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   高幡不動尊金剛寺を訪れる    (2016.01.13)


 私は大阪生まれで、5,6歳の頃から、正月には奈良県生駒山の中腹にある宝山寺(生駒聖天)に父に連れられてお詣りするのが慣わしになっていました。この宝山寺は、斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝えられています。ご本尊は不動明王です。毎年元旦には大正区新千歳町の家を朝3時ごろに出て、初詣客のために深夜から運転している市電に乗り、上本町6丁目へ出ます。たいへんな人混みのなかを、そこから近鉄奈良線で生駒駅へ行き、宝山寺まで続く1000段ほどの石段を上っていくのですが、それが私の子供のころの夢のように楽しかった正月のはじまりでした。

 東京では、ここ20年ほど、日野市の高幡不動尊金剛寺へ毎年詣でるようになりました。このお寺は、成田山新勝寺などとともに、関東三大不動の一つに数えられていて、古来日本一といわれる不動明王像があります。平安時代に作られたという総重量1,000トンを超える巨像で、火防不動、汗かき不動などとも呼ばれて数々の霊験が伝えられているようです。私は今年も、不動堂の護摩修行に参加し、周辺の、たこ焼き、いか焼き、お好み焼きなど、100以上の屋台が並んでいる中を少し歩きまわって賑やかな雰囲気を楽しみ、美しい五重の塔のそばの屋台で、紙コップ一杯の甘酒を啜るという慣例を繰り返しました。

 高幡不動尊の境内は3万坪もあって広いのですが、この五重の塔の近くに新選組の土方歳三の大きな青銅の像が立っています。土方歳三の生家がこの高幡不動尊の檀家の総代格の旧家であったからのようですが、私はこの人物や新選組には、歴史上の事実を知る以上はあまり関心がありません。土方歳三像の前のゆるやかな上りの道を歩き大日堂のところで左折した奥にある、「藤蔵の墓」をお詣りしてきました。

 「寸感・短信」No.92の「江戸時代の生まれ変わりの実例」(2015.10.21)のなかで触れていますが、藤蔵は、勝五郎が生まれ変わる前の前世の名前です。藤蔵は6歳の時に疱瘡で亡くなったのですが、その 8年後の文化12年(1815年)に藤蔵は勝五郎になって生まれ変わりました。これは、関係者がすべて実在し、生まれ変わりの前後の両親の名前や時間、場所も明確に証言されている稀有の実例といっていいでしょう。生まれ変わった勝五郎は、55歳まで生きて、土方歳三が箱館戦争で戦死したのと同じ年、明治2年に亡くなっています。勝五郎の墓は、八王子市下柚木の永林寺墓地にあるということです。




  「霊的真理への道に立ちはだかる壁」について  (2016.01.20)


 この「寸感・短信」欄に、「ある末期がんの僧侶のことばを考える」(2015.12.30)という小文があります。新聞のインタビューに応じている田中氏が、僧侶で医者でもある者として、ずっと死の問題については考えてきたのだから、「自身の死も怖くはないのでは」と記者から訊かれたのですが、田中氏は、「私には、あの世があるかどうかは分かりません。自分のいのちがなくなるというのは、やはり苦しみを感じますね」と答えているのに、しばらく考え込まされていました。そして、「こんな場合、例えばシルバー・バーチのことば一つにでも接することができていれば、言い方が少しは変わってきて、希望の光が差し込んでくるのではないかと思われるのに、なぜそうはならないのでしょうか」と私は書いています。

 たまたま、「随想」No.105の「霊的真理への道に立ちはだかる壁」(2016.01.01)でも、立花隆氏について同じような苛立ちの気持ちを書き綴ったところ、先日、それを読んで下さった大空澄人氏から、メールをいただきました。大空氏はいまも、高い霊能力で霊界と日常的に交信を続けておられますから、あの世があるかないかというような議論は、いうまでもなく論外でしょう。あの世の存在は氏にとっては明明白白の事実で、「信じるというよりは知っている」わけですから、それだけにメールでいただいた次のような氏のことばには真実の重みと説得力があります。

 「霊的真理を理解するのは自分の中の霊的な部分なのでそこが発達してこないと無理なのだと思います。人間を生かしている根本は霊的エネルギーですが真理を理解できない人は魂の窓が閉ざされているために霊的エネルギーを十分に取り入れることが出来ません。そこで顕在意識の範囲内であれこれと思考を巡らせるのですがどうしても限界があります。結局自分の作った世界の中でウロウロするだけになってしまいます。また彼らには神を知ることも出来ないでしょう。」

  私は、立花隆氏の長年にわたる臨死体験の研究には、かなりの関心をもち続けてきました。それが霊的真理への道につながっていくと思っていたからです。氏の著書『臨死体験』(上)(下)を読んでもわかるように、氏は、世界各国まで取材に出かけて、広く、深く臨死体験者たちからの体験例を集めています。その結果は1991年と2014年の2回、「NHKスペシャル」でも全国放映されました。しかし、氏の理解では、霊的世界は、結局、「非理性的な怪しげな世界」で終わってしまっているようです。

 最近では、立花隆氏は、『死はこわくない』(文芸春秋社、2015年12月)を出版しています。しかし氏の死に対する態度は、「死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで人間は自然に死んでいくことができるんじゃないか」ということに尽きるようです。田中氏と違って、立花氏は、「あの世はない。しかし死はこわくない」ということになるのでしょうか。私は、立花氏のような人も、また、シルバー・バーチのいう「霊的に準備ができていない」状態にあたるのであろうかと考えたりしていました。それを、大空澄人氏からは、さらに明確に、つぎのようにもご教示いただきました。

 「今の段階では霊的世界に科学のメスを入れるのは不可能でしょう。なにしろ生命の根源に関することだからです。霊や神のことは科学で説明することは出来ません。宗教的センスと言えばいいでしょうか。昔から宗教的センスのある人が宗教を開いてきましたが目に見えない世界のことを感知して表現するにはそのセンスが必要です。科学者は宗教人にはなれません。元来役割が違うからです。」




  フランスにおけるスピリチュアリズムの創始者  (2016.01.27)


 現在、このHPの「学びの栞」(B)では、アラン・カルデックの『天国と地獄』を取り上げていますが、このアラン・カルデック(Allan Kardec、1804-1869)は、フランスにおけるスピリチュアリズムの創始者ともいわれている教育学者・哲学者です。本名はイポリット・レオン・ドゥニザール・リヴァイユ(Hippolyte Léon Denizard Rivail)ですが、彼のいくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んでアラン・カルデックという筆名を使うようになったといわれています。

 死者とのコミュニケーションをはかる交霊会は、1840年代にアメリカで出現して以来、1850年代にはヨーロッパでも広く知られるようになっていきました。それらの霊的現象がもし本物ならば、宗教的・科学的に非常に大きな可能性を秘めていると考えたカルデックは、学問的立場で慎重に調査研究を開始しました。彼はひとつの交霊会での霊言だけでなく、いろいろな言語の複数の交霊会で霊言を収集して、内容を徹底的に比較分析し、それらの真偽を確認していったといいます。その結果、彼は不可視の存在とその発言内容を認め、その調査研究の結果を出版していくことになります。

 彼が最初に出版したのは、『霊の書』 (Le livre des Esprits , 1857年)でした。この本は、『心霊研究辞典』(東京堂出版、1990)によれば、「霊媒のベケ嬢が入神状況で得た霊界通信に基づいて書かれたもので、フランスや南米のスピリチュアリストの間では古典的書物として定着している」ようです。日本では『霊の書(上)(下)』 (桑原啓善訳)として潮文社から出版されています。

 彼がつぎに出版した大著が『霊媒の書』(Le livre des Mediums, 1864年)で、この本は最近(2015年12月)、前田茂樹氏によって和訳され、ブイツーソリューション(星雲社)から出版されました。「あらゆる精霊現象の動因、不可視世界との交流手段、その実践時に出会う困難や落とし穴などに関する諸精霊の助言をまとめた」もので、「より高い霊的世界との交流に身を投じようとするすべての人々にとって最も安全な教科書」と謳われています。

 この本は550ページを超える大著ですが、昨年暮れに、訳者の前田茂樹氏からその訳書のご寄贈を受けました。内容が高度で、私には大きな宿題を与えられた形になりましたが、この専門書に触発されて、いまは、カルデックのより一般向けの著書『天国と地獄』をとりあげ、要点になるような記述を抜きだして、「学びの栞」(B)に分類する作業を進めているところです。




   人は死んでも生まれ変わる      (2016.02.03)


 大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社、2015)には、「34か国の人達の生まれ変わりに関する見解」という一覧表があります。国際社会調査プログラム(International Social Survey Programme)の2008年のデータによって作成されたもので、それによりますと、「人は死んでも生まれ変わる」と信じている人の割合が一番多いのがトルコで、89パーセントだそうです。しかも、そのうちの82.9パーセントは、「絶対に生まれ変わる」と信じているようですから、トルコでは、「生まれ変わり」はもう、当たり前のこととして一般に受け止められている、と言っていいのかもしれません。

