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  神や仏を信じる人と信じない人     (2015.07.06)


 この間の「朝日新聞」(2015.06.20)に「神や仏を信じますか?」とタイトルをつけたアンケートの結果が載っていました。宗教が現代世界の動向に大きな影響を与え続けているなかで、日本人の場合は広い意味での宗教心は持っていても宗教を信じている人は比較的少ないという傾向があるといえるかもしれません。このアンケートの結果は、そのような日本人の精神性やものの考え方を知るうえで一つの指標になるものと思われますが、ここでは、その数字だけを引用しておくことにいたします。

 このアンケートでは、神や仏を信じると答えた人の割合は58パーセントで、信じない人の割合は42パーセントと出ていました。ほぼ10人に4人は神仏を信じていないというのには考えさせられます。信じない理由としては、「科学的でない」「存在が証明できない」に次いで、「神頼みしてもかなわない」が約14パーセントなのだそうです。その理由を具体的に、「神頼みしてもかなったことがないので、神や仏はいないと思う。もしいるなら、こんな理不尽な世の中はありえないはず」と述べている37歳の女性のことばなども紹介されていました。

 一方で、「悪いことをしたらバチが当たると思う」と答えている人が68パーセントいることもわかりました。神仏とはいえないにしても、目にはみえないおそれを感じさせる存在を信じている人が一定の割合でいるようなのです。それに対して、「信仰している宗教はあるか」という質問については「はい」と答えた人の割合は16パーセントに留まっています。これは、「八百万の神」や「悉皆仏性」などの考え方に伝統的に親しんできた日本人独特の宗教感覚の反映なのでしょうか。このアンケートでも、「無宗教だけど、無神論ではない。こうした考え方をする人が、日本では多数派なのかもしれない」と締めくくられていました。


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   冥王星の詳細な画像を見て考える    (2015.07.20)


 冥王星が発見されたのは1930年のことで、それ以来長い間、海王星の外側にある9番目の惑星と考えられてきた。しかし、冥王星はその軌道が他の惑星の軌道面と一致せず質量が月よりも小さいこと、楕円軌道の離心率が大きく円軌道から外れているなどの理由で、今では惑星ではなく、準惑星といわれるようになっている。米航空宇宙局が2006年に打ち上げた無人探査機「ニューホライズンズ」が、9年間の飛行を続けてその冥王星に接近し、先週の7月14日に詳細な画像を地球へ送ってきた。私たちは、それをテレビや新聞紙上の画像で見ることができたが、これはもちろん人類史上で初めてのことである。(「朝日」2015.7.16 ほか) 

 米航空宇宙局が7月15日に公表したその画像では、山脈のようにごつごつした特異な地形や亀の甲のような模様が分布している一部の地域などが容易に確認される。専門家の分析では、窒素とメタンの氷で覆われた表面の一部には数十キロにわたり3000メートル級の山々もみられるという。しかし、周囲には隕石が衝突してできるクレーターのようなものはないようである。この冥王星の直径は2370キロで、これまで考えられていたより数十キロ長いことも判明した。あらためてこの詳細画像を見ていると、月などとはまた違った異様な地形的特色に気持ちが惹きつけられる。同時に、地球の上に居て、これほど遠くの冥王星の姿をいま自分が眺めていることに不思議な感慨を抑えることができない。

 地球から冥王星までの距離は約48億キロで、これは地球から太陽までの距離の30倍以上にあたることになる。これだけ遠いと、探査機から送られた信号が地球に届くのにも4時間半もかかるらしい。ニューホライズンズが時速5万キロ以上の猛スピードで飛行しても 9年もかかっているのだから、地球から見ると冥王星は、文字通り気の遠くなるような彼方の星である。しかし、それも視点を宇宙に移して見直せば、地球と冥王星が属する太陽系そのものが、約10万光年の直径をもつ天の川銀河の約2000億個の星々の小さな一部であり、さらにその天の川銀河も宇宙に存在する1000億個の銀河のごく僅かな一部であるに過ぎない。広大な大宇宙から見れば、太陽系全体でさえ米粒一つほどにもならないちっぽけな存在であり、そのなかの地球と冥王星との距離などはほとんど無いに等しく、限りなくゼロに近づく。

 シルバー・バーチは、霊界を理解したければ宇宙を眺めよという。そして、「宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。死んで行った人も相変らず同じこの宇宙で生き続けているのです」という言い方をしている。「あなたにはまだ永遠の尺度で物事を考え判断することがおできになりません。この途方もなく巨大な宇宙の中にあって、ほんの小さなシミほどの知識しかお持ちでないからです」ということばもある。天体や宇宙に思いを馳せるとき、私はつい、このようなシルバー・バーチの教えを思い浮かべたりする。確かに、私たちはいまでは地球の青い美しい姿を宇宙からの写真で見ることができる。月の表面に人類が足跡を印した場面も見てきた。宇宙探査機を飛ばして水星、金星、火星、木星などの詳細な映像も見られるようになった。そしていまは冥王星の鮮やかな映像が目の前にある。それらを可能にしてきた目覚ましい科学の進歩を大いに謳歌しても決しておかしくはない。しかし、もしかしたら、このような地球上の科学の進歩も、大宇宙の観点からみれば「ほんの小さなシミほどの知識」でしかないのかもしれない。


