No,81〜No100




     懐かしく哀しいアメリカ生活の想い出 
        ―生活と文化をめぐる随想 (96)―                (2014.07.01)


  私が初めてアメリカの地を踏んだのは、1957年の夏のことであった。オレゴン大学大学院の給費留学生としてである。まだ一般の私費による海外渡航などは許されていなかった時代で、アメリカの生活事情などもよくわかっていなかった。五里霧中のまま横浜から飯野海運の隆邦丸に便乗させてもらって、太平洋を二週間かかって横断した。隆邦丸は16,000トンでタンカーであった。アメリカは石油の輸出国で、太平洋戦争の敗戦後、日本はこのアメリカからの石油輸入を再開していたのである。

 隆邦丸は、8月12日の朝、ロサンゼルスから南へ三十キロほどのサン・ペドロ埠頭に着いた。大きなジュラルミン製のトランクやスーツケースなど数個の荷物を、タクシーの運転手になんとか積み込んでもらって、まずユニオン・ステーションへ向かった。そこで、夏休み中の夏期講座に出席するはずのカリフォルニア大学バークレイ校に鉄道便として荷物を送り身軽になったあと、ハリウッドのホテルで最初の夜を過ごした。

 いきなり海から陸に上がってアメリカの街に入り込み、全身に浴びるシャワーのようにアメリカ文化の洗礼を受けて、強烈なカルチャー・ショックであった。私は映画でしか見たことのなかったハリウッドの街を歩き回ってくたくたに疲れていたが、興奮のためにほとんど一睡もできなかった。美しく広い街路樹の道を、次から次へとジェット機を思わせるようなテールフィンをつけた大型乗用車が通る。両側には重厚な構えの、日本とは段違いにきらびやかな多くの店が軒を連ねている。ショーウィンドーには華やかな商品の数々があふれていた。おずおずと店に入ると、一面にカーペットが敷き詰められていて、ツーンと匂いがする。アメリカの豊かさの匂いである。その「豊かさの匂い」はどこへ行ってもつきまとって、ホテルでもその匂いの中で、私はまんじりともせず一夜を明かしたのである。

 ハリウッドの付近には、たとえばパサデナのような高級住宅地があって、ハウスメイドを雇っているような家も珍しくはない。映画俳優の豪華な邸宅群の前を観光バスで通り過ぎながら、そのハウスメイドの給料が月に250〜300ドルくらいと聞かされた時には、思わずため息が出そうになった。留学する前の私は、札幌で公立高校の教員をしていた。そばが30円、ラーメンが40円くらいで、毎月の新聞購読料も330円の時代である。私の月給は、1万円に満たなかった。その当時のドルに換算すると、それは約25ドルで、アメリカのハウスメイドの給料の10分の1にしかならなかったのである。

 その頃、円とドルの換算率は公定では一応、1ドル360円ということになっていた。しかし、それでドルが買えるわけではない。日本は、戦後の貧困のどん底からやっと少しずつ這い上がり始めた時期で、日本政府も、公用と貿易目的以外にはドルの買い入れを認めなかった。どうしてもドルが欲しければ、貿易関係の会社などを通じて、若干のいわゆる「闇ドル」を手に入れるしかなかったのだが、その交換率は1ドル450〜480円もした。これでは、私の給料は20ドルちょっとにしかならない。

 その当時のアメリカ人は、自信と誇りに満ちていたような気がする。同じ戦勝国でありながら、戦争で国土が荒らされ、経済的にも疲弊していたヨーロッパ諸国に対して、ひとりアメリカはいわば漁父の利を占めて、繁栄を謳歌していた。ロサンゼルスもそうであったが、街のたたずまいが、どことなくしっとりと落ち着いて、清潔さが隅々まで行き渡っていた。ざわざわした不安の暗い影はどこにもなかった。ロサンゼルスの螺旋状に交差するハイウェイの遠望は、その頃の絵葉書によく登場して、人工美の極致のように思われた。

 カリフォルニア大学バークレイ校での思い出もある。週末の息抜きに、サンフランシスコへ出かけるときには、その当時はまだ走っていたオークランドベイ・ブリッジを渡る電車に乗っていた。橋は夜になるとオレンジ色のランプの光のトンネルになる。海の上に長い光の影を落として幻想的で実に美しい。光のトンネルを通りながら、「ああ、これは夢ではないか」と私は何度か思った。

 秋からオレゴン大学へ移ってからは、キャンパスの美しさにこころを打たれた。学生寮の自室の窓から見える芝生の緑の広大なひろがりは、勉強で疲れた体をやさしく労わってくれた。キャンパスを出て閑静な住宅街を散歩していると、垣根のれんぎょうの花が散って歩道が黄色の花の絨毯になったりしている。しっとりと湿り気を含んだその色合いがあまりに美しくて、私は前に進めず、その場にしゃがみこんでしまったこともあった。「しっとりとして落ち着いた美しさ」、それは五〇年代のアメリカでは、少なくとも私のまわりではどこでも見られた普通の情景であったといってよい。当時の日本は、敗戦で自信と生き甲斐を喪失し、貧困のなかであえぎながら国土再建を模索していた。その日本の暗さの残る世相をあとにしてきただけに、私の頭には、このアメリカの美しさが、よけいに強く印象づけられていたのかもしれない。

 そのアメリカが大きな衝撃を受けたのは、1957年10月4日、ソ連が人類最初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたときである。私がいくらかオレゴン大学の生活に慣れ始めた頃であった。スプートニクは、無事に96分12秒で地球を一周する軌道に乗った。普段は勉強に追われてテレビを見る余裕もないアメリカ人学生も、この日ばかりは、夕方のテレビニュースの前に釘付けになった。このスプートニクの重量は83,4キロで、アメリカが打ち上げを予定していた人工衛星の8倍もの重さである。この金属球がかりに水素爆弾だとすると、ソ連はアメリカを核攻撃できることになる。この冷厳な事実を前に、アメリカ人の自信と優越感はいっぺんに揺らいで、「ソ連に追いつき追い越せ」が、アメリカ政府の緊急課題となった。

 さらにソ連は、翌月の11月3日、全重量508キロのスプートニク2号にライカ犬を積み込んで打ち上げに成功した。アメリカ政府は狼狽した。時の大統領アイゼンハウアーは、そのあと、緊急に全米向けのテレビ放送を行い、アメリカの宇宙計画を促進するために科学・技術に関する大統領顧問を設け、国防省内の機構を強化する、と発表したりしている。この影響で、オレゴン大学でも、ロシア語の履修学生が急に増え、そのあおりをくって、日本語や中国語などの他の外国語を選択するものの数が軒並みに減少したりした。

 この人工衛星打ち上げによる深刻な衝撃を受けたアメリカは、その後のソ連との熾烈な宇宙開発競争の末、1962年10月には、全面核戦争勃発の「キューバ危機」を辛うじて回避する。そして、1969年7月20日には、月着陸宇宙船「アポロ11号」による人類初の月面着陸を成功させた。アームストロング船長とオルドリン飛行士が、月面に星条旗を立てたのをテレビ画面で確認したアメリカ人の喜びと感動がどれほど大きかったかは想像に難くない。アメリカ人はまた、大きな自信を取り戻したのである。だが、アメリカ政府は、その後もソ連に優位に立つための軍備拡張の道を突き進み、それに対してソ連もまた、共産主義の旗頭として、アメリカに対抗する軍事勢力を盛り上げていった。

 この自由主義陣営と共産主義陣営という対立のなかで、アメリカ政府は、ベトナム戦争への介入をも深めていく。そして、このベトナム戦争への介入は、アメリカ社会に経済的にも倫理的にも、深刻な打撃を与え、伝統的なアメリカ人の価値観を大きく揺るがせる結果になった。

 1973年12月のクリスマス・イブ。私は二度日の長期滞在のため、羽田発の日航機でアメリカへ向かった。今度は、文部省在外研究員としてである。成田空港が開港したのは1978年5月で、当時はまだ、羽田を使っていたのである。まだ、海外旅行はいまほど盛んではなかった。勤務先の小樽商科大学でも、教養部の教授として海外へ出る初めての文部省発令で、同僚にも励みになると言われたりした。国家公務員だから飛行機も日本航空を使わなければならない。そんな通達があった時代である。

 私の母校のオレゴン州ユジーンのオレゴン大学で1年間過ごすことになって、私は妻と中学一年の長女、小学校五年の長男の家族四人で、就航し始めたばかりのジャンボ機に乗り込んだ。全長七十メートル、全幅六十メートルのボーイング七四七型機は、まずハワイを目指した。最高で四百九十人も乗れる巨大な客室に、乗客は私たちを含めてたった三十人くらいしかいない。ほとんど貸し切り状態である。「随分少ないですね」とパーサーに私が言うと、「空気を運んでいるようなものです」と苦笑いが返ってきた。

 その頃、日本のみならず、ほとんどの欧米諸国は、オイルショックに激しく揺れていた。その年10月6日の第四次中東戦争の勃発をきっかけに、アラブ諸国は石油を戦略的武器として、石油供給の削減計画を展開し始めたからである。それまで、安い石油を湯水のように使ってきた西側先進諸国は、この石油戦略に大きな打撃を受けた。特に資源の少ない日本ではインフレに拍車がかかり、当時の田中内閣の経済運営を極めて困難な状況に追いやった。不安にかられた群衆のトイレット・ペーパーや洗剤などの買い占め騒ぎが起こったりもしている。アメリカでも、燃料不足のために国内線の大手航空会社が大幅な減便に踏み切り、ニューヨーク市は、車の都心乗り入れを禁止した。カリフォルニアでも、ガソリンスタンドでいつでも自由にガソリンを買える状態ではなくなっていた。

 オイルショックの最中にあったからであろうか、ハワイからロサンゼルスに着いて、歩きまわった市内の雰囲気は、どこか精彩を欠いていた。ハリウッドなどの豊かさの香りは健在であったが、街のたたずまいがなんとなくざわざわとして落ち着きがなく、あの「しっとりとした美しさ」は、もうどこにも感じられなかった。二日後、サンフランシスコへ飛び、そこでも二日滞在して、ユジーンの空港に着いたのは、大晦日のそれも深夜である。

 オレゴン大学では、東洋史担当のファルコネリ教授が私の世話役ということになっていた。国内線の減便と年末の混雑で、日中の便の予約が取れなかったことをサンフランシスコから電話で説明して、ユジーン空港への到着時問を知らせると、「無事に空港までのガソリンが手に入るといいのですが」と、教授は妙なことを言う。私はその時それを冗談だと思ったのだが、そうではないことはあとでわかった。オレゴンでは、カリフォルニアより石油事情がいっそう深刻で、その後私自身も、大学へ通う車のガソリンを手に入れるのに、たびたび朝まだ暗いうちから起き出して、ガソリンスタンドの前に並ぶ羽目になったのである。

 そのときのファルコネリ教授は、しかし、無事にベンツに乗って迎えに来てくれた。私は、家族を紹介し、到着が深夜になってしまった不手際を詫びた。大学で用意してくれていた宿舎に入る手続きは時間外で出来なかったので、とりあえず近くのホテルへ案内してもらった。荷物をホテルの部屋に運び込んでくれて、教授が帰っていったとき、遠くでかすかに教会の鐘の音が流れた。時計をみるとちょうど零時であった。私たち家族のユジーンでの生活ははからずも、一九七四年の黎明とともに始まることになった。

 私の留学時代から十五年を経て、オレゴンの生活環境もアメリカ社会も想像以上に変わってしまっていた。自信と誇りに満ちた生活の安定感のようなものがいつのまにか消えてしまっている。人々の問に環境に対する不安が芽生え、社会に対する不満も鬱積し始めていた。 環境問題では、たとえば、環境汚染を生み出した農薬である。一九五〇年代から六〇年代にかけての日本でも、ドジョウやメダカ、ホタルなどが急速に姿を消していって、土壌の汚染が深刻化している。当時はそれでも、人々の目は、人の生死に直接関わる水俣病などに奪われていて、環境問題全般にまでは関心が及ばなかった。

 しかし、アメリカでは、一九六二年に女流作家のレーチェル・カーソンが『沈黙の春』で農薬汚染の実体を告発して以来、環境汚染が社会的な大問題になっていた。それまでところかまわずまかれていたDDTなどの有機塩素系農薬や毒性の強い有機リン剤が、現実には、小鳥や益虫を殺しているばかりでなく、人の命までも脅かしていることを知らされて、人々は愕然としたのである。

 ミシシッピ川で汚染による水中酸素の欠乏のため、魚が数百万単位で死んでいくという不気味なニュースが伝えられて間もない頃である。そのほかにも、核実験による死の灰、サリドマイド児の問題などがあっただけに、農薬汚染の問題は特に女性に大きな不安を与えた。このアメリカの社会では「人間は母の胎内に宿ったときから年老いて死ぬまで、恐ろしい化学薬品の呪縛の下にある」とレーチエル・カーソンは書いている。アメリカ政府は国民の問に急速にひろがった不安感を無視することが出来ず、1970年に米環境保護局(EPA)を発足させて対応に乗り出した。この環境汚染の問題は、その後も、車の排気ガス汚染や水質汚染から放射能漏れ、放射性溶液の海洋汚染等にまで規模を広げて、いまも人々の胸の中に重苦しく淀んでいるといってよい。

 社会に対する不満では、たとえば、人種差別の問題がある。私が留学生としてアメリカにいた頃にはまだ、南部では公然と、黒人差別が行われていた。一九五八年の夏休みに、大陸を卓で横断してニューヨークへ行き、そこからバスで南下してアトランタへ着いたときには、バスの待合室が自人用と黒人用に分けられていた。「WHITE ONLY」と書かれた自人用の待合室は、広々として清潔で、クーラーが利いて涼しい。しかし、黒人用の待合室は、狭苦しい小部屋でクーラーもなく暑苦しかった。アジア人は自人用に入ることになっていたから、私も後ろめたい思いをしながら快適な自人用の室内で旅の疲れを休めていた記憶がある。その頃にあのリトルロック事件が起こった。

 アーカンソー州リトルロック市のセントラル高校で、九人の黒人新入生が、学校に入ろう  とした。そのときに、黒人の入校を拒もうとする群衆と守ろうとする群集の間で衝突が起こ り、死者を出す騒動にまで発展したのである。黒人と白人の共学を禁止する南部諸州の法律は、すでにアメリカ連邦最高裁判所が憲法違反の判断を下していた。黒人運動指導者たちは、ただちに大統領アイゼンハウアーに保護を要請し、黒人新入生たちは、三百五十人の空挺部隊の警備のもとにようやく登校を果たした。

 もちろんこれで、問題は収まったわけではない。黒人が正当な市民権をひろく認められるようになるまでには、その後も紆余曲折の長い道のりを要した。一九六八年の四月には、黒人、解放運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師が、テネシー州メンフィスで黒人清掃労働者たちのストライキを支援中、白人テロリストに銃で撃たれて死亡している。この暗殺に怒った黒人たちは、メンフィスをはじめ、ボストン、ニューヨークなどアメリカ各地で暴動を起こした。特に首都ワシントンでは、暴動の規模が拡大して、陸軍部隊四千人が出動して鎮圧に当たらなければならなかった。このような人種差別をめぐる火種は、私の二度目のアメリカ滞在中にも消えることなく続いて、アメリカ社会に濃い陰影を投げかけていたのである。

 しかし、やはり何よりもアメリカ社会を暗くし大きく歪めていったのは、アメリカ軍によるベトナム戦争への介入であった。一九六四年八月、ベトナムでいわゆるトンキン湾事件が起こった。この月の二日、アメリカ政府はトンキン湾の公海上でアメリカ駆逐艦「マードックス」が、北ベトナム哨戒艇三隻による魚雷攻撃を受けたが、反撃して1隻を撃沈、他の2隻も空母からの艦載機によって撃退した、と発表した。時の大統領ジョンソンは、直ちに北ベトナムへの報復爆撃を命令する。そして彼は、アメリカ上下両院に「トンキン湾決議案」を上程して、東南アジアにおける一切の軍事行動の権限を要請した。愛国ムードが盛り上がっていた議会は、上院議員二人が反対しただけで、この大統領の武力行使をあっさりと認めてしまった。

 しかし、アメリカだけではないにせよ、政府や軍はしばしば嘘をつく。あとになってわかったことだが、1968年のアメリカ上院外交委員会の調査で、トンキン湾事件は、アメリカ軍が戦争を拡大するために目論んだでっちあげであることが判明した。アメリカ軍は、六四年二月頃から、南ベトナム軍を使って北ベトナム挑発の「34A」と称する隠密作戦を続けており、マードックスは、公海上ではなく北ベトナム領海内でスパイ活動をしていたのである。すぐに終わるはずであったベトナム戦争への介入が、だんだんと深みにはまっていくのをみて、アメリカ国内にも反戦ムードが漂い始めた。そのようななかで、焦りだしたアメリカ政府は、一九六五年二月に北爆を開始、アメリカ空母三隻から飛び立った爆撃機が、高性能爆弾とロケット弾で北ベトナムのドンホイにある軍事施設を攻撃する。ベトナム戦争は一気に拡大した。

 この北爆開始にあたってアメリカ政府は、「南ベトナム民族解放戦線が、その日の未明、南ベトナム中央部にあるブレークのアメリカ軍基地を襲撃したことに対する報復である」と発表した。しかしこれも、全くの口実にすぎなかったことが、あとになってわかる。北爆は、前年九月のホワイトハウスでの戦略会議ですでに決定されていた。アメリカ政府は、北爆によって北ベトナムに打撃を与えると同時に南ベトナム軍の士気を高め、アメリカペースでの和平交渉に北ベトナムを引きずり出す、というシナリオを描いていたのである。

 しかし、北ベトナムと解放戦線は、アメリカに対する徹底抗戦を宣言した。中ソの援助増大とアメリカを含めた西側諸国の国民の問に広がる反戦ムードも、おそらく彼らを力づけていたであろう。北爆だけでは効果に限界があるとみたアメリカ政府は、北爆を一層拡大する一方で戦闘部隊の増派を決め、同年七月には、ベトナム駐留のアメリカ軍を七万五千人から十二万五千人に増やした。

 アメリカ国内の反戦ムードは一層広く浸透していくようになった。六七年四月十五日にニューヨーク、サンフランシスコで始まった反戦集会は、十月二十一日にピークに達した。以来、この日は、「10・21国際反戦デー」として記念すべき日となった。このようなベトナム戦争による時代不安を最も身近に感じ取っていたのは、いうまでもなく、戦争にかりだされ始めたベビー・ブーム世代の若者たちである。その若者たちを集めて開かれた一九六九年八月のウッドストック・コンサートは、空前の規模に膨れ上がった。ニューヨーク北西約百十キロの会場にあてられた酪農場には、五万人と予想されていた聴衆が四十万人にも達したのである。

 アメリカの青年たちは、ウッドストックを世代の連帯の象徴とし、自らをウッドストック・ジェネレーションと呼んだ。彼らは現実の社会システムの呪縛を拒否し、アメリカの現実をいかに自分たちの想定する社会へと変化させていくかを考えるようになった。一方では麻薬がおおっぴらに乱用され、性の表現も自由奔放になっていく。従来のアメリカ社会の価値観が大きく揺らぎ始めたのはこのあたりからといってよい。

 このあと、十一月十三日からは、アメリカ各地で計百万人以上が反戦デモを行い、十五日には首都ワシントンでの反戦集会に、全国から二十五万人が集まった。首都にこれだけのデモ参加者が集まったのは、アメリカ史上初めてのことである。同じ頃行われた、ニューヨーク市長選では、ベトナム反戦を掲げたジョン・リンゼーが勝利するという「番狂わせ」もあった。しかし、世論の反対にも屈せず、時の大統領ニクソンは、北爆強化と北ベトナム全港湾の機雷封鎖を強行した。それでも遂に勝つことが出来ず、その後、アメリカ軍は徐々に自滅していくのである。

 一九七三年一月のいわゆる「パリ協定」に至るまでにアメリカがベトナムに注ぎ込んだ戦費は約千三百億ドルで、死者は四万六千人、重軽傷者は三十万三千人を数えた。南ベトナム軍民の死傷者は、実に三百万人以上にのぼっている。しかも、このパリ協定も、事実上反古と化していたから、戦争の惨劇は、このあとさらに二年あまりも続いたのである。

 世界一の大国と自負していたアメリカが、東南アジアの小国北ベトナムとの戦争に全力を投入しても勝てなかった。アメリカ国民のこころの中に深い傷跡を残して、結局は、北ベトナムに負けた。これで社会が変わらないはずはなかった。一九七四年の一月一日から始まった二度目の長期滞在を通して、私は、ことあるごとにその変化に気づかされることになったのである。街の雰囲気にもかつての落ち着いた美しさはなくなり、社会生活の明るさにも翳りが見えてきたように思えたのは、オイルショックの深刻さのためだけではなかった。

 自信と活気を失い始めたアメリカ社会のなかで、追い打ちをかけるように、私たちの滞在中には、ニクソンのウォーターゲート事件というのもあった。これは一九七二年六月、ワシントンのウォーターゲート・ビルのガードマンが、同ビル内にある民主党全国本部へ侵入しようとした五人の男たちを逮補したのが始まりである。ちょうどニクソンが大統領の再選を目指して選挙運動を展開していたときであった。この再選委員会が侵入事件と関係することはすぐに露見した。

 事件はしばらくの間静かに推移し、ニクソンは十一月に大統領に再選された。その間ニクソンと補佐官のハルドマンやアーリックマンは、再選委員会に関する給料の支払いや税金のごまかし、違法な選挙寄付、民主党に対する選挙妨害の汚い手口などを隠蔽しようとした。それらのことがワシントンポスト紙記者などの周到な取材調査で次から次へと明らかになって、事件は一気に大統領のスキャンダルへと発展した。ニクソンは、一部の部下がやったことで自分は知らなかった、と嘘をつき続けたが、やがて隠しきれなくなり、遂に八月八日、大統領を辞任する羽目になったのである。現職の大統領が任期の途中で辞任するのはアメリカ史上初めてのことであった。この事件により大統領の威信は限りなく低下したが、かろうじて、アメリカ民主主義とジャーナリズムの健全さを世界に証明する結果となった。

 私はユジーンの大学宿舎に落ち着いて以来、テレビニュースで、毎日この事件が取り上げられているのを見てきた。それは文字通り、来る日も来る日も毎日であった。日本ではこの種の犯罪でも、一、二カ月もすればやがて追及の手もゆるめられ、国民のほうも報道に飽きて忘れていく。それがアメリカでは、決してそういうことはなかった。この毎日執拗に続けられる報道が、私が見ただけでも実に七カ月もの間続いたのである。

 八月八日。この日私は家族と共にワシントン州のスボケィンにいた。大学も小学校も夏休みに入った六月下旬から、私たち四人家族は、古い大型シボレーにテントや寝袋などのキャンプ用品と、米、水、燃料などを積み込んでアメリカ一周の旅に出ていた。オレゴンから南下し、カリフォルニアから進路を東にとって大陸を横断した。東海岸に着いてからは、ワシントンD・C、ボルティモア、ニューヨーク、ボストン等の都市を経てカナダのモントリオールへ抜け、そのあと西に向かって、ミシガン州からウィスコンシン、ミネソタ、ノース・ダコタ、モンタナ州まで、ちょっと大げさに言えば命がけの旅を続けていた。オレゴンのユジーンを出てすでに四十日、一万八千キロを走ってきて、八月八日にはスボケィンの広大なキャンプ場で一休みしていたのである。ニクソンの辞任演説はそこで聞いた。キャンプ場の片隅では若者の一団が大きな歓声を上げた。近くのテントの陰では、中年の女性がひとり涙を流していた。

 スボケィンでは万博が問かれていた。その四年前の大阪万博にもたまたま家族四人で訪れていたが、それは、一日の入場者が三十万人にもなったりして「待った、疲れた、見られなかった」万博であった。このスボケィンのアメリカ万国博覧会では、一日の入場者は二万人にも満たなかった。広い会場のなかをゆっくりと好きなものを好きなだけ見ることが出来た。本来、万博とはそういうものであろう。しかし、大統領のスキャンダルが辞任という結末を迎えたあとの万博会場は、どことなく湿った空気が流れているような気がした。

 一九八二年の秋、私はフルブライト上級研究員として、アリゾナ州の砂漠のなかの街ツーソンで過ごしている。三度目の長期滞在であった。この時は、一足先にアリゾナ大学の編入生になっていた長女と二人だけの生活であった。妻と東京の大学へ通っていた長男は、東京の家に残っていた。

 ツーソンは、アリゾナ州ではフェニックスに次ぐ第二の都市である。周囲には、サンタ・リ夕、カタリーナ、リンコン、ウエットストーン等の山系が連なっていて、それらはいずれも、岩肌を露出したごつごつした感じの禿げ山がほとんどである。西部劇で有名な砂漠の街だが、いまでは人口も七十五万を超えてハイテク産業で急成長している。私が住んでいた当時でも、農鉱業と観光が主な産業で、豊かな街として知られていた。なにしろ、一年のうち三百五十日が晴天で、湿度も年平均二十五パーセントくらいしかない。巨大な人工農園に化石燃料をふんだんに使って潅水装置を完備すれば、お天気まかせではない極めて効率のよい農業経営が可能になる。オレンジ、グレープフルーツ、スイカ、メロン等の果物も、日本の価格の三分の一から五分の一くらいの安さであった。

 しかし、やはり生活環境は厳しかった。私が「フルブライト」の選考の際に、配属希望をアリゾナ大学にした理由の一つは、砂漠のなかでの生活体験をしてみたかったからであった。比較文化の勉強のためにも有益である。そして、ツーソンでは、予想通りの厳しい生活環境が待っていた。

 アメリカでは、私がまだ日本にいる間に、タイレノール事件が発生して、大騒ぎしていた。タイレノールというのは、アメリカで最も広く使われている鎮痛剤の名前である。ドラッグ・ストアーで売られているその鎮痛剤に、誰かが青酸カリを混入して、アメリカ各地で七人の死亡者がでた。消費者を無差別に狙った大量殺人事件につながる恐怖のなかで、全米がパニック状態になった。フルブライト委員会からも私宛に、アメリカに着いても、タイレノールを買わないようにとの注意の手紙が届いた。

 ロサンゼルスで二日過ごしてツーソンに着いた日の夜、娘が借りておいてくれたアパートの近くで、大規模な捕りもの騒ぎがあった。ヘリコプターが低空飛行で旋回しながら、サーチライトで地上を照らしている。パトカーのサイレンが鳴り響き、何発かの銃声も聞いた。その数日後には、やはり近くで、六歳の女の子が何者かに殺害されている。地域差はもちろんあるが、「アメリカはまた一段と悪くなっているな」と私は思った。

 アリゾナ大学では、言語学部の事務室の前に廊下をはさんでタイプライターやコピー機がおかれた機器室があった。コピー機は大きくて筒単に持ち運びできないのでそのままだが、タイプライターはすべて頑丈なボルトで机に固定されている。犯罪が多いことを如実に示していた。事実、私がコピー機を使っている昼休みの間に、目の前の事務室で盗難があった。三人いた事務職員がたまたま何かの用事で一人もいなくなったちょっとした隙に、事務室内のボルトに固定されていない電動タイプライターが一台盗まれたのである。事務室は廊下の奥まった一角にあって、あんな大きなものを白昼堂々と盗むためには、よほどの技量がいる。私も全く気がつかなかったが、驚きながらも、その技量の見事さに感服した。

 私の娘が授業の帰りに、大学内にある郵便局へ寄った。切手を買い、カウンターの横のテーブルの上で手紙に貼ろうとしていたら、風が吹き込んできてその切手をはらはらと飛ばした。その切手を拾ってもとのテーブルに戻ると、手紙の横に置いた財布はもうなくなっていた。一瞬の隙でも見せてはならないのが、このアリゾナ、あるいは、アメリカなのである。

 私と娘の住んでいたアパートの部屋は百平方メートルほどの2LDKで、狭くはなかったがあまり新しくはなかった。夜中に起きて台所の電気をつけると、ゴキブリがさっと逃げていくことがある。透き通るような小さなからだで、動作は驚くほど素早い。ぱっと瞬間に消えてしまうような感じである。やはり砂漠のゴキブリである。倍もあるような大きなからだでもぞもぞ歩いているような日本のゴキブリとは大きな違いである。蛇でも砂漠の蛇はたいていからだが小さく、それでいて襲えば一瞬にして牛をも倒すような猛毒を持っている。それが砂漠の生き物である。からだが大きく鈍重な動きであれば、食料の少ない砂漠では生きていくことが出来ない。

 私が、友人の一人に、いまのアパートはゴキブリが出ていやだ、と言ったら、彼は平気な顔をして、タランチュラを買ってきて部屋のなかに放し飼いにしておけばいいという。タランチュラというのは、大きな毒グモである。毒グモだが人間はかまずにゴキブリを食べてくれるのだそうである。私は、怪奇小説にでも出てくるようなその不気味な毒グモの姿を想像するだけでも背筋が寒くなった。砂漠の街で生きていくのには、細い神経ではもたない。針金のような太い神経が必要なのである。

