太平洋戦争の敗戦を目前に控えて   (身辺雑記79)
     = 生かされてきた私のいのち (9)=


 仁川中学の入学試験で私が不合格になったことは、おそらく父母をはじめ、家族全員に大きなショックを与えたに違いなかった。表面的には、平素と変わらない何事もなかったかのような日々が流れたが、やはり家の中はちょっと沈んだ雰囲気になった。私が不合格になるなどということは、誰も考えたこともなかったはずである。父は、しばらくの間、毎朝の神棚への礼拝もやめてしまっていた。私も内心では挫折感に苦しめられていた。4年生と6年生の2年間を、ほとんどまともな授業を受けていなかったとはいえ、自分一人でも勉強しようとしなかったことが、子供心にも深く悔やまれた。

 旭国民学校の高等科1年の担任は、Kという四国高松出身のベテランといわれていた教師であった。怒りっぽい性格で、よく子どもたちを怒鳴りつけたが、授業には熱心に取り組んでくれた。一年下の6年生のクラスに、自分の長男がいて、その長男が書いた100点満点の評価がつけられた算数の答案をわざわざ私たちに見せ、お前たちもこういう答案を書かねばダメだ、などと「激励」したりもした。私たちは白けた。

 私は幼かった頃は学校が好きで、小学校へ入学することにも憧れ、先生はみんな神様のような存在だと思っていた。私にとっては、先生とはみんな何でも知っている偉い人だったのである。しかし、4年生と6年生で「勉強を教えられない」二人の担任を経験してからは、神様は、だんだん神様ではなくなっていた。K担任も、勉強を熱心に教えてくれたのは有難かったが、私にとっては「神様」ではなかった。

 夏休み後のある日の授業で、その二、三日前の算数の試験の答案を返しながら、K担任は、「お前たちはまだまだ努力が足りない」と、不機嫌であった。その頃には私はよく勉強するようになっていたから、試験の成績も悪くはなかったはずであるが、ゲンパチの後遺症で、クラスの中には、なかなか授業についていけない子どもも何人かいた。K担任は、そういう子どもを二、三人名指しで叱りつけた後、膨れっ面をしている一人をにらみつけながら、「お前は態度が悪い」と、怒りをエスカレートさせた。その怒りをさらにクラス全員にぶつけて、急に「お前たちはみんな、この算数の教科書の一学期分全部の練習問題を三日間でやってこい、いいか」と怒鳴り声をあげた。

 三日間というのは、その翌日からたまたま学校の行事の関係で臨時の休日が二日あり、それが日曜日に続いて三連休になっていたのである。しかし、一学期分全部の練習問題というのは大変な量である。とても三日でできるものではない。そのことをK担任もよく知っていたはずで、一種の脅かしのつもりであったのだろう。しかし、先生の言うことは絶対だと信じていた私は、それが「脅し」だとは考えなかった。青くなって家に帰り、取っておきの新しいノートを一冊取り出して、それから、文字通り不眠不休で、その宿題に取り組んだ。

 月曜日の朝、必死の思いで仕上げたその宿題をもって、私はふらふらしながら登校した。クラスで友だちに聞いてみたら、誰もやってきた者はいない。はじめから匙を投げていたのである。授業が始まってK担任が教室に入ってくると、みんなはまた怒鳴られることを覚悟して、小さくなっていた。ところが、K担任は、宿題のことは何も切り出さなかった。集めようともしなかった。もしかしたら、自分が怒鳴って宿題を出したことも忘れていたのかもしれない。

 その日の授業をなんとか終えて、またふらふらしながら家へ帰った私は、倒れるようにそのまま眠りこんだ。あの時K担任に、「宿題は集めないのですか」となぜ聞いてみなかったのだろうと、あとで思ったこともある。どうやら、言われたとおりに宿題をやってきたのは自分ひとりだけらしいとわかっていたので、言えなかったのかも知れない。しかし、あの宿題と取り組んだ三日間の苦しみは忘れられず、私は、K担任には、それ以降、拭いきれない不信感を持つようになった。

 その時の級友に、6年生から一緒であった遊郭の子がいた。井上雄幸君で、「オサチ」という名であることを聞いたことがあったので今も名前は覚えている。その井上君が風邪で何日か学校を休んでいるうちに肺炎になって急に亡くなった。彼と親しかったという級友二人に私も同行して、遊郭の入り口のところで検番の人から場所を聞き、私は初めて、井上君の家でもある3階建ての大きな建物の玄関口に立った。

 厚化粧がところどころはげかかったような顔の芸妓らしい女性が出てきて、私たちは奥まった部屋へ通された。そこに井上君が寝かされ、枕元には線香がたかれていた。そばで涙を流していたお母さんらしい人が、顔を覆っていた白布を取り除いて、私たちに、どうか頭をなでてやってくださいと言った。私はたじたじとなった。目の前の井上君の顔は土色になって硬直していた。私が死んだ人の顔を見たのはそれが初めてである。私は線香をあげて手を合わせるだけで頭をなでることはできなかった。私が級友の死に直面したのは、大阪の生野小学校4年生のときに野下君が死亡して以来、これが二人目である。

 一方、その頃は大東亜戦争と呼ばれていた太平洋戦争の戦況は、日本にはますます不利になっていた。前年2月には、日本軍のガダルカナル島の撤退が終わり、4月には、連合艦隊司令長官山本五十六の搭乗機が、ソロモン群島上空で敵機に撃墜されるという暗いニュースがあって、それらを引きずって年を越した1944年(昭和19年)の2月には、日本軍は、トラック島からも撤退を始めていた。

 米軍の空襲に備えて、その頃には、仁川でも家屋の延焼を防ぐための強制疎開が実施されはじめ、仁川神社の前の賑やかな通りも、片側の家々が次から次へと取り壊されていくのを見ていた記憶がある。東京ではもっと大変であったしい。作家の伊藤整は、その当時の東京での強制疎開について、『太平洋戦争日記』(新潮社、昭和19年)の7月2日のところにこう書いている。

 《・・・・この頃、省線電車に乗ると、各所で線路の両側の家々が強制疎開の取り壊しに取りかかっているのが見える。以前平和時代においては電車の窓から、夏など蚊帳を釣った二階の座敷がみえ、窓際の植木鉢や風鈴や、夕涼みの人の姿など、いかにも都会生活を示して一種の風情があったのだが、そういう線路沿いの家は悉く無住居となり、片はしから大急ぎで取りこわされて行っている。・・・・・これが大東京都の敵の空襲を避ける身支度である。》

 仁川の街の中でもあちらこちらの隣組単位で、空襲を想定した消火訓練も実施されるようになった。焼夷弾で燃えていると想定した家に赤い旗を立て、国民服やもんぺ姿の多くの男女の大人たちがその家に向かって長い列を作り、バケツリレーで水を運ぶのである。いかにも効率が悪く、私は子ども心にも、あれで空襲の火が消えるのだろうかと思ったりした。どの家庭にも、玄関脇には水を入れたバケツや火消し叩きを置き、竹槍なども用意するように指示されていた。竹槍などというのは、いま考えても、きわめて子どもじみた稚拙な発想である。

 2月23日の「毎日新聞」では、「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ」という記事が載って、これがちょっとした事件になった。これを見て、時の東条首相が激怒し、執筆した記者を探し出して懲罰召集を命じようとしたのである。当たり前のことを当たり前に言っても処罰される暗い世相になっていた。岩波文庫の清沢冽『暗黒日記1942-1945』のなかでは、10月17日のところに、「明日で東条内閣2周年を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう」と貶している。

 その年、1944年(昭和19年)の春、私は仁川中学(正式には仁川公立中学校)に二度目の試験を受けて合格し、憧れの長ずぼんが穿ける中学生になっていた。受験勉強や入学試験の思い出は、ほとんどない。ただ、私は仁中には楽に合格し、入学後も余裕をもって授業に出ていた。考えてみると、その直前の、私の旭国民学校高等科一年のクラスメイトの記憶は、井上君の死などを除いてはあまりない。ただ一人、いまも連絡を取れるのは田村八郎君だけである。彼は、師範学校に進んで長く小学校の教員を務めていたが、いまは大阪府の堺市に住んでいる。「省みてわが人生に悔いなし」と今年の年賀状にはあった。矢谷賢三君というのがいたが、彼がいまどこでどう暮らしているのかはわからない。むかし、彼の姉さんがミス京都に選ばれて、某作家の奥さんになっていると誰かから聞いたことがあるくらいである。しかし、仁川中学に入ってからは、現在にも続く多くの友人たちを持つようになった。

 そのうちの一人、米田茂雄君は、家が同じ大和町で、私の家から3百メートルほど離れた小高い丘の上に住んでいた。お父さんの転勤で、富山県の高岡から引っ越してきて旭国民学校の6年生に編入し、そこから一緒に仁川中学へ入ったのである。その年、1944年(昭和19年)には、兄さんの幸太郎さんも同じ仁川中学の3年生に編入学していて、下には、旭国民学校三年生の弟の卓志君がいた。お父さんは「仁川化学」という会社の工場長で、その会社は、私の父が工場長を勤めていたT工業とも歩いて10分ほどの距離にあった。この米田君一家とは、家族ぐるみの付き合いで、戦後の一時期には、彼が大阪へ引き揚げた後、遅れて引き揚げた私は米田君の家族と一緒に住んだこともある。

 家族ぐるみの付き合いがあった仁川中学の友人は、ほかにも二人いる。加茂裕三君と曲田誠君である。加茂君は、戦後大阪へ引き揚げた米田君と同じ生野中学に転入学し、そこへ遅れて転入学した私が加わって、三人が一緒に生野中学生であったこともある。後に彼が慶応義塾大学へ入ってからは、そのころ東京の荻窪にあった私の家に住み込んで学校へ通った。曲田君は苦学をしながら中央大学を出て東洋醸造に勤めるようになり、結婚してからも親しい付き合いが続いた。一時は、札幌で家がお互いにすぐ近くであったこともある。しかし、加茂君は大阪で数年前に亡くなり、曲田君も今年の一月に千葉で亡くなって、私は葬儀の席で彼との思い出を語り弔辞を述べた。

 もう一人、仁川中学のクラスメイトで忘れがたいのは、水越哲郎君である。彼は、当時の仁川高等女学校の校長の息子で、ずば抜けた秀才であった。仁川中学校でも、おそらく、開校以来の秀才であったかもしれない。戦後、広島へ引き揚げてからは、三原中学から四年修了で旧制一高に入り、東大を出て一時、日本経済新聞に勤めたあと、「全労済」を立上げ、専務理事としてその組織を全国規模にまで拡大発展させた。神戸製鋼所の社長、会長を勤めて今も財界の重鎮である水越浩士氏は彼の弟である。私は、彼の一高、東大時代にも東京でかなり親しく付き合っていたが、惜しくも彼は1991年に病没した。

