灰色の日々が過ぎていくなかで (身辺雑記91)
     = 生かされてきた私のいのち (20)=


 1951年(昭和26年)の秋には、それまで住んでいた荻窪の家から歩いて10分ほどの大宮前2丁目に、父が約60坪の借地を見つけて、そこへ4部屋の家を建てることになった。台所の水道とは別に、離れの小屋を作り、その中に井戸も掘った。その辺の井戸は深くて水が美味しかったからである。いまは、そのあたりは住宅で埋め尽くされているが、その頃はまだ家の周りは雑木林になっていて、近くには野菜畑や麦畑が広がっていた。父が新築の金をどのようにして工面したのかはわからない。あるいは、新しくアルミニューム工場の経営を任されたときの契約金のようなものがあったのかもしれない。

 何年も苦しんできた窮乏生活からは、この頃からは、少しずつ抜け出していた。住宅は年末には完成し、門や塀は木材を仕入れて私が一人で作り上げた。郵便受けも自分で作ってニスを塗り嵌め込んだ。一間(1.82メートル)幅の門は2枚の扉を観音開きにして閂で留め、左右の一方にはくぐり戸を取り付けた。柱や板には鉋をかけ、ペンキを塗って仕上げた。塀には防腐剤を塗った。もしかしたら、この門や塀は素人の作ったものには見えなかったかもしれない。昔は、木材は安く手に入ったし、私は工作や大工仕事が好きであった。1952年の新年からは、私たちは、木の香りがする新居に移り住んだ。

 H商事でのアルバイトは継続しながら、私は少しずつ、東京外大の勉強にも力を入れるようになっていた。東京外大が続けられなくなった場合のことを考えて、夜間の中央大学にも籍をおいていたのだが、家の経済状態が少しずつ安定してきていたので、外大での留年を続けるつもりはなかった。それでもアルバイトの合間に学校へ通っていたような状態であったから、おそらく外大の授業や講義には、3分の1も出席していなかったかもしれない。中央大学で3年生になるのは何の問題もなかったが、東京外大の二年次への進級のために、2月中旬からの学年末試験をクリアするのは楽ではなかった。

 学年末試験で、ロシア語専攻科目の大半は、なんとか試験期間中に受けたが、一部の専攻科目と経済学、社会学、歴史学、人類学などの一般教養科目については、苦肉の策で、試験が終わった後の「追試験」を受けることにした。期末試験を受け終わったあとの学友から教科書やノートを借りて「自習」したのである。アルバイトも休んで、毎日12時間ほど勉強に集中した「日課時間割」がいまも残っている。追試験は、病気などのやむをえない事情などで許されるもので、教務課に許可願いを出さねばならない。だが、当時は生活苦の学生たちも多く、その認可は大目に見られていたように思う。追試で受ける科目の評価は20パーセント減になるとかいわれていたが、私には選択の余地はなかった。そんなやりくりをした上で、1952年の4月には私は東京外国語大学ロシア学科の2年生になり、同時に、中央大学法学部の3年生になった。中央大学の「法学会」への所属も、そのまま、しばらく続けた。

 この年の春には、大阪の加茂君も一浪した後で慶応大学を受験するために上京していた。2月末から一週間ほど私の家に泊って、経済学部と法学部を受けたが、その間は、母が毎日朝5時に起きて、6時半に弁当を持たせて送り出していた。加茂君は、経済学部は落ちたが法学部に合格して、4月からは慶応大学の学生になった。上の妹の秋江も都立女子高校を卒業して、3月の初めに、授業料のかからない東京大学の付属高等看護学校を受験した。本人は合格できると思っていたようだが、これは不合格になった。別に受験していた私立のS女子大学は合格したが、入学手続きで、授業料や入学金のほか、かなりの寄付金の申し込みもしなければならないことがわかって、自分で進学を断念した。それからは、彼女もアルバイト先を見つけて働き始めた。時には、父の会社の事務を手伝ったりもしていた。

 私は学校へはあまり行かなかったが、専攻のロシア語の勉強には力を入れるようになった。その頃、読んでいたトルストイの『光のある中に光の中を歩め』に感動して、外語大の図書館から、ロシア語の原著を借り出してきた。その原文を、ノートに書き写しながらロシア語で読み始めた。当時はまだ、コピー機はなかったからである。少なくとも、一般には普及していなかった。そのロシア語原文は、英語の原文でQuo Vadisを読んだ時のように楽にはいかなかったが、薄い本を半年以上もかけて何とか読み終えた。ドイツ語はゲーテの『若きウエルテルの悩み』の文体に惹かれて、ドイツ語の原文で読むことを考えた。神田神保町の古本屋でドイツ語の原本を見つけて購入し、これも少しずつ声を出して読み始めた。このドイツ語の書簡文からは、多くを学ばされていたような気がする。

 その頃、4月9日に、日本航空機・もく星号が三原山に墜落して、乗員・乗客37人が全員死亡する事故が起こった。当時の記録によると、4月9日午前7時34分、風雨の羽田空港から福岡へ向かった同機が、離陸20分後に消息を絶ったのである。午後になって、全員救助の情報が流れたが、これは誤報であった。翌10日朝、伊豆大島・三原山の噴火口付近でバラバラになった機体が発見されたのである。なぜ「全員救助」の誤報が流れたのかはよくわからなかった。搭乗者の遺族たちにとっては悲歎の極みであったに違いない。私はそれらの遺族たちに対してはこころからの同情を禁じえなかったが、その31年後、大韓航空機事件で私自身が同じように、「全員無事」の誤報で悲歎のどん底に突き落とされることになろうとは、その時には知る由もなかった。

 この日航機墜落事故は、その前年に再開されたばかりの民間航空で初めての大事故であったために、新聞やラジオで大きく取り上げられた。当時の東京―大阪間の運賃は片道6千円で、これは国家公務員上級職の初任給なみであったから、一般庶民には手が届かなかった。搭乗者の何人かが「有名人」であったことも、報道に拍車をかけていたかもしれない。事故の後、当然に真相究明が求められたが、当時、航空管制を管轄していた米軍側は、なぜか肝心の交信記録テープの提出を拒んで、真相解明が出来ずに迷宮入りになってしまっている。「全員無事」の誤報についても、作家の松本清張は、『日本の黒い霧』のなかで、これを米軍による作為的な操作であると推測している。

 この事故が起きたちょうどその頃、吉田茂内閣が国会に上程した「破壊活動防止法」に対して、総評と中立系労組から成る「労働法規改悪反対闘争委員会」は、この法案に反対するゼネスト断行を決定していた。東京外国語大学でも中央大学でも、校門あたりに学生たちによる立て看板が並び、法案反対の集会が開かれて騒然とした雰囲気になっていた。政府は、破防法は正常な労働運動を弾圧するものではない、と説得を試みたが、労組側との会談も物別れに終わった。ゼネストは4月12日に突入して以来、三波のストが決行され、特に第二波のストには、全国で107万人が参加したと報道された。

 その後に起きたのが、5月1日の「血のメーデー事件」である。講和条約発効後の初めてのメーデーになる第23回中央メーデーの会場は、「人民広場」と呼ばれていた皇居前広場が予定されていたが、政府は不祥事の発生を恐れて、その使用を禁止した。主催者の総評は、訴訟を起こして東京地裁から総評の主張を認める判決を得たが、政府が控訴したため、やむをえず、総評はメーデー会場を明治神宮外苑に移した。その中央会場に集まった労働者は約40万人といわれた。午後から、デモ解散予定地の日比谷公園にデモ隊が到着し始めると、当時の新聞の報道では「人民広場へ」と叫ぶ学生たちを先頭に約1000人が皇居前広場に移動して、それに来た労働者たちも加わり、デモの数は6000人に膨れ上がった。その後、デモ隊が二重橋前に達した時に、警戒中の警官隊5000人が排除に乗り出して、デモ隊との間に大乱闘が始まったのである。

 私は、たまたま、アルバイト先の用事で、その日の午後3時過ぎには日比谷公園付近にいた。そこで一面の黒山の人だかりにぶつかって動けなくなった。電車通り一つを隔てて、石を力いっぱい投げつけているデモ隊に警官隊も石を投げ返して応戦していた。「・・・・まるで内乱のような騒ぎだ。警官たちの投げる石つぶてを避けながら、私は木陰から様子を見ていた。事態が悪化し、警官隊が増員されてトラックで通り過ぎようとすると、デモ隊から一斉に石が投げつけられる。押したり返したり、その間にも通過するアメリカ人の車があると石が投げつけられたり、通りすがりの米兵が殴られたりしている。そして、遂に、道の両側に駐車していたアメリカ人専用の高級車10台ばかりが横に倒され、火をつけられて燃え出してしまった。すさまじい光景だ。何といえばいいのだろう。自失したようになって、私は激しい乱闘を見ていた・・・・」と、その日の日記にはある。

 翌日、5月2日の新聞では、一面が乱闘の写真で埋め尽くされ、大々的にこの事件が取り上げられていた。デモ隊側では2名が死亡し、約1500人が負傷、警官側も約800人が負傷したらしい。警視庁は、この事件をデモ隊による組織的・計画的なものとして騒乱罪を適用し、261人が起訴された。破壊活動防止法案の成立を図っていた政府にとっては、しかし、この事件は好都合であったかもしれない。ゼネストなどで反対されていたこの法案も、7月には国会を通って、成立した。

 その頃、私は、H商事の洋服の月賦販売が、ほとんど詐欺に近いような商法であることがわかってきて、出来るだけ早く止めたいと思うようになっていた。代わりのアルバイトを一生懸命に探していたが、なかなか見つからなかった。7月に入ってまもなく、私は、アルバイトの作業中に左脇腹が急に痛くなり始めた。すぐ治るだろうとあまり気にしていなかったのだが、3日経っても5日経っても治らず、歩くのも苦しくなってきた。仕方なく、自宅の近くの山田医院へ出向いて一時間近くも診察を受けた。血沈の検査をして、二日後にまた来るようにいわれたので、再度出向くと、腎臓の表面が化膿しているかもしれず、症状は軽くないと告げられた。発熱も40度になっていた。山田先生は、精密検査を受けるために、阿佐ヶ谷の河北病院宛の紹介状を書いてくれた。

 翌日、とても歩けそうもなかったのでタクシーで河北病院へ出かけた。まず内科で、腹部が化膿しているから切開手術を受けなければならないといわれて外科へまわされた。外科ではレントゲン写真を撮ったり、腹部に針を差し込んで血液を採取したりしたが、手術をするにしても、その位置が正確に掴めないので、もう少し様子をみてみようということになった。一応、入院手続きをして自宅へ帰り、その後数日、自宅で寝ていた。山田先生の往診を受けてダイアジンなどの内服薬をのみながら、湿布をしたり、ペニシリンを打ってもらったりしているうちに、症状は少しずつ軽くなってきた。入院予定日にタクシーで河北病院へ行くと、内科と外科での診察後、快方に向かっているので入院の必要はなく、自宅で療養すればよいといわれて帰宅した。結局、この病気は、発病後4週間くらいで完治した。私はまた、しばらく休んでいたH商事のアルバイトを始めるようになった。

 夏が過ぎ、秋になっても、私はやはり気の進まないH商事のアルバイトから抜け出せなかった。家計が少しは楽になっていたとはいえ、父が任されていた田端のアルミニューム工場の運営は、あまり順調には進んでいないような気配であったし、私は学資などで両親に負担はかけたくはなかった。その頃の毎日は、前途に希望ももてずに悲観的になったりして、暗い表情であったかもしれない。9月の下旬のある日、アルバイト先から中央大学へ寄って、8時半頃帰宅したら、思いがけなく、大阪の平木先生が来ておられて驚かされた。東京での講習会に出席したついでに立ち寄ったということで、父とビールを飲みながら歓談中であった。先生は少し酔っておられたので、その日は、宿泊先の鶯谷の旅館まで一緒にお伴をして、私は真夜中に帰宅した。

