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   安全な街の無防備な百円ショップ           (2015.01.12)


 いまの家からあまり遠くないところにダイエーのビルがあって、その4階と5階の全フロアーがかなり広い百円ショップになっています。たまに行ってみることがありますが、5階にはレジがありません。5階で買ったものはすべて「4階のレジでお支払いください」という掲示が出されています。園芸用品や工作材料などを5階で買えば、それを持って、わざわざエレベーターか階段で4階まで降りてレジの前に並ぶことになるのです。初めてそれを知った時、私はちょっと驚いて、何かなつかしいようなものを感じさせられました。人件費の節約のためにこうしているのだと思いますが、これはおそらく諸外国では見ることの出来ない、たいへん珍しい光景です。

 この町にはアジア、東南アジア、南米、欧米などの約9,000人の外国人が居住し、外国人留学生も周辺には3,000人あまりが住んでいますが、彼らも、ここを訪れた人はこの珍奇な光景に驚いたに違いありません。欧米というのは基本的には「人を見れば泥棒と思え」の文化が底流にありますから、商店側のこういう対応はまずありえないと考えていいでしょう。これは、他のアジアや東南アジア諸国などでもおそらく大同小異で、たとえば街を歩いていて、家々の窓にはたいてい頑丈な鉄格子などがつけられているのを見ても、およその想像はつきます。日本は世界のなかでは例外的な安全の国で、他人をあまり疑わない美風のようなものがいまも残されているようです。先日の新聞で、アフリカのソマリアから来ている留学生が、夜の道を歩いていて、暗がりで人の気配を察しても心配しなくていい、「ここは東京だ」と述べていました。

 イギリスの経済誌「エコノミスト」が2007年から毎年発表している「世界平和指数」というのがあります。この2014年版は、162 の国と地域が対象で、10万人あたりの殺人犯、囚人の数、銃の入手のしやすさ、政治の不安程度、GDPに占める軍事費の割合、核や重兵器の能力、隣国との関連性など、22項目によって分析されているようですが、それによれば、日本は8位だそうです。近頃は日本でも悪辣な犯罪が増え、非道・無慈悲な殺人のニュースも決して珍しいものではなくなってきましたが、それでも8位ということでしょうか。お隣の韓国は52位、中国は108位で、アメリカは101位だと紹介されています。(「朝日」2015.01.04) これに対して、トップの3か国は、アイスランド、デンマーク、オーストリアとなっていました。しかし、これらの平和指数ではトップの3か国においてさえも、この百円ショップのお客を信じきったようなレジのあり方は、どこの街でも、おそらく「ありえない光景」といえるかもしれません。



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    金子みすずの詩を読み返す                 (2015.01.26)

 
  フランスのパリを舞台にした大型テロの余波がまだ残っているなかで、今度は「イスラム国」が日本人2名を人質に取り、そのうちの1人を殺害するというおぞましい事件が起きました。世界にはいま不穏と緊張が高まっていて、日本もその乱気流の渦中に巻き込まれようとしています。世界の終末を1日の午前零時にみたてたアメリカの科学誌「原子力科学者会報」の「終末時計」というのがありますが、1月22日には、人類滅亡までの残り時間が 5分から 3分に縮められたというニュースもありました。年が明けてまだ間もないというのに、いろいろと考えさせられることが多く、私はひとときのこころの安らぎを求めて、ふと金子みすずの詩を読み返したくなりました。

 金子みすずは詩人の西条八十などから「若き童謡詩人の巨星」と賞賛されていますが、つぎの「私と小鳥と鈴と」は、小学校の国語教科書にも載せられたりして、広く知られているようです。2006年には、この詩に作曲家の杉本竜一氏が曲を作り、NHK「みんなのうた」でも放送されました。

  私と小鳥と鈴と

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、
 地面を速く走れない。

 私が体をゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴る鈴は私のように、
 たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい。


 自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思いや、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすずの詩に流れる底流になっていますが、つぎの詩などそのような彼女の心情がよく表わされていると思われます。


  花のたましい

 散ったお花のたましいは、
 み仏さまの花ぞのに、
 ひとつ残らずうまれるの。

 だって、お花はやさしくて、
 おてんとさまが呼ぶときに、
 ぱっとひらいて、ほほえんで、
 蝶々にあまい蜜をやり、
 人にゃ匂いをみなくれて、

 風がおいでとよぶときに、
 やはりすなおについてゆき、
 なきがらさえも、ままごとの、
 御飯になってくれるから。


 ところで、金子みすずは、1903年(明治36年)4月11日に山口県の港町・仙崎に生まれました。大正末期から昭和初期にかけて、512編もの詩を綴ったといわれていますが、その生涯は苦難の連続で、26歳の若さで亡くなっています。

