新制高校で初めての男女共学を体験する (身辺雑記85) = 生かされてきた私のいのち (15)= 3年生の夏休みには、大阪商科大学の主催する3週間の夏季英語講習会に参加した。講師はすべて大学の学生であったが、そのなかに杉本さんという商学部3年生の英語の達人がいた。最初に参加申し込みに行ったとき、能力別のクラス分けをするのに、たまたまこの杉本さんから面接を受けた。杉本さんは「英会話でもっとも大切なことは聴く力です」などと英語で話しかけてきた。私にはすべて理解できた。渡された英語の文章もすらすらと読めた。私は上級のクラスに入れられ、リーディングや英会話の指導を受けた。 英会話は杉本さんの担当だったが、私はいつもその素晴らしい英語表現能力に感嘆させられていた。杉本さんに連れられて、何人かでアメリカ人ばかりのキリスト教関係の集会へ行ったこともある。杉本さんは、アメリカ人の会衆に流暢な英語で私たちが英語の講習会で勉強中であることを述べ、その後は私たちも彼らの中に入り込んでなんとか英語での会話をやりとげたこともある。杉本さんは、その年の秋の全日本英語弁論大会へ出場して、2位を取った。そのタイトルは忘れたが、杉本さんのスピーチ原稿が、「Daily Mainichi」であったか、英字新聞に全文載せられているのをみて私は一生懸命にそれを読んだ。 その大阪商科大学の講習会では、どういうわけか賛美歌を英語で歌うことも学んだ。杉本さんと同級生の池田さんという学生が発音の練習にいいからと言ってリーディングの傍ら教えてくれたのだが、英語で歌うというのが新鮮で楽しく、いまでもそのいくつかを覚えている。 その頃読んだ小説のなかにアンドレ・ジッドの「狭き門」などがあるが、その本の扉にであったか、ヨハネ伝(12-24)の「一粒の麦もし地に落ちて死なずにあらば一つにてあらん。もし死なば、多くの実をむすぶべし」のことばが載っていたのには、なんとなくこころを惹かれた。私は英文の聖書は持っていたので、このことばを英語でも覚えた。ついでにドイツ語の聖書も手に入れて、その部分だけはドイツ語でも言えるようになった。その折に天王寺の百貨店の本屋で『コンサイス独和辞典』を242円で買っている。 その頃は、大阪外国語大学へ英語科別科生として通学するのはもう止めていた。通学に往復4時間近くかかっていたし、留守勝ちの父や病弱の母のことも考えると週3回も夜遅くなるのは控えなければならなかった。それに、私は生野中学の英語部に入っていて、放課後の英会話の勉強などに時間をとられることが多くなっていた。英語部には、上級生に二人ほど、英語を自由に話せる人が居た。毎週一度はアメリカ軍の民生部からパーマーという中年の婦人が講師として私たちを指導してくれていたが、英語の上手な上級生に混じって、私もこのパーマー先生にいつも積極的に話しかけて、英語を話す雰囲気に慣れていった。 秋には、英語部主催で、校内英語弁論大会が開かれ、10人ほどの生徒がスピーチをした。私も「日本の科学教育の憂うべき現状」というもっともらしいタイトルで15分ほど英語でしゃべった。しかし結果は3位で、英語の上手な上級生二人には及ばなかった。審判員は先輩の大学生二人と生野中学の英語の教員のひとりが務めたが、大学生の審判員が流暢に一人ひとりの出場者の英語について講評していたのに、最後の締めくくりの挨拶に立った英語教員の英語は、私からみてもあまり上手ではなかった。私はその後、英語教員というのは、高校でも大学でも、英語をまともに話せない人が決して少なくないことに気がついていくのだが、その事実を知ったのはその時が初めてである。 11月に入ってまもなくの頃、生野中学では恒例の体育測定テストが行われた。午前中の身体検査に続いて、午後は全校で生徒の体力測定が行われるのである。敗戦直後の飢餓状態は少しずつ脱しつつあったとはいえ、まだ食糧不足の深刻さは解消されていたわけではない。食べ盛りの時に食べていないのだから、その頃の中学生の体力はまだ戦前の中学生に比べれば、相当に低下していたのではなかったであろうか。私の記録の一部が残っているが、百メートルが13.6秒、鉄棒の懸垂が13回、走り幅跳びが4.47メートルなどで、これでもクラスではそれぞれに一位であった。運動では、私は柔道部にも属していて、1級であった私は、その頃、他の上級生と二人で講道館の初段昇格試験を受けることになっていた。しかし、この昇段試験は、柔道部長のミスで昇段試験の届書の提出が遅れて受験できなくなってしまうというハプニングがあった。ともあれ、食料不足のなかで、私自身についていえば、かつての栄養失調状態の痕跡は完全に消えていた。 布施市の小さな借家には一年程しか住んでいなかったが、家の財産をほとんど失ったことはやはり家族のみんなに暗い影を落としていた。父は自分の資金は返してもらえず、仕方なく代わりに引き取ったアルミニューム会社の粗悪な鍋や釜を地方で売り捌くために留守をすることが多くなった。母も昔からの胃病で病院通いが続いていた。そんななかで9月のある日、家の玄関の前においてあった自転車が盗まれるという出来事があった。その当時は、自転車というのはまだ貴重な財産であった。父の留守中のことで、長男の私は、家を守れなかった責任のようなものを感じてちょっと辛い思いをした。 その頃は電力不足で、毎日何回か停電があった。昼間の停電はまだいいのだが、夜の、特に夕食時などの停電は気持ちが滅入ってしまう。私は小型の蓄電池を買ってきて、家のなかに電線を張り巡らし、停電の時には蓄電池の電気でなんとか明るさを保てるようにした。通電している時には充電器を使って蓄電池の充電をしておくのである。そういう装置を考えたり作ったりするのは好きであった。停電でも聞ける鉱石ラジオの製作にかなり熱中した記憶もある。当時評判のよかった「鐘の鳴る丘」や「えり子と共に」などのラジオ・ドラマを私は鉱石ラジオで楽しんだ。 世間では食料不足が続いていたが、わが家では特に空腹で苦しんだりすることはなかった。かつての父の部下であった人たちが何人か、この布施の家にも顔を出すようになり、時おり米や野菜などを届けてくれたりしていた。父は部下を大切にしていて人望があったから、大阪から仁川へ赴任する時にも、大正区の伸鉄会社で部下であった人が数人会社を辞めて父と共に仁川の新工場へ赴任している。敗戦で引き揚げた後も、父が大阪でまた事業を起こしたりする時には、また父の下で働きたいと思っていた人も何人かはいたであろう。そういう人たちに対しても何の力になることも出来なかったのは、父としてもさぞ辛かったに違いない。 この布施にいる間によかったことが一つだけある。母の慢性的な胃病で、私はあちらこちらの病院を母と共に訪ねているが、病状はどこへ行っても一向によくなる兆しは見られなかった。そんな時に、私が若江岩田というところにいるというある名医のことをどこからか聞きつけたのである。その名医は漢方医で鍼灸の名人であるという。ほとんど針一つで難病でも治しているという評判であった。しかも治療費は取らない。治療で効き目があれば出口に置かれた献金箱に気持ちだけのお金を入れればいいというのである。「治療費を取らない」というのはよほど自信があるということで、通常の医者のできることではない。12月の半ば過ぎのある晴れた日に、私は母とともにその漢方医を訪れた。 布施から若江岩田へはどのように行ったのかは記憶にない。かなりの田舎で、近くには田圃が広がっていたような気がする。その漢方医の「医院」は、普通の住宅とかわらず看板も出ていなかった。宣伝のようなものも一切していないので、人伝に聞いて来る人だけである。住所と名前だけを頼りにそこへ着いてみると、待合室に使われているような六帖くらいの和室には5、6人の人が順番を待っていた。やがて母が呼ばれてその漢方医の前に座った。 その漢方医は穏やかな感じの老人で、低い静かな声で話す人であった。しばらく母の手の脈をとっていたが、それだけで病状がよくわかったようである。「ずいぶん長い間苦しみましたね」とその漢方医は言った。その後で、体のあちらこちらに何本か針を打った。母はすぐその反応を感じ取っていたらしい。それから二、三度そこへ通っただけで、母の慢性的な胃病は、劇的に回復に向かった。横になって苦しむということはもうなくなった。それから何年もしないうちに、この漢方医は亡くなったのだが、母は、この漢方医のことを終生の恩人として感謝していた。 年が明けて、昭和23年になると、父の資金が無断で注ぎ込まれた布施市のアルミニューム会社は経営が完全に行き詰まって倒産した。それまで弁済の一部として受け取っていた鍋釜類のアルミニューム製品も、もらえなくなった。父の資金が返される可能性はゼロになって、その時点でわが家の資産のほとんどが失われた状態が確定した。3月になって、私たちは布施を離れて生野区の桃谷駅から程近い2階建ての長屋の一軒に引越しをした。引越しをしても、そこで新しい生活の基盤が築かれるわけではない。父はそれまでに鍋釜の販売で歩き回っていた新潟、長野、福島から東京へ軸足を移して、ゼロからの出発を模索していた。 奈良に住んでいた米田君一家は、その頃、東京・世田谷区の三軒茶屋で古本屋を営んでいた米田君の伯父さんを頼って、東京へ移り住んでいた。米田君が、奈良の畝傍中学から東京の都立四中(いまの戸山高校)へ編入学したことを知って、私も真剣に都立四中への転校を考えたことがある。担任の平木先生に相談したら先生は、「家の事情が許せば」という条件つきで賛成してくださった。父は、「お前が東京へ行くなら毎月5千円の仕送りをする」と言ってくれたが、その頃の5千円は大金であった。小学校教員の初任給が2千円ほどで、東京の本郷あたりの三食付下宿代も千五百円で十分であった。父が私のためには金銭を惜しまないのはよくわかっていたが、没落したわが家で父が悪戦苦闘しているのに、金銭的な負担をかけるようなことは、やはりどうしてもできない。悩んだ末に、私は好きではなかったが生野高校へ行くことに決めようとしていた。しかし、私が尊敬し慕っていた平木先生が勝山高校への配属が決まったと聞いて、私も勝山高校に行くことに変えた。 3月15日には生野中学の最後の終業式があった。旧制の3年生の修了は、新制中学の卒業にも当たるということで、終業式は卒業式を兼ねて行われた。私は学年末試験の成績では1番であったから、卒業生を代表して卒業証書を受け取った。しかし一番で卒業しても高揚感はなかった。誇らしいとも思わなかった。いままで2年も遅れてきて、将来の進学の夢も描けず、こんなところで埋もれてしまうのかという諦めのような冷めた心境であった。 私はこのあと、生まれて初めての東京へ一人で出かけている。米田君の家へ行き、二人で都立四中も訪れてみた。