 毒といえば、その後、カリフォルニア奥地にある砂漠の保養地パーム・スプリングスへ行った時にも、泊っていたトラベロッジのホテルのまわりに、オリアンダの潅木がぎらぎらと照りつける太陽の下で、白や赤の花をいっぱいに咲かせていた。これも、アリゾナの砂漠の木で毒をもっているはずである。真偽のほどは明らかではないが、ツーソンでこのオリアンダの枝をバーベキューの串代わりに使って、死んだ人がいると聞いたこともあった。

 ツーソンにせよ、このパーム・スプリングスにせよ、砂漠のなかの街というのは、当然、きわめて人工的である。本来、人間が住み難い不毛の砂漠なのだから、そこで街を造っていくのにはよほど大きな人工の手を加えなければならない。そして、それを可能にしたのがアメリカの豊富な石油資源である。そのことは、高いところから砂漠のなかの街を一望してみるとよくわかってくる。

 パーム・スプリングスの中心部から北へ三キロほど走ると、急峻な岩山の山頂まで登れるケーブルカーがある。オーストリアのケーブルカー専門会社の技術援助で、1963年9月に竣工した。八十人乗りの大型ケーブルカーが、二千六百メートルの山頂ステーションまで、ほとんど垂直に近いような急角度で登っていく。下は四十度の暑さでも、山頂では二十五、六度の涼しさである。展望台を兼ねたレストランでしばらく休んでコーヒーを飲む。こういうところで飲むコーヒーはうまい。

 山頂からはパーム・スプリングスの街の全景がそっくり見渡せる。周囲は十キロくらいになるだろうか。砂漠のなかに碁盤の目のように整然とした街の並びが形成され、東西にやや長く伸びている。黒ずんだ街の色と、周囲の砂漠の白とのコントラストが際だっていて、いかにも砂漠のなかの街という感じである。もし、夜この山頂から街を見下ろせば、この黒と白のコントラストは、光と闇のコントラストになって一層の際だった対照を見せるであろう。闇のなかにぽっかりと浮かぶ光の湖のようなもので、さぞ美しい光景であるに違いない。しかし、考えてみると、それは実に「危うい美しさ」でもある。

 古来、文明は、森林を切り開くことから始まった。森林の伐採が文明を支え、そして、伐採すべき森林をすべて失ったとき、文明は滅びた。エジプト、ギリシア、ローマ等の地中海沿岸に栄えた文明もすべてそうである。地中海沿岸で足場を失った文明は、アルプスを越えてヨーロッパの森林を破壊し始めた。そして築き上げられたヨーロッパ文明が、やがてヨーロッパの森林をも徹底した破壊に導いていく前に、それを救ったのがアメリカの広大な森林である。

 ヨーロッパが、中世の大開墾時代に森林を切り倒していったように、アメリカは十七世紀から大開拓時代に入って森林を切り倒していった。しかし、十八世紀になってイギリスの産業革命が起こると、その余波を受けてアメリカの森林資源も徐々に鉱物資源に取って代わられるようになる。一八五九年には、ペンシルバニア州で、世界に先駆けて石油採取井戸が掘られ、近代的な石油産業の幕開けとなった。

 二十世紀になると、ガソリン機関やディーゼル機関など、石油を燃料とする内燃機関の発達に伴い、石油はあらゆる産業の最も重要な動力源となっていく。アメリカは石油を武器にして世界をリードし、世界一の豊かさを誇示するようになった。ツーソンやパーム・スプリングスのような砂漠の中の街が作り上げられたのも、このアメリカの豊かな石油資源があったからこそである。

 アリゾナの砂漠のなかに、全く人工的に造られたサン・シティの街がある。飛行機から見ると、広い砂浜に大きなカタツムリがしゃがみこんでいるような異様な風景である。街の中心部から同心円状に住宅街が造られて街路樹が植えられ、その間に池やプールやゴルフ場なども点在している。住民が少しも不自由しないように、水も食料も住居もすべて機械に依存し、それらの機械がフルに運転を続けて住民の生活を支えている。一見、便利で快適に見えるが、しかし、一旦電気が止まり石油が切れたら、ここはそのまま巨大な人間の墓場と化してしまうであろう。このパーム・スプリングスも状況は同じである。機械がとまれば、人間は生きていけない。ツーソンもそうである。そして、もともと砂漠であったカリフォルニアの多くの街も、ロサンゼルスを含めて、例外ではない。

 思えば私が初めて住むようになった1957年からのアメリカは、夢のように美しい国であった。私はそのアメリカで、数多くの旅行をして北から南へ、西から東へと、おそらく地球一周を越えるくらいの数万キロの足跡を残してきた。そして、そのアメリカが、年を経る毎に美しさと豊かさの影を潜めて、人々の幸せからも遠ざかっていくような気がしていた。1957年から26年を経て、3度目の長期滞在を中断して帰国した1983年当時のアメリカは、事件に巻き込まれた辛い記憶もあるからであろうか、今の私には、淡くてもろい砂上の楼閣のように、灰色にかすんだ街々のたたずまいだけが、思い出されるような気がする。




     **********



    この世からあの世へ還るとき
     ―生活と文化をめぐる随想 (95)―                  (2014.05.01)


 かつて、「朝日新聞」が、日本人の死生観についての全国世論調査を実施したことがあります(2010.11.04)。これについては『随想』(75)「私達がなるべく早いうちに知っておくべきこと」にもやや詳しく紹介してありますが、その沢山の質問項目のなかには、「あなたは、この世とは違う死後の世界や『あの世』があると思いますか。『あの世』はないと思いますか」というのがありました。これに対して、「あると思う」が49パーセントで、「ないと思う」が43パーセントでした。ほぼ2人に1人の割合で、人は死んでもあの世へ行く、と考えていることが分かります。この傾向は、おそらく、いまもあまり変わっていないのではないかと思われます。

 この質問に関連して、「あの世があると思う」と答えた49パーセントの人が持っている「あの世」のイメージを尋ねている項目もありました。その結果は、永遠=16パーセント、無=14パーセント、生まれ変わり=33パーセント、やすらぎ=29パーセント、などとなっています。生まれ変わりが33パーセントで一番多いのは、これが言葉としても日常的に耳にすることが少なくないからでしょうか。しかし、「あの世」があると考えていても、そのイメージが「無」であるとしている人が14パーセントいるということは、やはり、まだ、「あの世」についての理解が不確かで揺れ動いていることを示しているようです。

 本当に「あの世」はあるのか、ないのか。むかし私は、事件で妻と長男を亡くして悲歎に沈みながらも、毎日のように「仏説阿弥陀経」を読んでいたことがありました。これは、お釈迦様が大勢の弟子たちを前にして、西の方はるか彼方に、極楽という世界があることを教えているお経です。その極楽というのは光り輝く壮麗な世界で、人は誰でも、阿弥陀仏の名号を唱えることによってその極楽に往生できる。そしてそのことは、東西南北上下の六法世界の数多くの諸仏によっても証明されているのだ、というような内容になっています。私は、このお経のなかで、「これは嘘ではない、本当のことなのだ」と何度も何度もくり返して述べられていることばに、わずかながらも心を癒されているような気持ちになっていました。

 いまなら、『シルバー・バーチの霊訓』を一冊でも熟読すれば、そのような初歩的な段階を問題なく越えていけると思いますが、さらに「あの世」の存在を証明するものとしては、直接あの世と交信する「霊界通信」などがあげられます。いままで私は、20年ほどの間、数十人の霊能者によって、霊界の妻や長男と数多くの「通信」を試みてきました。その一部は、本にも書き、ホームページにも公開してきましたが、いまの私には、あの世はあるか、ないかの疑問は全くありません。現実に妻と長男が「あの世」で元気に生き続けていることを、信じるというより、よく知っていますので、愛する家族を亡くされて悲歎に暮れているような方々には、一人でも多く「あの世」の真実を知っていただきたいという強い思いがあります。

 いまも私のホームページには、『新樹の通信』の現代文訳を毎週載せていますが、このなかに、浅野和三郎先生がこの世からあの世へ還られた時の状況を、ご子息の新樹氏が霊界から目視しながら報告している「通信」があります(その部分は、5月下旬に全文を載せる予定です)。この通信のはじめに新樹氏は、「僕は近頃幸いに、霊視がきくようになりまして、父の臨終の模様を、神様にお願いして見せてもらいました。僕は自分の臨終を見ることが出来なかったから、一度他人の臨終を見たいと、日常思っていましたが、それが図らずも父の臨終を見ることになったのです」と述べています。この世で私たちは、家族の臨終の姿を見ることはありますが、それを新樹氏は、あの世から見てそれを報告してくれているわけで、これは私たちにとっても極めて貴重な、稀有の「通信」といえるでしょう。

 もっとも、新樹氏は、臨終に際しての和三郎先生の様子が、あまり苦痛もなさそうで、本当に臨終を迎えているのか、もしかしたら神様の見込み違いではないかと思ったりしたようです。そこで、神様に聞いてみますと、「こちらで守護しているからそう見えるだけだ」と答えられます。新樹氏が、それでも和三郎先生が死ぬとはどうしても思えず、何とか回復するように何度も神様にお願いしてみますが、それは叶えられませんでした。「誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上に永らえさせることはできません」とシルバー・バーチは言っていますが、その時の和三郎先生も、大自然の生命の摂理にそのまま従っていたということになるのでしょうか。

 致し方なく、新樹氏はしばらく静観するよりほかありませんでした。そうするうちに、脈がだんだん細く弱くなっていくように感じ始めます。この世で臨終を迎えようとする父上の、そのようなことまで、霊界からは見えるようです。横になっていた和三郎先生はやがて起き上がろうとします。和三郎先生に付き添っていた兄の正恭氏(元・海軍中将)が、それを見て、新樹氏の兄の勝良氏に抱き起こさせました。その後幽体離脱が始まりますが、その様子を霊界から見ている新樹氏は、「父が起き上がると、幽体は足の方から上の方へと離れ始めました。幽体と肉体とは、無数の紐で繋がっていますが臍の紐が一番太く、足にも紐があります。脱け出たところを見ると、父は白っぽいような着物を着ておりました」と報告しています。

 肉体から離れた幽体は、しばらく自分の肉体の上に、同じような姿で浮いていました。そして間もなく肉体と幽体とを繋いでいた紐がぷつぷつと切断されて行きます。いわゆる「玉の緒が切れる」といわれる現象です。これが本当の人の死で、この玉の緒が切れてしまえば、人はもう二度と蘇生することはできません。臨死体験などで、「三途の川を渡ろうとして引き返した」というような話がありますが、あれは玉の緒がまだ切れていない状況で、だから息を吹き返すということもあるということでしょう。新樹氏は、その玉の緒が切れていく厳粛な状況も、「臍のが一番先で、次が足、頭部の紐が最後でした。紐の色は白ですが、少し灰色がかっております。そして抜け出た幽体は、薄い紫がかった色です」というように見つめていました。

 こうして和三郎先生は、昭和12年2月3日に、63歳でこの世からあの世へと還っていかれました。その「あの世」とは、どのような世界なのでしょうか。それについては『新樹の通信』だけをみても極めて具体的にしかも詳しく伝えられていますが、シルバー・バーチも霊界の様子を、「霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります」などと、折に触れて、様々に教えてくれています。

 たまたま、ここまで書いてきたところで、全く思いがけなく、あの世からの手紙を受け取りました。郵便局から速達便が一通届いたのです。優れた霊能者の E. U. さんからの2年ぶりのお便りでした。それには、「先生はどうなさっているかとずっと思っていたせいか、今朝ほど夢を見ました。その後、憑依という形で潔典さんからご訪問をいただきました。メッセージをお預かりいたしましたので、ご郵送申し上げます」と書かれていました。そして、霊界の長男・潔典(きよのり)からのA4版の用紙5枚分の手紙が同封されていました。私は今月84歳の誕生日を迎えましたが、なんとか元気に一人暮らしを続けています。でも潔典には、そのことがやはり気がかりのようです。「お父さんの体力が落ちてきているので、お母さんと一緒に大変心配しています」などと、私の健康を気遣って彼らなりの提案などもしてくれています。そして、そのあとの一部には、つぎのようなことも述べられていました。

 ――お父さん、まもなくこの生を閉じることになるでしょうが、その時は僕たちは、神々様のお使いとして、さらなる貢献に向かうことになります。僕はそのことを誇りに、また楽しみに思っています。
 辛い生活ではありましたが、特にお父さんにとっては、やむを得ない魂の修業でした。このことがどのような意味を持つのか、まもなくお父さんも知るようになります・・・・。天界の営みは深く素晴らしく、さらに驚かれ感謝されることと思います。楽しみにしていてください。
 僕たちは輪廻転生を繰り返し、ここまで辿り着きましたが、まだまだ世には魂の成長を必要とする方々で溢れています。僕たちはこの方々を是が非でも救わなければなりません。今後の生活はそのようなものになると、神々様にお聞きしています。つまり、神々様の下で働く生活になってくる訳です。
 残された人生は、焦らずにおおらかな気持ちで過してください。生きている世は思い通りにならぬことばかりで気苦労も絶えぬことと思いますが、それとて魂の修業であり、それぞれの方の魂のレベルですから、致し方なきことと理解しております。
 お父さん、すべては光の元に立ち還るものであって、なんら心配は要りません。どうか安心して神のみ胸に抱かれてください。あの世は、素晴らしい魂の世界です。本来の魂のふるさとです・・・・・。


 あの世からの久しぶりの手紙で、少し字句を付け加えたほうがわかり易くなる部分もありますが、その後半の一部を原文どおりに修正を加えなければこのようになります。私は、一昨年の大腸がんと動脈瘤の手術を経験したあとも、気持ちだけは努めて穏やかにすごしてきました。しかし、苦しみがなくなったわけではありません。思わず「人生の最終段階で、まだこんな辛いことも乗り越えていかねばならないのですか」と訴えたいような気がすることもあります。やはりこの世は「五濁悪世」で、生きている限りは修行のための教材には事欠かないのでしょう。霊界の潔典たちからはそういう「教材」と取り組んでいる私の様子などもよく見えているようで、それが今回の手紙になったのだと思います。私もまた、あの世からの優しい眼差しと思いやりに支えられていることにこころから感謝しながら、この世からあの世へ還るときに備えて、気持ちを整えていかねばならないようです。




          **********



   光を求め続けてきた長い道のり
      ―生活と文化をめぐる随想 (94)―                (2014.03.01)


 1992年の春、イギリスから帰国した私は、また多摩市の永山団地に住むようになった。長男の潔典が、東京外国語大学入学以来、札幌から上京して、1983年夏のアメリカ再訪まで2年間住んでいたアパートである。私のロンドンからの帰国後まもなく、そのアパートの郵便受けに、一枚の小さな「シルバー・バーチ研究会」入会案内のチラシが入っているのを見つけた。隣の団地に住むM氏の連絡先が書かれているのをみて、私はすぐに電話をかけ、M氏に会いに行った。それが、M氏との付き合いの始まりであった。

 私はその前年のイギリス滞在中、やっと『シルバー・バーチの霊訓』の重大さに気がついていた。シルバー・バーチの原書を何冊か手に入れて、その一部を自分でも翻訳したりしている。「霊訓シリーズ」翻訳者の近藤千雄氏とも手紙のやり取りをするようになっていた。これは、いろいろと今までも書いてきたが、私はそのイギリス滞在中に、大英心霊協会の数人のミーディアムに会い、十数回のシッティング(事前情報なしにミーディアムが面談者に関係する霊と交信すること)を受けてきている。私は人間の死後存続について、告げられていた事実に間違いはないか、本当に本当なのかを、何度も何度も確認ししたうえで死後の生命への確信を強めていた。初めて霊界の真実の一端にも触れることができて、渡英の前と後では、霊的真理にたいする私の態度は、180度変わっていた。永山でM氏と会ったのは、そんな時であった。

 「シルバー・バーチ研究会」を立ち上げようとしていたM氏は、東大で建築を学んだ若い建築家である。学生の頃から、精神世界に興味を持ち、座禅なども続けていたようである。シルバー・バーチや国内外の霊能者、霊的情報にも詳しかった。私はM氏とはすぐに親しくなった。しかし、「シルバー・バーチの研究会」を発足させたわけではない。ほかに会員希望者がいなかったからである。M氏と二人だけで研究会を続けてもよかったのだが、結局、研究会の発足は流れてしまった。その代わりに、M氏に誘われて参加するようになったのが、A師の「聖書研究会」である。私は1992年夏以降、M氏を車でピックアップして1時間ほど走り、毎月のように二人で国分寺市のA師の自宅の6畳間で開かれていた数人だけの「聖書研究会」に通うようになった。

 このA師が霊能者としての活動を始めたのは1983年である。私が事件で、妻と長男を亡くした同じ年であった。その後A師は1987年にアメリカのヴァージニアへ渡って、ポール・ソロモンの弟子となり、日米を往復しながらリーディングを学んだと聞く。そして、1992年5月、ポール・ソロモンが6度目に来日した際、A師へ象徴的なあり方でリーディング能力が伝えられた。たまたま、私がM氏と「聖書研究会」に通うようになった頃である。そのリーディングとは、瞑想状態に入って、霊界と交信ができる特殊能力で霊界の記録庫に書かれている内容を読み解くことであるといわれている。しかし、その当時はまだ、A師のそのような霊能力は、社会的に広く知られてはいなかった。

 私は、その前年、1991年の春にロンドン大学へ赴任する前にも、日本で数多くの霊能者といわれる人々に会っていた。これも不思議な因縁に導かれて通うようになった東京のS教団には、200人を超えるといわれる霊能者がいた。集会が開かれるたびに小さなグループに分かれて、その日の霊能者と一対一で対面することになっていた。対面する霊能者は毎回同じ人ではなかったから、S教団だけでも数十人の霊能者から霊言を聞いてきたことになる。時には、高い料金を払い、何時間も待たされて上席の霊能者たちから霊言を聞くこともあった。

 私は溺れる者が藁をも掴む思いで、霊界の妻と長男についての情報を少しでも、一言でも二言でも掴もうとして必死になっていた。しかし、何年たっても納得できるような情報は何も掴めなかった。そのほかの、霊能者がいるという教団へも何度も足を運んだことがあるが、結果は同じであった。私が妻と長男との交信で、初めてこころから納得できるようになったのは、ロンドンの大英心霊協会へ行ってからである。それまでは、数年もの間、苦しみながら無明の闇に沈んでいたことになる。

 その数年は、いま思えば確かに長かったが、しかし、だからといって、このような霊能者相手の不毛の体験を数多く重ねてきたことが、私にとっては無駄であったとは考えていない。それまでの私は、霊的真理からは全く遠い世界で生きていた。そのような私にとっては、数々の不毛の体験も魂の目覚めのためには必要であったということであろう。霊能者と称する人々は日本にも外国にも無数にいるが、霊界と本当に交信出来る霊能力の保持者は極めて稀である。異次元の家族と交信するというのは、やはり人智を越えた大変なことで、大半の「普通の」霊能者の力の到底及ぶところではない。

 一方で、霊界通信のためには、それを仲介する霊能者の霊能力のほかに、おそらくその通信を受け取る側の魂の準備が必要である。私が交信能力までは持てない「普通の」霊能者と数多く接触してきたことも、私がやがて、極めて稀な優れた霊能者と出会い、真実の霊言を受け止めるようになるための準備には役立ってきたかもしれない。イギリスでは、そのようにしてアン・ターナーと会うべくして会った。そして、日本でも、A師へと導かれていった。A師は、私の知る限りでは、極めて稀な、おそらく日本有数の優れた霊能者である。

 私はそのA師から、少人数のグループでヨハネ伝の聖書講義を受けるようになってから、約半年後の1983年11月29日に、初めてリーディングを受けている。そしてアトランティス時代からの生まれ変わりの大きな流れを教えられたりした。それ以来、毎年1回、時には2回、一度も欠かさずA師から、リーディングを受け続けている。ロンドンの大英心霊協会へも毎年のように夏休みに出かけて、アン・ターナーや他の霊能者たちのシッティングを受けてきたから、霊界通信に関するテープ類は、ロンドンと東京のものを併せると軽く100本を超えている。そのうちの一部は、霊界通信に関心をもつ人々のための参考資料としてホームページにも公開し、本にも書いてきた。

 2011年6月に学研パブリッシングから出版された『天国からの手紙』は、このような霊界通信の記録をまとめたもので、「愛する家族との18年間の霊界通信」というサブタイトルがついている。18年間というのは、1992年のイギリス滞在中から始まって、この本の出版の前年2010年までの期間である。死んだと思っていた妻と長男は、霊界で立派に生きつづけていた。その真実を疑おうにも疑い得ない形で次々につきつけられて、1983年の事件以来、悲歎から抜け出ることが出来なかった私が、初めて救われ、心の底から安堵し、神に感謝するようになってからの18年であった。

 私はこの18年間、毎年、東京とロンドンで、霊界の妻と長男の近況を尋ね、この世とは違う生活ぶりを知らされ、長男が霊的に進歩していく様子などの報告を受けてきた。ちょうどアメリカと日本で離れて暮らしていた時のように、少し遠いところに妻と長男が元気に暮らしていることに少しの疑いも持たなくなった。なぜ私たちが、あのような事件に巻き込まれ、今はこのように離れ離れで住むようになったか、その理由も教えられて、私は納得している。かつて霊的には全く無知であった私もやっと霊的に目覚めて、長い年月、学ぶべきことは学び、人々に伝えるべきことは私なりに伝えようとしてきた。そして今では、今生での使命もほぼ果たし終えたとA師から言われるようになっている。霊界では、妻や長男たちが、私の歓迎準備も進めているらしい。私の『天国からの手紙』には、そういうことにも触れて、終章には、つぎのように書いた。

 人は死ぬと、焼かれて灰になって無に帰すると考えるのは、無知である。愛する家族が亡くなって、もう決して会うことも話し合うこともできないと嘆き悲しむのは、間違いである。私は、富子と潔典を大韓航空機事件で失って以来、長い年月、その無知と間違いのなかで生きてきた。そしていまでは、無知であること、嘆き悲しむことの間違いの恐ろしさを、痛いほどに思い知らされている。
 人は死なない。というより、死ぬことができない。愛する家族も死んではいない。いまも生きつづけている。話し合えないことも決してない。ただ、そのことを知らずに、死んだらすべては終わったと諦めて、愛する家族をみずから忘却の彼方へ押し流し、話し合おうとはしない人たちが、おびただしくまわりにはいるだけである。
 確かに、その姿は目の前には見えないかもしれない。しかし、もう永遠に会えない、となぜ思い込むのか。話し合うこともできないと、誰がそう言ったのか。「死んで」しまったのだから、本当にもう会うことも話し合うこともできないのか。それを自分で確かめたのか。
 いまでは、私は、溢れるような思いも抑えて、そう問いかけることができる。・・・・・・・

 事件以来の長い道のりを、とぼとぼと歩き続けているうちに、その間に書いてきた小冊子、雑誌、本の原稿や霊界通信などの記録はいつのまにか、相当な量に達している。霊界通信にしても、もしかしたら、このように18年間も続けてきた記録は、あまり例がないかもしれない。おまけに、『天国からの手紙』には、編集を手伝ってくれた宇田依里子さんが、膨大な霊界通信の記録を整理して「現家族の過去世における関係性」という「付表」作成してくれている。お蔭でここでは、アトランティス時代から現代に至るまで、世界の様々な国で、私や家族がどのように生まれ変わってきたかを一覧することができるようになった。これも、多分あまり例のないことで、生まれ変わりを理解するための一助になればと思うが、逆に、霊界通信を批判するための「検討資料」として使っていただいても、無駄ではないかもしれない。

  おそらく、このような私の霊界通信の記録も、愛する家族を失って悲歎に暮れている人々の足元を照らすかすかな「ともし火」になってくれるであろうことを期待している。死んだと思っていた人が霊界で元気に生き続けていることを知ることほど大きな喜びがあるだろうか。それでも一方では、霊的真理などというものを頭から毛嫌いして受け付けようとしない人々も決して少なくはないことを私はよく承知している。あるいは、霊的真理を受け容れる準備が出来ていない人たちもいるであろう。そういう人たちにも、真理に至るひとつのアプローチとして、反論や批判のための一読を、私はまずお願いしてみたい気がしてならない。私はただ、世間の多くの人々に、かつての私のような霊的真理から外れた無知と悲歎の徹を踏まないようにと、願い続けるのみである。




          **********



  人類共存のための未来への展望 ― EUからAUへ
        ―生活と文化をめぐる随想 (93)―                (2014.01.01)


 人類はみな互いに兄弟である。仏教やキリスト教などを含めて、古来、さまざまな宗教のなかでも一様に教えられてきたこの単純な真理は、しかし、現実にはなかなか真に理解されることが難しい。その一つの証左が、21世紀の現在でも、世界各地で戦乱が絶えないことであろう。世界中で、殺し合いや奪い合いが、相変わらず横行しているのも、「人類はみな兄弟」が、ほとんど空文化されていることを示している。いったい、どうすれば、この真理が人々のこころに沁みていくことになるのであろうか。アメリカの精神科医ブライアン・ワイスは、ある時の退行催眠のなかで、「衝撃的でしかもわかりやすいイメージ」によって、この「人類みな兄弟」の真理をはっきり見せられた、とつぎのように述べている。

 まず、小さな四角い氷で一杯の大海原が見えました。四角い氷は一つひとつ別個で、お互いの間にははっきりとした境界があります。それでも、みんな同じ凍りそうな水に浮かんでいました。すぐに水が暖かくなり、四角い氷は溶けました。みんな水なのです。どの四角い氷も、海の中の他の四角い氷とつながっていました。そして熱がさらに加えられ、水は沸騰し始め、水蒸気に変わりました。間もなく全部が音もなく、目にも見えない水蒸気になりました。でも、水蒸気は、かつて水だったもの、四角い氷だったものを含んでいます。氷、水、水蒸気の間の唯一の違いは、分子の振動エネルギーだけなのです。人間は自分自身を、四角い氷のように、物質的に分離したものと考えています。しかし実は、私達はみなお互いにつながり合っている、同じものなのです。(『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳) PHP研究所、2001年、p.320)

 この「人類はみな兄弟」は、身近にある簡単な数字の上でも考えることが出来る。たとえば、いま私がここにいるのは、私に父と母の二人の親がいたからである。その父と母がいたのは、父にも母にもそれぞれ二人ずつの親がいたからである。このようなつながりを長い年月たどっていき、一世代を30年として計算すると、どうなっていくであろうか。

 10世代前(300 年前)で、二親の数は、2,048人になる。20 世代前(600年前)では、2,097,152人となり、もう少し遡って24世代前(720年前)になると、二親の数は、3千3百50万人を超えてしまう。日本の江戸時代の人口は、2千6百万から2千7百万人といわれているから、その江戸時代の人口をはるかに超え、さらに、26世代前(780年前)になると、二親の数は1億3千4百万以上になり、現在の日本の総人口をさえ、軽く超えてしまう結果になる。

 もちろん、実際には、人口は過去に向かって縮小し、逆に、未来に向かっては時代が経つにつれて増えていくのが普通だから、このような親の数の増加は、現実にはありえない。これはどう解釈すればよいか。この矛盾を説明できる合理的な根拠は、「人類みな兄弟」だけである。人間というのは、数が増えても、実はそれぞれが同じ大家族の一員であり、みんなが兄弟であることにならざるをえない。

 この単純な真実を語ることは、このように、とても簡単なように思われる。しかし、世俗的な煩悩にまみれた心にとって、この真実を肌身で感じていくのは、決して簡単ではない。これもまた、霊的真理の一つで、われわれは霊界へ赴いてはじめてこころから納得することになるのであろうか。かつて、コナン・ドイルも、霊界へ還ってからの通信で、「霊界にいる私たちは、ついにこの真実を理解するに至り、宇宙の同胞愛を感謝の気持ちで信頼し、その愛を分かち合い、一緒に安らかに生活しているのです」と述べている。そして、「人々と国々のあいだの同胞愛の必要性をここで再び強調したいと思います」と、つぎのように伝えていた。

 ・・・・・同胞愛以外の生き方などというものは、世界が歩むべき道の選択肢として開かれてはいないのです。現在、世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在しています。誰も譲ろうとせず、お互いを恐れています。ビジネスの世界では、一人一人が自分の分け前を確保しようとして、同胞と戦っています。このような生き方は、人間をどこに導いていくのでしょうか。安定でもなければ、永続的な繁栄でもないことは確かです。それどころか、文明がこれまで一生懸命築きあげてきたものすべての崩壊につながることでしょう。(アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』大内博訳、講談社、1994年、pp.279-280)

 シルバー・バーチも、この「人類みな兄弟」については、くりかえし、いろいろと述べている。結局、われわれが本当に必要としているのは、宗教の根幹をなす単純な真理を知ることだけである。そして、その真理とは、「人類はお互いがお互いの一部であること、そして肌の色の違いの内側にはすべてを結びつける共通の霊的な絆があるということ」であると、教えている。われわれ人間が、互いに差別し合い、潜在する一体性に気がついていないから、自分たちが霊界から降りてきて、その事実を教えているのだ、と言ったこともある。それをさらに、次のような表現で強調している。

 四海同胞、協調、奉仕、寛容――こうした精神こそ人生の基本であり、これを基礎としないかぎり真の平和はあり得ません。持てる者が持たざる者に分け与えることによって互いに奉仕しあい、睦みあい、援助しあうこと――この単純な真理は繰り返し繰り返し強調しなければなりません。これを個人としての日常生活において、民族としての生活において、そして国家としての在り方の中において実践する者こそ、人間としての本来の生き方をしていることになる――これだけは断言できます。(「学びの栞A」52-b)