 山口県で女学校を卒業後、1926年(大正15年)に叔父の経営する書店の番頭格の男性と結婚して娘が生まれます。しかし、夫は女性問題を理由に書店を追われました。自暴自棄になって放蕩を続ける夫から淋病まで移されて、みすずは夫と離婚することを決意します。そして、1930年3月10日、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺して服毒自殺しました。――ここでは、この金子みすずの詩をあと3編書き写してみます。

  蜂と神さま

 蜂はお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 お庭は土塀のなかに、
 土塀は町のなかに、
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに、

 そうして、そうして、神さまは、
 小ちゃな蜂のなかに。


  蓮 と 鶏

 泥のなかから
 蓮が咲く。
 それをするのは
 蓮じゃない。

 卵のなかから
 鶏がでる。
 それをするのは
 鶏じゃない。

 それに私は
 気がついた。
 それも私の
 せいじゃない。


  不 思 議

 私は不思議でたまらない、
 黒い雲からふる雨が、
 銀に光っていることが。

 私は不思議でたまらない、
 青い桑の葉食べている、
 蚕が白くなることが。

 私は不思議でたまらない、
 だれもいじらぬ夕顔が、
 ひとりでぱらりと開くのが。

 私は不思議でたまらない、
 誰にきいても笑ってて、
 あたりまえだ、ということが。


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   地上からの思いは霊界へどのように届くか            (2015.03.09)


 私たちが霊界の家族に語りかけるとき、その思いはどのように霊界へ伝わるのでしょうか。その模様を記録した貴重な一例を私たちは 『新樹の通信』(武本昌三 現代文訳)のなかにみることができます。新樹氏がまだ亡くなって間もないころ、お父上の和三郎先生が、「私たちがここにこうして座り、精神統一をしてお前をよぼうとしている時には、それがどんな具合にお前のほうに通じるのか? 一つお前の実感を聞かせてくれないか」と訊かれたことがありました。その時の問答がつぎのように記されています。

  答:「ちょっと、何かその、ふるえるように感じます。こまかい波のようなものが、プルプルプルと伝わってきて、それが僕のほうに感じるのです。」
  問:「私の述べる言葉がお前に聞えるのとは違うのか?」
  答:「言葉が聞えるのとは違います……感じるのです……。もつとも、お父さんのほうで、はっきり言葉に出してくださったほうが、よくこちらに感じます。僕はまだ慣れないから……」
  問:「私に限らず.誰かが心に思えば.それがお前のほうに感じられるのか?」
  答:「感じます……いつも波みたいに響いてきます。それは眼に見えるとか、耳に聞えるとかいったような、人間の五感の働きとは違って、何もかもみな一緒に伝わってくるのです。現に、お母さんはしょっちゅう僕のことを想い出してくださるので、お母さんの姿も、気持ちも、一切が僕に感じてきてしようがない・・・・・・」

 25歳の新樹氏が大連の満鉄病院で急逝したのは、昭和4年の2月28日でした。この通信が行われたのは同年の7月25日で、新樹氏が亡くなって5か月後のことになります。その一年前の昭和3年7月17日には、和三郎先生は、ロンドンで開催された第3回世界神霊大会に日本代表として出席する途中に、大連に立ち寄って新樹氏に会っていました。和三郎先生が、「昨年の今日は、お前と一緒に大連郊外の老虎灘へ出かけていき、夜まで楽しく遊び暮らした日だ」と言いますと、新樹氏はそれを思い出して 「しきりに涙を流した」 と和三郎先生は書かれています。

 霊界の新樹氏との通信が始められるようになったばかりのこの時期に、すでにこのように自然な形で対話ができていることには、驚きとともに深い感銘を覚えます。このあとも通信は続けられて、昭和5年の2月28日には、新樹氏の一周忌を迎えました。鶴見の和三郎先生のご自宅でも、内輪の縁者が集まって祭事が行われましたが、新樹氏の赴任先であった大連でも、職場の古河電機の方々が集まって、盛んな追悼祭を営んでくださったのだそうです。和三郎先生も多慶子夫人も、新樹氏が一年前を思い出して悲しんでいるのではないかと思ったりして、その日は通信を控えていましたが、3月10になって、やっと対話を再開しています。「近頃、お前のほうに何か変わったことはなかったか」と和三郎先生が口を切りました。

