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   不思議に思えてならないこと       (2016.07.13)


 淺川嘉富『人間死んだらどうなる?』(中央アート出版、2011)という本がある。著者の浅川氏は、損害保険会社の専務取締役を辞任して、宇宙、人間の歴史、死後の世界をライフワークとするようになった人であるらしい。そのきっかけになったのは、ガンの告知を受けた妻が、死に対する不安や、恐怖心と葛藤する壮絶な姿を目の当たりにしてきたからであるという。その淺川氏が、この本の冒頭で、つぎのように述べている。

 《近頃つくづく不思議に思うことがある。
 人は誰でも、いつかは死を迎える。しかし、教育の場で「死」について教えることもなければ、家族や友人と話し合ったりすることもない。命の火が消えた後に土に帰って行くにしろ、次なる世界に移行するにしろ、なぜその行方について語り合おうとしないのか。
 あなたが半年後に、そこで長い人生を送る未知の国に旅立つとしたら、少しでもその国の情報を集めようとするだろう。そこには、どんな人たちが住み、何を食べ、どう暮らしているのか。持参して役立つ物はないか、どうしたらこころよく迎えてもらえるか……そういったことを、事前に知りたいと思うに違いない。
 いつか訪れることになるこの世からの旅立ちにおいても、それとまったく同じことがいえないだろうか。死んだらすべてが無に帰すと考えているならともかく、「あの世」らしき世界を少しでも信じているなら、その世界について知りたいと思うはずである。
 この問題だけは、忙しさにかこつけてないがしろにできるはずがないのに、誰もがみな、なぜか「死」について語ることなく、歳月を重ねている。それが自分に訪れるのが、ずっと先であるかのように。》

 この文にはつくづく同感であるが、私自身、妻や長男の死に直面するまでは、死後の世界のことなどあまり考えたことがなかった。霊魂や霊界などについて考えたり語ったりすることはタブーとされていた環境のなかで長い間過ごしてきたから、ここに書かれているような「不思議」についてはよく理解できる。おそらく私も、家族との死別という悲嘆の極みに陥ることがなかったら、今も死後のことなど何もわからず、無明の闇の中にさまよっているかもしれない。

 人々が死後の世界について真剣に考えようとしないのは、おそらく、自分自身がこの世から消滅してしまうということは考えるだけでも恐ろしいことで、つい避けて通りがちになるからであろう。家族の死にしても、死後の展望がまったく開けていない段階では、目の前で灰になっていくのを見ているのは耐え難い苦しみであるに違いない。そこから抜け出せる道はないかと、少なくとも「溺れる者は藁をもつかむ」心理で、何か死後の世界の手がかりを手に入れたいと、必死になるのが普通であるが、それでも、霊的真理にたどり着く場合もあれば、最後まで悲嘆のままに終わってしまうこともある。これもやはり、シルバー・バーチのいうように、真理を受け入れる魂の準備ができているかどうかによるものであろうか。





  死後の世界を理解させて見送る        (2016.07.20)


 前稿「不思議に思えてならないこと」に続いて、淺川嘉富『人間死んだらどうなる?』(中央アート出版、2011)から、もう一つの事例をとりあげたい。この本の著者の浅川氏は、1941年 に生まれて、1965年に東京理科大学を卒業している。その後、1999年に大手損害保険会社専務取締役を退任して、宇宙、人間の歴史、死後の世界をライフワークとするようになったことは、すでに触れた。それは、氏の夫人が、ガンの告知を受けて、死に対する不安や、恐怖心と葛藤する壮絶な姿を目の当たりにしたことがきっかけになったという。

 浅川氏は、死を前にした夫人に、死はサナギが蝶に変身するように、単なる肉体の「脱皮現象」に過ぎないことを、ひたすら説き続けたらしい。肉体は朽ちても、「君自身は“肉体の衣”から“霊的な衣”に衣装替えをして、別の次元に移るだけだ」と、熱心に語り続けたことを著書の中で述べている。しかし、死に直面している人に対して、このように語りかけることは、普通は決して容易ではない。末期がんで苦しんでいても、まだ生への一縷の望みを捨てきれないでいることもないわけではないから、死を前提にしてしまうことにはためらいがある。このように語りかけるには、相手との間に、よほど確かな信頼関係と愛情がなければならないであろう。氏の場合はそのような条件が整った珍しい事例といえるかもしれない。浅川氏は、つぎのように述べている。

