(日付の新しいものから順にならべてあります)





 問題の本質を見失わないために (2007.08.18)


 T. M. 様

 メールを拝見して、どのようにお答えすべきか少し考えさせられていました。3人のお子さんを育てながら、死に物狂いで勉強を続けてこられたとのことですが、それだけに「わずか1問の差で留年が決まってしまった」ことのショックがいかに大きいことかとお察し申し上げます。

 ただ、ここで敢えて言わせていただきたいのですが、留年は退学とは違いますし、少なくとも大学側があなたから勉学の機会を取り上げてしまうものではありません。また、一般的には、大学ではどの学部であれ、留年というのは特に珍しいことではなく、学生を取り巻く環境はそれぞれに違いますから、留年する学生がそれだけで将来への希望がもてなくなるというわけでも決してないでしょう。

 もちろん、進級できないことに嫌気をさして、大学をやめてしまうような学生もいるかもしれません。しかし、一度留年したがゆえに、その苦い経験をばねにして一層の努力を重ね、結果的には、「あの時留年してよかった」といえるような、輝かしい未来を築き上げていく人もいるはずです。そのどちらを選ぶかはまったく個人の問題ではないでしょうか。

 ひとつはっきりしているのは、もしあなたが、「今までの学生ならば、私の点数であれば進級をさせてきたのに」と悔しい思いをしておられるとすれば、それは問題の本質ではないように思われます。また、これはちょっと冷酷に感じられるかもしれませんが、私学の医学部の高い学費で苦労しておられるために、それだけに「今までにはないくらいの厳しい判決」が不本意に感じられるとしたら、それも、問題の本質からは離れていくことになると思います。

 このメールのタイトルをあなたは「世の中には偶然はないということ」とつけられました。そして、「父も霊界から何かを伝えたくて、私を留年させたのでしょうか」と結んでおられます。あなたのご希望に応えて、何かをお教えすることは私にはできそうもありませんが、ただ、ひとこと、問題の本質は困難な状況とも関係なく実はもっと単純で、そういうふうにお考えになる必要はないのではないでしょうか、とだけ言わせていただきたいような気がしています。








 世の中には偶然はないということ (2007.08.18)


 武本さま。はじめまして、偶然このホームページにたどり着いた T.M. と申します。まだ、全部は拝読しておりませんが、心をひきつけるものがありました。私は現在42歳、5歳、3歳、2ヶ月の子供を抱えながら、医学部に通っています。

 昨年、妊娠したとき学業を全うし、この子の命も決して失うことのないようにがんばろうと硬く決心しました。今年の3月まで毎日、死に物狂いで勉強し、テスト、実習を乗り越えていきましたが、3月にあった総合の試験(この大学だけにあるもの)でわずか1問の差で留年が決まってしまったのです。今までの学生ならば、私の点数であれば進級をさせてきたのに、大学の教授が今までにはないくらいの厳しい判決をされたのです。

 私は患者さんへの気持ちは変わらず、それを周囲は理解してくれています。しかし、私学で学費が高く、勉学を続けられない状況です。主人も私も粘り強く資金を集めているところです。主人は私より11歳年下ですが、夜昼ともに働いてくれています。周囲にとても迷惑をかけていて、申し訳ないのと感謝の気持ちを交互に持ちながら、現在まで来ています。

 しかしながら、留年してから周囲(大学の先生、友人)が私を見ると目をそらすようになったことは残念です。世の中には偶然はないという考えをもう一度しっかりと心に刻んで、今回の出来事を捕らえたいと考えています。私の父は、自殺しました。兄も私も父を一人で旅立たせたこと、苦しんで死んでいったことを後悔してきました。父も霊界から何かを伝えたくて、私を留年させたのでしょうか。

 お忙しい中、何か教えをいただきたくメールさせていただきました。よろしくおねがいします。

 T. M.







 「世の中には偶然はない」ということについて (2007.08.09)


