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   安全な街の無防備な百円ショップ           (2015.01.12)


 いまの家からあまり遠くないところにダイエーのビルがあって、その4階と5階の全フロアーがかなり広い百円ショップになっています。たまに行ってみることがありますが、5階にはレジがありません。5階で買ったものはすべて「4階のレジでお支払いください」という掲示が出されています。園芸用品や工作材料などを5階で買えば、それを持って、わざわざエレベーターか階段で4階まで降りてレジの前に並ぶことになるのです。初めてそれを知った時、私はちょっと驚いて、何かなつかしいようなものを感じさせられました。人件費の節約のためにこうしているのだと思いますが、これはおそらく諸外国では見ることの出来ない、たいへん珍しい光景です。

 この町にはアジア、東南アジア、南米、欧米などの約9,000人の外国人が居住し、外国人留学生も周辺には3,000人あまりが住んでいますが、彼らも、ここを訪れた人はこの珍奇な光景に驚いたに違いありません。欧米というのは基本的には「人を見れば泥棒と思え」の文化が底流にありますから、商店側のこういう対応はまずありえないと考えていいでしょう。これは、他のアジアや東南アジア諸国などでもおそらく大同小異で、たとえば街を歩いていて、家々の窓にはたいてい頑丈な鉄格子などがつけられているのを見ても、およその想像はつきます。日本は世界のなかでは例外的な安全の国で、他人をあまり疑わない美風のようなものがいまも残されているようです。先日の新聞で、アフリカのソマリアから来ている留学生が、夜の道を歩いていて、暗がりで人の気配を察しても心配しなくていい、「ここは東京だ」と述べていました。

 イギリスの経済誌「エコノミスト」が2007年から毎年発表している「世界平和指数」というのがあります。この2014年版は、162 の国と地域が対象で、10万人あたりの殺人犯、囚人の数、銃の入手のしやすさ、政治の不安程度、GDPに占める軍事費の割合、核や重兵器の能力、隣国との関連性など、22項目によって分析されているようですが、それによれば、日本は8位だそうです。近頃は日本でも悪辣な犯罪が増え、非道・無慈悲な殺人のニュースも決して珍しいものではなくなってきましたが、それでも8位ということでしょうか。お隣の韓国は52位、中国は108位で、アメリカは101位だと紹介されています。(「朝日」2015.01.04) これに対して、トップの3か国は、アイスランド、デンマーク、オーストリアとなっていました。しかし、これらの平和指数ではトップの3か国においてさえも、この百円ショップのお客を信じきったようなレジのあり方は、どこの街でも、おそらく「ありえない光景」といえるかもしれません。



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   この世の四苦八苦について考える           (2014.12.08)


 四苦とは仏教でいう、生、老、病、死のことですが、「生」は生まれる苦しみというよりは、生きる苦しみと捉えるべきだろうと思われます。私たちは、どんなに豊かになって社会的地位が上がっても、生きる苦しみはつきまといます。生きているうちにだんだん老いていきますが、どんなに衣食住に恵まれ介護施設が充実しても、老いの哀しみから逃れることは出来ません。また、どんなに医療が発達して寿命が延びても、やがては病いに冒されることでしょう。そして最後には、どんなに避けようとしても、死は公平に誰にも必ず訪れます。この生老病死の苦しみのなかで少しでも安心して生きていくにはどうしたらいいか、仏教ではそれをいろいろと教えようとしてきました。

 仏教の教えでは、この四つの根本的な苦しみのほかに、さらに四つの苦しみを挙げることがあります。憎い者とも会わねばならない「怨憎会苦」、愛する者とも別れなければならない「愛別離苦」、欲しいと思っても手に入れられない「求不得苦」、それに人間の心身を形成する物質的精神的現象から苦しみが盛んになるという「五蔭盛苦」の四つです。これらを加えると四苦が八苦になり、私たちはここから言葉に言い表せないような苦しみを「四苦八苦」などと表現するようになりました。こういう四苦八苦の苦しい面だけを意識しすぎますと、私たちはもう前途には絶望しかないのかと思えたりもします。