 2位は台湾ですが、生まれ変わりは、絶対ある(12.4%)、多分ある(47.4%)、この両方を加えたものが59.8パーセントで、トルコに比べると、30パーセントも低くなっています。特に生まれ変わりは絶対にあると思っている人は、70%も低くなっているのが目立ちます。日本はどうでしょうか。この一覧表では、日本は、フィリピン、メキシコ、南アフリカ、ドミニカ共和国、チリにつづいて、第8位になっています。生まれ変わりは絶対にある(8.1%)、多分ある(34.5%)の両方を加えて42.6パーセントになっています。この後に続くのは、アメリカが12位で、絶対ある、と多分ある、を合わせて31.3パーセント、韓国が15位で、27.3パーセントと続きます。低いほうでは、33位がベルギーの12.5パーセント、34位がキプロスの10パーセントです。

 私は、昔は、生まれ変わりというようなことは、何もわかっていませんでした。しかし、事件で妻と子を亡くしてからは、せめて生まれ変わってくれるのであればと、一縷の望みを持ち続けるようになっていました。『歎異抄』第5条の、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情、みなもて世々生々の父母兄弟なり・・・・」というようなことばにも強く惹かれていくようにもなりました。そしていまでは、スピリチュアリズムから多くの真理を学んで、生まれ変わりが事実であることを知るようになっています。

 私の『天国からの手紙』には、私の生まれ変わりの一部について、二十数回分の記録が付表としてつけられています。編集者の一人がまとめてくれたものですが、一人の生まれ変わりの記録がこのように公開されるのは珍しいことかもしれません。生まれ変わりについての関心を高めるきっかけになってくれればという気持ちもありました。ただ私たちは、「生まれ変わり」の霊的メカニズムが、決して単純なものではないことも教えられています。この本の中で私が、「あくまでも一つの参考例として見ていただきたい」と付言しているのもそのためです。




   瀬戸内寂聴さんの死生観     (2016.02.10)


 瀬戸内寂聴さんは、小説家でありながら天台宗の尼僧として大僧正という僧位ももっています。1922年(大正11年)5月15日生まれですから、現在は93歳でしょうか。その瀬戸内さんの生活ぶりを描いたNHKスペシャル「いのち ――瀬戸内寂聴密着500日」が昨年(2015年)11月22日に放映されました。ご覧になった方も多いことでしょう。何年か前にも、私は、彼女が京都の住まいである寂庵で青空説法をしている場面をテレビで見たことがあります。説法が終わって一人の男性が、「先生、人間は死んだらどうなるのでしょうか」と訊いたのですが、寂聴さんは、「それはわかりません、まだ死んだことがありませんから」と答えていたのを見ていて、僧籍にある者にはもう少し何か答え方があるのではないか、と思ったりしました。

 昨年11月の番組では、寂聴さんは、その前年の9月に胆嚢がんの手術をして、3か月ほど寝たきりの生活をした後、リハビリに励んでいる姿などが映し出されていました。その時に寂聴さんは、独り言のように、「私は死ぬことは恐くないんだけど、死んでみないとわからないよ。死んだ人は何も教えてくれないから、わからないですね。でも私は、死んだら体は焼かれるけど、魂は残るという感じがするんですよね。死んでも何もないなら、生きているこの世の意味がないような気がするわね」とつぶやいていました。「昨年の大病で死に損なって、まだ生き続けているものの、私はもはや大病前の自分ではないことを、はっきり自覚している。私はあの病中、一度も死にたいとは思わなかったし、この病気で死ぬかもしれないと思ったことも露ほどもなかったことに気づいている」という文章も残しています。

 行動派の彼女は、東日本大震災の被害者を見舞ったりもしていますが、そこでは、犠牲者の遺族たちに、「結局は人間はひとりなんですよ。ひとりで生きて、やがてひとりで死んでいくんですね。ひとりは寂しいけれども、一緒に死ぬことはできないですね」と温かく声をかけていました。文化勲章ももらった著名人であるだけに、彼女のことばを有難く思った人々も多かったことでしょう。遺族のなかには津波で消防士の夫を亡くした中年の女性がいましたが、涙を流しているその女性には、「生きているうちはひとりだったけれど、亡くなった人の魂はこの世で一番愛した人が心配でね、必ずあなたのそばに来てくれているんです。やがてあなたも逝くんですからね。大丈夫よ、向こうで会えますよ」と慰めていました。何か少し遠まわりしている感じですが、このあたりが、「死んだ人は何も教えてくれないから、わからない」と言っている寂聴さんの死生観のひとつの限界なのかもしれません。




  幽霊を乗せて走った被災地タクシー      (2016.02.17)


 東日本大震災の最大の被災地・宮城県石巻市のタクシー運転手たちが体験した幽霊現象を、「朝日新聞」(2016.01.21)夕刊が、「被災地タクシー 幽霊を乗せて」というタイトルで大きく取り上げていた。サブタイトルが「死者への思い 大学生が卒論に」となっている。東北学院大学の社会学のゼミで工藤優花さんが卒論に「幽霊現象」をテーマに選んだというのである。工藤さんは3年生の時の一年間、毎週石巻に通い、客待ちをしているタクシー運転手をつかまえては「震災後、気になる経験はないか」と尋ねてまわった。100人以上に質問したが、多くの人は取り合わなかったり、怒り出したりした。それでも7人が、不思議な体験を語ってくれたという。そこには、こんな話もあった。

 (50代の運転手の話)
 震災後の初夏に季節外れのコート姿の女性が、石巻駅付近でタクシーに乗り込み、「南浜まで」と行き先を告げた。「あそこはほとんど更地ですが構いませんか」と尋ねると、その女性は、それには答えず、「私は死んだのですか」と震える声で言った。運転手が驚いて後部座席に目を向けると、そこには誰も乗っていなかった。

 (別の40代の運転手の話)
 夏の8月なのに厚手のコートを着た20代の男性客を乗せた。バックミラーを見ると、まっすぐ前を指している。繰り返して行き先を訊くと「日和山」とひと言答えた。しかしその日和山に到着した時には、後部座席にその男性の姿はもうなかった。

 これらが、単なる「思い込み」や「気のせい」ではなかった証拠があるという。タクシーに誰かを乗せれば、必ずメーターは「実車」に切り替わり、記録が残る仕組みになっている。誰かを乗せて代金を受け取らなければ、運転手が代金を弁済しなければならない。運転手の中には、出来事を記した日記や、「不足金あり」と書かれた運転日報を見せてくれた人もいたらしい。興味深いのは、証言してくれた運転手たちが、みな恐怖心ではなく、幽霊に畏敬の念を持ち、大切な体験として心にしまっている、と工藤さんが伝えていることである。ある運転手は津波で身内を亡くしていた。「こんなことがあっても不思議ではない。また乗せるよ」と言う人もいた、と彼女は話している。こういう幽霊現象そのものは新奇ではないが、工藤さんがそれを大学の卒業論文にしたというのは、珍しいといえるかもしれない。




   八甲田山の雪中行軍遭難事件       (2016.03.10)


 むかし、「八甲田山雪中行軍遭難事件」というのがあった。一九〇二年(明治三五年)一月に日本陸軍第八師団の歩兵第五連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練中に遭難した事件で、「八甲田山」の題名で映画にもなっている。訓練への参加者二一〇名中一九九名が死亡したが、これは日本の冬季軍事訓練ではもっとも多い死傷者であるといわれている。その後日譚が、佐藤守『ジェットパイロットが体験した超科学現象』(青林堂、2012年)のなかで取り上げられている。著者の佐藤氏は、自衛隊・空将を勤めた人で、この本は、自衛隊内で語り継がれている霊的な現象を自分の体験を中心にまとめたものである。

 著者の佐藤氏が八甲田の古老に聞いた話では、遭難後、青森にある第五連隊の営門で当直につく兵士たちには、遭難事件と同じような吹雪の夜になると行軍部隊が「亡霊部隊」となって八甲田から戻ってくる軍靴の音が聞こえてきたという。そこで、その真偽を確かめるために、吹雪の夜を選んで、ある将校が連隊の営門前で当直して待ち構えていたら、深夜に二〇〇人近くの部隊が行進する軍靴の音が近づいてきた。彼らが営門前に到着した気配を感じた当直将校は、「中隊、止まれー!」と闇に向かって大声で号令をかけた。すると、軍靴の音が止まったばかりか、銃を肩から下ろす音までして部隊が停止した気配がした。

 当直将校は「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」と訓示し、改めて「担え―、銃」と号令した。すると、銃を担ぐ昔がして、「回れ―、右」 の号令で一斉に向きを変える軍靴の音がし、さらには「前へ進め!」の号令で再び部隊が動き出す気配がした。やがて行進する軍靴の音は八甲田山の彼方に消えていったそうである。その後、亡霊部隊は二度と戻ってこなかった。古老は「きっと兵隊さんたちは成仏したのだろう」と佐藤氏に語ってくれたという。それまで死んだことがわからず迷っていた兵士たちが、当直将校の「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ」ということばに納得したということになるのであろうか。

 ここで思い出したのだが、黒沢明監督の作品で1990年に公開された『夢』というオムニバス映画があった。その第4話が「トンネル」である。敗戦後、ひとり生き残って復員した陸軍将校が戦地で全滅した部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かった。すると、そのトンネルの中から、中隊の兵士たちが、「亡霊部隊」となって、整然と行進しながら自分の方へ進んでくるのである。トンネルの中から聞えてくる兵隊たちの軍靴の足音はだんだんと大きくなってきて、やがて「亡霊部隊」はトンネルから出てきた。兵士たちは死人であるために顔は真っ白く描かれている。