その後三日間、荻窪駅に近い父の親しい友人の家に泊めてもらったが、ここでは腹をこわしてほとんど何も食べずに寝てばかりしただけで、やっとのことで大阪へ帰った。自宅に着いてからも私は四、五日寝込んだ。家が没落して、東京の少しはレベルの高い高校へも行きたいと思っても行けそうになく、女子生徒といっしょの勝山高校へ行くことになったのが何か惨めなような気がして、いささか情緒不安定になっていたかもしれない。 勝山高校での新学期は、4月中旬になってもまだ始まらなかった。女学校であったところへ私たち男子生徒が入っていくというので、先生方も勝手がわからず、準備も大変であったようである。その頃、新潟に滞在していた父が急病という知らせが届いた。私はすぐ支度して一人で新潟へ出発した。母も同行すると言い張ったが、まだ列車事情は極端に悪かった。切符を手に入れることができても車内で座れるかどうかもわからない状態では、長年の胃病から解放されたばかりで体の弱い母では無理である。私は大阪から新潟への初めてのコースを一日がかりで辿って、翌日の午後、父の泊まっていた亀田駅前の旅館に着いた。父は思ったより元気であった。風邪をこじらせて肺炎になったのだが、近くの亀田医院の医師が毎日往診に来てくれて、一週間ほどで起き上がれるようになった。私は10日間父と過ごして、大阪へ帰った。 勝山高校では新学期の行事が始まって何日か経っていたはずであった。私は平木先生のご自宅へお伺いして、学校の様子を教えていただいた。授業らしい授業はなく、男子生徒と女子生徒とがスムーズに付き合えるように、毎日のように男女生徒の交流のための行事が続けられていたようである。この日本では始めての高校男女共学を指導するために、当時の占領軍であった米軍の民生部あたりからも教員経験者などが派遣されていた。私はこの勝山高校に4月30日に初めて登校した。 もともと女学校であったところで女子生徒と男子生徒が混ざり合っているのだから、強烈な印象であった。私ははじめの何日かを休んだせいで、さっぱり様子がわからなかった。いっしょに勝山高校へ移った中山、加茂君ら何人かの友人たちに助けられながら、その「異様な」雰囲気に馴染んでいくのに一生懸命であった。私が登校したその日は、男女交流のための音楽会が行われた。音楽会といっても、女子生徒がコーラスで歌を歌い、そのあと男子生徒もコーラスを返すといったような趣向である。 その会場で、私は英語のS教諭から男子生徒を代表してスピーチをするように言われた。それも英語でやれというのである。私は気が進まなかったが、大勢の男女生徒を前にして、仕方なく英語でしゃべった。日本も民主主義になってこのように男女共学が実現したが、男性である私たちは、これからはレディー・ファーストも学んでいかねばならない、というようなことを述べた。「レディー・ファースト」などということばは日本ではまだ馴染みが薄かった。私もまだよくわかっていないことを受け売りで言っていたのだから、聞いている生徒たちもよくわからなかったに違いない。拍手だけは盛大であったが、私は虚しい気持ちにさせられていた。 (2012.12.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 一年ぶりに家族との再会を果たして (身辺雑記84) = 生かされてきた私のいのち (14)= 1947年(昭和22年)の正月には汽車で天王寺まで出て、加茂君といっしょに新世界で映画を見た。その頃は、娯楽といえば映画ぐらいであったから、正月には映画館も満員であった。私はアメリカ映画を見るのが好きで、映画のなかの英語の台詞が少しでもわかると嬉しかった。「キューリー夫人」の映画など、2度も3度も繰り返して見て、いくつかの台詞を真似してしゃべったりしていた。映画館の入場料は6円くらいであったと思う。しかし、戦後の混乱状態の中でその当時は激しいインフレが続いていて、この入場料も、3月には10円、9月には20円と上がっていた。物価の上昇はもちろん映画館だけではなく、身のまわりのほとんどすべてに及んでいた。 その頃、白米は1升53銭という基準価格はあったが、これは名目だけで、それで配給されたりその価格で買えるわけではない。もしこれを闇市場で手に入れようとすれば、1升70円、それも7月には100円、11月には150円と値上がりが続いていた。前年の1946年1月に日曜、祝日に限り一人1箱という制約つきで新発売されたばかりの煙草の「ピース」は、10本入りで7円であったが、その年、1947年の1月には20円、4月にはもう30円になっていた。私はもちろん煙草は吸わないが、日曜日にはいつも煙草好きの八尾のおばさんに買いに行かされ煙草屋の前に並んでいたので、この値上がりのことはよく覚えている。このピースは、11月にはさらに50円に値上げされている。1年経たないうちに2倍半にもなったのである。 米田君たちは、前年の暮れに東住吉区桑津町の家から、奈良の親戚の家へ一家で移っていた。その家には離れの部屋が二部屋あって、そこに家族5人で住むようになった。お父さんの就職口があったわけではない。しかし、食糧事情が厳しい大阪にあのまま住み続けていくことは出来ないと判断したのであろう。大阪にくらべれば奈良はまだ田舎で、配給以外の食料もいくらかは安く手に入れられると米田君のお母さんは言っていた。米田君も、転入学した畝傍中学が20分ほど歩いて通える距離にあって、田舎の新しい環境が気に入っていたようである。兄さんの幸太郎さんは、大阪の薬学専門学校へ通っていたので汽車通学をするようになった。弟の卓志君も、近くの小学校へ編入学した。 私は、米田君の家に毎日、昼弁当を届けることもなくなって、ご飯のつまった昼弁当を学校で食べるようになった。都会では、米というのは闇市でしか手に入らなかったから、お米のご飯というのはかなり贅沢であった。それに、法的に認められていないものを食べているという良心のいささかの呵責もつきまとったはずである。私自身は、八尾へ移ってからは空腹感で苦しむようなことはなくなったが、しかし、金さえ出せば闇で買えないことはないというだけで、一般庶民の食糧事情が改善されて楽であったわけでは決してない。 これは、もう少し経ってからのことだが、この年の10月には、山口良忠判事が、正規の配給食糧以外のヤミ買いを買うのを拒否し続けたことで、栄養失調になり死亡している。「法の番人が法を破ることはできない」と言っていたらしい。このことは、当時の大きなニュースになった。配給だけでは生きていけないということを如実に示す結果になって、社会には暗いムードが漂っていた。マッカーサーの連合軍総司令部もさすがに放置しておけなかったのであろう。この頃、とりあえず学校給食用として、脱脂粉乳1万2千トンを放出している。 人々が探し求めていたのは、日々の食料だけではなかった。焼け野原が広がる日本で、社会の価値体系が崩壊し、虚無感や絶望感に打ちひしがれながらも、なんとかそこから抜け出ようとしていた。並木路子の「りんごの歌」が大流行していたのも、そのような社会の雰囲気が背景にある。その年の雑誌「新潮」4月号では、作家の坂口安吾が「堕落論」を発表して大きな反響を呼んだ。坂口は、堕ちるところまで堕ち、ありのままの自分に立ち返って生きよ、と説いた。そして、それを反語的に「堕落」と名づけて、次のように書いた。 《戦争がどんなにすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。これを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う近道はない・・・・・・》 その年の生野中学の学年末試験は3月5日に始まったが、試験期間中に、父からの手紙が郵便で届いた。父の会社関係の人で、仁川と大阪をたびたび往復している人がいて、それまでも何度か手紙や小包を受け取っていたが、手紙が郵便で直接届けられたのは初めてであった。郵便の戦後の混乱状態も少しずつ収まっていたのかもしれない。会社の引継ぎも技術指導もすべて終わって、近いうちに引き揚げてくるという。船を1隻チャーターして、私の残してきた参考書類も運んできてくれるらしい。飛び上がるような嬉しさであった。私が父に連れられて仁川を出てから2月4日で1年になるが、ほぼ予定通りの引き揚げになる。そして、3月17日の昼頃、すでに嫁いでそれぞれの家族と東京へ引き揚げていた姉二人を除いて、父と母、妹の秋江と静子、弟の耕治の5人家族がついに八尾のおばさんの家に現われた。 私は、しばらく胸がいっぱいになって、ことばが出なかった。慢性的な胃病を抱えている母がいつも心配であったが、とにかく元気そうなので安心した。母も私を見て涙を流した。夕方には、三輪トラックで仁川から持ってきた荷物も、私の集めていた沢山の参考書類と共に届けられた。その時の私の本のなかには、小学校5年生の時に誕生日記念に仁川の本屋で買ったあの三省堂英和大辞典も含まれていて、この辞典は、70年近くを経た今も私の書棚にある。 父は、その翌日から精力的に動きまわって、T工業の親会社を訪ね、岡山まで足を伸ばして、元専務の杉山さんに会いに行ったりした。それが一通り終わると、とりあえず、家族みんなで住む家を捜さなければならなかった。そしてやっと生野区に隣接する布施市に小さな借家を見つけて4月12日の土曜日に引越しをした。部屋は6畳2部屋と4.5畳の台所だけであったが、父はあくまでも臨時のつもりであったようである。その場所は、かつての生野区の父の鉄工場からも、歩いても25分くらいであった。生野中学へは1時間位で歩いて行けないことはなかったが、私は布施駅から電車で通学するようになった。妹二人と弟は、家から近い小学校へ転入学した。 当時、私の家は資産があるほうだったから、すぐにでも大きな家に移れないはずはなかったのに、このような小さな借家に落ち着いたのには、実は、深刻な理由があった。父は、T工業の親会社の強い要請を受けて、生野区で創業したばかりの自分の工場を閉鎖して仁川へ赴任したのだが、5年で敗戦を迎えてからは、また大阪に引き揚げて、自分の会社を再建することを考えていた。仁川では赴任時の特別の事情もあって、朝鮮では最高の、総督と同じレベルの給与を受けていたから、仁川の家や宅地は放棄せざるをえなかったにしても、大阪で新しく事業を拓くための資金を父は残していたはずである。問題は、敗戦で銀行送金なども出来なくなっていたので、その資金をどのようにして大阪へ移すかということであった。 戦後の一種の無政府状態はしばらく続いていて、闇の銀行ルートや朝鮮海峡を往来するブローカーは少なくなかったようだが、あまり信用できない。