 かつては、この水越君が中心になって、仁川中学のクラス会を毎年、東京で開いていたが、そのクラス会は、いまも続いている。しかし、いまでは大半の者が亡くなって、クラス会に顔をだすのは、10名を下回るようになってきた。現役時代に積水化学で常務を務めていた藤崎弘君が今年も忘年会を企画してくれているが、東京の数名の常連のほか、農業機械の第一人者といわれている坂井純君(九州大学名誉教授)や北九州モノレールの建設計画を進めた正嶋英雄君(元北九州高速鉄道取締役)等、社会的に著名な九州勢もできれば出席したいと言っているらしい。

 話を元に戻すが、仁川中学のその時の入学生は二クラスに分かれていて、私は上記の友人たちと同じ1組であった。クラス全員で40名くらいであったと思う。6月15日の米軍のサイパン島上陸、7月7日の日本軍アッツ島守備隊全滅、7月21日の米軍グアム島上陸、8月10日の日本軍守備隊全滅、7月24日の米軍テニアン島上陸、8月3日の、日本軍守備隊全滅等々、太平洋戦争の戦況が日に日に緊迫の度を加えていく中で、その年だけは、辛うじて、一年生の正規の授業は続けられていた。

 英語廃止論が高まってはいたが、英語の授業も受けることができた。小学校と違って、科目ごとに担当教員が変わるのが新鮮で、私は毎日張り切って学校へ通った。国文の斉藤、国文法の大浦、漢文の大塚、数学の亀井、幾何の有光、英語の安東、地理の矢野、生物の寺島、それに、体育の菅田、剣道の小野寺、配属将校の前原、宮崎、等々、私が教えを受けた先生方の名前は、おぼろげながらいまも覚えている。校長は東大国文科を出た梅沢という先生で、私たちには週に一度、「修身」を教えていた。この梅沢校長も、朝礼のときには、いつのまにか、古びた日本刀を襷がけにしたひもでぶら下げて朝礼台に立つようになっていた。そのころにはすでに、日本は負けて韓国は独立するという風評が一部では流れていたようである。梅沢校長は、「日本は決して負けません。韓国が独立するようなことは絶対にありません」と朝礼台の上から声を張り上げていた。

 クラス担任は国文担当で斉藤先生といったが、「ゲッパ」という渾名で呼ばれていた。その由来は私にはいまもってわからない。学識のある先生で、私はゲッパが好きであった。授業を受ける中学生にとっても、授業を担当している教員の学力が深いか浅いかは何となくわかるものである。数学の亀井先生は「どん亀」という渾名で、生徒が解答を間違えると「ガス!」と大声で怒鳴って生徒たちから恐れられていたが、私はこの先生も嫌いではなかった。一方、国文法の大浦先生は、授業中に疑問点にぶつかったりすると説明しようとはせずに、「家でよく調べてこい」と言ってそこを素通りした。私は、彼が下調べもせず、よく分かっていないのではないかと、何度か思った。私はこういう教師が好きではなかった。

 最初の夏休みは返上して、私たち一年生総員80名は、海岸近くの軍需工場で勤労奉仕をした。約1か月の間、私たちは工場内のいろいろな部署に配属されて、工員たちの指導を受けながら働いた。私は一番体力がいると思われる鋳造部門で、エアーハンマーを操作しながら、真っ赤に焼かれた鉄を引き伸ばして鶴嘴に加工していく仕事を受け持たされた。エアーハンマーの操作加減を誤るとものすごい力で打ちつけられた鉄が変形してしまうので緊張を強いられたが、私はもともとこういう作業が好きであった。熟練工並みの手腕であると指導係の工員におだてられ、一升瓶入りの醤油一本をもらって1か月の勤労奉仕は終わった。この一升瓶の醤油は、私が初めて手にした社会からの「報酬」である。家に帰って母にその一升瓶を渡すと、何も言わずに母はぽろぽろと涙をこぼした。

 その夏休みの勤労奉仕が終わったころから、学校の雰囲気も急に変わっていった。よく記録映画でみられる学徒出陣の数万人の分列行進が雨中の神宮外苑競技場で行われたのは、その前年の10月21日のことである。年を越えて2月25日には、食糧増産に向けての学徒500万人の動員決定なども政府から出されていた。国家非常事態の影響は、仁川中学にも及んで、9月から、3年生から上の上級生は勤労動員でいなくなってしまった。空になった校舎の3階には、100名くらいの陸軍の兵隊が住み込むようになった。初年兵の訓練のための合宿であったかもしれない。運動場では、私たちが配属将校から軍事教練を受けている間、別のところで、兵隊たちも、厳しい訓練を続けていた。

 彼らが訓練を終えて校内に入る前に、出入り口のところで軍靴を脱ぐ。見ていると、二年兵の足下に初年兵が群がり、われ先にと競い合って二年兵の靴の紐をほどき軍靴を脱がせようとするのである。二年兵は居丈高に威張り、初年兵は奴隷のように卑屈であわれであった。これが皇軍か、と私は目を疑った。私はその時、後で知るようになる軍隊の初年兵いじめの一端を垣間見たことになるのかもしれない。その後、苦しさに耐えかねた初年兵の一人が学校の屋上から飛び降り自殺したらしいのだが、軍隊も学校も、そのことは、ひたかくしに隠した。

 戦局は重大な局面を迎えていた。10月24日には、レイテ沖海戦で日本の連合艦隊の突入作戦が失敗し、日本海軍は「武蔵」「瑞鶴」など最後に残った虎の子の30隻を失ってしまった。これで日本海軍はもてる戦力のほとんどすべてをもぎ取られて、連合艦隊は事実上、壊滅したのである。追い詰められた海軍は、このあと、神風特別攻撃隊の体当たり攻撃を敢行するようになった。10月25日には、中国基地からのB29爆撃機約100機が北九州を大空襲し、11月24日には、マリアナ基地のB29約70機による東京大空襲も始まって、その切迫感は、仁川中学の一年生にも、ひしひしと伝わっていた。私にとっては4年目の、仁川の冬の寒さはことさら身に染みた。

 (2011.11.01)








    遠くなった戦時下の仁川中学への道   (身辺雑記78)
          = 生かされてきた私のいのち (8) =


 旭国民学校で最初の夏休みが終わった頃から、私は柔道の稽古に通うようになった。自宅のあった大和町から旭国民学校へ向かう途中の、仁川神社のある丘の麓に仁風館という柔道の道場があって、そこで稽古をしているのは、中学生以上の、私から見れば大人たちばかりであったが、頼み込んで入門を許されたのである。仁風館は、昔の武家屋敷を思わせるような石垣に囲まれた白壁のかなり大きな家の一隅にあった。道場もひろく清潔で、いつも三、四十人の人たちが、熱心に稽古に励んでいた。

 私は、週に三回ほど、学校から帰って夕方から道場へ通った。柔道着なるものを初めて着込んで白帯を締め、門人たちの末席に連なることになっても、小学校5年生の私のようなチビを相手にしてくれる大人はいなかった。道場ではいつも体格のいい若先生が私の相手をしてくれて、柔道の基本形や受身の形を繰り返し教えてくれていた。稽古といっても、ほとんど、投げ飛ばされるためにだけ道場へ通うような日々が、それから一年も、二年も続いた。

 1941年(昭和16年)の仁川での冬は、初めての厳しい寒さを体験することになった。雪はあまり降ることはないのだが、家の近くにあるいくつかの池は、すべて厚く氷って、そこでは手製の橇を滑らせて遊んだ。気温は零下五度から寒いときには零下十度位にまで下がったであろうか。耳は寒さで痛くなるので、兎の毛皮や毛糸などの耳掛をしなければならない。しかし、旭国民学校の朝礼では、そんな寒さの日でも、手袋や耳掛をすることは許されなかった。広い運動場で寒風に曝されながらも、朝礼が終わるまでの間、30分ほどは、みんなが健気に耐えていた。

 そして、12月8日の朝、その寒い朝礼のさなかに、私たちは日米開戦を告げられた。日本時間で当日の午前2時、日本軍がマレー半島に上陸し、3時19分には、日本海軍のハワイ真珠湾の空襲が開始された。米の戦艦4隻を撃沈し、戦艦4隻、その他12隻を大中破、飛行機231機を破壊、戦死2000人以上の大損害を与えて、真珠湾奇襲は大成功であったことが、繰り返しラジオで流された。朝礼では、澤田稔校長が興奮した面持ちで、その大戦果に触れた。教室に入ってからも、授業は後回しで、教室のスピーカーを通して、しばらくの間は、大本営発表を告げる報道武官の甲高い声を聞き続けた。私は、その時の報道武官の声の上ずった甲高さを今もよく覚えている。

 私はまだ小学校の5年生であったから、もちろん、この対米戦争も客観的にみる力はなかった。日清、日露の戦争でも奇跡の勝利を収めてきたように、対米戦争でも日本は負けることがないのだと思い込まされていた。その頃、私が毎月購読していた少年雑誌に、ある政府高官夫人が、「日本にもアメリカかぶれの女性評論家がいて、アメリカと戦争するなどはとんでもないことだなどと言ってきましたが、この大戦果で、少しは目が覚めたのではないでしょうか」と書いていたのを読んだことがある。私も、その時は、この高官夫人の言い方に納得していた。書いたものは消し去ることができないから、この高官夫人は、その後の敗戦への推移をどのような思いをして眺めていたのであろうかと、いまもふと考えることがある。

 開戦当初、真珠湾での奇襲で成功した日本は、一方では電撃的に南進して、半年の間に東南アジアの主要部を占領し、石油、ゴム、ボーキサイトなどの資源確保の道を開いた。しかし、翌年の4月には初めて、米空母発進の米機16機による空爆が日本本土に向けて行なわれて、東京、名古屋、神戸などが被害を受けるようになった。6月のミッドウエイ海戦では、日本の連合艦隊は大敗を喫して、日本はもう戦争遂行の主導権を失ってしまっている。この後、8月から始まる米軍とのガダルカナル攻防戦で日本の劣勢は動かしがたいものになった。あとは、坂道の雪だるまのように、日本は敗北への道を転がり落ちるのである。

 私は大阪では、小学生新聞を毎日読んでいたが、仁川へ移って5年生になってからは、家で取っていた「大人の新聞」を読むようになっていた。朝日新聞などは、その頃すでに、朝刊4ページ、夕刊2ページの薄っぺらいものになっていたが、その新聞をみていて不思議に思ったことがある。いつもでかでかと、帝国陸海軍の「赫々たる戦果」が報じられているのに、一向に敵の戦力が衰えている気配が感じられなかったのである。