 人間が生きていく上で四苦八苦があるのは、確かにその通りです。つい弱気になったりしますと、まだいくらでも苦しいことは出てくるかもしれません。しかし、別の見方をすれば、私たちは、だからこそ、自ら進んでそのような環境のなかに生まれてきたのではなかったでしょうか。人生の様々な苦しみにチャレンジし、それらを乗り越えていくことを学び、体験していくことが自分の霊性向上のためには有益で必要なのでしょう。私たちには自由意志がありますから、もしそれが必要でなかったら、そもそも、この世に生まれてくることもなかったはずなのです。「乗り越えられない困難はない」とはよく言われます。絶対に公平で完璧な天の摂理のもとで生かされている魂のレベルでは、そういうことも十分に意識されているでしょうし、私たちは、この世の四苦八苦の道を、自ら選んだことを再認識して、穏やかに歩み続けて行くほかはありません。



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   土居晩翠と青葉城の「荒城の月」碑    (2014年11月24日)


 土居晩翠の「荒城の月」碑は会津若松の鶴ヶ城、仙台の青葉城のほか、作曲者・滝廉太郎の故郷大分県竹田城址にも建てられているようです。このうち、青葉城の「荒城の月」碑が建てられたのが、1952年(昭和27年)で、この年に土居晩翠は81歳で亡くなっています。私は、このホームページの「身辺雑記」No.57 に「土井晩翠と霊界通信」(2008年3月1日)を載せていますが、土居晩翠は熱心な心霊研究家でもありました。

 この青葉城の「荒城の月」碑は、その2年前の1950年に、土居晩翠が文化勲章を受けたのを顕彰するために建てられたようです。たまたま、岩波文庫の『晩翠詩抄』を読んでいますと、その「解説」で石井昌光氏が、その詩碑建立の経緯に触れているところがありました。それによりますと、仙台市長を会長とする「晩翠会」の人々が石碑建立のために、晩翠に刻むべき詩句を求めに行ったところ、「それでは、これを刻んで欲しい」と晩翠から渡された紙には、つぎのように書かれていたということです。

  形あるもの悉く滅びゆく この石ぶみのたつや何時まで

 形ある物はすべて滅んでいくのだから、この石碑もいつまで立っていることだろうというのですから、「晩翠会」の人たちもこれでは困惑したことでしょう。結局、その歌は「いただかなかった」ことにして、青葉城址に建てるのだからということで「荒城の月」の歌詞が代わりに刻み込まれたのだそうです。

 土居晩翠は、昭和7年に長女・照を26歳で亡くし、翌8年には長男・英一を24歳で亡くしています。さらに昭和15年には、英文学者の中野好夫・東大教授に嫁がせた次女・信を33歳で亡くしました。その頃から、霊能者であった八枝夫人を通じて、霊界通信を試みていたようですが、「晩翠ほどの教養人が死後の心霊と語るなどというまやかしに心を奪われるとは・・・・・」などと、一部の人たちからは心ない批判を受けたりしたといいます。そして、その八枝夫人をも、昭和23年に70歳で失いました。その後、心身が衰える中で、この石碑の建立の後まもなく81歳の生涯を終えましたが、晩翠自身は、この自分の意に沿わなかった「荒城の月」碑の建立をどのように見ていたのでしょうか。



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  神に見守られて人のために生きる      (2014.11.03)


 《空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。》

 これは、よく知られているように、マタイ伝(6:26)に書かれているイエスのことばです。このことばは、同じく(6:28-29)で、「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と続いて、さらに(6:30)では、こう述べられています。

 《きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。》

 神に見守られていることを知り、神にすべてを委ねて心穏やかに感謝の気持ちで生きていくことが、何よりも大切なことだとはよくわかっているつもりでいても、この五濁悪世の中で、イエスが教えているような絶対的な信仰を身につけることは、やはりなかなか容易ではありません。「ああ、信仰の薄い者たちよ」というイエスのことばは、私のような者にも強く響いてきます。

 こんな時に私は、時折、マザー・テレサの生涯のことを思い出すことがあります。マザー・テレサは、「神に選ばれた者は、その声に目覚めます。言葉では説明できません。しかし、悟るのです」と述べていましたが、彼女は、確かに、神に選ばれた者としての愛の道を歩み続けた稀有の一人でした。