それで父は、大阪時代からの古い友人のM氏に、何度かに分けて資金を大阪へ運んでもらっていたのである。資金の総額がどれくらいであったかは知らないが、すべて無事に大阪へ着いていたらしい。しかし、激しいインフレのなかで、資金が目減りするのを怖れ、あるいは、逆にインフレの波に乗って利益を上げようとして、M氏はつい父に無断で、父の資金を或る新設のアルミニューム会社の運営に一時的に投資してしまっていたのである。 モノがなく何でも作れば売れる時代であったから、そのアルミニューム会社の作る鍋や釜も大いに売れるはずであった。しかし、その会社の製造技術が低く、製品は肉厚の粗悪品ばかりであったので、思ったようには売れなかった。会社の経営は忽ち行き詰ってしまったらしい。父が引き揚げてきた時には、その会社に投資された資金の殆どは回収不能になっていた。M氏はひたすらに詫び続けたが、いまさらどうすることも出来ない。父は大きなショックを受けていた。会社再興の夢どころか、それからの生活費のことも心配しなければならなくなったのである。 不運といえば不運であるが、これは大きな誤算であった。父は生活費に当てるために、仕方なく大量の粗悪品の鍋を引き取って、それらを新潟や福島へ送り、自分で売ってまわるはめになった。大変な苦労であったと思うが、父は黙って耐えていたようである。母もショックを受けていた。父のことを心配して、不本意な販売活動をしなければならなくなったことを嘆いていた。もともと母は欲がなく、金銭についての執着は決して強くはない。世の中には、金銭のことで争ったり悩んだりすることが少なくはないが、そんな話を聞くと、母はよく「なんでそんなにカネをほしがるのだろうね」などと言っていた。しかし、一挙にわが家の資産の殆どが消えてしまっては、心穏やかにおられるはずもない。 ちょっと沈んだ雰囲気のなかで、4月に入って、私は布施市のこの小さな借家から通学するようになった。家族みんなでまた一緒に住めるようになったのは、何より有難かったが、それまでになかった心配も抱えるようになった。私は長男であるから、その頃から、家の将来についても無関心ではいられなくなったように思う。4月14日の私の日記には、「お母さんが今日は大分元気なようでうれしい。世は春の真っ盛り。のんびりと眠たくなるような日が続いている。桜も満開である。学校の行き帰りに満開の桜を見ているうちに、嫌のことはみんな忘れて、みんなで花見にでも出かけられたらどんなに楽しいであろう」などと書かれている。 生野中学では、私は3年生になった。これはもちろん旧制中学校の3年であるが、この頃から、教育制度は、従来の旧制に代わって新制度の6・3・3制に移行することが伝えられ、何度か説明を受けるようになった。アメリカの制度を取り入れた目新しい改革で、新制度では、すべて男女共学になるともいう。私たちの場合は、その年の学年が終われば、新制中学の3年生として卒業することも可能で、進級するのであれば、全員が新制高校の1年生ということになるらしい。従来では、高等学校といえばごく少数の中学卒業生が進めるエリート・コースであったから、この希望者全員が高等学校に入れるというのは、非常に新鮮に響いた。 具体的には、翌年の昭和23年度からは生野中学校は生野高等学校になり、近くの生野高等女学校は勝山高等学校になる。そして、両校の一年生は半分ずつ、生野から勝山へ、勝山から生野へと移って、男女共学の生野高等学校と勝山高等学校になるというのである。それまで、「男女7歳にして席を同じうせず」といわれ続けてきた私たちには、これは大変な変わりようであった。旧制でも小学校では、男女共学のクラスがあるにはあったが、それもすべてではない。私自身は、小学校以来、男女共学のクラスを経験したことは一度もなかった。 私たちは、夏休みに入る前頃からどちらの高等学校へ進むか、真剣に検討を迫られるようになったが、私は級長をしていたせいか、何人かのクラスメイトにその選択についてよく相談を受けた。仁川時代からの友人である加茂君もそうだが、いつも親しく付き合っていた中山正暉君は、私が選んだほうを彼も選ぶと言っていた。中山君のお母さんは、戦後始めての女性閣僚として厚生大臣を務めた中山マサさんで、私も彼の家で衆議院議員の時のマサさんに何度か会っている。彼も後に中央大学を出てからは、マサさんの議員秘書を務め、彼自身も、竹下登内閣で郵政大臣として初入閣している。しかし、その当時、まだやんちゃで子供じみていた彼から相談を受けても、どちらの高校を選ぶか、私も見当をつけられないでいた。 私は、2年も遅れているという劣等感がいつも頭にあって、生野中学に在学していることに誇りを持ってはいなかった。授業で満足できることも少なかった。それが、さらにその翌年から、男女共学の高校になると伝えられて、教育レベルがさらに低下するのではないかといういわれのない危惧をも抱いていた。聞いてみると、東京ではまだ、新制高校の男女共学は実施されないのだという。私はレベルの高い学校に憧れていたが、その頃はまだ東京へ行くことを決めていたわけではない。父が困難な状況におかれて苦闘しているなかで、そんなことを言える場合でもなかった。ただ、漠然と、大阪より東京の高校の方がいいな、と思うようになっていた。 (2012.10.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 焼け跡が広がる大阪で空腹に耐える (身辺雑記83) = 生かされてきた私のいのち (13)= 父のほうの親戚で、Fという寡婦が郊外の八尾市に住んでいた。戦前から夫君とともにボルネオに渡って雑貨商を営んでいたが、戦争が激化する前に夫君の病死で日本へ引き揚げ、当時小学生の息子と二人で夫君の残した遺産で食いつないでいた。大阪市内とは違って、八尾の家のまわりにはまだ田んぼや畑が広がっていた。6月のはじめ、私は米田君をつれて、空腹をかかえながら、その親戚の家を尋ねた。天王寺駅からは関西本線で、八尾までは20分ほどの距離である。 私はその寡婦を「おばさん」と呼んでいたが、おばさんは、私と米田君を歓迎して、たいへんなご馳走を用意してくれた。まず、真っ白いご飯が出た。私も米田君も、白米のご飯を前にしたのは、もう何か月ぶりかであった。牛肉のほかに、鯖かなにか、焼き魚も出された。白菜の漬物も味噌汁も食卓に並べられた。当時の大阪では、いわゆる「闇」でしか手に入らないものばかりである。おばさんは、栄養失調症で青白い顔をしている私と米田君に、「さあさあ、たくさん食べてください」と言った。 私は目を見張ってしばらく真っ白いご飯を見つめていた。そして、おそるおそる、その一口を箸でつまんで、口へ運んだ。噛むと、ご飯のなんともいえない甘いような香りが、ぱーと口いっぱいに広がる。私はまた、ご飯だけを口に運んだ。肉や魚を食べれば、折角のそのご飯の美味しさが、消えてしまうような気がしていた。二口、三口、ご飯だけを噛んでいるうちに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。私はその時のご飯の美味しさを、いまも忘れることが出来ない。それから数十年を経ても、いまだにご飯は一粒残さず食べるのも、一粒残さず食べるためにご飯の量が多すぎれば食べる前に必ず減らしてもらうのも、そのとき以来の私の習慣である。 私も米田君も、その時のご馳走を、ゆっくりと、ただ黙って食べ続けた。食べることだけに一心になっていた。世の中にこれほどまでにうまいものがあるのだろうか、という思いであった。ただただ有難かった。その時の、強烈な衝撃に近い体験は、私には長く尾を引いて残った。ずっと後になって、私は、国内でも、外国でも、いわゆる「グルメ」たちがいう美食にも何度か接するようになったが、あの時の白いご飯ほど美味しいと思えたことはない。美食の体験を云々するグルメたちを、うらやましいと思うことも、いまでもほとんど、ない。 八尾のおばさんは、父がいざという場合には頼っていくようにといわれた一軒であったが、それから暫くして、私は、思い切って、その八尾のおばさんの家に移ることにした。私が栄養失調症で倒れてしまっては両親に申し訳ないし、寄宿している米田君一家の負担を少しでも和らげたいという思いからである。おばさんには、昭君という小学生の子がいるだけだし、2階の部屋も一つ空いていた。私は、八尾に住むようになって、それからは、汽車通学生として学校へ通うようになった。 ただ、汽車は、大阪市内の省線電車などと違って発着の本数が少ない。7時半から8時くらいの通勤時間帯の混雑は特に激しかった。八尾駅では、客車の通常の乗降口からは乗車できないことが多く、そんな時は、客車の窓から出入りした。それでも乗れない場合は、機関車の後部の石炭置き場の上によじ登った。機関車の一番前には、車庫に入る場合などに手旗で誘導する信号手がつかまる鉄の棒がついている。私は一度、その棒にしがみついて天王寺まで行ったこともある。機関車が走り出すと、その先頭部分は振動が激しくて、さすがに少し恐ろしい気がした。それでも駅員たちからは制止されることもなかったが、いまでは考えられない体験である。やがて私は、一時間ほど早めに家を出て、少し楽に客車に乗り込むことを覚えていった。 おばさんの家では、どこでどう手に入れてくるのか、毎日、白いご飯を炊いていた。私が学校へ行くのに、白いご飯をつめた弁当も持たせてくれた。私は、その白米の弁当を自分では食べなかった。汽車で天王寺駅に着いて、生野中学へ向かう前に、それまで同居させてもらっていた米田君の家に寄り、その弁当を米田君のお母さんに渡して、みんなで食べてもらっていた。私は、中身が空の弁当箱をもって登校し、毎日、昼ごはんは抜かしていた。 ご飯を食べるようになって、私の栄養失調症はみるみる回復していったが、空腹感はなくならなかった。むしろ、米田君の家で栄養失調症になるくらいに飢えていた時よりも、空腹を感じることが多かったかもしれない。ほとんど食べるものも食べず、やせ衰えて栄養失調症になれば、空腹感というのは、むしろ感じにくくなる。ただ、体全体がだるく、歩くのも「しんどい」し、力が抜け落ちてしまうだけである。しかし、ご飯を食べ始めて、体力が徐々に回復していくと、やたらに食べたいという空腹感がつのった。それに、私は、毎日の昼ごはんを米田君のところへ届けて、昼食抜きであったから、夕食の時間が待ちきれないような思いであった。 私は、おばさんには、お昼弁当は食べていないことを告げなかった。本当は、夕食のご飯を2回お代わりして、茶碗3杯のご飯を食べたかったのだが、私は茶碗2杯以上は食べなかった。さもしいと思われたくなかったからである。