 ラジオもそうであった。陸軍はいつでも「分列行進曲」、海軍は「軍艦マーチ」を流したあとで「大戦果」を報道するのであるが、それだけの大戦果が連日のように続くのであれば、いくら物量が豊富なアメリカでも、十分に打撃を受けて戦闘能力も低下していなければならないはずであった。子供の私でも疑問に思ったくらいだから、大人たちにも分かっていたのであろう。日本政府と大本営は、厳重な報道規制を敷きながら、徹底的に嘘をつき続けたのである。

 しかし、戦時下の仁川では、特に子どもには、まだ戦争の厳しさや暗さは、あまり感じられなかった。確かに女性のもんぺ姿や男性の戦闘帽、ゲートル姿は増えて、食料事情なども厳しくはなっていたようだが、特にひもじい思いをしたことはない。それよりも、私にとっては一大事が起こった。戦争が始まって数か月もしないうちに、やがて迎えた6年生の新学期では、健康上の理由であったのだろうか、M担任が辞めて、担任が変わることになったのである。

 昭和17年(1942年)4月、新しくどこかから赴任してきて私たちのクラスの担任になったのは、50歳前後の風采のあがらない人であった。声も小さく、ぼそぼそと独り言を言っているような感じで、ほとんど聞き取ることができない。私はその人の姓も名もよく覚えているが、みんなは「ゲンパチ」というあだ名で呼んでいた。担任が変わるのはかまわないのだが、このゲンパチは、私たちが考える「普通の」先生ではなかった。クラスをまとめる統率力は全くなく、まともに授業をする能力も持っていなかった。小学校の教師としては完全に失格で無能であったというほかはない。

 旭国民学校では、真面目で優秀な教師も少なくはなかったと思えるのに、なぜ選りによって、このゲンパチが私たちの担任になってしまったのか。私には、大阪の生野小学校で、精神疾患のS担任の下でほとんど一年間、全く授業を受けないで遊び過ごした経験がある。旭国民学校へ転入学して、やっとM担任からまともな授業を受け始めた矢先に、今度はゲンパチである。しかも、6年生で、中学進学希望者には、もっとも勉強に集中しなければならない学年であった。私は子供心にも、自分の不幸を嘆いた。

 ゲンパチは、教壇に立って何かしゃべっているのだが、クラスのなかはざわざわと雑音が多くて、ゲンパチがぼそぼそ言っていることにはほとんど誰も耳を傾けなかった。授業中でも、何人も平気で教室を抜け出して、運動場の片隅で遊んでいた。クラスには、相変わらずS君の強い統率力が行き渡っていたから、そのS君が教室を抜け出すと教室のなかは半分くらいは空になる。それでもゲンパチは、何の手も打てなかった。時折、「お前たちには良心はあるか」と思い出したように繰り返すだけであった。そのゲンパチの小言も、子供たちは、「リョーシンハ、アールカ」と茶化して笑い種にしていた。

 当然のことであるが、教室では、国語も算数も理科も、教科書は1ページも進まなかった。宿題も出されたことはないし、出されたとしても、誰も真面目に取り上げようとはしなかったであろう。授業中のテストなども受けたことがない。そもそも、教室内にはテストを受けるべき子供たちが揃ってはいなかった。始業のベルが鳴ると、校舎内はどこも授業で静かになるのに、3階の私たちの教室のまわりだけは、いつもざわついて、子供たちが出たり入ったりしていた。この異常な状態が、他の教員たちの眼に触れないはずはなかったのに、なぜ、学校内で問題にされなかったのであろうか。

 2学期のある日の昼休みに、悪戯っ子の私は、運動場でクラスメイトの一人を追いかけて小石を投げつけていた。相手も私をからかいながら逃げていく。私が追いつきそうになると、相手は、校舎の中ほどの玄関脇にある校長室の窓の前まで逃げ込んだ。そこで石を投げれば、校長室の窓のガラスを破りかねない。相手の魂胆が見え透いて腹を立てた私は、臆せずに勢いよく小石を投げつけた。ところが、手元が狂ってその石は、校長室の大きな窓ガラスに当たり、ガラスは大きな音をたてて崩れ落ちた。さすがに私は青くなった。

 私は、真っ直ぐに校長室へ向かった。澤田稔校長に、「ぼくがやりました」と告げてクラスと名前を名乗ると、校長はしばらくじっと私を見つめた。その何週間か前に、私は、遊び心で2メートル四方くらいの奉安殿のまわりを綺麗に玉石で囲み、玉石と地面の色合いとのコントラストを際立たせて、一人で悦に入っていたことがあった。たまたま、それを見ていたらしい澤田校長に私の「才覚」を褒められたのだが、校長はその私を覚えていたかもしれない。澤田校長は、静かに、「担任を呼んできなさい」とだけ言った。

 隣の職員室へ入ると、先生方も校長室の窓ガラスが割れる音は聞いていたらしい。一斉に私を見た。私は、ゲンパチのところへ行き、また、「ぼくがやりました」と繰り返した。ゲンパチの顔はみるみる真っ赤になった。「この馬鹿が」と大声で怒鳴って私を思い切り張り倒した。それはゲンパチが初めてみせた激情であった。教室では子供たちからほとんど無視され続けて、耐えに耐えてきた屈辱感が、このときは大勢の同僚教員の前で、ゲンパチも、抑え切れなくなっていたのかもしれない。

 そのような怒りを教室でも子供たちにぶつける元気があればよかったのだが、教室では、ゲンパチは全く無気力で、まともに授業ができない状態がその後もずっと続いた。ゲンパチも辛かったであろうが、深刻なのは受験を控えた私たちである。当時の私たち6年生の男子クラスでは40名くらいのうち、三分の一くらいは、小学校卒業で社会に出るが、残りの三分の一くらいは高等科に進んで2年学んだ上で就職していた。さらに残りの三分の一くらいが、当時の中学校、商業学校、師範学校などに進学していた。

 仁川には中学校は一つだけで、仁川公立中学校といった。海岸寄りの気象台がある丘の麓にあって、絵のように美しい学校であった。一度、その中学校の生徒たちが真っ白い体操服に身を包んで、郊外の月尾島へ向かう堤防の道を颯爽と走っている姿をみたことがある。私は、その仁中生になることに憧れていた。当時、周辺で進学校として知られていたのは、京城中学、竜山中学があったが、仁川中学もこれらに引けを取らない進学校であった。入学試験を突破するのも、そう易しくはない。一生懸命に受験勉強をしなければならなかったのだが、学校では、一年の間、ゲンパチから全くといっていいほど、何も教わらなかった。

 昭和18年(1943年)3月、私は仁川中学の入学試験に臨んだ。試験科目は、国語と算数、それに口頭試問と身体検査である。国語は問題なくできたが、算数では、大きな応用問題で計算を間違えた。勉強不足のせいである。少ししょげているところで口頭試問を受け、ここでも大きなへまをした。試験官の教員二人の前に立った私に、そのうちの一人が「練成とは何か」と訊いてきた。これが第一問である。「レンセイ?」、私はちょっと戸惑って考えた。修練のようなものか、訓練とはどう違うのか、と迷っているうちに時間が過ぎていく。「修練のようなものです」とでも答えておけばよかったのかもしれないが、はっきりしないまま、私は率直に「わかりません」と答えた。

 次に、第二問は、「練成のために何をしているか」であった。これは、愚問である。「レンセイ」が分からないと言っているのだから、答えられるはずがない。設問を変えるか、練成の意味を説明した上で訊くべきなのに、試験官は機械的に目の前の紙片に書いてあることを棒読みしているのである。私はまた、「わかりません」と答えた。第三問もまた、「レンセイ」に関することであったかもしれない。しかし、試験官は、そこで匙を投げたのであろう。「もう帰ってよし」と言った。私は、これで不合格を確信した。そして、私は予想通り、初めての受験で不合格になった。

 旭国民学校のゲンパチ担任の6年生男子クラスから、その年、仁川中学を受験した者は私を含めて5名。合格者は一人もいなかった。これは旭国民学校では前例のない異常事態であったらしい。当然、担任の責任が問われることになる。いま思うと気の毒な気もするが、ゲンパチは、一年間だけ私たちのクラスの担任を務めただけで、旭国民学校を去っていった。ゲンパチがいたたまれなくなって自分で辞めたのか、あるいは、辞めさせられたのか、それはわからない。私たち仁川中学不合格者5名は、仕方なく旭国民学校の高等科1年に入って、受験勉強をやり直すことになった。

  (2011.09.01)







    仁川の旭小学校へ転入学した頃   (身辺雑記77)
          = 生かされてきた私のいのち (7) =


 当時の関釜連絡船、金剛丸で玄界灘を渡ったのは、昭和16年(1941年)の3月末であった。関釜連絡船とは、いうまでもなく、下関と釜山を結ぶフェリーである。金剛丸は、1932年の満州国の設立により、関釜連絡船の輸送力増強のために新しく建造された大型船で、その頃の小学校教科書にもその写真が載っていた。7,000トンもあって冷暖房が完備され、速力もそれまでの日本商船の最高記録23ノットを超え、従来8時間を要していた下関−釜山間を7時間に短縮していた。

 大阪から父母と姉の順子、玉枝、妹の秋江、静子、弟の耕治の家族8人で汽車に乗って、下関に着いたのは夜もかなり遅くなってからであった。下関駅から連絡船乗り場までの通路は、日本軍兵士や満蒙開拓団なども含む多くの旅客でごった返していたが、私は眠気眼をこすりながら、家族とともにその混雑をすり抜けて、いつの間にか船室のベッドのなかで眠っていた。朝、釜山で下船したときのことも記憶にはない。当時日本によって植民地化されていた朝鮮についての私の記憶は、この釜山から乗った当時の京城(現ソウル)行きの急行列車の中から始まっている。

 この釜山―京城間の京釜線は、釜山を出た後、大田、大邱を経由して京城に至る総延長路線440キロの幹線鉄道である。広軌で座席も柔らかく、中央の通路を挟んで3人掛けと二人かけの座席が並んでいる。私達8人家族は、三人かけの座席を二つ向かい合わせにしてとり、その隣の二人掛の座席をひとつ占有した。三人かけの座席の一つは、病弱の母が横になり、残りを家族みんなで詰め合わせて座った。

 汽車で長距離の旅行をするということは、大阪ー下関間に次いで、初めての経験であったので、私は車窓に展開する風景に目を奪われていた。確かに本州とは少し違う。まず、窓から見える近くの低い山々には木が少なく、はげ山が多かった。今では韓国も、何処でも山々は濃い緑に包まれているが、当時の植民地時代では、山々の木は伐採され続けて燃料にされてしまっていたのであろうか。沿線には、本州のように、田畑や民家が切れ目なく続くということもなく、空き地が目立って、所々に貧しそうな藁屋根の家がひっそりと楊の木のほとりに建っている。本州では見られない土を盛り上げた土葬の墓も時折遠望された。空は青く広がってのんびりしているのだが、子供心にも、どことなく侘しさのようなものを感じさせられていた。