 《「新しい世界へ行けば、先立った君のお父さんやお母さんにも会えるし、私だってそう遠からずそちらの世界に行くことになるのだから、何も寂しがることはないんだ。それに、もともと人はそちらの世界が本来の住処なんだ。君は修行の場である『この世』にやって来て、やるべきことをやり終えて、予定通りに戻っていくのだから、決して恐れたり、悔しがったりすることはないのだ」そう語る日々が続いた。それだけが私が妻にしてやれることだったからである。》

 氏の場合は、この献身的な努力の結果、「死後生」などあまり信じていなかった夫人も、しだいに「死後の世界」の存在を受け入れるようになり、「死」に対する恐怖心を和らげていった、という。「それは見守る私や子供たちにとっても大きな慰めとなった」と氏は述懐している。そして氏は、こう述べている。「彼女が『死後の世界』の実体を知ることによって、心穏やかにあの世に旅立ったことは、彼女の顔が物語っていた。茶毘に付すまでの日々、妻の顔は日に日に穏やかになり、美しくなっていった。家を出るその日、紅をつけた彼女の顔が羨ましいほどに輝いていたことを、今でも鮮明に覚えている。」 そして、最後に、つぎのようなことばも付け加えている。

 《私は妻の死に立ち会って、人が死について正しい知識を持つことがいかに大事かを、改めて知らされた。またそれは、自分の生き方を決める指針になることも知った。死の実相を知ることは、人生を送る上でのよりどころとなる正しい価値観を持つことに直結しているからである。だから、死について話し合うことは元気でいるときにこそ必要なことなのだ。遅ればせながらも、私たち夫婦は、生前にそれができたことを何より幸せなことであったと考えている。》 (同書、pp.5-7)





   明るく華やかにそして優しく         (2016.07.27)


 7月7日に逝去されたK.Kさんの通夜が7月9日に、告別式が7月10日に営まれました。斎場には、100名ほどの人々が参列していました。7月8日の「メール交換」欄「優しさと思いやりの心を遺して」のなかで、私は、「この世での彼女の60年の生涯は、世間の眼から見ると、或いは幸薄く映ったかも知れませんが、彼女のような人こそ、天に多くの宝を積むことができた幸せな人といえるのではないか」などと書きましたが、それをご覧になった方からも、式場へのご参加や弔電をいただいたりしました。K.Kさんもあたたかいお心遣いに感謝していたことと思います。

 葬儀式場に入られた方々は、バラの花に囲まれたK.Kさんの遺影が宝塚女優のプロマイドのようであったのに驚かれたかもしれません。普通、遺影は黒枠に収められたりして、地味な色調のものが多いのですが、彼女の遺影は、明るく華やかなメークアップでピンクの額縁いっぱいに溢れるような微笑みを浮かべていました。K.Kさんは、死後の世界がどういうところかよく理解していたと思います。痛みと苦しみから解放され、衣食住の心配もなく、地上の生活の中には譬えられるものがない美しい世界の中で自由自在に動き回って生きていける楽しみを、おそらく彼女は予想していたでしょう。少なくとも、彼女には死の怖れはありませんでした。式場の入口の壁には、K.Kさんからのメッセージが写真付きで、つぎのように貼り出されていました。

   お香典は固くご辞退申し上げます。
   私の葬儀は、楽しく、みんなで笑ってほしい。
   笑顔で臨んでください。
   もしも一回涙がこぼれたら
   そのすぐ後に
   2回笑ってください。