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   弟子の死を嘆き悲しんだ空海      (2015.08.05)


 私たちは霊的存在であり、永遠の生命をもっている。霊には死はなく、死というのはドアを開いて隣の部屋へ移るようなものであるにすぎない。だから、死を悲しむのは間違っている・・・・というようなことは、私たちはすでにいろいろと教えられ、学んできた。しかし、やはり、愛する肉親に死なれたりすると、深い悲しみを抑えることができない。自然に止めどもなく涙が流れる。それが人間ではないか、悲しい時には思い切り泣けばいいのではないか、と思ったりもする。

 実は、あの空海でさえも、そのような悲嘆に暮れていたことがあった。姉の子であり、最初の弟子であった智泉が亡くなった時である。智泉は、空海が最も信頼していた愛弟子で、空海に随い、高野山の寺院造営に携った後、住んでいた草庵の東南院で延暦8年(789年)に病没したと伝えられている。その時の空海は52歳、智泉はまだ37歳の若さであった。その死を悲しんで、空海は『性霊集』巻八に「亡弟子智泉が為の達嚫文」をつぎのように書いて残した。

  哀しい哉 哀しい哉 哀れが中の哀れなり
  悲しい哉 悲しい哉 悲しみが中の悲しみなり
  哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉 
  悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

  悟りを開けば この世の悲しみ驚きは
  すべて迷いの生み出す幻にすぎないことはわかっています
  それでも あなたとの別れには
  涙を流さずにはいられません

 「迷いの生み出す幻」とわかっていても、頬を伝わって流れ出る涙は抑えられない。「哀しい哉、悲しい哉」をこれほどまでに過剰なほど並べて、空海でさえこうして涙を流していたことに、私はむしろ、少しは救われるような思いがする。


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   手塚治虫氏の『火の鳥』をめぐって   (2015.08.17)


 「漫画の神様」といわれた手塚治虫氏(本名:手塚治)は昭和3年(1928年)に大阪で生まれました。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業して医師免許を持っていましたが、医師にはなりませんでした。医学生になっても、授業中もずっと漫画を描いている手塚氏に対して、教授から「手塚君、君はこのまま医者を続けてもろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と言われたこともあったそうです。結局、医学の道は選ばず、戦後日本における漫画の草分け的存在として活躍するようになりました。アニメーション監督としてもよく知られています。

 手塚氏は、太平洋戦争中、大阪に住んでいたころ、目の前に爆弾が落ちてきたりして、何度か死にそうな目にあっているようです。そのような「九死に一生」を得た体験から、生命とか死という問題を強く意識するようになったといいます。その意識が、氏の漫画のなかに伏線として流れていくようになったのも当然であったかもしれません。いま私の手許に、手塚氏が昭和63年に豊中市立第三中学校で講演した時のビデオがあります(NHK「宇宙から生命をみつめて」2015.02.07)。このなかで氏は、代表作『火の鳥』が生まれたいきさつを述べているところがありますが、氏はおよそつぎのように語っています。

 《私は医学生の時に、たまたま担当していた患者さんがガンで亡くなりました。
 患者さんの顔は土気色で痩せこけ、額にしわを寄せ、汗をたらしてひどく苦しんでいました。ところが、その患者さんが死んだとき、ふっと、すごくいい顔になったのです。もう今までの苦しみはすべて忘れ去ったような顔でした。
 いままでの苦しみがなくなって、自然にどこかの世界へ行ってしまったようでした。
 それを見ていて、もしかしたら、私たちが死んだあと、なんか別の世界があるのではないかと思ったのです。
 人間というのは、長いその生命のつながりの中で、ほんの僅かが人間で、その後と前に、もっと長い命の塊みたいなものがあるのではないか、そういう世界があるのではないかという気がしました。
 そういうことから、命とはほんの僅かな50年とか、70年とか、100年のものではなくて、もっとスケールの大きなものと思います。宇宙的なものだと思うようになりました。そういう感じがしてきたので、この漫画(火の鳥)を描くようになったのです・・・・・・・。》

 ガンで苦しんでいた患者さんが死んだ瞬間に「ふっと、すごくいい顔になった」というのは、たいへん意味深い観察であったと思われます。私たちはシルバー・バーチを読んでいますから、こういう観察は私たちなりに理解できますし、生命とは何か、死をどう捉えるべきか、といったような問題についても、あるいは、手塚氏以上にポジティブな受け止め方ができるのではないかと思ったりもします。しかし、漫画というジャンルのなかで、氏がこのライフワークとでもいうべき大作に注ぎ込んだ深い思いは、生と死の真実に迫る強いエネルギーとなって読者のこころを今もゆさぶり続けているのかもしれません。

 この作品は、その血を飲むと永遠の命が手に入るという「永遠に生きる火の鳥」をめぐる物語で、日本の黎明期から始まり、次は日本と人類の終末を描き、過去と未来を交互にストーリーが展開して、その両方が次第に現代に近づいていくという構成になっているようです。この『火の鳥』を読み返した哲学者の梅原猛氏は、「手塚さんは漫画で預言した一種の預言者だ」と評して、「人間は駅伝の走者みたいなもので、命を燃やし尽くして次の世代へバトンタッチしていくものだと思う。人間のなかに永遠があって、それは一種の火の鳥である」というふうに読後の感想を述べていました。手塚氏は、1989年(平成元年)、60歳でご自身も胃ガンで亡くなっています。いまは霊界にあって、この日本のみならず世界中で評価されている『火の鳥』という作品を、氏はどのような思いで振り返っているのでしょうか。