 京城まで行って、そこで乗り換え、仁川へ行ったはずだが、そのへんのことはよく覚えていない。仁川駅では、父の会社の人たちからの出迎えを受け、市の中心部の東郷旅館に落ち着いた。当時の仁川は、人口30万人くらいであったろうか。街も大阪の生野区などに比べれば洗練された感じで、都会育ちの私にはあまり違和感はなかった。東郷旅館も、木造3階建てで、なかなか立派な造りである。すぐ前が小高い丘になっていて、その全域が、天照大神と明治天皇を祭神とする仁川神社であった。東郷旅館の斜め横に、参道の入り口があり、高い石段を上ると鳥居があって、そこから広い神社の境内が広がっていた。

 この参道の前の道路は、真っ直ぐ南へ500メートルほど伸びて、道の両側には、立派な店構えの商店が軒を連ねている。そのうちの一軒が写真館で、館内には絨毯が敷かれていて、奥さんらしい人が掃除機をかけている姿が見られた。私が初めて見た電気掃除機である。そして、その先に、私が通うことになる旭小学校があった。ただ、この「小学校」は、国民学校令の公布により、この年の4月から一斉に「国民学校」に改称されたから、旭公立国民学校になっていた。大阪の生野小学校に比べると運動場の広さも4倍近くはあったろうか。校舎も堂々としたレンガ造りの3階建てであった。その背後には小高い森があって、その奥には、これも壮大で立派なギリシア正教の大伽藍が聳えていた。

 私たち家族は、6月の始めまで、2か月以上を、この東郷旅館で2部屋を借りて暮らした。朝昼晩の食事は、すべて、女中さんたちが部屋へ運んできてくれる。至れり尽くせりの生活であった。そして、4月の下旬、私はこの旅館で12歳の誕生日を迎えた。旭国民学校からの道が仁川神社にぶつかり、その左に東郷旅館があったのだが、その道を右に曲がると、仁川神社の表参道の前に出て宮町になる。そこからは、その道路の両側がちょっと垢抜けた感じの商店街になっていた。その商店街の端のほうに、小奇麗な本屋があって、誕生日の日、私は、その本屋で生まれて初めての英和辞典を買った。三省堂大英和辞典で、三千ページ近くもある分厚い辞典である。

 本屋に入っていった時、何か少年向きの読み物を買おうと思っていたのだが、ふと、この大英和辞典が、目についた。定価は7円だが、売り出し記念特価で3円50銭と本の帯に書いてある。私はまだアルファベットも知らなかったが、ぺらぺらページを繰っていると、英単語の説明に沢山の絵や写真が載っている。それだけを見ていても楽しい気がした。7円は高価で、手が出ないが、3円50銭なら何とかなる。私は思い切って、その大英和辞典を買った。

 この誕生日の記念に大英和辞典を買ったのは、いまから数えると、ちょうど70年前のことになる。戦時色が深まっていくにつれて、紙を手に入れるのも少しずつ不自由になり、本の出版も数が限られるようになっていた。しっかりした装丁の本は、もう古本でしか見られなくなっていた。本がだんだん手に入りにくくなると、私は逆に、古本屋めぐりを繰り返したりして、本を蒐集し始めるようになった。こうして、その後2,3年で、蔵書数は参考書類を主にして数百冊を数えるようになっていた。遠い昔のことで、それらの本はすべて散逸してしまったが、そのなかで、ただ一冊、70年を経ても、いまも私の手許に残っているのが、この三省堂大英和辞典である。― その日、この大英和辞典の重い包みを抱えて東郷旅館に帰ってきた私は、その本をそっと仕舞い込んだ。英語のアルファベットも分からないのに、3円50銭の大金をはたいたことが、ちょっと後ろめたい気がした。

 12歳になった私は、毎日、旅館で作ってもらった弁当を持って元気に旭国民学校へ通った。転校生というのは、たいていはじめのうちは、ちやほやされる。何人かから「君の家はどこか」と聞かれて、「東郷旅館に住んでいる」と答えると、みんな不思議そうな顔をした。東郷旅館は学校の近くだからみんな知っていたと思うが、そこから学校へ通うという状況は、やはりあまり「普通」ではなかった。日が経つにつれて、私も旅館生活からは、そろそろ離れたくなっていた。旅館には、建物の内部にも、客室にも、食事にも、旅館独特の匂いがあるような気がする。旅館に家族で泊まり続けるというのは、やはり贅沢であったが、その旅館の匂いに少し飽きてきた頃、ようやく準備されていた家が出来て、私たちは引越しをした。

 東郷旅館のあるところが旭町で、そこから東へ行くと花町になる。そのはずれには、大きな建物が並ぶ遊郭があった。その横の道をさらに東へ行くと、京城と仁川を結ぶ広い京仁道路にぶつかり、その東側が大和町である。道路際に赤い屋根で洋風の大和町郵便局があり、その裏手のやはり赤い屋根の一軒家が私たちの家であった。今でいえば5DKである。郵便局と私達の家があるほかは、まわりには2、3百メートルくらいの範囲内で、家は一軒もなかった。自分の家の庭が広大に広がっているような感じである。父は、そこからさらに北東に2キロほどもある鶴翼町に新設された一万坪の鉄鋼会社へ、毎日自転車で通勤した。

 その家から旭国民学校までは、歩いて30分くらいかかった。私は転校生として5年生の男子クラス二つのうちの一つに編入されたのだが、転校生だからといって、おとなしくしていることはなかったと思う。小学校に入学して以来の「学校」に対する強い憧れの気持ちは、生野小学校でのS担任のもとで、4年生のほとんど全部を授業を受けることもなく遊んで過ごしたことから、すっかりしぼんでしまっていたが、私は体力も腕力もあって、友達と遊びまわるのが楽しかった。おそらくここでも、しばらくすると一端のガキ大将になったかもしれないのだが、しかし、そうはならなかった。

 クラスの中に、やや小柄で、口数も少なく、あまり目立たないS君という子どもがいた。野球が好きであったが、勉強はできるほうではない。しかし、このS君には、恐るべき才能があった。やがて私も気がついていくのだが、彼には、ほとんど絶対的といえるほどの統率力があった。クラスのほぼ全員が、陰では彼のもとにひれ伏していたのである。担任の先生よりは、はるかに強い影響力と支配力をもっていた。

 特にあれこれと、指図しているようではない。威張っているわけでもない。しかし、彼に気に入られない子がいれば、まわりがそれを察して、その子は、完全に「村八分」の状態にされてしまうのである。このクラスを支配していたS君の「鉄の鞭」にM担任は気がついていなかった。おそらく「村八分」にされていた何人かの子も、親にはいえなかったであろう。S君の支配力があまりにも強力で、クラス全員が、ただ、萎縮するほかはなかった。これは、それから何十年も経ってからのことであるが、風の便りに、このS君は、戦後、広島へ引き揚げてきて、ある広域暴力団の大幹部になっていると耳にしたことがある。

 M担任は、国粋主義者であった。授業のなかでもよく、神国日本や、神風の話をした。日本人には大和魂があるから、戦争でも負けたことがないのだと強調していた。当時は、ますます戦時下色は強まっていて、アメリカとの戦争が何時始まっても不思議ではないような、雰囲気であった。7月に入ると、アメリカをはじめ、イギリスやオランダも日本資産を凍結し、日本への石油も輸出が禁止されて、すでに戦争状態に入っていた中国を含めて、いわゆる、ABCDライン対日包囲陣ができあがっていた。

 その当時の、日米戦力の比較では、アメリカは製鋼能力が9500万トンで日本の20倍、石油産出量1億1千万バレルで日本の数百倍、飛行機生産数1万9433機で日本の4倍、というふうになっている。しかし、M担任は、アメリカなどは、物量はいくら豊富でも、精神力がなく、戦場ではすぐ手を挙げて捕虜になるから、大和魂にとっては敵ではない、と言っていた。恐ろしいのはむしろイギリスで、彼らは最期まで戦う気概をもっているから、今度戦争が始まれば、それはイギリスとの戦いになる、とも言っていた。

 それに、どういうものかこのM担任は、英語というのが嫌いであったようである。M担任が学んだような昔の師範学校などでは、英語などを教わることもなかったのであろうか。「中学校などで、いまだに英語などの敵性言語を教えているのはもってのほかである。英語などを勉強しても、缶詰のレッテルを読むくらいで、何の役にもたたない」と、一方的に貶してもいた。三省堂大英和辞典を買ったばかりの私は、首をすくめて聞いているほかはなかった。

 もっとも、その当時は、軍国主義一色であったから、M担任だけが非難されるべきではないかもしれない。英語教育などは、事実、徐々に廃れて、中学校の教科からも、やがて消えていくことになる。カタカナ英語も使えば非国民といわれるようになった。野球からも、「ストライク」や「アウト」は消えた。「ポケット」は「物入れ」になり、「シャツ」は「襦袢」になり、「カレーライス」は「辛味入り汁かけ飯」に変身した。敵に勝つためには敵のことを知らねばならないと、相手の言語の勉強を始める欧米の傾向とは、正反対の対応である。

 M担任は、うわさでは、肺結核を患っているということであった。そのためか、いらいらして子どもたちをよく叱った。栄養の取り方を気にしているようで、最近は牛肉も手に入りにくくなったと嘆いていた。その頃すでに、東京などでは外食券制度が発表されて、個人の割当量が決められていた。「肉なし日」なども決められて、毎月、2・8・18・28日は食肉業者も休業していたらしい。仁川でも、じわじわとそのような食糧不足の影響が広がり始めていたのかもしれない。家での夕食の席で私がM担任の話をしたら、父は何処から都合をつけてきたのか、大きな牛肉の塊を手に入れてきて、私はそれを、M担任の自宅へ届けた。

 M担任は、気難しい性格であったが、それでも、普通に勉強を教えてくれたのが私には有り難かった。私は、その前年の生野小学校での一年分の勉強を取り戻さねばならなかった。国語は、教科書以外に、いろいろと本を読んでいたので、他の子供たちに比べても、理解力は劣っていなかったと思う。算数も、数字の計算だけは、算盤のお陰で早かった。教科書の3桁の足し算や掛け算は、ほとんど暗算で瞬間的に出来たから、級友たちは、彼らの手作りの問題で、何度も私の計算能力をテストして面白がった。