 人間の歴史をざっと振り返ってみても、主に中世から近代にかけて、数多くの国々で、地方の豪族や領主の群雄割拠などから、徐徐に中央の統一国家への統合に向かった道を歩んできた。イタリヤ、スペイン、フランス、ドイツ、オーストリアなどのヨーロッパ各国もそうであったし、アジアでも、広大な中国を含めて、韓国も日本も例外ではない。東南アジアやインドなど、ヨーロッパ列強の植民地にされた国々も、独立こそ20世紀にまで延びたが、民族国家としての意識は高められてきたといっていいだろう。しかし、戦争は何時の場合もなくならなかった。むしろ、かつてはどこでも内戦が主であったものが、規模の大きな国家間の対外戦争に取って代わられるようになって、その惨禍も加速度的に大きくなっていった。「人類はみな兄弟」とは、逆の方向に進んできたようにも思える。

 問題は、国家そのものにあるのかもしれない。国家は、どのような国家であれ、常に自国の利益を最優先に考え、国益を守ろうとする。国益を守るというのは、どの国家でも当然のことで、どの国民も決して自国の国益を守ることに異を唱えることはなく、それは至上命令でもある。しかし、その国益とはいったい何であろうか。自国の利益を守るためには、他国は犠牲にしてもやむをえないという国のエゴではないのか。だから、それぞれの国家が国益を主張していけば、国家のエゴがぶつかりあって、当然のことながら、そこで衝突が起こる。現在の世界での国際紛争というのも、大なり小なり、その国家のエゴが醜くぶつかり合っている姿であるに過ぎない。そして、その状態が続いていく限り、これも当たり前のことであるが、人類が共存していく展望は開けることはない。われわれは、いまでは、その国家の枠を超えていくことを考えなければならないのではないか。

 一つの希望は、ヨーロッパで形成された EU(European Unionヨーロッパ連合)である。フランスとドイツなどいがみ合ってきた敵対国同士や利害が対立する国々をも含めて、国家を超えた一つの共同体が作り上げられてきた。ヨーロッパ共通通貨の「ユーロ」を全域に流通させて、将来的には国際的な政治統合へ向かおうとしている。加盟国も、1967年の発足時は、ベルギー、西ドイツ、フランス、イタリヤ、ルクセンブルグ、オランダの6か国であったが、1973年には、デンマーク、アイルランド、イギリスの3か国が加わり、2004年には、キプロス、チェコ、ハンガリー、ポーランドなどの東欧諸国10か国も加盟した。その後も加盟国は増え続けて、今年2013年に加盟したクロアチアを含めると、現在の加盟国総数は28か国にもなる。

 もちろん、EUができたからといって、これで紛争がなくなるわけではないだろう。ヨーロッパ連合内部でも、経済格差や価値観の違いなどを含めて、これからも乗り越えていかねばならない壁がいくつも立ちはだかっている。さまざまな制度的な調整や歴史・文化の違いに対する相互理解をさらに深めていくことも必要である。しかし、おのおのの国家のエゴを越えて、周辺の国々との共存を図っていく為には、このヨーロッパ連合は、明らかに画期的で有効な第一歩を歩み始めているというべきである。われわれはこれを見習い、アジアにもあてはめて、とりあえず、中国、韓国、日本を中核にしたAU(Asian Unionアジア連合)を考えていくことは出来ないものであろうか。

 ヨーロッパ文化はキリスト教文化であるといわれるように、ヨーロッパでは、古来、Christendom (キリスト教世界)という共通の精神的基盤があった。このキリスト教世界の基盤がヨーロッパ連合の重要な支えになっているのは言を俟たない。いまでは、さらに、そのキリスト教世界の基盤に、トルコなどのイスラム圏の国をも受け容れられるかどうかが検討されている。同様に、中国、韓国、日本にも、共通の精神的基盤がある。漢字文化と仏教、儒教の宗教的、道徳的背景である。それぞれに、その影響度は同じではないが、これらの精神的、文化的基盤の上に立って、共同体を目指していくことは、決して不可能ではないはずである。国家間の紛争をなくしていくことにもつながり、人類の共存のための方向性を示すことにもなる。現在の中国との間の尖閣諸島の領有問題や韓国との間の竹島の所属の問題など、おのずから解消の方向に向かっていくのではないであろうか。

 もう一つ、中国、韓国、日本には、人種的な背景を考える上で、近年の集団遺伝学のDNA鑑定などが明確にしてきた重要な指標がある。 たとえば、現在の日本人のDNA鑑定で明らかにされたところによると、中国・韓国系が最も多くて51パーセント、次いで多いのは沖縄系で16.1パーセント、そのあとアイヌ系の8.1パーセントが続いて、それ以外の21パーセントを除くと、日本人固有のDNAを持っている人の割合は、わずか4.8パーセントにすぎないことが判明している。(NHKスベシャル「遺伝子・DNA」B「日本人のルーツを探れ」1999.5.4) つまり、現在の日本人の2人に1人は、中国・韓国系で、「人類みな兄弟」という大家族のなかでも、日本人にとって、中国・韓国人はもっとも身近な血縁であることが判明している。

 周知の如く、すでに東南アジアでは、東南アジア諸国連合(Association of South-East Asian Nations)があって、東南アジア10か国の経済、社会、政治、安全保障、文化に関する地域協力機構として影響力を持ち始めている。1967年にタイ、フィリッピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアなど、反共主義の5か国で発足して以来、1995年には、ベトナム共産党による一党独裁が続くベトナム社会主義共和国をも迎え入れるようになった。その後、軍事政権のミャンマーやベトナムの影響力の強いラオスやカンボジアが相次いで加盟したことにより、現在では10か国の共同体になったのである。このような趨勢をわれわれは重く受け止めていかねばならないであろう。中国は社会主義国で韓国は36度線で北朝鮮と対峙しているなどの、いろいろな困難があるにしても、やはり、われわれは、将来の「アジア連合」という共同体の創設を、ただ単に、浅はかな空論として片付けるべきではないように思われる。

 アメリカ大陸でも、たとえば「アメリカ連合」ができるというように、このような国家を越えた共同体が地球上に広がることによって、少しずつでも、国家エゴから離れて、共同体の仲間を思いやる心を広げ、利己から利他へと精神的「進化」を遂げていく。そのことが、おそらく、これからの人類共存を考えていくためには、欠かせないステップになっていくのではないか。

 前掲のコナン・ドイルが指摘した「世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在」している状況は、いまも変わっていない。むしろ、悪化しているようにさえみえる。人類を幸せに導いていくはずであった資本主義の世界の中で、人々は物質的・金銭的欲望を果てしなく募らせて、同胞を押しのけ、隣人と闘い、地球上の経済的格差をかつてないほどに広げてきた。このような生き方が、われわれに平和と永続的な繁栄をもたらすはずはない。いつかは必ず行き詰って、資本主義も崩壊するであろう。われわれが共存していける道はおそらくただ一つ、「人類みな兄弟」の原点に立ち返ることである。繰り返しになるが、時間がかかっても、国家の枠を越えた「共同体」を世界各地に創りあげ、国家エゴに振りまわされることなく、利己よりも利他のこころを広めていくことが、人類の未来への展望を拓いていくことになる必須の条件であると思われてならないのである。



          **********



   私たちが平和に共存していくために
     生活と文化をめぐる随想 (92)―        (2013.11.01)


 黒沢明監督のオムニバス映画『夢』のなかの第8話は「水車のある村」となっている。そこにはこの世のものとは思えないほど美しい川が流れていて、私は、この映画を見たとき、こんなに美しい川が本当にあるのだろうか、と思ったりした。長い間、この川を一度見てみたいと思ってきたが、やっと現場に足を運ぶことができたのは、2012年の1月のことである。(「寸感・短信」No.19に写真)

 この「水車のある村」の撮影現場は長野県・安曇野の万水川(よろずいがわ)と蓼川(たでかわ)の合流地点付近である。「水車のある村」がここで撮影されたのは、1989年5月のことであった。5月のこの辺りの風景は、川辺の草花や木々の緑が美しく、水の流れもおそらく勢いを増して、そのなかには、あの映画に出てくるような大量の水草が清流になびいている様子が見られるのであろう。水草は、私が行った1月にも青々としていたが、水の流れはやはり5月ほどには、速くはなかった。

 映画の「水車のある村」は、美しい川のそばで、水車の環の一つを修理している103歳の老人に、村を初めて訪ねてきた若者が話しかけるところから始まる。その村には電気はない。水車小屋のランプを見て、若者が「夜は暗くはないですか」と聞くと、老人は「暗いのが夜だ。夜まで昼のように明るくては困る。星も見えないような明るい夜はいやだね」と答える。その村では、田畑の耕作にも牛や馬を使って、耕運機やトラクターなどもなかった。「燃料には何を使っているんですか」と若者が聞くと、「おもに、薪を使っている。生きている木を伐るのは可哀そうだが、枯れ木もあるから、おもにそれを伐って、薪に使っている。牛のフンもいい燃料になる」と老人は答える。そして老人はゆっくりと独り言のように続けた。

  ――私たちは自然の暮らし方をしたいと思っている。近頃の人間は、自分たちも自然の一部だということを忘れている。自然があっての人間なのに、その自然を乱暴にいじくりまわして、もっといいものが出来ると思っている。特に学者には、頭はいいのかもしれないが、自然の深い心がさっぱり分からないものが多いので困る。そういう連中は、人間を幸せにするというものを一生懸命発明して得意になっている。また、困ったことに、大多数の人間たちは、その発明を奇跡のように思い、有難がって、その前に額ずく。そして、そのために自然が失われる。いまの人間が一番大切なものは、いい空気やきれいな水、それを作り出す木や草なのに、それは汚され放題、荒れ放題、空気や水は人間の心まで汚してしまう・・・・・・

 映画では、ここで川の向こうから、にぎやかな笛・太鼓の音が聞こえ始める。それに気がついて、若者は「お祭りがあるんですか」と訊く。老人は答えた。――いや、あれは葬式だよ。・・・・・・あんたはヘンな顔をするが、本来、葬式はめでたいものだよ。よく生きて、よく働いて、「ご苦労さん」と言われて死ぬのは、めでたい・・・・・ この葬式は、この103歳の老人の初恋の人が99歳で亡くなったので、村中で「お祝い」をしているのだという。そして、老人もその賑やかなお祝いの「葬列」に参加するために出かけるところで、この作品は終わっている。

 これは、あくまでも黒澤監督の作品「夢」の一部であって、現代社会とはかけ離れた「未開」社会の、それこそ夢物語のように思われるかもしれない。しかし、実は、このようにして現代文明から離れたところで、自給自足の生活をしている「未開人」といわれている人たちが、世界中のあちらこちらに今でもいる。たとえば南米ブラジルのアマゾンの森の中にはヤノマミ族がいて、村の周りに畑を作り、森の小動物や近くの川の魚を食べて自給自足の生活をしている。それを「文明人」たちが、森を切り開き、川に金採掘の水銀を流したりして、彼らの生活を脅かしている状況が現在も続いているのである。

 現代文明から離れて住んでいるのは、「未開人」ばかりではない。現代のアメリカのペンシルベニア州に住んでいるキリスト教徒の一団もそうである。アーミッシュと呼ばれるこの一団は、18世紀にヨーロッパから移住してきて以来、移民当時のキリスト教徒としての厳しい生活習慣をいまも守って、「水車の村」そのままの、自給自足の生活を送っている。電気、ガス、水道といったものはなく、テレビや洗濯機などもなく、自動車や耕運機などの機械も使わない。水車を利用し、馬車を走らせ、家畜とともに生き、子供たちの教育も村の独自の学校で行っている。私たちは、電気も自動車もないと聞いただけで、それではさぞ生活が不便であろうと考えがちだが、そのような彼らは、贅沢もできずに果たして不幸なのであろうか。

 このアーミッシュの学校で、アメリカでよく起こる銃乱射事件が起こったことがある。2006年10月2日のことで、村の周辺に住む32歳の男が学校に侵入して、少女ばかりを教室の片隅に集めて、5人を射殺し、6人に重軽傷をおわせたのである。男は銃を乱射したあと、自分も自殺した。その男がなぜアーミッシュの学校を選んだのかは明らかではないが、生き残った少女たちの証言から、乱射の状況が明らかにされた。それを伝えた当時のアメリカのメディアは、「女の子の驚くべき勇気」とか「慈悲の深さは理解を超える」などと大きく報じた。

 まず、犠牲者のなかで最年長であった13歳のマリアン・フィッシャーさんである。教室に残された10人の女児を容疑者が撃つつもりと分かった時、彼女は「私を撃ってほかの子は解放してください」と言って進み出た。それをマリアンさんの妹で、病院で意識を回復した11歳のバービーさんが話している。そのバービーさんも、「その次は私を」と言った。マリアンさんは撃たれて死亡し、バービーさんは肩に重傷を負った。亡くなった中には、マリアンさんのほか、12歳、8歳と2人の7歳の女児も含まれていた。

 容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、同じ地域に住んでいたらしい。それだけに、これだけの大きな殺傷事件を引き起こした容疑者の家族たちは、身の置き所もない思いであったろう。ところが、アーミッシュの人たちは、この家族を事件の夜から訪ねて赦しを表明し、手をさしのべたというのである。遺族の一部は容疑者の家族を子どもの葬儀に招いたとさえ伝えられている。アメリカはキリスト教の盛んな国であるが、このようなキリスト教徒の姿は、決して一般的ではない。悲嘆にくれる中にも暴力を愛と赦しで包み込むアーミッシュの人びとの生き方は、キリスト教社会のなかの信仰のあり方にも、大きな落差を示すことにもなった。

 アーミッシュの人たちが物質至上主義の現代的な暮らしを退けるのは、キリスト教徒として、モノよりもこころを重んじるからであろう。誰も「神と富とに兼ね仕えることはできない」からである。銃の横行に象徴されるような「力」を信奉するアメリカ社会のなかで、一切の暴力を排する生き方を貫こうとするのは、忠実に聖書の愛の教えを守ろうとするからであるに違いない。「だれかが右の頬を打つなら、ほかの頬をもむけよ」とイエスは教えた。

 そして、彼らが、死後の世界への強い信仰をもっているのも、イエスの教えを正しく理解すれば、当然の帰結であるといえる。本来のイエスの教えとは、人間が霊的存在であり、霊であるからこそ永遠であるという真理を中心に据えたものではなかったであろうか。問題は、むしろ、同じキリスト教徒でありながら、或いは、キリスト教徒でなくても、仏教徒などをも含めて、「慈悲の深さは理解を超える」と驚いている側にあるのかもかもしれない。現代文明社会の経済発展至上主義、モノとカネへの飽くなき追求は、人々の幸せをもたらせるどころか、人々の平和な暮らしを破壊し、心の闇を深めているように思える。かつて、シルバー・バーチは、このように言った。

 《地上人類は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく― 言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それ故に人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時はじめて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう。》(『シルバー・バーチの霊訓 (11)』 p.54)

 この「物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ」ている状況は、いまのアメリカ社会の一部の富者の間で特に顕著である。文明の高度の発達は、彼らに「金融工学」という特異分野を開発させ、高度の数学とコンピュータ技術を駆使して、座したまま莫大な利益を生み出す仕組みを作り上げている。もう10年以上も前から、世界のなかの1パーセントの富裕者が世界総資産額の40パーセントを保有し、上位10パーセントの富裕層では、その占有率は85パーセントに達するといわれてきたが、この極端な富のアンバランスは、いまはもっと広がっているであろう。そして、さらにこれからも、年々広がり続ける気配である。

 しかし、この一部の富裕層の「物的利己主義と貪欲と強欲」は社会の許容範囲の限界に近づいているといえるであろう。あるいは、すでに限界を超えてしまっていることに人々がまだ気がつかないだけなのかもしれない。去る10月13日のNHKスペシャルでは、中国の経済の高成長が生み出してきた貧富の格差の増大に人民の反撥が高まっているのを抑えるため、政府が宗教を利用し始めたことが、伝えられていた。かつては弾圧の対象であった儒教を認め、「他人への思いやり」や「利得にとらわれない心」を重んずる儒教で、人民の不満を押さえ込もうとしているのである。キリスト教も許容して、公認教会のほか「家庭教会」も増えて、いままで600万人くらいであった信者も、最近では1億人にも達しているらしい。「拝金主義」では人間は幸せにはならないことを、多くの人々が強く実感し始めるようになってきたともいう。(「中国激動(2)」)

 この貧富の格差の増大に不満をもつ人々の状況は、アメリカの場合、多分、もっと深刻である。かつて、ベトナム戦争に反対する若者たちを集めて開かれた1969年8月のウッドストック・コンサートは、空前の規模に膨れ上がって聴衆が40万人にも達した。このあと、11月13日からは、アメリカ各地で計100万人以上が反戦デモを行い、15日には首都ワシントンでの反戦集会に、全国から25万人が集まった。首都にこれだけのデモ参加者が集まったのは、アメリカ史上初めてのことである。反戦運動に熱心なのはアメリカ社会の弱者である貧困層である。いまアメリカではその貧困層の人々が、社会の極端な貧富の格差に苦しみ悩まされている。ちょっとしたきっかけで、今度は、反戦運動の時よりももっと広範囲に、貧困層の人々が社会の不公正を訴えて立ち上がっていくのではないか。私にはその日が、あまり遠くではないような気がしてならない。

 第二次世界大戦後、アメリカに伍する超大国として君臨したソビエト連邦は、1991年の12月25日に崩壊した。1917年11月7日のロシア革命以来、74年後のことである。これは、社会主義の限界を露呈したものにほかならないが、しかし、だからといって資本主義が正しいのだという証明にはならない。むしろ、今のように「物的利己主義と貪欲」にまみれたままでは、やがて資本主義も行き詰るはずである。中国で「拝金主義」への反省が高まっているように、モノと金銭への飽くなき追求が、私たちを決して幸せにするものではないという認識が世界中に広がっていかねばならないであろう。時間はかかっても、「人類はみな兄弟」であることに目覚め、互譲と利他の精神で格差のない社会を謙虚に目指していく以外には、私たちの未来はないのである。




            **********


  大韓航空機事件から30年を生き長らえて  
       ―生活と文化をめぐる随想 (91)―                (2013.09.01)


 毎年、「9月1日」が近づいてくると、きまって潔典(きよのり)の東京外国語大学時代の親しかった友人たち四人から電話がかかってくる。今年もかかってきた。潔典と母親の霊前に花を供えて、私や長女の家族たちと食事を共にする打ち合わせのためである。私が入院生活をしていた昨年を除いて、この「偲ぶ会」は、事件の年の葬儀以来、途切れることなく続いてきた。「十年一昔」というが、その「一昔」も3回繰り返されていることになる。事件のときに潔典と同じく21歳前後であった彼らもいまでは50歳を越えている。博士号をとって大学で教えているT君をはじめ、三省堂『ウィズダム英和辞典』の編集委員なども務めるようになったY君など、それぞれに社会の各分野の第一線で活躍している人たちである。そして、その時53歳であった私も83歳になった。私自身も、事件以来の、暗黒の絶望と悲しみから深い安堵と感謝への大きな変化を、その30年の間の心の年輪に刻み込んできたといえるかもしれない。

  あの「世界史の転換点」といわれた大韓航空機事件が起こったのは、ちょうど30年前の1983年9月1日(日本時間)であった。私はその当時は、ノース・カロライナ州立大学の客員教授をしていた。同じ大学の留学生であった長女と二人だけの夕食をとって、その後片付けをしていた時である。午後7時のテレビで、前日の夜にニューヨークを離陸したKAL007便が行方不明というニュースが繰り返して流れ始めた。そのKAL007便には、妻・富子と長男・潔典が乗っていた。夏休み4週間を家族四人水入らずで過ごして、帰国の途中だったのである。私と長女は、一瞬にして悲歎のどん底に突き落とされた。

 必死になってテレビと電話にかじりついているうちに、午後10時過ぎには、CBS テレビの番組が一時中断されて、「KAL 機はサハリンに不時着した模様だと」と伝えた。それは日本でもニュースで伝えられたらしい。東京の私の姉や、富子の妹からの国際電話で「サハリンに不時着して、乗客は全員無事」を知らせてきた。私は涙をこぼして「無事」を喜んだ。しかし、このニュースはその後、深夜の東京からかかって来た富子の弟からの電話で否定された。日本の外務省の問い合わせに対して、ソ連政府が、「サハリンに民間機が不時着した事実はない」と通告してきたというのである。地上にいなければ洋上に落ちるしかない。遭難は確実になった。私と長女は、また奈落の底に突き落とされてしまった。悲しみと苦しみで意識が朦朧とするなかで、私たちは、その翌日、日本へ向かった。

 日本へ帰ってからも、私はほとんど寝たきりになっていた。目を覚ますと、妻と長男が居なくなった事実に耐え切れなかった。一度、アメリカへ戻って、私はノース・カロライナ州立大学での講義を続けることで、長女は忙しい学業に追われることで、なんとか立ち直ろうとしてみたが、できなかった。私たちは、すべてを諦め、日本へ帰国した。札幌の自宅で、また、寝たきりのような状態が続いた。富子と潔典が乗っていた飛行機がソ連の戦闘機に撃墜されたというのは、いったいどういうことなのか。毎朝私は、目を覚ます度毎にその問いを突きつけられながら、それに答えるのをひたすらに避けようとしていた。私にはその「事実」を真正面から受けとめる気力はなかった。現実とは遊離した仮空の世界を自ら作りあげ、その中に逃げこむことによって、辛うじて生きながらえていたのである。私は生きることに絶望していた。前途にはなんの希望ももてなかった。

 翌年(1984年) の4月から、小樽商科大学へ復帰して教壇に立つようになったが、苦しい日々が続いた。しかし、どんなに苦しくても、私にはしなければならない仕事があった。富子と潔典が生きた証を本にして残しておくことである。 潔典は東京外国語大学の四年生になっているはずであった。その翌年の春には卒業で、友人達とも離ればなれになってしまうから、本を作るのなら、そうなってからでは遅い。こういう時に本一冊作れず、仮空の世界に身をおいたままでは、何が夫の甲斐性か、何が父親の愛情かというような声も頭の中をかすめたりする。私はもうこれ以上富子と潔典に対して「罪」を重ねることは出来ないというような切羽詰った気持で、呻くようにして、追悼の書の編集に取り組み始めた。半年ほどをかけて、1984年11月に上梓した『妻と子の生きた証に』(北都出版)の「あとがき」に私は、その一部をつぎのように書いた。

 《今この本をまとめ終え世に残すに当って、私の全身を突き抜けていくのは、すさまじいばかりの空しさである。いったい何が始まり、何が終わったというのか。私の命にもかえがたいもの、私にとってのすべてが失なわれたあとでは、何ごとの始まりもなく、終わりもない。あるのは依然として広漠とした「無」の世界のひろがりだけである。私はこれからもまた、現実と仮空の世界の中を行ったり来たりさまよいながら、惜しくもない余命を惰性的につないでいくことになるのであろうか・・・・・・・》

 この「惜しくもない余命を惰性的につないでいく」なかで、私には遺族としてどうしても果たしていかねばならない責任もあった。事件の真相究明である。あまりにも不可解で理不尽な事件であっただけに、ただ嘆いてばかりでいることは許されなかった。たった一人でも、真相究明に立ち上がらねばならなかった。悲歎に暮れながらも事件について調べていくのは二重の苦しみであったが、事件から1周年の1984年8月30日と9月1日には、「北海道新聞」に「消えない疑惑」 (上)(下)を書いた。それ以来、私は、事件はアメリカ軍部の謀略によるものであることを、機会あるごとに新聞や雑誌に書いて訴え始めた。マスコミや国会議員などへ訴えるために、B4版の広報紙「APPEAL」を毎週一人で発行するようにもなった。

 その翌年、1985年には、私は「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」(岩波書店「世界」1985年10月号)を書いた。このなかで、私は、KAL007便が故意に航路を逸脱し、サハリン上空付近では右旋回、左旋回して3千フイートもの高度変更まで独断で行っていた事実を、公開した。日本の防衛庁がひた隠しにしてきたこの稚内レーダーの記録を、秦豊参議院議員が再度の質問主意書を提出して、日本政府に認めさせたのである。日本政府は、事件直後には「真相究明」を満場一致で可決した国会の議決がありながら、おそらく、アメリカ政府の謀略が明らかになるのを怖れて、終始、真相を覆い隠す側にまわっていた。同じ頃に出版した『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)の「告発」の章のなかでは、私は、こう書いている。

 《真相ははじめからわかっていた。ただ、それを、日韓を含めたアメリカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない・・・・・・・
 私たちは、だんだんとアメリカ政府の「犯罪」について確信を強めていった。
 毎月1日の「抗議の日」には、大韓航空やソ連に対する抗議電報のほか、レーガン宛にも抗議電報を打ちはじめた。抗議の手紙も毎月、ワシントンのホワイト・ハウスへ送りはじめた。
 黒く巨大な、おどろおどろしいものに対しては蟷螂の斧であるかもしれない。
 しかし、私は富子の夫であり、潔典の父である。
 富子の夫として、これからも明らかにすべきことは人道と正義のために明らかにし、潔典の父として、訴えていくべきことは世界の良心に訴えていこうとするであろう。
 それが、生き残った私の、死ぬこともできないでいる私の、せめてもの、妻と子に捧げるレクイエムである。》

 私は、事件の翌年に東京に設立された「大韓航空機事件の真相を究明する会」の定例会議や研究会のために、札幌から東京へ毎月のように飛行機で往復するようになっていた。1986年の春には小樽商科大学を辞職して東京の女子短大へ移った。地位や名誉のようなものには、もう何の関心も未練もなかった。「究明する会」では、国会議員、社会運動家、航空機技術者、評論家などさまざまな職種の会員の方々が熱心に研究活動を続けて、1988年1月には大冊の『大韓航空機事件の研究』(三一書房)を出版した。この本では、内外の研究書などの分析・紹介などに加えて、アメリカの軍部と情報組織が、ソ連の電波探知能力や防空態勢を探査するために、007便の機長に強制してサハリン上空に侵入させたことが強く疑われる根拠を様々な資料や証言で示している。毎年9月1日には、憲政会館や衆院議員会館などで、記者会見を開いて声明を発表することもしてきた。そして、その「真相を究明する会」の活動を、私は、1991年春に、ロンドン大学客員教授としてイギリスへ行くまで続けた。

 事件以来、すでに8年も経過していたが、悲しみの後遺症はまだ深く残っていた。真相究明活動の傍ら、仏典や聖書を読み、東京では、霊能者が200人もいるという S 教団にもかなり頻繁に通ったりしていた。悲しみを乗り越えるための何かを掴もうとして必死に暗中模索をしていたが、結局、何も掴めず、心の安らぎも得られなかった。ロンドンでもその状態はしばらく続いた。私はその不安定な渇望の心理状況を、日本心霊科学協会の機関紙「心霊研究」(1992年1月号)に「祈りへの道」というタイトルで書いた。一つの希望は、その頃から、シルバー・バーチの本を熟読するようになったことである。その書かれていることの重大さに気づいて一部を自分でも和訳したりしているうちに、『霊訓』の翻訳者・近藤千雄氏とも文通するようになった。

 やがて、1992年1月の半ばも過ぎて、そろそろ帰国の準備を始めねばならなくなった頃、私はようやく大英心霊協会へ通うようになった。ここで何かを掴めなければ、私は死ぬまで救われないという切羽詰った気持ちであった。私はスピリチュアリズムの本を読み、デモンストレーションに参加してこころの準備を整えた上で、霊能者の前に座るようになった。そして1992年2月11日、私は霊能者のアン・ターナーに会って、大きな転機を迎えたのである。死んだはずの富子と潔典が生きていることを確信した。彼女には二度、三度会って確認したが間違いはなかった。奇跡が起こったとしかいいようがなかった。この「奇跡」についてはいろいろと書いてきたのでここでは触れないが、私は長年の悲歎と絶望から初めて解放され、暗い死の淵から甦ったような明るい気持ちになったのである。いまにして思えば、私は行くべくしてロンドンへ行き、会うべくしてアン・ターナーに会ったということであろう。

 4月に帰国して、私は大韓航空機事件「遺族会」の何名かに会った。みんな私と同様に、この事件で家族を亡くして悲歎に暮れていた人たちである。みんなは私の表情の変化に驚いたかもしれない。しかし、犠牲者は「死んではいない」のだと熱心に説く私の話には、やはり半信半疑であったようである。その後も電話で話し、書いたものを送り続けたりしたが、やはり、なかなかわかってもらえなかった。信じるべきことでも信じられないというのは致し方のないことである。霊的な真理を受け入れるには、その用意ができていければならないということであろうか。私はいわば、「疑う側」から「疑われる側」にまわったが、そのようにして生じ始めた周囲との心理的なギャップは、やがて身のまわりの家族や親しい友人たちにも及んでいったかもしれない。大学の古い教え子の何人かも、私から離れていった。