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  「私は誰か」という問いに対して        (2015.09.07)


 私は子供のころより父との心のつながりが強く、もう五十数年前になるが父を肝臓がんで亡くした時には、深く嘆き悲しんだ。父がこの世にいないという喪失感に耐えられず、私は苦しみながら、父は私であると思い込もうとした。「父は私である。私は父である」と思い込むことによって私のなかに生きている父を感じとり、少しでも苦しみから逃れようとしていた。当時の私は、悲しみを乗り越えるための便法としてそう思い込もうとしたのだが、後に私は期せずしてこれがひとつの「真理」であることを理解するようになる。「折々の言葉」でも引用したベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン師も、「あなたの先祖はみなあなたの中にいます。あなたの細胞ひとつひとつの中に生きています」と言った。しかし、いのちの繋がりはそれだけではない。

 『歎異抄』の第五段には、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」ということばがある。つまり、父母というのは自分の父母だけが父母なのではない。生きとし生けるものは、みんないつかの世で父母であり兄弟であった。だから、念仏をとなえる場合にも現世の自分の父母に対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、というのである。ここでは、「私は父である」以上に、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」といい方が私にとっては目が覚めるように新鮮であった。結局、私といういのちは一人だけのものではない。人類みな兄弟といわれるように、いのちはみんな繋がっていて、私は大きな一つのいのちの中の一部なのである。ティク・ナット・ハン師には次のような喩えもある。(NHK「こころの時代」2015.05.07)

 「私はだれでしょう」と、海の表面の波が自分に問いかけています。
 波に自分に立ち返る十分な時間があれば、波は「自分が海だ」と知ることができます。
 波は波ですが、同時に海でもあります。波はそのひとつの波であるばかりでなく、他の波でもある。そして他の波とつながっていて、相互に共存していることがわかります。

 そして、さらに、こうも言った。

 あなたは独立した存在ではありません
 宇宙のすべては深く関わって存在しているのです。
 雲や石ころや星、すべてがこの相互依存という規則から成り立っています。


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    長生きはめでたいことなのか        (2015.10.14)


 日本は世界有数の長寿国であることはよく知られています。昨年度の厚生労働省の調査では、日本人の平均寿命は女性86.83歳、男性80.50歳になり、ともに過去最高を更新していました。女性は3年連続世界一で、男性は前年の4位から3位になったということです。長生きは一般にはめでたいこととされています。これは世界中どこでもそうで、長生きと幸せは、しばしばセットで考えられているといってよいでしょう。しかし、その一方で、日本では、少子高齢化が深刻な社会問題にもなってきました。いま私の手許に、朝日新聞(2015.09.16)の切り抜きがあります。「長生きはめでたいことなのか」という竹田清夫氏(83歳)の8月30日の投書に対して、「どう思いますか」というタイトルで、その読者からの反応をいくつか紹介したものです。まず、その竹田氏の投書を引用してみましょう。後半の一部で、つぎのように述べていました。

 ・・・・・社会の活力の維持には、構成員の適切な新陳代謝が必要です。それより何より、当の高齢者がどんな状態でも長生きしたいと考えているでしょうか。
 私も介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来るかもしれません。その時、そんな状態で生きながらえたくはありません。介護を拒否し、安楽になることを願います。
 しかし、自分で安楽になることはできません。社会が措置してくれることを願います。これは多くの高齢者の願いではないでしょうか・・・・・

 日本が世界有数の長寿国である背景には、日本における充実した医療体制と国民皆保険の制度が考えられます。その延長線のうえで、終末期の医療も、いわば当たり前のように、過剰ともいえる延命治療が行われるようになってきました。これについて、医師の藤倉一郎氏(82歳)は、「統計では存命していれば長寿ということになります。しかし、実際は、医療や介護に頼って生きています。だから医療費や介護費は増大します。延命のために高額な手術が行われ、高度な医療技術も使われています。更に高度な介護を必要とする高齢者をつくっているとしか思えません」といい、「寿命の延長のためだけの医療は制限すべきでしょう」と、提言しています。

 前記の投書に対して、「介護を受けて笑顔で生きて」と題する介護支援専門員の方からの意見も載せられていました。「介護が必要になった方を支える仕組みは、どなたのそばにもあります・・・・あなたの生を支え、あなたが生きることを喜んでくれる専門家がいるはずです。介護が必要になったあなたも、あなた自身です。介護を拒否しないで。介護現場ではみんな、あなたの笑顔が見たくて頑張っています」と述べていますが、これは、投書者の視点からは少しずれているといえるかもしれません。介護の質以前の問題で、投書者は、介護なくして生きておれなくなった場合の人間の尊厳性を第一に考えていると思われるからです。