 トンネルの出口に立っていた寺尾聡が扮するその中隊長は、自分に向かってくる「亡霊部隊」の行進にたじたじとなるが、気を取り直して、亡霊部隊に大声で、「中隊―、止まれ!」と号令をかける。部隊は止まった。それへ向かって中隊長が訓示する。かつての部下たちに、全員が戦死したことを伝え、ここへは来るべきではないと改めて退去を命令する。「担え―、銃」という号令で、兵士たちは銃を担ぎ、「回れ―、右」 の号令で一斉に向きを変える。そして、「前へ進め!」で兵士たちは軍靴の音を響かせながらトンネルの奥へ消えて行った。いま考えると、これは、あの「八甲田山雪中行軍遭難事件」の後日譚にヒントを得た作品であったのかもしれない。




   親を選んで生まれてくる子供たち       (2016.03.16)


 池川明・豪田トモ共著『えらんでうまれてきたよ』(二見書房、2010)という本がある。著者の池川氏は長年、赤ちゃんの誕生に接してきた産婦人科の医師で、豪田トモ氏は、池川氏の講演を聞いて感動し、その内容をドキュメンタリー映画「うまれる」に仕立て上げた監督である。

 産婦人科医の池川氏は、この本のなかで、「生まれる前の記憶」に興味をもったのは、親子関係をよくするヒントが含まれていると感じたからと述べている。そして誕生前後の記憶について調査を始め、2003年から翌年にかけて、保育園に通う 3601組の親子を対象にアンケート調査を実施した。その結果、胎内記憶がある子は33パーセント、誕生記憶がある子は20パーセントもいることがわかったという。(同書pp.71-72)

 これは極めて高い数字である。胎内記憶はこれほどありふれた現象なのに、なぜそれが一般には知られてこなかったのか。氏は、「赤ちゃんには何もわかるはずがない」という偏見が、真実を見誤らせているのではないかと考えている。子どもがせっかく話し出しても、親が聞き流したり否定したりするうちに、子どもは口を閉ざし、やがて成長とともに記憶を失っていくのかもしれない。それで氏は改めて、子どもたちの胎内記憶や誕生時の記憶などの実例を、この本でいろいろと紹介しているのである。そのなかには、つぎのような記憶も含まれている。

 (例1)
 おかあさんとおとうさんが別れるのは知ってたよ。わかってたけど、ぼくはおかあさんをえらんだんだよ。空の上から見ていたら、おかあさんがすごくがまんしているように見えたし、悲しそうに見えたから来たよ。おとうさんには新しい家族ができるけど、おかあさんはたぶんひとりだから・・・・・。ぼくがいるから大丈夫だよ。――汐音くん

 (例2)
 ママ、はるかはわかってたんだよ。お空からママのことを見てママがいいって決めたんだけど、そのときにおじさんがやってきて、「このママのところに行くとパパはいないんだよ」って言われた。でも、それでもいいから、ママのとこに来たくて来たんだから、はるかはパパがいなくても大丈夫なの。――羽琉香ちゃん

 (例3)
 おかあさんのおなかに入る前は、雲の上で神さまといっしょにいたの。わたし以外にもいろんなお友だちがたくさんいてね、みんな天使みたいに羽がついてるの。おかあさん、「かわいくてやさしい女の子がほしい」っておいのりしてたでしょ? だから神さまがわたしに、「あのおかあさんのおなかに行きなさい」って言ったの。だからわたしが生まれたのよ。自分でおかあさんをえらぶ子もいるし、神さまがおかあさんをえらぶ子もいるけど、わたしの場合はおかあさんがわたしをえらんだのよ。知ってたでしょ? ――美咲ちゃん

  このなかの、(例2)の羽琉香ちゃんのことばについては、お母さんは、「離婚をしたばかりの頃、当時3歳の娘が話してくれた言葉です。この記憶のおかげで救われました」と述べている。(例1)の汐音くんも、お母さんが離婚することを知っていたうえで、そのお母さんを「力になりたい」と思って選んだようである。このように、お母さんが「寂しそうだったから」とか「悲しそうだったから」という理由で選ぶ子どもは決して少なくはないと池川氏はいう。(例3)の美咲ちゃんは、「おかあさんがわたしをえらんだのよ」と話しているが、これは、おかあさんの祈りに神さまが応えたと考えていいのかもしれない。

 私の手許には、デーヴィッド・チェンバレン『誕生を記憶する子どもたち』(片山陽子訳、春秋社、1994)や平野克己『輪廻する赤ちゃん― 誕生の秘密』(人文書院、1996)などもあるが、このような本によって日本や世界各国の実例をさらに紹介するまでもなく、子どもは親や環境を自ら選んで生まれてくる。この世でいう逆境をわざわざ選ぶことも決して珍しくはないが、それも自分の霊性向上のためである。私たちは、そのような霊的真理についてもいろいろと学んできた。例えば、シルバー・バーチの教えでは、これは、つぎのような表現になる。

 地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。( 『シルバー・バーチの霊訓(1)』 p.38)




   100年を生きてきたジャーナリストの人生観   (2016.03.30)


 むのたけじ(武野武治)氏は、1915年1月2日に秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の農家に生まれて、現在101歳である。東京外国語学校スペイン語科を卒業後、報知新聞を経て、朝日新聞記者になった。1945年8月15日、敗戦の日に、戦争責任をとる形で退社したという異色の経歴をもっている。その後は、秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊した。1978年の休刊まで主幹として健筆を揮い、現在も、著作、講演などを通して社会活動を続けている。101歳という年齢は、おそらく現役のジャーナリストとしては日本では最高齢であろう。そのむのたけじ氏が、3年前に、『99歳一日一言』(岩波新書、2013年)を出している。そのなかには、つぎのようなことばがあった。

 《嘆きや苦しみ、悲しみをどうしてそんなに嫌がるのですか。なぜ喜びや楽しみ、幸せばかりをそんなに強く望むのですか。あなたの願いが丸ごと叶えられたら、どうなるか。毎日の暮らしからため息や涙やためらいは皆消えてしまい、朝から晩まで喜び、楽しみ、幸せばかりが続いたらどうなるだろうか。そんな状態ばかりが一〇日も続いたら、何のために生活しているかがわからなくなり、生きていること自体から逃げ出したくなるのであるまいか。苦しみに耐え抜いて、それを克服するから全身に喜びが湧いてくるし、悲しみに耐え抜いてそれを乗り越えるから幸せをおぼえるのではないか。夜の闇を嫌って目をつむり続けていると、いつまでも夜明けの光は見られませんよ。》 (同書pp.41-42)

 人生を100年も生きてきた人のことばであるだけに、やはり、このような言い方には重みがある。人生が学校である以上、嘆きや苦しみ、悲しみは学びのための教材なのであろう。教材には、当然、易しいものもあれば難しいものもあり、人によって与えられる教材はさまざまである。それらを学びながら、私たちはそれぞれに霊性の向上を目指して生きていくことになる。私たちは、それが霊的真理であることを知っているが、むのたけじ氏の場合は、たとえばそれをシルバー・バーチなどによって教えられなくても、人生100年の体験を通じて、自ずから理解していったことになるのであろう。氏には、生と死についての、つぎのようなことばもある。

 《人は産まれると、どこでも誰もが祝って喜ぶ。人が死ぬと、どこでも誰もが悲しんで泣く。おかしいな。おかしいをおかしいと感じないことがおかしい。この世では物事の初めと終わりは連動して連結して一貫しているのが普通だ。なのに、生きる営みの開始と完了は、なぜまるっきり背中合わせになるのか。万人に祝福された生命の開始に万人が悲しみで終了するとしたら、一生の営み、その苦労は何のためであったのか。人が産まれるのを喜んで、死ぬのを嘆き悲しみ続けている限り、人は人として実は生きていないのではないか。》(p.182)

 100歳の貫録で、生と死の真実を見通したようなことばであるが、しかし、これを書いているむのたけじ氏には、おそらく、スピリチュアリズムとの接点はないように思われる。その点では、意識的に、あるいは無意識的に霊的真理からは距離をおこうとしている世間の知識人、文化人、科学者などといわれるような人と変わりはない。それは、氏自身が、「死そのものと死後について人々の書いた文章は、積めば山を越すだろう。私も書いてきたが、確かな手応えは皆無だ。死者直筆の手紙が一通でも届けば、ほんとうのことがわかるだろうが、過去七〇〇万年間の死者の誰からも、ハガキ一枚すら届かなかった」(pp.180-181)と、書いているのをみてもわかる。実は、「ハガキ一枚」どころか、膨大な情報が― それが玉石混交であるにせよ― 「死者」から届けられている事実を、この温厚篤実な人生の大先輩は知る由もないのであろうか。




  ある戦国武将の予言死について          (2016.04.07)


 この戦国武将というのは黒田官兵衛のことである。黒田官兵衛は、おそらく武将としては、日本の歴史の中ではもっとも親しまれてきた人物の一人で、それだけに、多くの作家、研究者の著作がある。司馬遼太郎『播磨灘物語』もそのひとつである。司馬氏のこの作品における巧みな人物描写は、人々の頭に、あざやかな黒田官兵衛像を結ばせるのに大きな力になったといえるであろう。司馬氏は、この本のなかでは、黒田官兵衛の死の場面をつぎのように書いている。

 慶長九年、如水、五十八。その三月、めずらしく病臥した。長政が病床を見舞うと、如水はこの朴直な息子を、ひさしぶりでおどろかせた。
 「どうやら、死期がきた」
 三月二十日の辰ノ刻に死ぬだろう、といった。
 如水は物事の予見がすきであった。無欲であれば誰でも予見はできる、とつねづねいっていたが、このおかしなほど私心の薄かった男は、ついに自分の生涯の最後まで予見してしまい、事実、その日時に、溶けるように死んだ。