 神の声を聞いたマザー・テレサは、1948年末、38歳の時に、一人でカルカッタのスラム街に入って行きます。そして、その日のうちに、道端に倒れて悪臭を放っている病人を救うことから活動を始めました。その時の彼女は、所持金として5ルピーしか持っていなかったというのには驚かされます。換算すると日本のお金の150円ほどにしかなりませんから、ちょっと普通では考えられないことで、彼女は初めから、自分には神のご加護があることを信じきっていたのでしょう。

 そのマザーテレサの深い信仰は無視されることはなく、その日の宿や食事を含めて、不思議にまわりの人々からの援助を受けるようになりました。そして、やがて「神の愛の宣教者会」が創設され、世界中にその活動を広げていくことになります。改めてその足跡をビデオで辿っていますと、貧しい人々に向けられた彼女の無償の愛の行為が、「やはりこれは奇跡です」とコメントされているのにも同感を禁じ得ません。

 「すべて必要なものは神が与えて下さいます」と言っていたマザーテレサは、個人の善意は受け容れても、政府の補助金や公的援助などには頼ろうとはしなかったようです。そのマザーテレサのもとで働いているシスターの一人が、「私たちは弱く貧しい人間です。でも不安は全く感じていません。明日を思い煩う必要がないことを知っています。わかるんです。きっとなんとかなるわ、って」と述べていることばも強く印象に残りました。さらに別のシスターの一人は、こうも述べています。

 《私たちはお金の心配をしたことはありません。お金が必要になると誰かが援助して下さって、いつもなんとかなってしまうのです。私たちのために時間や労力を割いて下さる方も大勢います。神様はいつも思わぬところで私たちを助けて下さいます。私たちは金銭で煩わされたり、日々の糧に困ることはありません。神様に養われて、すべてのエネルギーを貧しい人たちに向けることが出来ます。神様のみ心がいつも私たちの上にあるのを感じます。》



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   転居の煩雑を少しずつ乗り越えていく    (2014.10.10)


 長年の一人暮らしの生活に終止符を打って、近くの娘の家に同居を始めてから一週間以上が過ぎました。今度の転居でやはり苦労したのは家財道具などの荷物を処分することで、一か月前くらいからいろいろと準備してきましたが、肉体的にも精神的にもかなり疲れました。そのほとんどを貧しい生活者を支援するNPO法人の団体に2回にわたって引き取ってもらいましたが、それでも本や資料など処分しきれなかったものが少なくはありません。同居で使えるのは少し広めの一部屋だけなので、いまも毎日少しずつ、それらを処分する作業を続けています。

 転居するまでは、毎日一度は、散歩を兼ねて近くのスーパーへ食材の買出しに行っていました。食事も自分で作ってきましたし、食後の片付けも自分でしてきました。掃除、洗濯、アイロンかけに至るまで、当然のことながら家事一切を自分でこなしてきて、それが急に何もしなくてもすむことになると、やはり少し戸惑いを覚えます。食卓に座りさえすれば食事が用意されているというのは、たいへん有り難いのですが、どうもまだ当たり前のこととは思えません。せめて食後の後片付けや皿洗いだけでもしようとしても、それは孫たち二人の分担になっているようです。

 娘の家は大きな川の近くの一戸建てで、様々な庭木が植えられていることが救いです。部屋の中にまだ未整理のまま山積みになっているダンボールの数が減ってきたら、庭木の手入れや水遣りの手伝いをやらせてもらうつもりです。あのベランダのサボテンは、娘婿が上手に運んでくれました。たまたま庭木の手入れに来た植木屋さんが、3メートルにもなったサボテンを5つに切断して、少し乾燥させてから庭の片隅に植えなおしてくれるのだそうです。一昨年以来、このサボテンの花の咲き方で、私はいろいろと霊界からのメッセージのようなものを受け取ってきました。来年もこのサボテンは花を開かせるのかどうかはわかりません。ただ、この娘の家が私の「終の住処」になるはずのいまは、このサボテンがさらに私に伝えようとするメッセージがあるとしても、私にはそれがどういうものか、何となくわかるような気がしています。



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   霊界通信について思うこと    (2014.09.10)


 あの、ターミナル・ケアの世界的権威として有名なキュブラー・ロス博士は、自分の患者から集めた二万例もの臨死体験の記録をもとに、いのちは永遠であり、死などというものはないのだと、一生懸命に人々に伝えようとしました。しかし、わかろうとしない人にはいくら話して聞かせても、決してわかってもらえない。そういうことがわかって、ロス博士は、もうそれ以上の、いのちの存続についてのデータを集めるのは止めてしまいました。

