迎えてくれているが、よく見ると、左肩から右脇腹へかけてかけられた衣には、無数の小座佛が刻み込まれた特異なデザインになっている。大仏を建立するだけではすまず、さらに大仏の衣の上にまで無数の小座佛を付け加えざるをえなかったのは、一説には、446年の廃仏令で、7年間の間まったく仏教をないがしろにしたことへの文成帝の深い懺悔の意味がこめられたからだという。

 あるいは、それはそうであったかもしれない。しかし、仏法に背いたのは、廃仏令を出した太武帝だけではない。廃仏令を出さしめた僧侶側にも傲慢・不遜と腐敗・堕落の責任があった。そのことを十分に意識したうえでの官民あげての仏像制作であったろう。石窟群造営そのものが懺悔の行為であったはずだから、この衣の上の無数の小座佛は、懺悔のうえの懺悔である。一心に鑿を振るいながら「お許しください」と謝り続けたのであろうか。「もう二度と仏法を侵すことはいたしません」と誓い続けたのであろうか。その第18窟のまえに佇んでいると、途方もなく根気の要る作業で、ひとつひとつ、小さな坐像を彫りこんでいった僧侶、仏師たちの懺悔と祈りが、声明(しょうみょう)のような余韻となって伝わってくるような気がした。

   (2009.07.01)







  もう一つの霊的コミュニケーション   (身辺雑記64)


 Ivan Cookeが編集したThe Return of Arthur Conan Doyle を『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』(講談社、1994年)として翻訳したのは、玉川大学文学部教授の大内博氏である。訳書の紹介によれば、大内氏は、上智大学外国語学部英語学科を卒業後、ハワイ州立大学院で英語教育を専攻した。『コミュニケーションの英語』などの著書があるが、氏にとっては、霊的世界を扱った著作と取り組んだのは、本書が初めてであったかもしれない。そのためか、この書の訳語などには、時には、人知れず苦心したあとがうかがえる。

 なぜ大内氏は、この、いわば「畑違い」といってもいいかもしれない翻訳を手がけられたのか。おそらくそれは、氏自身の二人のお子さんを亡くされるという悲痛な体験と無関係ではないであろう。この翻訳書の最後に付け加えられた「訳者のことば」には、「私自身がコナン・ドイルのメッセージを翻訳するに至った道程を、読者の皆さんに知っていただくことも、意味のないことではないと感じるのである」とあって、つぎのように述べられている箇所がある。これは、コナン・ドイルも触れたメーテルリンク『青い鳥』の、「未来の国」の情景(随想No.65)を裏打ちするものといえるかもしれない。

     * * * * *

 ・・・・・この五年間に私たち夫婦は二人の子供をなくすという体験をした。一人は三女の玲で、彼女は致死性小人症という、骨が成長しない病気をもって生まれてきた。いつ死ぬかわからない状態で二七二日という世界記録を作って彼女は死んだ。その後、間もなく養子にした星はわずか生後三カ月で幼児突然死症候群でこの世を去った。私たち夫婦には元気な子供が三人いるが、この二人の子どもの死のショックは大きく、生きることの意味がもうないとすら感じた。

 そんな時、カリフォルニア在住の霊能者であるジョアンヌ・スティールワゴン女史を、友人から紹介された。彼女は心理学者であるが、異次元の存在との交流ができる人だという。彼女の一つの特徴は霊視ができることである。つまり、ヴィジョンが見える。

 妻のジャネットは、悲しみに打ちひしがれた状態で、こう言った。「なぜこのような体験を私たちがしなければならなかったのか、なぜ玲はああいう状態で生まれ、死んでいかなければならなかったのか」、ただそれだけを知りたかったのである。ジョアンヌは、霊視して、こう語った。「私にはなんのことかわかりませんが、一人の女の子がにこにこして、『お母さん、私の手を見て』と言って、両手を振っています」