 投書者のいう「社会が措置」というのは、むずかしい問題ですが、「自ら終末を選べる法律を望む」という意見もありました。そのなかには、つぎのようなことばが綴られています。「自然界で生命あるものは、その摂理によって世代交代をしています。人間だけが、医療技術の発達によって、その摂理に逆らって寿命を延ばしているように思われます。私は自らの意志で死の時期を選択し、安楽に旅立つことを支援する法整備を望みます・・・・・自らの尊厳を保った状態で終末を迎える。これこそ、人間のみが果たせる生命の全うの仕方ではないでしょうか。」 

 この「法整備」で思い出されるのは、アメリカの「オレゴン州尊厳死法」のことです。激しく対立する賛否両論の議論を経て、1997年11月に行われた住民投票の結果、やっと法制化されたこの法律は、アメリカで初めての「医師による自殺幇助容認の法律」でした。オーストラリアでも、これに似た北准州の「終末期患者の権利法」が成立したことはありました。しかしこの権利法は、その後、オーストラリア連邦政府の新しい法律によって葬られてしまっていますので、「オレゴン州尊厳死法」は、現在では、この種の法律としては世界で唯一といえるようです。日本の社会でも、この人間の尊厳死の問題は、これからもいろいろと議論されていくことになると思われますが、投書のような「法整備」を望む声には、私たちは、どのように耳を傾けていけばよいのでしょうか。


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    江戸時代の生まれ変わりの実例           (2015.10.21)


 先週の朝日新聞(2015.10.14)朝刊に、「『生まれ変わり』江戸期の謎追う」という見出しで、大きな記事が載った。「日野で『勝五郎』生誕200年展」というサブタイトルがついていて、「勝五郎生まれ変わり物語探究調査団」の調査結果を展示している、とある。場所は、東京都の「日野市郷土資料館」である。「生まれ変わりをリアルタイムで聞き取ったまれな例。この不思議な物語を伝えていきたい」という調査団の一人のことばとともに、日野市郷土資料館の写真や所在も示されている。生まれ変わりの伝承は各地にたくさん残っているが、この調査団の一人が言っているように、関係者がすべて実在し、生まれ変わりの前後の両親の名前や時間、場所もはっきりしているものは極めて珍しく、貴重な実例といえるであろう。

 勝五郎は、いまからちょうど200年前の文化12年(1815年)10月10日に現在は八王子市東中野になっている中野村の農家に生まれた。父・小谷田源蔵、母・せいの次男であった。数えで8歳のとき、「自分の前世は程久保村(現在・日野市)の藤蔵(とうぞう)で、6歳の時に天然痘で死んだ」と祖母に話し始めた。その時の父親の名前が久兵衛(きゅうべい)で母親がお志津(おしず)であることや、程久保村の家のことも詳しく語ったことから、不思議に思った家族や村人たちが程久保へ行って確めたところ、すべて事実であることが判明したのだという。この話は、瞬く間に江戸に広がり、その調書は幕府にも提出されて、これが、国学者・平田篤胤の『勝五郎再生記聞』(1822年)になった。1897年(明治30年)には、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、この話を基に「勝五郎の転生」を書いたが、これが現在、アメリカのバージニア大学医学部を中心に進められている過去生の研究のきっかけになったと、新聞は伝えている。

 私が毎年、初詣に訪れる日野市の高幡不動尊の境内には、この勝五郎の前世である藤蔵の墓がある。勝五郎はこのあたりでは「程久保小僧」と呼ばれてきた。「ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わりの物語」と書かれた下に大きく「勝五郎の前世 藤蔵の墓」という道標の案内板が立てられているが、現代の社会で、この実話はどの程度まで受け入れられているのであろうか。この藤蔵が天然痘で亡くなったのは、文化4年(1807年)2月4日であることがわかっている。その8年後の文化12年(1815年)に藤蔵は勝五郎になって生まれ変わっているから、この生まれ変わりはわずか8年後ということになる。そして勝五郎は55年を生きて、明治2年(1869年)12月4日に亡くなった。その勝五郎の墓は、八王子内にある曹洞宗の永林寺にある。八王子市の中央大学多摩キャンパスの中には、勝五郎や祖母が歩いたという「勝五郎の道」が当時のまま残されており、その近くには、勝五郎の生家の跡も保存されている。また、勝五郎の前世であった程久保の藤蔵の子孫の家は、今も同じ場所にあるという。


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      NHK解説委員の霊的体験           (2015.11.04)


 NHK解説委員の柳沢秀夫氏は現在62歳ですが、かつて1991年の湾岸戦争で、戦場からリポートし続けたことがありました。ジャーナリストの集会でその話をしたときに、フリージャーナリストの後藤健二氏が出席していてその話を熱心に聞いていたそうです。その後藤健二氏については、今年の2月1日午前5時3分(日本時間)に武装グループISILによって殺害されたとみられる衝撃的な動画がインターネット上に公開されました。

 以下は、「朝日新聞」夕刊(2015.10.14)の「テレビ60年をたどって」という見出しで書かれた記事の一部ですが、今年の2月1日の午前零時すぎに、柳沢秀夫氏は不思議な体験をしました。夢のなかで神仏や、亡くなった家族などが現れて何かを告げることを「夢枕に立つ」といいますが、そのことが柳沢氏にも起こったのです。新聞にはそれがつぎのように書かれています。