 博士は言っています。「聞く耳をもった人は、私の話など聞かずとも、すでにわかっているのです。いっぽう、信じない人たちは、百万の例を提示したって、それは大脳の酸素欠乏のなせるわざにすぎないと言い張るのです。でもそんなことは、もうどうでもいいのです。彼らだって、死んでみれば自分でわかるんですから」。(『死ぬ瞬間と臨死体験』)

 これと同じようなことは、霊界通信についてもいえそうです。さまざまな霊界通信が広く公刊されているのは、臨死体験以上に、霊界の存在や永遠の生命をより強く証明できるからだと思われますが、これらも、聞く耳を持った人たちはすでにわかっているのでしょう。しかし、信じようとしない人たちにとっては、全くの絵空事で、非常識の極みということになるのかもしれません。

 私は、今年もまた、浅野和三郎先生の『新樹の通信』の現代文訳や、私自身の妻や長男からの霊界通信をこのホームページで公開してきました。私が関わってきた霊界通信の記録については、もう20年以上も続けてきましたからかなりの量になっています。いまでは私も、霊界の存在や家族が生き続けていることを信じる、というよりはよく知っていますから、私自身は改めて霊界通信で死後の生を確認したいという気持ちはありません。ただ、一人でも多くの方々に生と死の真実をわかってもらえたらという願いを込めて、私的な通信の一部なども、敢えてこのホームページに載せてきました。

 しかし、これだけ続けてきますと、もうそろそろその役割から離れてもいいのではないかと考えたりもします。それに、霊的真実を受け止めるためには、やはり魂の準備が出来ていなければならないのでしょう。自分の生死に関する重大な真理でありながら、それにも気がつかない人がいても仕方のないことのようです。私のまわりにも聞く耳を持たない人たちがいないわけではありませんから、私も時には、キュブラー・ロス博士のように、「信じてもらえなくても、そんなことは、もうどうでもいいのです。死んでみれば自分でわかりますから」とこころに思うことがあります。



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   サボテンの花の今年の咲き方       (2014.08.25)


 私のアパートのベランダのサボテンは、もう20年も前に、娘が小さな15センチほどの鉢植えを買ってきたのが始まりでした。それが今では2メートルを超えるほどの大きな、というより長いサボテンになりました。自力では長い茎を支えきれませんので、くの字型に曲がり、ベランダの手摺に固定されて、横に這うようにしていまも伸び続けています。このサボテンが初めて3個の花を咲かせたのは2010年のことです。開花はその1回だけでした。その翌年、2011年にも、年に1回、3個の開花がありました。

 それが、一昨年(2012年)に限って、私の大腸がんと腹部動脈瘤の二つの病気の検査、入院、手術にタイミングを合わせるように、年に7回もの開花を繰り返しました。その様子を、私は、その年の10月29日に、「寸感・短信」欄で、「三度目の入院の日の朝に開いたサボテンの花」と題して書いています。なぜその年に限って 7回もの開花を繰り返したのか、それが不思議で、霊能者のA師に聞いてみますと、「霊界の存在たちがあの世から生命力を送ってきていた」からだそうで、その生命力のお陰で私の二度の手術は無事に終わったということでした。

 A師からは、霊界からの支援はなお続いていると言われて、私は、昨年(2013年)も、関心をもってこのサボテンの開花状況を見守ってきました。それを、「昨年の二度の手術とサボテンの開花」(2013.10.21)と題して、本欄にも載せてきました。最初の開花は5月21日の夜で、4つの花を開きましたが、それ以来つぎつぎと開花は続いて、9月11日に最後の4個を開花させるまで、数えてみたら11回も開花を繰り返して、花の数は合計で29個にもなりました。

 今年は、このサボテンが「異常に」咲くようになってから 3年目になります。様子を伺っていますと、最初の開花は、5月30日で、中央部に2つ、先端部に2つと、4つの花が美しい姿を見せてくれました。私には妹が二人いますが、下の妹が都内の大学病院に入院中、肺がんのために亡くなって、その葬儀をその前日に終えたばかりでした。私は3月初旬に妹が入院して以来、足繁く病院へ出かけて付き添っていましたが、もしかしたらこの開花には、妹の私に対する感謝の気持ちが含まれていたのかもしれません。