 しかし私は怯まなかった。挫けてもいいことではなかった。私はロンドンでの確信をさらに補強していくために、それからも毎年のようにロンドンの大英心霊協会へ通った。アン・ターナーとも何度も会い、日本でも、霊能者のA 師を通じて富子と潔典からの通信を受け取るようになった。彼らが霊界で元気に生き続けていることへの確信は、揺らぐことはなかった。私はそのことを小冊子や本に書き、講演会で話した。2003年3月からは、ホームページ「ともしび」を開設して、日曜日を除いてほぼ毎日、霊的真理を中心に原稿を書き、公開を始めた。その時点で、事件後すでに20年が経過していた。ロンドンの大英心霊協会で、「あなたは霊的な教師になる」と言われたことがあったが、或いはそれが一部でも事実になったのかもしれない。

 その年、2003年の9月1日には、事件20周年の慰霊祭が稚内・宗谷岬の「祈りの塔」の前で行われ、私も参列した。過去何度かの慰霊祭では、悲しみに耐えかねて式場で倒れそうになったこともあったが、20周年の時の私には、もう、かつての悲しみはなかった。長年にわたって真相究明運動をしながら、アメリカ大統領レーガンや国務長官のシュルツ、国防長官のワインバーガーなどへ抗議電報や手紙や声明で投げかけていた激しい憎しみも、いつの間にか消えていた。慰霊祭での記者会見で遺族たちが、ほとんど異口同音に、「何年経っても悲しみは消えることがありません」と答えているのを、私は黙って聞き流していた。

 さらに月日が流れて、一昨年、2011年6月に、私は『天国からの手紙』(学研パブリッシング)を出版した。それまで続けてきた、霊界の富子や潔典との18年間にわたる霊界通信を公開したものである。これは私にとってもちょっと不思議な本であった。本の出版には、通常、出版が決まるまでが大変だし、決まってからも、修正、校正などさまざまな面倒がつきまとうものだが、この本の場合は、出版の話が持ち込まれてから、すべてがスムーズに進んだ。瞬く間に印刷製本まで出来上がってしまったような感じである。6月5日に江東区清澄庭園の大正記念館で出版記念講演会も開催された。サイン会なども初めて経験した。その日は潔典の49回目の誕生日に当たっていたので、編集関係者の方々がその日の夜には、近くのレストランで誕生祝の会も開いてくれた。霊界からの情報では、いろいろと潔典がこの本の出版に関わり、援助してくれていたらしい。

 そして私は、昨年の大腸がんと腹部動脈瘤の手術を経験して、今年はまた、「9月1日」を迎えようとしている。これで私は、事件後ちょうど30年を生き延びてきたことになる。長年にわたって続けてきた富子と潔典の遺品整理や処分も、この間にようやく、ほとんどすべてが終わっている。衣類の大半は、ミャンマーの避難民キャンプなどへ送り、富子の日本文学関係の蔵書のうち数百冊は、私の洋書と一緒に、海外の大学図書館へ寄贈した。アメリカの出身大学を含めて報恩のためにと考えていた団体や個人に対する寄付も一通り終えた。追善供養のつもりで、インドとネパールの貧しい農家の二人の幼児の養育費を毎月送り続けていたが、十数年の間に、二人とも元気に成長して立派な大人になった。今年の春には、「武本潔典の記録」(文書と写真のファイル)を作成して、事件の真相究明についての私の著作や資料と共に、東京外国語大学の文書館に所蔵してもらった。30回目の「9月1日」を迎えるにあたって、私には、遺族としてするべきことはしてきた、という淡い感慨がある。

 今年の「9月1日」には、北海道新聞が、大韓航空機事件30周年ということで、特集記事を載せる予定であるらしい。事件の犠牲者の遺族で北海道在住者は私だけであったので、この新聞には、事件以来、家族のことをいろいろと取り上げられてきた。私も何度も、紙面に真相究明の原稿を寄せてきた。しかし事件そのものは、30年を経て、アメリカの謀略もついに明るみに出ないままで風化しつつある。「それでは遺族たちの悲しみも消えることがないのではないか。それについてどう思っているか」と新聞の編集委員に聞かれて、私はこう答えた。

 「30年経ってアメリカ政府が嘘と欺瞞でその犯罪を隠しおおせたようにみえても、広い視野でみれば、『宇宙の摂理』とでもいうべき絶対律のなかでは、誰一人、犯した罪から逃れることはできません。遺族としていつまでも嘆き悲しむというのも、犠牲者に対する供養には決してならないでしょう。
 長年の悲しみと苦しみを経て、私は、その宇宙の摂理のなかでの人間の生と死や自分自身をも見つめ直すようになりました。」

 私はいま、しみじみとこの30年を振り返る。考えてみれば、よくも私は、あの絶望の淵から抜け出すことができたものである。あの大韓航空機事件で富子と潔典を失って悲歎のどん底に突き落とされたのは紛れもない事実であるが、いまではそれも「呪われた悲劇」ではなくて、むしろ「天の配慮」であることも、知るようになってきた。死んだと思っていた富子と潔典が元気に生きていることがわかった以上、悲しみに暮れる理由は何もない。近い将来、彼らと会えることにもいささかの疑いはない。すべてを失ったと嘆いていたが、本当は、何も失ってはいなかった。いまは、ただ、感謝があるのみである。

 私を巻き込んで過ぎ去っていったこれまでの30年は、確かに波乱に満ちていた。事件を含めて様々な喜怒哀楽の振幅の激しい体験があったが、すべては起こるべくして起こったことで、決して意味がなかったわけではない。それらの一つ一つが、私にとっては自分の魂が目覚め成長していくために必要な学びであった。いまの私はそのことを理解し納得して、こころ穏やかにこの世を去っていけるであろうことを、有り難いことと思っている。この事件後30年は、その意味でも、私にとっては最後の大きな節目の年である。そしてまた、この「9月1日」の鎮魂の日は、いまでは大切な学びの日であり、感謝を込めた祈りの日にもなった。




          **********



   霊界から見守られて生きる 
         ―生活と文化をめぐる随想 (90)―            (2013.07.01)
 

昨日の朝、今年になって5回目に開花した二つの花
の一つ。これが18個目になる。
2013.06.30.講演会
に出かける前に撮影。午後1時に帰宅した時にはもう
しぼんでいた。



 私のアパートのベランダのサボテンは、毎年一回、一つか二つの花を数時間だけ開かせてきたのだが、昨年に限って、大腸がんと腹部動脈瘤の二つの病気の検査、入院、手術にタイミングを合わせるように、7回もの開花を繰り返した。私は、昨年10月29日、このホームページの「寸感・短信」欄で、「三度目の入院の日の朝に開いたサボテンの花」と題して、つぎのように書いている。

 《本欄に「思いがけなく二度目の花を開かせたサボテン」を載せたのは、今年(2012年)の7月20日でした。「一年に一日しか花を開かせてこなかったこのサボテンが、今年に限って、二度目の花を開かせることになろうとは、ちょっと信じられないような気がしていました」とその時私は書いています。ところが、実は、このサボテンの花は、今年はそれからも次から次へと開花を続けて、10月12日、最後の入院の日の朝、このように七回目の花を開かせて私を見送ってくれました。(ここでは写真は省略)
 このサボテンの今年の開花の一回目は6月14日で、この翌日から大腸がんの検診を受けて、内視鏡検査でがんが発見されました。二回目の開花が前述の7月19日で、がんの切除手術を受けて退院してきた二日後のことです。ところが、このサボテンは、その後も、三回目・8月13日、四回目・8月20日、五回目・8月24日、六回目・9月23日、そして、10月12日には七回目がこのように開花したのです。写真によって改めてそれぞれの開花の日の前後を確かめて見ますと、退院後と入院前の一連の検査や診断で、重要な節目の日に当たっていることがわかります。
 年に一回しか開花してこなかったこのサボテンが、なぜ今年に限って七回も花開いたのか、そもそもサボテンに限らず花というのは、そんなに年に何回も開くものなのか、私にはよくわかりません。ただ、今年だけは私のこのサボテンは、6月15日の大腸がんの発見から、10月12日の腹部動脈瘤の手術のための入院に至るまで、今回の私の病気の経緯に付き添うように、花を開かせてきたというまぎれもない事実だけが私の目の前にあります。考えてみますと、二回の大きな手術の前も後も、私がなんの不安も怖れもなく穏やかに過してこれたのも、この純白の美しい花によっても見守られていたからかもしれません。》

 このサボテンが、昨年、7回もの開花を繰り返しことには何か意味があるのではないかと考えていた私は、今年はこのサボテンがどういう咲き方をするのか、興味を持って見守ってきた。また、例年のように、年一回、一つか二つの花を開かせる状態に戻るのか、しっかり見きわめておきたいと思っていた。しかし、やはり今年も、最初の開花は異常であった。その状況を6月1日の「寸感・短信」欄で、私は、「今年は八つの花を開かせた私のサボテン」というタイトルで、こう記している。

 《毎年6月中旬に一回だけ、一つか二つの花を開かせてきたベランダのサボテンが、昨年は私の入退院に合わせるように、7回も開花しました。6月14日から10月12日にかけてです。それで、今年はどのような咲き方をするのか、興味をもって見守っていたところ、5月21日の夜、八つの蕾のうち四つが写真(ここでは省略)のように花を開かせました。
 夜に開いた花は、朝になって陽に当たりますと数時間でしぼんでしまいます。この写真の花は、5月22日の昼ごろにはしぼんで、代わりに残りの四つの蕾が花を開かせました。今年は、5月21日の夜から22日の夕方までに、八つの花が一度に開いたことになります。いままで、二つ以上の花が一度に開いたことはありませんので、今年はどうしてこのような開き方をするのか、ちょっと不思議な感じがしています。
 写真の中央部に小さな蕾が二つ見えますが、この蕾は裏側や先端部分に隠れているものを含めて八つ数えられます。おそらくこれらは、やがて花を開かせるのではないかと思われます。もしそうなれば、今年は、八つの花を開かせるのが二回続くことになります。これは、いままでにはなかったことですが可能性はありそうです。しかし、その後も、また開花が続くかどうかは今のところはわかりません。これからしばらく見守っていきたいと思っています。》

 この6月1日に書いた小文の、8つの蕾は、6月16日に1輪、6月19日に7輪と花を開かせた。これで今年は、いままでのところ、4+4+1+7=16 というように、四回にわけて16の花が開花したことになる。この文を書いている6月30日には、朝のうちにさらに二つの花が開いて(文頭の写真)、よく見ると、まだ、一つ蕾が伸び始めている。おそらくこれは1週間後くらいには花を開かせるものと思われる。そうすると、今年は、すでに19の花が六回に分けて、開くことになるようである。この後も、さらに開花が続くかどうかは、いまはまだわからない。

 繰り返して述べているように、昨年は第1回目の開花が6月14日の大腸がん検診を受け始める前日で、第7回目の開花が腹部動脈瘤の手術で入院する日、10月12日の朝であったから、4か月にわたって開花を続けたことになる。それも一度に花が開くのは、きまって一つか二つであった。それに対して、今年は、一度に4つから7つに至るまでの開花が、すでに4回、それに今度の二つと一つの開花が加わって、6回の回数になった。しかも、まだ最初の開花から1か月半しか経っていない。昨年は、開花の回数の「異常」が目立ったが、今年は回数もさることながら、開花の花の数の「異常」が繰り広げられているのである。その異常の意味が知りたくて、私は、6月6日、8つの蕾が確認できた時点で、霊能者として高名なA師に聞いてみた。A師はこう答えた。

 《「7」は生命の進化の段階を表わしています。よりよい霊的な働きは「7」で表わされます。あなたがこの世で病気になったので、富子さんや潔典さんをはじめ、あなたと繋がりがある、あなたをこころから思う霊界の存在たちが、あの世から生命力を送ってきていたのです。そのため驚くほど沢山、たて続けに咲いていました。その生命力のお陰であなたは手術がうまくいき、恢復したのです。
 そしてその霊界からの支援は、いまでも続いて今年も咲き始めています。あの世とこの世との緊密な関係が感じられます。あなた自身、霊界に大分近づきつつあります。これからますます、霊界の雰囲気や霊的存在たちの臨在感を感じられるようになることでしょう。霊界とより緊密になっていき、徐々にあの世へと移行していくことでしょう。この世の側の身辺の整理や処理なども、少しずつしていってください。》

 A師からの答えがこのようなものになるであろうことはある程度は予想していたが、それでも、7回の「7」の数字の意味は、私にとっては初耳であり、新鮮であった。その次の「霊界からの支援」については、私には十分に納得できる気がする。常日頃から、私は、霊界から妻の富子や長男の潔典が見守ってくれていることは、かなり強く意識して過ごしてきた。毎日感謝の祈りを続けているし、日常の生活のなかで、たまたま遭遇した苦境から急に救い出されたりするようなことがあると、私は思わず「有難う」と口に出したりすることもある。A師が言われるように、彼らがあの世から「生命力」を送ってきて、そのお陰で手術もうまくいったというのも、おそらくそのとおりであろう。しかし、その彼らが送ってくれていた生命力が、あのようなサボテンの花の開花という現世的な形でも示されていたことには、思い及ばなかった。

 この富子と潔典が霊界から差し伸べてくれていた「生命力」については、かつて、アン・ターナーが、肺がんの手術でイギリスのサウス・ウエールズの病院に入院していた時にも、彼女自身の手紙で知らされたことがあった。2009年3月1日の「身辺雑記63」に私は、「霊界から差し伸べられる癒しの手」というタイトルで、霊界から富子と潔典が見舞いに彼女を訪れた時のことを書いている。アン・ターナーは優れた霊能者であったから、感謝の気持ちで彼女のもとを訪れていた富子と潔典の存在が意識できたのである。これは私事にわたるが、貴重な記録であるかもしれないので、長文のなかから、その核心部分をあえてつぎに再録しておきたい。まず、最初の「奇跡」はつぎのように起こった。

 《昨年(2008年)の8月5日、その集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウエールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、8月5日は、彼らの結婚記念日でもあった。予約は午前11時であったが、10時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。
 そのコーヒー・ショップの片隅には、200〜300冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっている。お茶を飲み終わった夫君のトニーが、立ち上がって、その書棚の前でふと一冊の本を取り上げた。それが大韓航空機事件を扱ったR.W. Johnsonの『撃墜』であった。アン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って送ってきた。そして、その驚きを、次のように書いた。

  --- for the one and only book that Tony picked up was called “Shoot-down” by R W Johnson which told the story of the last flight of KAL 007. We took this as the first sign that Tomiko and Kiyonori were with us, telling me that I was in the right place at the right time.

 夫君のトニーも霊能者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。アン・ターナーにも、事件のことは私からはほとんど何も話していないが、彼女は霊界にいる私の妻や長男とは、何度も会話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知しているといってよいだろう。夫妻は、その時、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。》

 これが最初の極めて稀な「偶然」である。やはり、「奇跡」と呼んでいいであろう。このジョンソンの本は私も持っているが、この引用文にも書いているように、私は彼にも奥さんのアン・ターナーにも、事件のことはほとんど何も話していない。彼らに先入観を与えないために私は、事件を含めたこの世での妻や子の情報は、意識的に彼らには知らせないようにしていた。

 やがてアン・ターナーが診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときに、つぎの「奇跡」が起こった。その場に来ていた富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めてくれていたというのである。アンが処置を受けている間に目を閉じていた時にも、富子と潔典の存在は霊的な光となって彼女に付き添っていた。高い霊能力をもっていた彼女だからこそ、そのこともわかったのであろう。彼女の手紙には、その時の状況が、さらに具体的にこう続けられている。

 《We were so elated unbelievably, all our nerves and tension simply fell away, and after being called in for my treatment I felt their presence, holding my hand, surrounding me with love and healing, reassuring and comforting me. As I closed my eyes during the treatment their spiritual light was blinking.
 Whoever donated the book was without knowing it, being inspired by spirit to leave it at the Radiotherapy Department, this was done in advance showing that spirit knew before we did that we were going to be there on that day 5th of August, 2008. We give thanks to spirit for their loving intervention into our lives every day.

 霊界では、すべてお見通しで、8月5日にアンがその放射線専門病院に来ることも、アンよりも先に知っていた、というのであるが、それはおそらく、その通りであろう。ただ、アンは、8月5日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間かかかった。そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは9月1日であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じ日である。
 2008年9月1日---。その日には、私は、北海道・稚内の「祈りの塔」の前で行なわれた事件後25周年の慰霊祭に参加していた。時差の違いはあるが、同じ9月1日に、アン・ターナーは、生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。別の手紙で、彼女は、その「偶然」の一致を、こう伝えてきた。

 So when you our dear friend was attending that very special 25 year ceremony, the memorial service at Wakkanai, I was having my very first Radiotherapy session. I knew your wife Tomiko and son Kiyonori were administering their healing to me without a doubt!  I thank them with all my heart!!!

 その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べていたというのである。不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。アン・ターナーは、事件後、この世で生き続けている無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、或は私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意を示したかったのかもしれない。》

 アン・ターナーの肺がん治療の時に、このようにして彼女を見舞っていた富子と潔典が、その後4年を経て、私自身が大腸がんと腹部動脈瘤の手術を受けることになったときにも、終始、私のそばで見守っていてくれたことは、ごく自然であったろう。最初の手術の前日には、7歳の孫の夏奈子が、「おじいちゃん、がんばってね、たいようがのぼるよ」と、見舞いの絵を描いて届けてくれたが、もしかしたら、この子にそう綴らせたのも、彼らであったかもしれない。昨年私は、「あの幼い7歳の子がこころの片隅で、どのようにして「太陽が昇るよ」という発想を紡ぎだしたのか、ちょっと不思議な気もする」と書いたが([寸感・短信]「この世とあの世の挟間で揺れ動くいのち」2012.08.03)、いまでは私はそのことがよく理解できるような気がしている。ただ、私はアン・ターナーのような霊能力はないので、それをじかに感じ取る力はなかった。その鈍感な私に対して、ベランダのサボテンが、昨年も今年も、「異常な」咲き方をすることで、彼らの癒しの「生命力」を示してくれていたことになるのであろう。

 こうして、昨年の二回の手術を生き延びた私は、今年は4月で83歳になった。そろそろ霊界へ還る準備をしなければならない時機になっているが、その私は、「これからますます、霊界の雰囲気や霊的存在たちの臨在感を感じられるようになる」とA師はいう。私は、それでふと気がついたのだが、かつても霊的な「生命の光」を見せられたことがあった。かなり前になるが、この随想集(No.34)に、「闇夜のバルト海にて」という文を載せたことがある(2003年11月1日)。その頃、私は73歳であった。

 その随想では、私は、「去る9月28日の夕方、私は北欧スウェーデンのストックホルムから、フィンランドのヘルシンキへ向かう三万五千トンのフェリー・ガブリエラ号に乗っていました。六階の海側の個室の窓から見えていたバルト海は、曇天で六時頃には真っ暗になって、どこまでも深い闇がひろがっていただけです」と、書き出している。そして、その夜、まぎれもない「奇跡」に遭遇したのである。その部分は、こうである。

 《翌日の忙しい行程に備えて、私は午後10時過ぎにはもうベッドに横になっていましたが、ちょうど夜中の12時に私はふと目を覚まし、船室のカーテンを開けて、夜のバルト海に目を向けてみました。その時に不思議な光景が眼に飛び込んできたのです。船から遠く、おそらく百メートルも二百メートルも離れた海上に、鳥のように見える物体が赤く光りながら、水平に、そして左右に、三本、四本、五本の線になって、素早く飛んでいました。》

 私は、この夜空の真っ暗闇の海上を赤く光りながら飛んでいた物体がなんであったか、長い間わからなかった。念のために、山科鳥類研究所へも問い合わせたりしたが、夜中に赤く光って飛ぶ鳥などがあるはずもなかった。私のまわりの者たちも、その話を聞いても笑って取り合ってくれなかった。しかし、何年か経っても諦めきれずに、私は、「随想(79)」で、この問題について再び取り上げている(「闇夜のバルト海で見た赤い飛行物体の真実」)。2011年8月1日のことで、私は81歳になっていた。そのときは、こういう書き方をしている。

 《私は、80年を超える生涯で、二度、三度、奇跡的に命を救われたり、燦然と輝くみ仏の姿に見守られたりしたことを含めて、少なからずいろいろと貴重な体験をしてきました。いまでは、それらの体験は何であったか、なぜ、そのような体験をしたのかを、そのほとんど全部について自分なりに理解し納得することができます。しかし、このバルト海での体験については、私はいくら考えてもわかりませんでした。最近では、この体験だけは、遂に最期まで、わからないままこの世を去ることになるのだろうか、と考えたりしていました。》

 そして、そのときもやはり思い余って、霊能者のA師にこの問題を持ち出してみたのである。私は何とか知りたい一心でA師に縋りついたのだが、しかし、A師にとっては、別に難題でも不思議でもなかったようである。その時のA師は、瞑想状態のなかでよどみなく、つぎのように答えてくれた。

 《あなたがバルト海で見たのは、人間の霊ではなく、生き物たち、特に海系の生き物たちの生命の気です。また、あなたの心が澄んでいて、生死を乗り越え、達観視してきていたのです。自分では無我夢中で現実に対応してきたのですが、何時しか自分が実感している以上に達観して澄んだ心境になったので、余計あなたには目立って見えたのです。地球は生命に満ちあふれていて、生命は光り輝いていることをあなたに見せたのです。あなたは生命について、今生で苦しい体験を以って会得しました。普通には得がたいことでした。それがあなたに今生で与えられた贈り物です。》

 かつては、私の寿命は75歳から78歳くらいと何度かいわれていた。私もそのつもりでいたし、それまでの講演会でも、「多分私はその頃に死ぬだろう」と言ったこともある。しかし、私は死ななかった。いま思えば、このバルト海での体験のころには、その一つの区切りを乗り越えようとしていたことになる。必ずしも長生きがいいとは思っていないが、私のこの世での使命は、その頃は、まだ終わっていなかったということであろうか。

 そして、昨年はベランダのサボテンが7回も花を開かせている中で、私は入退院を繰り返し、生き延びてきた。ここでも、霊界から見守られて生かされてきたのである。A師によれば、つぎの区切りは86歳前後になるようだが、私にとってはいまの83歳もすでに十分に長寿である。今度もまた、その「区切り」を越えたいとは思わない。見るべきほどのことは見てきたし、足るを知る気持ちも持ち合わせているつもりである。1983年の事件以来、今年で30年、私は、苦しみ悩み、悲歎と慟哭のなかで、少しずつ、何年もかかって、宇宙の摂理とでもいうべきものを私なりに学び、掴み取ってきた。あとはただ、その宇宙の摂理の一端を、一人でも多くの、「受け取る準備」ができている方々に、伝えていく使命を果たしていきたいと願うだけである。時至るまで、いつもこころ穏やかに、そして、祈りと感謝の気持ちを忘れずに――。



          **********


    生きるということは殺すということ
      ―生活と文化をめぐる随想 (89)―                (2013.05.01)


 私のイギリスでの親しい友人にデイビッドがいる。チェルトナムに近いセバン川のほとりに千坪はありそうな広大な敷地に、建築後二百年くらい経っている大きな家があって、そこに奥さんのクリスティーナと二人で住んでいる。十数年前、最初にこの家を訪れた日、六寝室の家の中を隅々まで見せてくれたあと、奥さんのクリスティーナは、私を敷地の一角にある三〇メートル四方くらいの羊の放牧場へ案内してくれた。その中には羊が十一頭ほどいた。しかし夫妻はここで牧畜業を営んでいるわけではない。

 ご主人のデイヴィツトは当時六十才くらいで、車で三十分ほどのチェルトナムにあるコンピュータ関係の会社に勤める管理職であった。羊を飼っているのは、いわば彼らの実益を兼ねた趣味であった。奥さんのクリスティーナは五十五、六才くらいであったろうか、日焼けして健康そのものの女丈夫といった感じで、羊の世話はもっぱら彼女の役目であった。その彼女がその時、十一頭のうち三頭を指さし、これと、これと、あれは、明日屠殺場へ送って、食肉にするのだと、何気なく言ったのである。私は一瞬緊張した。その私の前で、指差された哀れな三頭の羊たちは、明日の運命も知らぬげに、のんびりと草を食んでいた。

 私は、その頃、三週間近くもデイヴィツトとクリスティーナの家に滞在していたのだが、クリスティーナから三頭の羊たちのことを聞いて五日ほど経った頃、なんと、夕食のテーブルにその羊の肉の一部がラム・ステーキとなって現れたのである。夕方、いつものように裏庭のパティオでデイヴィツトとその日の出来事などをおしゃべりしながらビールを飲んでいると、やがてクリスティーナがワゴンにステーキの皿をのせて運んできた。おいしそうな匂いが食卓の上に流れた。「今日はステーキか、ご馳走だな」と私は思った。その時にクリスティーナが、「これはラムで、先日あなたに見せたあの羊の肉ですよ」と言ったのである。

 業者に頼んで屠殺してもらった羊は、毛皮をはぎ取られ、バラバラに切断されて戻され、冷凍庫に入っていた。そのうちの一部が、その日の夕食になったわけである。クリスティーナは、バラバラにされた肉片であっても、その大きさや形などで、だいたいどの羊のものかがわかるという。それを聞くと、にわかに、初めて見た日の三頭の羊の姿が目の前に浮かんできた。私は小一時間も飲み続けていたビールの酔いも一度にさめる思いで、たじたじとなった。

 デイヴィツトもそうだが、クリスティーナも動物が好きで、犬もいるし馬も飼っている。羊たちも殺された三頭を含めて、大切にして可愛がっていたのは事実である。「ひもじい思いもさせなかったし、ここでのんびり育って幸せな一生だったと思うわ」と彼女は言った。私は黙って聞いている。こんな時に、そんなに可愛がっていた羊をなぜ殺すのか、と問うのは愚問である。ここはイギリスなのだ。クリスティーナのことばも、牧畜文化からくる特有の発想で、これは稲作文化の伝統を持つ日本人にはわかりにくい。

 イギリス人を含めてヨーロッパ人は、古来、風土的な厳しい制約から、生存のためには家畜に大きく依存しなければならなかった長い伝統に支えられている。しかし、生きていくために家畜に頼るということは、動物の屠殺にも慣れるということでもあった。問題は、家畜が日本人のもっとも身近な動物蛋白源である魚介類などと違って、生物学的には人間と同じ哺乳類であることである。人間と同じく、殺せば赤い血が大量に流れ出る。そういう家畜の屠殺に慣れるということは、ヨーロッパ人の血に対する感覚が、血を忌み嫌う日本人とは大きくかけ離れたものにならざるをえない。

 しかも、かつては、家畜を殺して血を見たり血の匂いをかいだのは、専門の業者や一家の主人たちだけではなく、主婦や子供たちもそうであった。つまりイギリス人も含めてヨーロッパ人は、家族ぐるみで家畜の死体や血を見ることに慣れているのであって、その伝統は現在でも、ヨーロッパの家庭料理の中に残っているといってよい。たとえば、イギリスやフランスの街の肉屋の店頭で、あるいはスーパーマーケットのガラスケースの中に、羊や豚の頭が血のついた目をむき出しにしたままで並べられているのも、ごくありふれた光景なのである。

 日本人はしばしば、「欧米人は血の滴るビフテキを食べながら動物愛護の精神を説く」と彼らの残酷を非難する。しかし彼らは、血の滴るビフテキを「食べながら」ではなく、「食べるから」動物愛護の精神を説くのである。これは、基本的には、稲作文化の日本人が、お米を食べるからお米を大切にするのと同じことである。クリスティーナも羊を食べるから、その羊を大事にして育てた。その可愛がっていた羊を殺すのは残酷なのではない。ただ、殺すための思いやりとしては、できるだけ苦痛を与えないように、一挙に息の根をとめてやることである。イギリス人の目から見ると、だから、日本人が魚を生きたままで食べる「生け作り」などは、逆に、動物に対する極めて残酷な仕打ちということになる。

 これについては、上智大学のピーターミルワードさんが、かつて書いた日本文化を論ずる文の中に次のようなものがある。

 《このことに関しては、一人のイギリス人として、日本人の残酷な食べ方について一言抗議しておきたい気がする。私が言いたいのは、外国人に対してではなく魚に対して意図的に加えている苦しみについてである。日本には、刺身の一種で「生け作り」といわれるものがある。この「生け作り」に相当する英語はない。まあ、人肉を食べる「キャニバリズム」がそれに近いであろうか。
 しかし考えてみれば、そのキャニバリズムでも、蛮人は人間を食べるときには、少なくとも煮たり焼いたりするのであって、生きたままの人間を生で食べることは普通しない。ところが日本人は、まさにそれをかわいそうな魚に対してするのである。生のままであるどころか、生きてまだ動いているのに、刺身のように薄く切り取って食べるのである。》 (『イギリスと日本』)

 人食い人種でさえ人間を食うときには、煮たり焼いたりして生のままでは食べないのに、日本人が魚を生きたまま切り刻み、まだ動いているのを刺身にして食べるのは残酷だ、というわけであるが、このような言い方にはそれなりの説得力があるように見える。イギリス人の考える残酷は、日本人の残酷とは違うのである。