 答:「別に大したことありませんでしたが、ただここしばらくは僕の方に非常に強く感じてくることがあって閉口しました。いろいろの人がしきりに僕の事を思ってくれている………それがひしひしと僕の方に感じられるのです。それで、これはきっと僕の命日がめぐってきたのに相違ない。僕が死んでもう一年になるのだ………そう僕は感づきました。そんなことがあると、僕の方でもつい現世の事を想い出して困りました。いけないと知りつつ、つい地上生活が眼に浮かんで………。」

  話しているうちに、それを中継している多慶子夫人の両眼から、いつのまにか大粒の涙がぽろりぽろりと流れ落ちます。和三郎先生は、なるべく平静な態度を装って話をすすめました。 「実は今日は3月10日で、お前の一年祭は10日以上も前に済んだのだ。叔父さんだの、叔母さんだの、ほんの内輪の者ばかり招いて、神主に祝詞をあげてもらったのだが、それがお前の方に通じたとみえる」と和三郎先生が言いますと、新樹氏は、こう答えます。

 「何やら遠くの方で祝詞のようなものを感じました。そしていろんな人がしきりに僕に逢いたがっているのです。そんな時は僕だって矢張り逢いたいのです・・・・・・」。そしてさらに、こう話し続けました。 「僕の家の方もそうですが、その頃大連の方にも大勢集まっているように感じました。いろいろの人達ががやがやと僕の名を呼んだり何かしているのです。あまり細かいことはわかりませんが、何にしろ僕のことをしきりに追憶してくれていることはよく通じました。大連には僕の友達の青柳もいるようでした。青柳はもう帰ってきたのでしょうか?」

 新樹氏は、一周忌で地上の人びとが自分のことを思ってくれているのを「ひしひしと感じている」ほか、神主があげている祝詞なども耳に入っているようです。いろいろな人が「僕のことをしきりに追憶してくれていることはよく通じました」とも述べています。この中に出てくる、「青柳」というのは新樹氏の親友で、新樹氏が大連で急逝された時には、ロンドンに留学中でした。その青柳氏は、その後ロンドンの留学を終えて大連での追悼祭に出席していたのでしょうか。大勢の出席者の中にその青柳氏がいたことも、霊界の新樹氏の眼は捉えていました。

 ところで、かつて、妻と子を亡くして悲しんでいたころの私は、一言でも、二言でも、霊界からのことばを聞きたいと、長い間、必死になっていました。しかし、無知、無明の状態は何年も続きました。魂の「受け入れる準備」さえ整えることができれば、こんなに自由に霊界の家族との対話ができるということは想像もできませんでした。いまでも、なぜ、こういうことに気がつかなかったのか、こんなに大切な霊的真実がなぜわからなかったのだろうと、思うことがありますが、その度に、無知の恐ろしさを身に染みて感じさせられます。いまはその私も、少しは自由に、霊界の妻や子と対話ができるようになりました。そのことを何度も講演会で話し、本にも書いてきました。ただ、長い間、無知で苦しんできただけに、霊的真理からみれば当然であるはずのこのような霊界通信も、「当たり前」とはとても思えないのです。有難くもったいないことで、私は私なりにひたすらに感謝するほかはありません。


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   オーラの撮影を試みることなく              (2015.03.25)


  むかしロンドンに住んでいたころ、正確には1992年2月15日、大英心霊協会で霊能者のディヴィッド・スミス氏の前に座ったことがあります。スミス氏は人のオーラがよく見えるようでした。じっと私の顔を見ていた氏は、「強いオーラが見えています。大変明るくて、すばらしいオーラです」と言い始めました。大英心霊協会では私は十数人の霊能者から何十回もシッティングを受けていましたが、オーラのことを口に出したのはスミス氏が初めてです。「明るい色、光、音楽、すばらしいものがまわりに広がっています」などとも言われましたが、その時の私には、何のことかよくわかっていませんでした。

