「今日の言葉」 2005 (1月- 6月)
43. 「理性を存分に駆使して私たちを試しなさい」 (05.30)
シルバー・バーチが、折に触れて何度も繰り返していることばがある。「私たちは決してあなた方に、理知的に難しく考えず、ただ信じなさいとは申しません。逆に、神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください」というようなことばである。「私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません」ともいう。(栞A70-b)
類まれな叡智の光の存在であるシルバー・バーチが、何のためにそこまで言いながら、強力な信念を謙虚な思いやりのこころに包みこんで、私たちに教え導こうとしているのか。それは、私たちが内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって私たちの霊位を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていくことを、ただひたすらに願ってくれているからである。「たった一個の魂でも目覚めさせることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖じ気づいた人の心を奮い立たせ人生に疲れた人に生きる勇気を与えることができれば、それだけでも努力の甲斐があったことにならないでしょうか」(栞A70-b)というようなことばに接すると、私たちはこころからの感動と敬意を抑えることができない。
終始変わらず見事な英語で、それもほとんど考えることもなく即座に、そのままで完璧な文章にして流れるようにすらすらと述べられていく真理のことばは、ただ、奇跡としかいいようがない。その奇跡のことばを、いま私たちは身近に、肉声で聞いたり本で読んだりすることができるのである。その事実のもつ重い意味を私たちは決して軽視してはならないであろう。時空を越えて、霊界からこれらのことばを私たちに伝えるということがいかに大変なことか、それは私たちには想像もつかない難事である。シルバー・バーチは、この世で霊媒となるべきモーリス・バーバネルを誕生前から選んだり、自分でも英語を長い年月をかけて学んだりして、地上で教え.る準備を始めたといわれるが、(講演集7-3章) その苦労の一端を、つぎのように明かしたことがあった。
「私の場合、霊媒との関係は誕生時から始まりました。仕事がご承知のような高度なものですから、まず初期の段階は、通信をできるだけ容易にするために必要な霊体と霊体、幽体と幽体の連係プレーの練習に費やさねばなりませんでした。そのうち霊媒が生長して自意識に目覚め、人間的に成長しはじめると、こんどは発声器官を使用して、どんな内容のものでも伝えられるようにするための潜在意識のコントロールという、もう一つの難しい仕事に取りかかりました。」(栞A60-k)
42. 「人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます」 (05.26)
「人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます。私たちは同じ問題を霊的な視点から眺めます」とシルバー・バーチはいう。しかも両者は往々にして食い違うから、たとえば人の死は地上では悲しいことだが、霊の世界では「めでたいこと」になる。(栞A19-b) 「死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です」(栞A2-c)というようなことばがおのずから頭に浮かんでくるが、この大きな違いを咀嚼していくことが霊的理解への第一歩になるのかもしれない。
もう一つの大きな違いは、この地上の世界で大切なものと思われている地位や身分や財産などが、霊界では何の価値もないことであろう。「物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。ということは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです」(栞A45-c)とシルバー・バーチは教えている。イエス・キリストも「宝は天に貯えよ」(マタイ: 6-20)と言ったが、死後も霊的存在として生き続けていく私たちにとって一番大切なものは、魂のなかに蓄積された他人に対する優しさや思いやりのこころの深さである。それが本当の私たちの資産であって、私たちの価値は、それ以上のものではなく、それ以下のものでもない。
ところが、地上世界では、大勢の人々が、「あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになりながら」その一番大切なことを忘れてしまっている。死んで霊界へ行ってからそのことに気がつき、今度こそは、と覚悟をきめてまた地上に生まれてくる。それが、「いったん霊の世界へ行った者が再び地上へ戻ってくる、その背後に秘められた意味」である、とシルバー・バーチは輪廻転生の真実の一端を明かしてもいる。(栞A45-c)
しかし、人間の限られた能力ではこのような視点の違いを超えて霊界の真実を十分に理解していくことは決して容易ではない。私たちは、理解できないところは、それまでに得た知識を土台として、あとはやはり、信仰で補っていくしかないのであろう。そしてそのあとは、各自の自由意志をどのように発揮して霊性を高めていくかという自己責任の問題に帰着する。「自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされます。それが摂理であり、その作用は完璧です」(栞A19-b) というのは、私たちのこころに重く響いてくることばである。
41. 「大多数の人間は肉体にしか関心がありません」 (05.23)
「私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。それが肉体と共に成長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません」とシルバー・バーチは述べている。もちろん、中には精神的成長に関心を抱く者もいないわけではない。しかし、「霊的成長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております」と嘆くのである。(栞A51-b)
シルバー・バーチは、私たちが霊的本姓を自覚するようになれば、私たちの人生は一変し、生きる目的に目覚めるという。霊的真理を知ってそれを私たちの日常生活に活用すれば、不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等がなくなり、「地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立する」ことができるからと教える。「霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです」というのは、霊的真理を知り尽くしているシルバー・バーチのことばであるだけに強い説得力を持つといえるだろう。(栞A51-b)
だから、シルバー・バーチは、何とかして地上の私たちに霊的実相を教えようとする。しかし、その教えを受け入れる用意のできていない人には、真理の教えも絵に描いた餅であるに過ぎない。あるいは、砂上の楼閣である。また、自由意志でその教えを受け入れるのでなければ、真理を押し付けることもできないし、その必要もない。人はすべて霊的存在であるが、その霊性があまりに奥深く押し込められ、芽を出すこともなく、潜在的な状態のままに放置されている人がいても、それを掘り起こして開発していくのはあくまでもその人一個人の責任であって、それを他の者がとって代わることはできない。
「物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人」がいても、それでも、霊であることに変りはない。ただ、そのような宇宙の摂理に遠い人が霊性に目覚めていくためには、よほどの努力が要求される。だから、しばしば悲しみや苦しみの深甚な体験を必要とするのである。「酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理である霊的一体性を悟ることができるようになります」とシルバー・バーチは諭している。(栞A51-c)
40. 「霊としてのあなたは無始無終の存在です」 (05.19)
本来の私たちは霊である。そしてその霊がいのちである。私たちは肉体を持っているがその肉体がいのちなのではない。あくまでも主体は霊であって、霊を伴った肉体なのでもない。この関係は、霊と肉体を一体としてではなく、分けて考えた方がわかりやすいかもしれない。つまり、肉体と霊は別であり、肉体は滅びても霊は滅びることがない。霊であるいのちは永遠に生き続ける。だから、シルバー・バーチは「霊としてのあなたは無始無終の存在です」と言ったのである。(栞A36-b)
「あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります」とシルバー・バーチは述べている。その「始まり」の契機になるのが受胎作用である。受胎作用によってそれぞれの自我を表現するための媒体が準備されてはじめて生命力が現れてくることになる。それがいのちである。「両親の精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始」する。(栞A36-b)
これは、生命のありかたを教える宇宙の真理であるといえよう。しかし、この宇宙のなかでは米粒一つにもならないような小さな地球の上では、科学のレベルをはるかに超えていて、私たちにはなかなか理解しにくい。旧約聖書(伝道11章5)には、「あなたは身ごもった女の胎のなかで、どうして霊が骨に入るかを知らない。そのように、あなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない」ということばがあるが、それは、このようにして私たちの生命が顕現されることの真実を伝えようとしているのであろう。要するに、私たちは、肉体に霊が入って、いのちを持った人間になり、霊が離れていけば、いのちのない肉体(死体)になるのである。
それでは、霊であるいのちは、肉体にいつ入っていくのであろうか。極めて微妙な問題であるが、シルバー・バーチはそれを、「精子と卵子が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供したとき」(栞A36-c)と言っている。また、「幸福の科学」を主宰している大川隆法氏は、それを、もっとはっきりと、「妊娠後、満 9週目に入ったとき」と言っている。「満 9週目になると、確実に魂が体内に宿ります。その日時も特定できます」と言い、「胎児の魂が入る」状況を、氏は何度も目撃した、とも述べている。(講演集7・4章) 私たちは永遠の生命を生きながら、ほんの一瞬、このようにして、地球上で生命力を顕現し始めることになる。それが、私たちの今の人生である。
39. 「我々の心の中に抱く思念は神は先刻ご存じなのです」 (05.16)
「本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご存じなのです」とシルバー・バーチはいう。それなのになぜ祈るのか。それは、祈りがわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段であるからである。祈りによって、ほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態におくことができる。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れられるようになり、そのことによって、われわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意できることになるのである。(栞A4-a)
利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎない。また、ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もない。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいないし、訴える力をもった波動も起こすことが出来ない。シルバー・バーチは、「天にましますわれらが父よ」で始まる主の祈り(マタイ6・9-13、ルカ11・2-4)のような型にはまった祈りも「人類にとって何の益ももたらさないことを断言します」と述べている。(栞A4-i) イエスは決してあの文句のとおりを述べたわけではないのに、単なる形式的行為として繰り返すのは、その起原においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまう。儀式の一環としては便利かも知れないが、人間にとっては何の益もない、というのである。