 刺身というのは、豊富で新鮮な魚と、食生活の清潔な日本人の美意識が生み出した日本独特の調理法だと思うが、「生け作り」とは、いわば、その刺身の新鮮さと清潔さを極限まで追求して、直にそれらを客の前に提供したものであろう。それも、魚介類だからこその「生け作り」である。哺乳動物の肉でも刺身にできないわけではないが、しかし、その「生け作り」はあり得ない。一般に日本人は、魚介類ならまだしも、哺乳動物を目の前で殺すようなことに対する拒絶反応は、イギリス人などとは比べものにならないくらいに強いのが普通だからである。

 ここで話を少し前に戻そう。クリスティーナのラム・ステーキが目の前に置かれたのであった。私は少したじろいだ。しかし、私はやはりそのステーキを食べなければならない。食べた。パリで初めてエスカルゴを食べた時のように、ちょっとした頭の切り替えが必要であった。「うまいか?」と聞かれたから、仕方なく、「うまい」と答えた。

 それから二、三日経った朝、朝食で食堂へ行くと、クリスティーナがちょっと外から玄関を見てみよという。行ってみると、玄関のドアの上部左右についている花寵をつり下げるための鉄のアームに、野兎が二匹と山鳩が一羽、首のところを縄で縛られてぶら下がっている。近くの農家の人が狩りでしとめたものをお裾分けしてくれたのだという。前日の夜はたまたま、私が夫妻をチェルトナムの日本料理店へ連れ出して留守であったので、そこへ置いていったのである。帰りが遅かったので、私たちも気がつかなかった。朝、電話がかかってきて、彼らも初めて知ったらしい。

 野兎と山鳩とはいえ、そのような姿を見るのは気持ちのいいものではない。新巻鮭が縄で縛られてぶら下がっているのを見るのは、私にもあまり抵抗はないが、これも文化の違いなのであろう。日本でこんなことがあったら、お裾分けどころではない。おそらく気味悪がられてしまうにちがいない。野兎の毛皮を剥いだり、山鳩の毛をむしったりするだけでも拒絶反応がある。しかし、クリスティーナは喜んでいた。特に山鳩はうまいのだと言って、満足げであった。

 旧約聖書の創世記(9:2-3)には、「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなた方の食物となるであろう」ということばがある。キリスト教では、神がこのように動物を殺して食べることを許していると考える。だから、ヨーロッパでは、キリスト教徒たちは安心して動物を殺し、それを食べているのである。逆に、動物を殺して食べることが残酷だとして認められなかったならば、イギリス人を含めてヨーロッパ人は生きていくことができなかった。

 その「動物を殺して生きる」生活様式は、グローバル化の影響を受けて、現代の日本でもかなり深く浸透してきているようである。戦前の日本では、動物性蛋白質としては、ニワトリくらいならまだしも、いわゆる「四つ足」の動物はあまり食べなかった。哺乳動物を食べなくても、価格の安い魚介類が豊富にあったからである。風土的条件にも恵まれて、農業生産率も日本では格段に高い。麦や米の穀類を食べ、種類の多い野菜や新鮮な魚介類で、ヨーロッパとは比較にならないくらい、生存の維持が容易であった。国土の三分の二が山地でありながら、人口密度が極めて高いのは、その端的なあらわれである。

  しかし、その日本人の食生活は、戦後、日本が豊かになるにつれて大きく変わってきた。いわば、食生活の欧米化が進んできたのである。安い輸入品が増えて、牛や豚、羊などは、いまでは決して高価な食品ではなくなった。むしろ、従来の日本の魚介類よりも単価的にも手に入れやすくなっている。日本の「米食文化」が影を薄めて、欧米の「肉食文化」に近づきつつあるようである。しかし、日本では、「殺して生きている」感覚は薄い。イギリスのクリスティーナたちの場合は、自分では手を下していないまでも、この「殺して生きている」という感覚は拭いきれないであろう。しかし、日本では、肉食しながらも動物のいのちのことまでは思いが及ばない。

 もともと、動物の肉を食べるというのは、山野を駆け巡って、その動物を自分で、或いは仲間と協力して、仕留めなければならなかったはずである。仕留めた動物は、血にまみれながら、それを自分たちで解体して食料にする。動物を仕留められなければ、自分たちが飢えるだけである。否が応でも「生きるために殺す」という感覚を強く持っていたにちがいない。しかし、稲作文化では、特にその必要がなかった。だから、長い間、米穀と野菜と魚介類に慣れ親しんできた食生活に後から肉食が入ってきても、それは魚介類と同じように、スーパーなどへ行って、きれいに切り分けられて包装された肉片をお金を出して買い求めるだけである。それが動物の死体であるという感覚はない。「死体」では気味悪いから、そう思いたくもないであろう。

 日本には仏教の殺生戒が伝統的に残っていて、動物を殺すことについては、強い拒否反応がある。しかし、私たちは、動物を他人に殺させて、その死体を食べているのである。自分で殺していないから罪がないとはいえない。むしろ、そのような無感覚は、殺される動物側からみれば、自分で殺している者よりもかえって罪深いといえるかもしれない。それに、当たり前であるが、魚介類も生き物である。多種多様の魚もいろいろな貝類も、それぞれにみんな生命を持っている。動物を殺すのはいけないが、魚介類なら殺してもいいというわけではないはずである。

 改めて考えてみると、いや、考えるまでもなく、私たちは、殺生と無関係では生きていけない。仮に、一部の僧侶たちがそうしてきたように、動物や魚介類を避けて菜食主義に徹したとしても、実は、穀類や野菜などの植物もまた、みな生命である。それぞれにいのちを持って生まれ、成長してきた。それらを食べることによって、私たちは自分たちの命を繋いでいる。食べなければ私たちは死ぬ。つまり、私たちは、動物も植物も殺すことによってのみ、自分たちが生かされている。生きるということは、殺すということなのである。

 そういう事実に意識がもう少し向いていけば、或いは、日本を含めて、世界の富裕国で問題にされている大量の食料の食べ残しや放棄も、少しでも減少させるきっかけになるかもしれない。生命を奪っておいて、その事実にさえ気がつかず、食料を平気で残したり、捨てたりするということは、やはりかなり罪深いことである。殺される側からすれば、食べもしないで捨てるくらいなら始めから殺さないでほしい、といいたいところであろう。

 私たちが動物や植物を殺しているのは、食料を得るためだけではない。家や家具や紙などは、木の死体であるし、革靴も毛皮などももとは動物の身体の一部である。着ている洋服やシャツ類なども、ほとんど動物や植物のいのちを奪うことによって作られている。「人間は、意識的もしくは直接的な殺生にかかわらずとも、他の生命の犠牲がなければ生きていけない生物」なのである。(金岡秀郎『文学美術に見る仏教の生死観』)NHK出版、2013)

 それだけに、不殺生戒を守ろうとする仏教徒は、真摯であればあるほど、この「殺さなければ生きていけない」現実に深く悩み抜いてきた。仏教国のチベットでは、人間が死んだらその死体を鳥に与える「鳥葬」の習慣が広く行われているが、これは、生きているうちは他の生命を犠牲にしてきたのだから、死んだらせめて身体ぐらいは鳥に施したいという死後の「布施行」の精神である。これも一方的に未開の習俗として退けるよりは、そこにも深遠な祈りの姿があることを、考えてみるべきなのかもしれない。




          **********


    「般若心経」の様々な解釈をめぐって
       ―生活と文化をめぐる随想 (88)―                (2013.03.01)


 シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』の日本語版に、「日本の読者の皆様へ」と題した文章(pp.2-3)があるが、そのなかで、著者のシャーリー・マクレーンがつぎのように書いているところがある。

 今までに私が学んだ最も重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということです。私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどうとるかという認識の問題だとわかったのです。人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてなのです。いいかえれば、私たちの人生は私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです。

 だからこそ、この世をどう認識しているかが大切で、前向きで実り多い人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっていると彼女はいうのであるが、この言い方はわかり易く、説得力がある。たとえば、同じ「この世」であっても、その捉えかたは人によって決して同じではない。満ち足りて幸せいっぱいと感じる人が居ても、その同じ環境のなかで、惨めで不幸のどん底であると嘆く人がいるかもしれない。つまり、幸せいっぱいの「現実」があるのではないし、惨めで不幸な「現実」があるのでもない。現実をどのように認識するかによって、幸、不幸は分かれるのである。

 この現実の捉え方を、もうひとつ別の例で考えてみよう。私は、英語と日本語との違いを説明する場合に、「英語で見る」世界と「日本語で見る」世界は同じではない、と言ったりする。ものを見て認識するのは目の作用であるから、普通、私たちは「目で見る」と考えるが、目はいわばカメラでいえばレンズあるにすぎない。レンズに映った映像を認識するためには、「あれは山だ」というように、その映像を私たちはまず日本語で分析解析したうえで、それを大脳へ送らねばならない。その言語はいわばフィルムで、大脳が写真である。

 英語と日本語とは、言語学的には構造上の大きな差があるから、「あれは山だ」と「That is a mountain.」は、厳密にいえば同じではない。不定冠詞の有無だけではなく「山」そのものが「mountain」とはかなり違う。また、「川」は「river」とまったく同一ではないし、「水」も「water」とは意味内容が一致しない。「洪水」なども、日本では荒れ狂う災害のイメージが強いが、「floods」になると、イギリスではしばしば穏やかな春の風物詩になる。私たちは、レンズに写った映像をそれぞれ違ったフィルムに焼き付けて、現像した写真をそれぞれの「現実」として認識するが、その「現実」は常に、言語によって異なり、或いは人によっても異なったりして、客観的、普遍的な事実を表わしているわけではないのである。(拙著『英語教育のなかの比較文化論』参照)

 これらのことは、ちょっと考えればわかることで、これ以上詳説するのは本稿の趣旨ではない。客観的な「現実」は存在しないということはこのような例によっても容易に理解できるが、しかし、般若心経になるとこれだけではすまない。般若心経では、ものをみる対象が実体のない「空」であるとしているのみならず、見ている主体の認識や感覚もすべて「空」であるというのである。あるはずの自我も「ない」というのだから、これはなかなかわかりにくい。「現実」の捉え方もさらに一段と深化させていかねばならず、私たちの常識を超えた深い洞察力が必要になってくる。

 般若心経は、「観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊皆空度一切苦厄」で始まっている。この観自在菩薩というのは、観音菩薩のことである。観音菩薩が、深般若波羅密を行じたまいし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」と、ここでは一応よむことはできる。「観音様が深い仏の智慧によって仏の国へ行くことを真剣に修行していた時に、すべては無常で常に移り変わっていくことを見極められて、ものにこだわることから生じる苦しみや災難をすべて乗り越えることができた」といううわべだけの意味もなんとか掴むことはできる。しかし問題は、「五蘊皆空」である。「五蘊」とは、人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもので、人間の肉体を含めて、感受作用、表象作用、意思作用、認識作用などを意味するという。それらがすべて「空」だというのである。

 それでは、「空」とは何か。これは仏教の真髄を表わす言葉で、これがわかれば仏教の教義の全部が解明されたようなもの、などといわれるだけあって、きわめて難解である。語源から言えば「空」は [sunya シューニヤ] からきていて、固定的実体のないこと、実体性を欠いていること、虚ろであることなどを意味しているという。近代数学が発展したのは、インド人によるゼロの発見があったからだといわれるが、これが「シューニヤ」である。しかし、般若心経でいう「空」はもちろん「ゼロ」ではない。何もないというのではなくて、 何物にも一切こだわらないということであるらしい。そうすると、「五蘊皆空」とは、自分の感受作用、表象作用、意思作用、認識作用などのすべてが移ろい変わっていくものだからこだわってはならない、ということになる。しかし、この程度の理解では、私たちは、とても「度一切苦厄」とはいかない。

 こころみに、この部分をいろいろな学者、研究者、解説者がどのように訳しているかをみてみよう。中村元・紀野一義『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)では、「存在するものには五つの構成要素があるとみきわめた。しかも、かれ(求道者にして聖なる観音)は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものである」と見抜いたのであった、となっている。玄侑宗久『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)では、「私たちの体や精神作用は全て自性を持たず、これはいわば縁起における無常なる現象なのだ」と見極められて、と訳されている。柳沢桂子氏の「心訳般若心経」と銘うった『生きて死ぬ智慧』(小学館)では、(聖なる観音は)「宇宙に存在するものには五つの要素があることに気づきました。これらの構成要素は実体をもたないのです」とある。すべてが無常で変わっていくものであり、縁起によって起こっているだけの現象を、「実体のない」とか「自性を持たない」とかという言い方で表現しているようである。

 現実に目の前に見えて「ある」ものを否定して、般若心経ではそれは実は「空」であり実体は「ない」のだと教える。それならば、「ある」と確認している根拠になっている私たちの五感や経験を否定しなければならない。「ある」のに何故「ない」のか。この実体が「ない」というのは、何物にも一切こだわら「ない」の原意だと知っても、これは平凡な私たちの思考を超えることで理解するのはきわめて難しい。だからであろう、般若心経では、このあと、「色不異空 空不異色」と「空」の説明が続く。わざわざ「色即是空」「空即是色」「受想行識亦復如是」といい直して、さらに、噛んで含めるように、「舎利子 是諸法空相・・・・・」と「空」の解説が続いていくのである。

 この部分は、般若心経のみならず、仏教そのものの核心といわれているだけに、いろいろな解説書があり、さまざまに解釈されている。それらの現代文訳をいくつかみてみると、次のようになっている。

 物質は「空」にほかならず、「空」が物質にほかならないのです。物質がすなわち「空」であり、「空」がすなわち物質であります。感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これも同じく「空」なのです。
         山本七平・増原良彦『色即是空の研究』(日本経済新聞社)

 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象でありうるのである。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 このようにして、およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意思も、知識も、すべて実体がないのである。
         中村元・紀野一義『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)

 およそ物質的現象というものは、すべて自性をもたないのであり、逆に自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。(人間の眼に観察できる物質的現象であるというのは、そういうことなのである。)
 同じように、感覚も表象作用も、意志も、意識・無意識を含めたどんな認識も,それじたいに自性はなく、縁起のうちに無常に生滅している。
         玄侑宗久『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)

 これらの構成要素(五つの要素)は実体をもたないのです
 形のあるものは形がなく
 形のないものは形があるのです
 感覚、表象、意思、知識も
 すべて実体がないのです
          柳沢桂子『生きて死ぬ智慧』(小学館)

 この『生きて死ぬ智慧』には、日本文学研究者で作家でもあるリービ英雄氏の英訳もついている。英語でこの般若心経がどの程度にまで表現できるかをみてみるために、この部分の英訳もつぎに掲げておきたい。リービ氏はこう訳している。

  Form is none other than emptiness, emptiness is none other than form.
   Form― it is, in fact, emptiness.
   Emptiness― it is, in fact, form.
   To sense, to imagine, to will, to conceive ― they too are all like this.

  英語はサンスクリットと同じ印欧系言語だから、というようなことを考えても、ここでは何の役にも立たない。「空」が「emptiness」といわれてもほとんど理解できそうもない。やはり、日本語にせよ、英語にせよ、翻訳力の限界のみならず、言語の限界を強く感じざるをえないのである。言語の限界を少しでも補うためには、いろいろと解説に眼を通していくほかはないであろう。金岡秀郎『文学・美術に見る仏教の生死観』(NHKラジオテキスト、2013)のなかには「般若心経の哲学と宗教」という一章があるが、そこでは「空」について、つぎのように述べられている。これはいくらかわかり易い。

 空とは、自我も、自我の感覚によって捉えられた現実世界も、絶対的でないことをいう。自我が個人の感覚と、その積み重ねである記憶によって形成されたものとすれば、その根拠はあやふやである。記憶などは脳の障害で簡単に失われてしまう。
 『般若心経』はいう。「色はすなわちこれ空なり(色即是空)」と。わたしの見ている世界は空である。空の体得によって、現実への執着を断ち切り、死の恐怖や苦から脱する。これが『般若心経』の救済の教えである。
 さらに、『般若心経』は「空はすなわちこれ色なり(空即是色)」と続ける。自己や現実は空であるが、空であるからこそ現実であると説いている。世界は空であるとしても、われわれはこの空の中に生きる以外にない。与えられた世界の中で執着を捨て、しかも精一杯生きる。仏教が人生を積極的に捉える所以である。(pp.36-37)

 しかし、ここまでみてきても、まだ「空」の意味は言い尽くされているとはいえないであろう。『般若心経』では、さらに「不生不滅 不垢不浄 不増不減・・・・・」と「空」の説明が続く。この辺までくると、私のように、外国語と日本語の翻訳を経験してきた者にとっては、翻訳の可能性とか言語そのものの限界などについても考え込まされたりする。仏典が鳩摩羅什や玄奘三蔵等のすぐれた翻訳によるものであることはわかるが、翻訳には誤差がつきものである。また原文を漢字の当て字で表わさざるを得なかった制約などもあるであろう。だから多くの研究者は、原文に近いサンスクリット語に遡って真意に迫ろうとする。

 しかし、古代インドの高度に抽象的な思想を漢字で正確に移すことはできないし、さらにそれを日本語に直せば、その誤差は一段と拡大する。これは、その逆を考えてみてもわかることである。例えば、日本語でいう「わび」「さび」を漢字の当て字で表わせば、どれくらい原意が伝わるだろうか。さらにその当て字の漢字をサンスクリット語に訳したとしても、「わび」「さび」の含意がどこまで理解できるようになるか、大いに疑問であると言わざるをえない。そういう「雑念」のようなものを抱いていると、『般若心経』の「不生不滅 不垢不浄 不増不減・・・・・」以下の意味を辿っていくのにも、しばしば立ち止まってしまったりする。

 たとえば、「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」である。このなかの「無無明尽」や「無老死尽」はどのように捉えていけばいいのだろうか。新井満『自由訳般若心経』では、ここのところは、「愚者と賢者、若者と老人、そんな相対的なものも、ない、と考えてよいのだよ」となっているが、これはちょっと短絡に過ぎるような気がする。柳沢桂子氏のは、これよりはわかり易い。『生きて死ぬ智慧』では、つぎのように訳されている。

 真理に対する正しい知恵がないということもなく
 それが尽きるということもありません
 迷いもなく 迷いがなくなるということもありません
 それは「空」の心をもつ人は
 迷いがあっても
 迷いがないときとおなじ心でいられるからです
 こうしてついに 老いもなく 死もなく
 老いと死がなくなるということもないという心に至るのです
 老いと死が実際にあっても
 それを恐れることがないのです

 まだ釈然としないところもあるが、ここのところは、金岡秀友『図説般若心経』(講談社、1983)の解説に頼ることにしよう。そこには、こう述べられている。(pp.46-47)

 「無明」がないというのは、人は生まれながらに知恵をもっているのだということで、人間過信につながります。
 また、「無明」が尽きることがないというのでは、反対に人間は無知からぬけ出せないということになって、救いがなくなってしまいます。
 ここでは、「無明」と「無明が尽きること」の両方を否定して、人間は、明と無明の中間にあって努力するもので、「明とか無明」にこだわっていてはいけないということです。
 「乃至」は、「無明」と「老死」の間は略すが、これも同じ考え方だということです。
 人間は「無明」にはじまって「老死」で一生が完結するわけですが、「老死」といっても、仏の眼から見れば固定した事実ではないのだということです。
 「老死」がないとなったら、この世にこわいものはないということになりますが、そんなことはないといっているのです。
 また、「老死」からぬけ出すことができないからといって、若いときから「老死」を見つめているだけでは若さを生かすこともできません。
 若いときには、若さを生かしながら、なお「老死」を予感して生きるなら、若さに感謝しながら老人におもいやりのあるよりよい生き方ができるでしょう。
 これは決して否定のための否定でなく、二重否定を繰り返すことによって徹底的な人生の肯定的な態度を教えていると考えるべきだと思います。

 このように、私たちは与えられた字から出発して、言葉の意味を調べて、解説も読んだりしたうえで般若心経を唱えるのであるが、その本質を理解するのにはそのような言葉に頼るアプローチが障害になることもあるのかもしれない。もともと宗教的な教えというのは、まるまる暗誦するものという伝統があって、朗々と唱えているうちに頭でというより、体全体で理解していくものといわれたりする。『般若心経』でも、「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」で始まる最後の真言といわれる部分などが特にそうであって、論理を超えているから翻訳はせず、原音のまま唱えることになっている。かつて空海も、「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除かる」と述べた。「不思議」とは仏教語で論理的な思考を超えた世界をいい、「観誦」とは心の中に観念して、声を出して唱えることをいう。それにより、無明すなわち心身の迷いから解放されると空海はいうのである。(金岡秀朗、前掲書

 むかし、私がロンドンに住んでいたとき、京都のお寺で学んだというイギリス人の尼さんがいて、「仏教の会」というのを開いていた。ヴィクトリア駅の裏手にあるその会場に私も行ってみたことがある。そこでは、日本語の発音でよむ般若心経をそのままローマ字にして、それを、日本語はほとんど知らないと思われる数十人のイギリス人が、一斉に声を出して唱えていた。ローマ字は、漢字のような表意文字と違って音声記号にすぎないから、何の意味ももたない。日本人がカタカナで書かれた般若心経をよんでいる状態に近い。しかし、尼さんの説明では、般若心経そのものが「真理のことば」であって、それだけに、そのことば自体にエネルギーがこもっている。だから、それを唱えることに意義はあるのだ、ということであった。いまでは私は、あれが『般若心経』への本来のアプローチであったかもしれない、と思ったりしている。




          **********


    宇宙の彼方の知的生命体へのメッセージ
       ―生活と文化をめぐる随想 (87)―                (2013.01.01)


  もう35年以上も前のことになるが、宇宙探査機ヴォイジャー1号が1977年9月5日に、ヴォイジャー2号が同年8月20日に打ち上げられた。2号のほうが1号よりも打ち上げが早かったのは、1号のシステム不良により打ち上げが16日間延期されたためである。このように、1977年に二つの宇宙探査機がほぼ同時に打ち上げられたのは、1970年代後半から1980年代にかけて木星、土星、天王星、海王星といった外惑星が同じような方向に並ぶため、宇宙探査機を打ち上げるタイミングとしては最適の年であったからといわれている。この機会を逃したら、このような条件の下に次に打ち上げられるのには、175年後まで待たねばならなかったともいわれていた。

 興味深いのは、これらの二つの宇宙探査機には、アメリカ航空宇宙(NASA) が、地球外知的生命に対する人類からのメッセージを積載していたことである。われわれの住んでいる地球を紹介しようとするもので、それは、「地球の音」(The sounds of Earth)というタイトルの金メッキされた銅板製レコードになっていた。電子的に処理されたそのレコードの内容には、115枚の画像と波、風、雷、鳥や鯨など動物の鳴き声などの多くの自然音のほか、日本の尺八など、様々な文化や時代の音楽などが含まれていた。このレコードを宇宙へ送り出すにあたって、1977年6月16日、当時のカーター大統領はつぎのような公式コメントを出している。

 我々は宇宙に向けてメッセージを送った。銀河には2,000億個もの星があり、いくつかの星には生命が住み、宇宙旅行の技術を持った文明も存在するだろう。もしもそれらの文明の一つがボイジャーを発見し、レコードの内容を理解することができれば、我々のメッセージを受け取ってくれるだろう。我々はいつの日にか、現在直面している課題を解消し、銀河文明の一員となることを期待する。このレコードでは我々の希望、我々の決意、我々の友好が、広大で畏怖すべき宇宙に向かって示されている・・・・

 このコメントは、もちろんジョークではない。宇宙には、地球上の人類のような、あるいはそれ以上の知性をもった生命体が存在する。これは35年前でさえ、もう単なる推定ではなくて、「科学的な」事実として世界の科学者たちからも受け容れられてきた。だから、アメリカ大統領も、真摯な態度でこのような公式コメントを出したのである。そして、探査機のレコードのなかには、地球外生命に対する彼自身の挨拶も、日本語や中国語、韓国語等を含む地球上の55種類の言語にして含まれていた。そこでは、こう述べられている。

 これは小さな、遠い世界からのプレゼントで、我々の音、科学、画像、音楽、考え、感じ方を表したものです。私たちの死後も、本記録だけは生き延び、皆さんの元に届くことで、皆さんの想像の中に再び私たちが甦ることができれば幸いです。
   --アメリカ合衆国大統領 ジミー・カーター


 この二つの探査機には、また、地球を代表して、国際連合事務総長のクルト・ヴァルトハイム氏による挨拶も搭載されていた。たまたま、私の手許には、このとき、ヴァルトハイム氏がオーストラリア訛りの英語で述べている部分の録音テープがあるが、その内容はつぎのようなものである。

 地球上の147カ国による組織された国際連合の事務総長が地球を代表してご挨拶申し上げます。
 われわれの宇宙探査の目的は、平和と友好、そして相互理解であります。われわれは謙虚な気持ちと希望を持って、宇宙への第一歩を踏み出しました・・・・・


 これらのヴォイジャー1号と2号は、現在でも宇宙で稼働している。ヴォイジャー1号は2011年8月8月現在で太陽から約177億km離れたところを太陽との相対速度・秒速約17.06kmで飛行中であり、地球から最も遠くにある人工物体となっている。ここまで遠くなると、地球との通信のための電波は片道だけでも約13時間要するという。 一方、ヴォイジャー2号は2011年8月現在で太陽から約144億km離れたところを太陽との相対速度・秒速約15.46kmで飛行中であり、ボイジャー1号とその後に打ち上げられたパイオニア10号に次いで地球から遠いところにある。

 このように、すでに35年以上も前から、宇宙の彼方には知的生命体が存在するという前提のもとに、宇宙に向かって、地球からのメッセージを発信してきた。これに対する反応はまだない。しかし、だからといって、それが地球外生命なるものは存在しないのだということにはならない。ただ、あまりにも宇宙は広大なので、われわれの持つ現在の通信手段ではメッセージを送り届けることが決して容易ではないということであろう。たとえば、ヴォイジャー1号、2号とも現在は太陽系の端近くまで行っているが、そこから太陽系を離れて、仮に太陽系に最も近い恒星系であるケンタウルス座アルファ星へ向かったとしても、到着するまでには約8万年かかるのだという。

 あまりにも広大な宇宙でのコミュニケーションは、やはり容易ではない。ただ、一つだけ、宇宙からの信号と思われるものを地球が受信した記録がある。NHKで放映された「宇宙に生命を求めて」(BS 2012.12.27)によると、これは、ヴォイジャーが打ち上げられた1977年に、アメリカの電波望遠鏡が受信したもので、一般に「Wow信号」と呼ばれているらしい。これが、宇宙からの唯一の信号とされているもので、その周波数に合わせてその後も真剣に受信が試みられたが再び信号を捕えることはできなかった。

 しかし、世界の天文観測者たちは諦めているわけではない。ヴォイジャー1号と2号に積み込まれている原子力電池の寿命は、1号が2020年以降、2号は2030年以降に尽きる予定というから、まだしばらくは、このヴォイジャー1号と2号による宇宙の知的生命体とのコンタクトの可能性も決してなくなってしまったわけではないのである。

 そのような宇宙の知的生命体との接触を想定して、天文学会の国際連合ともいうべき「国際天文連合」が「地球外知的生命の発見後の活動に関する諸原則についての宣言」というものを出しているらしい。これも、同上のNHKの番組で紹介されていたが、その記録によると、そのうちの第一条と第三条には、次のようなことが書かれている。

 第1条
 地球外知的生命と考えられる信号等の発見者は、発表を行う前に、それが自然現象または人為的な現象によるものではなく、地球外知的生命の存在であることを確認する努力をせよ。証明できなかった場合は、未知な現象の発見として公開を行なってもよい。

 第3条
 発見が明らかに地球外知的生命の信頼できる証拠と認定され関係者に通知された後、発見者は国際天文学連合の天文電報中央局を通じて世界中の観測者に連絡せよ。また国連事務総長に通知せよ。同時に発見者は、国際的な関連機関に迅速に通知し、データ等を提供せよ。


 このような地球外知的生命体の探索とは別に、たとえば、2011年11月26日に打ち上げられた火星探査機「キュリオシティ」の火星上での探索も注目される。このキュリオシティは、これまで、火星で採集した土砂のなかから生命の元になる有機物の一つクロロメタンを発見しているが、その探査活動はいまも継続して行われている。同様の探索活動は、木星の衛星「エウロパ」や、土星の衛星「エンケラドス」、「タイタン」などでも行われているから、長い間人類にとって謎であった地球外の生命と知的生命体についても、神秘のヴェールは科学的にも少しずつ剥がされていくことになるのかもしれない。

 ところで、地上の視点からではなく宇宙の視点からみれば、この地球外生命と知的生命体とは、どのように捉えられるであろうか。ゲーリー・ズーカフは、ハーバード大学卒業の科学者で、人類の進化と魂に関する著作で有名であるが、彼の書いた『魂との対話』のなかでは、知的生命体は、無数の銀河の中に無数に存在していると、つぎのように述べている。

 人間の魂よりも進化した生命の形態はたくさん存在する。選択肢は文字どおり無数にある。生命は無数の銀河のなかに存在している。生命に満ちた惑星の数は、何百万、いや何十億にも及んでいる。事実、活発な意識を欠いている惑星はひとつもない。私たち人間によく似た形態の生命も存在すれば、まったく異なった形態の生命も存在するが、とにかくあらゆる惑星に、私たちが意識として理解する生命が存在しているのである。(『魂との対話』坂本貢一訳、サンマーク出版、2003、pp.197-198)