 ジャネットにはすぐにわかった。玲は致死性小人症であったため、手足が全然成長しなかったのである。それが、今は、あの世に行って手も普通になっているよ、と見せてくれたのである。それから玲は私たち夫婦に「ありがとう」と言っていると、ジョアンヌは語った。彼女は「無条件の愛」を体験するために、あのような身体をもってこの世に生まれてくることに決め、私たち夫婦はその親になる約束をしたというのである。これは一つの約束であるが、かならず守らなければならないというものではない。しかし、私たちはこの約束を守り、彼女をありのままに愛してくれたことに玲は感謝している、というのだった。

 玲は生まれる以前に異常があることはわかっていて、生まないという選択もあると医師に暗示されたこともあった。

 星からのメッセージは、彼は「悲しみ」という感情を自ら体験するために、私たちの家族のところにやってきて、死ぬことを選択した、というものだった。星を養子にしたときは生後一カ月で、健康そのものの子だった。私たちの家族一人一人はほんとうに星を可愛がり、楽しい時を過ごしていた。ジョアンヌを通して星が語るには、彼自身そのように愛情に囲まれた生活の中で、本来の自分の目的を見失いそうになるところだった。そういう状態で突然死んで、別れなければならない悲しみ、そして家族である私たちの悲嘆を体験することが、彼の使命だったと語った。

 私たちのことを何も知らなかったジョアンヌを通して語られたこれらのメッセージは、語っている存在が玲であり星であることを示す証拠を伴っていた・・・・・
 「訳者のことば」 pp.320-321より

     (2009.05.01)






   霊界から差し伸べられる癒しの手   (身辺雑記 63)


 私が大英心霊協会でアン・ターナーと初めて逢ったのは、1992年の2月のことである。あれからもう17年も経つが、今から考えると、彼女には逢うべくして逢ったという感が強い。大英心霊協会に所属する数十人の霊能者のなかでも、アン・ターナーは私にとって特別の存在になった。彼女は、その時以来、霊界にいる妻・富子と長男・潔典の二人とこの世の私とを結ぶ貴重なパイプ役になってくれたのである。そのことを、私は、「アン・ターナーと私」という小文にも書き記している。

 イギリスでの一年の滞在を終えて、同年春に日本へ帰国してからも、私は何度かイギリスへ出向いて、彼女に逢い、霊界からの妻と長男からのメッセージを受け取っている。特に、長男・潔典の誕生日である 6月5日には、毎年、私から潔典宛の手紙を書き、それに対する返事を、アン・ターナーを通じて、潔典から受け取るのが慣わしになっていた。それは、一度も欠かさず続けられていたが、昨年、初めてその「文通」は中断された。アン・ターナーの右肺にがんが見つかり、受け始めていた化学療法のせいで、体力と気力がかなり衰えていたからである。

 病院では、彼女の右肺を手術で取り除き、そのあと放射線治療を続けることを考えたようであるが、肺気腫も両方の肺に認められて、生命の危険が伴うということで手術には踏み込めなかった。しかし、化学療法を何か月か続けても症状は改善せず、肺がんはさらに大きくなってきたので、医師たちは相談のうえ、6週間の集中強化放射線治療を試みることになった。これにも生命のリスクは伴うが、その方法しか取るべき手段はないということで彼女も同意せざるをえなかったらしい。

 昨年の8月5日、その集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウエールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、8月5日は、彼らの結婚記念日でもあった。予約は午前11時であったが、10時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。

 そのコーヒー・ショップの片隅には、200〜300冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっている。お茶を飲み終わった夫君のトニーが、立ち上がって、その書棚の前でふと一冊の本を取り上げた。それが大韓航空機事件を扱ったR.W. Johnsonの『撃墜』であった。アン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って送ってきた。そして、その驚きを、次のように書いた。

 --- for the one and only book that Tony picked up was called “Shoot-down” by R W Johnson which told the story of the last flight of KAL 007. We took this as the first sign that Tomiko and Kiyonori were with us, telling me that I was in the right place at the right time.