 《寝入ってほどなく、風が木を揺らすような音で気がつくと、部屋の隅で男がじーっとこっちを見ている。寝る前に「とにかく生きて帰って」とメールした相手、ジャーナリストの後藤健二だった。「夢枕に立ったんだ。そう思うしかありません」 日曜だが、朝5時にラジオのスイッチを入れたら、後藤がシリアで殺されたらしいといニュースが流れてきた。・・・・》

 たいへん残酷な痛ましい事件でしたが、柳沢秀夫氏は、翌2月2日のテレビ番組「あさイチ」の冒頭で、あえてこの「夢枕」の体験にふれて後藤健二氏のことを語ったのだそうです。「戦争になったり、紛争が起きると、弱い立場の人たちがそれに巻き込まれて、つらい思いをするっていうことを彼は一生懸命伝えようとしていたんじゃないか」と柳沢氏は述べています。

 こういう「夢枕に立つ」という話は、そのことば自体が日本語の中にも定着しているように、特に珍しい現象ではないといえます。たまたま、私が今読んでいる本(司馬遼太郎『歴史と小説』)のなかにも、坂本竜馬の暗殺の時のことが述べられていました。竜馬の死の当時、同伴者であったおりょうは下関の海援隊の宿舎にいたのですが、事件当夜、全身朱に染んで血刀をさげた竜馬の姿が夢に現れたのだそうです。ほどなく竜馬の死を知ることになりました。こういう話は、昔からたくさん伝えられていますが、ただ、それが柳沢氏の場合、NHK解説委員の肩書でこうして朝日新聞にも載り、NHKテレビでも放送されたというのが、少し珍しいといえるかもしれません。


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   夢枕に立った坂本竜馬についての言い伝え     (2015.11.11)


 これは昔から言い伝えられてきたことだが、照憲皇太后の夢枕に坂本竜馬が現れたという話がある。司馬遼太郎『歴史と小説』のなかにも、その話が出てくる。日露国交が断絶したのは、1904年(明治37年)2月6日のことであった。いよいよ大国ロシアを相手に戦争が始まることになって、日本国中に不安が広がっていた。海軍の東郷平八郎はバルチック艦隊を迎え撃つために連合艦隊を率いて佐世保軍港を出港したが、その当時、日本がロシアに勝てるとは誰も思っていなかった。宮中も深い憂慮に沈んでいた。皇后(照憲皇太后)は心配のあまり、ほとんど神経を病んでいたほどであったと伝えられている。その日露国交断絶の日の夜、皇后は不思議な夢を見た。一人の壮年の武士が白装束で皇后の夢枕に立ち、坂本竜馬と名乗ったうえ、「いまは霊界にいるが日本海軍のために尽力するつもりなので、勝敗についてはどうぞご安心ください」という意味のことを述べたのだそうである。

 明治維新の立役者で日本海軍の創設者であったともいえる坂本竜馬も、その頃にはほとんど忘れ去られていた。皇后も「坂本竜馬」という名を知らなかった。そこで翌日の2月7日、皇后宮大夫の香川敬三を呼び出し、坂本竜馬とはどういう人物かと尋ねた。夢を見たのだとは言わなかったらしい。香川は生前の竜馬とは懇意であったから、海援隊の創立者で大政奉還に尽力したことなど竜馬のことを皇后に話した。ところがその夜、皇后の夢枕にまた同じ白装束の武士が現れたので、ついに皇后は香川にその夢のことを打ち明けた。香川は奇妙に思い、宮内大臣の田中光顕に連絡して、竜馬の写真一枚を手に入れそれを皇后に見せたところ、皇后は驚きながら、夢に現れた人物と全く同一であることを確言したという。

 この話は「皇后の奇夢」として東京のすべての新聞に載ったらしい。不安の重圧の中にあった国民の士気は大いに鼓舞された。その後、日露戦争に奇跡的な勝利を得たことで、それまでほとんど忘れ去られていた坂本竜馬の名は再び有名になり、その結果、坂本龍馬の墓前に忠魂碑が立てられるに至った。ただ、この種の「夢枕に立つ」話には、いまも昔も、疑いの目が向けられることが多い。司馬遼太郎氏も霊的な話はあまり信用しない人であったことが多くの著作からも推察できるが、この本でも、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である『恐露病』にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないか」というようなことを書いている。つまり、「皇后の奇夢」は嘘ではないかという疑問を呈している。しかし、公平を期するためであろうか、この話を伝えた宮内大臣の田中光顕が当時の情景を詳しく「証言」し、「あの話は本当だ」と言い続けて、昭和14年、満96歳の長寿で亡くなった、ということも付け加えている。


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   「勝五郎生まれ変わり調査団」 について      (2015.11.18)


 東京都日野市に伝わる「勝五郎の生まれ変わり」については、本欄に「江戸時代の生まれ変わりの実例」(2015.10.21)というタイトルで書いてきました。この「生まれ変わり」は、当事者が実在し、生没年や住んでいた場所、墓所などもはっきり特定できるという点で、世界中に伝わる多くの「生まれ変わり」のなかでも極めて珍しい、貴重な事例です。新聞でも大きく報道されたように、日野市郷土資料館では、「勝五郎生誕200年記念展」も開催されました。この生まれ変わりを研究している調査団があると聞いて、先日、私もその調査団の一人の北村澄江さんに会ってきました。