 翌朝、私はまた鶯谷へ出かけて、平木先生を東京見物に連れ出した。当時はまだ旅行に出かけられる人は多くはなく、大阪から上京すれば「東京見物」は楽しみの一つであった。焼け跡の一部は新宿や池袋などにも残ってはいたが、上野公園の浮浪者たちは足立区の都の斡旋地に強制移住させられたり、銀座ガード下のバタ屋街が強制立ち退きになっていたりして、東京の街は少しずつ整備されはじめていた。この年の6月には、東京の人口も700万人を突破している。帝国ホテルは米軍の接収から解除されていたし、マッカーサーの総司令部があった宮城前の第一相互ビルも7月には日本へ返還されたばかりであった。東京駅前では、新丸ビルが完成直前の威容を見せていた。

 私は平木先生と一緒に東京遊覧の「はとバス」に乗って4時間ほど都内の名所、旧跡を見て回った。明治絵画館で昼食をとり、宮城の二重橋前で記念写真を撮ったりした。浅草や四十七士の泉岳寺にも寄った。夕方には、中央大学から近い神田すずらん通りの食堂二階の畳の部屋で食事をし、しばらく休ませてもらった。店数は多くはなかったが、その頃はなんとか、食堂で食事も出来るようになっていたのである。夜の新宿を散策した後、東京駅で午後11時発の大阪行きに乗られるのをお見送りした。当時は予約などは出来なかったので、汽車に乗るのに2時間ほど改札口前に並ばねばならなかった。その間に私は神田駅まで引き返して駅前で弁当を手に入れ、先生に差し上げた。私にとっても久しぶりに先生にお会いできて心から楽しめた一日であったが、やはり少し疲れた。

 その頃、娯楽の少なかった一般大衆の間には、ラジオと映画の人気が高まっていた。特に、その年の4月から始まっていたNHKの連続放送劇・菊田一夫作「君の名は」は、大ヒットした。夜のその放送時間の間は、街の銭湯の女風呂はガラ空き状態になっていたらしい。ヒロインの服装から名づけられた「真知子巻き」など、真似をする若い女性が増えて、風俗にまで影響を及ぼしていた。同じ頃、これも多くの聴衆を惹き付けた連続ドラマ「新諸国物語」も始まっている。ラジオの受信契約数も、8月8日に1000万を突破した。

 映画も黄金時代を迎えていた。前年の9月10日に、黒澤明監督の「羅生門」が、ベネチア映画祭で「グランプリ」を取ったのは、大きな快挙であった。それまでは、外国の映画祭のことなどよく知られておらず、日本映画が国際的な賞を受けるなどということは、誰も考えていなかった。受賞の第一報に接した制作会社である大映の永田雅一社長でさえ、「グランプリって何や?」と聞き返したといわれている。この「羅生門」は、1952年の3月に、アメリカでも「アカデミー特別賞」を受賞している。

 これらの権威ある映画賞の受賞は、ようやく敗戦の厳しい痛手から立ち直りつつあった日本の社会に、自信と励みを与えた。この後、黒澤明や溝口健二などの作品が外国の映画賞を相次いで受けるようになり、日本映画の国際的な評価は一気に高まっていった。「雨月物語」、「東京物語」、「地獄門」、「七人の侍」、「二十四の瞳」などの話題作が次々に封切られるようになっていく。10月には、黒澤明の「生きる」が封切られたが、ガンで死期を悟った主人公を演じる志村喬の迫真の演技が、あの「いのち短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬまに・・・」と低く切々と響く「ゴンドラの唄」のメロディーとともに、私にはいまも忘れられない。私は、映画が好きであった。アルバイトの合間に、あるいは学校からの帰りに、時間を見つけてはよく、新宿や西荻窪、阿佐ヶ谷の映画館に通った。スカーレット・オハラの「風と共に去りぬ」なども、その頃日本でも上映されて大ヒットになり、私は何回か繰り返して見ている。

 一方、朝鮮戦争の特需は、一部の業種を潤し続けていたが、一般の深刻な失業率と生活の困窮はまだ解消されていなかった。特に中小企業の経営難は、しばしば社会問題になっていた。経営の苦しさから、自殺者が増えたりしていた。父のアルミニューム工場も、なかなか予期していた業績を挙げられないでいたようである。父は必死に働いていたが、時々は疲労で、寝込んだりしていた。そんな折に、11月の下旬、池田勇人通産相の、国会発言がまた問題になった。衆議院の議会審議のなかで、「中小企業の倒産・自殺もやむをえない」と失言したのである。かつての「貧乏人は麦を食え」の記憶が残っている一般民衆には、このことばは、ことさらに非情に響いた。その後、池田氏に対する衆議院不信任案が可決され、池田氏は辞任している。

 1952年という年は、新居への引越しから始まったが、それ以外は、私にとっては楽しかった思い出の少ない灰色の年であった。少しは昼間の東京外大に通うようになっていたとはいえ、気乗りのしないアルバイト中心の生活は変わらず、夏には4週間の病気などもしている。生活を支えてくれている大黒柱の父の表情にも、疲労の色が濃く浮かぶようになっていた。新年に向けての明るい展望も持てそうもなく、年末の私の日記も灰色である。「除夜の鐘を侘しく聞いて、昭和27年ここに終わる。1952年ここに終わる。悩みに明け、悩みに暮れしこの一年であった。かくの如き年の二度と再び訪れざらんことを切に祈るのみ」と私は書いている。

  (2013年12月1日)







   朝鮮戦争拡大から単独講和締結の頃まで  (身辺雑記90)
      = 生かされてきた私のいのち (19)=

 昭和25年(1950年) 6月25日に始まった朝鮮戦争は、マッカーサーの国連軍が、9月15日に仁川上陸作戦を敢行して以来、戦況は逆転して、10月1日には、韓国軍が38度線を突破するまでになった。この時点で、マッカーサーは北朝鮮に即時降伏を勧告したが、北朝鮮の金日成首相は、その勧告を拒否した。その後10月20日には、国連軍の米国空挺部隊約4千人が平壌北方に降下して平壌を占領し、北朝鮮は首都を新義州に移すまでに追い詰められる。しかし、ここで中国人民義勇軍が、鴨緑江を超えて朝鮮戦線に出動してきた。12月には中国軍の数は50万人になり、12月26日には、中国軍・北朝鮮軍は38度線を突破して再び南下を始め、戦乱は容易には収束がつきそうもない情勢になっていた。

 私は、昼間は主として日雇い労働で働き、夜は中央大学の夜間部へ通うという生活を続けていた。日雇い労働に代わるアルバイトを転々としたこともあるが、安定はしていなかった。東京外国語大学へはほとんど行くことがなかった。家計さえ許せば、昼間のアルバイトを減らし、中央大学はやめて、東京外国語大学に専念したかったが、なかなか、そうはならなかった。父が始めたぬか石鹸の製造販売も、やはり、期待していたようには収益をあげていなかった。このままでいけば東京外国語大学は自然に留年ということになる。10月の後期にはいってからも、事情は変わらなかったから、私は留年を覚悟するようになっていった。

 そんななかで、大阪の友人の加茂君が風邪をこじらせて肺炎になったという知らせが届いた。米田君と同じく、彼とは仁川中学以来の親しい間柄である。11月8日、私は学生用の2割引き乗車券を利用して大阪へ見舞いに行った。急行に乗るのは私にはまだぜいたくで、普通列車では14時間くらいもかかったが、大阪へ行くのであれば苦にはならなかった。行ってみたら、加茂君の肺炎は回復に向かっていて、思ったより元気であった。往診に来ていた中年の医者が、加茂君と私を前にして、「20歳頃までは女性に気をとられたりすることなく勉強に集中すべきだ」というような「教育論」を熱心に展開して私たちを励ましてくれたことを覚えている。

 大阪では、電車に乗っても、道を歩いていても、会う人がみんな親しい人のように思える。誰にでも気楽に話しかければ、気楽な大阪弁が返ってくるはずであった。夢のように楽しかった子供時代の大阪での想い出は、私の心の奥深くにまで染み透っていて、東京で貧しく厳しい生活を送っていた私には、大阪の空気に触れているだけでこころが和むような気がした。その年の正月にも大阪へ行っているが、その時は、まだ大学進学をどうするか決めかねて悩んでいる時であった。今度はもう大学生になってはいたが、大学生とは名ばかりで、昼間はほとんど学校へ行くこともなく、東京外国語大学のほうは、留年になろうとしている。加茂君を見舞いに行った私も、どこかで、私自身がこころの癒しを求めていたのかもしれない。

 翌日には、生野中学の時から同級であった中山正暉君に会った。前にも触れたが、中山君のお母さんの中山マサさんは、その3年前の1947年から衆議院議員で、後に厚生大臣として女性初の入閣を果たした人である。中山君は、自分も来年は東京の大学へ進学したいからと、私に進学相談をもちかけてきた。私は高校を一年短縮していたから、彼より一年先に大学生になっていたのだが、特に進学問題に明るいわけではない。彼の進学先選びには私はあまり役に立たなかった。ただ、私が中央大学の夜間部にいることを伝えたぐらいである。しかし、彼は、その翌年、中央大学の法学部に入ってきた。中山マサさんの秘書という肩書きで、議員宿舎に住むようになった。中央大学「法学会」の研究室にいた私の所へも何度か訪ねてきたことがある。その彼も、後には、昭和44年(1969年)から衆議院議員になり、昭和62年(1987年)には竹下内閣の郵政大臣になった。勝山高校出身者のなかでは、彼はおそらく、有名人の筆頭にあげられているのであろう。

 中山君と会った後、生野中学時代の担任であった平木先生のお宅へ行った。平木先生は国語を教えておられて、先生から習った謡曲の「羽衣」や兼好法師の『徒然草』の文章は、いまでもその断片が頭に残っている。授業は厳しかったが、生徒たちは先生に心服していた。私は平木先生のクラスでほとんど毎学期級長を務めていたし、特に先生からは目をかけられていたように思う。恩師ということばで私がすぐ思い浮かべるのは、平木先生の温顔である。平木先生にはお子さんはなく、奥様との二人暮らしで、一頭の愛犬を家族のように可愛がっておられた。私は平木先生のところで夕食をご馳走になり、結局5時間も話し込んでお別れした。平木先生は、散歩がてらに愛犬をつれて、歩いて10分ほどの天王寺駅まで私を見送ってくださった。

 大阪滞在三日目には、久しぶりに勝山高校へ行ってみた。文化祭の準備ということで授業はなかったようである。先生方や友人たちがみんななつかしかった。私は自治会の中心にいて活発に動いていたので、2年生以上の男女の生徒たちはみんな私を知っている。あちらこちらから声をかけられた。英語担当のS先生と私とで作り上げた英語部で、一年生を含めた男女生徒たちが英語劇の練習をしているところも見せてもらった。私が東京へ転校した後の英語部は、親友の平井進吾君が引き継いでくれていた。平井君は、これも前に書いたが、勝山高校から京都大学を卒業して、後に日本電気大型店協会の2代目会長を務めた人である。平井君が指導したと思われる男女の生徒たちの演技はなかなか上手で、それになんとなく温かみが感じられる雰囲気であった。東京では、公立学校はまだ男女共学ではなかったし、それに私は都立一高でも豊多摩高校でも、編入生としてあまり学校になじまないうちに、大学に入ってしまったから、私にはたった4か月だけではあっても、勝山高校にいたことが高校では一番の思い出になっている。