毎日、白いご飯を食べているからといって、お米は極めて貴重であったから、おばさんも私の食べ具合に関心をもたないはずはなかった。おばさんは、米田君のお母さんのように、よく出来た人ではない。教養もなかった。一応、私を大切に扱ってくれてはいたが、おそらくそれは、いずれ私の父から、充分な謝礼を得られることをあてにしていたからである。私も、父が相応の謝礼をすることを知っていたからこそ、遠慮なく、八尾へ移ることにしたのである。子どもというのはおそらく大人が考える以上に直感が働き、敏感である。私も、自分に対するおばさんの「親切」が、そのような「計算」に基づいていることくらいは、すぐに見抜いていた。 八尾へ移ってまもなく、私は、それまで講習会で通っていた大阪外国語学校の、別科(夜間部)中等部A組に正式に入学した。八尾から十三の大阪外国語学校まで、一時間半近くかかったと思うが、私は、生野中学の放課後、週三回、大阪外国語学校へは休まずに通い続けた。生野中学では物足りない英語の授業も、私は大阪外国語学校の厳しい授業では満ち足りていた。 英語はその頃、一種のブームになっていた。「カム・カム・エヴリボディ」のテーマソングで大人気であった平川唯一氏の「英会話」がNHKのラジオ放送で全国に流され、書店では、装丁も紙質も悪いが、英会話の本だけがやたらに目についた。昨日までは敵性言語で、電車のなかで英字新聞を読めば非国民と罵倒されていた風潮は一変して、誰もが、片言の英語でもしゃべれるようになりたいと思うようになっていた。 その頃の日本では、多くの人々が、アメリカに対する強い羨望と憧れを持っていたような気がする。たまに焼け跡の広場に建てられたバラック建ての映画館に入ると、時々、停電したりしながらも、夢のように豊かなアメリカ生活を画面に映し出していた。日本では、特に大阪のような大都会では、大勢の住民たちが餓死寸前の飢餓状態にあったのに、映画の画面に見るアメリカは、家庭の主婦や高校生でも大型の乗用車を乗りまわし、パーティーでは、私たちには決して手が届かなかったご馳走を、ふんだんに食べたり飲んだりしていた。 私は、そのようなアメリカ人の生活ぶりを、その当時、生野中学の図書館にも置かれるようになった「リーダーズ・ダイジェスト」の日本語版などによっても、いろいろと知るようになっていた。クラスの中でも、「アメリカでは水道の蛇口をひねればいくらでも牛乳がでるそうだ」などと言う者がいたが、私は「いくらアメリカでも、まさか・・・」と信じられなかった。しかし、はからずも、それから10年余りを経て、私自身がその夢のようなアメリカへ留学生として行った時、かつてのそのことばを思い出し、それがあながち、的外れでもないことを思い知らされた。 留学の時の最初の夏を過ごしたカリフォルニア大学のバークレー校で、寄宿舎の食堂では、牛乳、オレンジジュースなどは、飲み放題であった。容器の下へコップをもっていってバーを押せば、いくらでも好きなだけ飲める。いまでは、日本でも、レストランやホテルなど、どこでも見られるようになって珍しくはなくなったが、あの容器の下にグラスを置いてバーを押せば、牛乳やジュースがいくらでも出てくるのを、あの当時、「アメリカでは水道の蛇口さえひねれば、いくらでも牛乳がでてくる」と言っていたのであろう。 7月1日、生野中学の期末試験が始まり、7月20日には終業式があって、夏休みに入った。終業式にもらった通知表の記録が残っているが、期末試験の総点1,183点、平均、91.3点。2学年全体 317人中、席次は2番と書かれている。これは、その後、「生物」の採点が間違っていたことがわかり、5点上がって、総点1,188点で、席次は1番に訂正された。しかし、私はうれしいとは思わなかった。それまでに、全く無能な小学校6年の担任と仁川からの引き揚げで2学年も屈辱の「落第」をさせられていたのだから、そのことに対する根強い劣等感があった。私は、もともと、2年生なのではないのだ、という強い自尊心のようなものもあった。 夏休みには、私は毎日のように、汽車で天王寺へ行き、そこから地下鉄に乗り換えて北区の中の島公園にある府立図書館に通った。ここで、夏休みの宿題の一つであった、英和辞書と和英辞書の作成をした。教科書の習ったところまでの単語について辞書を作るというのが課題であったが、それならば数ページずつですむ。私は、教科書全体の単語について、それぞれノート一冊ずつを用意して、英和と和英の詳しい辞書を作った。私はそういう仕事が好きであったかもしれない。自分ながら、なかなかの出来栄えであると、ひそかに満足していた。 サツマイモの買出しに出かけたこともある。八尾のおばさんにすすめられて、彼女の機嫌を損ねたくないので、仕方なく私は、近所のおばさんたちに連れていってもらった。おばさんたちは大阪弁で、中学生の私が傍にいるのに、平気で露骨に卑猥な話をして笑いあったりしていた。どこへ行ったのかは覚えていない。袋にいっぱいのサツマイモを手に入れて帰りの汽車に乗り込んだが、そこで、警察の「臨検」に出くわした。しかし、少数の警官だけでは、とても何百人という買出し客を取り調べることは出来ない。一部の人たちが捕まって、なかには、サツマイモの入った袋を車内にぶちまけて、わっと泣き出したりした人もいた。私は、なんとかすり抜けて、サツマイモを持ち帰ることが出来たが、これはいやな思い出である。 夏休みが終わってまもなく、学校で、クラスメイトの坂本君が肺炎にかかっていると聞かされた。坂本君はおとなしい温厚な性格で、ひょろ長い足が印象的であった。生駒山に近い信貴山から通っていたと思うが、私は級長であったので、彼の長引く欠席を気にしていた。栄養不足の抵抗力の弱い体では、肺炎は危ない。担任の平木先生とも相談して、見舞いに行く話をしていたら、まもなく、坂本君死亡の知らせが入った。平木先生は、私と副級長の中村君をつれて、信貴山の坂本君の家へ弔問に行った。私が、クラスメイトの死に直面したのは、生野小学校の時の野下君、仁川の旭小学校の時の井上君に次いで、これで3人目である。 信貴山の坂本君の家は、立派な門構えで、広い緑の庭園をもった和風の邸宅であった。門には、「医 坂本」と大きな墨字で表札がかかっていたのを覚えている。坂本君のお父さんは、内科医であったが、一生懸命に手を尽くして治療しても及ばなかった、と肩を落としていた。まだ若くみえる美しいお母さんは、座敷から覗ける庭の大きな松の木を指差しながら、「あの子はよくあの木に登っていたんですよ」と言って泣いた。私と中村君は、平木先生のそばで、お父さんとお母さんの話す坂本君の思い出話をうなだれながら聞き、仏壇に飾られた坂本君の遺影のまえにお線香を捧げた。 その年の11月1日には、それまでの主食の配給が3勺ほど上がって、2合5勺になった。しかし、それで飢えが改善されたわけではない。主食といっても、イモ粉やトウモロコシ粉などがほとんどで、それをパンにするために、多くの家庭では簡単な構造の電気パン焼き器が必需品になっていた。戦前にはふんだんにあったうどん屋もそば屋も、繁華街のレストランなども、営業できる状態ではなく、軒並みに閉鎖されていた。旅館などに泊まっても、主食の配給と引き換えに発行してもらう外食券を提示しなければ食事は出してもらえなかった。まだまだ、飢餓状態は深刻であった。その当時、学校への行き帰りに、寺田町の駅付近で、或いは、天王寺公園のなかで、行き倒れになって餓死している人を私は見たことがある。 そんななかで、11月3日、新憲法が公布された。それまでも、かつての学校での宮城遥拝や天皇陛下万歳などを三唱することは、もうなくなっていたが、翌年5月3日からの新憲法の施行以降は、文部省も天皇神格化の表現の廃止を各学校に通達した。帝国大学の名称も消えて、日本は主権在民の民主主義の道を歩み始めることになった。日本国民の統合の象徴とされた天皇は、マッカーサー司令部の了解の下に、日本各地を巡幸して、国民との接近を印象づけるようになった。私が空腹のなかで迎えた日本の民主主義の始まりである。 11月中旬、規模の大きさでは大阪一といわれていた生野中学の秋季運動会があった。私は、相撲と柔道は強かったし、運動は、走っても泳いでも鉄棒でも、なんでも自信があったが、夏休み前のクラス対抗の水泳大会にうっかり出場して、惨敗を喫したことがある。仁川中学以来のクラスメイトで私をよく知っている加茂君が、私が水泳の達人だとか何とか大げさに吹聴したのを真にうけた級友たちにおだてられて、私も二つ返事でクラス代表選手を引き受けた。私は小学校以来、運動競技には出れば勝つものと思い続けていたから、ちょっと泳げばいいのだろう、という軽い気持ちであった。しかし、その時はそうはならなかった。自分の体の栄養失調状態のことをうっかり忘れていた。一度の練習をすることもなく、対抗試合の日になってプールに飛び込んだまではいいのだが、クロールで泳ぎだしたら、体が鉛のように重く沈み込んでまるで力が入らず、前に進まないのである。私は泣きながら泳いで、ビリでゴール・インした。その苦い経験があってから約3か月後に迎えたのが、秋季運動会である。八尾に移って白米を食べるようになったお陰で、私の体力はかなり回復していた。その運動会では、私は、100メートル、200メートル、800メートルの徒競走に出場して、それぞれで、1着になった。 (2012.08.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 戦災で荒廃した大阪の街へ帰る (身辺雑記82) = 生かされてきた私のいのち (12)= 翌朝、1946年(昭和21年)2月7日に、船は山口県の仙崎港に着いた。船の甲板から遠望した山々の早春の緑が美しかった。午前9時ごろ、リュックを背負って下船し始めたが、それからはかなりの混雑が続いたように思う。まず何列かに並ばせられ、頭から足先まで、米軍兵士によって大量のDDTが散布された。その時に、私たちの二,三列横で、若い米兵に胸を掴まれて、怒りもせず、きゃっきゃっと笑い転げていた若い女性がいた。ふと見ると、その女性は私も顔見知りの旭小学校の女教師であった。これが戦争に負けるということか、とその時に思った記憶がある。 その当時、引き揚げ港として知られていたのは、博多、佐世保、舞鶴、浦賀等であったが、仙崎はそれらに次ぐ5番目の引き揚げ港で、ここから上陸したのは、計413,961人になるらしい。この数のなかには、父と私も入っているはずである。私たちは、ここで引き揚げ証明書をもらい、目的地・大阪までの無賃乗車券をもらって港湾施設から外へ出た。 父と私は、それから、仁川からの引き揚げでずっと一緒だった何人かの人々と汽車に乗って、仙崎から近い深川温泉へ行った。久しぶりに温泉へ浸かって、湯船のなかでは会話が弾んだ。