 式場に飾る遺影については、彼女自ら、「写真は私らしいおチャラケで、宝塚のマリーアントワネット!『これじゃ、だれの葬儀かわからん!』 と言われても、これだけは譲れません」と注文を付け、参列者に出す食事については、「お食事は豪華にすることはないけれど、来てくださった方が喜んでくださるおいしいものをお願いします」と、書き添えています。そして、最後に、参列の方々に対する 「しっかり召し上がってください。食いしん坊の私も同席して、何かイタズラをしているかもしれません」とジョークを交えて、このメッセージは終わっています。導師を務められK.Kさん懇意のご住職は、読経のあとのお話で、彼女のことを「菩薩のような人」と言っておられたのが印象的でした。

 7月10日の昼、告別式が終わって、火葬場へ行くために私たちを乗せたバスが斎場を出た時、私はぼんやりバスの窓から外を見ていました。最初の曲がり角のところで、うす曇りのなかに太陽が霞んでいるのが目に入りましたが、その太陽のまわりには大きな輪ができていて、しかもその輪がきれいな虹になっているのに気が付きました。虹そのものは珍しくはありませんが、太陽の周りの輪が虹になっているというのは、かなり珍しいかもしれません。バスの中ではちょっとしたざわめきが起こりました。みんなが窓へ顔をこすりつけるようにしてその虹を見上げていましたが、誰かが、「あれはK.Kさんの虹かもしれないね」と言ったので、そのことばでバスの中は一瞬しーんと静まり返ったのです。私の胸の中には今も、彼女の優しさを愛おしむようなそのことばの響きが、余韻となって残っています。





   スマートフォンに振りまわされる人たち       (2016.08.03)


 スマホゲーム「ポケモンGO」のアプリ配信が7月22日から始まって、日本でもスマホを片手にポケモン探しに熱中する人々が急速に増えてきているようである。7月23日の新聞各紙は、いづれもこのニュースを大きく取り上げていた。「ポケモンGO 列島熱狂」などという大見出しが紙面を埋め、政府をはじめ、警視庁なども、歩きスマホをしないように警告しているようである。東京都教育委員会も、都立学校254校に対し、歩きスマホを禁止するように通知したらしい。歩きスマホについては、7月13日に20代の女子大学生がスマホをみながら駅ホームを歩いていて転落し死亡する事故なども発生していたため、従来からその危険性が指摘されていたが、「ポケモンGO」以来は、その危険な歩きスマホが3倍にも増えたという報告もある。

 総務省の発表によれば、昨年(2015年)末時点で、スマートフォンを持っている人の割合は53.1パーセントだったそうである。従来型端末(ガラケー)などスマホ以外の携帯を持つ人は、35.1パーセントで、どちらも持たない人は、全体の8.6パーセントであった。さらに、これを年齢別でみると、60歳以上はガラケーが多数派だが、13~49歳の7割超がスマホを持ち、その所持率は20代にいたっては92.9パーセントにも上っている。(「朝日」2016.07.23) それから半年を経た現在では、日本の若者はほとんどみんなスマホを持っていて、持っていない人を見つけるのがむつかしい状況であるのかもしれない。従来から、携帯電話で話しながら歩いている人を見かけるのは当たり前のようになっていたが、いまは、それに加えて、スマホを見ながら歩きまわる人も当たり前のようになってきた。これは異様な現象ではないであろうか。

 スマートフォン一つをもてば、あらゆる情報が瞬時に手に入れやすいし、電話、メール、写真・動画撮影から「ポケモンGO」のようなゲームも楽しめる。人間のテクノロジーの進歩がここまで来たのかと思わせるような便利さだが、いかなる文明の利器であろうと、それを使う側の節度がなければ、利器は自分の身を滅ぼす凶器にさえなりかねない。しかし、その節度をスマホに夢中になっている人たちに期待するのは、なかなか容易ではないようである。いまの世の中は、私たちのまわりに、カネ、カネ、カネ、モノ、モノ、モノの巨大な濁流が渦を巻いていて、私たちはよほど気をつけなければ、そのなかに飲み込まれてしまいそうになる。まわりの動きが激しく騒がしいほど、私たちは、時には、喧騒から離れて、自分自身と向き合う静寂の時を持たねばならないと思われるが、そうでなければ、心の深いところで、少しずつ、大切なものが失われていくような気がしてならないのである。