 その日に、杉山寿美子さんにも、また会った。彼女は旧制女学校生として卒業した後は大日本紡績の秘書課に勤めていたのだが、勤務をどのようにやりくりしたのか、午後2時ごろ阪急デパートで待ち合わせている。それから地下鉄「淀屋橋」駅に近い中の島へ行って堂島川で一時間ほどボートに乗った。すぐ傍の府立図書館はコリント様式の円柱に支えられたファサードが見事な堂々とした建物で、戦災を免れていた。戦前、住友財閥による寄付で建てられ、いまでは国の重要文化財になっている。私が生野中学の生徒で食糧難に苦しんでいた頃は、空腹に耐えながら、夏休みなどに毎日のように通って勉強していたところである。そんなことも彼女に話していたかもしれない。或いはその頃私が繰り返し読んでいた倉田百三の『愛と認識との出発』や『唯円とその弟子』のことなども話したかもしれない。その頃の日記に倉田百三のつぎのようなことばが書き写されている。

 青春は短い 宝石の如くにしてそれを惜しめ
 俗卑と凡雑と低吝との いやしくも之に入り込むことを拒み
 その想いを偉(おほ)いならしめ その夢を清からしめよ
 夢見ることを止めたとき その青春は終わるのである

 私は、自分の短い青春のなかで、杉山さんとの一瞬を、「宝石の如くに」に惜しんでいた。たしかに生活は苦しかったが、凡雑はともかく、俗卑や低吝は入り込んではいなかったと思う。その二日前、加茂君の見舞いの折に、往診の医師の言った「女性に気をとられたりすることなく」ということばは、実は、もっとどぎつい表現であったのだが、それは私には無縁であった。私が青春の「夢見ること」に苦しみながらも、少なくともどろどろした妄念から離れることができていたのは、多分、清純な杉山さんの存在があったからである。

 彼女には明るさと優しさがある。そばにいると自然にあたたかさが伝わってくるような円満な人柄であった。その日の日記には、中の島のあと、午後4時には彼女と難波に出て、勝山高校のS先生と会い、杉山さんも一緒に3人で映画館に入り「レ・ミゼラブル」を観たことになっている。S先生も私のよき理解者であった。勝山高校でその年の4月に旧制女学校卒業生として社会へ巣立っていった杉山さんのこともよく知っていた。映画のあとは杉山さんとは別れて、その夜は、堺市のS先生の家に泊めていただいた。翌日は、もう一度、加茂君の家へ見舞いに立ち寄り、夕方の汽車で、杉山さんに見送られて、大阪駅から東京へ帰った。

 その頃の東京では、戦後の飢餓状況からは抜け出していたが、庶民の食卓はまだ決して豊かではなかった。その年の5月から、米以外のソバ、ウドン、パンなどは外食券がなくても食べられるようになり、9月からは、ガリオア資金による小学校児童への学校給食が開始されている。衣料品を買うのにも、それまでは配給の衣料切符が必要であったが、それも9月からは廃止され、10年ぶりに自由販売されるようになっていた。しかし、だからといって、庶民がそば屋やうどん屋で15円のもり・かけそばを自由に食べていたわけではないし、不足していた衣料品を好きなだけ補充できたわけではない。わが家もそうであったが、依然として、庶民の窮乏生活は続いていた。繁華街の街角や電車の中で、白衣を着た元傷痍軍人の献金を乞う姿もまだなくなってはいなかった。

 12月に入って、当時新聞紙上で喧伝された、池田大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」発言問題が起きた。参議院法務委員会で、質問に答えた池田氏が、「所得の少ない人は麦を多く食う。所得の多い人は米を食うという経済の原則に沿ったほうへもっていきたい」と述べたのが、「貧乏人は麦を食え」とは何事かと、野党の激しい抗議にさらされたのである。朝鮮戦争特需によって、一部大企業などを中心とする好景気が続いていたなかで、一般庶民は政治的にも置き去りにされて、窮乏生活を強いられていただけに、この発言はいかにもタイミングが悪く、誤解されやすかった。この「貧乏人は麦を食え」は、その言葉だけが独り歩きして、その後も折に触れては、生活苦にあえぐ庶民の憤激を呼び起こすことになる。暗い世相のまま1950年も暮れようとしていた。私は、年末から年始にかけては、半月ほど、東京丸の内の中央郵便局で、臨時職員になって郵便の仕分け作業をした。私の正月はなかった。

 昭和26年(1951年)の1月4日には、38度線を越えて南下した中国・北朝鮮軍がまたソウルを占領したというニュースが大きく報道された。3月15日には、そのソウルを国連軍が奪回したが、その後3月24日に、マッカーサーが国連軍最高司令官として北朝鮮・中国軍に停戦を勧告し、応じなければ中国本土への攻撃も辞さないという声明を発表して、朝鮮戦争をあくまで限定戦争に留めておこうとしていたトルーマン大統領と対立した。結局、4月11日、トルーマンは、マッカーサーの合衆国極東軍最高司令官、連合国最高司令官、国連軍最高司令官という地位のすべてを解任して、後任にリッジウェー中将を任命した。

 これは、当時の日本にとっては大きなニュースであった。戦後の日本では、はじめは怖れられていたマッカーサーも、「善政」を敷いたということで天皇以上に人気があったといえるかもしれない。4月16日、羽田へ向かう沿道には、マッカーサーの離日を見送る人々が20万人も立ち並んだ。日本の衆参両議院は感謝決議を行い、マッカーサーの業績を称えて記念館を建設する案まで浮上したらしい。しかし、マッカーサーが帰国後、アメリカで、「われわれが45歳であるとすれば、日本人は12歳の少年である」と発言したことが伝えられると、多くの日本人が憤慨し、彼への熱い思いは急速に冷めていった。

 東京外国語大学は自然に留年した形で、4月に入った。中央大学は問題なく進級して2年生になったが、奨学資金は1年次だけのものであったから、2年目からは、授業料を払わねばならなかった。たまたま、H商事という洋服の月賦販売の会社でアルバイトとして継続的に倉庫の物品整理や運搬等の雑用をするようになっていたので、その給料で自分の学資は工面できた。日雇い労働はやめて、H商事でのアルバイトの合間には、できるだけ東京外国語大学のほうへも出席するようになった。外語大は、入学試験の時は練馬区石神井の仮校舎であったが、その後まもなく、北区西ヶ原の敷地の木造校舎に移っていた。巣鴨から歩いて20分くらいのところである。木造校舎から鉄筋コンクリートの校舎になり、さらに規模が大きくなって、現在の府中市に移ったのは、2000年のことである。

 1951年の春には、父の仕事にも変化があった。資産家の知人の一人が、田端の2百坪ほどの自分の敷地に小さなアルミニューム工場を建てることになり、その工場建設と経営を任されることになったのである。詳しいいきさつは覚えていないが、3年ほどで工場の運営を軌道に乗せ、後継者を育てて、その後は、その資産家の関係者に運営を引き継ぐということであったようである。3年の期限付きであり、アルミニューム関係の仕事は、鉄鋼(圧延)技術者の父には畑違いであったが、父はその仕事を引き受けた。ぬか石鹸の製造販売が先細りになっていた事情もあったからであろう。この仕事で、父が安定した収入が得られるようになって、どん底であったわが家の家計も少しずつ楽になっていった。

 その頃、日本の戦後処理として、アメリカとの単独講和か、ソ連などを含む全面講和かという問題が大きく浮かび上がっていた。時の首相・吉田茂は米国との単独講和を強引に進めて日本の独立を取り戻そうとしていた。「今後はアメリカ主導の自由貿易の世界になる。これに乗り遅れてはならない。険悪化する両陣営の対立のなかに在っても、まず日本が独立して経済を再建するのが先決だ」というのが彼の主張であった。しかし、それに対して、東京大学の南原繁総長をはじめとする著名な知識人らが全面講和論を強く打ち出していた。たとえ独立が遅れても、敗戦後の日本が自由主義国と共産主義国との対立の渦中に巻き込まれてはならないという趣旨からである。3月28日の東大卒業式では、南原総長はこう述べている。

 「冷たい戦争」は、今や東南アジアに燎原の火のごとく拡がりつつあり、わが国にとって対岸の火災視し能わぬものがある。そんな時に、「単独講和」説くらい、短見にして速断的のものはあるまい。・・・・・・もしこれによって軍事同盟や軍事基地設定を条件として考えるのであるなら、それこそわが国の中立性を放棄し、その瞬間に敵か味方かの決断を敢えてすることになり・・・・・」(文芸春秋編『戦後50年 日本人の発言(上)』)

 これに対して、吉田茂首相は、自由党両院議員総会で、「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立は意味がない」と非難した。曲学阿世とは、もちろん、学を曲げて世に阿(おもね)る、の意である。これには南原総長も強く反撥して、「曲学阿世」は当時の流行語になった。私たち学生の間の議論では、やはり、全面講和論者が圧倒的に多かったように思う。単独講和を口にできる雰囲気ではなかった。敗戦の後遺症がまだ色濃く残っていた当時の日本では、冷戦に巻き込まれることなく中立性を保つように努力するのが、当然のあるべき姿だと考えられていた。

 しかし、9月8日には、遂に単独講和が実現した。アメリカを始めとする第二次世界大戦の連合国側49カ国との間で、日本国との平和条約が締結された。締結の場所がサンフランシスコであったので、サンフランシスコ平和条約ともいわれている。この時に、問題になっていた日米安全保障条約も結ばれた。この条約で、日本に駐在していたアメリカ軍総司令部に属するアメリカ軍は、在日米軍となり、イギリス軍などの他の連合国軍部隊は、日本から撤収した。朝鮮戦争が起きて在日米軍が朝鮮半島に出撃した後は、日本では警察予備隊が創設されてはいたが、それだけで、アメリカ側としても、出撃拠点ともなる日本の後方基地の安全と補給の確保が充分になったわけではない。それをこの条約で埋めようとしていた。

 日本側としても、敗戦により軍隊は解体されており、自主防衛力はなかった。仮にアメリカが希望したとしても、戦後の疲弊した国力のなかでは、警察予備隊以上の軍事力が持てる状況ではなかったであろう。それで日本政府は、この条約で、米軍の日本国内における駐留権を認め、日本の防衛のためにも米軍の駐留を希望するという形になったのである。これは、日本の安全保障の大半をアメリカに委ねることで経済負担を極力抑え、国力を経済復興から経済成長へと注力するのが狙いであった。しかし、それと同時にそれは、全面講和論者が反対していたように、冷戦構造のもとで、日本が、ソ連側と対立してアメリカ側に組み込まれることであった。韓国や台湾とともに、アメリカの唱える「封じ込め政策」に従い、ソ連、中華人民共和国、北朝鮮に対峙していく反共の砦としての役割を、日本も担わされていくことになったのである。

  (2013年10月1日)








  大学入学後も続いた窮乏生活 (身辺雑記89)
    = 生かされてきた私のいのち (18)=


 1950年(昭和25年)の春、私は大学生になったが、毎日登校して学業に励んだわけではない。東京外国語大学には、入学当初はなるべく登校するように心掛けたが、それもだんだん休みがちになっていった。やはり、わが家の家計が苦しかったからである。学校へ行きたくとも、アルバイトの口さえあれば、アルバイトを優先した。ロシア語というのは入門期が難しく、英語のように一人で自習するというのは楽ではない。まず、英語と違って単語の格変化が多い。単数6、複数6の12の変化形があって、名詞から動詞、形容詞にいたるまですべて変化するから、その変化形に慣れるまでは、辞書を引くこともできない。英語は入るのには易しくても奥深く、ロシア語は入るのは難しいが奥が浅いとも言われたりする。そんなことがわかっていても私は、登校して学業に専念することはできなかった。