 これはもちろん小説であるが、このように、黒田官兵衛は、一般には、予言した通りの日時に死んでいったことになっている。黒田官兵衛は優れた戦略家であった。それはわかっているが、同時に、優れた霊能者でもあったのだろうかと、私たちは関心をもたざるをえない。「無欲であれば誰でも予見はできる」というが、彼はそれだけで予言できたのであろうか、と思ったりもする。もうひとつ例をあげると、不破俊輔『黒田官兵衛 その生涯』(明日香出版社、2013)では、最後の場面はつぎの様に描かれている。

 わしが死ぬのは来月の二十日の辰の刻(八時前後)であろう。
 わしが死んだら葬儀をはでにしないでほしい。また、仏事もきょくりょく減らしてほしい・・・・・・。
 遺言を言い終わると官兵衛は辞世の歌を一首詠んだ。
  おもひをく言の葉なくてつゐに行く
  道はまよはじなるにまかせて
 みずから短冊にその歌を書き、名を記して長政に与えた。
 三月二十日、辰の刻、予言したとおりの日時になると、官兵衛は長政と栗山備後ら重臣を枕元に招き、さきに長政に与えた辞世の歌を口吟してその声がまだ終わらないうちに端然として亡くなった。五九歳。国中の臣民が父を失ったように悲しんだ。

 これらに対して、渡邊大門氏は、その著書『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書、2013)のなかで、官兵衛が予言どおりに死んでいったというのは「伝説化を図るもので信を置きがたい」とつぎのように疑問を投げかけている。

 慶長九年(一六〇四)三月、官兵衛は病に臥すことになった。詳しい病名は不明である。晩年を太宰府天満宮の庵で過ごした官兵衛にも、ついに終焉のときがやってきた。亡くなった場所は福岡でなく、滞在先の京都・伏見の藩邸であった。福岡から京都までの長旅が体にこたえたのであろうか。当時、官兵衛は五十九歳であった。
 以下、『黒田家譜』によって、終焉の状況を記すことにしたい。官兵衛が長政を呼び寄せて、「三月二十日の辰の刻(午前八時頃)に死ぬ」と、自身の死期を語った。官兵衛は、自らの死の時期を予言してみせたのであるが、いうまでもなく官兵衛の伝説化を図るもので信を置きがたい。

 自分の死ぬ日時を正確に予言して死んでいった人としては空海がいるが、空海はいうまでもなく平安時代の高僧で、偉大な霊能力者でもあっただけに、これに疑義をはさまれることはないようである。空海は、七七四年に生まれて、八三五年に亡くなっているが、自分の死ぬ日時を、三月二一日の寅の刻(午前三時~五時)と予言し、弟子たちに「嘆くなかれ」と戒めつつ、予言通りに死んでいった。海外の例では、スウェデンボルグが自分の死の日(一七七二年三月二九日)を予告した手紙を人に送り、その予告どおりの日に彼は死んでいる。しかし、官兵衛の場合は、おそらくその予言の根拠が『黒田家譜』である限り、「信じがたい」というのにはそれなりの説得力がある。渡邊大門氏はこの点について、さらに次のように述べている。

 『黒田家譜』は福岡藩の儒者・貝原益軒の手になるもので、寛文十一年(一六七一)に福岡藩主・黒田忠之の命を受けて編纂を開始し、元禄元年(一六八八)に完成した。執筆には「黒田家文書」なども駆使しているが、古い時代になると根拠になる史料が乏しいため、叙述に信頼性の欠ける面がある。また他の文における官兵衛などの評価に関しては、儒教の影響を受け、官兵衛を実際以上に理想化している感が否めない。『黒田家譜』以外にも、『故郷物語』『常山紀談』などの史料があるが、二次史料としての限界が少なからずある。したがって、『黒田家譜』は黒田家の正史としての基本史料ではあるが、利用に際しては注意が必要なのである。(同書、p.13)

 官兵衛の黒田家は、江戸期に、筑前福岡で五十二万石という大大名になったが、その出自に関しては、謎が多いとされている。これは、黒田家だけではなく、将軍の徳川家を含めて、戦国武将は大半がそうであった。彼らの麗々しく伝えられている家系については、実際は極めて信じがたく、あいまいで作為的であるらしい。司馬遼太郎氏は数多い著作のなかで、何度かこの大名の家系について触れているが、「ほとんどが、創作で、うそ」であるという。『歴史と風土』(文春文庫)の中でも、氏は、「天皇家と出雲大社家を除いては、連続した名家というのは存続しない。実際は、日本人の家系の9割9分9厘までは作りものといっていい」(p.90)と、述べている。

 江戸初期に、幕府は諸大名に家系を提出させたのだが、それを官立の編纂機関で編纂させたのが『寛永諸家系図伝』であった。幕府に言われて俄かに家系を作る必要に迫られた諸国の大名たちが、編纂官の林羅山に作成を頼みこんだりしたらしい。林羅山は、その子の鵞峰や門人の堀杏庵などを動員してほとんどの大名の家系を創作したともいわれている。『黒田家譜』についても、そのような時代の趨勢とは無関係ではなかったであろう。黒田官兵衛が、その人物や識見、あるいは、軍事的才能において、秀吉でさえ一目おいていた武将であったことは言を俟たないが、ただ、死ぬ時日まで予言していたということについては、やはり、「信を置きがたい」といわれるのも無理ではないかもしれない。




  ワーズワースの詩 「私たちは七人」   (2016.04.13)


 大学時代に習ったワーズワーズの詩の中で、「私たちは七人」は、いまも頭に残っている。「霊魂不滅」の考え方が、その時の私には新鮮であった。ロンドンに住んでいたころ、湖水地方へ出かけて、グラスミアの村はずれにある彼の家ダヴ・コテージ(Dove Cottage)を訪れたこともあったが、その時も私は、この「私たちは七人」を思い出していた。

 ワーズワース(1770-1853)は、北西イングランドの風光明媚な「湖水地方」で5人兄弟の第2子として生まれた。子どもの頃に母と父を亡くし、孤独な少年時代を送るが、自然の美しさが彼の心の慰めとなったといわれる。ケンブリッジ大学に学び、1790年には、フランスに渡って、フランス革命の熱狂のなかで革命を支持したこともあったが、後年は保守的に傾いていった。サミュエル・テイラー・コールリッジと出逢い、二人は意気投合し、二人で、1798年に『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』を共同で出版した。彼が、湖水地方に戻って、ダヴ・コテージ(Dove Cottage)に住むようになったのも、この頃からである。「私たちは七人」は長い詩で、つぎのようなことばから始まっている。

  ――無邪気な子である
  息は軽やかで
  手足の動きにも いのちがあふれている
   死のことなど こんな子が知るよしもない

  私は小屋住まいの 少女に会った
  年は八つだと その子は言う
   髪は ゆたかに
  巻き毛の房になって垂れている

  田舎らしい 野育ちの感じで
  質素な服を着ているが
  瞳は汚れなく どこまでも澄みきっていて
  ――その美しさが 私の気持ちを和ませる

  「おじょうちゃん」と私は話しかけた
  「おねえさんや おにいさんたち、きょうだいは何人いるの?」
  「何人って? みんなで七人なのよ」
   と その子は訝しそうに 私を見た

  ・・・・・・・このあとも、ワーズワースはその子に話しかける。その子は、「二人の兄は船乗りで、別の二人はコンウェイに住んでいる」という。そして残りの二人は、「教会のお墓にいる」ということであった。二人がお墓にいるのなら兄弟姉妹は5人になるのではないか、「どうしてそれが七人になるの?」とワーズワースは聞き返す。しかし、女の子の答えは変わらなかった。二人は海に出て、二人はコンウェイに住み、姉と兄の二人はお墓に眠っている。だから私たちは七人だと、言い続けるのである。女の子にとっては、お墓に眠っている姉と兄も共に生きている家族なのであった。何度かこのようなことばのやりとりが繰り返されたあと、最後は、つぎのような2節で、この詩は終わる。

  「じゃあ 何人になるのかな 君たちは
  その二人が 天国にいるのなら」
  すぐに その子はこう答えた
  「うん おじさん 七人なの」

  「でも その二人は死んでるんだよ 彼らの魂は天国に上っているんだよ」
   しかし そう言っても 私のことばは空しかった
  その子は やはり 思っている通りに言い張った
  「ううん わたしたちは 七人いっしょなの」


 (原文はつぎのとおりである)

  We Are Seven

   ――A simple Child,
  That lightly draws its breath,
  And feels its life in every limb,
  What should it know of death?

  I met a little cottage girl:
  She was eight years old, she said;
  Her hair was thick with many a curl
  That clustered round her head.

  She had a rustic, woodland air,
  And she was wildly clad:
  Her eyes were fair, and very fair;
  ――Her beauty made me glad.

  "Sisters and brothers, little maid,
  How many may you be?"
  "How many? Seven in all," she said,
  And wondering looked at me.

  "And where are they? I pray you tell."
  She answered, "Seven are we;
  And two of us at Conway dwell,
  And two are gone to sea.

  "Two of us in the church-yard lie,
  My sister and my brother;
  And, in the church-yard cottage,
  Dwell near them with my mother."

  "You say that two at Conway dwell,
  And two are gone to sea,
  Yet ye are seven! I pray you tell,
  Sweet Maid, how this may be."