 A. M. 様

 メールを拝見しました。私のホームページを読んでくださっているそうで有難うございます。私の「身辺雑記」(No.52) にも書きましたが、「世の中には偶然はない」ということについて、少し補足させてください。

 世のなかには偶然というものはなく、すべてのことは「起こるべくして起こる」というのは、地上の小さな尺度では理解しにくいことかもしれません。私たちのいのちは、この地上で百年にも満たないような一瞬の生を終えた後は、灰になって無に帰するわけではないでしょう。そうではなくて、私たちの一人ひとりが、実は、宇宙的なひろがりのなかで永遠の生命をもち、宇宙の摂理のなかで輪廻転生を繰り返しながら霊性の向上を目指して歩み続けている存在であることを理解することがどうしても必要です。

 そのことが理解できれば、すべてのことは起こるべくして起こるというのも、あるいは至極自然なこととして受け止められるようになるのではないでしょうか。宇宙の摂理のなかでは、起こることは、すべて自分にとって「必要なこと」だから起こるのであり、そこから何かを学んでいくことが求められているのでしょう。だから、起こることは、すべて、本当は自分にとって「いいこと」のはずです。たとえそれが、病気や事故のような、この狭い世間では不幸と考えられているようなことでさえも。

 今生で与えられている自分の一生を大切にして、楽しいことも辛いことも、それなりに意味があることを理解しながら、いろいろと経験を積み、学びを深めていかれるようにお祈りしています。








 超能力者ではないごく普通の人の霊界探訪 (2007.06.26)


 永山直美様

 メールを有難うございました。わざわざアメリカまで出かけて、モンロー研究所のGateway Voyageプログラムを体験された熱意と行動力に敬服しています。

 体外離脱の研究と実践で知られるアメリカのモンロー研究所の霊界探訪に参加して、直接、自分の目で霊界を見てきたという日本人が、『死後体験』(ハート出版)を書いた坂本政道さん以来、増えてきていることは承知していますが、今度あなたが参加された研修会でも、24名もの日本人がいたというのにはちょっと驚かされました。昨年の「大空の会」のセミナーで、超能力者ではないごく普通の人が霊界を訪れている例として、森田健さんの『「私は結果」原因の世界への旅』(講談社、二〇〇五年、α文庫)などをご紹介しましたが、霊界を探訪する日本人も着実に増えているのですね。

 メールには、「この先もっと上手になれば、皆さんのように当たり前のようにあちらの世界との交信も難しくないのでは、と思えて興奮しています」と書いておられますが、いつの日か、あなたも、坂本政道さんや森田健さんのように、本当に霊界を訪れたり交信できたりした体験を、「大空の会」などで、聞かせていただくことができれば、と思ったりしています。あなたの、これからの一層のご研鑽を期待しています。








  霊界探訪のモンロー研究所を訪れて (2007.06.26)


 武本さん。永山直美です。初めてメールします。4月の「大空の会」の帰りに、表参道駅までご一緒し、モンロー研究所に参加するとお話した者です。その後お元気でいらっしゃいますか?

 先週、私は、モンロー研究所でのGateway Voyageプログラムを体験し無事戻りました。武本さんに良いご報告がしたかったのですが、私の力不足で、向こう側との交信は今回できませんでした。私の主人は3年半前、34歳で旅立ったのですが、主人とコミュニケーションをとる目的も、従って叶いませんでした。しかし、日本から参加した24名のうち、私以外のほとんどの方が、素晴らしい感動的な体験をされていました。

 「40年前に亡くなった父と話ができた... 体外離脱して日本にいる家族の様子を見てきた...」など、不思議なことですが、本当に心温まるお話をされていました。滞在の最終日に、まったく霊感のない私でさえも、フォーカス10で起こる体の感覚がなくなっていく体験をしました。本当にできたのか確証はないのですが、この先もっと上手になれば、皆さんのように当たり前のようにあちらの世界との交信も難しくないのでは、と思えて興奮しています。