 東京外国語大学は、現在は府中市の広い敷地に堂々とした講義棟や研究棟が建ち並んで立派だが、私が入学した当時は、戦災で学校が焼けて、練馬区石神井の中学校の教室の一部を間借りしていた。校舎は貧弱であったが、教授陣は、東郷正延、和久利誓一、石山正三の諸先生のほか、二人のロシア人講師を含めて、充実していた。主任教授は佐藤勇先生で、辞書なども編纂しておられたロシア語の大家である。講義中は厳格で威厳があったが、教室を離れると優しい先生であった。私は、この佐藤先生には在学中も卒業後も人一倍お世話になっている。就職もアメリカ留学も結婚も、その都度、先生からはこころのこもったお力添えを受けてきた。長女が生まれ、長男誕生の時にも、先生のお宅を訪れたり、私の自宅へ来ていただいたりして、子供たちと一緒に撮った写真は今も残っている。

 ロシア学科で入学したのは40名であったが、生活で苦しかったのは、私だけではなかった。みんなそれぞれに、なんらかのアルバイトや奨学資金でほぼ自活しながら、辛うじて学校へ通っていた。その時のクラスメイトには、新田実君がいた。彼は都立一高(現 日比谷高校)では私より一年上で、生徒会で活躍していた。私が高校を一年短縮していたので、大学で同級になったのである。新田君は、卒業後東大の大学院に進み、その後、北海道大学教授を務めたあと東京外大の教授になった。言語学者として知られた千野栄一君も同じようにして東京外大の教授になり、佐藤純一君は東大教授になっている。そのほかにも私を含めて、各地で大学教授になった者は10名ほどである。

 入学当時は、しかし、大学生になっても、私は前途に何の希望も持てなかった。世相は相変わらず暗かった。我が家の経済状態も最悪で、中央大学からの奨学金で、私自身の学費はなんとか自分でまかなえたが、妹や弟の学費も必要であった。都立女子高の2年生であった上の妹の秋江は、親しい同級生の実家が仙台で医院を開業していて、見習い看護婦として妹を雇ってもいいと言ってくれたようである。しかし、それには父も母も断固として反対した。いくら生活が窮乏しているからとはいえ、学業を中断させて親元から離し、「異郷」で働かせるようなことは、親の気持ちとしては耐えられるはずもなかった。私は、自分の学費や生活費は自分でまかなえるようになっても、なんとか少しでも家計を助けたかった。週の大半は新宿や中野で日雇い労働などをしながら、私は、新聞の求人広告をみては、何度も面接に行ったりしていた。

 その頃は、荻窪の隣家の奥さんに頼まれて、中学生の長男に英語の家庭教師をするようになっていた。しかし、その報酬は受け取らなかった。隣家のご主人は警察官であったが、長男の下にも子供が2人いて、経済的に苦しいことを知っていたからである。一方ではいつも収入を求めて、アルバイト先を探していたが、自分が納得して働けるような仕事はなかなか見つからなかった。新聞配達は収入が安定していて望ましいのだが、申し込んでもなかなか空きがなかった。ある「学生アルバイト募集」という広告で、神田へ行ってみたら、粗悪品のノートを戸別販売するという仕事であった。とても売れそうもないものを、売って歩いて、売れた分だけ歩合が入るという仕組みである。売れなければもちろん、収入はゼロになる。そんな弱いもの泣かせのようなアルバイトが多かった。

 新聞広告で、月収1万5千円というのを見て、渋谷へ出かけたこともある。広告には職種は書いていなかった。行ってみたら、貸与されるリヤカーを引いて街の中を歩きまわり、襤褸や金属くず、不用品等を回収するという仕事であった。現在の廃品回収業である。違うのは、いまはみんな車を使うが、当時はそれを人力でリヤカーを引いてやらせようというのである。月収1万5千円というのは魅力であったが、おそらくそれも、うまく回収できたらそれくらいになることもあるということであろう。私はそこまで「落ちぶれる」ことは出来なかった。それでも、広告を見たという人が次から次へと訪れていた。みんな、まともな仕事であることを期待して、面接のためにきちんとした服装をしていた。

 なかには、商船会社の幹部社員であったという人もいた。品のいい紳士で、面接のあと、控え室で考え込んでしまっていた。傍にいた私に話しかけてきたが、その人は、どうしても就職口が見つからず、背に腹はかえられないから、なんとかがんばってこの仕事をやってみようと思うと、寂しそうに笑った。私はその紳士が、作業服を着てリヤカーを引っ張っている姿を想像して暗い気持ちになった。厳しい世相が続いていた。大学生になっても、晴れやかな気持ちは全くなかった。昼間は日雇い労働やアルバイト探しで、東京外語大へはあまり通学できなかったので、その埋め合わせに、夜の中央大学にはなるべく通うように心がけていた。

 中央大学は御茶ノ水の駅から近く、通学に便利であった。私は学内研究組織「法学会」のメンバーに選ばれていたから、研究室のなかに衝立で囲まれた2畳ほどの私専用のスペースが与えられていた。机や椅子も備わっていて、私物も置くことができたのでこの待遇は有り難かった。日雇い労働やアルバイト先から仕事を終えて、夕方、中央大学に着くと、私は研究室で学生服に着替えて教室に出る。初めて法学部の「法学概論」や「憲法」などの講義を受けているうちに、だんだん法律に興味を持つようになった。英語やドイツ語の授業も受けた。講義のない日には、近くの銭湯へ行ってひと風呂浴びてから、研究室で勉強したりした。夕食は家から持ってきた弁当ですませていた。

 この法学会には10人ほどのメンバーがいた。二部(夜間部)の学生は私だけであったが、ほとんどの人たちは、夜遅くまで司法試験を目指して熱心に勉強していたから、研究室へ行くと、誰とでも顔を合わせることができた。時には、そのうちの何人かと、ふらりと夜の神保町あたりを散歩したりもする。研究室で徹夜をして朝まで過ごすこともあった。そんな仲間の一人に清水睦君がいた。清水君は後に中央大学の教授になり、法学部長を務めた人である。

 昨年(2012年)、私が腹部動脈瘤の手術で都心の病院に入院していた時に、たまたま同じ病気で入院していたSさんと親しくなった。Sさんは中央大学の出身で卒業後は中央大学に務めて庶務部長になり、2、3年前に定年退職したばかりであった。「法学会」のこともくわしかった。「清水君を知っていますか」と私が聞くと、驚いたように、「もちろん存じ上げています」と Sさんは答えた。Sさんはまた、何かの大学の用事で、一橋大学の阿部謹也学長と会いに行った時の話をしてくれたことがある。阿部さんは、かつて小樽商科大学で歴史学を担当していて、私の親しい同僚の一人であった。そのことを告げると、Sさんはまた驚いた顔をした。こういう人の繋がりも「袖触合うも他生の縁」なのかもしれない。

 私が東京外大と中央大学の学生として窮乏生活を強いられていたその頃、父は、新潟や福島への行商も行き詰まり、知人に教えられて、糠(ぬか)石鹸の製造を始めようとしていた。荻窪の家の庭の隅に6畳くらいの小さな作業所を自分で建てて、しばらくの間は、そこで知人からぬか石鹸の製造方法を教えられていた。大きな釜に糠を入れ、それに苛性ソーダや香料のようなものを混ぜ合わせて煮る。それを冷やして固まったものを石鹸の大きさに切り分けるというような作業であったと思う。その慣れない仕事に父は一生懸命に取り組んでいた。ぬか石鹸のようなものを作って、それが売れるのかどうか、はっきりした見通しはなかった。

 これは前にも書いたが、鉄鋼技術者として大阪から仁川へ赴任した時の父は、特殊の事情で、当時の朝鮮総督・南次郎(陸軍大将)と同等の、いわば、朝鮮最高の給料で待遇されていた。それが日本の敗戦後は、全財産を失い、行商にも行き詰って、いまはこのような、まったく畑違いのぬか石鹸の製造に取り組まなければならなくなっている。父はさぞ辛かったに違いない。しかしそれも、「背に腹はかえられない」やむをえない選択であったろう。やがて、それまで、ゴム鞠を売り歩いていた母が、父の作ったぬか石鹸を売り歩くようになっていった。私も一度、ぬか石鹸を持って近くの銭湯の経営者の家に夜、訪ねて行ったことがある。その経営者の老人は、「こんなものを夜売りに来るもんではない」と、私を怒鳴りつけた。私は落ち込んで、すごすごと家に帰った。

 ぬか石鹸は、都内ではあまり売れないので、母は埼玉や千葉や茨城の農家をまわって売り歩いていた。時には宮城県まで足を伸ばすこともある。4月下旬のある日、私は宮城県の鹿島台へ行く母について行ったことがある。母と二人でリュックにぬか石鹸をいっぱい詰め込んで、鹿島台に着いてからは、手分けして農家を回り始めたが、私の分はさっぱり売れなかった。もともと私は、こんな仕事が大の苦手である。たった1個売っただけでくたびれて嫌になってしまったが、母は違っていた。黙々と歩きまわって全部を売りつくし、500円ほどの現金のほか1斗2升(約22リットル相当)もの米と交換していた。私は驚嘆した。どこにそんな能力が潜んでいるのかと思った。「母の力にはただ驚くほかはない。わが家を推し進めてくれる力強い推進力だ。私などいかに無力であるか、恥じるのみである」と、その日の日記に私は書いている。

 6月になって25日の未明、突如として朝鮮戦争が始まった。ソ連の支援を受けた北朝鮮が38度線を越えて韓国へ侵入してきたのである。北朝鮮軍は、開戦後の数週間、破竹の勢いで南朝鮮を席巻していった。首都のソウルや私がかつて住んでいた仁川も占領し、そのまま南下を続けて南端の釜山にまで迫った。たまに東京外大へ行くと、学友たちの間でも、この朝鮮戦争の話で持ちきりであった。学友たちはロシア学科であるだけに左翼の学生が多かった。韓国軍は釜山から突き落とされて、すぐにでも、北朝鮮が朝鮮半島の全域を支配するようになると多くの者が考えていた。なかには、日本にも革命の波が押し寄せてきて、遠からず、日本も共産主義になると真剣に主張するものもいた。

 ちょうどその頃、京都では、あの金閣寺の炎上事件が起こっている。7月2日の未明、国宝の金閣が放火され、内部の足利義満坐像などの国宝とともに全焼したのである。犯人は金閣寺の林承賢という21歳の徒弟であった。犯行後裏山で服毒自殺を図ったが、果たせず逮捕された模様が新聞などで大きく報道された。不自由な身体と内向的な性格に対する自己嫌悪から「金閣の美しさがねたましく、反感を抑え切れなかった」と自供したそうだが、これも、暗い世相のなかにまたひとつの暗い影を落とした。

 朝鮮戦争のほうは、7月1日、アメリカ陸軍が釜山に上陸してからは、一気に国際戦争の性格を持ち始めた。アメリカはこの武力行使を国連に働きかけて、北朝鮮の韓国への武力侵攻を阻止するという国連軍という名目で正当化した。そして、国連軍総司令官に任命されたマッカーサーが指揮して、9月15日に仁川上陸作戦が成功すると、背後をつかれて補給路を絶たれた北朝鮮軍は一斉に敗走して戦局は逆転した。ソウルを奪回し、国連軍が38度線をも越えた時点で、今度は10月25日、中国人民義勇軍が介入してきた。これにより、北朝鮮と韓国との内乱に始まった朝鮮戦争は、資本主義か社会主義かを問う全面的なイデオロギー戦争の様相を示すことになった。

 一方、朝鮮戦争が始まって、大半の在日米駐留軍が戦場へ向けられると、その空白を埋めるために、7月8日、マッカーサーは、「日本国内の保安と秩序を維持するため」と称して、7万5000人の警察予備隊の創設と、海上保安庁員8000人の増員を指示した。8月10日にその政令が公布されると、13日からはもう、警察予備隊の募集が始まった。初任給が警視庁巡査よりも1000円高い5,000円で、2年勤めれば退職金が6万円という、当時としては破格の好条件であった。それに食費も住居費もいらないのである。失業者は巷にあふれていたから応募者は初日から殺到して、倍率は5倍という狭き門になった。警察予備隊と海上保安庁員の8000人分の被服、帽子、軍靴、毛布等や装備全般の大量の需要に対しての業者の売り込みも激烈であったらしい。敗戦後、長い間暗く沈み込んでいた日本経済に、この隣国の不幸が思いがけない戦争特需をもたらす先駆けとなった。