 このように彼は、生命は「無数の銀河のなかに存在している」という。あらゆる惑星に「私たちが意識として理解する生命」が存在しているとも強調されている。しかし、地上の私たちは、その存在を少なくとも「科学的には」まだ確認することができていない。ヴォイジャー以外にも、さらに多くの探査機を宇宙に送り込んでも、地上からのメッセージが無事に届けられるのを確認できるまでには、一体どれくらいの時間がかかるのであろうか。ゲーリー・ズーカフは、この点について、一般的には私たちは「広大な宇宙に目を向けたときでさえ、そこに生命を見ることができない。この宇宙のなかにほかの生命など存在するはずがないという信念で、凝り固まっているためにである」と述べたあとで、つぎのようにつけくわえている。

 (私たちは)肉眼でハッキリと見て、確かめないかぎり、何も信じょうとしないのだ。そのため、ほかの銀河系に住む生命体群、私たちの兄弟たちは、いまだに隠れたままである。そしてその状態は、「生命は存在するすべてであり、存在するすべてに充満している」ということ、すなわち「存在するのは生命のみである」ということが、私たちがいま科学と呼んでいるものの中心原理となるときまでつづくことだろう。
 しかし、そのときは必ず訪れる。そのとき私たちは、魂の物理学をスタートさせることになる。そのときから私たちは、生命について、死んでいるものではなく生きているものをもちいて研究するようになる。人間や動物の死体を解剖することによって生命の神秘を解き明かそうなどとはしなくなる。そのような行為は、いつの日か、きわめて原始的な学習法だと見なされるようになるだろう。なぜならば、死体のなかには意識が存在していないからである。
(『魂との対話』坂本貢一訳、サンマーク出版、2003、pp.205-206)

 このように述べているゲーリー・ズーカフは、人類の進化と魂の問題を書き続けて、累計で450万部のベストセラーを記録している科学者である。その人が、「生命は存在するすべてであり、存在するすべてに充満している」などと言っているのである。ズーカフを知らないで、このような言葉に接する人は、あるいは、これらの言葉が、霊界からの啓示であるかのような錯覚をもつかもしれない。そこで今度は、霊界からの視点では、宇宙の生命はどのように捉えられているかをみてみることにしたい。シルバー・バーチは、かつて或る交霊会の招待客から、「夜空に見える星は、ただの物体でしょうか、それとも生命が存在するのでしょうか」と訊かれたことがある。それに対してシルバー・バーチは、こう答えた。

 宇宙には最高界の天使的存在から、意識がようやく明滅する程度の最低の魂にいたるまでの、さまざまな意識的段階にある生命が無数に存在します。意識的生命が地球だけに限られていると思ってはなりません。地球は数かぎりなく存在する天体のうちの、たった一つにすぎません。無限なる叡智をもつ宇宙の大霊が、無限なる宇宙において無限なる意識的段階にある無数の生命に無限の生活の場を与えることができないはずがありません。有機的生命の存在する天体は無数にあります。ただし、その生命は必ずしもあなたがたが見慣れている形体をとるわけではありません。以上の説明が私としては精一杯です。(『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)潮文社、1986、p.170)

 このシルバー・バーチは、もちろんズーカフとは違って、この地上の人ではない。ほかならぬ「宇宙の知的生命体」の一人であり、自分でも「大気圏外から来た生物」と自分のことを冗談めかして言っている。しかもその知性は、疑いもなく、地上の人間よりははるかに高い。そのシルバー・バーチが、「有機的生命の存在する天体は無数に」あるという。ただし、その生命は必ずしも私たちがこの地上で見慣れている形体をとるわけではないと断っている。そのうえで、シルバー・バーチは、宇宙はたった一つでその中に無数の生命が生きる生活の場がある、とつぎのように述べている。

 宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変らず同じこの宇宙で生き続けているのです。ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。(『シルバー・バーチの霊訓 (12)』近藤千雄訳編、潮文社、1988、pp.32-33)

 広大な宇宙の広がりのなかでは、米粒一つにもならないようなちっぽけな地球であっても、宇宙の一部であることには変わりはない。見方によっては、地球が宇宙に溶け込んでいって合一するように、地上世界と霊界が渾然一体となっていくような状況が考えられる。地上ではヴォイジャー1号と2号を打ち上げた35年以上も前から、この広大な宇宙に存在するはずの知的生命体へのメッセージを送ることを心がけてきた。これは事実である。そして一方では、シルバー・バーチのように、「知的生命体」として、宇宙からすでに膨大なメッセージを地球に届け続けてきた事実もある。この二つの事実は、やがて渾然一体となり、生命についての一つの事実、一つの真理となって、私たちの前に拓けていくことになるのかもしれない。



          **********


   古代日本における国際交流と私の前世
      ―生活と文化をめぐる随想(86)―


   世界史の本や年表などを開いて、古代の世界を見てみると、エジプト、ギリシア、中国などの歴史が5千年ほどまで遡れるのに対して、日本の歴史で遡れるのは、せいぜい2千年ほどである。もちろん2千年前には、日本という統一体の国はまだなかった。日本列島にはおよそ1万2千年前から縄文文化が入っていた後、2千3百年前頃から弥生文化が起こっていたことは、各地の遺跡などからわかっているが、紀元1〜2世紀頃の日本には、倭人の小国が各地に分立していたと考えられるだけである。その頃の日本列島には、まだ文字がなかったし、記録でたどることもできない。

 これに対して、中国ではすでに、紀元前1千6百年の殷の時代から甲骨文字で主要な国事を記録し始めている。この甲骨文字は系統的な文字で、その後の中国での漢字の発展の基礎となった。紀元前202年には前漢の時代に入り、高祖から7代目の武帝が紀元前136年に「五経博士」をおいて、詩・書・易・礼・春秋の5教典を専門に教授する博士の制度を取り入れている。この儒教の国教化を契機にして、儒教は次第に政治と教育の基本になり、その影響力は、中国のみならず、その後、朝鮮、日本にも及んでいくようになった。

 紀元前108年、武帝の遠征軍は、当時の衛氏朝鮮を滅ぼし、漢帝国は、現在の遼寧省、吉林省の南東部を含めた朝鮮半島に楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡をおいて漢の直轄地とした。その後、朝鮮四郡は、楽浪を残すのみとなったが、この楽浪郡を通じて、朝鮮半島や日本に多くの中国文化がもたらされることになる。楽浪郡というのは、現在のソウルを含む広範囲な一帯である。

 歴史家の司馬遷が、この武帝に至るまでの中国悠久の歴史を全130巻にまとめて『史記』を書き上げたのは、紀元前97年頃である。彼は執筆にあたり、始皇帝の焚書などによる史料の制約に苦労したといわれるが、古記録以外に、自身の見聞や民間の語り部なども利用している。2千年前の書でありながら、全巻に流れている卓越した人間観察と批判精神、それに生彩に富む叙述が、この歴史書に高い文学的価値をも与えられることになった。

 その頃、朝鮮では、夫余国が成立している。そして、紀元前37年頃には、高句麗も建国された。その後、紀元21年頃に夫余国に侵攻して勢力を広げていった高句麗は、遼東、遼西への侵攻を繰り返し、漢帝国の朝鮮支配は後退していった。当時は後漢の光武帝の時代で、ここで、紀元57年、歴史年表では初めて、日本に関する記述が登場する。「倭人、入貢し、光武帝より印綬を受く」というのがそれである。漢帝国では、紀元前後、日本列島に倭人が百あまりの集団に分かれて住んでいるとの情報は得ていた。光武帝は、その時入貢してきた倭人の首長の使節を引見し、倭人の首長を倭の奴国(なこく)王と認めて、「漢委奴国王」の金印を与えた。これが後に江戸時代になって福岡県の志賀島で土中から発見された金印である。

 その頃の日本列島は、弥生時代の中期から後期にあたり、農耕社会が発展の一途をたどっていた。佐賀県の吉野ヶ里遺跡に代表される大型の環濠集落や朝鮮系の山城の性格を帯びた高地性集落が各地で盛んに築かれ、鉄製の武器も大量に生産されるようになって、地域集団の間の戦乱が頻繁に起こるようになっていた。そのうちの一団が、後漢へ使節を送って入貢したのも、中国の権威による後ろ盾を求めたものであったと考えられている。

 同じく、107年には、倭の面土国の王・帥升(すいしょう)が派遣したと称する別の使節団が、後漢の都、洛陽に現われて、当時の安帝に奴隷160人を献上したという記録がある。147年から189年までは「倭国の内乱」と記した年表もあるから、日本列島の内乱状態は、その後も長く続いていたのであろう。そして、この後に登場してくるのが、あの女王・卑弥呼である。239年に「邪馬台国の卑弥呼、魏に遣使」と記録に残されている。これらの記録は、すべて中国からの漢字によるものである。

 実は、このように、古代の日本列島を中国と朝鮮との関係のなかで見ていこうとしているのは、私と長男の潔典が、古代日本の前世で中国・朝鮮との交流に深く関わっていたと、何度か言われてきたからである。優れた霊能者のA師によれば、私は、古代日本に、二度ほど生まれたことになっている。最初は、おそらく、この卑弥呼が生きていた頃を含めて、2世紀から3世紀にかけての古墳文化の時代で、その次は、5世紀から6世紀にかけての、聖徳太子が生きていた飛鳥時代である。時代区分で、若干の誤差があるかもしれないが、これらのいずれの時代も、中国との、そして、それ以上に朝鮮半島との交流が盛んに行なわれていて、その背景の下に、「倭国の百余に分かれていた小国」は次第に、大和という一つの国家形態に収斂されていったと考えられるのである。まず、私はA師から長男潔典からのメッセージを次のように伝えられたことがあった。

 お父さんと僕とは、前世において何度か、国際関係のなかで重要な役目を果たしてきた使命のパートナー同士でした。また、実際、肉の親子であったこともあり、たいそう可愛がってくれました。使命のパートナーであったときはいろいろと助言をしてくれ、教え導いたり守ってくれました。古代から近代にかけて、何度かお互い格別な関係を結び、特に国際関係において二つの国と国の間の調整役などを務めたり、学問の世界でも、言語学の分野でも、お互いに切磋琢磨しあいました。(1999.06.05)

 この3年後に伝えられたのは、つぎのようなメッセージである。

 紀元4世紀の頃は、日本に生きていました。古墳時代です。朝鮮半島との行き来があった頃です。日本と韓国の間で使節が行き来していました。それに関わる仕事をしていました。政治の仕事をしていました。しかし、どちらかというと、人間性に富むため、ひとの世話をしてあげていたというのが実際のところです。非常に人道的な面の強い人でした。形式的な人ではありませんでした。しかし、国際政治における矛盾も知り、悩んでいました。一部通訳を兼ねていました。二つの国の間の交流のなかでのずるい人たちの動きにとても悩みました。それを利用しようとしたり騙そうとする人たちについてです。(2002.06.05)

 そして、さらにその3年後には、次のようにも言われている。

 紀元3世紀末から4世紀にかけての日本の古墳時代には、中国との国交に続き、朝鮮半島との交流も始まりました。彼(潔典)はそのとき知恵者でした。当時の世界情勢を汲んで、何をどのようにしたらよいのか、それを考え、その対策を立てる人でした。自分で直接、中国や朝鮮半島に出向くことはなかったのですが、双方を行き来する日本人であったり朝鮮の人などに対して、必要なことを指示したり教えたり、取り計らったりしました。
 あなたは、直接の仕事はそのことではなかったのですが、あなたの仕事の一部として、そのことに関して監督官のポストを与えられていました。あなたに最終責任がありました。すべてにおいての最終責任者ではありませんでしたが、ある部分においては、あなたは最終責任者でした。しかし、彼はきちんと、的確に行ってくれたので、あなたは最終責任を負うといっても、困ったり苦労したり迷惑を蒙ったりすることはほとんどなくてすみました。あなた自身、当時は、学者でした。当時の世界である東アジアに関して詳しく、細かいことまで知っていました。あるいは把握していました。そのため重きがおかれていたのです。
(2005.08.31)

 もし、このA師による私と潔典の前世が事実であるとすれば、古代人としての私と潔典が関わった中国、朝鮮半島、日本列島を地理的基盤とする相互の交流は、どのようなものであったか。そのイメージを紡ぎ出すことに関心を持たざるをえないのであるが、その場合に注意しなければならないのは、おそらく、近代国家が成立して以来の国際交流とは「国際」の概念も「交流」の実態も決して同じではないであろうということである。

 特に古代においては、当時の日本列島内の陸路が整備されていない状況で移動が決して容易でないのに対して、朝鮮半島との交流は、いわば狭い海峡が小船でも渡れるハイウエイになって、むしろ、相互に移動し易い関係にあったことを無視することは出来ない。日本列島と中国との交流は楽浪郡を経由する場合を除いては、確かに命がけで、この後に続く、遣隋使や遣唐使なども、しばしば遭難して多くの人命が失われている。唐招提寺の鑑真も日本に来るのに5回失敗し、753年、6回目にようやく鹿児島に辿りついている。しかし、日本列島と朝鮮半島の間では、庶民レベルでも移動は困難ではなく、出入国も自由で、そのことが、文化の普及にも大きな意味をもっていた。作家の松本清張は『古代史紀』のなかで、南朝鮮と北部九州はむしろ同一生活圏であるとしているくらいである。彼は、次のように述べている。

 「わたしは三世紀には南朝鮮の一角も北部九州も倭の民族が居住し、両地域は同一文化と生活圏であったと思う。南朝鮮に北九州の倭種が移動して植民地をつくったのでもなければ、その逆でもなかった。もちろん両者の交通はあったが、もともとは両地域に以前から住んでいたのであって、分かりやすくいうと南朝鮮と日本列島と『倭種の国』が二つ存在していたのである。」(1982年、日本放送出版協会、33頁)

 この、「南朝鮮と日本列島と『倭種の国』が二つ存在していた」というのは、どのような状況であろうか。少なくとも、近代国家としての日本と韓国の間で日本人と韓国人が国際交流するというのとは、かなり様相が違っていたはずである。ここでは、改めて古代の日本列島に生きていた人々がどのような人々であったかをもみておく必要があると思われる。まず、卑弥呼時代から百余の小国に分かれて、日本列島の各地でつばぜり合いを繰り返していた豪族または首長とは、一体どのような人たちであったか。それについての松本清張の推測は、こうである。

 (彼らは)むしろ天皇家の祖先が南朝鮮から日本に渡来して、大和盆地に割り込んでくる以前からの在地の勢力として居住していたものと考えられる。そういう豪族がいかなる種族であるかということははっきりしませんが、類推でいうならば、おそらくそれ以前から日本に移住していた朝鮮人が主体ではなかったろうかと思います。朝鮮からの渡来はいくつもの波になっているが、おおまかに言って、第一期と第二期とわけると、第一期は弥生時代の早期(前三〇〇年)、第二期は弥生時代の晩期(後三〇〇年)で、次の古墳時代をつくったのは、この第二期の渡来人が主であったと思われます。(前掲書、79頁)

 ここでは、日本の古墳時代を作り上げた立役者も、朝鮮半島からの渡来人が主体であったというのであるが、もし、そうであるとすると、その後の朝鮮半島との交流も、おそらく、朝鮮半島からの渡来人がその主役ではなかったかということになる。それでは朝鮮半島からは一体どれくらいの規模で渡来してきたのであろうか。

 京都にある国際日本文化研究センターの埴原和郎氏がコンピュータを使って計算した結果では、古代朝鮮半島と日本の人間集団の動きは、朝鮮半島から日本列島に総計約百万人ぐらいの人数が来ているだろうという。(朝日新聞社編『日本古代史の謎』1992年、34頁) また、古い『吉備郡史』などには、「大和の如きは事実上漢人(あやひと)の国、山城は事実上秦(はた)の国」と書かれてあって、これによれば、現在の奈良県や京都府などの住民は、大半が渡来人であったということが強く示唆されている。(金達寿『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫、1999年、69頁)

 これは少し横道に入ることになるかもしれないが、現代の日本人の中のこのような渡来人の痕跡をより科学的で正確に探る方法としては、DNA鑑定によるものがある。かつて神奈川県葉山町の国立総合研究大学院大学のDNA研究者の宝来聡博士が、現代の日本人のルーツを探る試みとして、日本人のミトコンドリアDNAを周辺の外国と比較した結果を、NHKスペシャル「遺伝子」第三集で放映したことがあった(2000.01.02)

 これによると、本州の日本人が持っているミトコンドリアのDNAタイプは、割合の多いほうからあげると、中国人に多いタイプが25.8パーセント、韓国人に多いタイプが24.2パーセント、沖縄県人に多いタイプが16.1パーセント、アイヌに多いタイプが8.1パーセントなどとなっており、日本人固有のタイプは4.8パーセントであるにすぎない。つまり、現代日本人の二人に一人は、血統的には中国系ないしは韓国系であるということになる。これは勿論、古代日本における渡来人の大量流入と無関係ではないであろう。松本清張は、このような日本人のルーツについては彼独自の推測をたてているが、それはつぎのようなものである。少し長いがそのまま引用してみよう。

 そもそも原日本人なるものがどういうものかまだ明確でないのですが、いわれているように、インドネシア、ポリネシア、インドシナ、中国の南方、朝鮮半島、あるいは朝鮮半島を経由してきたところの、もっと北アジアの民族、そういうものの混成であったでしょう。そこに地理的関係から朝鮮人の渡来が次第に増えてきた。日本での混血の繰り返しによって、いわゆる「倭種」化されたと思いますが、そうした人口の増殖がそのまま勢力となって、たとえば出雲地方にも、丹波地方にも、北陸地方にも、さらに吉備、山城、大和、紀伊、尾張あたりにも広がり、それぞれ集団をもっていたと思われます。いうなれば原始村落共同体、あるいは部族国家的なものが方々にあった。それが地方別にブロックを形成し、出雲とか吉備だとか大和だとかいうようなところに、連合勢力体なるものをつくっていったと思います。しかしこの部族国家的なブロックは、相互の間に緊密な連絡はなく、政治的な協力関係もなかった。いわばルーズな関係だったと思われます。そこに皇室の祖先となった第二期の渡来人集団が大和に入り込んできたのですが、その際も、このルーズな連合体は、一致して新しくきた有力な勢力団体に抵抗することもなかった。そこで大和だけが第二期の渡来人によって占領され、それが次第に各地方に侵略していったのだと思います。(前掲書、79−80頁)

 松本清張は、ここで江上波夫氏の騎馬民族説を持ち出している。江上説は南朝鮮からの渡来勢力が北部九州にきて、そこで百年くらい居て『古事記』『日本書紀』がいうところの崇神天皇となり、それから応神天皇として河内に上陸し、そこで「王朝」を立て、のちに大和勢力を吸収するというのである。それに対して、松本清張は、渡来勢力は北部九州には上陸せず、応神天皇としてすぐに河内から大和盆地に入ったと考えているようである。いずれにせよ、卑弥呼の時代から日本列島で百余の集団に分かれて争乱を繰り返していたその首長たちの大半が、朝鮮半島からの渡来人であるということは注目に値することである。作家では、坂口安吾も、この古代日本の「渡来人」について、『安吾日本史』(東洋書院、1988年)のなかで、つぎのように独自の考察を行なっている。

 日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。(202頁)

 このように、古代日本ではまだ日本が国としてはまとまっておらず、多くの小国に分かれて争乱を繰り返していた古墳時代から、朝鮮からの移住者が陸続として続いていたとするならば、それは当然、日本列島の住民の構成にも大きな影響を及ぼしていったはずである。しかも、彼らは、「相当の文化」を持っていて、先住民よりも社会的に優位に立つようになっていった。このことが意味することは、決して過小評価できない。坂口安吾は、さらにこうも述べている。

 つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。(前掲書、202頁)

 このような古代日本の社会的背景を考えながら、ここでまた、私の前世についてのA師のことばを取り上げてみることにする。A師のことばを一字一句そのまま再現するとつぎのようになる。

 (あなたの前世には)紀元3世紀から4世紀にかけての古墳時代がありました。神宮皇后から応神天皇にかけての時代です。その時あなたは朝鮮半島で生きていました。王、そういう苗字だったようです。王と書いて「ワン」と読みます。主に教育面で人々の生活文化を向上するように計らう役目です。その役目を負って日本にやって来ました。ただ、その場合、朝鮮半島の母国で、あなたは血気盛んで持論をもっており譲らないところがあったので、半分見せしめとして日本という外地に移されたのです。家族を同行してのことでした。(2011.06.07)

 まず、紀元3世紀から4世紀にかけての古墳時代はわかるが、それが、「神宮皇后から応神天皇にかけての時代」と言われても、これは日本の中央集権が確立する以前の豪族割拠の時代であって、「神宮皇后」とか「応神天皇」というのは、後になって『古事記』や『日本書紀』によって恣意的に創りあげられた名称であったといってよいであろう。現代的な意味での「天皇」というのは、まだその頃は存在していなかった。彼らはおそらく数多く居たその当時の豪族の一部であったにちがいない。ともあれ、私が生きていたといわれる朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国時代であったが、そのうちのどの国に私が生まれたのかはわからない。私は「教育面で人々の生活文化を向上するように計らう役目」を持っていたとすれば、おそらく役人のような存在で、それが血気盛んな性格のゆえに、日本へ左遷されたということになっている。この後は、こう続く。

 日本に来てから、あなたは屈辱を味わいながら、当時、後進国であった日本のなかで、ことばや文化を教え伝えました。その縁で、すぐ後に生まれ変わりました。今度は、紀元6世紀の頃の飛鳥時代です。今度は日本人になって生まれ変わりました。日本の地で。そして朝鮮半島や中国との架け橋となり、日本人に国際的な視野を持たせました。当時、大阪から奈良にかけての地が拠点であったので、今生でもその地に誕生しました。(2011.06.07)

 朝鮮半島から家族と一緒に日本へ左遷された私は、今度は6世紀の日本に生まれ変わって、「国際交流」に尽力することになったようである。この「国際交流」に関わっていたというのは、A師から何度も繰り返されているから、そのような事実があったのかもしれない。そして、この時の家族には、潔典も含まれていたようである。この状況については、その前年にも、つぎのように述べられていた。

 日本の飛鳥時代にも生まれ変わりました。日本が朝鮮半島や中国と国交を盛んに行うようになった頃です。文化の交流にあなたは一役かっていました。しかし、自分が納得できないことは役目でも行いませんでした。気難しい人でした。しかし、本当に重要なことだと思えたときは、むしろ率先して行う人でした。言語学の感性をそなえており外国に興味をもっていて、中国や朝鮮半島の人々とのコミュニケーションを交わすことが出来ました。そのため、海外からの大使や使者に対して、要人などとコミュニケーションをし取り決めを行う際に、あなたは求められました。(2010.08.17)

 ここで再度、注目しておきたいのだが、古代では朝鮮と日本列島の間を隔てる海は、障壁となっていたわけではなく、むしろ「ハイウエイ」として人々の船による移動を容易にしていた。本国の朝鮮では、日本列島の小国分立による争乱以上に、政情不安定による争乱が続いていたから、安住の地を求めて大量の移住者があっても不思議ではない。しかも彼らは、日本列島に着いてからも広範囲に広がって、坂口安吾もつぎに述べるように、おそらく「近隣の支配的地位」につく場合が多かったようである。前世の私もそのような流れに乗っていた一人であったかもしれない。坂口安吾はいう。

 ・・・・・むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少なくなかったと思われる。(前掲書、202-203頁)

 このように、古代日本の各地の支配層である首長や豪族の大半が、朝鮮経由の渡来人であるとすれば、その後の日本列島で、彼らが徐々に日本の中央政権に収斂されていく過程においても、あるいは、統一的な中央政権が確立された後も、朝鮮半島の高句麗と百済と新羅の勢力争いが日本にも大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。中央政権の中で彼らは、それぞれに、高句麗系、百済系、新羅系となって勢力を維持していくことになったであろう。これが、日本の古代史の背景にある大きな潮流になっていたに違いない。聖徳太子の大化の改新はこのような背景の中で行なわれた一大政治改革であった。

 「何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない」と坂口安吾は述べているが、この大化の改新によって、日本の中央政府は次第に本格的に確立されていった。そして、奈良平安朝のころになって初めて、雑多の系統の民族が日本人として統一されるに至ったのである。

 坂口安吾は、「太子の系統は高句麗の滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は、聖徳太子であった」と聖徳太子の大化の改新の業績を称えた上で、それでも残った派閥について、次のように指摘している。

 こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼって日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が問題であり、謎である。甚しい謎だ。(前掲書、204頁)

 このように、古代日本の歴史には文字に書かれた記録がないだけに多くの謎が含まれている。そして、その空白を戦前の歴史教育では、朝鮮や中国を侵略していくための日本優位の神話や皇国史観で埋めていった。当然のことながら、日本が中国、朝鮮にくらべて政治的にも、文化的にも後進国であった事実は伏せられた。東アジアでの日本の存在を大昔から比類のない皇国として美化し、その基礎になった大和朝廷もすでに2,3世紀には確立していたとしていたのである。現在の歴史教育でも、古代の日本については、神話時代の話こそ切り取られてはいるが、特に朝鮮や中国との関係で、皇国史観の残滓が拭いきれているわけではない。

 この歴史教育の偏向に一石を投じたのが、ほかならぬ現天皇の発言である。1984年9月、韓国の当時の全斗煥大統領が日本を訪問した際、9月6日の宮中晩餐会で天皇自らが述べたことばのなかに、次のような部分があった。

 顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々な分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は深い隣人関係にあったのであります・・・・・・

 ここで天皇が、「紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には」と述べているのは、極めて重要である。この国家形成の時代については、歴史学、考古学の学会でも諸説があって定まっておらず、高等学校の教科書などでも普通は、紀元四世紀(350年頃)とされていた。亀井高孝・三上次男・林健太郎編の「世界史年表」(吉川弘文館、1989年)等にもそう記録されている。それを、天皇は200年から300年遅らせたのである。天皇のことばは、もとより、日本の最高レベルの人たちによって、いろいろと検討されたうえでの発言であったであろう。それだけに、この発言は、日本の歴史教育の上でも大きく修正を迫るものになった。

 たとえば、作家の金達寿は、『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫、1985年)のなかで、井上光貞、笠原一男氏らの編集による高校教科書『詳説 日本史』の「朝鮮半島への進出」という項を例にあげて鋭く批判しているが、その教科書に盛られているのは次のような記述である。(291頁)

 大和朝廷は四世紀後半から五世紀初めにかけて、すすんだ生産技術や鉄資源を獲得するために朝鮮半島に進出し、まだ小国家群のままの状態であった半島南部の弁韓諸国をその勢力下におさめた。これが任那である。大和朝廷はさらに百済・新羅をおさえ、高句麗とも戦った。

 この教科書の記述は明らかに史実からはみ出ていておかしい。天皇のことばによれば、「四世紀後半から五世紀初め」には、まだ日本には統一国家が成立しておらず、弁韓諸国をその勢力下におさめられるはずもなかった。金達寿は、「弁韓諸国」そのものが間違いで、「四世紀後半」には、もうこの「弁韓諸国」なるものは存在していなかったと断定する。そして、天皇のことばのなかで、「多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります」についても、「教えた」とあるのは、賛成できないという。日本列島にやってきた渡来人は新天地を求めて自由にやってきたのであって、「教える」ためにやってきたのではない、というのが金達寿の主張であるが、これは、次の五経博士の派遣などを例外として、本稿でこれまでみてきたことからも、説得力があるといえるであろう。

 前掲の「世界史年表」では、「513年頃に百済が日本に五経博士を送る」と記録されているが、これは、冒頭にとりあげた前漢の武帝の「五経博士」の制度がすでに百済では定着していて、それが日本に送られたということであろう。しかし、この場合も日本ではまだ統一政権は樹立されていなかった。大和政権成立に向けての基礎固めが進められている段階で百済が制度の整備に助力したということである。これも、「朝鮮から日本へ」という感覚ではなく、おそらく実態は、百済人が日本に渡っていた同族の百済人のために、という色合いが濃いのではなかったか。「半島南部の弁韓諸国をその勢力下におさめた。これが任那である」と書かれているその「任那」も、外国のなかで勝ち取った自国の領土という意味ではなくて、もとからあった同族の勢力を取り戻して絆を深めたというように捉えるべきかもしれない。

 ここでもう一度よく、朝鮮半島や中国からの渡来人の動きを振り返ってみたい。この未開の日本列島が気候もよく物資も豊かで暮らしよいときいて、特に目と鼻の朝鮮半島からは一家や一族をまとめて移り住む者が日も夜も途切れることなくつづいていた。そして、五十年、百年とたつうちに、この島の南から北の果てまで、山奥にも津々浦々にも、彼らが住みつき、次第に暮しにくくなったのである。そこで新しく割りこんだり、自分の耕地をひろげるために、争いが起るようになった。