 これまで武本さんのサイトやシルバーバーチの言葉を読んで感動し、「信じる」よう自分に言い聞かせてきましたが、帰国してから信じてきたことすべては本当だったんだなぁと心の底から感じることができます。不思議なことなのですが、目に見えない存在から物凄い愛を注がれていることにも今回の体験を通して気づかされました。

 武本さんの最近のサイトには、ご家族との交信が載せられていますが、天から溢れるものすごい愛が武本さんに注がれているのが分かります。私たちがもし五感以上の感覚を感じ取ることができれば、疑いなく、その溢れる愛を直に感じ、活き活きと生きていけるのではないかと思いました。

 それでは短いメールですが、これで失礼させていただきます。また近く武本さんにお会いできるのを楽しみしています。そしてサイトも楽しみにしています。ありがとうございました。

 永山直美








 無知の厚い壁にしばしば弾き返される真実のことば (2007.06.16)


 Y.S. 様

 メールを読ませていただきながら、5歳のお子さんとの「二人暮らし」ということをお伺いして、胸が締め付けられるような気持ちになりました。母親に甘えていたくても甘えることもできない5歳のお子さんを、せめて父親のあなたがいつも抱きしめるようにして一緒に居てあげられるといいのですが、お仕事やお勤めの関係で、それも叶わないとすれば、さぞお辛いことと、ご心中お察し申しあげます。「なぜ自分はこのような目(不幸)に会わなければならないのか」と書かれているのも至極尤もなことばとして、私の胸に鋭く突き刺さります。

 こういう場合に、どういうお返事をすればよいのでしょうか。私には、このような過酷な状況にもそれなりに意味があることがわかっているような気もしますが、それでも、つい世間的な常識に引きずられて、いろいろと、差しさわりのない「無難な」お慰めの言葉だけを並べてしまいそうな「弱気」をも感じたりしています。でも、ここでは、その弱気を振り払って、まず、私自身の体験で答えさせてください。

 私も妻と長男を一瞬にして奪われた時、あなたと同じように、「なぜ自分はこのような目(不幸)に会わなければならないのか」と深く嘆き悲しんだことがありました。周りの人々からは、私は、「あれほど不幸な人間はいない」と思われていたかもしれませんし、私自身も、こんな目にあって「自分ほど不幸な人間はいない」と思ったりしていました。悲嘆と惨めさに耐えかねて、生きているのがいやになるほどでした。それが、無知の恐ろしさというものでしょう。しかし、いまは違います。私は、あれが不幸であったとは決して思っていません。自分が惨めであったと思っていたのも大きな間違いでした。いまは、妻と長男の死を冷静にこころ穏やかに受け入れ、起こったことにむしろ感謝しています。

 圧倒的な無知のなかでは、真実のことばはしばしば厚い壁にさえぎられて、空しくはじき返されてしまうことがあります。しかし、だからといって、真実が真実でなくなるわけでは決してないでしょう。いま、ひとつだけあなたに言わせていただきたいことは、あなたはいま乗り越えるべき重要な大きな課題を与えられていますが、それは必ずあなたには乗り越えられるのだということです。乗り越えられるから、その能力をお持ちのあなたに与えられているということです。それだけを言わせていただいて、メールの中のご質問に、私なりに、つぎのようにお答えいたします。

 「私もこの地上での生活を終えて霊界というところにいけばまた家内に会えるのだ。きっとそうありたい」というあなたの希望は、間違いなく叶えられると思います。それも、シルバー・バーチのことばで付け加えれば、「どこやら遠い遠いところにある掴みどころのない空想的な境涯においてではなく、物的世界に閉じ込められている人間が理解しうるいかなる生活よりもはるかに実感のある実在の世界において叶えられる」ということになります。ただし、この再会は、あなたも指摘されているように、誰でもというわけではないようです。愛で結ばれていない夫婦の場合は、お互いに再会したいとは思わないでしょうから、思念が現実になる霊界では、当然、再会もないことになります。