 これはあとで知ったことだが、この警察予備隊の創設に際して、航空自衛隊の育成に貢献したといわれるのが、アメリカ空軍司令官のカーティス・ルメイである。彼は広島と長崎の原爆投下や1940年3月10日の東京大空襲を指揮した「殺しの達人」であった。彼の指揮した原爆投下で、広島では24万人、長崎では13万人(いづれも戦没者名簿による)が殺されている。東京大空襲でも一夜にして10万人以上の民間人が焼き殺された。その虐殺の張本人である彼に、1964年12月7日、当時の佐藤内閣は、最高の勲一等旭日大綬章を授けたのである。国会でも、東京大空襲や原爆投下の責任者に叙勲するのは不適切ではないかという質問があった。しかし、それに対して佐藤栄作首相は、「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然」と答えている。アメリカではこんな日本の対応が物笑いになったという話もあるが、アメリカに追従する日本の政治家の卑屈さが如実に示されたような叙勲であった。

 この警察予備隊の創設に始まる、朝鮮戦争特需は、敗戦で疲弊しきっていた日本経済に与える強力なカンフル剤になっていった。この年から、翌年の1951年にかけて、東京都内では、建坪300坪以上のビルが3000棟以上も建設され、ビル総床面積は一挙に戦前の2倍以上になっている。建築ラッシュは狭い都心に開発ブームを生み、河川、外堀埋め立て、八重洲、渋谷などの地下街計画などの都市の再開発を主とする復興が、やがて、高度成長、列島改造につながっていくことになる。しかし、それらの政策は、国の治水工事を経済界の金回り的景気対策のうちに卑小化したものにほかならなかった。住民の貧困生活には眼を向けられることがなく、むしろ、住民の生活を排除、追放する方向への政策であった。「都民の全世帯の7割以上が、1954年に至っても、夜は蚊帳を吊っていた。それほど都民生活は後回しにされていた」と、『東京都の100年』(山川出版社)には述べられている。

 事実、この「朝鮮戦争特需」は、一般庶民の暮らしには、あまり影響は及ばさなかった。ただ、新宿や中野の焼け跡で日雇い労働をしていた私たちには、仕事の上で小さな変化が現われた。焼け跡のなかから掘り出される銅、真鍮、鉛などの非鉄金属くずから鉄くずに至るまで、急に高く売れるようになったのである。昔は水道の配管も鉛であったから、民家の焼け跡からその鉛の配管を掘り当てると、それもかなりの収入になった。その当時の日当は240円くらいであったが、日によっては掘り当てた金属くずを売った値段のほうが高いこともあった。焼け跡整理をしている私たち学生や一般の人たちは、それを「余禄」と呼んで、焼け跡整理の楽しみみたいにしていた。

 私は、1950年の春から秋ごろまでは、昼間は、東京外国語大学へ行くよりは、日雇い労働で、新宿あたりの焼け跡の整理をしていることが多かった。不定期で不安定なアルバイト先を転々とするよりも、この日雇いは、それなりに安定した収入が得られたのである。これは肉体労働ではあるが重労働ではない。それに大学生は少し甘やかされているようなところもあった。午前と午後にそれぞれ30分ほどの休憩があって、昼休みは、1時間半も続くことがある。その間に、近くの焼け跡へでかけて、銅、真鍮などを掘り出す「余禄」に精出す人もいた。

 私は、日雇い労働の休憩の度に、神田の古本屋で買ったポーランドの作家シェンキビッチの『主よ、何処へ』の原文Quo Vadis (英語版)を読み続けていた。原文は400ページ近くもある大冊でやや難解であったが、興味深いその内容と流麗な英文の叙述に惹きつけられていた。「主よ、何処へ」とは、ペテロがイエスへ向かって問いかけたことばである。64年のローマの大火の頃、暴君ネロは、この大火をキリスト教徒の仕業に仕立てあげて、過酷な弾圧を一層強めていた。虐殺を逃れてローマから立ち去っていたペテロが、アッピア街道の途中で、イエスに会う。死んだはずのイエスが夜明けの光のなかで目の前に現われて、ローマへ向かって歩いているのである。その姿に驚いているペテロに、イエスは言った。「そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と。

 ペテロは恥じて、その場からローマへ引き返した。そしてローマ軍に捕えられ、自ら逆さまになって磔にされることを望んで殉教した。このペテロがアッピア街道でイエスに会ったとされる場所には、その後、ドミネ・クォ・ヴァディス教会が建てられた。後年、私は、アッピア街道のその場所を訪れることになるが、その時には、このシェンキビッチの叙述が鮮やかに胸によみがえっていた。このQuo Vadis  は、私が英文としては最初から終わりまで、初めて読み通した本である。昼間は学校へも行けずに、私はこの本を、日雇いの現場の焼け跡に敷いた筵の上で辞書を片手に読み続け、夜は、中央大学の研究室へ移って、さらに続きを読んだりしていた。3か月近くかかって、私はやっと、新宿の伊勢丹横の焼け跡で筵の上に寝転んで、最後の1ページを読み終えた。

  (2013年8月1日)








    生活が窮乏するなかでの大学進学 (身辺雑記88)
     = 生かされてきた私のいのち (17)=


 1949年(昭和24年)の夏休みが終わった9月から、私は都立豊多摩高校の3年生として通学するようになった。都立豊多摩高校は、私が編入学した時にはまだ、都立第十三高校といっていた。旧府立十一中以上の校名はなるべく早く固有の名称にするという当時の東京府の方針で、翌年から豊多摩高校と名前が変わったのである。創立当時は、府立一中の校舎を間借りしていたという経緯があって、都立一高(現 日比谷高校)の姉妹校ということになっている。男女共学も、その当時はまだ始まっていなかった。

 同学年に、後年詩人として有名になった谷川俊太郎氏がいたが、氏は、それから四十数年を経て、大韓航空機事件で亡くなった私の妻と長男のために、追悼の詩「写真に寄せて」を書いてくれることになる。事件から2年後の1985年に、私は『疑惑の航跡』を潮出版社から出版したが、その際、この本を読んでくれた作家の辺見じゅん氏が「心理状態の細かい部分までよく書けている」と褒めていたと編集部の南普三氏が伝えてくれた。悲歎のどん底に沈んでいた私は、作家から褒められたことが有難く、生きていくためのささやかなこころの支えになった。その辺見じゅん氏も、これは後で知ったが、豊多摩高校の出身である。私が長年、その著書で親しんできた歴史学者の木村尚三郎東大名誉教授は、都立第十三高校を私より一年早く卒業していた。

 その年、1949年の夏休み前までは都立第一高校の2年生で、夏休みが終わったら、都立豊多摩高校の3年生というのは、ちょっと変わった体験であったが、授業のレベルでは、2年生から3年生になっても、特に難しくは感じなかった。むしろ、豊多摩高校のほうが楽であったかもしれない。私が力を入れていた英語の成績では、都立第一高校で私は常にクラスの上位ではあったが、それでも、一番よくできたわけではない。2年生のどのクラスでも、東大の入試問題をやらされても楽に高得点を取るようなずば抜けた秀才が、必ずといっていいほど何人かいたからである。しかし、同じ進学校ではあっても、豊多摩高校の3年生では、少なくとも英語に関しては、私は誰に対しても引け目を感じることはなかったように思う。

 たまたま、英語の担当は、編入試験で監督をしていたS教諭であった。英語の授業というのは、担当者の英語の技能、学力がすぐわかってくるものである。S教諭は、英語の素養はそれなりにあったと思うが、英文を読むのはあまり上手ではなかった。一度、授業の中で、テキストにあったリンカーンの演説を暗誦させられたことがある。少し長いので、何人かの生徒に指名して、分担させながらしゃべらせたのだが、最後には、私一人に、全文を暗誦させた。英語のスピーチにはいくらかは慣れていたから、落ち着いて淡々と暗誦を終えたとたん、教室内に学友たちの割れるような拍手が沸き起こって、私は驚いた。S教諭は、「君は私より上手だね」と、みんなの前でほめた。教師でありながら、そのようなほめ方をするS教諭の率直さに私は好感をもったことを覚えている。

 豊多摩高校に通学するようになって、二、三か月経った頃、クラスでも大学進学先を決めることが話題になり始めた。英語や国語はいいのだが、高校2年間だけの在学で大学入試を受ける場合、問題になるのは、社会、理科、数学の履修科目がいずれも一年分足りないことである。その頃の一次の国立大学の入試では社会2科目、理科2科目、数学2科目が普通であったから、履修していない科目を自分で自習するか、あるいは、受験科目の少ない私立大学を選ぶことを考えなければならない。しかし、それよりも、もっと切実な問題があった。わが家の経済状態がさらに逼迫の度を増していたのである。

 父は、新潟や福島へ出かけては行商を続けていたが、身体をこわしたりして、それももう限界のようであった。みるに見かねて、母も誰かの伝手で日暮里あたりのゴム鞠工場からあまり品質のよくないゴム鞠を仕入れて、それを20個、30個と売ってまわるようになった。母は欲のない温厚な人柄であったが、芯は強かった。愚痴ひとつこぼさず、慣れないゴム鞠売りを黙々としてこなしていた。時には、一日分のゴム鞠を売り切るために、千葉や神奈川のほうまでも出かけるようになった。その頃のわが家には、女子高1年生の妹がいたし、その下の妹と弟は新制中学に通っていた。長男の私が、いくら両親から大切にされてきたとはいえ、家計を支えずに大学進学のことなどを考えることは出来ない状況になってきたのである。

 1950年(昭和25年)の正月をどのように過ごしたのかは、全く記憶にない。正月は初詣のあと、家族みんなでご馳走を前にして団欒するわが家のしきたりは、その年の正月も続けられたはずであるが、あまり明るい雰囲気ではなかったかもしれない。私は正月の三日には、ひとりで大阪へ出かけて5日間すごした。私は大阪生まれだし、大阪には子供の頃の夢のように楽しい思い出がいっぱい詰まっている。勝山高校の男女の友人たちとの文通も途切れることなく続いていた。私が行くとみんなすぐ集まってくれるはずだし、いつも優しく私を見守ってくれていた平木先生にも会いたかった。私は、大学への進学もできそうもない中で、苦しみ悩み、大阪での親しい人々のぬくもりに触れることで、ひとときのこころの安らぎを求めようとしていた。

 大阪へ行くと大阪弁がなつかしかった。私も大阪では自然に大阪弁が出る。仁川中学以来の友人の加茂君の家に泊めてもらい、勝山高校の友人たちにも次々に会った。平木先生のお宅を訪ねて長話もした。大阪では一般に、人と人の交わりは、フレンドリーで温かみがあるような気がする。家の構造も長屋が多く、住民は隣近所の家庭事情にまで口を挟んでくるようなところもあるが、それだけに、お互いのこころの繋がりも強いといえるかもしれない。大阪人から見れば、東京の人間は、下町は別として、つんと澄ましているように感じられることが少なくない。それぞれが自分のまわりに小さな壁をめぐらせて、気楽には近づきがたい雰囲気を感じさせる。

 生徒自治会で一緒だった杉山寿美子さんにも会った。彼女は、勝山高校の2年生修了で、旧制女学校卒業生として、その前年の4月から大手の紡績会社の秘書課に勤めるようになっていた。3人姉妹で、お父さんが早くから亡くなっているので、上のお姉さんが中学教師と結婚して、家を継いでいる。家は泉大津市の松が浜にあった。その家のそばには、地名の通りの、松並木が続いた美しい浜辺が広がっていた。彼女はその家に、お母さんと、お姉さん夫婦と、妹との5人で一緒に暮らしていた。彼女は就職したばかりであったが、おそらく彼女も、早く結婚して家を出ることをまわりから期待されていたのではないかと思われた。