それでは私たちの祈りはどうあるべきか。シルバー・バーチの教えはこうである。「あなた方を悩ます、全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と直正面から取りくんだ時---解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。」(栞A4-i)
利己的でなく、しかも型にはまらない祈りとはどういう祈りであろうか。それを、シルバー・バーチは交霊会の席上で頻繁に行っている。決して短い祈りではないが、一つとして同じものはない。それらは、たとえば、つぎのように始められ、つぎのように終わっている。「神よ。私たちは到達しうるかぎりの高く尊く清きものとの調和を求めて祈りを捧げるものです・・・・・・・私たちは地上世界を知識の照明によって満たし、人間がつねに真理によって導かれ、あなたの愛の存在に気づいてくれることを望んでやみません。そうすることがあなたからの豊かな遣産と崇高なる宿命を悟らせ、手にした真理に則った生活を送らせてあげるゆえんとなるからに他なりません。ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。」(栞A4-p)
38. 「亡くなったご主人は幸せいっぱいではありません」 (05.12)
ある日の交霊会に、夫を事故で亡くした婦人が出席していた。普通、そのような人に会うと、私たちは、ただ、「ご冥福をお祈りします」というようなことしかいえない。霊界の実情を窺い知ることのできない私たちのことばは、常に無力で空しいのである。時には想像だけで、「天国ではきっとお幸せでおられることでしょう」と言ったりもする。しかし、シルバー・バーチは違う。霊界で、事故死した人の現状を自分の目で見て確かめることもできる。それだけに、単なる慰めだけではないシルバー・バーチのことばには、魂に響く真実の力がこもっている、といえるであろう。
「私は決してご主人がいま何の悔いも感じておられない---幸せいっぱいで満足しておられるなどというセリフは申しません。そんなことを言えはウソになります。幸せいっぱいではありません。埋め合わせをしなければならないことが山ほどあり、収支相償うところまで行っておりません。まだ今しばらく辛抱が必要です。新しい生活に適応する努力をしなければなりません」。そう言って、さらに、「でも、感情的なストレスの多くが消えました。当初のことを思えはずっと良くなられました」(栞A41-n)と続けている。
別の交霊会では、やはり事故で婚約者を亡くしたある若い女性に対して、「彼は幸せとは言えません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻ってあなたといっしょになりたい気持の方が強いのです」と、率直に語った。そのうえで、「それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。」(栞A41-j)と安心させてもいる。事故というのはしばしば不運を連想させる。しかし、世の中で起こることに偶然というのはないはずだから、事故も例外ではない。それなりに意味があるのである。しかも、それは決して、私たちが考えがちな「悪い」意味ばかりではないであろう。それをシルバー・バーチはこう教えている。
「宇宙を創造した大霊は愛に満ちた存在です。私たち一人一人を創造してくださったその愛の力を信頼し、すべてのことはなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはいけません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。けっして口先で適当なことを言っているのではありません。そのうち正しい視野をお持ちになられるでしょうが、本当に大事なもの---生命、愛、本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても愛に対しても、まったく無力なのです。」(栞A41-j)
37. 「善行のための努力は絶対に無駄にはされません」 (05.09)
人の為に役立つことをするのが宗教である、というシルバー・バーチのことばは、実に単純明快で、迷いの霧がおのずから晴れていくような爽やかさを感じさせられる。ことわざに「情けは人のためならず」というが、他人の為に尽くすということは、結局は自分のために尽くすことなのであろう。しかも、そのような、人のために役立とうとする志向は、自動的に霊界からの援助を呼び寄せるという。困難に直面しても、「決して一人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります」(栞A68-b) と述べられているのは、大きな慰めであり、励ましでもある。この霊界からの援助については、いろいろなところで何度も、つぎのように繰り返されている。
「一人の人間が他の一人の人間を救おうと努力するとき、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。誰かが先頭に立って薮を切り開き、あとに続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道が出来あがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。」(栞A51-a)
しかし、このような善行も、人に認められたいという気持ちから、みんなに見られようとして為されるものであってはならないのであろう。また、人の善行を妨げて誰にも分からないと思ってもいけないのであろう。「あなたは身ごもった女の胎のなかで、どうして霊が骨に入るかを知らない。そのように、あなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない」とは、旧約聖書(伝道11章5)のことばである。私たちの姿は、実は、神の目からは、常に丸見えであることを肝に銘ずるべきである。
霊界に生きながら、その実情を身近なところで見聞しているシルバー・バーチが、いつか、こう述べたこともある。「高級神霊界の神々が目にいっぱい涙をうかべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ、無駄に終わっていくのを見るからです。そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。無名の平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新らしい希望の灯をともしてくれたからです。」(栞A51-a)
36. 「皆さんは毎晩肉体をあとにして別の世界へ行きます」(05.05)
ジャーナリストであり作家でもあるミラー氏の二人の子供、ルースとポールは両親から死後の存続を事実として教わっていた。姉のルースが8歳、弟のポールが6歳のときから、毎年のようにクリスマスが近づくと交霊会に招かれ、シルバー・バーチとは親しくなっていた。シルバー・バーチは、子供たちに向かって、「お二人がお家にいるときも、学校にいるときも、遊んでいるときも、すぐそばにいることがあります」と言ったりしている。あるときの交霊会でルースが「私たちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」と訊いた。シルバー・バーチはつぎのように答えた。
「皆さんは毎晩その肉体をあとにして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることができます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。」(栞A66-d) そして、「いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩、私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それから、ポール君は音楽を聞きにいったのですよ」と付け加えている。
私たちに自覚はないのだが、私たちは毎晩のように、霊界を訪れているようである。ただ、思い出せないだけだという。霊界を訪れるのは、「死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります」(栞A66-a) などと聞かされると、いのちのもつ力の不思議に改めて深く考え込まされてしまう。なぜ、自覚がないのか。なぜ、夢がわけのわからない形でしか思い出せないのか。その疑問についても、シルバー・バーチはルースに対する答えでつぎのように説明している。
「あれは、異次元の体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それを無理して押し込もうとするためにあのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません。(栞A66-e)
35. なぜ多くの人は自由よりも束縛を好むのでしょうか (05.02)
シルバー・バーチの教えはいたって単純で明快である。まず何よりも、私たちは神の分身であり、巨大な霊力につながっていること。それから、私たちは肉体をまとった霊であり、霊であるがゆえに死ぬことはないということ。そして、人の為に尽くすことが宗教である、といったようなことを、何度も強調しているだけである。
ある日の交霊会では、このような霊的知識と、それがもたらした人々の変革について、次のような点をあげた。(栞A59-g)
1.霊の力がその威力を見せることができるようになった。
2.死の恐怖を取り除いた。
3.インスピレーションは今なお届けられている。
4.人間の心は死後も改めていくことができる。
5.宗教的束縛から精神を解放し、自己改革への道が開かれている。
6.宗教的活動から離れて自分を役立てる機会はいくらでもある。
これらの点をあげたうえで、シルバー・バーチは、慨嘆する。「これほどまで美しい話、これほどまで分かり易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか」。(栞A59-g)
その一つの要因は、シルバー・バーチによれば、人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが、霊に対して盲目であったからである。彼らは宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築いた。そして、儀式と祭礼を発明した。そのうえで、教会(キリスト教)、寺院(仏教)、礼拝堂(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造した。しかし、霊から離れてしまうことによって、彼らは、神とその子等との間に仕切りを設けてしまったというのである。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいたが、惜しむらくは、その人たちもまた、そうした環境の影響のために霊力の働きかけには無感覚となっていたとシルバー・バーチは指摘する。
シルバー・バーチはここでも言った。「私たちのメッセージは愛と奉仕のメッセージなのです。生命は永遠にして無限であり、死は存在しないこと、人間の一人一人が宇宙の創造という大目的の一翼を担う存在であると説いているのです」と。そして、「私たちは別に難解な真理を説いているのではありません。いたって単純なことばかりなのです。いたって分かりやすい、筋の通ったことばかりであり、それがなぜこうまで誤解を受けなければならないのか」といらだたしい思いを繰り返している。(栞A59-i)
34. 「私たちは一人の例外もなく神の一部です」(04.28)
ある日の交霊会に英国労働党のひとりの下院議員が招待された。その彼に対してシルバー・バーチは、「私が地上へ戻って来たのは基本的な霊的真理をほんのわずかだけ述べるためです」と切り出した。そして、こう言った。「あなた方の世界が必要としているのは、神学という名の仰々しい抽象的な教義の寄せ集めではなくて、霊の力に動かされ古の賢聖によって説かれた宗教の根幹である二、三の単純な真理、すなわち人類はお互いがお互いの一部であること、そして肌の色の違いの内側にはすべてを結びつける共通の霊的な絆があるということ、これだけです」。(栞A52-b)
このように、人類はお互いがお互いの一部であるから、すべて血を分けた兄弟である。これは仏教やキリスト教などでも説かれている不動の真理である。歴史的に見ても10万年単位の尺度で人類史をふりかえれば、おのずからこの真理に到達することになるし、現代でも、たとえばDNA