 今年の2回目の開花は、6月15日でした。その日の夕方、9個の花が一斉に開いたのです。たまたまその日は「父の日」でした。これも何か意味があるとしたら、霊界の長男たちからの贈りものであったかもしれません。そして、今年の開花はこの 2回、合計 13個で終わりました。ただ、開花は終わりましたが、珍しく今度は、初めて、二つの枝が伸び始めました。現在はこの二つの枝は10センチほどに成長しています。昨年の最後の開花は 9月11日でしたが、今年はもう開花が続く予兆はありません。そして多分これで、私はこのサボテンの開花を見ることはできないのではないかと思われます。

 実は、私は長年一人暮らしをしてきましたが、10月からは近くに住む娘夫婦の家に同居することになりました。家財道具等は殆どすべてを処分することにして、いま少しずつ、その準備を進めています。問題はこのサボテンですが、このまま移転させることはできません。 くの字に曲がってベランダの手すりにしがみついているのを無理に動かそうとすれば、間違いなく根元のところで折れてしまいます。植木鉢の 1メートルほどの高さで、切断して移すことが考えられますが、そのような大手術をしてもこのサボテンのいのちを保つことが出来るのかどうか、いま、考えさせられているところです。



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   ホーム・ページへのアクセス数が50万回に達して  (2014.08.06)


 昨日、8月5日の夜に、このホームページへのアクセス数が丁度50万回に達しました。生と死という重い、しかし大切なテーマを中心に、微力を尽くして更新を続けてきましたが、いつのまにか、私にとっては50万という数字は一つの目標のようになっていました。その50万にやっと辿り着いて、私はいま、ひとつの大きな山を乗り越えたような気がしています。

 このホームページを開設したのは、2003年の3月末のことですが、その後少しデザインを変更して、その年の11月末には現在の形になりました。アクセス数は少しずつ増えていって、その翌年、開設時から数えて9か月目の2004年の正月には、4,260 ほどで年を越しました。その時に私は、「これは、ホームページとしては多い数字ではないかもしれません。しかし、私にとっては、決して少ない数字ではありませんでした。いわば、一人で細々と語り続けてきた私の声に、ちょっとでも耳を傾けてくださった方、あるいは、耳を傾けようとしてくださった方が、これだけおられたということで、私はそれだけでもたいへん有り難く、こころから感謝申し上げております」と書いています。

 思い出に残っているのは、アクセス数が丁度20万回に達した時のことです。2009年5月8日に20万回になった日には、私は、ちょうど教え子の一人の結婚式に出ていました。その日、家に帰ってみたら、「20万回 ヒットおめでとうございます」という次のようなメールが届いていました。東京・銀座の K.M. という方からです。

 ・・・・・5月8日の20万回ヒットおめでとうございます。お疲れの時もあるでしょうに、日曜日以外、毎日の更新、本当に頭が下がります。 どうぞ、お体をお厭いながら頑張って下さいませ。ちょうど、当日(5月8日)に東京品川で二重の虹が撮れました。ご迷惑かもしれませんがお送りさせていただきます。ありがとうの気持を一杯込めて〜

 20万回と「二重」の虹は偶然の一致かもしれませんが、その写真は2009年5月11日の「メール交歓」欄に掲載させていただきました。私はK.M.さんのご好意がたいへん有り難くて、その二重の虹の写真のコピーは今でも部屋に飾ってあります。その当時は、まだ、日曜日以外は毎日、このホームページの更新をしていました。溝口祭典の佐々木薫さんのご尽力のお蔭で、開設以来、一日も休まずに更新を続けることができました。一昨年に大病を患ってからは、毎週月、水、金の3回に変更させていただいております。

 今年、2014年の正月は、454,000台で始まりました。毎日二百数十名の方々に見ていただきながら、およそ8か月を経て50万に達したことになります。おそらく人にはそれぞれにこの世に生まれてきた役割や使命のようなものがあるのでしょう。ホームページとしては、この50万は決して多い数字ではないかもしれませんが、微力な私にとっては、このホームページについての役割だけは、これで一応果たせたことになるのかな、と思ったりしています。このような拙いホームページに、いままで付き合ってくださった方々に、この機会に改めて、こころからのお礼を申し上げます。有難うございました。





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