  私たちにはみんなオーラがあり、それぞれに固有の形、強弱、大きさや広がり、色彩を持っているといわれます。シルバー・バーチは、「人間のオーラには身体の状態と精神の状態が反映しますので複雑な波動を出しております。オーラを霊視しその意味が読み取れる人には、その人物の秘密がすべて分かります」と述べていました。オーラというのは、その人の思ったこと、行ったことのすべてが記録された一冊の書物のページが開かれているようなもので、そのオーラが見える人の前では、外見をどう繕っても、その人のありのままの姿がまる見えになってしまうのだそうです。

 浅野和三郎先生の説によれば、霊能者に見えるこのようなオーラの色彩は、それぞれに意味があるようです。褐色は物的欲望の表徴で、普通は横縞の形をして幽体を包んでいる。さらに暗褐色は利己心を示している。黒色は、憎悪や悪意の表現であり、赤色は憤怒の表現で、利己心が合わさると赤褐色を呈する。灰色は憂鬱、鉛灰色は恐怖を表現している、といいます。一方、淡紅色は愛情を表し、その愛情が純粋な場合には美しいバラ色になる。橙色は自負心、黄金色は知恵の表現であり、緑色は、適応性または融通性を表すといった具合です。

 いまではこのオーラは特殊なカメラで写真にも撮ることができるようです。「キルリアン写真」というのでしょうか、アン・ターナーも、著書のなかで自分のオーラ写真を紹介していました。実は最近、私の住んでいる町のヨガ教室の宣伝チラシが郵便受けに入っていて、オーラの写真が撮れるということが書いてありましたので、どんなものか一度試してみたいと思って電話してみたのです。しかし、電話に出た人の話では、たまたま器械が不具合でいまは撮れないということでした。少し離れた町にあるヨガ道場の本部へ行けば撮れるということでしたが、わざわざそこまで行くまでもないだろうと、そのままになっています。あまり積極的になれないのは、「どうせ、霊界へ行けばすぐに分かることだから」という思いが、ちょっぴり頭の中にあるからかもしれません。


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極限の不自由のなかで紡ぎ出されることば  (2015.04.15)


 出生時に重度の脳性まひになり、体は動かず、言葉も話せない20歳の女性の詩がこの間の新聞で紹介されていました。(「朝日」夕刊 2015.4.6) 都立の特別支援学校に入り中学部のころからわずかに動かせる手で筆談などを練習して、寝たきりのベッドで詩を書き続けるようになったのだそうです。「こんなわたしでもいきていることをわかってもらうことが なやんでいる人のなにかのたすけになるのではないか」と彼女は書き、「そのドアをあけなければ けっしてみることのできないことがある いまそのドアをあけよう」と、詩集をまとめる準備も始まっていることを、その記事は伝えていました。多くの方々が読まれたと思いますが、そこで紹介されていたのは、つぎの二つの詩です。

  ありがとうのし
 いつもいっぱいありがとう
 なかなかいえないけど
 いつも心にあふれてる
 いつもいえないありがとうが
 いきばをうしなってたまっている
 いいたくてもいえないありがとうのかたまりが
 めにみえないちからになって
 あなたのしあわせになったらいいのにな

  せかいのなかで
 このひろいせかいのなかで
 わたしはたったひとり
 たくさんの人のなかで
 わたしとおなじ人げんはひとりもいない
 わたしはわたしだけ
 それがどんなにふじゆうだとしても
 わたしのかわりはだれもいないのだから
 わたしはわたしのじんせいをどうどうといきる

 「言いたくても言えない有難うの塊が、眼に見えない力になって、あなたの幸せになったらいいのにな」という祈りの言葉には粛然とさせられます。極限の不自由のなかだからこそ魂はそれだけ深く純化されるのでしょうか。私たちは、人間が生きていくうえで、このようなことばが大切な真実を含んでいることを、いままでいろいろと学んできました。さらに、「私の代わりは誰もいないのだから、私は私の人生を堂々と生きる」と書かれているのを読み返していますと、かつてブライアン・ワイス博士が『前世療法(2)』(PHP研究所、1996、p.217)のなかで述べていたつぎのようなことばが、自然に、心に浮かんできます。

  「障害や困難の克服が、霊的な成長を促進するということは本当です。重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは進歩のしるしであって、退歩を意味してはいません。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主です。最も大きな成長の機会が与えられるからです。もし、普通の人生を学校での一年間だとしたら、このような大変な人生は大学院の一年に相当します。退行催眠で苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、このせいでしょう。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持っていないのです。」


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    語学の天才とイスラム教の大学者     (2015.05.28)