 調査団は東京都日野市郷土資料館の調査事業として、2006年(平成18年)7月に発足しました。勝五郎の生まれ変わりに関する様々な側面について調査・研究し、生まれ変わり物語の普及・啓蒙事業を行っていますが、生まれ変わりの真偽を問うことは目的とはしていないということです。現在は、この生まれ変わりに関心をもつ20代~80代の人たち60名が調査団のメンバーとなり、毎月一回の例会を開くなどして、「勝五郎生まれ変わり物語」の普及に努めているのだそうです。「生まれ変わり」を紹介したDVD、絵本、リーフレットなども刊行してきて会場にも並べられていました。「生まれ変わり」がもつ意味は重大ですから、このような普及活動にはやはり大きな意義があると思われます。

 当時の八王子市中野村の勝五郎が、自分の前世は日野市程久保村の藤蔵であったと語り始めたのは、1822年(文政5年)11月のことでした。それがすべて事実であったことがわかって、村中で大騒ぎになります。文人大名として名高い池田冠山(松平縫殿頭定常)は、35歳で隠居後、『武蔵名所考』などを編纂するために江戸近郊にも足を運んでいましたが、その彼にも、この生まれ変わりの話が耳に入ったようです。冠山には、勝五郎の前世の藤蔵と同じように、天然痘にかかって6歳で亡くなった愛娘がいました。それだけに勝五郎の話には強く惹かれるものがあったのでしょう。翌年(文政6年)2月頃、冠山は、真偽を確かめるために直接自分で勝五郎の家を訪れました。彼は、勝五郎から聞いた話を『勝五郎再生前世話』として本にまとめ、その著作は、江戸の文人、学者の間でも広く知られるようになったといわれています。

 勝五郎が住んでいた中野村の領主、多門傳八郎(おかどでんはちろう)は江戸に住んでいましたが、ここまで広がった話を放置できなかったのでしょうか、同年(文政6年)4月に勝五郎親子を呼び出して職務上の「取り調べ」を行なっています。多門傳八郎はそれを調書にして幕府に提出しました。それを知った国学者・平田篤胤(1776~1843)は、多門傳八郎宅を訪ねて自分も勝五郎と会わせてくれるように頼みます。平田篤胤もまた妻に先立たれ、後妻との間の二人の子を含めて男の子が4人とも夭折していました。その後、彼は死後の問題にも深い関心を抱くようになり、人の死後、魂はどこへ行くのか、あの世はどこにあるのかを考察して『霊能真柱』(たまのみはしら)なども書いています。

 平田篤胤は勝五郎親子を自分の学舎に招いて、4月22,23,25の3日間にわたって生まれ変わりの話を聞きました。勝五郎は、はじめは話をすることを嫌がっていましたが、篤胤は友人の国学者・伴信友たちといっしょに、勝五郎を遊ばせながら少しずつ話を聞きとっていったといいます。その内容を伴信友が記録し、それを篤胤がまとめたのが『勝五郎再生記聞』です。また、土佐藩出身で、明治天皇の側近として活躍した佐佐木高行の蔵書のなかに『珍説集記』がありました。この本の中にも勝五郎の生まれ変わりの話があります。おそらく篤胤の本を基にして書かれたものでしょう。佐佐木高行の長男・尚美と親しかった雨森信成(あめのもりのぶしげ)がそれを見つけて、知人のラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)にその本のことを教えました。ラフカディオ・ハーン(1850~1904)は、明治30年9月に、アメリカとイギリスで、随筆集『仏の畠の落穂』を刊行しましたが、その中の一編が「勝五郎の転生」(Rebirth of Katsugoro)です。

 私にも生まれ変わりの記録はあります。長年にわたって内外数十人の霊能者から何度もいろいろと霊界からの情報を聞いているうちに、なかには私の生まれ変わりの情報も含まれていて、それらが積もり積もってかなりの量になっています。『天国からの手紙』を出版した時、編集者の一人で霊能者の宇田依里子さんが、そのうちの一部の二十数回分を「付表」として一覧表にまとめくれています。この外にも、私の現世と関係が深いといわれるイギリスでの前世で、名前、生年、出生地、墓の場所などを聞かされたこともあります。イギリスの王立アカデミーの会員であったので、現在でも記録に残っているかもしれないから調べてみるようにと何度か言われたりもしました。しかし、生まれ変わりは厳然たる事実であるとしても、それには人智を超えた霊界の深奥なメカニズムが働いているといわれます。このような生まれ変わりの真偽や情報の精度にこだわるよりもっと大切なことは、やはり、先入観に捉われない素直な気持ちで真摯に霊的真理を学び、私たちは死んでも死なないという生命の真実を理解していくことであろうと思います。「勝五郎の生まれ変わりの記録」なども、そのための一つのアプローチと考えるべきなのかもしれません。


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    事実と真実の間の虚構性      (2016.12.02)


 竹田恒泰『現代語 古事記』(学研、2012)の中で、著者が『古事記』の読み方について書いているくだりがある。よく「天孫降臨は歴史的事実ではない」とか「神武天皇は実在しなかった」という人がいるが、『古事記』は神話であり聖典であるから、事実かどうかという読み方は、読み方としては間違っている、というのである。『古事記』に書かれた記述は「真実」なのであって、「事実」かどうかはさして重要ではない、とも書いている。