鑑定では、日本人の約半数のルーツは中国人、韓国人と同系であることなどが示されている。もちろん民族の違いはある。そして違いがあるのは悪いことではない。しかし、優劣はない。その真実を知らぬ者だけが、しばしば、自分たちの民族は優秀で他の民族は劣等であると差別感情を持ったりするのである。「人種的偏見」というのは、要するに、「無知」と同義語であるに他ならない。
シルバー・バーチは言う。「私たちは一人の例外もなく神の一部です。赤い肌をした者(銅色人種)もいれば黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば白い肌をした者もいます。が、その一つひとつが全体の組織の一部を構成しているのです」。(栞A52-c)それなのに、なぜ民族間で憎みあったり、殺しあったりするのであろうか。なぜ世界各地で性懲りもなく人間性に背く悲劇がくりかえされるのであろうか。「科学的」にも無知であるからなのはわかる。自己中心的な人間の「弱さ」もあるであろう。しかし、もっと大切なことは、シルバー・バーチのいう、つぎの理由である。
「その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である "神" が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです」。ところが、それがわからないから人間は何かにつけて "差別" をつけようとする。そこから混乱が生じ、不幸がうまれ、そして破壊へと向かうのである。だからこそ、シルバー・バーチは強調する。「四海同胞、協調、奉仕、寛容---これが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること。こうした倫理は簡単ですが繰り返し繰り返し説かねばなりません」。(栞A52-a)
33. 「私が訴えるのはあなた方の理性だけです」 (04.25)
あるときの交霊会でシルバー・バーチは言った。「私が地上で傑出した指導者であったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでもよいことです。私の述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。訴えるのはあなた方の理性だけです」。そして、つぎのように続けている。「これまでのように何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威をふりかざしたりすることはいたしません。私たちは神から授かっている理性を唯一の拠りどころとして、それに訴えます。ただ単に聖書に書いてあるからというだけの理由で押しつける方法はとりません。理性が反撥を覚えたら拒否なさって結構です」。(栞A70-c)
別のところではこうも言った。「いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わないとき、不合理あるいは不条理と思えるときは、遠慮なく拒否するがよろしい」。そのうえで、シルバー・バーチは、自分の願いは、私たちに「生き甲斐ある人生を送っていただくこと、つまり内在する才覚と能力と資質とを存分に発揮していただくこと」であって、「そうなることが現在の地上生活の目的に適うことであると同時に、やがて死を迎えた暁に次の段階の生活への備えもできていることになる」と諄々と説くのである。(栞A70-a)
すでに霊界で3千年を生きてきて、自分の見聞と体験をもとに、類まれな叡智のことばを地上の人類にひろく伝えながら、シルバー・バーチの眼差しは常に優しく慈愛に満ちている。「私どもの述べたことに疑問をもたれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その挙げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです」(栞A70-d) というようなことばに接すると、私たちはその謙虚さに、少なからぬ感動をも抑えることができない。
しかも、シルバー・バーチは、ひたすらに献身と奉仕に徹しながら、一切、見返りを求めようとはしない。「私たち霊団の者は功績も礼も感謝もいっさい求めません。お役に立ちさえすればよいのです。争いに代って平和を見ることができれば、涙にぬれた顔に代って幸せな笑顛を見ることができれば、病と痛みに苦しむ身体に代って健康な身体を見ることができれば、悲劇を無くすことができれば、意気消沈した魂に巣くう絶望感を拭い去ってあげることができれば、それだけで私たちは託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです」と述べている。(栞A80-e) 霊格の高さを表していることばとは、こういうことばのことなのであろう。この徹底した無償の愛の奉仕こそが、何よりも、シルバー・バーチの教えの真実性の証しであるとはいえないであろうか。
32.「なぜ人間は無知のままでいたがるのでしょう」 (04.21)
「私どもは決して真実からはずれたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私どもの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義は何なのか、宇宙において人間はどの程度の位置を占めているのか、その宇宙を支配する神とどのようなつながりをもっているか、そして又、人類同士がいかに強い家族関係によって結ばれているかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです」とシルバー・バーチはこころをこめて私たちに訴えている。(栞A37-za)
しかし、シルバー・バーチがいかに熱心に大切な真理を私たちに伝えてくれようとしても、まったく関心を示さない人も多く、あるいは、反感や偏見しかもてないような人も決して少なくはない。それでも、そのような人たちは、こころが満たされぬまま、現世の利益や「幸福」を求めて「神仏の加護」にすがったりはする。「なぜ人間は光明が得られるのにわざわざ暗闇を求めるのでしょう。なぜ知識が得られるのに無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのになぜ迷信にしがみつくのでしょう」というシルバー・バーチの嘆きの声が聞こえてくるようである。(栞A59-d)
あの、ターミナル・ケアの世界的権威として有名であったキュブラー・ロス博士のことばを思い出したりもする。博士は、自分の患者から集めた二万例もの臨死体験の記録をもとに、いのちは永遠であり、死などというものはないのだと、一生懸命に人々に伝えようとした。しかし、わかろうとしない人にはいくら話して聞かせても、決してわかってもらえない。そういうことがわかって、博士は、もうそれ以上の、いのちの存続についてのデータを集めるのは止めてしまったのである。博士は言った。「聞く耳をもった人は、私の話など聞かずとも、すでにわかっているのです。いっぽう、信じない人たちは、百万の例を提示したって、それは大脳の酸素欠乏のなせるわざにすぎないと言い張るのです。でもそんなことは、もうどうでもいいのです。彼らだって、死んでみれば自分でわかるんですから」。(講演集No.7、p.3) やはり、これもシルバー・バーチがいっているように、霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人にしか理解できないものであろう。(栞A59-c)
このシルバー・バーチの教えによって、世界中の数百万に及ぶ人々が、自己の霊性に目覚め、この世で生きていくことの意味を理解しはじめているなかで、「神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ない」一部の既成宗教団体の不快、敵意、反撃などはこれからも続くのであろうか。私たちは戸惑いながらも、つぎのようなシルバー・バーチのことばに深く素直に共鳴するだけである。「ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。」(栞A51-a)
31. 「ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでない」 (04.18)
ある日の交霊会で、娘を亡くした夫婦が出席していた。霊界についての理解を深め、亡くなった娘とも交霊会などで連絡が取れるようになって、夫婦とも、娘が霊界で生き続けていることに得心しているようである。ご主人の方は、哲学に興味を持ち、知識人としての自負もあったかもしれない。そのご主人が、「宇宙創造の目的についてどういうお考えをおもちですか」とシルバー・バーチに訊いた。世の中にはなぜこんなに多くの苦痛と邪悪と苦闘とがなければならないのか理解できない、という疑念が質問の背景にある。それに対して、シルバー・バーチは、生命のたどる道は果てしない進化の過程であることなどを説明して、つぎのように答えた。
「鍛錬によって人間は内部の神性が目覚め、より広く、より豊かなものを表現してまいります。地上的なアカが落とされ、霊の純金が姿を現します。これは当然のことながら苦痛を伴わない過程ではあり得ません。が、それも宇宙的機構に仕組まれた一部---比較対照の中で真理に目覚めるように意図された機構の一部なのです。苦痛を知らずして健康の有難さを知ることはできません。日蔭を知らずして日向の有難さは分かりません。そうしたことのすべてが、リズムと調和の中で展開する創造活動の一大パノラマを演じているのです。」(栞A22-a)
ご主人は、「とりあえず、私たちにそれが分かるとしましょう。しかし、(世の中には)為にならない存在がたくさんあるように思うのです」と、食い下がった。すると、シルバー・バーチはこう言った。「こう申しては失礼ですが、あなたは物事をガラス越しに薄ぼんやりとみつめておられます。真剣ではいらっしゃるかも知れませんが、きわめて小さなレンズで覗いて全体を判断しようとなさっています。あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです。しかし今、それよりは少しばかり多くの知識を私たちがお授けしているわけです。」(栞A22-b) さらに、シルバー・バーチはこう続ける。
「少しだけです。全知識をお授けしましょうとは申し上げません。それは私たちも持ち合わせていないのです。私たちはあなた方地上の人間より少しばかり多くの知識を手にしているだけです。あなた方より少しばかり永い生活体験があるからにすぎません。あなた方がこれから行かれる世界、私たちが本来の住処としている世界において、自然法則の仕組みと働きのいくつかを見てきているからです。その体験と、私たちよりさらに多くを知っておられる上層界の方々から教わったことを土台として私たちは宇宙人生の計画と目的について一段と明確な認識を得ております。そこに完璧な摂理の働きを見ております。自然の摂理です。手落ちということを知らない法則、絶対に誤ることのない法則、極大から極小にいたるまでの宇宙間の全存在の全側面を認知し、何一つ無視することのない法則、すべてを包括し、すべての活動に責任をもつ法則です。」(栞A22-b) この謙虚さと誠実さと信念にあふれた言い方には、私たちもただ圧倒されるだけである。
30. 「神とは人間的な存在ではないのです」 (04.14)
神とは何か。どのような存在か。その実在を信じる立場からは、超人間的な存在として、全知全能であり、至善、至純、永遠、無限などの最大級のことばで形容される全世界・宇宙の創造者などといわれる。しかし、その存在は人間の小さな思惟範囲をはるかに超えて、不完全な言語では、到底、表現することはできない。シルバー・バーチの教えでは、「宇宙を創造しそして支配しているものは、男性神でもなく、女性神でもなく」、人間的な、形ある存在ではない。それは、完全無欠な宇宙の法則である。そして、その法則は規模においても適用性においても無限であり、それは無限の愛と叡智から生まれたものであり、したがって完壁であり、過ったり失敗したりすることが絶対にないのだという。(栞A44-n)
シルバー・バーチは、この宇宙の法則の完璧さを、たとえば次のように、繰り返し強調している。「私たちはその法則の完璧さに驚嘆しております。絶対に誤ることがないのです。そして私たちは、これまでに明かしていただいたその完璧さゆえに、愛と叡智と慈悲によって育まれた完全な計画の存在を知り、現時点で理解し得ないこと、まだ明かしていただいていない側面もまた、同じく完璧な法則によって支配されているものと確信しております。そう確信するだけの資格があると信じるのです。」(栞A22-c) そして、「私がこれまで送ってきた3千年にわたる生活において、”自分は神の法則によって不当に扱われている---不公平だ” と真剣に言える者を一人も知りません。私の知るすべての者が神の永遠の公正はその規模において無限であり、その適用性において完全であることを認めております」とまで言っている。(栞A22-c)
その上で、この神とは法則であることを知ることの重要性を次のようにも述べた。「人間的存在としての神は人間がこしらえた観念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです」(栞A58-k)