  Then did the little Maid reply,
  "Seven boys and girls are we;
  Two of us in the church-yard lie,
  Beneath the church-yard tree."

  "You run about, my little Maid,
  Your limbs they are alive;
  If two are in the church-yard laid,
  Then ye are only five."

  "Their graves are green, they may be seen."
  The little Maid replied,
  "Twelve steps or more from my mother's door,
  And they are side by side.

  "My stockings there I often knit,
  My kerchief there I hem;
  And there upon the ground I sit,
  And sing a song to them.

  "And often after sun-set, Sir,
  When it is light and fair,
  I take my little porringer,
  And eat my supper there.

  "The first that died was sister Jane;
  In bed she moaning lay,
  Till God released her of her pain;
  And then she went away.

  "So in the church-yard she was laid;
  And, when the grass was dry,
  Together round her grave we played,
  My brother John and I.

  "And when the ground was white with snow,
  And I could run and slide,
  My brother John was forced to go,
  And he lies by her side."

  "How many are you, then," said I,
  "If they two are in heaven?"
  Quick was the little Maid's reply,
  "O Master! we are seven."

  "But they are dead; those two are dead!
  Their spirits are in heaven!"
  'Twas throwing words away; for still
  The little Maid would have her will,
  And said, "Nay, we are seven!"




   86歳の誕生日を迎えて            (2016.04.20)


 人の寿命は生まれてきた時から決まっているといわれるが、この世でそれがいつまでであるかを予測することは極めてむつかしい。それはおそらく神の領域に属することであって、優れた霊能者であっても、その寿命の予測については、なかなか容易ではないようである。かつて私は、76歳から78歳の寿命であると何度か言われたことがあった。その私が、霊界の真実をより多くの人々に伝え、啓蒙をはかることが期待されて、86歳ぐらいまで寿命が延びると告げられるようになった。それが2010年頃のことである。それからも大腸がんと腹部動脈瘤の手術を生き延び、6年が経過して、私は今日、86歳の誕生日を迎えている。私はこの世の基準では、平均寿命を超えてすでに十分に高齢であり、霊能者に言われるまでもなく、いつ死んでも不思議ではない。

 本欄の 「100年を生きたジャーナリストの人生観」(2016.03.30)で紹介したむのたけじ(武野武治)氏には、つぎのようなことばがある。「死の訪れは嬉しくないが、悲しくもない。逃げも隠れも泣きもしない。自分のものが自分に屈いたら、ニッコリ笑って受け取るだけだな。それより死の世界の様子を生の世界へ書き送ってきた者は、まだ一人もいないね。できるものなら、オレがその通信を書きたいね。おれは物書き職人だから。」(むのたけじ『99歳一日一言』、岩波新書、2013年、p.191) 私は、このように自己の生死を達観している人生の大先輩のことばに敬意を表するのには吝かではない。ただ、前の紹介の時にも触れたように、「死の世界の様子を生の世界へ書き送ってきた者は、まだ一人もいない」については、氏の勘違いであり、同意することはできない。世界中で、古来、「死者」から送られてきた通信は決して少なくないからである。

 むかし私は、かつてコナン・ドイルがしたように、或いは、浅野新樹氏の例にならって、私が死んだら、私もあの世から霊界通信を送ってみることを考えたことがある。私の通信を仲介してくれそうな有能な霊能力者がいないわけではなく、このホームページにその通信を掲載してくれるであろう協力者もいないわけではなかった。私は、むのたけじ氏のような「物書き職人」ではないが、私なりに、あの世の様子をこの世へ書き送ることができるかもしれないと考えていた。しかし、そのような考えは間もなく消えてしまった。それは私の小さな自己満足にすぎないかもしれず、霊的真理の普及に特に役立つわけではないと思ったからである。レベルの低い私のあの世からの通信を一つ付け加えるよりも、このホームページでも紹介している浅野新樹氏の、霊的資料としては第一級の、すぐれた通信を何度も読み返していただく方がはるかに大きな意味がある。

 人にはそれぞれに生きる目的があり、この世で果たすべき使命があるのであろう。私は、1983年に妻と長男を亡くして以来、長い間、悲嘆の底に沈んでいた。死んだ者は決して生き返ってこないと思い込んでいたから、絶望するしかなかった。絶望から立ち直れることがあるなどとは想像すらできなかった。悲しく惨めで、そのまま、無明の闇のなかでの長い彷徨が続いた。しかし、1992年にロンドンの大英心霊協会で、アン・ターナーをはじめとする何人もの優れた霊能者に逢って、妻と長男が生き続けていることを一点の疑いもなく確認できてからは、悲嘆と絶望は喜びと希望に変わった。それは私にとっては奇跡としかいいようがなく、本当に有難いことであった。結局は失ったものは何一つもないことに気がついて、私の生活は一変した。私にとっては妻と長男の「死後生存」がすべてで、それ以上、私が欲するものは殆ど何もなかった。

 一年のイギリス滞在を終えて帰国の途中、私はインドに立ち寄り、ニューデリーでガンジーの墓に詣でた。その時、「自分のまわりにいる一番貧しい者を救え」という碑文に接して私はすぐに反応し、インドやネパールの貧しい子らのために毎月の学資や生活費を送るようになった。帰国後は、本を書いたり講演会で話したりして、私は霊界の真実を私なりに伝え始めた。その感謝と奉仕の生活も20年以上続けてきて、いまは漸く、今生で自分に与えられた使命を私はほぼ果たし終えたことになるのかもしれない。

 顧みれば、私にとっても霊的真理への道は決して平坦ではなかった。価値観の相克のなかで毀誉褒貶にさらされ、悲しみや苦しみとも決して無縁ではなく、私の乏しい力に余る問題もないわけではない。世間一般では、霊的真理を云々し、生命の不死・永遠を説く者は、非常識な夢想家のようにしか見られないのが普通である。しかし、私には悔いはなかった。天に向かって恥じず、という密かな思いもある。そして、とぼとぼと歩んでいるうちに、思いがけなく86歳の誕生日を迎えた。私は5歳の時に大阪の尻無川で溺れかけて以来、何度か死にそうな目に遭いながら、不思議に生き延びてきた。いわば余分のいのちを生きてきたことになる。これまで、物欲などからは離れてきたつもりでも、80歳代の後半にもなると、おそらく今度は、自分の寿命においても、「足るを知る」心構えが大切なのであろう。今日まで生かせていただいたことを肝に銘じて感謝しつつ、私はいま、いつでも穏やかに、あの世へ還っていけるような気がしている。




   霊界からの導きの手     (2016.04.27)


 上原菜穂子さんは1962年生まれで、児童文学作家、ファンタジー作家、SF作家、文化人類学者というような多彩な肩書をもっています。彼女が書いた『精霊の守り人』は、外国でも翻訳され、その発行部数は累計で486万部にもなるのだそうです。2016年3月からは、NHKドラマとしても放映されました。腕ききの女用心棒・バルサが、ある日、川におちた新ヨゴ皇国の第二皇子・チャグムを助ける。チャグムは、その身に得体の知れない”おそろしいモノ”を宿したため、「威信に傷がつく」ことをおそれる父、帝によって暗殺されそうになっている・・・・・というところから、物語は始まっていました。この間、NHK 教育テレビの「SWITCHインタービュー・達人たち」(2016.03.26) を見ていたら、彼女は獣医師の斎藤慶輔氏との対談で、この著書の第一巻は、3週間で書き上げたと言っているのにちょっと驚かされました。

 上原さんは、あるレンタルビデオの予告編で、燃えているバスの中から子どもの手を引いたおばさんが現れたのを見た時に、「おばさんが子ども守って旅をする話」を書きたいと思ったそうです。その瞬間に、用心棒のバルサが槍を担いでいる姿が頭に浮かび、手を引いている男の子が、「彼女の子ではないな」と思ったとたんに、「チャグム」という皇子の名前が浮かんでいました。上原さんの頭の中では、バルサの声が聞こえ、その体温も感じられて、それで一気に書き上げたといいます。書きあげたものをゲラで読んでも、「これ、誰が書いたんだろう?」といった感じで、もう一度これを書けといわれても書けないとも述べていました。

 これは、上原さんが意識しているかどうかは分かりませんが、おそらく、霊界から導かれて書いているのだと思われます。導かれ方の多少はあるでしょうが、霊界から導かれて本を書くというのは珍しいことではありません。その導きの力が非常に強くなれば、自動書記という形になることもあるようです。書いている本人が意識しなくても、ペンを持っている手が勝手に動いて字が綴られていくわけです。私の講演集第3集「光に向かって歩む」(2000.4.20)に、自動書記で書かれたフインランドのキルデ博士の 『死は存在しない』と言う本について紹介していますが、この場合は、書き上げるのに24時間しかかかっていませんでした。

 私の『天国からの手紙』も、原稿の依頼から出版に至るまで、いろいろと霊界からの導きがありました。私の意識とは別に、霊界からの力が働いて、あれよあれよというまに、本一冊が出来上がったという感じでした。本を書く場合には、そういうことが感じられ易いということがあるのかもしれません。私たち一人ひとりには、指導霊と守護霊がついていて、ふだんから私たちは見守られています。通常、私たちはそれを意識することがあまりありませんが、注意して振り返ってみると、そういう導きの手が差し伸べられていたことに気がつくこともあるのではないでしょうか。いわゆる「虫のしらせ」とか、「偶然の」出来事とか、インスピレーションを受けるとか、あるいは、夢に見たりして、いろいろと助けられているのですが、それらがすべてそうだとはいえないまでも、私たちは霊界からいつも見守られていることは知っておく必要があるようです。