 この事実と真実の違いを説明するためには、『聖書』に置き換えて考えると分かりやすい、と著者が例にあげているのが「マリアの処女懐胎」である。「これは生まれてきた子が神の子であることを担保している。もしマリアが処女でなかったなら、生まれてきたイエス・キリストは神の子ではなくなってしまう。マリアの処女性の否定は、キリスト教社会の根底を揺るがす」というのである。そして著者はこう言い切る。「よって、神武天皇は実在しないという主張は、イエスには人間の父親がいたと言うのと同じくらい愚かな主張なのである。マリアの処女懐胎は『真実』なのであって『事実』かどうかはさして重要ではないのだ。『真実』であることは『事実』であることよりも尊い。」

 著者はやみくもに真実を信じさせようとしているが、このような、「真実」であることは「事実」であることよりも尊い、という真実と事実の使い分けは、やはりちょっとわかりにくい。念のために『広辞苑』(第6版)をひくと、「事実」とは「真実の事柄」とある。そうであれば、事実は真実を離れては存在し得ないのではないか。これは、『シルバー・バーチの霊訓』で考えればよくわかる。『霊訓』では、事実と真実との間にこのような虚構性はない。シルバー・バーチは霊界の事実を述べている。だから『霊訓』は真実なのである。私たちは、シルバー・バーチの言っていることが事実であるかどうかは「さして重要ではない」とは決して考えない。事実であることが決定的に重要である。事実であることを十分に踏まえ納得した上で、私たちはその教えを真実として受け容れているのである。


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    忘れがたい親鸞のことば     (2015.12.10)


 親鸞の弟子の唯円が書いたとされる『歎異抄』にはいろいろと教えられてきましたが、その第9条は、いまの私には特に強く胸に響いてきます。そのなかで親鸞はこう言っているのです。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。」 ― この「まことに、よくよく」には、親鸞の溜息のようなものも感じられます。本当に「まことに、よくよく」なのでしょう。第9条のこの部分を現代文に訳すと、つぎのようになると思われます。

 (はるかに遠い昔から今に至るまで、めぐり巡ってきた苦悩のふる里、迷いのこの世は去りたいとはなかなか思えない。それに、まだ生まれてないからといって苦しみも悩みもなく安らかに過ごせるはずの浄土へ行きたいと思えないというのは、本当に、よくよく煩悩が強いからであろう。その煩悩の強さにはわれながらあきれるばかりだ。)

  この第9条は、唯円の疑問から始まっています。「念仏を唱えても飛び立つような歓びが感じられません。それに極楽浄土がそれほどに素晴らしい所であるなら、なぜ早くこの世を去って一日も早く極楽浄土へ行きたいと思えないのでしょうか」と唯円は親鸞に向かって訊ねました。上のことばは、それに対する親鸞の答えの一部です。親鸞は、ここでは、こうも言っています。「実は私もそのことが不思議であった。しかし、よく考えてみれば、喜ぶべきことも喜べなくしているのが私たちの煩悩なのだ。そのような煩悩にまみれた私たち凡夫だからこそ、煩悩具足の凡夫を救うという本願をたてられた阿弥陀如来が、私たちを救ってくださるのは間違いないことと思われるのだ」。


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  ある懐疑論者に起こった衝撃的な出来事    (2015.12.16)


 霊の存在など信用できない、死後の生などあるはずがないと考える懐疑主義者の団体が京都にある。科学者、大学教授、仏教寺院の僧侶などが会員に名を連ねているようである。同じような団体はアメリカにも各地にある。最も大きな懐疑主義団体が三つ知られていて、そのうちのひとつが「スケプティクス・ソサエティ」である。その団体の会長がマイケル・シャーマー氏で、『人はなぜニセ科学を信じるのか』という本などを書き、カリフォルニア工科大学で懐疑主義の講義も主催しているという。そのシャーマー氏に、衝撃的な出来事が起こった。大門正幸氏は『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社、2015)のなかで、その出来事を紹介しているが、それをまとめると、つぎのようになる。

 シャーマー氏は昨年(2014年)6月25日に、ドイツのケルン出身のジェニファー・グラフさんと結婚することになった。父親のいない家庭で育ったグラフさんは、祖父が父親のような存在であったが、その祖父も、彼女が16歳の時に亡くなっていた。彼女はその祖父が使っていたフィリップ社製のトランジスタ・ラジオを形見の品として大切に持っていた。結婚した時、グラフさんはそのラジオを持って来たが、鳴らないので夫君のシャーマー氏に修理してもらおうとした。シャーマー氏は、ハンダがとれていないか確認したり、叩いてみたりしたがうまくいかず、結局、そのラジオは、寝室の奥の引き出しにしまいこまれたままになっていた。