シルバー・バーチの言い方では、物質界に生きる人間は視覚と聴覚と触覚と嗅覚と味覚の五つの感覚でしか物事を判断することができない。だから、その五感を超えた存在の本質を理解することはまず無理である。そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向う側にあるものが理解できるわけがないからである。そこで彼は、神の理解については、次のように結論づける。「すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるためにその完全さを理解することができないということです。人間が個体性を具えた限りある存在である以上、個体性のない無限の存在を理解することはできないのです」(栞A44-n)
29. あなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです (04.11)
私たちの住む物質界は生活の一側面にすぎず、これが私たちの生活のすべてなのではない。それをシルバー・バーチはつぎのように言っている。「人間の多くの悩みが絶えないのは、無意識のうちに物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現しはじめるということに過ぎません。」(栞A1-c)
私たちは、この地球が宇宙の一部であることは知っている。しかしその地球は、無限にどこまでもひろがっているような広大な宇宙の中では、ほんの小さな点のような存在であることまでにはあまり関心が及ばない。そして、死んだらどこへ行くのか、天国や地獄はあるのか、などと無知と迷いのなかで不安にかられたりする。私たちにとっては、その小さな「点」である地球が世界のすべてであって、それ以外の捉え方をするのは想像の世界でしかないのである。そのような私たちにとって、シルバー・バーチの「本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです」ということばは、実に新鮮に耳に響いてくる。
そのような真実を知るためには、私たちは物質的視野だけではなく、少しでも広く深く、霊的視野でものをみることを学んでいかなくてはならないのであろう。それが、たとえば、私たちの「"呼吸する"
というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせている根元的生命力と同じもの」であるといういのちの理解へと結びついていくことにもなる。
「永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです」とシルバー・バーチのことばは続く。そして、霊界からの援助にも触れてこう付け加えた。「人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。」 (栞A1-c)
28. 「偶然の出来事というものは一つもありません」 (04.07)
「宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来事というものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです」とシルバー・バーチは言う。(栞A58-c) これは実に重いことばである。私たちは、何か事件や出来事に遭遇すると、あれは運が悪かったのだとか、不幸な偶然であった、などというが、それは私たちが、大宇宙のなかでは一つの点にしか過ぎないような小さな地球の上で、きわめて限られた狭い視野でしか、ものごとを見ることができないからであろう。
そのような無力無明の私たちに、シルバー・バーチは語りかける。「あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。」(栞A43-d)
世の中に偶然というものは一切ない、ということは、すべてが偶然であると思い込んでいるような私たちには、何度聞かされてもなかなか理解しにくく、信じがたいことである。しかしそれは、それだけ、私たちの無明の闇が深いということかもしれない。「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです」といわれて、本当に静かに振り返ってみれば、しみじみと、そのことばの真実性に胸を打たれるのは、おそらく、私だけではないであろう。
シルバー・バーチはさらに言う。「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても、天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。」そして、こうも述べた。「人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。逆らえば暗黒と病気と困難と混乱と破産と悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば叡智と知識と理解カと真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。」(栞A43-a)
27. 「霊界へ移るとき自分で自分を裁くことになります」 (04.04)
私たちの本当の財産は、預金通帳の巨額の残高や、広壮な邸宅や、社会的な地位、名誉にあるのではない。私たちの霊性の高さにある。シルバー・バーチは、それをつぎのように言っている。「物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。ということは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。(栞A45-c)
「棺を覆うて事定まる」ということわざがある。人の真価は死んだ後にはじめてわかるものだ、という意味であろう。そのとおりであるが、これも、死後に生き続けるいのちのあり方にまで視線を広げて捉えなおす必要があるように思われる。つまり、死んだらどうなるのか、の視点が欠けたままでは、人の本当の豊かさや偉大さは、推し量ることができない。
人は死んだらどうなるのか。私たちは霊界へ移ったら、「魂の成長に応じた階層、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうどよく調和する階層」の世界に住むようになる。その階層の違いは、「そこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの階層に住む」ことになる。(栞A24-h) これは、何よりも大切な真理であるが、私たちは、往々にして、「あれやこれやと大事なことがあって休む間もなくあくせくと走りまわり、血迷い、ヤケになったりしながら」、この一番大切な真理を忘れてしまいがちである。
その死後に住む階層は、たとえば仏教の民間信仰では、死後7日ごとに、あの世で裁きを受けて決められると考えられている。だから、初七日に始まって49日まで、故人に裁判で少しでもいい判決を得ることを祈願して法要を行うのである。しかし、その判決を下すのは、実は、お釈迦様でも閻魔大王でもない。それは、私たち自身である。公明正大で一部の狂いもなく支配する天の摂理の中では、物的なものから離れた私たちの実像がありのままに映し出される。全くごまかしようがない。つまり地上から霊界へと移れば、「誰がするというのでもなく、自家作用によって、自分で自分を裁く」ことになるのである。そのときの判決の基準は地上で何を考え何を信じたかではなく、まして、どのような地位、名誉、財産を持っていたか、でもない。ただ、「世の中のためにどれだけ自分を役立てたか」ということだけである。(栞A25-b)
26.「大勢の人を一度に目覚めさせる方法はないのです」 (03.31)
「地上生活の目的はきわめて簡単なことです。死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたである霊性を強固にするのです」とシルバー・バーチは言っている。霊性を強固にする、あるいは、霊性を高めていくためには、「良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆること」を私たちの霊性の成長の糧として、学んでいく手がかりにしていかなければならない。(栞A13-f)
しかし、私たちは人間である以上、それぞれに歩み方が同じではない。「進化とは絶え間ない成長過程」であり、「成長は永遠に続くもの」であるから、当然のことながら、みんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎらない。自分自身の意思と能力に応じて、自分の魂の宿命を各自がそれぞれに切り拓いていくことになる。その場合、知恵の援助を他人からうけることはできる。しかし、霊的成長に関しては、他人の助力を期待することはできない。それは、あくまでも私たち自身が自分の力で成就しなければならない個人的問題だからである。(栞A13-a)
それゆえに、シルバー・バーチは言う。「大衆に一度に理解してもらえるような真理を説くことはできません。一人ひとりが異なった進化の段階にあり、同じ真理に対して各人各様の反応を示すものだからです」と。さらに一歩進んで、「大勢の人を一度に目覚めさせる方法はないのです」とも言っている。(栞A3-b) 別のところでは次のようにも述べた。「私は私の知り得たものを精いっぱい謙虚に、精いっぱい真摯に、精いっぱい敬虔な気持で披瀝するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです。これは受け取れませんとおっしゃれば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません。」(栞A13-g)
ただし、その教えを受け入れ、私たちが苦しみや悲しみを通してより深く学ぶことができるのであるとしても、そのことの意味が理解できるようになるには、こころの受容性が必要である。シルバー・バーチのことばでは、それは、こうなる。「忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質ができあがります。」(栞A3-b) cf.(言葉15)
25. 「死は死ぬ人自身にとって少しも悲劇ではありません」 (03.28)
シルバー・バーチは最愛の息子を亡くして嘆き悲しんでいるある母親に向かって、こう言った。「どうか次のことをよく理解してください。冷たいことを言うと思わないでください。本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで申し上げます。死は、死ぬ人自身にとって少しも悲劇ではありません。あとに残された人にとってのみ悲劇なのです。暗黒の世界から光明の世界へと旅立つことは悲しむべきことではありません」。そしてさらに、「あなたが嘆き悲しむとき、それは実はわが子を失った自分の身の上を悲しんでいらっしゃるのであり、自由の身となった息子さんのことを悲しんでおられるのではありません。息子さんは地上にいた時よりずっと幸せなのです。もう肉体の病に苦しむことがないのです。刻々と蝕まれていくということもありません」 とも言っている。(栞A41-l) 私たちは、このように「本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで」言っているシルバー・バーチの言葉を信じることができるだろうか。別のところでは、シルバー・バーチはこうも述べている。
「すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。」(講演集7, pp.19-20) これも、いのちの真実についての極めて大切な啓示である。念のために、これを英語の原文で引用すると、次のようになっている。
The evidence that is available to you will,if you are reasonable,convince
you that life, because it is spiritual in essence,cannot end when death
comes to the physical body. Matter is only the husk;the spirit is the
reality. Matter exists only because spirit animates it. When spirit,the
life-force,withdraws,matter crumbles into dust,but the spirit which
is the individual does not crumble into dust. The spirit is immortal. It
cannot die.