 夫君のトニーも霊能者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。アン・ターナーにも、事件のことは私からはほとんど何も話していないが、彼女は霊界にいる私の妻や長男とは、何度も会い話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知しているといってよいだろう。夫妻は、その時、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。やがて診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときには、富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めてくれていたらしい。彼女の手紙はこう続けられている。

 We were so elated unbelievably, all our nerves and tension simply fell away, and after being called in for my treatment I felt their presence, holding my hand, surrounding me with love and healing, reassuring and comforting me. As I closed my eyes during the treatment their spiritual light was blinking.
 Whoever donated the book was without knowing it, being inspired by spirit to leave it at the Radiotherapy Department, this was done in advance showing that spirit knew before we did that we were going to be there on that day 5th of August, 2008. We give thanks to spirit for their loving intervention into our lives every day.

 霊界では、すべてお見通しで、8月5日にアンがその放射線専門病院に来ることも、アンよりも先に知っていた、というのであるが、それはおそらく、その通りであろう。ただ、アンは、8月5日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間かかかった。そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは9月1日であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じ日である。

 2008年9月1日---。その日には、私は、北海道・稚内の「祈りの塔」の前で行なわれた事件後25周年の慰霊祭に参加していた。時差の違いはあるが、同じ9月1日に、アン・ターナーは、生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。別の手紙で、彼女は、その「偶然」の一致を、こう伝えてきた。

 So when you our dear friend were attending that very special 25 year ceremony, the memorial service at Wakkanai, I was having my very first Radiotherapy session. I knew your wife Tomiko and son Kiyonori were administering their healing to me without a doubt! I thank them with all my heart!!!

 その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べていたというのである。不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。アン・ターナーは、事件後、この世で生き続けている無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、或は私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意を示したかったのかもしれない。

 そのアン・ターナーは、9月1日からの放射線治療で、その後どうなったか。期待以上の成果があったらしい。少なくとも、肺がんのそれまで以上の成長は止められた。彼女はいまも病院通いは続けているが、最近の手紙では、肺がんを根絶することは無理にしても、いまは、がんが「冬眠状態」になったと、医者に言われているという。そして、「私はいまはとても元気です」(I am feeling very well now) と、付け加えていた。

    (2009.03.01)






  「日本国憲法九条」 を守っていくために (身辺雑記 62)


 日本国憲法の第九条は、「戦争の放棄」をつぎのように謳っています。

 @日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 A前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

 第二次世界大戦では、アジアやヨーロッパで、五千万を越える人命が奪われましたが、それには、1937年の日中戦争以来、侵略戦争をし続けた日本も大きな責任を負っています。そして、その日本も、米軍の空襲で主要な都市はことごとく焦土と化し、ヒロシマ・ナガサキの原爆による犠牲者を含めて、死者も三百万を数えました。だからこそ戦後生き残った日本人は、この惨禍をもたらしたことに対する痛切な反省のもとに、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定して、「国際平和を誠実に希求する」ことを世界に向かって宣言したのです。

 しかし、敗戦の体験から半世紀が経過しますと、その九条を中心に、日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない強さで、広がりをみせはじめるようになりました。近隣諸国からの侵略からの防衛や抑止のために、また、海外に派兵して国際貢献もできるようにするために、軍隊の保持も明記して疑いなく合憲にしようというのがその主張です。

 そのような動きに危機感をもった、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、鶴見俊輔等の諸氏が、2004年6月10日に発足させたのが、日本国憲法を守るための「九条の会」です。同日に発表された「九条の会アピール」では、日本国憲法「改正」への動きを、つぎのように告発しています。

 ・・・・・その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を事実上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。

 このアピールは、さらに、こう続けられています。

 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。
 一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
 二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません・・・・・。

 このアピールには、全国津々浦々から共感と支持が寄せられ、「九条の会」結成の動きが各地の市町村にまで広がっていきました。毎年の世論調査でも、特にこのアピールが出された2004年頃からは、「憲法改正」に対する賛成意見が減少傾向を見せ始め、昨年(2008年)4月に「読売」が行なった調査では、わずかながら改憲反対(43.1パーセント)が賛成(42.5パーセント)を上回ってきたようです。

 「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます」という「九条の会」アピールを、2009年の年のはじめにあたって、私たちもあらためて、肝に銘じておきたいものと考えます。

  (2009.01.01)
                              
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