仁川では比較的裕福な生活をしてきた人たちばかりである。その日の朝、仙崎で支給された握り飯が白米であったことから、「内地」の生活も思ったほどは悪くはないではないか、などと話し合った。そのうちの一人は、アメリカ人などは、コメのおいしさを知らないからパンばかり食べているが、日本にいるようになったら、これからは米ばかり食べるようになるのではないか、などとも言った。 温泉旅館の夕食に、白いご飯が出されたかどうかは記憶にない。多分、出なかったのではないかと思う。質素ではあったが、なんとか腹ごしらえができて、私は父と一緒にいるだけでこころが満ち足りていた。私は、何の苦労もなしに育ってきたし、これから行く大阪も、私の生まれ故郷で、なつかしい思い出がふんだんにある。多くの場所が戦災で焼けていることは聞いていても、私は悲観的になることはなかった。 翌朝、同行してきた人々とも旅館で別れて、父と私は午後3時ごろの下関行きの汽車に乗った。下関では午後8時ごろ、山陽本線に乗り換えて岡山へ向かった。車窓からみる日本の田園風景は美しい。仁川中学の漢文で習った「国破れて山河あり」を思い出していた。しかし、車内は混雑していて、荒れた雰囲気であった。空席はなく、父と私は、一晩中立ちっ放しで、敗戦で変わってしまった本土の厳しさを感じさせられていた。 それから私は、かなり頻繁に目にすることになるのだが、混雑した車内を、白衣をまとった傷痍軍人が首から募金箱を下げ、杖をついたり片腕を包帯で吊り下げたりして、乗客に献金を要請していた。中には、戦争の犠牲になって、こころも荒んでいることを如実に感じさせる人もいる。私が徐々に日本の敗戦後の荒廃を意識させられるようになったのは、このような戦争犠牲者の姿からであったかもしれない。 私たちが乗った汽車は、山陽本線をのろのろと走り続けて、広島駅を通過する頃には、外はすっかり暗く真夜中になっていた。駅の周辺には、まだ原子爆弾の後遺症が色濃く残っているはずであったが、車窓からは何も見えなかった。都会の中を通り過ぎていくのだから、家々やビルなどの明かりが延々と続いているのが普通なのに、ところどころ裸電球のようなものが灯っているだけで、遠くまで真っ暗な闇が広がっているのが、不気味な印象を強く与えていた。 岡山に着いたのは、2月9日土曜日の午前5時ごろである。父と私は、岡山から高梁行きの乗り換え、1時間ほどして、高梁の井上さんの家を訪ねた。井上さんは、仁川ではある大手の醸造会社の部長を務めていて、奥さんと奥さんのお母さん、それに、高等女学校の二人の娘さんと、私より3歳下の長男がいた。米田君一家と同じように、家も近かったので、家族ぐるみの付き合いをしていた。一足先に、その3か月ほど前に引き揚げていたのである。父と私は、こころからの歓待を受けて、その日は、井上さんの家に一泊させてもらった。 その翌日、父と私は、町の名前は忘れたが、久米郡に住んでいたT工業の親会社の重役であった杉山さんの家を訪ねた。多分、この杉山さんが、父を説き伏せて、仁川へ赴任させたのであったと思う。父は挨拶を兼ねて、仁川工場の状況を説明しておきたかったのであろう。その人は、明るい雰囲気で多言であった。父も杉山さんの前で時おり明るく笑った。たまたま、若い会社員らしい二人の青年が訪ねてきていて、彼ら二人は、少し離れたところで、流ちょうな英語で話し合っていた。杉山さんは、父との話の途中で、彼らに向かって、「おい、おい、君たちはこんな田舎にいるよりも、アメリカへ行って住めよ」などと笑い声で言っていたのを覚えている。 大阪へ着いたのは、2月14日の早朝である。その頃は戦後の混乱期で、前日の夜にやっと乗り込んだ岡山から大阪行きの山陽線も大混雑で、私たちは、ここでも座席はとれずに、朝まで立ち通しであった。大阪駅から省線で天王寺方面へ向かったのだが、森ノ宮から鶴橋あたりまでは、進行方向右側の工場地帯がほとんど壊滅状態のまま放置されていた。大阪城の天守閣だけが辛うじて残っていただけで、目も当てられないほどの惨状である。私と父は、寺田町で降りて、そこからは歩いた。私がお世話になることになっていた米田君一家は、東住吉区の桑津町にある親戚の家の二階に住んでいた。寺田町の駅から歩いて20分ほどの距離である。幸いにも、その辺は空襲から免れていた。 数か月ぶりに会った米田君一家は、あたたかく迎えてくれた。米田君のお父さんは、まだ上海から帰っていなかったので、お母さんと、兄の幸太郎さん、弟の卓志君の4人家族にその日から私が加わることになった。米田君一家は、仁川では家族ぐるみの付き合いであったし、その家のある桑津町は、私がかつて通っていた生野小学校や私が住んでいた家などへも歩いて行ける距離であった。なんとなく自分の故郷へ帰ってきたような気がして、あまり違和感はなかった。 その翌日、早速私は、仁川中学校の在学証明書と成績証明書をもって、府立生野中学校へ行った。すでに同じ仁川中学の米田君と加茂君が、仁川中学では2年生の授業はほとんど受けていないという理由で、一年生に編入させられている。私は覚悟しいていた。私は成績はよかったが、彼らよりもさらに数か月も引き上げが遅れていたから、私だけが2年生に編入させてもらえるはずもなかった。私は、ここでまた、一年遅れることになったのである。生野小学校で、精神障害をもっていたS担任のもとで同級生であった徳永君と井上君の二人がここで3年生になっていた。二人とも、私がクラスの餓鬼大将であったころの弟分である。どこで知ったのか、教室にまで会いに来てくれたのはうれしかったが、私は、少しばつの悪い思いをした。 編入手続きが済むと、父は、私をつれて大阪の親戚や知人の何人かの家をまわった。何かあった時に、頼れるように配慮したのであろう。そのうちの一軒では、厳しい食糧難の頃なのに、真っ白いご飯が山盛りで食膳に出された。たまたま見せてくれた押入れは、食糧庫に改造されていて、そこには白米が山のように積まれていた。私は父の前では黙っていたが、こんな家にはどんなに困っても、来たくないと思った。父は、私のための銀行預金通帳も作ってくれて、必要な金は好きなだけ使ってよいと言った。父が何らかの手段で手配した船で、仁川へ戻ったのはそれから数日後のことである。 生野中学に編入学したのが2月15日で、その10日後の2月25日には、米田君のお父さんも上海から帰ってきた。米田君のお父さんが工場長を務めていた仁川化学の親会社のようなものが大阪にあったのかどうかは知らない。あったとしても戦争で壊滅していたのかもしれない。引揚者の大半がそうであったように、米田君のお父さんも、それから長い間、無職の日々が続いた。 3月はじめの期末試験のあと、生野中学では春休みに入って、4月から2年生になった。生野中学はかなり大きな学校で、一学年で三百二十人ほどの生徒が7クラスに分けられていた。私は2年6組で、米田君や加茂君ともクラスは別々である。担任は平木四三二(よさじ)というお名前の温厚な人格者で国文の先生であった。平木先生のもとで、私はほとんど毎学期選挙で選ばれて級長を務めた。 その当時は、期末試験の成績には、すべて学年全体の序列がつけられて、上位30人くらいの名前が掲示板に発表されていた。私は約三百二十人の中で、常に3番以内には入っていたが、もう二年も遅れているという意識があって、誇りに思う気持ちはなかった。しかし、平木先生は、いつも発表のたびに私をみんなの前でほめてくださった。平木先生は、その後、私が大学に入ってからも、アメリカ留学から帰って、大学で教えるようになってからも、私をいつもあたたかく見守ってくださった忘れられない恩師である。 2年6組にいたころ、生野中学では、授業はまだ午前中だけであった。食糧不足で、教員も生徒も昼弁当を持ってくることができなかったからである。中には田舎から通学している生徒で、弁当を食べて元気に野球などしていた者もいたが、それは少数派である。午前中に授業が終わると、みんな元気なく帰って行った。掃除当番にあたった者は、掃除を済まして帰るのだが、私は級長だからいつも最後まで残って掃除の手伝いをして帰った。空腹で力がなく、それがかなり辛かった記憶がある。 学校からふらふらして帰ったら、米田君も私も、ごろんと横になって、夕食の時間を待つ。勉強も横になってした。夕食といっても、黒ずんだメリケン粉を団子にして、たっぷりの汁のなかでわずかばかりの野菜と煮込んだものを、食べるというより、飲み込むのである。それが、二か月、三か月続くと、やはり、体が衰弱してきた。米田君のお母さんは、辛かっただろうと思う。自分の子供たちさえ、十分に食べさせてやることができないのに、私まで抱えていたからである。しかし、米田君のお母さんは、自分の子供たちと私とを決して差別しなかった。 私はいつも空腹であったが、生野中学の英語の授業が物足りなく、一時間近くも電車に乗って、十三(じゅうそう)の大阪外国語学校の英語講習会に、毎週三回、参加するようになった。若い英語の先生が、英語がよくできる人であることが私にはよくわかっていて、私は熱心にこの講習会に通った。ここで習ったシェイクスピアの「マーク・アントニーの演説」の一部を、私は六十数年を経たいまでも、すらすらと暗唱することができる。 この講習会に出席した日は、どうしても帰りが遅く9時ごろになる。それから、米田君のお母さんが残しておいてくれた夕食を一人で食べるのだが、メリケン粉の団子がいつも、普段より一つ二つ多いような気がしていた。一つでも二つでも多く、飢えている自分の子供たちに食べさせたいはずなのに、私にその一つ二つをとっておくというのは、どれほど大変なことか私にはよくわかっていた。私には米田君のお母さんの、他人の私を思いやる気持ちがこころから有難かった。ほとんど噛むこともなく、ただ飲み込むだけのような乏しい食事で、空腹が満たされることは決してなかったが、私が少しもさもしい思いをすることなく、耐えていくことができたのは、米田君のお母さんのあたたかいお人柄のお陰である。 その頃、1946年5月3日には、東京市ヶ谷の旧陸軍省本館大講堂で、「勝者が裁く」といわれた極東国際軍事法廷が開廷された。東条英樹、広田弘毅ら、戦前・戦中に大日本帝国の中枢にいた軍人・政治家など28人が、連合国最高司令官マッカーサーの命令で、A級戦犯として裁かれることになった。55項目にわたった訴因は、大別すると、「平和に対する罪」「殺人罪および殺人共同謀議の罪」「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」の三つである。 審理の過程では、被告人全員が無罪を主張するが、裁判は1948年11月まで続けられ、東条ら7人に絞首刑、16人に終身禁固の判決が下された。