2500年前の釈迦は数多くの仏典を残し、2000年前のイエス・キリストは聖書を残したが、それらはいづれも、釈迦やイエス・キリストの弟子たちが聞いた話を書き残したもので、釈迦自身、イエス・キリスト自身が書き残したものは一行もない。しかし、3000年前のシルバー・バーチは、このとおりの現代英語で、直接私たちに語りかけたのである。これらは一字一句、シルバー・バーチ自身の言葉であり、私たちは、モーリス・バーバネルの声帯を通してであるが、このとおり語っているシルバー・バーチの威厳に満ちた肉声を録音で聞くことさえできる。これは、20世紀の人類に起こった最大最高の奇跡といってもいいのではないか。いのちの真実を伝える重大な問題であるだけに、ここにもう一度繰り返して、自らにも問い直してみたい。私たちは、このように「本当のことを謙虚にそして真剣な気持ちで」言っているシルバー・バーチの言葉を、それでもなお、信じないでいられるのであろうか。
24. 「霊言が百パーセント伝わることは滅多にありません」 (03.24)
霊界と地上の交信の難しさについて、シルバー・バーチはこう言っている。
「霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、まったく次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。」(栞A60-a)
おそらく、この「よほどの例外」に属するのが、シルバー・バーチの場合であろう。シルバー・バーチはモーリス・バーバネルというジャーナリストを霊媒として使うために、バーバネルが生まれる前から彼を選び、霊界から指導を続けていた。同時に、シルバー・バーチ自身も、バーバネルの母国語である英語を20年にわたって勉強したりしている。そして、交信の実施にあたっては、シルバー・バーチの方は、バイブレーションを下げ、モーリス・バーバネルはバイブレーションを上げて調和を図っていくのだが、それも、「うまく行くようになるまで15年もかかりました」と語っている。(栞A60-e) 一般には、霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えていかなくてはならない。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限らないという。霊媒も人間だから、疲れていることもあるし、気分の悪い時、気嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時などもあって、その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するかが問題になってくるからである。
私自身の体験でも、たとえば、アン・ターナーによる霊界との交信がいつもうまくいったのではなかった。1992年2月11日に、ロンドンの大英心霊協会で彼女と運命的な出会いがあったときには確かに「奇跡」が起こって、私はそれによって救われたが、それから今日に至るまで、その「奇跡」がいつも繰り返されているわけでもない。昨年の文通による交信では、彼女は体調を崩して、明らかに交信能力は落ちていた。しかし、だからといって、霊界との交信の可能性や信憑性に疑念をもったことは全くない。霊界との交信は、おそらく、はるか宇宙の彼方から送られてくる微少な電波を地上の不完全な受信機で捉えようとする試みに似ている。私たちは、雑音交じりの音声のなかに間違いなく含まれているはずの真実の声を、必死になって聴き取っていこうと努めていくだけである。
霊界との交信では、さらに、通信を受けようとしている自分自身の心の持ち方も大切である。しばしば、交信の妨げになっているのが、知らず知らずとはいえ、実は、自分自身である場合も稀ではないからである。霊知識に対する世間の偏見と無知の中で、霊界の真実に目覚めるのは確かに容易ではないであろう。しかし、その霊界の真実を素直に受け入れられない頑なな心が、霊界との間に厚い壁を作ってしまうのである。霊界との交信を妨げる「もう一つ大切な原因として、無理もないこととはいえ、絶対的確証を得ないと気がすまない、あなたのその冷ややかな分析的精神構造があります」とシルバー・バーチはある新聞編集者へ語ったことがあった。このシルバー・バーチの指摘も、私たちはこころして受け止めておきたい。(栞A41-k)
23. 「この世の中には心配することなど何一つありません」 (03.21)
「私は自信をもって皆さんに申し上げますが、この世の中には心配することなど何一つありません」とシルバー・バーチは言っている。「人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう」と続けている。きわめて説得力のある言葉であるが、それでも、私たち凡人には、なかなか一切の心配をしないで過ごすというのは容易ではない。(栞A1-d)
ただ、心配や恐怖心は、魂に暗い影を落とし、生命のエネルギーを著しく弱めてしまうことは事実である。そのようなネガティヴな気持ちの持ち方が脳内にノルアドレナリンという猛毒を分泌させるのに対し、不安を持たないポジティヴなものごとの捉え方が、ベータ・エンドルフィンというモルヒネに数倍するすぐれた薬理効果があることも実証されているようである。(随想41) 霊的にも、心配や不安は、自分を守ってくれている背後霊との間にも厚い壁を作ってしまって、折角の援助も届かなくしてしまう。だから、たとえば「不幸の訪れの心配は不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸よりも害を及ぼしています」ということにもなるのであろう。シルバー・バーチは、別のところでは次のようにも言っている。
「地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。それは無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。」(栞A1-c)
やはり、不安、心配、恐怖心を克服していくのには、霊的理解を深めていくほかはないようである。その上で、私たちが、大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かるのだと、シルバー・バーチは確言している。それが、「決して忘れてはならない大切な真理」であるというのである。そのことばをここに繰り返して、私たちは深く心に留めておくことにしたい。「人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。」(栞A1-c)
22.「息子さんは生命に満ちあふれた姿で生きておられます」 (03.17)
ある時の交霊会に、新聞編集者の夫妻が招待された。夫妻の息子さんはイギリス空軍の軍人であったが、若くして戦死した。悲嘆にくれていた夫妻は、それまで、幾人かの霊媒を通じて息子さんと交信しようとしたのだが、うまくいかなかったようである。シルバー・バーチは霊界のその息子さんのこともすでに知っていたらしい。「息子さんのことはよく存じております。聡明な、まばゆいばかりの青年でした」と言っている。ご主人は、なんとか息子と連絡を取る方法はないものか、とシルバー・バーチに尋ねた。それに対して、シルバー・バーチは、「あなたが求めておられるものを叶えられなくしているのは、知らず知らずとはいえ、実はあなたご自身であることを知ってください」と、答えている。
おそらく、この編集者は、死者と交霊できることを、誰かから聞いたのであろう。息子さんが「死んで」、いまは藁をも掴みたい切実な思いでシルバー・バーチのところへ来たが、その「息子の死」という事実がなければ、霊界の実存とか霊界通信などということには、ほとんど無関心であったに違いない。科学万能の時代に、見えない世界のことを信じるのは無知蒙昧であると退けてしまうのは、どこの世界にでもみられるありふれた情景である。そして、知識人といわれるような人ほど、そういう傾向は強い。その新聞編集者も、あるいは、そのような一人であったのであろうか。その彼に、シルバー・バーチはつぎのように語った。
「息子さんは実は今もあなた方のお側にいるのです。死んでしまったのではありません。生命に満ちあふれた姿で生きておられます。いつかはその存在を証明することに成功するでしょう。そして傷ついた心をみずから癒すことになるでしょう。どうか私の言うことを素直に信じてください。息子さんは戦死によって何の傷害も受けておられません。精神的能力も霊的能力もまったく健全です。」
この「どうか私の言うことを素直に信じてください」ということばには万鈞の重みがある。人はしばしば素直に信じることはしないで、なお、奇跡だけを求める。その冷ややかさが、みずから、霊界との間に堅固な壁を作ってしまうのである。この編集者もそうであったのであろう。シルバー・バーチはそれを優しく諭すように続けて言う。霊界通信で「お子さんがあなた方を喜ばせてあげられないのはお子さんが悪いのではありません。地上に近い霊界の下層界における混乱状態のせいであり、それにもう一つ大切な原因として、無理もないこととはいえ、絶対的確証を得ないと気がすまない、あなたのその冷ややかな分析的精神構造があります。しかし私もお手伝いします。そのうちその悲しみの鈍痛を忘れかけている時があることに気づかれるようになることを、ここで断言しておきましょう。」(栞A41-k) cf,(栞A41-l)(栞A41-m)
21. 「身分や肩書きなどは霊界では何の意味もありません」 (03.14)
地上の価値判断の基準は霊界での価値判断の規準と同じではない。「地上では物を有り難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死とともに消えてなくなるのです」とシルバー・バーチは言っている。死んだら墓場まではカネを持って行けない、とはよく言われることである。しかし、そのカネを含めて、財産とか権威とか権力などは、霊界では「何の意味もない」という真実を、私たちは肝に銘じておく必要がある。
米誌「フォーブス」の2005年版によると、いま世界では個人資産が10億ドル(約1,040億円)を超える「富豪」は691人だそうである。その中には日本人も、現在、証券取引法違反で逮捕されている人を含めて24人が名前を連ねている。「富豪」がすべて、私利私欲だけの人物ばかりではなく、なかには私財を社会へ還元していくことに熱心な人もいないわけではないが、カネや財産は、所詮、社会からの一時的な借り物である。それを自分だけのものと勘違いして、社会へ返していくことを忘れたら、おそらく、その罪は重いであろう。だから、天国への近道は、むしろ、財産をなるべく持たないことにあるのかもしれない。この世での、地位や名誉、身分なども、肝心の霊界では、重要視されることがない。そのことも私たちは、しっかりと胸に畳み込んでおかなければならない。
「皆さんはすぐに地上時代の地位、社会的立場、影響力、身分、肩書きといったものを考えますが、そうしたものはこちらでは何の意味もありません。そんなものが全てはぎ取られて魂が素っ裸にされたあと、身をまとってくれるのは地上で為した功績だけです」とシルバー・バーチは言っている。この、地上で為した「功績」も、この世で一般に考えられている「功績」とは必ずしも、同じではないであろう。ここでいう「功績」とは、他人のために施した善意のことである。それが大切なのは、「善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られる」からであり、「博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んで」いくからこそ、霊界の見方では価値があるのである。(栞A45-b)
シルバー・バーチはさらに言う。「世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりにできるだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重大な仕事です。手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生まれて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡智と理解を広める仕事に協力していることになります。」(栞A45-a)
20. 「神の摂理は一分一厘の狂いもなく働きます」 (03.10)
「宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです」とシルバー・バーチはいう。それは、言い換えれば、宇宙には永遠にして絶対不変の法則があるということである。その永遠にして絶対不変の法則が天の摂理である。それを神と呼んでもいいであろう。シルバー・バーチも、天の摂理といったり、神といったりしている。そして、その天の摂理は、一分一厘の狂いもなく働くと、次のように強調する。