 旭国民学校では、私の模型飛行機作りの才能も認められるようになる。夏休みの宿題で、模型グライダーを作ることになり、休み明けのある日に、その飛行テストが行なわれたのである。クラスの40人くらいが、それぞれ自分で作った模型グライダーをもって、屋上に上がった。屋上から、下のグラウンドへ向けてグライダーを飛ばすことになった。下のグラウンドには、飛ばした人が降りて取りに行く。グラウンドは広いので、真ん中より遠くまで飛ぶことはあまりない。中には、それよりも遠く、グラウンドの端近くまで飛ぶのもあったがそれは稀であった。20人くらい飛ばしたところで、私の番になった。

 私も、グライダーを手にもって、やや下向きにグラウンドへ向けて手放したのだが、私のグライダーは、どんどん降下していくことはなかった。少し飛んだところで、逆に高度をぐんぐん上げ、高い高度を保ったまま、まっしぐらにグラウンドの端を軽く越えて、仁川神社のほうへ向かって飛び続けた。採点をしていた工作の先生もまわりの子供たちも、みんなが声もなく呆然とした。もう、そのグライダーを取りにいける距離ではなかった。ところが、仁川神社の近くまで飛んで、ほとんど小さく見えなくなっていたそのグライダーは、急に大きく弧を描いて、今度は、一直線に旭国民学校へ向かってきたのである。私は、何とか無事に、学校のグラウンドに落ちることを祈った。しかし、私のグライダーは、グラウンドへは落ちなかった。

 グラウンドよりははるかに高い上空を戻ってきたグライダーは、先生や私たちが呆然と見つめている屋上の上を飛び越え、今度は、反対側の森の奥のギリシア正教の大伽藍のほうへ向かった。またグライダーの影は小さくなって、ほとんど見えなくなってしまった。折角Uターンして帰ってきてくれたのに、と私は悲しかった。もうグライダーを取り戻すことは不可能に思われた。森の奥では、落ちたグライダーを探し出すすべもない。と、その時、なんと私のグライダーは、再び上空でUターンしたらしく、小さな機影を見せ始めたのである。みんなが一斉にどよめいた。

 小さな機影は、だんだんと姿を大きくしながら、真っ直ぐに、旭国民学校の屋上へ向かってきた。飛びながら高度を徐々に下げて、屋上の高さに近づいてきた。屋上の反対側の端の低いフェンスをすれすれに飛び越えて、私が立っている足元に、私の靴とほとんど接触する間際の位置で、ぴたりと着地した。まわりはシーンと静まりかえった。あり得ないことが現実に目の前で起こったのである。私は涙が出そうになるのをこらえながら、そっと、そのグライダーを拾い上げた。普通なら、飛ばしたあと、せいぜい数十メートルで着地するところを、数百メートルどころか、一キロ以上も飛び続けて、私のもとへ帰ってきたそのグライダーが無性に愛しかった。

 たまたま、その時に発生した上昇気流に乗ったまでだと、考えられないことはない。確かにそういうことはあるだろう。しかし、Uターンを2度も繰り返して、そのグライダーを飛ばした屋上の上の私の足もとに着地する確率は、何分の一になるのであろうか。その分母は、天文学的数字になるに違いない。俄かに信じてはもらえないかもしれないが、これは事実である。私は長い間、あれはいったい何であったのだろうと考え続けてきた。奇跡といえば奇跡だが、私の見えないところで、誰かの何らかの作為があったに違いない。私はいまでは、あれは、私を可愛がってくれている守護神の軽い戯れではなかったかと思っている。

  (2011.07.01)







    父が受け容れた仁川への赴任     (身辺雑記76)
         = 生かされてきた私のいのち (6) =


 生野小学校では、S担任が精神障害をもっていたこともあって、私は教室で、勉強を教わった記憶は全くない。S担任は、宿題を出すようなことも一度もなかったから、私は家で勉強した記憶もほとんどない。算盤と模型飛行機作りに熱中していたほかは、学校でも家でも、遊んでばかりいた。そして、この状態はその年の暮れまで続いた。学校から帰って、毎日のように通っていた算盤塾の待合室の棚には、少年講談など、子ども向きの本が2, 3百冊あって、それらの本が面白く、借り出したりして片端から読んでいった記憶はある。

 普通なら、教室の勉強で、或いは、テストの成績などで、いわゆる「できる子」や「できない子」が自然にわかってくるものだが、生野小学校の私のクラスでは、それもあまりわからなかった。テストを受けたことも、一度もなかった。級長や副級長もいたはずだが、記憶にはない。転入学したばかりの私には、戸惑うことばかりであった。教室では、ただ、みんなそれぞれに好き勝手なことをしながら、そして、時には教室を抜け出したりしながら、遊んでばかりして過ごしていた。そのためか、その時のクラスの友だちの名前なども、2, 3人を除いては、みんな忘れてしまっている。

 そのなかで、N君というクラスメイトのことだけは、いまもよく覚えている。私は、話をした記憶はないのだが、N君はいつも無口で、誰とも付き合おうとはしなかった。つぎはぎだらけの服を着ていて、子どもの目にも、貧しい家の子であることがうかがえた。靴もはかないで、はだしのまま学校の前を歩いているのを見たこともある。家は父の工場の近くであることは知っていたが、母子家庭であったかもしれない。そのN君が、夏休みの最中に亡くなったのである。

 N君の体中には、膏薬がいっぱい貼り付けられていたという。N君の母親は、N君が転んで体を強打して死んだと、医者に言ったらしい。しかし、医者には、死因が、薬物によるものとすぐにわかって、それを警察に通報した。警察で調べた結果、母親がN君にかけられていた保険金目当てに、N君を毒殺したことがわかった。保険金は、2千円か3千円であったようだが、社会を揺るがす大事件であった。私にとっても、初めての身近な人の死である。つくづくとN君がかわいそうでならなかった。クラスでも淋しかったはずなのに、声をかけてあげなかったことが悔やまれた。しかし、学校としては、私たちのクラスメイトの死でありながら、事件であったためか、何の対応もしなかった。私たちも葬儀に参加することはなかった。あるいは、葬儀もなかったかもしれない。

 こういうことがあったためか、世の中は、急に暗くなってきたような気がした。実際、この頃から、人々の生活には戦時体制のような緊張感が強まり、厳しさが増していった。生野小学校でも、先生の一人が出征することになり、夏休み後の朝礼で、壮行式が行なわれた。すでにヨーロッパでは、9月に日独伊三国同盟を結んだばかりのドイツが、ロンドンを連日、猛爆中であったし、日本でも、10月1日には一斉に、特別防空演習が実施された。男性は戦闘帽をかぶってズボンには巻脚絆(ゲートル)をつける。女性はもんぺ姿で、頭巾をかぶったりして、それで焼夷弾で火災になった場合の消火訓練をバケツリレーでするのである。夜には、灯火管制の訓練も実施されるようになった。わが家でも、すべての電灯に黒い袋のような覆いをつけ、窓には厚いカーテンを下ろして、光が外に洩れないように気を遣った。

 当時は、喜劇俳優の古河ロッパがラジオや映画で有名であったが、彼の書いた『昭和日記』(晶文社)では、11月14日の記述に、「まだまだ六月頃の状態は天国だったと言いたいくらい、今の世の中は、まるで楽しみというものがなくなった」とある。料亭や食堂などでも、昼食は2円50銭以下、夕食は5円以下、一皿1円以下というように、上限が決められたことが記されている。また、その頃、評論家として著名であった林達夫は、当時の暗い世相を、「絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかもしれない。しかし、私はもう3年も5年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる」と『歴史の暮方』(中公文庫)に書いた。駅の案内板からは英語表記が消され、「贅沢は敵だ」のスローガンが、いたるところで見られるようになったのも、この頃からである。

 子どもの世界にも、徐々に、生活の厳しさが忍び寄っていた。運動靴や野球道具、ボールなども、だんだんと手に入らなくなっていた。学校の近くの商店街で、サッカーボールが一つだけ売られているのを見つけて、私はそれを買ってもらったが、それは大変貴重な遊び道具であった。家の横には、その当時はまだ広場があった。そこへ私がボールをもって行くと、ひとりでに子供たちが集まってくる。知らない子どもたちも、いつの間にか加わって、私たちはよく、ドッジボールなどをして遊んだ。遊び疲れて家に帰ると、母が胃痛でひどく苦しんでいたこともある。母の胃の病は、その後も何年も続いた。

 父は、春に創業したばかりの鉄工場の経営で忙しくしていたが、秋頃から、度々、当時の関釜連絡船で玄界灘を渡って、朝鮮の仁川へ出張するようになっていた。大阪の大手の鉄工会社が仁川の郊外に1万坪の大きな工場を建設することになり、父がその工場の主力部門になる圧延工場の設計と建造を任されたのである。父は、家にいるときには夜遅くまで、大きな図面を広げて、機械や工場の設計に取り組んでいた。はじめのうちは、自分の鉄工場の経営もあって、大変であったようである。しかし、やがてその父自身の鉄工場の経営も、一年で終わることになった。自分が設計した仁川の工場の建設が完成すれば、父がその工場長となって赴任することが決まったからである。

 当時小学校4年生であった私には、どのようないきさつがあってそうなったのかは、よくわからない。ただ、前にも触れたが、新千歳町の鉄工会社に在職中から、父は圧延機械の設計と運用に精通していて、会社からは一目おかれていた。30歳代の若さで、父専用の作業事務所が与えられていたのも、そのためであろう。従業員や社員たちからも慕われ、親しみをこめて「圧延の神様」という異名をとっていた。巨大な、幅が30メートルもある機械が轟々とうなりをあげて回転しているその音の響きの微妙な違いで、父には、その機械の調子の良し悪しや、不調の箇所などがよくわかるのだそうである。その父の高い技術力が見込まれたからに違いない。

 しかし、圧延機械の設計や技術では、大阪にはいくらでも優秀な高学歴の技術者がいたはずだし、わざわざ、父のような独学で叩き上げた技術者に頼む必要はない。父に白羽の矢が立てられたのは、おそらく、技術力だけではなく、父の人柄と社員、従業員を引っ張っていく統率力が買われたからであろう。子どもの私から見ても、父には、確かに、じわじわと温かく人を包んでいく何かがあった。むかしは、たいていどこの小学校にも、二宮金次郎の銅像が建っていて、あの薪を背負って歩きながら本を読んでいる姿を見習うように教えられたものだが、私は、子供心にも、いつも父のほうが偉いと思っていた。そして、父を一途に慕っていた。身内の贔屓目ではあったにしても、私は、大きくなってからも、父が偉いと思う気持ちを変えることはなかった。