 シルバー・バーチは霊界で再会する場合の条件として、当事者同士の間に「親和性」があることをあげていますが、夫婦の場合についても、「身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それには永続性がありません」と述べています。この霊的親和性というのも、要するにお互いに愛がなければ、親和性は生まれませんから、愛を言い換えたものとみてもいいのでしょう。

 また、ご指摘のように、「霊性の発達程度が同じでなければ、霊界においては接触できない」という絶対の法則があるのは事実だ思います。しかし、おそらくこれも、地上的な視野で、あまり狭く限定的に捉えてはならないのではないかと思われます。 シルバー・バーチは交霊会でメンバーの一人から、 「人間が死ぬと肉親や愛する人たちが出迎えて手引きしてくれるそうですが、それらの霊は他界者と同じ霊格の者ばかりでしょうか」と訊かれて、「そうではありません。なぜなら、その霊たちは死後も霊的に進化しているからです。他界してきた者のレベルに合わせて交信するために、言わば階段を下りてくるのです。霊的成長とは成熟していくことであることを理解しないといけません」というように答えています。

 これに関連して、「霊界へ行った時かつての地上での仲間や親族と一緒になれますか」という質問に対しても、こう答えています。これも、ご参考にしていただいていいのではないでしょうか。

 《その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です。》

 この霊界での再会についてのシルバー・バーチの教えは、このホームページの「学びの栞」21.「霊界での再会」にまとめてありますので、ご覧いただきたいと思います。また、霊界はある意味では厳然たる階層社会ですが、それについては、24.「霊界と地上」に、さらに、13.「魂の成長・霊性の開発」にまとめたものに目を通していただければ、ご質問に対する答えは、容易に見出されるかもしれません。私自身は、これらのシルバー・バーチの教えを十分に納得し、真理のことばとしてこころから有り難く受け留めていますので、その一部を改めてご紹介することで、ご質問の返事とさせていただきたいと思います。

 どうか5歳のお子さんのために、それから、霊界の奥様のためにも、明るく幸せな「二人暮らし」を築き上げていかれますよう、こころからお祈り申しあげます。








 霊界では愛する妻との再会は保証されるか (2007.06.16)


武本昌三 先生

初めてメールを差し上げます。本年1月下旬に武本先生のホームページに出会い、それ以来ほぼ毎日、時間を見つけては「ともしび」を訪問させていただいております一読者です。武本先生が辿ってこられた険しい道のりから、身をもって体得された貴重な真理に、こうして簡便に触れることができることに、感謝いたしております。

私は、大阪在住の男性(1958年生まれの49歳)で、5歳になる幼稚園年長の男の子と二人暮しをしております。家内は昨年6月に亡くなりました。一昨年の夏にガンが見つかり、およそ10ケ月の後に、天国に旅立って行きました。1964年生まれで41歳での他界でした。家内とは7年前(2000.9)に結婚し、その1年後(2001.9)に子どもが生まれ、家族三人での穏やかな生活を送っていた矢先の“まさか”の出来事でした。

あれから1年、去る6月2日の命日には、一周忌法要を無事に執り行うことができました。その日その日を生きていくのに精一杯で、気がつけば1年という時間が流れていったんだなぁ、というのが偽らざる実感といったところです。とにもかくにも子育てと仕事をせねばならぬ、との思いがあったからこそ、ここまでやってこられたような気もしています。また実際のところ、今でも精神的に不安定な状態になることもしばしばで、私たち親子二人を温かく支援してくださる周囲の方々に対して、また、少々変な表現になりますが、自分自身に対しても、何故か素直になれない自分には、ほとほと手を焼く有り様です。