「神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相応の結果を生み、自分が蒔いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さをもって作用し、人間的制度にはお構いなしです。地上生活では勝者がいれば敗者がいるわけですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。」(栞A58-a)
シルバー・バーチによれば、その宇宙の法則の中に神の意志が託されていることになる。だから、宇宙の法則は、人間の作る法律とは同じではない。「およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来ごとというものは一つもありません」というのである。天の摂理のもとでは、私たちもまた、決して偶然に生まれるのではない、と次のようにも、繰り返している。
「世の中が偶然によって動かされることはありません。どちらを向いても---天体望遠鏡で広大な星雲の世界を覗いても、顕微鏡で極小の生物を検査しても、そこには必ず不変不滅の自然法則が存在します。あなたも偶然に生まれてきたのではありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません。全生命を創造した力はその支配のために規則ないし法則を用意したのです。その背景としての叡智においても機構においても完璧です。」(栞A43-a)
19. 「困難と取り組むのが旅する魂の本来の姿です」 (03.07)
「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません」とシルバー・バーチはいい、その霊的な宝を身につけるためには、「苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません」と続ける。そして、「何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の本来の姿なのです」と教えてくれている。
「艱難汝を玉にす」ということわざがある。人間は、多くの辛いこと、難儀なことに遭い、それらを乗り越えてはじめて玉のように立派な人格になる、というのであろうが、私たちは、ともするとそのことわざを、たまたま辛いこと、難儀なことに出くわした場合の、慰め、あるいは励ましのことばとして、受け止めがちである。辛いことや難儀なことに遭わないに越したことはないのだが、というのが暗黙の前提になっているような気がしないでもない。それは、やはり、苦難に対する理解が浅いからなのであろう。シルバー・バーチは、それを、霊界からの視点で捉えて、「困難と取り組むということが、旅する魂の本来の姿」だと言っているのである。この言葉の意味は重い。
辛いことや難儀なことには、なるべく遭わないほうがいいのではない。それらは、もっと積極的に取り組んでいく価値のあるものである。だから、シルバー・バーチは、私たちが苦難から教訓を学び取り、霊的に成長していくことを願い祈りながらも、「あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合」がよくあるのであろう。安易に手を貸すことは、折角の魂を磨く機会を奪うことになる。それに、それぞれにあたえられた苦難は、決して、乗り越えることのできない苦難なのではない。そのことも、シルバー・バーチは、上述のように何度も繰り返して述べてきた。つぎのような、私たちが地上に生まれてくるのは、その試練に身をさらすためだという大切な真理も、私たちはしっかりと、こころに刻み込んでおきたいものである。
「地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもいいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。」(栞A18-c)
18.「あなた方は無限の可能性を秘めた霊なのです」 (03.03)
悲しみや苦しみは、私たちの神性の開発のためにこそある、というのはシルバー・バーチが繰り返して言っていることである。しかし実際には、私たちはなかなかそういう風には受けとめることができない。悲しみは辛いし、苦しみもできれば避けて通りたい。「解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません」と聞かされても、それはやはり、一部の求道者だけに対する理想論ではないかと思ったりもする。けれども、シルバー・バーチがこれを言うのには、彼自身の体験と実感に基づく確固たる裏付けがある。シルバー・バーチのことばに耳を傾けてみよう。
「私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然とわかるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。」
その天の摂理と神の力に守られてきた体験があるからこそ、シルバー・バーチは敢えて言うのであろう。「あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。(栞A1-b) シルバー・バーチはさらに、「無限の能力をもつ」私たちを励ますように、つぎのようにも言った。
「私たちがみなさんの前に掲げる理想が非常に到達困難なものが多いことは私も承知しております。私たちの要求することのすべてを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。それには大へんな奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。」(栞A1-j)
17.「神は決して私たちを見捨てません」 (02.28)
むかし、親鸞は信仰に迷いを抱いた信徒たちを前にして、強いことばで自分自身の入信のいきさつを告白したことがあった。「私はただ、念仏をとなえて阿弥陀仏に助けていただくだけだと、法然上人に教えていただいたことを信じるのみである。そのほかはなにもない。念仏をとなえれば本当に浄土に行けるのか、それとも地獄に堕ちるのか、そんなこともどうでもよい。かりに、法然上人に騙されて、念仏したあげくに地獄に堕ちたとしても、私は決して後悔はしないであろう」と。そして、つぎのようにつけ加えた。
「阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えにも嘘はない。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師のお説きになったことにも誤りはない。善導大師のお説きになったことが真実であるなら、どうして、法然上人の言われることが虚言でありえようか。そしてまた、法然上人の言われることが真実であれば、この親鸞の言うことも空言であるはずがない。これがつまり、私の信心なのだ。この上は、念仏を信じようが、捨てようが、それはあなた方の勝手である」。(講演集2、pp.9-10)
この親鸞のことばとは別に、いま、私たちの前には、シルバー・バーチのつぎのようなことばがある。「宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません」。
このことばは深く考えてみる必要がある。シルバー・バーチは、この地上に生をうけた先覚者としては釈尊よりも先輩である。もとより、善導大師や法然上人や親鸞よりは、はるかに大先輩で、真理を説く叡智と資質においても彼らに優ることはあっても劣ることは決してないであろう。そのシルバー・バーチがこのように「神は決して私たちを見捨てない」と言っているのである。このことばに嘘はあるだろうか。信じられないことがあるのだろうか。
シルバー・バーチは、霊界にあって、宇宙の大霊である神の存在を十二分に体験し実感してきた。「天の摂理」が一部の狂いもなくこの宇宙で働いていることも何度も繰り返して述べてきた。何の見返りも求めず、感謝のことばさえ受け入れずに、ただひたすらに宇宙の真理を私たちに伝えようとして奉仕に徹してきた。そのシルバー・バーチが続けて言う。「私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。」(栞A7-b)
16.「自分を人のために役立てること、それが宗教です」 (02.24)
宗教とは何か。その定義として、たとえば『広辞苑』には、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに対する信仰・行事。また、それらの連関的体系」などと書かれている。これでは味も素っ気もない感じがするが、これが、シルバー・バーチのことばでは、「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕すること」となる。きわめて明快で分かりやすい。それでは、その宗教の実態はどうであったか。シルバー・バーチは言う。
「地上にはこれまであまりに永いあいだ、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教がもっとも大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。」(栞A6-c)
真理から外れた「宗教」の在り方については、シルバー・バーチはこのように、しばしば厳しい批判を繰り返している。「神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味がありましょう。ステンドグラスの窓にしたからどうなるというのでしょう。法衣をまとったからといってどう違うというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです」とも述べたりした。そして、宗教の本質を、つぎのように言いきっている。
「宗教とは何かと問われれば私は躊躇なく申し上げます---いつどこにいても人のために自分を役立てることです」と。さらに、それをまた、美しいことばで簡潔に繰り返した。「自分を人のために役立てること、それが宗教です。」(栞A6-d)
15.「真理は魂の準備ができた時に初めて学べるのです」 (02.21)
霊的真理の理解は、私たちが本来霊的存在であることを知ることから始まるといってよいであろう。しかし、霊的存在であることを知るのは、簡単なようであっても容易ではない。その真理をしっかり刻み込んでいるはずの自分の魂を目覚めさせなければならないのである。それでは、そのためにはどうすればよいか。「魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします」とシルバー・バーチはいう。そして、つぎのように続ける。
「悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。」(栞A18-l)
「悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつもの」であるが、大切なことは、その悲しみを必ず乗り越えていくといういことである。その時にこそ、魂の偉大さが初めて発揮される。そして、「それを学ぶための準備」もできることになるのである。逆にいえば、その悲しみに打ちひしがれたままであれば、その悲しみは「深甚なる価値」をもつことはできない。霊的真理を理解することもできないで終わる。(栞A18-m)
シルバー・バーチはさらにいう。「真理は魂がそれを悟る準備のできた時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまで決して真理に目覚めることはありません。こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。」(『霊訓 1』 pp.55-56)
14. 「時として人生が不公平に思えることがあります」 (02.17)
「時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません」と、シルバー・バーチは述べている。(栞A48-b) 私たちは、ものごとを判断するのに、「まだまだ未知の要素があることに気づいて」いないことが多いのである。未知の要素とはなにか。それが因果律である。彼は、つぎのように、私たちの存在の背後にある因果律の完璧さを強調している。