なお、捕虜虐待・非人道的行為に直接関与した人々は、B・C級戦犯として、横浜や、戦場であった国々でそれぞれ裁かれ、984人が死刑、475人が無期禁固刑に処せられている。この裁判では、勝者側の戦争犯罪は審理の対象外とされ、日本の最高責任者である天皇も、米英政府の政治的判断から訴追を免れるなど、多くの問題を残したといわれている。 食糧事情の深刻さは、少しも改善されることなく続いていた。米穀通帳によって配給される食糧のカロリーは、一日の必要量を満たすには程遠い状態なのに、それさえも、遅配、欠配が続くようになって、日本人は1千万人が餓死するのではないかといわれたりした。たまりかねて、5月12日には、東京の世田谷区で、労働組合、引き揚げ・戦災者ら約千人による、「米よこせ区民大会」が開催された。その後、皇居までデモ行進して、一部の人たちは皇居内に入り、宮廷保有米の放出などの決議文を宮内庁に提出している。 これを機に、全国各地で、米よこせ運動が発生し、5月19日には、ついに25万人にふくれ上がったデモ隊が、皇居前広場を埋め尽くした。まだ、テレビはない時代であったから、ラジオを聞きながら、私たちはその成り行きを見守った。その時のプラカードの一つに、「朕はタラフク食ッテルゾ、ナンジ人民飢エテ死ネ」と露骨に天皇を批判したのがあって、これが名誉棄損に当たるとして、当局の判断で有罪にされたことが新聞にも載ったりもした。 これは結局、東京高裁で、免訴となり、最高裁まで行って、上訴棄却になったが、私たちには、そんなことよりも、ただ、食糧事情が少しでも良くなることに一縷の望みをかけていた。記録によれば、6月25日の東京での主食配給の遅配は、ついに30日に及んだが、大阪でも、その事情は同様で、変わらなかった。このままでは、米田君の家族も誰かが倒れることになるかもしれない。私も、風邪などを引いたら、もう回復することなく、そのまま起き上がれなくなるかもしれない。それでは、仁川で心配しながら見守ってくれているはずの両親に申し訳ないことになる。私は、真剣に、この危機から抜け出す方策を考えるようになった。 (2012.05.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 敗戦後の虚脱状況のなかで (身辺雑記81) = 生かされてきた私のいのち (11)= 8月15日の無条件降伏で、当時、仁川中学校二年生であった私は茫然自失した。高射砲陣地での塹壕掘りは中止になり、私たちは久しぶりに校舎へ帰ったが、授業が行なわれる状況ではなかった。その後しばらくは、自宅待機が続いたように記憶する。私はまだ、敗戦という時代の流れの激変になかなか適応できなかった。ただ、夜は灯火管制がなくなって、明かりをいっぱいに取り戻せたのが有り難かった。 街の中心部では、翌16日頃から太極旗を掲げて朝鮮独立万歳を叫ぶ朝鮮人民のデモが繰り広げられたというが、私は見ていない。それまで威張って歩き回っていた軍人たちは姿を消し、デモなどがあれば、すぐ出てくるはずの特高警察なども影を潜めていたようである。町外れの私の家の近くでは、何事も起こらなかったかのように静かで平安な毎日が流れた。特に治安が悪くなるということもなかった。米軍が仁川沖に姿を見せたのは、それから1週間ほど経ってからである。どこから見たのかは記憶にないが、仁川沖は数百隻の艦船で埋め尽くされていた。私はそのような圧倒的な光景をそれまで見たことはなかった。 仁川は、干潮満潮の差が10メートルもあって、接岸用のドックには多くの船は入れない。ほとんどの艦船はそのまま沖合いに停泊していた。その間に、米軍の戦闘機が轟音をとどろかせて何機も、超低空で仁川市の上を飛び回るという威圧行動が何日か続いた。話には聞いていたアメリカの軍事力の豊かさを、まざまざと見せつけられる思いであった。実際に仁川に上陸してきたのは、ホッジ中将が率いる米軍第24軍団の第一陣で、9月8日のことである。9月9日には、朝鮮総督府が降伏文書に調印した。それからは、仁川市内でも、ジープに乗った米兵があちらこちらで見られるようになった。 これは後でわかったことであるが、東京では、敗戦直後の8月18日に、内務省警保局長から進駐軍特殊慰安施設を設置する指示が出て、警視庁が都下の貸し座敷・遊里関係者に協力を要請している。占領軍上陸コースを中心に、一般公募で慰安婦を1360人確保し、米軍が上陸してくる前に、「世界最大の売春トラスト」といわれた組織が作り上げられていた。その一方で、横浜地区では、米軍進駐に脅えた女性や子供たちの疎開が盛んに行なわれたという。9月4日には、神奈川県が、女学校の休校を指示している。 連合軍最高司令官のマッカーサーは、8月30日に、厚木飛行場に到着していた。米軍が東京にジープで進駐を開始したのは、9月8日である。帝国ホテル、第一生命ビル、三信ビル、郵船ビル、伊勢丹等、官民あわせて600箇所あまりが米軍用に接収された。東京では、隣組の緊急回覧板で、「婦人は進駐軍に笑顔をみせるな」と警告を発していたらしい。文部省は、この頃、全国の小学校や中学校などに戦時教科書の不適当と思われる箇所の削除を指示した。墨を使って、指示された場所を黒々と塗りつぶす作業がしばらく続いて、その翌年には、私も大阪で、その塗りつぶし作業を体験することになる。 9月27日になって、ちょっとした出来事があった。昭和天皇が自ら出向いて、マッカーサーを訪問したのである。各新聞が天皇とマッカーサーが並んで立っている写真を掲載したのだが、堂々とした体格のマッカーサーが両腕を腰の後ろに組んで傲然と構えているのに対して、並んで立つ天皇はかなり小さく見劣りのする体型で、蟹股の少し湾曲した両足に手をだらりと垂らしている。誰の目にも、そのコントラストは強く印象づけられた。 日本政府の情報局は、ただちに、これを天皇に対する不敬として発禁処分にした。しかし、マッカーサーの総司令部(GHQ)は、すぐ、その発禁処分の撤回を命じた。そして、日本政府に対し、GHQの命令以外の新聞・映画・通信その他一切の意思表示の自由を制限する法令を撤廃させる指令を出した。日本が米軍によって占領されているという事実を如実に叩き込まれた一事である。これによって、日本人にも、はじめて言論の自由が認められることになった。これは、大きな変化である。その時のことを、作家の高見順は『敗戦日記』(文春文庫)の9月30日のところで、つぎのように書いている。 《昨日の新聞が発禁になったが、マッカーサー司令部がその発禁に対して解除命令を出した。そうして新聞ならびに言論の自由に対する新措置の指令を下した。 これでもう何でも自由に書けるのである! これでもう何でも自由に出版できるのである! 生まれて初めての自由! 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、――省みて羞恥の感なきを得ない。日本を愛する者として、日本のために恥かしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので、自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由が保障されたのである。なんという恥かしいことだろう。自国の政府が自国民の自由を、――ほとんどあらゆる自由を剥奪していて、そうして占領軍の通達があるまで、その剥奪を解こうとしなかったとは、なんという恥かしいことだろう。》 敗戦に至るまで、「鬼畜米英」とさんざん教え込まれていて、その「鬼畜」の米軍が現実に上陸してくると、そのイメージは、簡単に覆ってしまった。教育の現場で、昨日まで、声高に叫んでいた教員たちのことばや態度が、一夜にして、がらりと変わってしまうというのは、一体どういうことなのであろうか。政府や軍部が嘘をつくことは子どもにも分かっていた。政治家や役人も嘘をつくであろう。しかし、教員の言っていることが間違っていたというのは、子どもにとっては許されることではない。中学二年生で、そのような大人の嘘と価値観の激変を体験したことは、それからの私のものの考え方にも、大きな影響を与えることになった。 その頃、少なくとも仁川では、米軍進駐後も、治安は維持され、平穏な生活が続いていた。しかし、一方では、8月12日に朝鮮北東の羅津、清津に上陸していたソ連軍が、8月29日にはすでに、北緯38度以北を掌握していたのである。私たちは、ソ連軍が来てからの北朝鮮のことは、その当時は何もわからなかった。しかし、これは悲劇的な事態であった。38度線は、いまでも朝鮮半島を北と南に厳しく分断しているが、当時の朝鮮在住の日本人をも、その運命をこの線の北と南で大きく左右させたのである。 京城(いまのソウル)や仁川を含めて、南朝鮮在住の日本人は、いわば、米軍の施政によって守られていた。家や財産を置いて引揚なければならなかったとしても、生命を脅かされたり、危害を加えられることはほとんどなかったといっていいだろう。食べものにも困ったわけではない。しかし、38度線以北の場合は、ソ連兵そのものが治安にあたるどころか、至るところで日本人を襲い、略奪し、婦女子を凌辱している。 38度線の東端から百数十キロ北上したところにある咸興(ハムフン)での記録では、家を追われた日本人たちが餓死、凍死、発疹チフスなどで、敗戦からわずか5ヶ月の間に、約2万6千人が亡くなったという。『海外引揚者が語り継ぐ労苦』(平和祈念事業特別基金発行、2002年)のなかでは、38度線の北約100キロの元山付近に住んでいた梶山緑さんが次のように書いている。 《ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地域にやってきて家中を物色し、ありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。そのうちのめぼしい物がなくなってくると、今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた・・・・そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難を開始していた開拓団員の人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江を何とか渡ってここにもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。》 