世の中には、私よりももっと厳しい状況にある方々が、大勢いらっしゃることも分かるのですが、ついつい「なぜ自分はこのような目(不幸)に会わなければならないのか」という苛立ちと、そのことの意味を、ひたすら求め続けてきた1年間でもありました。武本先生がご紹介くださる人生の真理は、全くの真理なのだろうと思いますし、そのように全く受け入れたいのですが、正直に告白いたしますと、実感としての何らかの実体験を伴わない限り、未だ無明の暗闇で彷徨っている、というのが今の私自身だと認識しております。

このように告白しながらもなお、頭で理解しようとしている私ですが、ここ最近のWhat’s Newに関して、是非ともお教え願いたいことがあり、メールをさせていただいた次第です。それは、2007.6/4・6/6と6/8付けの「学びの栞」の内容に関してです。

 (あなたの生活そのものがあなたという実在を形成していく)6/4掲載

(死後に赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしい所である)6/6掲載
 (霊界で住む領域はすべて霊性の発達程度によって決まる)6/8掲載

 いずれも『シルバー・バーチの霊訓 (12)』からの内容です。無明の中にありながらも、先々、私もこの地上での生活を終えて霊界というところにいけば「また家内に会えるのだ。きっとそうありたい。」という、期待と希望を持っておりますが、この一連の霊訓によれば、家内と私の霊性の発達程度が同じでなければ、霊界においては接触できない、という絶対の法則があるということです。これには、ビックリいたしました。

 つまり、この地上生活で縁があり深く関わりを持つ者(その代表が家族になると思われますが)は、元来、全て霊的資質において同じレベルの霊性、同じ精神構造をもつ者であること、そして誤解を恐れずに表現するならば、いわゆる「相性が悪い、苦手、そりが合わない、・・・」などで表現される他人様は、この霊性、精神構造において、自分たちとは違うレベルにある者である、ということなのでしょうか?

 武本先生のホームページは、多面的かつその一つひとつも大変に奥深く、一朝一夕に全てを拝読することが難しく、あるいは、このことについての解釈が、既にご紹介されているのかもしれませんが、その節はご容赦願います。

 それから、武本先生のホームページでご紹介されていた、河村とし子さんや山村幸夫さんのご著書も、既に入手させていただき、丁寧に読み進めさせていただいております。いずれも、学ぶことや気づき・示唆に富む内容で、今更ながらですが、武本先生のホームページと同様に、もっともっと早くに巡り会いたかった、という思いです。

 武本先生には、どうかこれまで同様に真理のメッセージを世に発信くださり、私のような迷える無明の魂を真理の道へと導いてくださいますよう、お願い申し上げます。

  Y. S..









 明るく幸せであることでこれからも親孝行を (2007.06.12)


 M.Y. 様

 メールを有り難く拝見しました。4月のセミナー以来のご縁ですが、いろいろと温かいおことばをいただいて恐縮しています。

 「大空の会」のセミナーで聞いていただきましたシルバー・バーチの肉声は、モーリス・バーバネルの声帯を通してのものであったとはいえ、あの通りの発音とトーンで、そして、あの通りの現代英語の一つ一つのことばで私たちに語りかけているわけですから、本当に感動します。霊界で3千年を生きてきたシルバー・バーチの、あのような美しい叡智のことばを、21世紀に生きるいまの私たちも聞くことができるということは、やはり、「世紀の奇跡」と言っても決して過言ではないのでしょう。

 あのセミナーの最後に見ていただいたビデオの一部は、少し古いのですが、山口県の萩女子短大で副学長をしておられた河村とし子さんの回想をNHKが記録したものです。この私のホームページの「随想集」No.15 のところにも、「おばあちゃんの教え」というタイトルで、その内容をご紹介してあります。小学校もでていないで、「一字の読み書きもできない」おばあちゃんが、大学教授である嫁の河村とし子さんに、あれほどの深い感動と大きな教訓を与えたのですから、素晴らしいことですね。私も、あのビデオにでているおばあちゃんの温顔を写真で拝見していますと、いまでも、手を合わせて拝みたいような気持ちになります。