 私は勝山高校には4か月しかいなかったが、全国で初めての男女共学が実施されたなかで生徒自治会に携わって忙しく動きまわり、密度の濃い青春の一時期を過ごしてきた。学校の授業で学んだだけではなく、ここでは、様々な学校行事のほか、自治会活動、英語部の運営、男女の生徒関係などを通して、人生そのものを学び始めたといえるかもしれない。私は、その頃から、将来、大学を出たら高校の英語教師になりたいと思うようになっていた。中学でもなく、大学でもなく、高校の教師が志望であった。それは、この勝山高校での3か月の学びと体験が原点になっている。そして、その学びと体験を与えてくれた数多くの友人たちのなかでも、杉山寿美子さんの清純な存在が珠玉のように輝いていた。

 私は1月7日の夜、東京へ帰った。大阪での友人たちとのあたたかい思い出が消え去らぬなかで、私は、杉山さんにもその日のうちに手紙を書いている。それに詩を同封して送った。「別後」と題したその詩の走り書きが今も残っている。「仰ぎ見る月の淡きに ひとり身の真夜(まよ)のわびしさ 別れ来し君を想えば ゆくりなく頬つたふもの」に始まって、「今もなほまぶたにぞ見ゆ 冷ややかに星のきらめく 今もなほ耳に聞ほゆ 蕭蕭(しょうしょう)の松風の音」に至るまでの、12節続く稚拙で感傷的な古文調である。 その頃私はよく詩や短歌を作っていた。その後、「君が優しきこころ根を 秘めて麗(うるわ)しさくら貝 いまははかなき思い出の よすがなるこそかなしけれ」というような侘しげな歌も、彼女に送ったりした。いま思えば、これらも、もう60年以上も前に遠く過ぎ去った青春の、確かな足跡の一つである。

 大阪から帰ってからはまた、否応なく、目前に迫った大学受験をどうするか考えなければならなかった。それを両親に相談するのは、私の場合、意味がなかった。大学進学は当然のことで、たとえどんなに家計が苦しくとも、そのために進学を諦めてもいいとは決して言われるはずがなかった。父は、私と入れ替わるようにして、また新潟へ旅立った。母もまた、ゴム鞠を売り歩く仕事を始めた。短い冬休みが終わる頃、私は、ようやく決心して、3月の豊多摩高校卒業後は、どこかに就職口を探して、少しでも家計を助けることにした。大学に進学しなければ両親を悲しませるから、昼間働きながら夜間の大学へ通うことを考えた。

 とはいっても、その当時、敗戦の後遺症で失業者が巷にあふれている状況では、高校卒の勤め先を見つけるのは決して容易ではなかった。たまたま米田君のお父さんが、横浜のどこかの焼け跡に、小さな化学薬品の作業所を建てる計画であることを聞いて、私は事情を話し、雇ってもらえないかと相談した。米田君のお父さんは、仁川では化学会社の工場長で、私の父は鉄鋼会社の工場長であった。家も近くだったし、お互いによく知っている。米田君のお父さんは、私の両親の了解があれば、という条件で私を雇ってもいいと言ってくれた。私は早稲田大学の二部(夜間)か中央大学の二部を考えていたが、交通の便も考え、御茶ノ水駅に近い中央大学法学部(夜間)を選ぶことにした。すべて独断であった。夜間でも大学を卒業するのであれば、昼間米田君のお父さんの所で働いても、父は許してくれるかもしれないと考えていた。

 一月の下旬、父が新潟での行商から一時帰宅した日に、私は夕食後であったか、父に卒業後の方針を伝えようとした。ところが父のほうから先に、大学受験はどう決めたのかと聞いてきた。おそるおそる、昼間働いて夜大学へ通うことにしたいと答えると、父は途端に「ばか者」と大声をあげた。「お父さんが何のためにこんなに苦労しているのかわからないのか」と私を叱り付けて、はらはらと涙をこぼした。私は一言もなくうなだれた。父の気持ちに従うほかはなかった。それから準備して受験するとすれば、国立大学では試験日が遅い東京外国語大学があった。私は、中央大学の受験はそのままにして、東京外国語大学へ受験願書を出すことにした。米田君のお父さんへは、就職を辞退することを申し出て、お詫びの手紙を書いた。

 中央大学の法学部二部の入学試験は、競争率では昼間より高く、7〜8倍であったが、私は問題なく入れると思っていた。東京外国語大学のほうも落ちるとは思っていなかった。しかし、外語大のほうは合格したとしてもわが家の経済状態ではいつまで通学できるかわからない。やはり、昼間は働かねばならないのではないか。そう考えた私は、その場合に備えて、中央大学の受験は放棄しないことにした。中央大学の法学部二部の入学試験は3月3日に行われて、私は合格した。同時に、「生活の困難なる者」に対する特別奨学制度の選考も受けて、それにも選ばれた。私は授業料が免除され、奨学資金も毎月もらえることになった。学生になってからは、「法学会」という学内組織の試験に及第して、研究室のなかに専用の机と椅子が与えられた。

 東京外国語大学の受験では、私はロシア語学科を選ぶことにした。英語は特に教えられなくても自分でもできる。英語の教師になれば否応なく英語の勉強は続くはずだから、外国語大学では自分だけでは勉強しにくい語学をと考えたのが一つの理由だが、いまでは、これは思い上がった軽率な選択の仕方であったと思う。特に、英語の教師になることを考えていたのであれば、なおさらである。その当時は、自分がやがてアメリカ留学をすることになろうとは夢にも思っていなかったから、こんな甘い判断ができたのかもしれない。しかし、あえていえば、学生時代に英語以外の外国語を専攻することの効用もないわけではなかった。

 東京外国語大学の入学試験は4月10日から始まった。私は鼻歌混じりのような気楽さで受験した。もし落ちれば昼間働くことの申し訳が立つから落ちればいいのにと、自虐的になったりもした。しかし、用心していた数学は、ほとんど完璧にできたし、ほかの日本史や国語も快心のできであった。英語も楽であったから、試験が終わった時点で合格は確信できた。それも、トップでとはいえないにしても、かなり上位で合格することを疑わなかった。私は、試験が終わったその翌日から臨時の日雇いのアルバイトを始めた。合格発表の日にもアルバイトをしていて、掲示を見に行かなかった。合格発表から4〜5日経って、やっと、誰も見る人がいなくなった掲示板を見に行ったら、風にあおられて一部破れた合格者リストのなかに私の氏名もあった。私は入学手続きの書類をもらって帰り、東京外国語大学の学生にもなった。

  (2013年6月1日)


 *別後 (1950.01.08)

 仰ぎ見る月の淡きに ひとり身の真夜
(まよ)のわびしさ
 わかれ来し君を想へば ゆくりなく頬つたふもの

 今もなほまぶたにぞ見ゆ 冷ややかに星のきらめく
 今もなほ耳に聞ほゆ 蕭蕭
(しょうしょう)の松風の音

 黙苦
(もだくる)し別れの小道 そぞろなる足のはこびに
 君が手はみ顔おほいて 泣かれしを沁みてしおぼゆ

 寂しけくわれはなげけど 云ひ出でむことばも知らず
 ひたすらにわれは思へど わが声はのどにくぐもる

 ゆめはるか遠のやまかは 会わむとてかなはぬものを
 かくばかりあへなき別れ せむものとわれや思ひし

 からだには心せよとて やさしくも云ひにしことば
 わが耳にさやに残りて うらがなし別後のうれひ

 あはじろの光をあびて 君かよふ家路ゆくみち
 ひねもすのいとなみ終へて 君たどる松風のみち

 松風のみちをたどれば 松風ぞさびしかりけむ
 さだめなきこの人の世に さだめなく松風の音

 あはれただ片時ありて 別れ来ぬ君しおもほゆ
 秘めれどもかなしきものは 君恋ふるむねのうちかも

 見ればふと吐息をさそふ かつ見れば胸こそいため
 さくら貝おもひでの貝 ほのかにもあかめるゆかし

 別れてぞ君な忘れそ さくら貝ほのにひといろ
 然のみに今もにほひて 髣髴
(おもかげ)は昨日のごとし

 今もなほまぶたにぞ見ゆ 冷ややかに星のきらめく
 今もなほ耳に聞ほゆ 蕭蕭
(しょうしょう)の松風の音






    高校在学期間を一年短縮する (身辺雑記87)
     = 生かされてきた私のいのち (16)=


 1949年(昭和24年)の正月は、朝から雨であった。その前年の正月も、昔からの習慣で父と生駒山への初詣に出かけていたが、初めての東京での正月には、家族で近くの春日神社に出かけた。小さい頃から正月というのは私にとっては夢のように楽しく、時間もあっという間に過ぎていった。しかし、その正月の楽しみも色あせて、東京での正月は、雨のせいもあったろうか、侘しく、味気ない時間が流れた。昔は、いわゆる数え年で、正月毎に年齢が一つずつ上がっていくことになっていたから、そのことに嫌悪感さえ抱いていた記憶がある。「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」という一休禅師の句を、私は年賀状に書いたりした。

 その頃の私の楽しみは、映画を見るのと古本屋めぐりであった。私は、正月三日の間、毎日、西荻窪の映画館へ出かけ、毎日、駅の近くにあった何軒かの古本屋を訪れている。お金が十分でなかったので何でも買えるわけではないが、本を見ているだけでも楽しかった。2日には、西荻窪の古本屋で、アナトール・フランスの『神々は渇く』を買い、その足で、神田まで出かけて、研究社の英英辞典を手に入れている。3日には、神田で、これは大分探し回って、都立一高の英語の先生に勧められていたロングの『英米文学概観』(William J. Long: Outlines of English and American Literature)を見つけて購入した。この本は、それ以来64年間持ち続けて、今年の春、東京外国語大学の文書館へ希少文献の一つとして寄贈している。

 都立一高で私が影響を受けたことの一つは、学友たちが非常によく本を読んでいたことである。例えば、夏目漱石の本などは、ほとんどの生徒が中学三年生くらいまでに全部読んでいたようであった。読んでいなければ、雑談の時などでも、話が合わないのである。当時はまだ、紙不足で、新刊書の発売も多くはなかった。活字に対する一種の飢えがあった。岩波書店から西田幾多郎の『善の研究』が発売された時には、それがニュースになったくらいで、学友たちの何人かは、発売日の早朝から店の前に並んで、その本を購入していた。戦後の混乱の中でしばらく読書の習慣から遠ざかっていた私は、都立一高では図書部員になって、部員の特権で自由に図書館に出入りしながら、濫読を始めている。一時は、太宰治の作品に凝って、『人間失格』を学校の帰りに西荻窪の古本屋で手に入れたときには、帰るまで待ちきれずに、歩きながら読み出したこともあった。

 その頃は新宿の三越や伊勢丹のあたりには、まだ戦災のあとが生々しく残っていた。二つのデパートのほかは高い建物もなく、三越や伊勢丹もその一部は壊れたままで、すぐ近くまで、焼け跡が広がっていた。その三越の隣にあった地球座という映画館で、ソ連映画の「シベリア物語」を見たことがある。総天然色で、それが私の始めてみたカラー映画であったかもしれない。映画館は超満員であった。通路にも座ったり、館内の横や後ろに立ったりして、立錐の余地もなかった。当時の映画館は、それも普通であった。