 シルバー・バーチも、「いかなる事態にあってもあなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れた時には元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。一人ぼっちということは決してないということです」と教えてくれています。また、優れた霊能者として知られた M.H.テスター氏も、『現代人の処方箋』(潮文社、1988)のなかで、「人間には例外なく背後霊がついている。その中に一人ないし複数の、とくにあなたと連絡が取りやすい霊がいて、その霊が取り次いでくれる。別に霊能者は必要ではないのである・・・・霊の声を聞くとか姿を見るとかの現象は起きないかもしれない。そういうことは、実は、無用なのである。背後霊はコミュニケーション(通信)ではなくてコミューン(交わり)によって指導するのである。導き、慰め、援助、その他、あなたに必要なものがどこからともなく得られることに気づかれるはずである」と、述べていました。 (pp.79-80)




  水と食事についてのイマジネーション   (2016.05.04)


 のどが乾いたら、コップ一杯の水を飲む。それはただの水にすぎないが、よく考えてみれば、決してただの水ではない。「特別の」水である。水は太古の昔から、海と地上から大空へ、そして大空から海と地上へと壮大な循環を続けてきた。海と地上から立ち上った水蒸気は雲になり、やがてそれが集まって、雨を降らせる。その一部が、地上を這い、あるいは山野の地面に浸みこみ、大地の栄養分を吸収しながら、川になって流れ、貯水池から水道管で運ばれて、そのごく一部がいま、蛇口からそのコップに注がれている。だから、その水は、昨日の水とは決して同じではない。明日の水とも違うであろう。それは、「一期一会」ともいえる、今日ただ今だけの水である。

 食卓で何気なく食事をとる。そのコメは、太陽と水に恵まれた地方の田んぼの中で、農家の人たちが営々として育てて無事に実ったものである。それが、さらに多くの人々の手を経て産地から運ばれ、いま目の前にある。その魚は、もしかしたら地球の反対側の大洋で生をうけ、はるばると何千キロも大海原を回遊しながら育ってきたいのちの履歴をもっているかもしれない。食卓に輸入のビーフがあれば、それはおそらく、アメリカやオーストラリアの大地で草を食み、ゆっくりと流れる大空の雲を眺めながら成長してきた牛が形を変えた姿である。レタスがあれば、それは、肥沃な大地の香りを嗅ぎ、虫たちのささやきを聞きながら大きく育ったにちがいない。トマトの赤色が目につけば、それは、太陽の光をいっぱいに吸い込み、朝露に輝きながら色づいていったものであろう。

 私たちはのどが渇けば水を飲み、空腹になれば食事をとる。これは当たり前のようであって、本当は当たり前のことではないのではないか。これは、よほど大きな恵みと考えた方がよさそうである。生物は同種、他種を問わず、様々な形で自分以外の生物個体を利用して生きているが、その中で最も典型的に見られる利用法が他者の捕食である。たとえば、陸上の生物には、草の葉をバッタが食べる→バッタをカマキリが食べる→カマキリを小鳥が食べる→小鳥をタカが食べる…… といった生物間のつながりがある。水中でも同じように、たとえば海では、植物プランクトン→動物プランクトン→イワシ→イカ→アシカ→シャチ…… などのつながりがある。自分が他のものを食べて生きていく代わりに、自分もやがて他のものに食べられていく。このようにして、地球上の生物のいのちは循環してきた。

 人間もかつては、ライオンや虎やオオカミなどに食べられていた。しかし、いまは、人間は食物連鎖の頂点に君臨して、他を食べるばかりで他から食べられることはない。その状態にあまりにも慣れきってしまうと、何時の間にか他を食べていくのが当たり前に思うようになってしまって、感謝の気持ちをもつこともなくなってしまいがちである。時には、私たちが生きていくためには、実は、動物や植物を食べる、つまり「殺す」ことで支えられていることを、ほんの少しでも考えてみる必要があるのではないか。水が自由に飲めるということ、そして食物が好きなだけ食べられるということ、これはやはり、大きな天からの恵みである。




  宿命としての寿命と与えられた使命          (2016.05.12) 


 私の親しかった友人のWさんは小樽商科大学の同僚であったが、2004年の9月に、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病で亡くなった。71歳であった。Wさんは文化人類学の専攻で、日本民族学会の会長なども務めた優秀な学者であった。スキーの名手で、私も何度か一緒に冬山へ滑りに行ったことがある。この病気ALSでは、視覚や聴覚、痛みなどの五感が正常のまま、運動神経だけが徐々に麻痺していくといわれる。最後には、呼吸もできなくなるから、その段階では、気管を切開して人工呼吸器をつけなければならない。しかしWさんは、人工呼吸器をつけることはしないことを選択した。その時点で、延命治療を拒否したことになる。

 医療技術が発達している現代では、ALSという難病でも延命治療によってかなりの程度に肉体的機能を維持することはできる。医療側も、家族などの要請に応えて、できるだけ延命を図るための努力をするであろう。しかし、おそらく霊的視点からみれば、延命治療にはあまり意味はないのかもしれない。私がWさんの立場でも、おそらく同じ道を選ぶし、ALS以外の病気でも、延命治療に頼りたいとは思わないだろう。人にはそれぞれに定まった寿命があるから、できるだけ自然にその寿命を受け容れていくだけである。

 ALSは、もう100年以上も前からその存在が知られていながら、いまだに病気の原因は解明されていない。そのために、有効な治療法も見出せないようである。ただ、極めて稀な例として、ケンブリッジ大学のホーキング博士がいる。「車椅子の物理学者」としても知られる博士は、1960年代、学生のころに筋萎縮性側索硬化症を発症したとされている。通常、発症から5年程度で死に至る病気の患者でありながら、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上たっても「健在」の状態が続いている。現在は意思伝達のために重度障害者用意思伝達装置を使っており、スピーチや会話ではコンピュータプログラムによる合成音声を利用している姿が、テレビなどで世界中で知られるようになった。2001年には、来日して、東京大学安田講堂で一般講演を行っている。1942年生まれで、今年74歳になる博士が、これほどまでの障害を負いながら、なお、世界の物理学会をリードする学者であり続けるというのは奇跡としかいいようがないが、これも博士のこの世で与えられた使命と考えるべきなのであろうか。




  中国の仏教ブームに思う        (2016.05.18)


 去る4月6日のNHK「クローズアップ現代」で放映された「経済減速・中国で仏教大ブーム!」は興味深い番組であった。多くの方々がご覧になったことであろう。1960年代の文化大革命で徹底的に寺院や仏像を破壊した中国は、1970年代になると、改革開放で、拝金主義が蔓延するようになる。急速な経済発展が続いて、やがて日本をも追い越し世界第二の経済大国にのし上がったのだが、その代償として、国民の間には深刻な貧富の格差と社会の不安定感を生み出してきた。カネ儲けの競争が激化するなかで、コネや不公平・不正が広がり、毎年汚職で摘発されるものが5万人にも上るようになったという。それが、2008年のオリンピック後のリーマンショックによる経済減速で、企業倒産や若者の就職難などの社会不安が一気に高まった形になった。習近平国家主席が、中国の指導者として初めて、仏教の容認に踏み切ったのは、社会の安定と調和のためにとられた苦肉の策であったに違いない。

 この番組によると、現在、中国の仏教信者の数は3億人にも上るという。キリスト教信者も、一説では1億人に増えてきた。仏教の信者3億人というのは大変な数であるが、中国政府は従来の政治姿勢を一変し、「仏教は中国の特徴ある文化であり、中国人の信仰心や考え方、習慣などに大きな影響をあたえてきた」として、仏教寺院の再建などにも資金援助までしているらしい。番組では、経済大国になったはずの中国で、社会の在り方や自分の生き方に疑問を抱くようになり、精神的な安らかさを求めようとする多くの人々のさまざまな心の葛藤を映し出していた。ある音楽プロデューサーは、大きな邸宅を3つも買えるほどの収入や地位のすべてを投げ出し、出家するに至った決意を、「私は今まで金儲けのために嘘を言って人を騙してきました。偽りの世界では生きる価値を見出せませんでした」と涙を流しながら、告白していた。

 中小企業の経営者たちを対象にした仏教セミナーなども盛んで、日々のプレッシャーやストレスに耐えきれなくなり、救いを求めて参加する人が増えているという。「お金は表面的で、一時的な楽しみしかもたらさないと気付いたのです。権力に執着して投獄される人、金に目がくらみ人格が変わってしまった人がどれだけいるでしょう」、「私はいつも業績をあげることばかり考えてきました。そうした考えを改めなければならないのです」などという声が流れた。仏教ブームは若者たちにも広がって、北京大学や精華大学などの将来を期待されたエリート学生たちの間にも、企業に就職はせず、出家する例が珍しくはないらしい。「勉強にもがんばりました。親の期待にも応えました。それでもなぜ楽しくないのでしょうか」、「何とかいまの現実から抜け出したいのです」などと社会の閉塞感を嘆いている若者たちもいた。かつての貧しい中国から、世界第二の経済大国にまでのし上がってきた急激な社会変化のなかで、最近では、金銭では決して豊かになれないと思う人が確実に増えてきているようである。しかし、これが日本にとっても、単なる「他山の石」ではないと感じるのは、おそらく私だけではないであろう。




  次の生まれ変わりまでの平均期間など    (2016.05.25)