 ビデオで、河村とし子さんが述べているように、 おばあちゃんは、すべてのものに有り難いと感謝して拝んでいるような人でした。朝、目を覚ましても、「ああ、今日も目が見えてくださる。手が上がってくださる。足が動いてくださる。有り難いことじゃのう」と何度もひとりごとのように繰り返していた人でした。また、おばあちゃんは、人に対してはいつも穏やかで、にこにこと笑顔を絶やさなかったといいます。河村さんは、このようなおばあちゃんと二十三年間一緒に暮らしてきて、その間、おばあちゃんが「和顔愛語」でなかった日は一日もなかったと述懐しているくらいですから、文字通りの「生き仏」のような人であったのでしょう。

 私は、講演会やセミナーで、私たちがこの世に生まれてくる意味についても、いろいろと出席者の皆さんと一緒に考えることが出来ればと、思ってきました。この世に生まれてきて一番大切なことのひとつは、自分を知るということだと思いますが、自分を知るということは、結局は、神を知るということ、そして、自分が本来は霊的存在であることを知るということ、と同じであるといっていいのかもしれません。そして、そのことを知って、そこから私たちの霊格向上のための学びと修行が始まるのだといえそうです。

 ただ、学びとか修行ということになりますと、私たちはつい、何か、必死になって難しい聖典と取り組んだり、難行苦行で精神・肉体を鍛えたりするようなことを連想してしまいがちです。確かに、そういうのも学びであり修行であるには違いないにしても、実は、この河村さんのおばあちゃんのように生きることが、最も理想的な、学びであり修行である、とはいえないでしょうか。いつもにこにこしている。人に優しくする。何かにつけて感謝する。「ありがとう」と声に出して言う・・・・・この極めて単純な、誰にでも分かる、そして、誰でもしようと思えばできる、それを本当に理解し、実践するのが、もっとも実りのある学びであり、修行であり、そして、真理に向かって歩む道でもあることを、私は、あのビデオで一緒に考えてみたかったわけです。

 メールでは、「母の一年祭を霊園でいたしました・・・」とお母様への思いを綴っておられますが、あなたの優しいお気持ちが伝わってまいります。かけがえのない肉親を失ったとき、私たちは誰でも、少しでも愛する肉親のためにこころからの供養を捧げたいと考えます。ただ、その「こころからの供養」とは何かということも、時には、考えてみる必要がありそうです。霊前に多くの供え物を捧げたり、聖職者に祈ってもらったりするのが通常考えられている供養かもしれません。しかし、私にはもっと大切な供養の仕方があると思えてならないのです。セミナーでも申しあげましたが、それは、あの河村さんのおばあちゃんのような感謝の気持ちをもつことであり、和顔愛語でいることです。それが、遺された私たちの、愛する肉親に捧げることのできる最大の供養であるといってもよいのではないでしょうか。

 私は、霊界の妻と長男が、いまは、いつも一緒に居てくれることを知っていますが、それだけに、彼らが私を見ていて、辛い思いをしたり淋しがるようなことがあってはならないし、してはならないと思うようになりました。それは、私が、無知と無明の長い年月を経て、やっと理解できるようになった「真理」の一端ですが、私にとっては貴重な気付きです。あなたのお母様も、一生懸命にあなたの幸せを祈りながら、すぐ近くで、いつも温かくあなたを見守ってくださっていることでしょう。あなたがにこにこしているとお母様もにこにこします。あなたが淋しがられると、お母様も淋しい思いをされます。つまり、あなたはお母様です。お母様はあなたです。どうか、そのお母様に、あなたが明るく幸せであることで、これからも親孝行を続けていってあげてください。








 母の旅立ちで得た真理を学ぶチャンス (2007.06.12)


 武本 先生

 バラの花が咲き誇っていたご近所は、気づかぬうちに、アジサイの花がそこかしこに、咲く時期となりました。お元気でいらっしゃいますでしょうか?