 総天然色の画面は大自然の風景が実に美しく、このような美しい自然に恵まれているのであれば、その国の人々も純朴であるにちがいないと思ったりした。スターリンの残忍さや、共産主義のテロで2千万人ともいわれる人々が殺害されていたことなどは当時の私は知らなかった。ロシア語に触れたのも、その時が初めてであった。なだらかな抑揚と力のこもったしかも優美な響きに、その時の私は、未知の言語に対する憧れのようなものを感じていたかもしれない。

 4月になって、都立一高の二年生になってからも、私は学校からの帰宅途中などに、よくこの新宿の地球座に通った。ここで見た、イタリア映画の「無防備都市」やスペイン映画の「汚れなき悪戯」などの名画はいまも記憶に残っている。時には、二度、三度も繰り返して見たこともある。映画館を出て、夜の新宿通りを駅へ向かう。今でこそ、その通りは、夜遅くまで多くの人通りで賑わっているが、その当時は、閑散とした感じであった。空腹であっても、自由に入って食べられるような食堂もなかった。外食券というのがあって、米の配給の一部を換算した券と引き換えに、どうにか、蕎麦やうどんなどが食べられたが、そういう店も、早くから店仕舞をしていた。新宿駅も夜11時頃を過ぎると不気味なほど静かであった。駅の西口には、目立った建物はなく、その奥には淀橋浄水場があって、夜は真っ暗闇が広がっていただけである。

 学校では、図書部員になって濫読を続けながら、サークル活動として「英文学研究会」に入っていた。同人雑誌もガリ版刷りで出していたが、そこに載せる英文小説の翻訳を30枚ほどの原稿用紙にまとめたことがある。イギリス19世紀の小説家アーノルド・ベネットの「傘」(Arnold Bennett:Umbrella)で、これが私が翻訳した最初の作品である。都立一高生のいろいろな同人雑誌の多くは、学校の図書館に収められているはずであるが、この私の翻訳が、いまも残っているかどうかはわからない。

 その頃、私は週に2回ほど、学校の放課後、千駄ヶ谷の津田英語会というのに通っていた。津田英語会というのは、いまでは津田塾大学の千駄ヶ谷キャンパスになっているようだが、当時は、津田塾出身の講師が種々の英語コースを担当していて人気があった。私は、高校上級のクラスに入っていた。受講生は、ほとんど高校3年生で、中には何人かの女子生徒も混じっていた。私は、ここで初めて、他校の高校三年生と一緒に勉強するようになって、英語の学力については、彼らにほとんど劣らないことを知った。

 春に、旺文社主催の大学入試のための模擬試験というのがあったので、試みに、会場になった神田駿河台の中央大学にでかけて、受験してみたことがある。その時の受験者は2,300人くらいで、後日、模擬試験の成績と共に全受験生のなかの序列が示されることになっていた。私はこの模擬試験で、数学で大きな失敗をして、やはり二年生では駄目かと思っていた。しかし、後に成績表が届いて、序列を見たら、225番になっていた。私はちょっと驚いた。数学で大きな失敗をしても、10倍くらいの選考に耐えられるなら、その翌年、大学へ入ってもやっていけるのかもしれない。夏休みを前にして、私は、高校生活を一年短縮することを真剣に考え始めた。

 日本では「大検」(大学入学資格検定)というのがあって、これは、 試験により、高校を卒業した者と同等以上の学力があると認める国家資格のことである。平成17年度からは、これは、科目を変更した高等学校卒業程度認定試験に取って代わられている。これに相当するもので、昔は、「専検」があった。旧制の中学を卒業していなくても、専検さえ通れば、旧制の専門学校や高等学校を受験できたのである。私は、その専検を受けることにした。ところが、敗戦後の教育制度の混乱状態の中で、一部の旧制専門学校では、独自の「専検」を実施して、入学を許可していたのである。そのような旧制専門学校のT校の英文科を夏休み前に受験して、私は二年生の資格があると認められ、T専門学校英文科の二年生になった。

 これで、その翌年春には、旧制専門学校学生として新制大学の入学試験を受けることもできるはずであった。当時は、大学はまだ旧制のままであったが、6月から新制の国立大学68校が発足していた。私は、高校の在学期間を一年短縮できるのであれば、旧制専門学校の名前などはどうでもよかった。しかし、何度か、その英文科の授業に出て、私は、その教授たちのレベルの低さに深い幻滅を感じるようになった。同じ専門学校でも大阪で別科生として通っていた大阪外国語学校の先生たちと比べると、英語力の差は歴然としていた。

 T専門学校では、ある若い教授は授業中にもすぱすぱ煙草を吸っていた。それだけならまだ我慢できるが、英語のテキストを読んでいるうちに、"danger" という単語を、「ダンガー」と発音したのには驚かされた。これは、一語の読み違いだけではすまない。少しでも英語がわかる者にとっては、決してあり得ない間違いである。私は、この学校に見切りをつけた。入学手続きをしたばかりの教務課へ行って、在学証明書を作ってもらい、それで、東京都立豊多摩高校の三年生の編入試験を受けることにした。旧制専門学校の二年生は、新制高校の三年生以上にあたるから、受験資格に問題はなかった。

 東京都立豊多摩高校は昔の都立第十三中で、杉並区の成田西にある。私の西荻窪の家から歩いても30分くらいで通学には便利であった。夏休み中に受けた三年生への編入試験は国語と数学と英語の3科目だけである。10人ほどの受験生であったが、この編入試験は、その前年に受けた都立一高の二年生の編入試験に比べても、はるかに易しかった。国語と数学は問題なくできた。英語の試験も易しかった。易しかっただけではなく、試験問題に三個所も間違いがあった。

 最初の間違いは単語のスペルのミスである。それを指摘すると、試験監督のS教諭は、それを認めて直した。二つ目の間違いは、前置詞の脱落である。これも、S教諭は認めて、受験生全員に訂正させた。三番目の間違いは、文中の単語の脱落である。単語が脱落しているので意味が取れないのである。そのことを告げると、S教諭は気色ばんだ。「間違いはない」と答えた。受験生に三つもミスを指摘されて、流石にプライドを傷つけられたようである。しかし、数分後に、そのミスを認めて脱落していた単語を挿入させた。私は、編入試験に合格して、都立豊多摩高校の三年生になった。この年の夏休みの前後に、はからずも私は、都立一高の二年生、旧制T専門学校の二年生、都立豊多摩高校の三年生という、三つの身分証明書を一時的に持つことになった。

 当時の世相は暗かった。この年の5月に飲食営業規正法が公布され、1947年7月以来の飲食店閉鎖が解除されていた。日本酒やビールも家庭配給は中止になり、原則的に自由販売ということになった。しかし、だからといって、飲食店で好きなだけ食べたり、飲んだりできたわけではない。第一、飲食店の数が圧倒的に少なかった。あっても、開店していない店が多かった。日本を覆う貧困状態はまだ続いていた。大都会は失業者であふれ、追い討ちをかけるように、国鉄は9万5千人の人員整理を通告していた。日本人の空腹状況も終わってはいなかった。上野駅周辺の浮浪時はなくならず、進駐軍のMPが行っていた売春取締りを日本警察が引き継ぐことになって、売春容疑者が全国で5万6千人を超えたと新聞は伝えた。前途に希望を見出せなくなった青少年の間にヒロポン中毒が広がって、社会問題になったりもした。

 7月には、下山事件が発生した。下山国鉄総裁が登庁途中に行方不明になり、常磐線北千住―綾瀬間で轢死体で発見された事件である。その事件のほとぼりが冷めぬうちに、今度は三鷹事件が起こった。中央線三鷹駅で、無人電車が暴走し、6人が死亡したのである。これは、三鷹電車区の共産党員が故意に起こした事件であるとされ、共産党に対する締め付けが始まるようになった。そのなかで、さらに8月には、松川事件も起こった。東北本線金谷川―松川間で旅客列車が転覆し、三人が死亡した。教育界でも、「赤い教授追放」などの、いわゆるレッド・パージが全国の大学や高校で広がっていった。

 暗い世相の中で、日本人を元気づけた明るいニュースが二つあった。一つは8月16日の全米水上選手権大会で、日本大学の古橋広之進選手が、1,500メートル、800メートル、400メートルの自由形に出場して、それぞれに世界新記録を出したことである。私は生野中学で、栄養失調のまま水泳大会に出場して、ビリになった苦い経験があったから、この「世界新記録」は実に新鮮に響いた。古橋選手は、「フジヤマのトビウオ」とよばれて、日本中で祝福された。もう一つは、11月3日に、湯川秀樹博士が、日本人として初めてノーベル物理学賞を受けたことである。博士の中間子理論が評価されたということだが、この受賞は、暗い世相であっただけに、日本人を励ます、ひときわ明るい希望の光になった。

  (2013.04.01)







   家運没落のなかで大阪から東京へ移る   (身辺雑記86)
      =生かされてきた私のいのち (15)=


 1948年(昭和23年)春、男女共学が始まったばかりで、大阪の公立高校では、どこもその対応策に追われているようであった。「男女共学の会」というのがあって、市内各高校の男子生徒と女子生徒の代表が一堂に集まり、男女共学のあり方を男子生徒側からと女子生徒側から提言しあったりするのに出たことがある。勝山高校でも、午前中の授業時間を全部充てて「男女躾の会」というのを開いたりした。男子生徒側から女子生徒側への要望、女子生徒側から男子生徒側への期待などを、男子生徒、女子生徒の代表がそれぞれに出し合って、全員で考えたり議論したりするのである。そういう会合にも私は指名されて、少しずつ、男子生徒の代表という役柄にも慣れていった。

  5月に入って間もなく、勝山高校では、生徒自治会の選挙があった。世の中は民主主義に変わって、高等学校の行事や運営についても、生徒たちが自治会を通じて積極的に関与し発言すべきだというようなことが言われていた。会長、副会長、会計,書記など役員が選ばれることになって選挙演説会も開かれ、「民主青年同盟」の旗印を掲げた一部の男女生徒が、それぞれに候補者を立て、激しい選挙運動を展開していた。私は、そのような選挙には関心も立候補する意欲もまったくなかった。しかし、いつのまにか、まわりの学友たちに副会長候補に祭り上げられ、一度も選挙演説をしないうちに当選してしまった。

 会長は3年生の毛利英子さんという落ち着いた感じの女子生徒で、書記二人のうちの一人は私と親しかった白井進吾君が選ばれた。もう一人は女子生徒の今河弘子さんで、会計に選ばれた藤崎春子さんとともに、私たちと同じく一年生であった。「民主青年同盟」の候補者たちは、誰も当選しなかった。投票の記録が残っているが、生徒数777名のうち、97パーセントが投票し、無効投票を除いて、会長の毛利さんが460票、副会長の私が、530票などとなっている。

 同じ頃、英語のS教諭から言われて、ESS(英語会話部)を開設することになった。私が中心になって部員募集のビラを配ったりして、やがて30人ばかりの、大半が女子生徒の部員が集まった。S教諭を顧問に迎えて、賑やかに発会式も行ったのだが、その後は毎週、時間を決めて英語の勉強や会話の練習をするのに、私はいろいろと神経を使わなければならなかった。生野中学の時の「英語の達人」に助力してもらったり、米軍の民生部からも女性の講師が来てくれたりして、このESSはかなり活発に活動を続けられたように思う。このESSでは、みんなでよく英語の歌を歌った。フォスターのものが多かったが、「ケンタッキーのわが家」、「オールド・ブラック・ジョー」、「故郷の人々」などのほか、「谷間の灯火」などを合唱したが、いまでも、それらの歌が耳に入ると、きまって私はあの勝山高校での青春の日々を思い出す。