 それから3か月後、二人は正式に結婚の手続きをすませて帰宅し、家族の前で結婚の誓いをして指輪を交換した。友達とも家族とも遠く離れてアメリカへ来ているグラフさんは、せめてこんな時には、祖父がいて新婦を新郎に引き渡す父親の役を演じてくれればいいのにと心の中で思ったという。その時に突然、寝室のほうから音楽が聞こえてきた。寝室にはどこにも音楽が鳴りだすようなものを置いてはいない。しかし、やがてそれは机の引き出しの中にしまっておいた祖父のラヂオからであることが分かった。あの祖父のトランジスタ・ラジオがロマンチックなクラシック音楽を流していたのである。「おじいちゃんが来てくれたんだ」と、グラフさんは涙を流した。これは、その様子を目撃していた夫のシャーマー氏が、「自分の懐疑主義を根底から揺さぶる出来事を目撃した」として、昨年秋に自らのブログで披露した話である。

 私にもこのような不思議な出来事がある。「身辺雑記」No.16(2004.08.16)に、「時の流れが止まっていたかのように」という小文を書いているが、事件後2年ほど経ったある日、潔典の部屋の机の前にぼんやり座っていると、その机の上にぶら下げてあった500円コインくらいのオモチャの時計が急に鳴りだした。驚いてその時計を見ると、文字盤の人形が踊り、メロディーを奏でてそれが15秒ほども続いたのである。メーカーに訊いてみると、この種の時計は、普通は1年くらいで電池が切れてしまうのだそうだが、この時計は、潔典がセットしていた時間に、それから毎日、11年もの間、画面の人形が踊りメロディーを奏で続けた。念のために、引き出しの中にあった潔典のトランジスタ・ラジオのスイッチを入れてみると、これも鳴りだした。こちらのほうも、一度も電池は入れ替えていないのに、その後25年以上も活きた。オモチャの時計については、事件後10年になる1993年の夏、ロンドンでアン・ターナーにそのことを話すと、彼女は「あなたに霊界のことを理解させるために、この時計は十年間鳴り続けてきたが、いまあなたは理解し始めている。それで、まもなく動くのを止めるだろう」と言われたことなども、いま思い出している。


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   ある末期がん患者の僧侶のことばを考える     (2015.12.30)


  陶器で知られる栃木県益子町に1300年近い歴史のある西明寺があります。その住職で、内科医でもある田中雅弘氏のインタビュー記事「いのちのケア」が朝日新聞(2015.12.04)に載っていました。田中氏は1946年生まれといいますから、現在は69歳でしょうか。昨年10月に極めて深刻な膵臓がんが見つかり、手術したのですが、今度は肝臓に転移して、余命わずかなのだそうです。「来年3月の誕生日を迎えられる確率は非常に小さい。もう少しで死ぬという事実を直視しています」と田中氏は述べています。

 僧として、医師として、ずっと死の問題については考えてきたのだから、「自身の死も怖くはないのでは」とインタビューの記者が訊きますと、「そんなことはありません。生きていられるのなら、生きていたいと思いますよ。私には、あの世があるかどうかは分かりません。自分のいのちがなくなるというのは・・・・。やはり苦しみを感じますね。いわば『いのちの苦』です」と、氏は答えています。

 「いのちの苦」とは、医療分野で「スピリチュアルペイン」(spiritual pain)と呼ばれていて、世界保健機関(WHO)でも議論され、生きる意味の喪失や死後への不安などが含まれているようです。その「いのちの苦」について田中氏は、「医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』の専門家が必要です。それが殆どいないのは日本の医療の欠陥だと思います」と語っていました。

 「いのちの苦」の専門家が必要なのは、その通りですが、その専門家は、少なくとも「あの世」があることを知っている人でなければならないと私は思っています。死を目前にして、死んだらどうなるのか、それがわからずに怖れ苦しんでいる人に対して、「あの世」があることを知らない人がどんなことを話して慰めようとしてもあまり説得力を持ちえないのではないでしょうか。田中氏も、ご自身が僧侶でありながら「あの世があるかどうかは分かりません」と言っていますが、これにはやりきれない思いをさせられます。死ぬことに対して、「やはり苦しみを感じますね」と実感をこめて述べているのを、私たちはどのように受け留めていけばいいのか、考えさせられます。

 田中氏はこうも述べています。「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、他人を差別したりするものです。しかし死が避けられないとなったときは、そうしたことから離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。いのちより大事にしたいもの。それは信仰を持たない人にとっても、自身の『宗教』だと思うんですよ。それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」。このように、「いのちを超えた価値を獲得するチャンス」とまで言っていながら、それでも、それが何を言おうとしているのかよくわかりません。田中氏が、「あの世があるかどうかわからず」、「苦しみを感じながら」言っている限り、なにか、それらのことばが虚ろに感じられるのも、もしかしたら、私だけでないかもしれません。

 こんな場合、例えばシルバー・バーチのことば一つにでも接することができていれば、言い方が少しは変わってきて、希望の光が差し込んでくるのではないかと思われるのに、なぜそうはならないのでしょうか。シルバー・バーチの教えについては、世界中でおそらく何百万人の人びとが、少なくともその真理の一端には触れてきました。しかしその一方では、まだまだ圧倒的多数の人びとは、「人は死んでも死なない。いのちは永遠である」という極めて単純な、しかし重大な真理一つをも受け留めることができないでいるというのは、どういうことであろうとつい考えてしまうのです。これも一人一人の人間が持って生まれてきた前世からの因縁なのでしょうか。







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