 メールを頂戴してから、約2ヶ月、行きつ戻りつでは、ありますが、暮らしております。まずは、遅まきながら、ウィメンズプラザでの4月の先生のセミナーの時の感想を少々書き留めていたものを、お伝えさせてください。

 シルバーバーチの声を初めて聞きました。シルバーバーチの声のトーン、発音が、本当に慈愛に満ちていて、今でも脳裏に焼きついております。山口の河村さんのビデオもとても、貴重なものでした。かく言う私も、今縁あって、義母と同居の身、河村さんのお嬢様の(と、お呼びしてよろしいか、武本先生のお話の間、必死にメモをしておりましたが、 フルネームがわからず、萩女子短大の先生でいらした方でまちがいなかったでしょうか)、 聡明な気づきには、大きな感動を覚えます。

 いづれも貴重な、先生の資料を駆使してのお話、大変ありがたく、時間が飛ぶ様に過ぎました。先生のセミナーは、一言一句を逃しまいと、体が前のめりになりました。でも、だいぶ、聞き落としてしまったことも、あることを、知っています。先生から頂戴したメールを拝読しますと、先生の前にいる様に、感動します。もっと、もっと、先生のお話に触れさせていただきたいです。

 そして、昨日付けの、潔典さん、奥様、そして、先生への霊界通信を拝見して、今の潔典さんと奥様のご様子にとても心が温かくなり、思わず、メールをさせていただきました。本当に、素晴らしいことですね。そして、遅れてきた生徒の私に、まだまだ、たくさん、教えをいただきたいと、心から願っております。どうぞ、よろしくお願いします。

 実は昨日は、母の一年祭を霊園でいたしました。この一年の長かったこと。目が覚めたら、母がこの世から旅立ったことは、ウソだったのでは、と言う気持ちからも、少し解きほぐされてまいりました。そうは言っても、ただ、時間薬のお蔭に、全て片づけたくなく、この母の旅立ちのお蔭に、真理を学ぶチャンスを頂いたのですから、母の様子も知っていきたく、思っています。

 神主さんのお祭りの際に、久しぶりに胸が、キリリと、痛み、この痛みが逆に、真理を学ぶ為の大きなステップになると良いなと、心から願っております。このご縁、本当にありがたく存じます。山村幸夫さんのご本も、注文してみたいと思っております。

 暑くなって参りましたので、どうぞ、御身、お大切になさって下さいませ。たくさんの教えを、ありがとうございます。ありがとうございます。

 M. Y.








  H.P. メール送受信の一時中断について (2007.05.12)


 メールボックスのサイズがシステム管理者によって設定されている制限を越えてしまったため、現在、メールボックスが閉じられているとのパソコン上での通告を受けました。

 私はいま、たまたま東京を離れていますので、近日中に東京へ帰ってから、自宅のパソコンで対処しますが、それまではこのホームページでのメールの送受信は中断することになりますことをご了承ください。

 ホームページを開いておられる方はご存知のことと思いますが、いわゆる迷惑メールが毎日数多く寄せられます。少し留守をしていますと、その間に数百通のメールが溜まってしまうこともあります。ほとんどが不特定多数のホームページ開設者に対する無差別の迷惑メールですから、タイトルを見ただけで次々に削除していきますが、なかには、このホームページ宛の通常のメールが混ざっていることもありますので、削除していくのにもちょっと神経を遣います。

 もしかしたら、迷惑メールと区別を付け難いタイトルのメールであった場合、誤って削除してしまっていることもあるかもしれません。いただいたメールに対して、必要と思われる返信は、時間の許す限り、差し上げるように努めていますので、もしなにか私のほうの手違いで、失礼があるような場合には、どうかご一報くださいますようにお願い申し上げます。





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