 こういう争いが真剣になると、一家族や、一部落の力では自分の安住の保障がしきれないから、次第に大きな団結を結ぶ必要が起ってくる。そのような団結の最後のものとして形をとるのは、この島国へ移住前の国籍にたよることである。手前勝手に移住して住み易い所に安住の地をもとめていた居住民たちが、改めて移住前の国籍で団結する必要が起ったのである。その結果として、各団結ごとに強力な首領も必要となった。そして各々の首領は中央政権を争うために、各々の地方の部分的な団結を一丸とする必要があったし、本国の勢力と結ぶ必要もあった。おそらくこのような事情が、この教科書では「大和朝廷が朝鮮半島に進出し、まだ小国家群のままの状態であった半島南部の弁韓諸国をその勢力下におさめたり、百済・新羅をおさえ、高句麗とも戦った」、と粉飾されてしまっているのであろう。

 繰り返しになるが、紀元四世紀後半から五世紀初めにかけては、まだ「大和朝廷」なるものは成立していなかった。しかし、そのことが当時の日本列島と朝鮮半島や中国との「国際交流」を妨げたことには決してならない。むしろ、日本各地に割拠する豪族が抗争に競り勝って中央集権を目指していくためには、当時の先進国である朝鮮や中国との結びつきが何よりも必要であったといえないことはない。そのような背景の中で、古代日本における私の前世は、つぎのようにも示されている。

 二人とも大使でした。国と国、民族と民族との間を調停したり、国交が回復するように計らったり、あるいは文化や教育、ときに技術の面で互いの国が成長し、繁栄するために力を尽くしました。古代の日本の大和朝廷の時代には、朝鮮半島と日本との間で国交が始まり、朝鮮半島のほうから技術や文物を帰化人となった人たちがもたらしてきています。そのころの時代、二人は日本と朝鮮半島との間で、互いに有益となるように、またバランスがとれるように、計らいました。しかしそれは、なかなか難しいことでもあったのです。紀元4世紀から5世紀にかけての頃です。神宮皇后からその息子の応神天皇にかけての時代です。(2000.06.03)

 古代日本での前世を常識的な現代用語で述べられると、どうしても時代区分などのずれを抑えきれなくなってしまうが、ここに出てくる「大和朝廷」のほかに、朝鮮半島からの「帰化人」という表現もおそらく実態にそぐわない。そもそも、その頃の朝鮮半島と日本列島との交流では、数多くの渡来人はあっても、彼らは「帰化人」ではありえない。しかし、紀元4世紀から5世紀にかけての頃、「国際交流」が盛んであったということは理解できるし、私と潔典がこのように「国際交流」に尽くしていたというのも、すでに記載してきたものを含めて、何度もA師によって伝えられているから、それを敢えて否定することもないであろう。このA師による私と潔典との前世は、なお次のように続く。

 中国のほうとの国交も始まっていました。あなたは主に中国のほうとの間での国際交流ということで役目がありました。彼の方は、朝鮮半島との関わりで責任がありました。当時の世界といえば、日本にとって中国や朝鮮半島でした。あなたは中国との国交のほうで忙しく、責任も重かったので、ほとんどそちらに忙殺されていました。朝鮮半島との国交はなかなか難しい問題をはらんでいて、彼はとても大変でした。あなたは何となく気にはなっていたけれども、自分のほうでかかずらわされて、なかなか意識を彼のほうに向けることができませんでした。
  あなたは彼を含めて、何人か何十人かの規模の、国際交流に役目のある大使や外交官のような人たちのまとめ役、また育て役の親という立場にありました。彼を含めて何十人かの使節で派遣される者たちの育成者、また指導者だったのです。日本対海外での交流の派遣員らのあなたは元締め的存在でした。彼のことは、直接の息子ではなかったようですが、とても有望であると見なし、とても楽しみにしていました。朝鮮半島との国交が始まったので、とてもそれは日本にとっても重大だと思われ、有能で将来有望視されていた彼をそちらに振り向けることとなりました。
(2000.06.03)

 古代日本における私と潔典の前世は、このように大同小異の内容のものが繰り返し伝えられてきた。そして、最後に伝えられたのが、次のような内容である。これも、それまでに伝えられていた何回かの内容とほとんど変わりはなく、いわばダイジェスト版のような形になった。A師は、これらの記録を宇宙のアカシック・レコードから読み取っているといわれるが、そのために、何度読み取っても同じような内容になるのはいわば当たり前で、それも非凡な霊能力を持つA師だからこそ為しうる技というべきなのかもしれない。

 昔の朝鮮半島や中国と、二度ほど生まれ変わりのなかで、あなたはかかわりがありました。一度目は、日本の古墳時代、応仁天皇が日本を治めていた頃です。あなたは学問の造詣が深く、知恵者として国が政策を決める際、呼ばれ尋ねられることが何度かありました。ふだんは、日本国内で教育の任に当たっていました。
 その当時、潔典さんは、学術的な研究に従事し始めていました。日本が国際社会として、確立するために日本の国内の教育レベルを上げることが彼の念願でした。あなたはそのような彼を頼もしく思い、期待して、師匠として、また父親として思い続けていました。そして、実際にも見てあげていました。
 二度目の人生は、飛鳥時代です。推古天皇が日本の国を治め、聖徳太子が顧問に当たっていたころです。あなたは監督者でした。当時の中国や朝鮮半島との文化交流において使節を派遣する際、あなたが決めたり取り計らったりしていました。その時にも潔典さんが傍にいて、外交官の一人として育成され、二度ほど、朝鮮半島に派遣されました。このようにあなた方親子は、学問と使命の両方で深く関わっていたのです。
(2012.06.06)

 紀元3、4世紀の頃とは違って、6世紀から7世紀にかけての飛鳥時代になると、国際交流のイメージもかなりはっきりしてくる。まず大和朝廷の基礎が固まりつつあり、推古天皇の時、聖徳太子が第一回の遣隋使を派遣している。これは日本側には記録がないが、『隋書』によって600年のことであったことが確認されている。そして第二回の遣隋使が派遣されたのが607年で、この時は小野妹子が大使であった。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、背伸びした新興国家の気負いと高揚感の滲む国書を携えて行ったことでも知られている。

 この遣隋使はその翌年608年にも派遣され、その後、聖徳太子が622年に亡くなってからも、630年に今度は遣唐使のかたちで、犬上御田鍬を大使として引き継がれていくことになった。このあたりから、留学生・高向玄理、留学僧・南淵請安など、多くの名前が出てくるようになる。A師のいわれることをそのまま受け止めれば、私と潔典は、聖徳太子を初め、これらの留学生、留学僧たちとも、おそらく、極めて近い立場に居たのみならず、国際交流という職掌に深く関わってきたという意味では、ほとんど身内のような親しい関係にあったといっていいのかもしれない。

  (2012.11.01)



          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


   親鸞の他力信仰の教えについて
     ―生活と文化をめぐる随想(85)―


 親鸞の師の法然は12世紀前半から13世紀の初め頃の人で、親鸞よりは四十歳ばかり年上でした。末法の世に人々が救われるには、念仏よりほかにはないと説いて、わが国に浄土宗を創めた祖師です。もともと比叡山において長年修行に励み、比叡山の座主になることを期待されていたほどの学識豊かな秀才でしたが、民衆の疲弊困窮ぶりに目を向けようとはせず、貴族のためにのみ奉仕して現世利益を図る当時の仏教には深い疑問を感じ始めるようになります。その法然が、中国の善導大師の『勧経疎』を読んでいて、そのなかの「一心にもっぱら阿弥陀の名号を念じることによって浄土に往生できる」ということばに触発されたのが、法然の回心の始まりであったといわれています。

 このように、法然は、万巻の経典から善導大師のひと言に触れて、阿弥陀仏という仏に出会い、それまでに学んだことのすべてを投げ打って阿弥陀仏に帰依するようになりましたが、当時の仏教のあり方に疑問を抱いていた親鸞もまた、その法然の思想と教えに強く惹かれていきます。やがて、それまでの比叡山での学問や修行のすべてを投げ打って、吉水にあった法然の草庵に通うようになり、弟子入りを認められます。親鸞は、新参者でも誰よりも熱心で真摯な法然の信心の理解者でしたが、そのような親鸞の、他力念仏の信心の深さを物語る挿話が『歎異抄』第十八条にも残されています。

 そこでは、親鸞と他の弟子たちの間で、信心について議論されたことが述べられています。当時はまだ善信という名前であった親鸞が、善信の信心も師匠の法然上人の信心も同じであると言ったことから、他の弟子たちから激しい非難を受けたのです。法然においては、信心もまた「他力」にほかならないのですが、この信心が他力であるという受け留め方は、念仏に目覚めた法然の高弟たちの間でも、あまり容易ではなかったようです。

 この部分は、たとえば吉川英治の『親鸞』(講談社、1993年)には、法然の高弟たちが信心の誠について、いろいろと議論している場面として、取り上げられています。「吾々は、ひとしく浄土に生きんという理想をもっている。けれど、凡夫の吾々と師の上人(法然)とは、信心の誠がどうしても違うはずです。われらは、いつになったら師の上人のような心境になって、真の安心が得られるだろうかと考えたくなる」と、ある高弟が言って、当時彼らにとっては新参者であった親鸞に、「いかがです、善信御坊」と意見を求めました。それに対して、若き日の善信(親鸞)は、こう答えるのです。

 「今さら申すまでもないことと私は思う。ひとたび他力信心のおさとしをうけてから、私は、そんな問題に今日まで迷ったことはありません。そのいわれは、師の上人の信心も、他力によって持つところのもの。どこにこの両者にちがいがありましょう。否、師と弟子のみではなく、他力門の信心は、すべて一つであって、違いがあってはならぬと思うのです。」

 若き日の親鸞は、法然上人にくらべたら、学識や人格の上で自分は上人の足元にも及ばないが、しかし、信心については、同じだと言い張りました。しかし、この親鸞のことばには、まわりのみんなは僭越と捉えて納得しませんでした。そこで、一同は、師の法然の前に出て、師じきじきの答えを求めたのです。それに対して、吉川英治はこの本のなかで、師の法然にこう語らせています。(pp.402-403)

 「人により、信心に違いがあると観るのは、自力の信心のことをいうのじゃ。智慧とか、身分とか、男女の差とか、そういうものを根本にして考えるから、信心もまた、智慧、境遇などによって、差のあるものと考えられてくる。― しかし、念仏門の他力の信心というものは、善悪の凡夫、みな等しく、仏のかたより給わる信心であって、みずからの智慧や境遇の力に依ってつかみとる信心ではないのでござる。―ゆえに、法然が信心も、善信が信心も変りはないはず。信心に変りありと考えておわす方々は、この法然が参る浄土へは、手をとりおうても、よも共々参り給うことはかのうまいに……。ようもいちど考えてみられい。いつも一つことを繰り返すようでござるが、もいちどここでも申そう。念仏は絶対他力の教えであるということを」

  最近では、五木寛之さんも『親鸞』(講談社、2010年)を出していますが、ここでは、この信心の違いについて、法然が親鸞に尋ねるかたちになっています。法然は、「仏法について、他人とむやみに法論をたたかわせるのは、よくない。しかし、仲間同士でふだんの疑問を真剣に語り合うことは大事であろう。そこで最後にひとつ、きいておきたい」と言ったあとで、ひと息いれて、おだやかな口調で親鸞(ここでは、範宴という名前になっています)に尋ねるのです。

 「わたしは日々つねに念仏を口にとなえて暮らしておる。その法然の念仏と、そなたがとなえる念仏とは、はたしてちがうところがあるであろうか。それとも同じ念仏として、変わるところがないのか。どうじや」 これに対して、範宴はしばらく考えたあと、「同じ念仏でございましょう。すこしも変わるところはないと思います」と答えました。この答えは、まわりにいる高弟たちには、師の法然を冒涜することばのように受け取られました。その様子を、この本『親鸞』(下)から引用すると、次のようになります。

 「なんと― 」
 蓮空が怒りの声をあげた。遵西は呆れはてたといわんばかりに唇をゆがめ、首をふっている。
 「安楽房は、この範宴の意見をどう思う?」
 法然がきいた。遵西は言下に答えた。
 「とんでもない思いあがりでございます。反論する気もありません」
 「よく、そのようなことを」
 と、横で蓮空がけもののような唸り声をあげた。
 「我慢も、もうこれまでじゃ」
 いきなりとびかかった蓮空の拳が、固い石のように範宴の顔を連打した。
 「やめよ、蓮空」
 法然の声が厳しくひびいた。さきほどまでのおだやかな声とはまったくちがう、戦場の武者頭のような野太い声だった。
 「わたしの念仏も、範宴の念仏も、そして蓮空や道西の念仏も、ここにあっまるすべての人びとの念仏も、すべてみ仏とのご縁によってうまれる念仏じゃ。阿弥陀如来からたまわった念仏であることに変わりはない。そう思えば、この法然房源空の念仏も、そなたたちの念仏も、まったく同じ念仏であろう。範宴とやら、よう答えた。きょうからそなたを、この法然の仲間の一人とし て吉水に迎えよう。」(pp.61-62)

 このように親鸞は、若いうちから他力念仏の意味を深く理解していましたが、それだけ深く、法然の人柄と教えに傾倒していたということでしょうか。それから時を経て、法然からも離れて独自の道を歩みはじめた親鸞の信心について、『歎異抄』の第二条には、次のようなことばがあります。

 「弥陀如来の本願が真実であるなら、釈尊の教えも決して嘘ではない。釈尊の教えが真実であるのなら、善導大師のお説きになったことも虚言であるはずはない。善導大師のお説きになったことが真実であるのなら、どうして法然上人のいわれることにまやかしがあろうか。そして、この法然上人のいわれることが真実であるのなら、この親鸞が言っていることも決して空言ではないのです」

 これは、信心に迷いを抱き始めた信者たちが親鸞を訪ねてきて、念仏以外になにか極楽浄土へ往生できる秘策があるのではないかと問われて、親鸞が答えたことばです。ここでは親鸞は、「私はただ、師の法然の、念仏を称えて阿弥陀仏のお助けにあずかれということばをそのまま疑いもなく信じて念仏を称えているだけなのです。そのほかには何もない。もし、法然上人にだまされて、念仏を称えたあげくに地獄に堕ちるとしても、さらされ後悔はしません」とまで述べて、強い信心を披瀝しています。

 それでは、親鸞がこれほどまでに強くもつようになった他力の信心は、自力とはどのように違うのでしょうか。例えば、いま目の前でわが子が池の水に落ちて溺れ死にそうになっているとします。「自力」というのは、腕のない母親のようなもので、いくら悲しく泣き叫んでも、手を差し伸べてわが子を救うことができません。救うためには、わが子をしっかりと掴むことのできる阿弥陀仏の無限に大きな腕が必要で、「他力」とは、その腕に頼ることでしょう。いわば、人の力と仏の力の違いです。その違いを、『歎異抄』の第四条ではつぎのように述べています。

 私たちが、この世で、いくら憐れだ、可哀そうだと思っても、なかなか、生きとし生けるものすべてを助けおおせるものではない。自力では、人間の力には限りがあるから、助けたいという気持ちがあっても中途半端で終わってしまう。これに対して、「他力」では、この世にいる間は、念仏を称えて阿弥陀如来の無限の力にすがり、いのちが終わってからは、仏にそなわる大慈大悲のこころを受けて、思う存分に、迷える人々を救うことができるのである。

 そして、この阿弥陀如来の無限の力にすがるための念仏も、他力が徹底していけば、「念仏は行者のために非行・非善なり」ということになります。これは、『歎異抄』第八条のことばですが、念仏をして修行を積んでいっても、それは、自分が修行しているのではなく、阿弥陀仏の力で修行させられているのだから、行ではない、つまり非行であるというのです。また、念仏をすることによって善を為しているつもりでも、じつは、その念仏は阿弥陀仏から働きかけられて唱えられているわけだから、自分の善ではない、つまり、非善であるというのです。このように、自力ではなく他力を徹底して強調しているのが、親鸞の思想であるといっていいでしょう。

 第六条の、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」も同じです。自分の力で念仏を唱えさせるようにしたのであれば、その人を自分の弟子といってもいいのかもしれないが、すべて阿弥陀仏の導きによって念仏に目覚めてきた人を、自分の弟子などというのはとんでもないことである。だから、親鸞は弟子は一人も持っていない、といっているのです。この第六条には、「如来よりたまわりたる信心」ということばもありますが、信心でさえ、自分が自分の意図で信心しているのではなく、実は、その信心は如来から与えられているのだ、ということになります。

 この他力の教えでは、第十三条のように、わかり易い例もあります。ここでは、このように述べられています。

 ある時、唯円は「そなたは、私の言うことを疑いなく聞けるか」と親鸞から問われて、「はい」と答えます。親鸞は重ねて、「それなら必ず、私の言うとおりにするか」と訊いてきましたので、「その通りにいたします」と返事をしました。すると親鸞は、「それなら、人を千人殺してくれないか。そうすれば、必ず救い取ってもらえるが」と、思いがけないことを言い出したのです。さすがの唯円も、「おことばではございますが、私の力では、千人はおろか、一人だって殺せそうにはありません」と答えました。そこで、親鸞は言います。

 それなら、なぜ親鸞のいうとおりにすると言ったのか。これでもわかるであろう。何事も思いのままに出来るのなら、救いにあずかるために千人殺すようにいわれたら殺すであろう。しかし、自分には一人でも殺す業がないから殺さないだけで、殺さないのは、なにも自分の心が善であるからというわけではない。また、その反対に、殺す気が全くなくても、百人、千人を殺してしまうことも、ないとは限らないのだ。

 自分の行なうことは、こころの良し悪しだけで決められるのではない。阿弥陀仏の不思議な功徳の力によって決められているのに私たちは気が付いていないだけだという他力の教えを、ここでも親鸞は伝えているのです。『歎異抄』は中古文の旧仮名遣いのうえに仏教用語が多く読みづらい面もありますが、それでも、このように要点を拾って見てくると、第一条の「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり」や「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心をようとすとしるべし」が『歎異抄』の全文に流れる伏流になっていることも、よく理解できるような気がします。

 (2012.09.01)



          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



  イギリスにおける前世への憶い
   ―生活と文化をめぐる随想(84)―  

 
 ロチェスターの中心街にある「王政復古の館」
 私は1年間住んでいた間、散歩の途中よくこの前を
 通り、この建物を何度も写真に収めていた。
 近くには、ヴィクトリア女王が1837年に18歳で即位す
 る直前に泊まったという小さなホテルも残されている。


 私が1991年春から一年間住んでいたロチェスターの街は、ロンドンのヴィクトリア駅からケント線に乗って、カンタベリーへ向かう途中にある。ロンドンに着いたばかりのころ、二週間くらいは、ロンドン大学で用意してくれていた大英博物館に近い宿舎に泊まっていた。その間に、所属の学部長が探しておいてくれた大学付近のアパートを二つばかり案内してくれた。行ってみると、通勤に便利なのはいいのだが、まわりは石造りの高い建物ばかりで、どちらも私には気に入らない。息が詰まるような気がした。私は郊外へ出かけて、自分で捜すことにした。そこで、レンタカーでカンタベリーまで出かけて、その帰途、立ち寄ったのが「歴史の街」といわれるロチェスターであった。

 こじんまりとした街の中心部には城壁に囲まれた古城があり、イギリスで2番目に古いというロチェスター大聖堂がそそり立つ。その前が中世の街通りを思わせるような中心街ハイ・ストリートで、昔の面影を今に残している。その街の様子は、あのイギリスの代表的な小説家・チャールズ・ディケンズ(1812-1870)が幾度となく作品に取り上げ、通りや建物や店の壁などに、その作品を示す銅版がはめ込まれていた。私は、この趣のある古い街を歩きまわりながら、なんとなく立ち去り難い思いがしていた。どこかに懐かしい感じがある。私は何の迷いもなくここに住むことに決めて、その2、3日後には、町外れの、閑静な住宅街のなかの一軒家を借りた。

 その家は、日本でいう3LDKで、建物は古いのだが百坪ほどもある美しい芝生の庭が取り柄であった。できれば水のある風景もと望んでいたが、家のそばにはメドウエイという広い川が静かに流れている。歩いて2、3分以内に教会と薬局と三つの食料雑貨店があり、そのうちの一つは、店の奥が小さな郵便局になっている。5分以内の距離には、小学校と、酒屋と、もう一つの雑貨店があり、イギリス名物のパブも、ちゃんとしたものが一軒あった。家から百メートルくらいのところにバス停があり、そこからあの2階建てのバスに乗ると、10分ほどで、街の中心部を通ってロチェスター駅に着く。そこからヴィクトリア駅まで電車で約35分、そこで地下鉄に乗り換えて、ロンドン大学のあるピカデリー線のラッセル・スクエアー駅までは20分ほどの距離であった。

 このロチェスターの家から歩いても15分ほどのところに、これもディケンズの作品に出てくるが、市の重要史跡のひとつである王政復古の館(Restoration House)があった。エリザベス朝様式の3階建てレンガ造りのマンションである。1649年に、ピューリタン革命で国王チャールズ一世が処刑された時、遺児で長男のチャールズは、大陸に亡命していた。その彼が帰国して、正式にチャールズ二世として即位するためにドーバーからロンドンへ向かう途中、ロチェスターに立ち寄って宿泊したのがこの館である。1660年5月28日のことであった。

 ロチェスター市長らから歓迎を受けて一夜をここで過ごしたチャールズは、その翌日、この館を、「王政復古の館」と名づけよ、と言い残して、ロンドンへ馬車を進めた。それでこの名がつけられたことが、この館の門のそばに銅版で刻み込まれている。その日、5月29日のロンドンでは、彼は大勢の市民からも歓迎を受け、ホワイトホールに入った。このホワイトホールは、、彼の父のチャールズ一世が処刑された場所でもある。ここで、彼はチャールズ二世として王座につくことが宣言され、王政復古が実現した。その5月29日は、彼の30歳の誕生日でもあった。

 チャールズ二世は、大変利己的で享楽的な一面があって、父親が持っていた義務感、犠牲の精神に欠けていたといわれている。しかし、一方では、王者としての品位があり、議会と対立するようなことがあっても、形成を見て譲歩するというような政治的な才覚はあったらしい。チャールズの宰相になったのは、彼が大陸に亡命中にもそばで従っていたエドワード・ハイド、後のクラレンドン卿である。この宰相の聡明さと人柄が多くの人々の信頼を得て、王政復古が軌道に乗るのに力があったといわれている。

 このチャールズ二世の施政で注目されることの一つは、1662年7月に、新しい学問研究を目指す学術団体に特許状を与えてローヤル・ソサエティ(王立協会)を発足させたことである。これは、1626年に亡くなったフランシス・ベーコンが提唱した学問の大革新を実践する形になった。1640年代から、オックスフォードやロンドンのグレシャム・カレッジなどで、実験と観察を重視する新しい学問のあり方を模索するグループが現われていたが、それらがこの王立協会設立の背景になっている。初期の会員には、建築家でセント・ポール寺院の再建で知られているクリストファー・レンや科学者のロバート・ボイルなどが名を連ね、1672には、物理学者のニュートンが会員に選ばれ、王立協会は、17世紀の科学革命に大きな役割を果たした。

 この頃のロンドンの歴史には、二つの大きな事件があった。その一つは、1665年の疫病の大流行で、もう一つは、その翌年の大火である。1665年の6月にロンドンのドリール・レインから起こった疫病は夏の間、猛威を振るい、1349年のペストの大流行以来、最大の流行病になった。病名は特定されていないようだが、やはりペストであったらしい。当時のロンドンの人口は、30〜40万と推定されるが、そのうちの7〜10万人が犠牲になったという。その翌年の大火では、プッディング・レインから9月2日に出火して三日間燃え続け、シティーの大半を焼き尽くして1万3千の民家が灰燼に帰した(今井登志喜『英国社会史〔上〕』東大出版会、1971、261頁)。セント・ポール寺院をはじめ、歴史的建造物の多くがこの火災で被害を受け、古いロンドンの街並みは、このとき以来姿を消してしまった・・・・・・・。

 以上、私がロチェスターに住んでいたころ見慣れた「王制復古の館」とそれにまつわるイギリスの17世紀後半からの政治的、社会的情勢の概略をざっとみてきたが、実は、前世での私は、このような背景のなかで、ロンドン周辺で生まれたことになっている。「1675年から80年にかけて生まれており、おそらく1678年生まれくらいでしょう。1754年くらいまで生きていた人です。言語学者であり、いまでいう文化人類学に近いことも研究していました。専門は言語学です。現在の職業は、このすぐ最近のイギリスでの職業の続きであります」と、A師からいわれたことがあった(1994年1月)

 もちろん私は、これをすべてそのまま、信じ込んでいるわけではない。このような前世についての判断には、いろいろと難しい問題もあって、いかに勝れた霊能者でも錯誤や誤差が避けられないことも当然考えてみなければならないであろう。なにしろ、膨大な宇宙の記録庫の中味の一部を心眼で読み取ろうというのであるから、ほとんど人間技ではない。誤差が出ないほうが不思議なのである。事実、その前年の11月には、私がイギリスで生きていたのは、「1700年代半ばから、1800年代初頭にかけて」であったといわれていた。これでは100年ずれていることになるが、これは、おそらく「17世紀半ばから18世紀初頭」の言い間違いであることが、その後の言い方からも容易に推測できた。

 しかし、それでも、今生の私の直近の前世がイギリスであり、その関わりの中で現世を生きてきたといわれると、私もそのイギリスの前世がどのようなものであったか、関心をもたざるをえない。私は何度も、何年かにわたってこのイギリスでの前世について聞かされてきたのだが、ここで念のために、これ以外にいわれてきた生年や生まれた場所をいくつか列挙してみると、つぎのようになる。(カッコ内は言われた年月)

 「1685年・・・(1687年ぐらいでしょうか)に生まれ1760年代後半から1770年代前半まで生きていました。」「居住地はロンドン市内であり、ロンドン市の中心街ではなく、やや郊外寄りのところ、北西部です。」「ロチェスターというところも、あなたが確かに親しみを覚えたところであり、一時住んでいたことのあった地域です。しかし主に、ロンドン市内に暮らしていました。」(1994年9月)

 「一番最近の人生はイギリスです。17世紀から18世紀にかけてです。」(1996年1月)

 「具体的なところを読むのはとても難しいのです。それでもできるだけ読めるように試みることにします。西暦1686年、あるいは1676年、74年、そのあたりのように捉えられるのです。西暦1786年とかではないでしよう。たぶん1686年かそれより10年前後まえの生まれのように捉えられます。」(1997年6月)

  「西暦1670〜80年代に生まれています。1686年、あるいは76年、そのあたりのようです。あるいは1678年かもしれません。」「あなたは、ロンドンの郊外で生まれました。ロンドンの郊外、ロンドンの中心から郊外へ向けて南西の方角で、ロンドンのど真ん中から130キロ南西部のあたりというように捉えられるのですが、そのあたりで生まれました。」(1998年6月)

 これらを総合して考えると、やはり、「1675年〜1680年に生まれている」と受け止めるのがおそらく妥当であるように思える。その当時は、チャールズ二世はまだ若く健在であった。私は、1993年11月に、A師から、「あなたはイギリスの王家と多少つながりがある家系に生まれ、イギリスの王立協会のメンバーでした。フランシス・ベ一コンについての研究を主にしていました」と言われている。これはさらに、「それで、フランス革命、アメリカの独立宣言に関するプランに関わるようになり、アメリカという新しい可能性のある新天地へと渡る計画がプロジェクトとして進行し、あなたがたの友人、知人の幾人かは、ピュリタンとして新天地へと移っていったわけです」と続けられた。

 このうち、「イギリスの王家と多少つながりがある家系に生まれた」ことについては、もしそれが事実であったとすれば、私にとってチャールズ二世は、あるいは、多少は身近な存在であったことになるのであろうか。しかし、それよりも、「王立協会のメンバーであった」ことについては、その後も、何年かにわたって何度も繰り返されているから、こちらのほうは信憑性が少しは高いといえるのかもしれない。

 その当時の私の名前は、A師によれば、「ロバー卜・ジェームズ・ハンプトン」といったような名前であったらしい。「当時のあなたは、多少名が通っており、研究者として、あるいは学者として活躍していましたので、ロンドンの図書館や資料室へ行って調べれば、名前が残っている可能性があります」と教えてくれている。(1994年 1月)

 その半年後には、すでに述べたように、A師から、ロチェスターに「一時住んでいた」こと」を伝えられ、そして、その時の名前は「ジェームズ」という響きが感じられる、ともいわれた。私の前世で、ロチェスターが出てきたのは、これが初めてである。名前の「ジェームズ」は、ここでも繰り返されている。そして、その前世での私は、「学者でした。法律そのものではなかったのですが、法学と文学の方面での仕事をしている研究者でした。英国学士院と、それから、英国の宮廷に関わるアカデミー、王立のアカデミーでしょうか、そこの会員でした」と、同じようなことが述べられている。さらにここでは、私が霊的知識を身につけることに消極的であったことが、つぎのように告げられた。

 「実はここ(王立アカデミー)に入っている間に、心霊学や精神世界に関わるようになったのです。そこの会員の中に、このような霊学に興味を抱いている人が何人かいたからです。あなたは最初、軽蔑し、怪訝な顔をしてそれを外から観察していました。少しずつ興味を持ち理解するようになりましたが、自分の立場を考えて踏み込んだことはしませんでした。英国学士院や王立アカデミーの会員リストのなかで、1680年代から1760年代ぐらいまでに生きた「ジェームズ」あるいは「ヤコブ」といった名前の人で、いま描写したような人が見いだされるかもしれません。」(1994年 9月)