 それにしても、父は独立して、まだ一年も経っていなかった。小さくとも一国一城の主となって、ゆくゆくは、念願の圧延工場を含む鉄工会社を自分で築き上げていきたいという夢もあった。母の胃病も心配であったはずである。はじめは何度も断わったらしいのだが、相手の大手鉄工会社社長は、諦めなかった。どうしても行ってほしいといわれたようである。そして、破格の条件を提示してきた。そこだけは、私も父が言っているのを聞いたのだが、朝鮮総督府の総督の俸給と同じにするといわれたのだという。当時の朝鮮総督は、陸軍大将を除隊した南次郎である。昭和17年からは、後に総理大臣になる小磯国昭が総督になった。彼らは当時すでに60歳を超えていたが、父はまだ40歳である。年齢からいっても、あまり前例のない特別の待遇である。総督と同じ最高の給料を出すとまでいわれて、父もついに断わりきれずに工場長就任を受諾した。

 こうして、昭和十五年(1940年)は慌しく暮れていった。生野小学校の二学期が終わって、冬休みに入る前の終業式には、はじめて、S担任が退職することが告げられた。一月からの三学期には新しく、中年の男性で、てきぱきした感じの西田先生が担任となった。この三学期が始まるまでの冬休みをどのようにすごしたのかは、まったく記憶にない。元旦には、毎年の慣例で、父に連れられて生駒山へ初詣に行ったはずだが、そのこともあまりよく覚えていない。生野区の家からは、天王寺とか千日前、道頓堀などの繁華街へも、割合簡単に行けたが、そういうところへ出かけたこともなかったように思う。思い出に残っていないのは、新千歳町の正月に比べれば、生野区田島4丁目での正月は、寸暇を惜しんで遊びまわるというような、ひどく楽しい正月ではなかったからかもしれない。

 昭和十六年(1941年)の正月がすぎて間もなく始まった生野小学校の三学期では、私たち4年5組の教室の雰囲気は一変した。授業が始まれば、児童たちはみんなおとなしく席に着き、先生の教えをうけるという、当たり前の状態に戻った。しかし、私たちは、一学期も二学期も、教室では何も習っていない。いきなり、三学期の教科書で教えられても、子供たちは歯が立たなかった。西田先生も、最初はさすがに驚いたようである。結局、私たちのクラスだけは、一学期と二学期の教科書で毎日の授業を受ける羽目になった。遅れを取り戻すために、西田先生は熱心に教えてくれた。テストも繰り返され、宿題も頻繁に出されるようになった。私も、それまでのように算盤と模型飛行機作りに熱中してばかりはおられなくなった。それに、3月の末には、一家で遥かに遠い、異郷の仁川へ引っ越すという家族の大移動が迫ってきていた。

 
  (2011.05.01)







    思い出の新千歳町を離れて       (身辺雑記75)
     = 生かされてきた私のいのち (5) =


 奈良の生駒山山腹に不動明王坐像を本尊とした宝山寺というお寺がある。「生駒聖天さん」と呼ばれて関西ではひろく親しまれている名刹である。私は、小学校に入る前から、毎年、元旦には父に連れられて、この宝山寺へ初詣に出かけるのが慣わしになっていた。昭和15年(1940年)の元旦にも訪れている。

 正月というのは、子供心には限りなく楽しく、「もういくつ寝たらお正月・・・・・」と本当に指折り数えて待っていたものである。大晦日になると、その楽しみの期待は頂点に達して、布団にもぐりこんでもなかなか寝付けない。それでも、初詣に出かけるために、朝2時過ぎに起こされると、私は飛び起きて、正月用のよそ行きの服を着る。そして、普段は履くことのない革靴を履いて、父と二人で3時には家を出る。それだけでも、このうえもなく嬉しかった。

 暗い道を市電通りまで出て、初詣用の市電で「上六」と呼ばれていた上本町6丁目まで行く。そこで、近鉄奈良線に乗り換えるのだが、いつも駅は大変な人出で、私ははぐれることのないように必死に父の手に縋って歩いた。やっと電車に乗り込んで、30分ほどで生駒で降りると、あとは果てしなく続くように思われた石段をひたすらに上っていくのである。お寺の境内まで辿りつくのに、ここでも30分以上はかかっていたかもしれない。

 私は知らなかったが、当時すでに生駒の鳥居前から宝山寺までは、日本では最初といわれるケーブルカーが走っていた。延長距離948メートル、高低差146メートルの宝山寺線で、大正7年の8月29日から運行が始まっている。しかし、元旦はものすごい数の人出だから、ケーブルカーに乗ろうと思えば、おそらく、何時間も待たされたのかもしれない。私は、ケーブルカーのことは知らず、西も東もわからず、人ごみにもまれながら、ただ、父に必死にしがみついて歩いていた。

 宝山寺の境内に入ると、本堂のうしろに般若窟という切り立った巌山がそそり立っているのが見えてくる。「般若窟」の名は、役の行者(えんのぎょうじゃ)として知られている役君小角(えのきみおづぬ)が、この場所に般若経を納めたところから名付けられた。いまはこの般若窟を背景に、いかにも仙人らしい雰囲気を漂わせている役の行者の等身大の像が境内を見下ろしている。役の行者は、『続日本紀』にも記録が残されている実在の人物で、卓越した超能力者であり呪術者であった。舒明6年(634年)1月に、大和国葛城山麓の茅原の里(現在の御所市)で産声をあげたといわれているから、もう1300年以上も前の人物である。

 役の行者は、若い頃より金剛葛城の山々で修練を積み、そのあと大峰山系、箕面、生駒山系などでも修行して、最高の法力である孔雀明王の術を会得したという。「孔雀明王の術」といってもそれがどういうものか、ちょっと想像もつかないが、『日本書記』には、中大兄皇子の母皇極天皇が、斉明天皇として再び即位された年(655年)の記録に、「大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ」とあるそうだから、空を自由に飛ぶことも出来たのであろう。

 事実、空を飛んだ話は、いろいろな形で言い伝えられてきた。後には、光格天皇より「神変大菩薩」の称号も受けている。全く人間離れをした能力の持ち主であったが、役の行者は、そのような法力によって多くの庶民の悩みや苦しみを救ってきたともいわれている。そのことが、その当時もいまも、多くの人々から、親しまれ敬われている所以なのかもしれない。

 この役の行者が、宝山寺の般若窟で修行したという故事によって、宝山寺の開祖とされているのだが、その後もここは修験道の聖地として、数多くの修験者を惹きつけてきた。寛保元年(1741年)に寺社奉行に提出された「記録写し」には、唐へ渡る前の弘法大師(774〜835)も、ここで修行したことがあると記されているらしい。

 しかし、この宝山寺へ初詣を続けていた頃の幼い私には、そういうことは、もちろん、何も分かってはいなかった。ただ、この初詣は、幼い私にとっては「待ちに待った正月」を迎えたことを意味していたから、そのことだけでもうれしく、幸せであった。父は信心深かったが、数多くの初詣のための神社、仏閣があるなかで、なぜこの宝山寺を選んで熱心に参詣を続けていたのかも、いまとなっては、知るすべもない。

 初詣を終えて、新千歳町へ帰ってくるころには、もう8時近くになっていただろうか。昔は、1月1日にも学校で新年の式典があった。市電を降りて、家へ寄っていく時間はなかったので、私はそのまま、父と別れて新千歳小学校へ行った。左胸には、赤い房飾りをつけていた。級長のしるしである。青が副級長で、私の胸には、いつも赤か青の房飾りがあった。学校では、講堂に集められて、君が代を歌い、教育勅語を聞く。教室では、紅白の饅頭をもらって、それが終われば一目散に家へ帰る。それからが、正月の天国の時間になった。

 私は、時おり思うことがあるが、子どもの頃の正月はなぜあれほどに楽しかったのであろう。大人になっていくにつれて、いろいろなことを覚えていくが、その反面、あの楽しみを感じる子どもの能力は、失われていくのかもしれない。私は、正月の時間は、一分でも十分でも、惜しいような気がしていた。繁華街の映画館はだいたいどこも満員になるのだが、映画などで時間をとられるのは、もったいないことだと思っていた。

 お年玉をもらって、ご馳走を食べて家を飛び出すと、私は、夕方まで無我夢中で過ごした。家から、北恩加島小学校へ行く途中に、北恩加島町の商店街がある。かなり広く、十数メートルはあったと思われる道幅の両側に様々な店が並び、それが五百メートルくらいも続いていた。お好み焼きや、たこ焼き、いか焼き、綿菓子、駄菓子などの屋台なども所狭しと並んでいる。文房具店のショーウインドーに、どういうものか、本物そっくりの拳銃が飾ってあって、一円五十銭という高い値札がついている。それを矯めつ眇めつ見ているだけでも、すぐ30分くらいは過ぎてしまうのであった。

 正月3か日はあっという間に過ぎてしまって、もとの生活に戻っても、私は毎日外で遊びまわっていた。昼食の時間になると一度家に帰るが、そのほかは、ほとんど家にはいたことがない。小学校の3年生になっていたから、たまに、宿題なども出されることがあったが、そんな時には、大急ぎで宿題を片付けて、すぐまた家を飛び出す。父の工場、甚兵衛渡しの待合室、川沿いの材木置き場や川の前の広大な原っぱなど、遊び場所には少しも不自由しなかった。

 父は、月に二回ほど日曜日が休みであった。その日だけは、私は何処にも行かずに父にくっついていた。父が和服に着替えると、それが外出の合図である。私は父の和服の袖を片手で掴んで、放さなかった。たいていは、甚兵衛渡しから船で対岸に渡り、そこからバスで、九条新道の繁華街に出る。そこで食堂に入り食事をして、映画を見て帰るというのが父と私の外出のパターンであった。いま考えると、胃が弱くて寝込むことの多かった母の世話などすべてを姉たちに任せて、いつも私一人が、父にくっついて楽しんでいたのはやはり不公平で、すまない気がする。

 しかし、この九条新道行きは、何時までも続かなかった。昭和十五年(1940年)の三月、父は長年勤めていた伸鉄会社を退社し、生野区の田島に自分の小さな鉄工場をもつことになったからである。父は自分が得意とする鉄工技術を生かして、いつかは伸鉄、圧延工場を経営することを考えていたと思うが、それには、巨額の資金が必要になる。それまでのつなぎに、鉄工場を経営して独立を目指したのであろう。それが四十歳になったばかりの父の経営計画であった。

 家も広々とした新築の二階家へ引っ越した。真新しい木の香りが実に新鮮であった。学校も、新千歳尋常小学校は三年生までで、四月からは、生野尋常小学校へ転校して四年生になった。このときの新居の住所は、生野区の田島四丁目で、いまでも特定できる。今里筋とよばれる広い道路に面していて、この道路は、いまは交通量の多い中央分離帯を設けた幹線道路になっているが、私が住んだ頃は、滅多に自動車も通らず、昼間でも閑散としていた。今も同じ場所にある生野小学校へは歩いて十分の距離である。私は、勇んで学校へ通い始めたが、ここでは予想に反して、初めての、特異な経験をすることになった。