このように述べた後で、彼女は、「北朝鮮からの日本人の正式な引揚というものは、全く行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は、全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安員のすきをみて突破、脱出してきたのである」と断じている。このことばは痛切で、重い。そして、「それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原あたりでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まって送り返されたりしてしまった」とも述べている。 いまでは私たちは、このような悲惨な記録を、ソ連占領下の北朝鮮や満州からの引揚者のなかにいくらでもみることができる。しかし、そのような悲惨な目にあったのは、ソ連軍が侵攻してきた樺太でも同様であった。それから十数年後には、私は札幌に住むようになるが、北海道の稚内市の稚内公園のなかには、「九人の乙女の碑」が建てられていて、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」という、交換手たちが自決の前に残した最後のことばが表面に大きく刻み込まれている。 これは、1945年8月20日、当時はまだ、日本領であった樺太南西部の真岡(現在のホルムスク)に、ソ連軍が艦砲射撃を加えて侵攻してきた際、真岡郵便局の電話交換手12名のうち、9名が自決したのを悼んだものである。敗戦までは、アメリカもイギリスも「鬼畜米英」であった。もし日本本土に敵が攻め込んでくるようになったら、男は奴隷にされ、婦女子は陵辱される、というのは、日本では普通に信じ込まされていたことである。日ソ中立条約を破ったうえ、八月十五日以降にも侵攻を続けたソ連軍も、当時、樺太にいた日本人にとっては、「鬼畜」そのものであったに違いない。 ソ連軍は、樺太からの引揚船に対してさえ、理不尽な攻撃を加えた。1945年8月22日早朝、樺太の大泊(現在のコルサコフ)から引揚者を満載して、小笠原丸、泰東丸、第二新興丸の3隻がそれぞれ、北海道の留萌と小樽に向かっていた。これらの引揚船が留萌付近の小平(こびら)、増毛の海岸数キロにまで来たところで、ソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けたのである。小笠原丸と泰東丸は瞬時にして沈没し、第二新興丸だけは大破したが、辛うじて留萌にたどりついた。死者、不明者は3隻で計1708人に上っている。 この攻撃は、日本がポッダム宣言を受諾し敗戦したあとであったのに、ソ連は、北海道の北半分を占領しようとして、そのためにとった一部の作戦行動であったと考えられている。日本が全面降伏をした翌日、8月16日に、スターリンは、ソ連による北海道北部の占領を公式に提案していた。それは、アメリカのトルーマンによって拒否されていたが、まだソ連は、作戦行動を収めていなかったのである。一般に、民間人の外地からの引揚げは、朝鮮半島の北緯38度線以南や東南アジア、中国、台湾からは比較的スムーズに行なわれたようであるが、ソ連軍占領下の地域では、どこでも、このように悲惨さが付きまとっていた。 しかし、その当時、南朝鮮の仁川にいた私たちには、そのような悲惨さは、想像もできないでいた。「鬼畜」であったはずの米軍は、進駐後はすぐに守護神のような存在に変わってしまっていた。はじめのうちは、銃を肩にかけていた米兵も、平穏に慣れてくると、やがて丸腰で市内を歩きまわるようになった。私の家にも二度ほど、中年のおとなしい感じの米兵が遊びにやってきて、日本酒を飲んで帰っていったことがある。私は、仁川中学校の一年生の時に習ったわずかばかりの単語を並べて、生まれて初めての片言の英語を使った。 文部省は、9月の中旬までに、すべての学校の授業再開を指示していたが、もちろん、それは外地の学校に適用できるはずもなかった。仁川中学校も閉校が伝えられ、私たちは、封筒に密閉された在学証明書と成績証明書をもらって、もう通学することもなくなった。一部の上級生は、米軍の通訳として働きはじめていた。英語の安東先生も、通訳としてであろう、米軍のジープに乗って走っているのを見たことがある。私は、近くに住んでいた米田君と一緒に、よく郊外の高さ300メートルほどの文鶴山に登ったり、港のほうまで出かけて、ハゼ釣りをした。ハゼは面白いほどよく釣れた。たくさん釣って帰って、家ではてんぷらにしてもらって食べる。なかなか美味であった。 子供たちは遊びまわっておればよかったのだが、大人たちはみんな、引き揚げの準備で大変のようであった。何しろ、土地も家も家具も資産も、持っているものはほとんどすべてを残していくのである。会社や工場も、日本人の経営者は、経営権を放棄しなければならない。それが、全市で一斉に行なわれるのだから、たいへんな作業である。私の父も大変であった。父のT工業は仁川ではお最も大きな鉄鋼会社の一つで、軍需工場であったから、米軍が進駐してきて間もなく、米軍に接収された。 日本人幹部や授業員がすべて引き揚げた後でも、米軍の監督下で、工場を引き続き操業していくためには、朝鮮人幹部と授業員に技術を引き継いでいかねばならない。米軍の指導で、その役割は、工場長で圧延機械の技術者であった父に与えられることになった。T工業はその主力の圧延工場を父が設計して稼動させた経緯があったから、父にもその自負と責任感のようなものがあったかもしれない。* その時の父の予想では、日本人が帰国した後の欠員を補充し、その技術引継ぎがすべて終わるまでには、少なくとも一年はかかるであろうということであった。つまり、父の場合、引き揚げがそれだけ遅れるということである。 引き揚げは、仁川から釜山まで貨車で運ばれ、釜山から船に乗ることになっていた。米軍の指導で、会社ごとに貨車が割り当てられることもあったが、引き揚げ世話人会ができていて、だいたい地域ごとに貨車に乗り込む日と人数が割り当てられていた。なかには何らかの手段を講じて単独で引き揚げて行った人もいたようである。父の上司で、常務のY氏は、高額の報酬を払って船を借り上げ、自分の家族だけで大阪へ帰って行った。敗戦後の混乱期で、人だけではなくお金や物も運ぶ、いわゆるヤミ船での往来も、かなり頻繁に行なわれていたらしい。 家の近くで家族ぐるみの付き合いであった米田君のお父さんは、仁川化学工業の工場長であったが、たまたま、敗戦の前に中国の上海に出張していて、敗戦の混乱で帰れなくなっていた。手紙が届いて、先に大阪へ帰るようにといわれ、米田君は、お母さんと兄と弟との四人で、その年の11月ごろに、引き揚げていった。落ち着き先は、大阪の住吉区の親戚の家である。そこから仁川の私の所へ手紙がきて、米田君が大阪府立生野中学校の一年生に編入したことが伝えられた。 生野中学校はよく知っていた。私は、仁川へ行く前までは生野小学校へ通っていたのだから、生野中学校にはその時の友達もいるかもしれない。それにしても、仁川中学校の二年生なのに、生野中学校ではなぜ一年生なのか。米田君の手紙では、その少し前に東住吉区へ引き揚げていた仁川中学では同級の加茂祐三君が、これも偶然に生野中学に編入していて、やはり一年生なのだという。外地では、学校が敗戦後は閉鎖されたこともあって、二年生としての授業はまともに受けていないというような理由だそうだが、私はいやな感じがした。 父は、T工業操業継続のための引継ぎ業務でしばらくは残らなければならないので、私一人だけでも、学校のことを考えて、先に帰そうとしていた。その父が頼りにしていたのが、米田君の家族であった。米田君のお母さんは、よくできた人で、私のことも家族の一員のように思ってくれていたから、一年くらいの同居は、引き揚げる前から承諾してくれていたらしい。翌年2月、父は、米軍から往復のための特別の許可証を作ってもらった上で、私一人を連れて、仁川から釜山へ向けての数百人の引揚者の群れに加わった。 仁川から乗り込んだのは、引揚者用の貨車で、午後一時にのろのろと動き出した。米軍の監視員も乗っているということで少し安心していたが、一度だけ、途中で一時間ほど停車し、その間に素性のわからない男が一人乗り込んできて、みんなの荷物を検査すると言い出した。持って帰れるのはリュック一つと現金千円だけということになっていたから、余分の現金を持っている場合は、没収する魂胆のようであった。 当時はまだ、1万円や5千円の高額紙幣はなかった。父は千円札束をいくつか重ねて、弁当箱のように風呂敷に包んだものを私に持たせていた。貨車の一方の端から順に持ち物を調べてきて、その男が私の前に来る前に、私は男の隙をみて、すでに調べが終わって別の隅にいた父に、さっとその包みを投げた。結局、その男は誰からも何も見つけることができずに、貨車から出て行った。 貨車はゆっくりと走り続けて、私たちは、貨車のなかで一夜を過ごした。釜山まで丸一日もかかったであろうか。私たちは、翌日、2月5日の午後3時近くになってやっと釜山に着き、それぞれの荷物を持って大きな倉庫のようなところへ誘導された。釜山駅やその周辺は、引揚者でごった返していた。帰国と乗船の手続きを受けるための人々が、あちらこちらで長蛇の列をつくって並んでいた。私たちは、順番を待つために、結局、この倉庫の中でも一夜を過ごすことになり、手続きをすまして船に乗り込んだのは、2月6日の午後になってからである。あまり腹をすかした記憶はないから、どこかで食事もしたはずだが、それは記憶にない。 乗り込んだ船は、「機帆船」といっていたであろうか千トンほどの興安丸であった。その4年前に、下関から釜山へ渡った時の関釜連絡船・金剛丸よりはかなり小さく貧弱で、貨物船のような感じであった。引き揚げ船・興安丸は、午後6時にとうとう、釜山港を離れた。父と私は、あてがわれた3段ベッドの二つにもぐりこんで、ゆっくり足を伸ばして休んだ。 *父は部下たちからも慕われ、会社の業績拡大でも大きな実績をあげていた。T工業が創立3周年を迎えた時の取締役社長・田中平三郎氏から与えられた表彰状がいまも残っている。つぎのようなものである。 表 彰 状 武 本 泰 三 右者当社工場建設当初ヨリ工場責任者トシテ圧延機械ノ改善技術ノ研磨常ニ献身的努力ヲ傾注シ部下ヲ把握率先垂克ク本分ヲ尽シ以テ時局下生産増強ニ貢献シタル功績顕著ニシテ他ノ模範ト為ルベキモノト認ム創立三周年記念日ニ際リ金一封ヲ贈与シ茲ニ之ヲ表彰ス 昭和十八年十月二十九日 田中工業株式会社 取締役社長 田中平三郎 また、この翌年には、紀元節の日、2月11日に、仁川市長(当時は府伊といった)からも産業報国功労者として表彰状を受け新聞に報道されたりした。これは次のような文面である。 