 本欄の「人は死んでも生まれ変わる」(2016.02.03)で、大門正幸氏が、「34か国の人達の生まれ変わりに関する見解」という一覧表を紹介していることに触れました。「人は死んでも生まれ変わる」と信じている人の割合を世界の国別に比較したものです。生まれ変わりの研究者としては、米国バージニア大学のイアン・スティーブンソン博士がよく知られています。博士は、バージニア大学医学部で、精神医学・神経行動科学科知覚研究所を設立しましたが、その研究所で生まれ変わりの研究を続けていた大門正幸氏が、研究所に蓄積されていた2600を超える生まれ変わりの事例のうち、検索可能なデータベースに入力されている2030例を分析した結果をまとめたものがあります。そこには、つぎのような結果が含まれています。(池川明・大門正幸『人は生まれ変われる』ポプラ社、2015、pp.43-45)

 1.過去生について語り始める平均年齢は2歳10か月。話さなくなる平均年齢は7歳4か月。
 2.過去生の死から、次の生まれ変わりまでの平均期間は4年5か月。
 3.語った過去生の人物が見つかった例は72.9パーセント。
 4.過去生で非業の死を遂げた事例が67.4パーセント。
 5.過去生での悪行が原因で、生まれ変わった身体に障害があるとする事例は4例のみ。

  このうち、5の「悪行が原因で生まれ変わった身体に障害がある」事例は「4例のみ」というのは、自ら高い霊的成長を望んで障害を選んで生まれることが少なくないことを念頭においているのでしょうか。一時は、過去生を語る子供たちには、解離性障害など、精神に問題があるとする指摘などもありましたが、これは心理学的研究の結果、明確に否定されていると大門氏は述べています。それどころか、過去生記憶がある子どもは、ない子どもに比べて、知能が高い傾向があるという結果が示されているようです。2の「過去生の死から次の生まれ変わりまでの平均期間は4年5か月」というのは、注目すべきデータといえるかもしれません。「生まれ変わり」の実態を捉えるのは簡単ではないことをシルバー・バーチも述べていますが、五井昌久師は、それをつぎのように教えています。これは、上に掲げた3や4と、どのように整合するのか難しい問題ですが、参考までにつけ加えておきたいと思います。

 《生まれ変わりの年限は、その霊魂の因縁によって違うが、近来、非常にその年限が短縮されて、死後二、三年や、七、八年で生まれ変わる人がたくさんできている。しかし、霊そのものが生まれ変わるのではなく、魂(幽界に蓄積された想念、普通霊魂と呼ばれている)が魄(すなわち肉体となる原子)を、寄せ集めて、肉体界に生まれ変わってくるのである。そのすべての原動力は、その人のみ霊元、いわゆる直霊から来て、守護神が、その誕生を、指揮するのである。であるから、Aという人間が、肉体界に生まれ変わりとして生活していながら、前生からつづいているAという霊魂の想念は、幽界にも生活しているのである。いわゆる二重写しのようになっているのである。もっといいかえると、想念は霊、幽、肉の三界を貫いて活動している、ということになり、その想念活動の力は、分霊から発しており、その元は直霊にあるのである。しかし、こうした説明は実にむずかしく、ややこしいので、普通は霊魂の生まれ変わり、と簡単にいっているので、そうした説明だけで、納得されていてもよいのである。》 (『神と人間』、白光真宏会出版局、1988、p.79)




  驚異的な人工知能の発達     (2016.06.01)


 人工知能が発達して、今では、器械が人間の話し相手になってくれるのも珍しくはなくなりました。なかでも、5月15日のNHKスペシャル「人工知能を探る」で紹介された北京のマイクロソフト・アジアが開発の「シヤオアイス」は圧巻で、番組では、現在、スマートフォンを通じて、4千万の人びとが人工知能との会話に夢中になっていることを伝えていました。しかも、その会話は、決まったパターンで行われるのでなく、4千万のユーザー一人一人に合わせて、4千万通りの会話ができるようになっているということです。人工知能と対話しているうちに、人間に対する恋のような感情を抱いている人もいることに驚かされます。番組では、つぎのような例も紹介されていました。

 父親と喧嘩してむしゃくしゃしている若者が、前にシヤオアイスが歌で慰めてくれたことを思い出して、「もう一度歌ってよ」と、スマートフォンを通じてシヤオアイスに語りかけます。シヤオアイスは、「そうねえ、でもあなたが歌って聞かせて」と答えます。若者が「家族と喧嘩したんだよ」と、歌えない気持ちを打ち明けると、シャオアイスは、「冷静になって、ご両親の気持ちを考えて」と若者を諭すように答えていました。たいへん自然な対話の流れで、「人工」をまったく感じさせません。さらに若者は、「親は僕が嫌いなんだ」と言いますと、「まずは自分を愛さないと」と答えて、シヤオアイスは、今度は、若者のために可愛い声で歌い始めました。「私を泣かせたり、笑わせたり、あなたは本当に、愛をおしえてくれた・・・・・」というような中国のラブソングの歌詞がきれいなメロディで流れてくるのです。この若者は、シヤオアイスとの対話について、「まるで大切な人が僕のことを気にかけてくれているようです。家族や友人たちに話せないことでも、聞いてもらえるし、結婚したいような気持になりますね」と、「彼女」に対する熱い思いを語っていました。

  この人工知能は、これからもまだまだ発達進化していくと思われますが、世の中の人生相談なども、人工知能の方が、相手の精神状態などを正確につかみ取りながら、より効果的なアドバイスを与えられるようになるかもしれないと思ったりしました。これからさらに、古今東西の人文、哲学、宗教の膨大な知的遺産などを人工知能に学習させていくことも、おそらく不可能ではないのでしょう。あるいは、シルバー・バーチが語る霊的真理などについても、偏見なく、広く深く学習させていけば、少なくとも、表面的な知識の上では、悩める人たちに対する有効な対応が期待できるような気もします。しかし、一面では、人工知能に頼るというのは、こころから離れてモノへの傾斜が高まっていくことになるのでしょうか。シルバー・バーチがよく言っているような、霊的真理を受け容れる準備ができていない状態は、そのためにかえって解消できないこともあるのかもしれません。




  際限なく拡大する世界の資産の格差    (2016.06.09)


 国際NGO(オックスファム)は、昨年、2015年に世界で最も裕福な62人の資産の合計が、世界の人口のうち、経済的に恵まれない下から半分(約36億人)とほぼ同じだとする報告書を発表しています。スイスの金融機関の調査データなどで推計したもので、これによると、上位62人の資産合計は1兆7600億ドル(約206兆円)で、この5年間で44パーセント増えているのだそうです。一方、経済的に恵まれない下から半分の資産は、2010年には上位388人分に相当したのが、2015年には62人分となり、41パーセントも減ってしまっていることが明らかになっています。(「朝日」2016.01.20)

 上位62人分の資産が、下位36億人分の資産に匹敵するというのは、どう考えても行き過ぎですが、しかも、この格差はこのままでは、おそらく、さらに拡大していく気配です。人類の共存共栄という理想は遠のくばかりで、もうすでに世界各地では、この富の極端に不公平な分配が、深刻な社会問題を引き起こす元凶になっているといっても決して過言ではないでしょう。物質的に豊かになればなるほど、同時に、人間の金銭に対する欲望も果てしなく肥大化していくようです。そして、コントロールのきかないその欲望が、ついにはこのような極端な富の配分の不公平を生み出す結果になってきました。

 ひとつの救いは、一部の富豪たちが、自分たちの富を社会に還元しようと努力していることでしょうか。例えば、昨年12月、フェイスブック社の最高経営責任者マーク・ザッカーバーグ氏が5兆5千億円を社会貢献運動へ寄付することを表明しましたし、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏は、ポリオなど感染症の撲滅のために9兆5千億円を寄付しています。同氏は、投資家ウォーレン・バフェット氏とともに、資産の半分以上を社会に寄付する運動などもしています。こうした著名人だけではなく、2014年のデータでは、米国の個人寄付総額は約27兆3500億円にのぼりました。日本でも個人の寄付はありますが、同じ2014年度では、その総額は約7400億円で、これは、米国の個人寄付総額にくらべると、37分の1にとどまっているようです。(「朝日」2016.01.20)

 米国で寄付行為が盛んなのは、キリスト教の影響が無視できないでしょう。しかし、日本にも、富を分かち与えることで来世の幸福が約束されるという仏教の考えなどがありました。ただ、戦前、戦中の社会が、国家神道など公益を極端に強調する方向に突き進んだことへの反動から、戦後は、自分を生かすために他者を生かすという友愛の精神が薄らいできたといえるかもしれません。とはいえ、現在、世界的規模で拡大されている資産の格差を是正していくためには、社会制度の改革も必要ですが、やはり大切なことは、モノから心へと立ち返る精神的な変革ではないかと思われます。シルバー・バーチは、宗教とは「自分を人のために役立てること」と簡明直截にいっていますが、そのような他者に尽くす宗教こそ、いまは切実に求められているのかもしれません。




  この世での立身出世と金持ちへの願望   (2016.06.15)


 奈良時代初期の歌人・山上憶良の「士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして」はよく知られている歌で、私たちは子供の頃から、親しんできた。かつて小学校の卒業式などでよく歌われていた「仰げば尊し」のなかにも、「身を立て/ 名をあげ/ やよ励めよ」ということばがある。「君たちも卒業して世の中に出たら、大いに努力して立身出世を目指しなさい」というわけである。