 ついでに付け加えておくと、A師からは、イギリスでの前世での私の墓についても、あいまいな表現ではあるがつぎのように知らされている。

 「お墓は、これはもう少しロンドンから離れたところで、ロンドンの延長部のエリアのなかで、3番目から4番目くらいに位置する、知られている墓地です。ロンドンの市民がだいたいよく知っている墓地の中で、一番目、二番目、三番目と列挙していって、3〜4番、4〜5番目くらいの墓地です。名前は出てきていません。3番目から5〜6番目くらいの、知られている墓地です。多分、お父さんの墓と並んでいます。当時のあなたのお父さんです。」(1998年6月)

 「あなたのお墓の位置ですがロンドンから北東部のほう2、30キロ圏内、あるいは3、40キロ圏内、ロンドンの中心地から北東部3、40キロの地点の墓地のあるところ、30体から50体、あるいは100体ぐらいのお墓の規模のところにあるように感じ取れます。(1999年 6月)

 私は、1991年の春からロチェスターに住むようになり、霊能者のアン・ターナーと知り合ったことが、決して単なる偶然ではなかったことを、いまではよく理解している。しかし、このイギリスの前世が、そのことと何らかの形で結びつくのかどうかは「王政復古の館」にまつわる歴史を含めて、まだよく分からない。A師と同様、アン・ターナーも、私が前世で一時ロチェスターに住んでいたとは言っていたが、私が聞かされたロチェスターとの「接点」はそれだけである。英国学士院や王立協会の会員リストを調べたり、自分の墓をロンドン近郊の墓場で探したりするほどのエネルギーも時間もないから、イギリスにおける私の前世の探索は、もうこれ以上は進むことはないかもしれない。

  (2012.06.01)



          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


    ウォルター・ローリーの波乱万丈の生涯
         ―生活と文化をめぐる随想(83)― 


 大韓航空機事件が発生した1983年の夏には、私たち家族4人は、1973年以来、二度目のアメリカ生活を送っていた。ノース・カロライナ州の首都ローリーに住んでいたが、このローリーという名前は、イギリスの軍人、海洋探検家、廷臣、文人という多彩な顔を持っていたウォルター・ローリー(Walter Raleigh) からとったものである。彼は、エリザベス一世の寵愛をえて、1584年にはナイト爵の称号を与えられていた。ぬかるみに高価なマントを広げて女王を通したという伝説は有名である。

 その前年、1982年の夏からは、私と娘はアリゾナ州ツーソンに住むようになっていた。その町のアリゾナ大学に娘は留学生として、私はフルブライト客員教授として所属していた。米政府のフルブライト基金で世界中から選ばれた研究員、客員教授はアメリカ各地の大学に分散していたが、年に一回、全員が一箇所に集まって、研究集会に参加することになっている。その年度の研究集会は、翌年の1983年春、ノース・カロライナ州の首都ローリーのノース・カロライナ大学に、百数十人が集まって行なわれた。私はツーソンから空路3時間を飛んでローリーに着いたが、これが、私がローリーに足を踏み入れた最初である。

 3日間の研究集会に出席している間に、私は、ローリーのホテルで、東北大学から来ていたS教授と一晩語り合ったことがあった。今でも忘れられないのは、その時、S教授から、その数年前に、中学生であった長男をガンで亡くした話を聞いたことである。余命いくばくもないことを知っていたS教授の長男は、時折、病室で声を殺して泣いていたという。生き続けていれば、その時の私の長男とほぼ同じ年頃になるはずであった。私は話を聞きながら、S教授の悲しい思いに深く同情したが、その数か月後には、私自身がほかならぬこのローリーに住むようになって、その結果、長男だけではなく妻をも亡くすことになろうとは、想像さえできなかった。

 この町の名前のもとになったウォルター・ローリーは、エリザベス女王の勅許を得て、イギリスではもっとも早く、1584年から新大陸へ向かっての探検隊を送り込んでいる。翌年の1585年には、初めての移住民団をイギリスから出発させた。彼らは、大西洋の危険な荒海を乗り越えて、現在のノース・カロライナのロアノーク島に上陸したが、原住民のインディアンたちと折り合いが悪く、定住するには至らなかった。その後、1586年にも、87年にも移住が試みられたが、成功しなかった。結局定住には失敗して、移住民は全滅した。

 彼らがなぜ全滅してしまったのか詳しいことはわからない。残されていたのは立ち木に刻まれたインディアンの名前だけである。インディアンたちと共存していくことができずに殺されたのかもしれない。私は、1983年の事件の直前には、家族四人で、このロアノーク島の移住の現場を訪れているが、その跡地はいまも史跡として保存されている。彼らがもし生き続けていたら、アメリカ植民第一号の栄誉をになうことになり、ウォルター・ローリーの名声はますます高まっていたであろう。しかしその栄誉は、その後の1607年の、ジョン・スミス船長によるジェイムスタウンの植民に奪われることになった。

 ロアノーク島における最初の植民には失敗したが、彼は植民計画の強力な推進者であり続けた。後続の植民地への道筋を開いたその大きな功績が称えられて、ローリーの州議会議事堂の前には、ウォルター・ローリーの大きな銅像が建てられている。私は、家族連れで何度かこのあたりを歩いている。ローリーの銅像の前で撮った写真もどこかに残っているはずである。

 アメリカの殖民事業に失敗したあと、1591年に、ローリーは密かに女王付きの女官であったエリザベス・スロックモートンと結婚した。翌年になってこの無許可の結婚が発覚すると、激怒した女王はローリーをロンドン塔の牢に幽閉し、エリザベスを宮廷から解雇するように命じた。この時には間もなく、釈放されたのだが、1603年のジェームズ二世の時になって、今度は陰謀のかどで13年間もロンドン塔に幽閉されてしまった。冒険家である上に詩作や散文に長じた文人でもあった彼は、この獄中で大著『世界歴史』を書き上げた。

 その後彼は、奇跡的にロンドン塔から出獄を許され、南米オリノコ川流域に黄金郷を探索すべく派遣される2度目の探険隊を指揮することになる。ところが探険の途中、ローリーの部下達が、スペインの入植地で略奪を行いスペイン人との戦闘になってしまった。憤慨したスペイン大使が、ジェームズ一世にローリーを死刑にするよう求めた。スペインとの関係悪化を恐れた国王は、その要求を認め、ローリーは1618年10月18日、遂に斬首刑に処せられた。ローリーは斬首を行う斧を見せられた時、「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」という最後のことばを残したという。

 彼の名をつけたアメリカの町にかつて住んでいた私としては、このような波瀾万丈の生涯を送ったローリーの最後の悲劇に、いささかの感情の動きを抑えることができない。後に私は、高名な霊能者のA師から、前世で1678年頃にイギリスに生まれ、この殖民計画の推進に積極的に携わっていた、と聞かされて因縁めいたものを感じることになる。1678年頃といえば、ジェイムスタウンは、すでに基礎が固まって拡大発展しつつあったはずである。一方、北部のマサチューセッツでも、1620年にメイフラワー号で到着した新教徒たちの一団がプリマスの街を築き始めて50年が経過している。イギリスの植民地も、この頃にはニューイングランドからカロライナに至るまで東海岸一帯に広がっていた。

 私は、その東海岸一帯を家族と一緒の最後の旅行で車で走りまわっている。マサチューセッツにも行ったし、ジェイムスタウンの遺跡もくまなく歩いた。それもローリーに住んでいたからであるが、しかし、はじめは、私はそのローリーに行きたくて行ったわけではなかった。アリゾナのツーソンにあるアリゾナ大学で一年を過ごした後、二年目にはサンフランシスコへ移って教職につきたいと思っていたのに、どういうわけか、不本意ながらローリーにいく破目になってしまったのである。いま考えると、抗し難い大きな力に曳きつけられていたような気がする。そして、私は、1983年のあの事件に巻き込まれることになった。

 前世での私が、霊能者のA師にに言われたように、仮に1600年代後半にイギリスに生まれていて、アメリカへの殖民計画を推進していたとすれば、私もこのウォルター・ローリーの殖民事業については十分に意識していて、そのあとを継ぐ者として彼に親しみを感じていたのかもしれない。そして、これもA師の話では、私もまたウォルター・ローリーのように、イギリス王室とはなんらかの関わりをもって生きていた。「ローリー」という名が、私が住んでいた町の名を通じて、私の生涯に大きな意味をもつことになっただけに、私にはウォルター・ローリーが、なんとなく遠い外国の、無縁の人物とは思えないのである。

  (2012.04.01)



           〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


    人類史のなかの文明の発達と自然破壊
        ―生活と文化をめぐる随想 (82)―  


 トルコのエーゲのほとりにエフェソスという古代都市の遺跡があります。紀元前2世紀に、共和制ローマの支配下に入り、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となって栄えていた港湾都市でした。聖書にもエペソの名で出てきます。かつて、エジプトの女王・クレオパトラは、共和制ローマ末期の権力者であったマーク・アントニーと、この街に滞在していたことでも知られています。

 いまも、アルテミス神殿の遺跡をはじめ、アレキサンドリア、ベルガモの図書館と並んで当時の世界三大図書館の一つといわれていたセルシウス図書館の跡地や、5万人が収容できたという円形劇場も、ほぼその形を留めて残っています。むかし、私も二度ほど、クレオパトラが通ったはずの大理石の道を通り、これらの遺跡を見てまわったことがありました。遺跡の規模やその建造物の壮麗さからも、二千年前にすでにこのような都市があったとは、ちょっと信じられない思いでした。日本では、まだ、歴史に卑弥呼が登場する数百年も前のことです。

  しかし、そのエフェソスも、二世紀頃からは、繁栄の基盤であった港湾が徐々に縮小されていくようになります。エフェソスの街の背後にあった二つの山から流れ出した土砂が港湾に堆積し始めたからでした。その原因は、森林の伐採にあります。エフェソスの街が拡大していくにつれて、周辺の森林は次々に伐採されていきました。雨が降るたびに保水力を失った大地が、最後には表土さえ押し流して、遂には港が土砂で埋め尽くされ、住民の生活を支える農作物の生産もできなくなったのです。七世紀に入ると、人々は住めなくなり、急速に街は衰退して、遂には、廃墟になってしまいました。

  このエフェソスの衰退は、古代ギリシア、ローマ文明の衰退のあり方をも示しています。つまり、文明の発達は、常に、森林の破壊という代償を伴っていました。森林の破壊を周辺に拡散させていくことによってのみ、文明はその発展を維持できたのです。破壊しつくして森林がなくなった時点で、人々はその生活基盤を失い、新たな森林を求めて移動せざるをえませんでした。このようにして、アテネ、スパルタ、カルタゴ、ローマ等、地中海の諸都市が衰退したあとは、人々は、今度は、アルプス山脈を越えて、広大なヨーロッパの大森林を目指すことになります。これが、ヨーロッパの大開墾時代の始まりでした。

  ヨーロッパでは、例えばパリは、八百年前に、セーヌ河畔にノートルダム寺院を建て、そのまわりに人々が小さな村を作って住むようになったのが街の始まりです。まず、森林を伐採して教会を建て、そのまわりに人々が住む村を作り、さらに村の周辺の森林を伐採して、農作物を育てるための畑を作ります。人口が増えてくると、森林伐採の範囲はさらに、大きく広がっていきます。このようにして、都市周辺の森林伐採は果てしなく広がっていきました。これが、ロンドンやベルリンなど、ヨーロッパの諸都市ができあがっていった原型といってよいでしょう。

 テムズ河畔のセント・ポール寺院から広がったロンドンなどは、ヨーロッパでも最も森林破壊が進んだ街で、いまでは森林面積はわずかに九パーセントに過ぎないといわれています。ベルリンなどは、十八世紀に殆どの森林が切り払われて、その反省から、植林を始めたのがいまの森林です。ヨーロッパ文明もまた、森林の破壊の上に築かれた文明でした。その森林の破壊が、都市の膨張で徹底的に進められる前に、ヨーロッパを救ったのが、十五〜十六世紀の大航海時代を経て、十七世紀から本格化するアメリカ大陸への進出です。

 十二世紀頃までヨーロッパでは、牛や馬などによる畜力のほかは、水車と風車による自然エネルギーの利用は広く行なわれていました。それが、十四〜十五世紀になると、水を汲み上げたり製粉に利用したりするほかに、ビールの醸造、製油、製紙、製革、製材、製鉄などの他方面の産業をささえる動力として応用され、社会の生産活動の拡大をもたらします。その流れは、十八世紀後半に、蒸気機関が発明されるまで続きました。そして、石炭、石油などの化石燃料の時代に入ります。森林資源を基盤にしてきた人類の文明が、今度は、化石燃料を基盤にして加速的に大きく発達することになりました。

 自動車の発達ぶりは、その典型的な一例です。一八八〇〜九〇年代には自動車の開発が著しく進み、一九〇八年には、アメリカでヘンリー・フォードがT型フォードの大量生産を始めました。このT型は、二十七年までに千五百万台も作られ、一九二〇年代なかばのニューヨークでは、もう街角に車があふれています。太平洋戦争で負けた日本では、一九四〇年代後半に入っても、車どころではありませんでしたが、五十年代後半になって、ようやくトヨタの車が時折り、信号もあまりなかった道路に姿を見せるようになりました。

 その頃、一九五七年から五九年にかけて、私は留学生としてアメリカにいました。日本ではまだ、東京の郊外でも道路は舗装されていなかったのに、最初に見たロサンゼルスの街には、分厚いコンクリートの高速道路が縦横に走り、巨大な高架ハイウエイが大きく渦を巻いている様子などが美しい絵葉書になっていました。不死鳥の羽のようにテールを伸ばした大型車が走り回り、ガソリンも自給できて安く、大学では学生用の広い駐車場があることでも驚かされました。アメリカではもう森林に依存することよりも、化石燃料と電気によって、文明の発達はさらにどこまでも続いていくように思われました。

 一九七三年から一九七五年にかけて、私は文部省在外研究員として、二度目で十四年ぶりのアメリカ生活を体験しました。その頃、高度成長期の日本のみならず、殆んどの欧米諸国は、オイルショックに激しく揺れていました。アメリカへ向かう直前の十月六日の第四次中東戦争の勃発をきっかけに、アラブ諸国は石油を戦略的武器として、石油供給の削減計画を展開し始めたのです。日本でもトイレットペーパーを買うのにさえ、長い行列を作ったりしました。

 かつての石油輸出国であったアメリカは、すでに輸入国になっていて、ガソリンスタンドでは、もう自由にガソリンが買える状態ではなくなっていました。ロサンゼルスの街では、すでに交通渋滞が始まり、増え続ける一方の車の交通量を緩和するための道路の拡張工事がいたるところで行なわれていました。文明発達の象徴のようであったあの美しかった高速道路の高架ループを、人々はもう渋滞を予想して、うんざりした表情で見るようになっていました。雑然として落ち着きをなくした街の雰囲気のなかで、いまでは日本でも当たり前になりましたが、住民たちは飲料水さえ買って飲むようになっていることにひどく驚ろかされました。

 その当時、アメリカでは、女流作家のレーチェル・カーソンが一九六二年に『沈黙の春』でアメリカ中に広がる農薬汚染の実態を告発して以来、環境汚染が社会的な大問題になっていました。それまで、ところかまわず撒かれていたDDTなどの有機塩素系農薬や毒性の強い有機りん剤が、現実には、小鳥や益虫を殺しているばかりでなく、人の命まで脅かされていることを知らされて、人々は愕然としたのです。広大にひろがるアメリカの大地が、いたるところで、汚染と破壊に曝されている実態が、史上初めて、アメリカ国民の前に明かされていきました。

 南部のミシシッピ川でも、汚染による水中酸素欠乏のため魚が数百万匹単位で死んでいったり、核実験による死の灰やサリドマイド児の問題が発覚して大問題になっていました。文明の発達は、一九六九年に人類を初めて月面に立たせるまでになりましたが、その一方では、森林の伐採のみならず、自然破壊と人心の荒廃が、広範囲にしかも着実に進んでいたのです。日本でも、一九五三年頃から発生した水俣病などの公害病が深刻な影響を与え続けて、農薬汚染や水の汚染など、何年か遅れて、アメリカの後を追うように社会問題になっていきました。

 その間に、厖大な量の化石燃料の消費は、深刻な大気汚染を惹き起こし、二酸化炭素の増大による地球の温暖化が世界規模での大問題になってきました。二十一世紀の半ばには、地球の平均気温が三度上昇して、北米大陸の中心部や、中国、ロシアの穀倉地帯の水分が30〜50パーセント蒸発し、これらの地域だけでも、食糧生産が20パーセントも激減するという科学者の予想もありました。そして出てきたのが、原子力発電であったのです。原子力発電は原子爆弾と同じで、人類が手を染めてはいけない「パンドラの函」でした。しかし、原子力の「平和利用」という甘いキャッチフレーズに迷わされて、人々はそれを受け容れてきました。そして、私たちは、いま、昨年3月の福島の原発事故を体験しています。

  自動車の話に戻りますと、その原発事故を含めた昨年の大震災や、タイの洪水などの影響で、昨年度の日本の国内新車販売台数は前年度より15.1パーセント減の421万220台だったそうです。一方、アメリカの新車販売台数は、前年度より10パーセント増の約1、280万台になりました。これに対して、最近台頭が著しい中国は、昨年の1〜11月だけで、すでに1、681万台で、中国が三年連続で世界一の自動車市場ということになっています。(「朝日」2012.01.05-06) これは、驚くべき自動車の生産台数の増加ぶりですが、これを私たちは、文明発達の成果として手放しで賞賛してもいいのでしょうか。

 現在、日本やアメリカを含めて、世界の主要国は、例外なく、自動車台数の過剰による交通渋滞や、大気汚染を惹き起こしています。それがさらに中国の大地にも広がっていくことになります。インドや東南アジア諸国でも、森林が次々に伐採されていく一方で、自動車の生産と輸入は急速に増え続けています。問題は、このような自動車の例だけをとってみても、私たちが自然環境の再生ペースをはるかに上回る速度で、自然を破壊し続けていることです。今後、途上国の人々の生活水準が上がっていけば、問題はさらに深刻になっていきます。70億人の世界人口が、すべて先進国並みの生活をするようになれば、もう地球を取り巻く自然環境の負荷能力が、それに耐え切れなくなるのは誰の眼から見ても明らかです。

 自然破壊と大気汚染、それに原発事故による後遺症の問題。日本に住む私たちの前には、東日本の再生のほかに、いま、これらの二つの大きな問題が立ちはだかっています。これをどう捉えていけばよいのでしょうか。チェルノブイリやスリーマイル島の事故の時は、まだ対岸の火事でしたが、今度は日本の福島です。事故が起こったばかりで、深刻な被害はまだ収束しそうもありません。安全神話が覆ったことから、原発廃止の世論が俄かに高まりをみせ、例によってマスコミも、それに追従するようになりました。開けてしまったパンドラの函は、なんとしてでもまた閉じなければなりません。これはその通りです。

 しかし、それだけでは地球は救われないでしょう。原発を廃止してそれを火力発電で補えば、化石燃料を燃やし続けることによる大気汚染がさらに拡大することも考えなければなりません。しかも、地域に限定されている原発の被害よりも、地球規模で広がっている大気汚染の被害のほうがむしろ深刻で、甚大であることを忘れてはならないのです。ここまで来て、急に、風力や太陽光などの自然エネルギーの利用が促進されるようになりましたが、自然破壊のスピードを落とすには、まだまだ程遠い現状です。地球環境の危機的な状況は、まだ回避される方向には向かっていないのです。

 地球が誕生してから46億年、700万年前にチンパンジーと枝分かれして、猿人、原人、旧人を経て現在の人類の祖先がアフリカに出現したのが20万年前、そのアフリカを出て全世界へ拡散し始めたのが6万年前、そして、その時は氷河期の真っ最中で、2万人くらいいた私たちの祖先は、食糧難で数千人にまで減少していたといわれています。その時の祖先たちの飢餓を救ったのが骨の棒を加工して作った投擲具で、それによって投槍を遠くまで飛ばせるようになり、走り回る小動物を捕らえて食べられるようになりました。おそらく、これが人類の最初の文明の利器であったでしょう。その人類が、地球の歴史からみればほんの一瞬のうちに、あっという間に、いまは70億に増えて、制御の困難な文明の脅威に曝されていることになります。

 私たちは、この文明の急速な発達により、モノにあふれた飽食の生活を享受しながら、いつのまにか、人間が、地球上の200万種の生物のいのちと共存し、自然のなかで生かされている存在であることを忘れてしまっているのかもしれません。現代の先進諸国の人間は、千年前の人間が1年間で使うエネルギーを、たった一日で消費し続けているといわれます。しかし、それほどの唯我独尊的な浪費を続けながら、どれだけの人々が、こころ穏やかな、幸せで満ち足りた生活を送っているでしょうか。日本だけでも、なぜ、毎年3万人を超える自殺者が出ているのでしょうか。私たちは、いま、一人ひとりが、人間としての生き方そのものを鋭く問われているような気がしてなりません。

   (2012.02.01)



          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



       長生きすることについて考える
        ― 生活と文化をめぐる随想 (81) ―


 五木寛之氏は、直木賞作家として著名ですが、『親鸞』、『蓮如』などの著作があるほか、NHKの「21世紀仏教への旅」に出演するなど、仏教についても深い関心を示しています。最近、氏の『他力』(講談社、1998年)という本を読んでいますと、そのなかに「延命ははたして意味のあることなのか」というタイトルの一文があり、そこにはつぎのように書かれていました。

 《日本の男性の平均寿命は七十七歳ぐらいでしょうか。これは世界に冠たる長寿国日本の平均寿命ですから、世界全体をひっくるめて考えると、六十年以上生きるというのは、不自然かつ人工的に人生を延ばしている、なにか自然の摂理というものとズレているのではないか、という気がします。》

 この本が出されてからもう13年経っていますから、この日本人男性の平均寿命77歳というのは、修正して考える必要があります。今年(2011年)のWHO(世界保健機構)のデータでは、日本人の平均寿命は、男性が80歳、女性が86歳です。男女平均では83歳で、これは世界一のようです。ついでに調べてみますと、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳、男女平均が68歳で、このうち、最も平均寿命が短いのはマラウイの47歳で、日本と36歳も差がついています。

 五木氏は1932年生まれですから、私より2歳年少です。これを書いたのは逆算して数えますと、おそらく66歳前後で、すでにその頃から氏は、60年以上生きるというのは「不自然」で、「自然の摂理というものとズレているのではないか」と考えていたことになります。この本では、氏はさらに、このようにも述べています。

 《「知足」という言葉があります。足ることを知る―。
 必ずしも私はそれを自分の生活で体現しているとは思いませんが、年を経るごとに歯とか目とか、その他もろもろの器官が衰えてゆき、人間はこの辺で仕事を終えて去っていいんだよ、という呼びかけがあるはずです。それが昔でいう人生五十年で、現代人の場合はそれに十プラスして六十というのが、いいところではないでしょうか。
 それ以上生きようとするのは、意味がないと言いますか、非常に不自然で、かつ無駄なことをしているような気がします。》

 これは随分思い切った言い方で、現代人としても60歳以上生きようとするのは「非常に不自然で、かつ無駄なこと」とあるのには、ちょっと考え込まされてしまいます。五木氏はいま79歳のはずで、私は81歳です。いまの五木氏は、「無駄なことをしている」思いをさらに強めているのでしょうか。私の場合は、「60歳以上生きようとした」というよりも、生かされてきたという思いですが、それでもいつの間にか随分長生きしたことになってしまって、少なくともこれは、「自然ではない」と受け取らねばならないのかもしれません。それにしても五木氏は、なぜこのような見方をするのでしょうか。氏がこのように考えるのには、つぎのような認識があるようです。

 《人間は、地球上の熱帯雨林を片っぱしから切り倒して、ブロイラーの鶏を大量生産し、その挙げ句、最近では羊を牛の餌にすることまでやっている。そうやって、他の生物の命をものすごく縮小させている。それでいて、人間だけがそれまでの平均寿命をはるかに上回って延命している。こんなことが許されるだろうか、と真剣に考えてしまうのです。
 人間の延命ということが、はたして意味のあることなのか、正しいことなのかという疑問がずっとあります。》

 これは、全くその通りで、私も、この氏の認識に異を唱えるつもりはありません。現在まで人間は地球規模で自然を破壊し続けてきましたが、それは、人間以外の動植物の無数のいのちを奪い去ることでもありました。そして、その一方では、ブロイラーの鶏のみならず、農産物や魚介類に至るまで、大量のいのちを人工的に増やすことに躍起となっています。人間が人間以外のいのちを徹底的に犠牲にし、そして利用して、その上で人間の延命が謀られているとしたら、やはり、自然の摂理からみても、それは行き過ぎであるというほかはありません。

 五木氏の延命を疑問視する考え方には、氏の個人的な体験も背景にあるようです。「私の家族は、母親が亡くなったのが四十二歳、父親が五十六歳で、弟は片方が幼いころに亡くなって、もう一人の弟は四十二歳。だから自分だけが六十歳をはるかに過ぎて生きていること自体が不思議」であったと、氏は書いています。私も母は77歳まで生きましたが、父は59歳で亡くなりました。それに、事件で亡くなったのは妻が47歳で長男が21歳の時ですから、いまの私は、60歳どころか、母親の77歳をも超えてしまったことになります。私はかつては絶望の淵に深く沈んで、生きていく意欲さえほとんど失っていたことがありましたから、それだけに、五木氏と同じように、いま生きていること自体が、不思議に思えることもないではありません。

 ですから、五木氏が、「痔でもなければ胃潰瘍でもない感じの下血」がしばらく続いても、病院へ行って検査を受けようとはせず、「これが大腸ガンであったり、悪性ポリープであっても、それはそれで構わない・・・・・もしここで死ぬようなことがあっても、それはそれで仕方がないと覚悟したのです」という風に書いているのは、私にも抵抗なく受け止められます。ただ、その後で、五木氏が、「生まれてくることについては、選択できずに生まれてくるわけですから、死ぬときぐらいは、自分で選択したい。そこでじたばたするのも選択だし、なりゆき任せもひとつの選択です。私自身は、あまり大騒ぎして死にたくないと思っています」と書いているところでは、またちょっと考えさせられました。

 大騒ぎしないで死んでいくのも、確かに一つの選択ですから、これは分かります。しかし、このなかの、「選択できずに生まれてくるわけですから」には、やはり疑問符をつけざるをえません。私は、というより私たちは、自分が生まれる環境を十分に「選択して」この世に生を受けることを学んで知っているからです。逆に、死ぬときには、空海やスェーデンボルグのような高い霊能力者は別として、通常は、何時死ぬのか、どのように死ぬのかは分かりませんから、本当の意味での選択はできないのではないかとも思われます。

 例えば、メーテルリンクの『青い鳥』の中で、未来の国へ行ったチルチルとミチルが、その翌年、チルチルとミチルの弟として生まれてくることになっている「一人の子」に会う場面があります。これはもちろん、おとぎ話に過ぎませんが、霊界のコナン・ドイルによれば、この状況は「大変な真実」を示唆しているのだそうです。(「随想集」65参照)

 その子は、チルチルとミチルの弟になることを「選択して」いるのですが、この世へ行くときには、「しようこう熱」と「百日咳」と「はしか」の三つの病気をもって生まれることになります。そして、その子は、生まれた後その三つの病気を患って幼くして死ぬことも知っています。しかし、これは霊界にいる間のことで、一旦、生まれて物資の世界に入ってしまいますと、この選択の事実は魂の奥深くにしまいこまれてしまって、その子が死ぬときには、なぜこんな病気で幼いまま死んでいくのか、多分思い出せないでしょう。

 こういう理解のもとで、改めて人の死ぬ時機を考えてみますと、本当は、五木氏のように、病院へ行こうが行くまいが、それは本質的なことではないような気がしますし、幼児のときに死んでも、60歳を超えてまだ生きていても、それは、自分がこの世に生まれてくる前に「選択した」霊性向上のためのスケジュールに組み込まれているのかもしれません。はたして真実はどうなのでしょうか。

 このようないのちの真実に最も迫れるのは、やはり霊界からの高度の情報ですが、かつてロンドンの交霊会で参加者の一人が、シルバー・バーチに「完全な生活条件が整ったら人間は150歳までは生きられるのではありませんか」と質問したことがあります。それに対して、シルバー・バーチはこう答えていました。

 《肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。
 肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。》 (「学びの栞A」57-i)

 繰り返しになりますが、もちろん、五木氏のいう「大騒ぎをしないで死ぬ」選択はできるでしょう。しかし、どのような病気で、何時死ぬということについては、チルチルとミチルの弟のように、この物質世界に居る間はかつて選択したことを思い出せないのが普通で、これは、神仏の判断にお任せするほかはありません。五木氏の書いたこの本のタイトルは『他力』ですが、他力とは、要するに、神仏の力だろうと思います。生きている間は精一杯誠実に生きて、その後のことは安心して神仏にすべてを委ねるという「他力」的発想で、「長生き」も気楽に捉えていけばいいのではないでしょうか。

    (2011.12.01)



         〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



No,1〜No,10へ
No,11〜No,20へ
No,21〜No,30へ
No,31〜No,40へ
No,41〜No,50へ
No,51〜No,57へ
No,58〜No,80へ