 かつて私は、長年、語学教育に携ってきましたから、語学の天才といわれる人には関心があります。私のまわりにも、それに近いと思われる人が何人かいました。大学教授というのは、どの研究分野の人でも外国語能力が必要とされますから、英語は当然として、それ以外にも一つや二つの外国語に習熟しているのが普通です。しかし、司馬遼太郎氏が『民族と国家を超えるもの』(対話選集10、文春文庫)で紹介している井筒俊彦氏は、二つや三つどころか三十数か国語もできるといわれていました。語学の天才でも、これは日本では空前絶後といっていいかもしれません。

 井筒俊彦氏は1914年に東京に生まれて、青年期よりアラビア語を中心に多くの言語を習得し、ほとんど独学でイスラム神学、思想の研究に打ち込んだ言語学者、哲学者です。はじめは、慶応大学文学部で英文科を専攻し、その後は、慶応大学教授を経て、カナダのマックギル大学教授、イラン王立哲学研究所教授を歴任して、イスラム思想研究の世界的権威といわれてきました。「コーラン」のアラビア原典からの翻訳をはじめ、「アラビア思想史」「イスラーム哲学の原像」「井筒俊彦著作集」(全11巻)などの多数の著書を残していますが、1993年、脳出血で急逝しました。78歳でした。

 亡くなる10年前、井筒俊彦氏が1983年に朝日賞を受賞したとき、朝日新聞記者の砂山清氏が、直接、井筒氏に、三十数か国語ができるといわれていた「語学伝説」の真偽を尋ねたことがありました。その時、68歳の氏は、こう答えたのだそうです。「いや、ほとんど忘れましたよ。いま使えるのは、英、仏、伊、西、露、ギリシア、ラテン、サンスクリット、パーリ、中国、アラビア、ペルシア、トルコ、シリア、ヘブライ語くらいなものです」。井筒氏は簡単に答えているようですが、これだけでも数えると15か国語です。68歳になって「ほとんど忘れて」も、これだけの外国語がまだ使えるというのですから、これはもう天才というほかはありません。

 若いころの氏は、「平凡な」、つまりほとんど抵抗のない英独仏のような近代ヨーロッパ語などはどうしても外国語とは思えない。要するに言語的にはあんまり簡単すぎる、と言っていたようです。「それを難しいなんていう人の気持ちがわからない」とも述べていましたから、私のような凡才は頭が上がりません。氏にとっては、学んで抵抗感をもてるのが、文明を興した国の言葉で、それらは、ヘブライ語、ギリシア語、アラビア語、サンスクリット語などでした。それらの言語はすばらしく魅力的で、挑戦的というか、難しければ難しいほど面白い。特にアラビア語は、あんまり難しくて、「ちょっとまいりました」とも述懐しています。(司馬遼太郎対話選集、上掲書、p.194)

 井筒氏が、その難しいアラビア語で教えを受けた先生が「タタール世界で随一の学者」といわれたムーサー・ジャールッラーハ先生でした。ムーサー先生はイスラームの伝統に従って、世界中を放浪して歩きまわっていました。イスラム教の大学者ですがカネが全くないので、日本に来た時も、代々木のある家の押入れ一つを無料で借りて住んでいたそうです。井筒氏が「何のための世界旅行ですか?」と聞いてみますと、「神の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイスラーム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」といわれたそうです。

 井筒氏は、ムーサー先生に、アラビア文法学の聖書と称される『シーバワイヒの書』を教えてほしいと申し出ました。ところが、それは千ページもある大冊で先生はその本を持っていませんでした。持っていなくても全部頭に入っているというのです。その本を端から端まで暗記しているうえに、その注釈本も全部暗記していて、本は一切使わずアラビア文法学を教えてくれたといいますから、驚かされます。語学の天才の井筒氏が、「これ、人間わざか」と感嘆して「驚くべき天才学者」と評していたそうですから、天才にも、まだまだ、上には上があるということでしょうか。


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  ある人生の穏やかな最後の情景    (2015.06.10)


 私の手許に、新潟県上越市の「上雲寺小学校100年の歩み」とタイトルがつけられた小冊子が残されている。昭和48年(1973年)10月に創立100周年を記念して発行されたものであるが、今ではこの小学校も、創立以来140年を超えたことになる。この小学校で明治19年(1886年)に初代校長になり、大正13年(1924年)3月に退職するまで38年間の長期にわたって校長職を続けたのが中村三代太郎である。