表 彰 状 田中工業株式会社仁川工場 武 本 泰 三 右ハ職務ニ勤勉着実常ニ機械ノ改善技術ノ研磨ニ努ムルハ勿論克ク上長ノ命令ヲ服行シ時ニハ私財ヲ投ジテ部下ノ煩悶苦悩ノ解決ニ努ムル等其ノ功績顕著ナリ依テ茲ニ金一封ヲ授与シ之ヲ表彰ス 昭和十九年二月十一日 朝鮮総督府府伊 正六位勲六等 池 田 清 義 (2012.03.01) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 私の初めての病気と神秘体験 (身辺雑記80) = 生かされてきた私のいのち (10)= 1944年(昭和19年)の秋、戦局が日増しに緊迫の度合いを深めていく中で、私は10人ほどの級友たちといっしょに、当時の京城(現在のソウル)へ出かけて、陸軍幼年学校の入学試験を受けていた。卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、上級生は陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験していたが、当時の中学1,2年生にとってのエリートコースが、陸軍幼年学校であった。 翌年の二月、合格内定の通知が届いて、私の名前が他の、和気、大平、浜田君ら3名の内定者の名前と共に、仁川中学の講堂入口の掲示板に大きく貼りだされた。憧れの「陸幼」に入れそうになって、私はうれしかった。しかし、その直後に私は生まれてはじめて病気になった。ある朝、急に四〇度を超える熱を出し、急速に、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまったのである。 病院に運ばれるまでには、家の近くの医者の往診を受けて、三日くらいは家で寝ていた。高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の柔和な姿があり、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。 み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿が燦然と光を放っていた。私は何度も何度も見直した。間違いなくそれは実像であった。 高熱にうなされながらも、少しは正気に返る時があるものであろうか。工場長をしていた鉄鋼会社も休み、片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は確かに言ったはずである。「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と。 み仏なのになぜ神棚と言ったのかわからない。神棚は奥の部屋にあったがそれを忘れていたわけでもなかった。いま思うと、神の姿を知らず、見慣れた仏像からの連想でみ仏と思ったのかもしれないが、それでも私は、何度見直しても、み仏の姿がその場所にはっきり見えたので、その場所を指差しながら、傍らにいた父にそう言ったのである。 父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのかもしれない。私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時たしかに思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、燦然と輝き続けた。 入院したのはかなり大きな仁川総合病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。 私は病院でも高熱を出し続けたまま、意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれていったのはかすかに記憶はあるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。 温顔で人望の厚かった病院長は、このままでは、希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という熱冷ましの注射薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。 院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく---それはとうの昔になくなっているはずだから---万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」そのことを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。 その当時の仁川市は人口三〇万くらいであったろうか。薬局も全市で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。 そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながら、旭国民学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、二〇年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。 父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」 しかし父は、そのことばにもすがりつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。 二月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。 突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、最後のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・。 父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」 私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。命の瀬戸際に立ったのは、5歳の時に大阪の尻無川で溺れかかって以来、これが2度目であったが、私は、ここでも死ななかった。生きるべくして生きた。昔は、あの最後の瞬間に父の脳裏にひらめかせたものは何であったのか、とよく考えたりもしたが、いまでは、この点でも疑問に思うことはない。 陸軍幼年学校は、結局、不合格になった。私は、3月、4月と休んで体力を快復させ、5月頃から、2年生として、また学校へ通い始めた。しかし、もうその頃には、学校で勉強することはほとんどなくなっていた。2年生も勤労動員に駆り出されて、町外れの丘の上にある高射砲陣地へ毎日出かけては、塹壕堀などをやらされていた。時には、仁川高等女学校へ毎晩4名ずつぐらい交替で出かけて、不寝番をするという中学生としてはスリリングな経験もさせられていた。一年生だけは登校して授業を受けていたが、それでも、放課後は、居住地の交番に連絡要員として配置されていた。戦況の緊迫化とともに、治安や社会秩序の維持も緊急になっていたのである。 すでに、その年の2月19日には、米軍が硫黄島に上陸し、3月17日には、2万3千人の戦死者をだして守備隊が全滅していた。3月9日から10日にかけては、米軍のB29による東京大空襲があり、死傷者は12万人を数えた。特に江東地区は全滅状態であったらしい。後に私の妻となる富子の生家は、九段の靖国神社の近くであったが、その家も焼夷弾の直撃を受けて全焼している。富子はその頃小学校の三年生で、新潟県の赤倉にあった別荘に疎開していて難を逃れたが、父親は留守を守っていて体の一部に火傷を負った。 3月18日からは、九州各地が、米軍の猛爆に曝されるようになった。日本軍はもう反撃する力も失われていたようである。艦船や戦闘機の大半を失ってしまって、苦肉の策で風船爆弾なるものを作り出したりしている。風船に爆弾を吊り下げて、偏西風にのせてアメリカ本土まで飛ばすという幼稚な作戦であった。このうちの一つは、なんとかアメリカ太平洋岸のオレゴン州に辿りついて、5月5日に、木に引っかかったのを下ろそうとしていた6人を即死させている。後に私は留学生としてオレゴン州に住むようになった時、その話を何度もアメリカ人住民から皮肉交じりで聞かされることになる。 あとで振り返ってみると、私が病気から快復して2年生として学校へ通いだした頃、5月8日には、すでにアメリカ大統領トルーマンが、日本に無条件降伏を勧告していた。しかし、不利な戦況についての徹底的な事実隠蔽と強力な言論統制によって、まだ私たちは、日本が負けるなどということはひと言も口に出せなかった。6月8日の、政府の最高戦争指導会議では、天皇の臨席のもとに本土決戦の方針を採択している。そして、6月23日には、沖縄守備隊も全滅して9万人もの戦死者を出し、沖縄県民も10万人以上が犠牲になった。 これは容易ならざる事態である。仁川でも、隠しようのないその深刻な状況は、私たち中学生にも伝わっていた。沖縄が取られたのだから、あとは九州あたりに上陸してくるのは時間の問題である。高射砲陣地で、慣れない土木作業に従事しながら、いよいよ本土決戦ということになったら、私たちはどうなるのだろうという不安を隠すことはできなかった。 その頃、朝鮮半島では、まだどの都市も米軍の空襲は受けていなかった。8月近くになって、仁川でも一度だけ、私たちが勤労動員させられていた高射砲陣地のはるか上空を、B29が一機、白い雲の航跡を引きながら飛来したことがあったが、それに対して、迎撃の戦闘機は飛ばず、高射砲から砲弾が一発発射されただけである。その砲弾は、米機には半分の高さほども届かず、B29は悠々と去って行った。それを見て私は、これでは仁川もやがて大変なことになると、密かに怖れた。 そして、8月6日、米軍のB29が広島に原子爆弾を投下した。8月9日には、その原子爆弾が長崎にも投下された。厚生省は両市の原子爆弾被爆による死没者は、計29万5956人と発表した。8月12日には、ソ連軍が参戦して朝鮮の羅津、清津に上陸するという事態も起きている。8月15日、日本は遂に無条件降伏をした。雑音まじりのラジオ放送で敗戦を伝える天皇の言葉を聞いて、私たちにはその後しばらく、虚脱状況が続いた。 (2012.01.01) |
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