「地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。霊的に見て、あなたにとって何がいちばん望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。」(栞A48-a)
一番嫌なことが、実は、私たちの祈りに対する最適の回答で有り得る、というのは深く考えさせられることばである。「私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきました」とシルバー・バーチは言っているが、宇宙の摂理は因果律を言い直したものであろう。彼はこの地上と霊界で3千年も生きてきただけに、そのことばには、強い説得力がある。シルバー・バーチは、さらに続ける。
「私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が″自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている″などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束ないことになります。」(栞A48-b)
13. 「本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです」 (02.14)
「人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体であって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです」とシルバー・バーチはいう。この「真のあなたは霊なのです」をこころの底から理解することが、悟りへの道に踏み出す第一歩になるのであろう。そのとき、私たちの内部の神性が目を覚ましはじめるのである。
私たちが霊性に気づき魂の神性が目を覚ますとどうなるか。その魂の奥に秘められた驚異的な威力を認識するようになる、とシルバー・バーチはつぎのように説く。「それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。」
しかし、現実には、そのような霊性に気がつかず、肉体だけが自分だと思っていることが多い。「人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております」とシルバー・バーチも嘆いている。霊性の真理こそ宝である。それを知っている者は知らない人に知らせて導いていく責任があるが、そのためには、「どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい」という訴えを実践していかねばならない。つぎのようなことばに、勇気づけられながら。
「冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小ばかにして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう」 (栞A54-b)
12.「克服できない困難というものは絶対に生じません」(02.10)
私たちは、日常生活において、しばしば困難な問題に直面する。手に負えないような難問に遭遇して、どうしてよいかわからずに暗く沈み込んでしまったりもする。しかし、シルバー・バーチは言う。「自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません」と。(栞A9-c)
シルバー・バーチは何度も繰り返して、困難や苦痛や障害や悲しみなどいうのは、私たちが霊性を高めていくための修練に必要不可欠な要素であると言っている。それらを乗りこえることによって、霊性が高められていくのであり、「悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わうこと---魂はこうした体験を通して初めて成長するのです」と、困難や苦痛などと闘うことの意味を強調している。だから、悲しみの極みでさえ、実は、恩恵である。「低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することができる」からである。
それでも、私たちは、なぜ自分だけがこんなに苦労しなければならないのか、と「自分だけの不幸」をつい嘆いたりする。しかし、もし本当に、他人が背負えないような重荷を自分だけが担いでいるのであるとすれば、それは、他人よりそれだけ能力があるから、と考えた方がいいのであろう。他人より能力がある者は、他人より多くの重荷を担ぐ責任があるからである。それは、不幸ではなくて、選ばれた者の特権とさえいっていいのかも知れない。そのように考えて、「あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せる」ことにもなるのである。
シルバー・バーチはさらに繰り返す。「あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほど重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです。」(栞A18-a)
11. 「その身体があなたではありません」 (02.07)
あなたは誰か?これは、もしかしたら私たちに対して発せられるもっとも重要な質問かも知れない。私たちは、実は、永遠の霊的存在なのである。私たちは死んでから霊になるのではなくて、生きている現在、すでに霊である。しかし、「人間は毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、物的生活に必要なものを追い求めてあくせくしているうちに、つい、その物的なものが殻にすぎないことを忘れてしまい」、実在ではないものを実在と思いこんでしまうようになる。身体も実在なのではない。それが殻にすぎないことを、シルバー・バーチはつぎのように言う。
「鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているにすぎません。身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具にすぎません。その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。」(栞A54-e)
私たちが大霊の一部であれば、大霊と同じ神性を私たちも宿していることになる。そういう意味では、私たちも神である。それをシルバー・バーチは「あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです」と確言している。私たちが自分だと思っているのは、私たちの体を通して表現されている一面だけで、それは、奥に控えるより大きな本当の霊的自分に比べれば、ピンの先ほどのものでしかないらしい。シルバー・バーチはさらに、私たちが潜在的にもつ偉大な力にも触れて、このように述べた。
私たち自身である霊は、「この全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる "神"の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方のつとめなのです。」(栞A54-a)
10. 「人生の目的は様々な体験を積むということです」 (02.03)
「人生の目的は至って単純です。さまざまな体験を積むということです」とシルバー・バーチは述べている。さまざまな体験を積むのは、「霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるため」だという。そして、この地上世界で体験を積むために必要な道具として、私たちは「身体をこの地上で授けてもらう」ということになる。つまり、それが、私たちが生まれてくる意味である。
問題は、体験の中身であろう。死後、霊界へ還っていって「幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験」しなければならないのである。なぜ、「苦労を十分に体験」しなければ幸せが味わえないのか。それは、「光の中ばかりで暮らしておれは光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそ」だからである。
世間の常識では、苦労のないのが幸せであると思われがちであるが、本当はそうではない。苦労がなければ、「いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身につく」ということも学べなくなってしまう。「この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終れば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります」といわれていることを、私たちは重く受けとめなければならないであろう。シルバー・バーチはこのように、しばしば、悩みや苦しみ、悲しみのポジティブな意義を説いているが、ここでもそれを、つぎのように繰り返した。
「光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。平和を有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対称の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発はないでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。」(栞A56-a)
9. 「何も知らずに誕生してくるのではありません」 (01.31)
私たちは、生まれてくるとき、自分の魂の修行のために最適な両親を選び、最適な環境を選んで生まれてくる。この場合、最適な環境とは、もちろん、何の不自由もない「恵まれた」環境ということではないであろう。むしろ、その逆の方が修行のためには大きな意味がある。「地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは、魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです」とシルバー・バーチは教えてくれている。(栞A36-a)
これは、大切な真理である。これが理解できれば、たとえば、「このような家庭に生まれて自分は不幸だ」
などと嘆く必要はなく、世間の不公平や不正に対しても、憤慨することはない、ということになる。実は、ほかならぬそのような環境がその魂の修行にとっては必要だったから、自ら意識してそういう環境を選んできたからである。その魂が選んだそのような人生を「生き抜き、困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我---より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです」とシルバー・バーチは言う。(栞A36-e)
しかし、そのように自覚して生まれる環境を選んでも、誕生の瞬間には、ごく一部の霊能力者を例外として、すべて忘れてしまうことになる。「実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ない」からである。そのような白紙の状態から、いろいろと経験を重ねながら、真の自分を見出していくのが、人生の目標なのであろう。この生まれる前に環境を選ぶという状況は、欧米の大学医学部などでの退行催眠によっても確認されていることである。
それでも、その真実に気がつかず、あるいは理解できず、自分がこの世で計画していたような修行を疎かにしてこの世での生を終えてしまった場合はどうなるのであろうか。生まれ変わって、もう一度チャレンジするほかはない。自分自身で計画していながら、その修行を積まないのであれば、「その埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合して」いく、ということになるのである。 (栞A36-e) cf.(栞B36-b)
8. 「悲しみは、一番よく魂の目を覚まさせるものです」 (01.27)
私たちは、普通、人の幸せとは悲しみのない状態のことであるというふうに考えがちである。だから、自分に悲しみがふりかかると、誰よりも自分は不幸なのだと思いこんでしまったりする。もちろん、悲しみがないことを期待するのは人として自然のことで、それにあえて異を唱える必要はないであろう。しかし、時には、悲しみの持つ深い意味にも思いを馳せてみる必要がある。
「悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです」とシルバー・バーチは言っている。それは、「魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要」とするからである。私たちには気がつきにくいが、「悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです」というのである。
また、「もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです」と続けているが、これはきわめて説得力のあることばであるといえよう。
ここで、私たちは、シルバー・バーチが「それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって」と、ひとつの条件をつけていることに注目したい。逆にいえば、悲しみを学ぶだけの準備のできていない魂にとっては、「深甚なる価値」は期待できない。悲しみは、悲しみのままで終わってしまう。そして、準備ができるようになるために、また生まれ変わって、再び、同じ課題にチャレンジすることになるのであろう。
他人の幸せは小さいものでも大きく見え、自分の幸せは大きいものでも小さく見えるものかも知れない。まして、悲しみの極みが「深甚なる価値がある」ことを、理解し受け入れることは容易ではない。シルバー・バーチも「むろん困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません」と述べている。(栞A9-a, 9-b)
7. 「悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです」 (01.24)
息子を二人までも戦争で失ったある実業家夫妻を前にして、シルバー・バーチは、「お二人は、人間として最大の悲しみと苦しみを味わわれました。しかし、その悲痛の淵まで下りられたからこそ喜びの絶頂まで登ることもできるのです」と慰めのことばを述べ、つぎのように霊界での二人の息子の実状を伝えた。
「ご子息が二人とも生気はつらつとして常にあなた方のお側にいることを私から改めて断言いたします。昼も夜も、いっときとしてお側を離れることはありません。みずから番兵のつもりでお二人を守り害が及ばないように見張っておられます」と。
子供を亡くして悲しまない親はいないであろう。それを、世の勝れた僧職者などは、しばしば、悲しんではならない、などという。そういわれても、悲嘆にくれている人たちには殆どなんの慰めにもならない。死の意味が理解できない間は、ただ、悲しみの涙がとめどもなく流れるだけである。かつての私自身がそうであったし、そのような人々の姿もまわりで少なからず見てきた。
しかし、シルバー・バーチは、「今日の言葉」(1) で「まだまだ知らない人が多い大切な秘密」を明かしているように、ここでも、「亡くなった」ご子息は二人とも「生気はつらつとして」生きていて、常に側にいるという。「改めて断言する」とまで言ってくれている。それが、死んだことのない人間が言っているのではなく、3千年を生きてきて地上世界も霊界も知り尽くしているシルバー・バーチが直接語りかけてくれているだけに、このことばには盤石の重みがあり、千金の値がある。
もちろん、シルバー・バーチは、甘いことばばかりを述べているのではない。「といってお二人のこれからの人生に何の困難も生じないという意味ではありません」と断っている。「そういうことは有り得ないことです。なぜなら人生とは絶え間ない闘争であり、障害の一つ一つを克服していく中に個性が伸び魂が進化するものだからです」とその理由を説明してくれている。そして、つぎのような、霊界にいる高位霊だけが知りうる真理のことばをつけ加えた。
「お二人がこれまで手を取り合って生きて来られたのも、一つの計画、悲しみが訪れてはじめて作動する計画を成就するためです。そうした営みの中でお二人は悲しみというものが仮面をかぶった霊的喜悦の使者であることを悟るという計画があったのです。悲しみは仮面です。本当の中身は喜びです。仮面を外せば喜びが姿を見せます。」 (栞A41-b)
6.「祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です」 (01.20)
祈りには効果があるのかどうか。地位の高い僧侶や大主教などに祈ってもらえば、その祈りは聞き届けられるのか。素朴な疑問であるが、シルバー・バーチは地位には関係がなく、大切なのは祈る人の霊格だという。宗教団体などでよくみられる紋切り型の集団的な祈りにも否定的である。
「地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊力が具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、スジの通らない教義に疑り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。」
さらに、私たちの抱える問題については、「神は先刻ご承知です」とつぎのように、続けている。
「祈りとは本来、自分の波長をふだん以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来事のすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことはできません」(栞A4-c)
5.「人を選り好みしないのが霊格が高い証明」 (01.17)
霊界の医師たちは、地上の心霊治療家たちにいろいろと援助の手を差しのべてくれている。その場合、霊界からは、「必要とあらば、どこの、どの治療家にも援助してもらえるのか」という心霊治療家エドワーズ氏の質問に対して、シルバー・バーチは答えている。
「霊格が高いことを示す一番の証明は人を選り好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方(心霊治療家)も患者を断るようなことは決してなさってはいけません。」
エドワーズ氏は、治療費は一切取らず、自発的な献金でまかなっていたために、慢性的な資金不足に悩まされ、運営の危機に直面したこともある。そのようなエドワーズ氏を励まして、シルバー・バーチは、さらにつぎのように霊界からの援助の力を強調した。
(無料の心霊治療を続けてきたあなた方は)「これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹しているかぎり、克服できない障害はありません。すべてが克販され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植え付けています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです。」(栞A16-j)
4. 「私はインディアンではありません」 (01.13)
シルバー・バーチは、きわめて霊格の高い高位霊であることは間違いないが、この地上で3千年前に生きていた頃の姓名、地位、民族、国家などは、何度訊かれても明かそうとはしなかった。「人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だとわかったら、私が述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それはよくない錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよいのです。私の言っていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じて下さい。そんな馬鹿な、と思われたら、どうぞ信じないで下さい。それでいいのです」と、答えていた。これは、私たちを粛然とさせることばである。
シルバー・バーチも仮の名前であるが、自分では、インディアンだと言っていた。たとえば、西洋文明を批判したときには、次のように述べたことがある。「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます。」(栞A37-k)
そのシルバー・バーチが、珍しく、自分がインディアンであることを否定したことがあった。つぎのように語ったのである。「ご承知のとおり私はインディアンの身体を使用していますが、インディアンではありません。こうするのが私自身をいちばんうまく表現できるからそうしているまでです。」(栞A60-m)
1920年代からイギリスのロンドンで、毎週一回、50年あまりも続けられた交霊会でのシルバー・バーチのことばが、一次資料として、すべて残されているということは人類にとって奇跡的な幸運というほかはない。しかし、シルバー・バーチの霊言を取り次いでくれたモーリス・バーバネル氏の死去とともに、シルバー・バーチの地上時代の実像は永遠の謎として残ることになった。
3. 「進化した魂は苦痛は覚えません」 (01.10)
「苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません」とシルバー・バーチはいう。
仏教で「四苦八苦」といわれるように、私たちは生まれてから死ぬまで苦しみのなかで生きているようなものである。その苦しみから逃れることはできるのか。どうしたら逃れられるのか。私たちは、このシルバー・バーチのことばに出会うまでは、その難問を抱えて彷徨を続けてきた。
「般若心経」は、「観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊皆空度一切苦厄」から始まっている。観音さまは
”深い智慧の完成” という行を実践していたときに、「存在の “五つの要素”
はすべて “空” である」と見極めて、すべての苦しみを救われた、という大意になるが、やはり難しく理解しにくい。これに比べれば、「もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません」というシルバー・バーチの言い方は、実に明快でわかりやすい。
2. でも引用したが、シルバー・バーチはさらにつぎのように続ける。
「なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。」 だから、進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えることがあっても、苦痛を覚えることはない、と。(栞A13-c,d)
2. 「苦は魂の進化と相関関係にあります」 (01.06)
誰かの行為によって災難に遭っても、それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをすることはない。苦しみの大きさは、魂の進化の程度と相関関係にある、とシルバー・バーチはいう。だから、魂の進化した人には苦しみはない、と。
しかし、他人の苦しみを自分の苦しみとすることもあるのではないか、と問われたら、私たちならなんと答えるであろうか。他人の苦しみを自分の苦しみと感じられることは、利己主義とは対極にあるひとつの愛のかたちと考えられないこともない。だから、この場合は例外で、その苦しみは本当の苦しみにはあたらない、と言ってみたりする。しかしこれは「苦しみ」の矛盾で、説得力のある答えにはならない。
これに対してシルバー・バーチは、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えないという。進化した魂は、苦しみの代わりに、同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚える、というのである。(栞A 13-b, c)
1. 「いつも側にいてくれているのです。」 (01.03)
「(霊界の)妹とお父さんはいつも側にいてくれているのです。これはまだまだ知らない人が多い大切な秘密です。」
幼いときに妹を失い、今度は不慮の事故で父親も亡くして母親と二人きりになった11歳のジョン君に、シルバー・バーチが優しく語りかけている。母親がシルバー・バーチを通じて聞いた霊界からの二人のメッセージを、いつもジョン君に語っていたので、ジョン君は自然に死後の世界を信じるようになっていた。それでも、愛する霊界の家族がいつも側にいて自分を見守ってくれているということを知っている人は少ない。
「お父さんはジョン君のことは何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから」と教えられて、ジョン君が、「ほくに代わってお礼を言ってくださいね」と言うと、シルバー・バーチは「今の言葉はちゃんとお父さんには聞こえていますよ・・・・・ジョン君がしゃべること、考えていることも、みなお父さんには分かるのです」と、シルバー・バーチは答えている。(栞A 41-g)
|