 この生野小学校で私が入れられた四年生のクラスの担任は、Sという四十歳くらいの男性であったが、明らかに精神障害をもっていたのである。これは、今も昔もあまり変わらないが、小学校では、担任がほぼ全科目を受け持って指導する。しかし、S担任は、何も教えようとはしなかった。教室の隅に自分の机を置いて座り、墨をすっては筆で新聞紙の上に字を書きながら、時々、思い出したようにくすくす笑っていた。それが、下校時まで続くのである。授業時間は全部、自習であった。

 何故こういう事態がまかりとおっていたのか。いまでは考えられないことだが、むかしは、学校に対してものを言う風潮はあまりなかった。おそらく、校長も気がつかなかったのであろう。もしかしたら、他の教員たちも見てみぬ振りをしていたのかもしれない。子供たちは遊び盛りである。私もそうであったが、おとなしく自習などするはずもなく、教室では好き勝手に遊びごとをしたり、あるいは、教室を抜け出しては運動場の片隅で遊びまわっていた。S担任は、教室内ががらんとしていても、気に留めるふうでもなかった。

 この全く勉強を教えられない異常な状況は、四月の新学期から、十二月末の二学期の終わりまで続いた。私は転校してきたばかりで、はじめのうちは呆然としていたが、そのうち、「自習時間」を活用して、算盤の練習と模型飛行機作りに熱中するようになった。

 学校の近くに、評判のよい算盤教室があって、巧みな指導法で多くの子供たちを集めていた。私も友達に誘われて行ってみたのだが、夕方から始まるその教室は、数十人の子供たちであふれていた。六級から始まって一級までのクラスに、技量によってふるいわけられ、一級になると、子どもの目には、神業のように思える計算能力を発揮する。私は、生野小学校四年生の自習の時間には、教室の後ろのほうに座って熱心に算盤の練習に努め、夕方には算盤教室へ通って、徐々に序列を上げていった。その年の暮れには、いつの間にか、一級に登り詰めていた。

 しかし、その算盤よりも、もっと楽しく熱中していたのは、模型飛行機作りである。私は小さいときから工作が好きであった。おそらく、手先も人一倍器用であったかもしれない。朝、登校して、算盤ばかりを「自習」して、下校すると、一目散に、家から十分ほどのところにあった模型飛行機の店へ行く。その店の奥には、作業場があって、たいてい店のご主人が模型飛行機作りに専念していた。店は奥さん任せである。

 十畳ほどの作業場には、天井や壁に、大きいのから小さなものまで、ご主人が作ったさまざまな模型飛行機が飾られていた。寸分の狂いもなく作られたそれらの模型飛行機は、見ているだけでもわくわくするくらいで、実に見事な出来栄えであった。私は、頻繁に出入りしているうちに作業場へ入ることも許され、たまには、ご主人の作業の手伝いもした。また、時には、ご主人のお供をして、出来上がった模型飛行機のテスト飛行にでかけることもあった。

 店から少し歩くと、おそらく今の百済駅前あたりであったろうか、その頃はまだ、広大な原っぱが広がっていた。そこで、模型飛行機を飛ばす。ご主人の飛行機はどれもすばらしくよく飛んだ。一生懸命に追っかけて、それを拾って帰るのは私の役目である。至福の時間であった。私の作った模型飛行機も、よく飛ぶようになって、時々、ご主人からも出来栄えをほめられたりしていた。

 私が算盤と模型飛行機に夢中になっているうちに、戦時下の世相は厳しさを増しつつあった。四月にはガソリン不足のため、タクシーの深夜営業は禁止されていたが、それが八月になると、「国民生活新体制要綱」が発表されて、自動車の使用は厳しく制限されるようになった。食堂やレストランなどでは米食が禁止され、映画館の営業時間制限、遊覧旅行の制限など、要するに、贅沢、享楽はすべて厳禁ということになった。九月に入ると、日本軍の北部インドシナ進駐がはじまり、二十七日には、日独伊三国同盟がベルリンで調印されてしまった。第二次世界大戦での日本の破局の始まりである。

 十月に大政翼賛会が発足して、戦時体制が強化されていくなかで、十一月十日から十四日まで「紀元二千六百年記念式典」が日本各地で大々的に行なわれた。神武天皇即位後二千六百年になるというこじつけであったが、それは『日本書紀』の研究でも史実とはいえないとする津田左右吉の著書なども発禁処分にしたうえでのことであった。言論統制を強めていくかたわら、政府は、なりふりかまわぬ国威発揚のための宣伝に努めた。昼酒も、記念式典のこの五日間だけは許可された。

 私の家のまわりでも、賑やかに提灯行列が行なわれて、久しぶりに華やいだ雰囲気を味わった。美しく飾られた花電車も走った。その時の歌、「金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて、今こそ祝えこの朝、紀元は二千六百年」は、いまもよく覚えている。しかし、物資不足や物価上昇に苦しめられていた一般庶民は、この祝典歌をタバコの値上げにもじって、「《金鵄》上がって十五銭、栄えある《光》三十銭」と陰で歌って鬱憤を晴らしていた。永井荷風の『断腸亭日乗』(十一月十六日)には、その頃の政治体制を揶揄して、「今回の新政治も田舎者の作り出せしものと思えばさして驚くにも及ばず。フランス革命または明治維新の変などとは全く性質と品致を異にするものなり」とある。

  (2011.03.01)







    戦時色が強まっていく社会の中で   (身辺雑記74)
     = 生かされてきた私のいのち (4) =


 私が大阪市大正区の北恩加島尋常高等小学校に在学したのは1年だけである。昭和13年(1938年)4月からは、住んでいた町内に新設された新千歳尋常小学校へ移った。私の手許には、「右者本校ニ於テ尋常小学校第一学年ノ課程ヲ修業セシコトヲ証ス」と書かれた北恩加島小学校長名の修業証書が残っているが、これが私が手にした最初の証書である。この証書と、印刷されたばかりの学校新聞をもらって、級友たちと別れた。その学校新聞には、私の作文「運動会の日」が載せられていた。私の文章が活字になったのは、これが最初であった。

 新千歳小学校は、家から歩いて15分くらいの電車通りにある。新築の校舎だから、机も椅子も教室も、すべたが新しくて綺麗であった。ここで私は2年イ組に編入された。担任はいまもよく覚えているが、西川 始という名の女の先生である。女学校を出たばかりで、代用教員であったように思う。昔は、女学校を出るだけでもなかなか大変であったから、私たちはみな西川先生を偉い人だと思っていた。西川先生は、紫の袴をはいて颯爽と歩きまわり、教室では大きな声で熱心に私たちを教えた。

 もう70年以上も前のことになるが、このときのクラスメイトの一人の名前を鮮明に覚えている。稲見一良という。一良は「イツラ」と読んだ。お父さんは陸軍中尉で出征中であった。一人っ子の稲見君はお母さんと二人で留守を守っていた。一度彼の家に遊びに行ったことがあったが、玄関には「英語教授」と書かれた看板がかかっていた。お母さんは、その頃としては珍しく、自宅で英語を教えていたのである。

 この稲見君は、作文がうまかった。よく書けた作文は、授業のなかで西川先生がクラスのみんなに読んで聞かせるのであるが、そのなかには、ほとんどいつも、稲見君と私の作文があった。西川先生は、ある時には稲見君の作文を先に、また、ある時には、私の作文を先に読んだりしていた。いつのまにか、稲見君も私も、互いにライバル意識のようなものを持つようになっていたかもしれない。

 学期ごとに、級長と副級長が担任によって任命されていたが、それも、稲見君と私が、ほとんど交互に、級長と副級長を独占していた。2学年の終わりには、学年に一人与えられる大正区教育会長からの表彰状と銀の賞牌*は、私がもらったが、稲見君はそれをひそかに期待していたらしい。彼の残念がっていた顔つきがいまも記憶に残っている。

 その当時、級長をしていて一つ、分かったことがあった。小学校の授業料は無料だが、父兄会費というのを毎月納めることになっていた。1口10銭で、1口から10口まで、自由に選んで申し込む。その父兄が書いた申込書を私がみんなから集めて、先生に提出することになっていたのである。その時、みんなの申し込みの口数がわかったのだが、大半が、1口の10銭であった。なかに2口の者が何人かいた。3口の者は1人であった。私だけが10口の1円だった。

 私はなぜ自分だけが1円なのかわからなかった。1円といえば子どもにとっては大金である。3円で子どもの自転車が一台買えた。2年上のマーちゃんなら、お父さんが大阪ペイントの社長でお金持ちであったから、10口であったかもしれない。しかし、私の父の場合は、まだ若い一介の社員で、小さな借家住まいである。有能な鉄鋼技術者として会社から一目置かれて給料も高かったかもしれないが、1円はいかにも多すぎるようにその時の私には思えた。私は父の書いた申込書の、10口1円を、3口30銭に自分で勝手に直して提出した。だが、それはすぐばれてしまった。

 その翌月、父兄会費を納める袋に1円が入っているのを見て、私は3口にして申し込んだことを白状せざるを得なかった。3口でも、クラスでは一番大きい金額であることなども言ったかもしれない。父は大声で私を叱った。私は改めて、西川先生に訂正を申し出て10口にしてもらい、それからは、毎月1円ずつ納めていった。

 父は終生、私を命がけで愛してくれていた。私がほしいものは、言えば必ず買ってくれた。学校からも、時には、児童向きの本などが推薦されることがある。値段が高くて、クラスの誰もが敬遠しても、父は私に申し込ませた。私は父がものを大切にし、自分は決して無駄使いしないことをよく知っていた。しかし、私のためには、大工道具から万年筆、ハーモニカなど、なんでも買ってくれた。私はいつのまにか、ものをほしがることを止めるようになっていった。言えば必ず買ってもらえることを知っているだけで、私はこころ豊かで満ち足りていた。

 ちょっと脱線したが、ここでまた、稲見君のことに話を戻そう。私は、新千歳小学校には2年いただけで、稲見君とは3年生の最後に別れて以来、長い間、互いに連絡は途絶えていた。何年か前にふとインターネットで調べて、初めて、彼が放送作家、小説家として、その才能を期待されていたことを知ったのである。迂闊であった。彼は、10年間の闘病生活の末、1994年2月24日に肝臓がんで亡くなったらしい。63歳であった。「ウイキベディア」では、稲見君のことを、つぎのように紹介している。

 《記録映画のマネージメントを務める傍ら、1968年文芸誌の新人賞に入選、しかし多忙のため作家活動に専念しなかった。1985年肝臓がんの手術を受けるが全摘ができないと分かると、生きた証として小説家活動に打ち込むと周囲に宣言し、1989年『ダブルオー・バック』にて本格的に小説家デビュー。1991年『ダック・コール』にて数々の賞を受賞し期待されるも、1994年、わずか9冊を残して癌のため没した。》