 校長時代の中村は、「厳格のなかにも慈父のような温かさがあり偉大な人格者」といわれていたらしい。「親子三代にわたって薫陶をうけた」といったような教え子たちの手記が幾つかこの小冊子に載せられている。在任中の大正10年2月、「中村校長先生頌徳碑」が建立されることになり、教え子たち600人が力を合わせて大そりを引き、台石と石碑を運んだ。小学校近くの頌徳碑の建立地は現在も中村公園として残されており、その建立当時の写真もこの冊子には大きく載せられている。中村校長は、退職時には小学校の花崗岩門柱を一対寄付して教職から離れ、その後は、板倉村村長として村政に尽くした。

 この中村三代太郎が、私の妻・富子の母方の祖父である。むかし私は、妻の母親、つまり中村三代太郎の次女から、何度か、この父親の話を聞いたことがある。中村三代太郎は、長年の間、教職と村政に献身して多くの人に慕われながら、昭和20年4月に82歳で亡くなった。亡くなるまで元気で、毎日庭の植木の手入れをするのが楽しみであったらしい。その日も、朝から庭仕事をしていた。昼近くになって一旦仕事をやめ、「ドッコイショ」と縁側に腰を下ろしてお茶を一杯飲もうとしたが、その姿勢のままゆっくりと横に倒れて、そのまま息が絶えた。春の陽射しのなかで一眠りしているような穏やかな死であったという。



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  般若心経の「照見五蘊皆空度一切苦厄」に思う  (2015.06.22)


 般若心経は、「観自在菩薩行深般若波羅密多時照見五蘊皆空度一切苦厄」で始まっています。この「観自在菩薩」というのは観音菩薩のことで、「行深般若波羅密多時」というのは、深い仏の智慧によって仏の国へ行くことを真剣に修行していた時に、というふうに解釈できるでしょう。そしてつぎにくるのが「照見五蘊皆空度一切苦厄」です。「五蘊」とは、人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもので、人間の肉体を含めて、感受作用、表象作用、意思作用、認識作用などを意味するといわれています。観音菩薩はそれらがすべて「空」であることを見極められてすべての苦しみや災難を乗り越えることができた、と言っているのだと思います。

 それでは「空」とは何でしょうか。これは仏教の真髄を表わす言葉で、これがわかれば仏教の教義の全部が解明されたようなものなどといわれるだけあって極めて難解です。「空」はもちろん「ゼロ」ではありません。何もないというのではなくて、 何物にも一切こだわらないということであるようです。そうすると、「五蘊皆空」とは、自分の感受作用、表象作用、意思作用、認識作用などのすべてが移ろい変わっていくものだからこだわってはならない、ということになるのでしょうか。しかし、この程度の理解では、私たちはとても「度一切苦厄」とはなりそうもありません。

 般若心経では、この「空」を説明するように、「色不異空 空不異色」と続きます。わざわざ「色即是空 空即是色」ともいい直して「受想行識亦復如是」と付け加えています。この「色」を物質と捉えて、「物質は『空』にほかならず、『空』が物質にほかならないのです。物質がすなわち『空』であり、『空』がすなわち物質であります。感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これも同じく「空」なのです」(山本七平・増原良彦『色即是空の研究』(日本経済新聞社)というような解釈もありますが、それでもやはり、すべてが「空」であることを理解すれば一切の苦しみから救われる、というのがやはりいまひとつよく納得できないのです。

 試みに、この「空」を「霊」と入れ替えて考えてみてはどうでしょうか。そうすると、「物質は霊である、霊は物質である」となります。これはその通りです。霊があるから物質です。霊がなければ物質も瓦解してしまいます。「感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これも同じく「霊」なのです」と捉えるとこれもよくわかります。「是諸法空相」の、「形あるものもないものもこの世に存在するものはすべて『空』である」の「空」も、「霊」に置き換えるとわかりますし、さらに、「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」も理解するのは困難ではありません。これらは「霊」の本質そのもので、霊は生じることもなく滅することもなく永遠だからです。汚れることもなく穢れることもなく、増えることも減ることもありません。つまり、「空」はわかりにくいのですが「霊」とすればわかるような気がします。私たちもその本質が霊であることが充分に納得できれば「度一切苦厄」で、苦しみや悩みからは救われることになりますが、これは私たちなりによくわかるのではないでしょうか。

















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