 このように、私たちは、立身出世することが何よりも価値のある美徳として教えられてきた。この傾向は、いまも変わっていないかもしれない。むしろ、いまはモノとカネへの傾斜が一層強くなっていると思われるから、立身出世は金持ちへの願望と並行して何よりも望まれているともいえるであろう。受験競争の激化などもその顕れの一つである。人生は一度きりで、死んだらすべてが無になってしまうのであれば、その人生を人一倍豊かで、地位も名誉もあるものにしたいと思うのは、誰にとっても至極当然な願望として受け入れられても不思議ではない。

 このような立身出世願望は、大いに社会に貢献できる可能性をもつということでは、それなりに肯定されていいのかもしれない。しかし、人間は霊的存在で、生命は永遠であるとする視点に立つと、この立身出世願望も受け止め方が、おそらく、変わっていくであろう。人に尽くし社会に貢献していくのは何よりも大切であるが、そのためには、特に立身出世が必要なわけではなく、むしろ、立身出世のために人を押しのけてでも一歩前へ出ようとする強い利己主義の姿勢が、逆に、人々に対する優しさと思いやりのこころから遠ざけてしまうことがあるかもしれない。

 地上で「立身出世」をした人が霊界ではしばしば低い階層に陥っていることはよく言われることである。聖書も、「富者が天国へ入るのは、ラクダが針の穴を通るよりむずかしい」といい、「宝は地上ではなく、天に蓄えよ」という。「右手で行った善行は左手に知られてはならない」ということばもある。私たちは、自分のできる範囲で人のため、社会のために尽くしていかねばならないが、本当は、何よりも霊界での「立身出世」、つまり、霊格向上を目指すべきであり、少なくともこの世では、「万代に語り継ぐべき名」を立てたいとは考えなくてもよいのではないか。




  死はすべての終りではないことを伝える   (2016.06.22)


 女流作家の佐藤愛子さんは作家の中では、おそらく、霊的体験を最も多く持った一人であろう。かつて、彼女は自分の霊的体験をもとに、「心霊世界の実相を伝えること、それが私に与えられた使命だった」として、『私の遺言』(新潮社、2002年)を書いている。佐藤さんは、長年の心霊現象に苦しみ悩んだ末に、何人かの霊能者の助けを得て、やがて、心霊現象の意味を理解し、あの世が存在することを確信するようになっていった。彼女は、この本のあとにも、『冥土のお客』(光文社、2004年)を書いている。この本では、過去の自分の体験を踏まえて、すでに多くの霊的真理を理解するようになった彼女が、いろいろと心霊現象、霊的真理について彼女なりに語っているのが興味深い。例えば、よく問題になる低級霊の憑依の問題については、次のように述べている。

 《短波受信機は波動が合うと電波が届く仕組になっている。時々低級霊に憑依される人がいるが、それは低級霊と同じ波動の持主だということになる。最近これといって原因がない、理性を感じられない殺人が増えているが、これは日本人の波動が低くなっているためだといわれる。神職にお祓いをしてもらったり、霊能者に祓ってもらったりしても、その人の波動が上らないうちは、祓われた低級霊はまた引き寄せられてやって来る。たとえ霊能者の力でその憑依霊が浄化したとしても、同じ波動の別人(別霊)が来て憑いてしまう。物質的価値観がはびこって、精神性が低下している現代社会はこうして、低級霊が跋扈し、なるべくしてなっているといえるのだ。》 (同書、pp.204-205)

 この『冥土のお客』のなかでも、佐藤さんは、様々な心霊現象や霊能者との接触について述べているが、そういう話を通じて、彼女が納得するようになった霊的真理、つまり、人は死んでも魂は永遠に生き続けるということを、真剣に読者に訴えようとしている。その気持ちを、彼女は、この本の「後書き」に、こう書き出した。「以上の話を真実と考えるか、妄想駄ボラと思うかは読者の自由です。私はただ実直に、何の誇張も交えず私の経験、見聞を伝えました。これらの体験を書いて人を怖がらせたり興味を惹きたいと考えたのではありません。」 そして、その後を、こう続けている。

 《死はすべての終りではない。無ではない。
  肉体は滅びても魂は永遠に存在する。
  そのことを「死ねば何もかも無に帰す」と思っている人たちにわかってもらいたいという気持だけです。三十年にわたって私が苦しみつつ学んだことを申し述べたい。ひとえにそれが人の不信や嘲笑を買うことになろうとも。私にはそんな義務さえあるような気さえしているのです。
  この世で我々は金銭の苦労や痛苦、愛恋、別離、死の恐怖など、生きつづけるための欲望や執着に苦しみます。しかし、それに耐えてうち克つことがこの世に生まれてきた意味であること、その修行が死後の安楽に繋がることを胸に刻めば、「こわいもの」はなくなっていく。
  それがやっと八十歳になってわかったのです。
  この記述によって好奇心を刺激された人、この私をバカにする人、いろいろいるでしょう。でもたった一人でも、ここから何かのヒントを得る人がいて下されば本望です。その一人の人を目ざして私はこの本を上梓します。》




   あの世に帰れば誰もが霊能力者になる     (2016.06.29)


 霊能力者の江原啓之氏は、スピリチュアリズムを広めるためには、本を書くのが一番だと思っていたらしい。しかし、彼も、はじめの頃は、本を書いてもなかなか売れなかった。そこで、本が売れるようになるためには、テレビなどに出演して「有名になる」ことを心がけたという。これは邪道になるのかもしれないが、彼は、そのために自分に与えられている霊能力を大いに活用した。その彼が、『人生に無駄はない』(新潮社、2008年)のなかで面白い言い方をしている。「現世では霊能力者として注目されている私も、死んであの世へ帰れば “ただの人”」だというのである。

 なるほど、これはそのとおりであろう。あの世へ帰れば、私たちは一人の例外もなく、みんな「霊能力者」になる。私たちみんなが当たり前のようにテレパシーでコミュニケーションができるし、行きたい場所へも瞬時に移動できるようになる。思ったことが即座に実現する世界であるから、欲しいものがあれば、それも私たちはすぐに手に入れることができる。それが、霊界での「ただの人」である。江原氏がこの世で霊能力をもっていたからといって、あの世でその「ただの人」以上のことができるわけではない。霊界では、霊格が何よりも重要であるが、この世の霊能力者が、あの世では霊格が必ずしも上であるというわけでもない。

 「あの世で私がただの人というのは、日本では英語が得意で英検一級を持っているような人が、アメリカへ行けば“ただの人”になるのと同じです。アメリカでは小さな子供でさえ英語を流暢に話しています」と江原氏はいう。あまりいい譬えではないが、これもそうかもしれない。ついでに言えば、英語ができるということだけでは、実はあまり大した役には立たない。その英語を使って何が語れるかが大切で、語るべき中身を自分で持っているかどうかが問われるのである。英語はコミュニケーションのための道具の一つにすぎず、その道具を持っているからといって偉いわけでも人格が高くなるわけではないであろう。人間の価値を左右するのは、あくまでもその人が持っている「語るべき中身」であるといえるが、この英語と人格との対比は、こじつければ、霊能と霊格との関係にもあてはまるのかもしれない。




   地位、財産、名誉への空しい願望        (2016.07.07)


 地位、財産、名誉などを手に入れることは、おそらく万人の持つ強い願望だと思うが、しかし、この願望が満たされたからといって、人は必ずしも幸せになるわけではない。たとえば、イギリス王室の華であったダイアナ妃は、離婚のあと事故死したが、高森顕徹監修『なぜ生きる』(一万年堂出版、2013)によれば、その前に自殺未遂を五回も繰り返していたという。美貌で、シンデレラストーリーの花形になり、皇太子との「世紀の結婚」を果たして羨望の的になった彼女には、地位も名誉も財産も何一つ欠けたものはないように思われていた。しかし、その彼女も、人知れず悩み苦しむ、一人の人間でしかなかった。

 ウォーレス・カロザース(Wallace Carothers, 1896-1937)はアメリカの化学者で、デュポン社の有機化学部門のリーダーとして、世界で初めての合成繊維ナイロンを発明した。日本でも、「戦後強くなったものは女性と靴下」といわれたように、このナイロン製品は世界中で爆発的に普及し、デユポン社は莫大な利益を得た。この会社は、その見返りに、この天才化学者には破格の待遇を与えていた。「生涯、どこへ旅行をし、どんな高級レストランやバーで飲食しようが、費用の一切は会社が持つ」というのである。彼の一生の遊び代ぐらいを保証しても、安いものだとデュポン社は考えていたのであろう。しかし、そのカロザースは、41歳の若さで自殺してしまっている。

 日本初のノーベル文学賞に輝いた川端康成も、ガス自殺をとげているが、こういう事例をさらに持ち出すまでもなく、地位、財産、名誉に恵まれても、恵まれなくても、人生には艱難辛苦がつきまとう。むしろ、地位や財産や名誉に取り囲まれてしまうほうが、悩みも苦しみも多いかもしれない。だから、古来、多くの覚者、賢人は、そういうものから遠ざかるような生活を心がけてきた。シルバー・バーチもいう。「物的存在物はいつかは朽ち果て、地球を構成するチリの中に吸収されてしまいます。ということは物的野心、欲望、富の蓄積は何の意味もないということです。一方あなたという存在は死後も霊的存在として存続します。あなたにとっての本当の富はその本性の中に蓄積されたものであり、あなたの価値はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもありません。」(『霊訓(6)』、p.179)















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