 あの新千歳小学校でクラスメイトであった稲見君のこのような壮絶な生き方を垣間見て、私も粛然とさせられた。昭和一桁生まれというのは、戦中、戦後を経て苦難の多い人生を歩んできた人が少なくないのだが、そのためか、何十年前の古い友人となると、その消息を掴むのは難しい。70年前の友人の詳細をここまで辿れるのは、私の場合は、稲見君一人だけである。

 新千歳小学校の2年生になった昭和13年(1938年)には、日中戦争がますます激化していた。前年の暮れには、南京陥落の祝賀行事が日本全国で盛大に行われていたが、その裏では日本軍による住民大虐殺があったことなどは、知る由もなかった。虐殺された中国人の数は、一説には30万人ともいわれるが、この蛮行は、中国民衆の反日感情を一層高める結果になった。中国軍はその後も頑強に抵抗を続けて、日中戦争は長期化の様相を見せ始めていたのである。

 国内では4月に国家総動員法が公布され、そのあと、物資統制令も施行されて、戦時色が強まっていった。灯火管制や防空訓練も行なわれるようになった。小学校でも、作文の時間には、戦地の軍人のための慰問袋に入れる手紙をよく書かされるようになった。そんな折に私たちが書いた、或いは書かされたのは、ここに記すのは憚れるような中国人罵倒のことばである。社会の風潮が大人たちの中国蔑視を強め、それが何も知らない子ども達にも歪んだ影を落としていた。

 しかし、日中戦争というのは、子供たちにとっては、あくまでも遠い外国での戦争であった。私たちは社会が窮屈さを増していく中で、そんなことにはあまり影響されずに、元気に遊びまわった。特に私にとっては、学校くらい面白いところはなかった。授業の間だけは神妙におとなしくしていても、休み時間になると教室を飛び出し、クラスの子供たちと思う存分遊びまわれる楽しみを満喫していた。日曜日に学校が休みなのが気に入らなかった。家のまわりでは、男の子たちの中で私が一番チビであったから、遊び相手が限られる。日曜日でも学校があればいいのにと、よく思っていた。

 私は体が丈夫で、走るのもクラスで一番速かった。相撲も得意であった。夏休みになると、町内会では子供たちの相撲大会を開催していたが、私は何回か、5人抜きの賞をもらっている。相手が同じ2年生なら、問題なく勝てる。相手が3年生でも勝つほうが多かった。私はいまでも相撲で勝つ時の感覚を覚えているが、相手とがっぷり四つに組んだら、もうそれで、「勝てた」と思う。四つに組んだあと、両手でぐいと相手を引き寄せ、腰投げで投げるのである。

 ずっと後になって、戦後の東京で日比谷高校(その当時はまだ、東京都立第一高等学校といっていた)の2年生のとき、体操の時間に相撲の勝ち抜き競争をやらされたことがあった。クラスを半分に分けて、砂場の両側に対峙する。背の低いほうから順番に一人ずつ出て、勝ったほうは残り負けたほうは入れ替わる。私は12人を勝ち抜く記録を作った。それも、13人目で負けたのではない。相手がいなくなってしまったのである。

 これは、私が強かったからというより、相手側がみんな弱すぎたからであったかもしれない。全国から集まってきて秀才といわれた生徒たちも、相撲のような体力の勝負では勝手がちがったのであろう。この相撲だけではなく、何事でも、勝つと思ってやれば勝つ。私はいまだにそう考えるくせがあるが、これは、子どもの頃の相撲の経験から来ているように思う。ともあれ、新千歳小学校時代の私は、走っても勝ち、跳んでも勝ち、鉄棒の懸垂の回数でも、群を抜いて勝っていた。頑健な体に恵まれ、私は疲れを知らずに、学校でも、学校から帰ってからも、歩きまわり走りまわっていた。

 それでも、水泳はまだできなかった。5歳の頃に溺れかかった経験はあっても、水は嫌いであったわけではない。私は、近くの銭湯へ行くたびに、人のいないときを見計らって、比較的大きかった湯船の端から端まで、顔を湯につけたまま泳いでみたり、もぐったりした。それを、往復で繰り返したりして、私は、顔をつけたままなら、10メートルは進めることを確信するようになっていた。水泳を練習したかったが、近くにはプールはなかった。しかし、その代わりに絶好の泳ぎ場があった。大阪湾の海である。

 家主のカズちゃんの家は、大阪湾に停泊する汽船に、水を供給する仕事をしていた。家の前の尻無川には、カズちゃんの家の水船とよばれる500トンくらいの舟が常に係留されている。電話で注文を受ければ、カズちゃんのお父さんが、この水船で出動するのである。夏の暑い日などには、近所の数人の年上の子供たちと、私もよく、この水船に乗り込んだ。

 カズちゃんのお父さんは、赤ら顔で、漁師のような感じの無口な人であった。近所の子供たちが、何人船に乗っても、まったく気にもかけていないふうであった。黙って船を出し、黙って仕事をして、黙って帰ってくる。船の上ではしゃいでいる子供たちにも、ほとんど声をかけることはなかった。水船には、船の周りの柵や手すりのようなものはない。大きな四角の水のタンクが海に浮かんでいるようなもので、甲板の四辺は、いきなり海に落ち込んでいる。子供たちにとっては、決して安全ではなかった。

 その水船は、尻無川の河口から海へ出て、やがて大きな汽船に近づき、横付けになる。太いホースが汽船の水槽の受け容れ口に接続され、給水が始まると、それからが、子供たちの天国であった。少なくともその時の私にはそう思われた。汽船に接舷している水船の反対側には、ひろびろとした青い水が遠くまで広がっている。銭湯の湯船とはわけが違うのである。波も立っていて、風も吹いている本物の海であった。甲板の上から、その海へ子供たちはつぎつぎに跳びこんでいく。最年少でまだ泳ぎのできない私も、臆せずに跳びこんでいた。足からどぼんと落ちていくのは、少しも怖くはなかった。

 ただ、顔を水につけたままで泳げる距離は10メートルである。10メートル進んだら、顔を上げて息をしなければならない。そこで、何も手に掴めるものがなければ、息を吸った後、もう一度、顔をつけてまた10メートルを泳ぐ。だから、水船からあまり離れないで泳ぐことになるのだが、それでも私はあまり、不自由を感じなかった。カズちゃんのお父さんも、私が、十分に泳げるものと思っていたのかもしれない。

 1時間ほども夢中で「泳いで」いる間に、水船は水道水をどんどん吐き出していって、高く浮き上がっていく。甲板から垂らしたロープを伝って上へ昇るのが、ちょっと面倒であった記憶がある。おそらく、いまなら、こんな「危ない遊び」を許さない親は多いだろうし、柵も手すりもない甲板のうえで子供たちを遊ばせてくれるカズちゃんのお父さんのような人もいないであろう。どちらがいいか、と問うのは難しい。ただ一ついえることは、このような思い出をもてたことは、私にとっては大変な贅沢であり、しあわせであった。

 昭和14年(1939年)に入ると、戦時体制の引き締めがさらに強くなり、2月には、国民精神総動員強化策として、金属回収や隣組制度の強化などが行なわれるようになった。鉄製のポスト、ベンチ、街灯、広告塔などは、撤去回収され、家庭でも、火鉢、灰皿などの鉄製品はすべて供出させられた。作家の永井荷風は、持ち物の煙管の口金の金までとりあげられそうになり、6月30日に、浅草へのみちすがら吾妻橋の上から、川へ投げ捨てた、などと、『断腸亭日乗』に記している。4月には、米穀配給統制法なども公布され、米も自由には買えないようになる日が近づいていた。そして、9月1日、ヨーロッパでは、ドイツが遂にポーランド侵攻を開始した。第二次世界大戦の始まりであった。

 この年の冬、新千歳町の我が家では、大きな出来事があった。私の姉の玉枝が、夜中に高熱を出したのである。父は、医学的知識に明るかった。尋常ではないと判断して、大正区では比較的大きな境川病院へ入院させた。しかし、三日たっても四日たっても、熱は下がらなかった。五日目に父は、院長に会い、退院させると伝えた。院長は正気ではないと怒った。しかし父は、頑として怯まなかった。病院はあんたのものだが、これは私の娘だ、と言ったそうである。母と二人で姉を抱きかかえて、タクシーに乗せ、大阪赤十字病院へ向かった。

 赤十字病院では、姉を診察のあと、すぐに手術室へ入れて手術を始めた。眉の上に小さな穴を明け、頭蓋骨内部にたまっていた膿を取り出した。手術がもう一日遅れていれば、完全に手遅れであったらしい。姉の玉枝は、1か月ほどの入院で、無事に退院することができた。その2年前の秋江の場合のように、玉枝はこうして、父のお陰で命を取り留めたのである。

 玉枝は、私より2歳上だが、小さい頃から聡明で性格が明るく、家のまわりのみんなからも好かれていた。その頃、病弱で寝込んでいることの多かった母に代わって、ほとんどの家事を、まだ子どもの玉枝がこなしていた。父もこの玉枝を頼りにしていたようである。私は時折、もし玉枝が男として生まれていたら、私に代わってもっとまともな大学教授になっていたのではないか、と思うことがある。そして、おそらく私は、後になって展開される父の事業の後を継がされていた。しかし、天は、玉枝に平安な生涯を与えなかった。長じて資産家の息子に見初められて結婚したが、彼は商才はあっても他人に対する愛に欠けていた。姉は不幸な日々を健気に生き抜き、60歳で亡くなった。再生不良性貧血が病名であった。

 私は、姉の玉枝のようにこころ優しく、勝れた素質を持った人間が、なぜ不幸な生涯を送らねばならなかったのか、と長い間、思い続けてきた。しかし、いまでは分かるような気がするのだが、姉は、多分、この世では、そのような逆境に生きることを学ぶために生まれてきたのである。私と同じように、同じ父と母を選び、この世に生きて学ぶべきことを学び、そして、いまはまた、天性の明るさで輝きながら、霊界で安らかに暮らしているはずである。あの昭和14年の冬に、11歳の玉枝が生き残ったのも、生まれる前から計画していた逆境の学びが、まだ終わっていなかったからであったに違いない。

 *この時の表彰状はいまも残っている。横38センチ、縦27センチの厚紙に大きな字でこう墨書されている。

     表 彰 状
            大阪市新千歳尋常小学校 第二学年 武
   右成績優良ナルヲ認メ賞牌ヲ贈リ之を表彰ス
       昭和十四年三月弐四日
                  大阪市大正区教育会長 津

  (2011.01.01)





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