 生徒自治会のようなものが作られたのは初めてのことであったから、毎日のように役員室で自治会運営についての会議が開かれていたし、各クラスから2名ずつの自治会委員を加えた自治会の全体会議も、頻繁に行われていた。それに、ESSでの予定が加わってくると、私は、いつも女子生徒たちと話し合ったり仕事をしたりするのが当たり前のようになっていった。敗戦までの「男女7歳にして席を同じうせず」の風潮のなかで育ってきた私たちは、路上で若い女性と話を交わしたりするだけでも軟弱であるといわれて上級生から殴られたりしたものだが、この男女共学は、私にとっても劇的な環境の変化であった。しばらくは、学校へ通っても落ち着いて勉強できそうもない雰囲気であったといってもよい。

 その頃、市内の教会の牧師であった英語のS教諭のお兄さんが、アメリカへ留学することになったことが、大きく新聞で報道された。当時はまだ、フルブライト留学の前身になった米政府のガリオア資金による留学も始まっておらず、アメリカへ留学するというのは、非常に珍しい出来事であった。S教諭のお兄さんは、教会で知り合いになったアメリカ人の何人かが資金を出し合い保証人になって、アメリカの神学校へ送り込まれたのである。国内でも長距離の汽車の切符でさえなかなか手に入りにくかった貧しい時代である。外国の、しかもはるかに遠いアメリカへ行くなどというのは、一般には、夢のまた夢であった。その数年後には、私自身がそのアメリカへ留学することになろうとはつゆ思わず、平凡な勝山高校の一生徒としての自分の将来に半ば希望を失いかけながら、私は人一倍、S教諭のお兄さんの幸運をうらやんでいた。

 勝山高校では、日が経つにつれて、男女生徒たちの間に、仲良しのカップルがあちらこちらで生まれていたようである。なかには、片思いに悩む生徒も出てくる。自治会の書記をしていた白井進吾君のことを思いつめているという女子生徒が居ることを誰かから聞いたこともあった。その女子生徒を私は知っていたが、本当に思いつめているような顔つきであったのでちょっと驚いた記憶がある。白井君は、まったく関心がないという風であった。彼は、後に勝山高校から京都大学へ入り、卒業後は、家業の電気店を大きく伸ばして、関西の電器業界の重鎮になった男である。当時は、私とよく人生論や、恋愛論などを語り合っていた。男と女の友情はない。それは必ず恋愛になる、というのが彼の持論であった。私は、男女間でも、清らかな友情があるのではないかと、よくわからないままに反論したりしていた。

 勝山高校では忙しく活動していたが、6月が終わり、7月に入った頃から、私は将来の進路を決める岐路に立たされていた。家の資産が回収不能になり、無断で出資されてしまっていたアルミ工場が倒産したあとは、弁済の一部に当てられていた鍋釜などのアルミ製品も手に入らなくなり、家は没落の様相を一段と濃くしていた。大阪ではまだ戦災の焼け跡が広範囲に広がっていたし、父が考えていた工場の再建も不可能になった以上、父にとっても大阪に居る理由がなくなっていた。父は、私の進学のためにも、東京へ転住することを真剣に考え始めて、東京・杉並区の荻窪に、小さな借家を見つけていた。私も、春に一旦諦めていた東京への転学を、具体的に考え始めるようになった。

 7月中旬にPTAと生徒自治会協賛の「カーニバル」のお祭り行事があって、それが終わると、7月20日には1学期の終業式があった。その時に、まわりの友人たちには、2学期からは東京の学校へ転学することを告げた。まだ、東京のどこの高校へ転入学するかは決めていなかった。私自身もなかば上の空で、東京へ行くということだけを自分にも言い聞かせていたのである。終業式の日の午後には、生徒自治会の反省会があったが、それはすぐに私のための送別会に早変わりしてしまった。その時以来、友人たちが寄せ書きをして贈ってくれたノートが3冊、いまも私の手許に残っている。7月24日、午前中にESSが開いてくれた送別会に出て、夜の汽車で、私は東京へ向かった。白井君、加茂君、藤崎さんら何人かの友人が大阪駅まで来て私を見送ってくれた。

 東京へは3月に一人で来ていたが、その時は、体調を崩して、ほとんどどこを見ることもなく、大阪へ帰った。今度は東京に住むのである。引越しが終わって家の中も少し片付いた頃、私は何日か、ひとりであちらこちらを見て回った。皇居前から連合軍総司令部まえまで行ったときには、たまたま、司令官のマッカーサーがどこからか帰ってきたところで、私は初めて、すぐ目の前を歩く彼の姿を見た。銀座は人通りも少なく、歌で知られた「銀座の柳」は貧弱に見えた。浅草では、街頭写真屋から、料金は50円で15分で仕上がるからといわれて、スナップ写真を撮られた。しかし、出来上がってくると300円も請求された。帰りに西荻窪の駅で降りると、改札口の前に女優の小暮実千代が立っているのを見かけた。大阪とはどことなく雰囲気が違う。ことばの響きも違うし、人々もよそよそしい。しかし、新宿や池袋などの繁華街では、焼け跡があちらこちらに広がって人通りも決して多くはなく、侘しい感じが残っているという点で似ているような気がした。

 転入学先は、東京都立第一高等学校(現 日比谷高校)と決めて、8月中旬に初めて赤坂見附駅前の高台にある学校を訪れた。転入学の受付はもう始まっていて、試験は8月27日だという。試験科目は、英語、数学、国語、漢文、理科(物理、化学、生物から2科目選択)、社会の7科目であった。試験科目が多いから、いまさら受験勉強をしても追いつかない。私は観念して、受験勉強はほとんど何もしないで試験に臨んだ。全国から集まった高校一年への転入学希望者は私を含めて19名。このうち合格者は4名であったから、4.75倍の競争率ということになる。私はなんとか、その4名のうちの1人になった。

 都立第一高校の二学期の授業は、9月1日から始まった。家から中央線の西荻窪まで歩いて約15分、中央線で四ツ谷まで行き、そこから今の上智大学横の紀尾井坂を下りて、弁慶橋を渡り、赤坂見附の地下鉄前に出る。学校はその前の小高い丘の上にある。紀尾井坂から弁慶橋の間は、いまではホテル・ニューオータニや赤坂プリンスホテルなどが立ち並んで賑やかな通りになっているが、その頃はほとんど建物はなく、昼間でも閑散としていた。私は毎日、その人通りのあまりない道を元気に歩いて学校へ通った。東京では、公立校の男女共学はまだ実施されていなかったから、また男子生徒だけの生活に戻ったのである。

 結局、大阪の勝山高校にいたのは、5月から7月までの3ヶ月だけであったが、そこでの男女共学の体験は、東京へ移ってからの私にも大きな影響を与え続けたように思う。手紙やはがきが、勝山高校の学友たちから毎日のように届くようになった。大半は女子生徒からである。多い日には、一度に5通も6通も届くことがあった。そのなかには、その後何年も文通を続けるようになった女子生徒が何人かいる。自治会で会計係りであった藤崎春子さんはその1人である。もう1人、役員ではなかったが、クラスの自治委員として親しかった杉山寿美子さんがいた。

 人にはそれぞれに長所や短所があって、個性や性格も違うが、付き合っているうちに一人ひとりの人柄から、いろいろと感じ、教えられ、影響を受けていく。これは女子生徒からの場合も同じである。異性であるだけに、影響はもっと強いこともあるだろう。私は、特に、杉山さんからは少なからぬ影響をうけていたように思う。傍に居るだけで温かみを感じさせるような優しい人柄で、私もなにか辛いことがあるようなときには、癒しを求めるような気持ちになって、よく彼女に手紙を書いた。心理学で「昇華」という言葉があるが、若い時にありがちな妄念にもあまり悩まされることなく、澄んだきれいな気持ちで青春を通り抜けることができたのも、彼女のお陰であったかもしれない。

  
 勝山高校の屋上にて。杉山寿美子さん姉妹、
 中山正暉君(後に郵政大臣、建設大臣と共に

 東京都立第一高校の授業は、やはり、レベルが高かった。授業中のクラスの雰囲気もまったく違っていた。生徒たちは、教えられるまでもなく自分で勉強していくという姿勢があった。教師もおそらく楽であったろう。自習させておいて質問だけ受けていればいいような感じである。ある日の授業で、ふと隣のクラスの授業風景を後ろのドアの破れた隙間から覗き見をしたことがある。旧制の都立第一中学の三年生のクラスである。当時はまだ、旧制の府立一中のときに入学した生徒たちが中学三年生として残っていた。英語の授業であったようだが、先生の声は聞こえない。生徒の一人がはじめから終わりまで全部、しっかりした流暢な英語で何かを説明していたのである。

 都立第一高校では、むかしの府立一中時代の3人の大先輩のことが語り継がれていた。英語の市川三喜、国語の谷崎潤一郎、数学の竹内端三である。市川三喜は日本の「英語学の祖」といわれている人で、1937年に退官するまで東大教授を勤めた。1959年には文化功労者に選ばれている。一中時代にすでに「コンサイス英和辞典」の英語の全部を暗記していたという伝説があった。谷崎潤一郎は、当時、『細雪』の下巻を出版したばかりであった。一中時代には、一年生から飛び級で三年生になったといわれるが、彼の一中時代に書いた流麗な作文が図書館には残っていて、私はその一部を書き写したりしたことがある。竹内端三は一中から一高へ進み、東大卒業後は東大教授を勤めていたが、昭和20年に59歳で亡くなっている。日本の数学界の権威で、私にはよくわからないが、「虚数乗法に関するクロネッカーの問題」を解決したということで世界的にも知られているらしかった。

 私は、英語の授業にはまだ余裕をもって臨んでいたが、数学や物理では授業の進度についていくのに懸命になっていた。テキストの内容は理解しているのが当たり前で、それよりレベルが高い応用問題のようなものが授業の中心であったからである。それまでの私は、どの授業科目でもほどほどの成績であったが、都立一高では自然に自分の守備範囲のようなものを絞り込んでいかねばならなかった。私は都立一高に入ってからは、はっきりと文科系を意識するようになり、文科系科目に集中して勉強するようになっていった。英語は、英単語のカードを作って、毎日学校の往き帰りに、電車の中や道を歩きながら覚えた。市川三喜のように、英語の辞書全部を暗記するというようなことはとてもできなかったが、それでも、大半の単語に赤線を引いて覚えようと努めたその当時の辞書は、手垢にまみれ、ぼろぼろになっていまも残っている。

 一方、没落したわが家の経済状態は、相変わらず大変のようであった。父も母も、苦しいことはなにも言わずに学資と小遣いはちゃんと出してくれたが、おそらく手持ちの生活資金も乏しかったにちがいない。父はほとんど新潟方面へ出かけていて、月に何回かしか戻らなかった。大阪から出かけてアルミの鍋や釜を売りに歩いていた時の経験や人脈を生かして、食器類を仕入れて売るというようなことをしていたらしい。長年、圧延機械の技術者として、多くの部下たちからは「圧延の神様」の尊称で親しまれながら鉄鋼会社の工場長なども勤めていた父にとっては、まったく場違いの行商のような仕事をするのは耐え難く辛い毎日であったはずである。しかし、高校生の私にはどうすることもできなかった。ただ、健康を取り戻していた母が、時には同行して父の世話をするようになっていた。西荻窪の家は、私と旧制の高等女学校へ通っていた妹と、新制中学に通うようになっていたもう1人の妹と弟が留守を守った。

 極端な食糧不足は徐々に解消されていたが、日本全体がまだ戦災の痛手から立ち直れず、暗い世相であった。戦争で家を失い、家業を失い、失業者があふれている社会の中で、貧困にあえいでいたのは私たちだけではなかった。その頃には、三笠宮妃の父、高木元子爵が生活窮乏のために自殺している。没落していく上流階級の家族を描いた『斜陽』を出版して、「斜陽族」ということばを流行らせた太宰治も、やはりその頃、玉川上水に投身自殺した。その東京の片隅で、私の家でも、将来に明るさの見えない沈んだ日々が続いていた。

     [文中の人名は、特にその必要がないと思われる場合を除き、仮名に変えています]

  (2013.02.01)





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