   カレル博士と「ルルドの水」の奇跡      (2016.08.10)


 アレキシス・カレル博士(Alexis Carrel, 1873~1944)は、フランスのリヨンで生まれ育ち、リヨン大学で学んだ。卒業後、リヨン病院で医療に従事していたが、その当時、すでに、フランス南西部ピレネー山脈の麓の小さな町ルルドで、ベルナデッタが聖母マリアの啓示によって掘り出した奇跡の泉は、フランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡っていた。ベルナデッタは、1844年生まれで、1879年に35歳で亡くなっているが、カレル博士が幼児の頃は、彼女はまだ、ブルゴーニュ地方にあるヌヴェール愛徳修道会で雑用や看護師の仕事をしながら奉仕活動を続けていたことになる。

 そのルルドの泉の奇跡が最初に起こったのは、1858年3月1日であった。木から落ちて右手が曲がったまま麻痺してしまった39才の婦人が、泉の中に自分の右手を恐る恐る浸してみると、感覚がみるみる蘇って今までいくら努力してもぴくりともしなかった右手が動き出したのである。その二日後にも、54才の男性で、20年前に事故に合い、右目を失明していた石工の奇跡があった。彼はその泉の水で、右目を洗ったとたん、見えないはずの右目が見えるようになった。その噂は忽ち大評判になって、それ以来、このルルドには、奇跡の救いを求めて、毎日、夥しい数の人々が、この町を訪れるようになっていた。

 リヨン病院の医師であったアレキシス・カレルは、1902年、彼が29歳の時、たまたま、このルルドへの巡礼団に随行医師として参加する機会があった。その巡礼団のなかには担架に乗せられた19才のマリーという女性がいた。彼女は末期の結核性腹膜炎を患っていて、下腹は大きく膨れ上がり、顔には死相があらわれていた。医者からは見放され、最後に一縷の望みをかけてこのルルドの地を目指していた。カレル自身も付き添っていて、この患者は間もなく死を迎えると思っていた。ところが、そのマリーが、ルルドの水に触れて祈っているうちに、結核性腹膜炎が治ってしまったのである。

 その奇跡を目の当たりにして、カレル博士は、自分の見てきたままを、『ルルドへの旅』に書いた。信じられないことが現実に起こって、その後、彼は熱心なカトリック信者となった。しかし、フランスの医学会は、カレルの報告に納得しなかった。渡部昇一氏によれば、「そのような迷信を信じるなど、医者としてあるまじき行為」として非難され、彼はフランスにはいられなくなった。仕方なくカナダへ行って農場をやろうとしたが失敗し、結局はロックフェラー研究所に入り、ここでの研究が実ってノーベル賞を獲得したのだという。(『語源力』海竜社、2009年、pp.132-134) カレル博士は、1902年に、巡礼団に付き添ってルルドの水の奇跡を目の当たりに実見したことで、結局は国外へ出なければならなくなり、そしてそのことが、アメリカで1912年のノーベル生理学・医学賞を受賞する道を切り拓いたことになるのかもしれない。

 *このHPの「身辺雑記 23」に「長崎県五島列島のルルドの水」の記載がある。





   8月に憶う日本人と欧米人の宗教感覚     (2016.08.17)


 日本人は、宗教を信じているという意識が乏しいとはよく言われることである。あなたの宗教は何ですか、と訊かれて、「よくわからない」とか「無宗教」と答える人も珍しくはない。それでいて、多くの人々は、子どもが生まれれば健やかな成長を願って神社に七五三のお詣りをし、正月には、神社やお寺に初詣に訪れて一年の幸せを祈る。お盆があり、墓参りがあり、お守りなども持ち歩いて、家では神棚や仏壇のまえで礼拝を繰り返している。日本は典型的な非キリスト教国で、キリスト教の信者は人口の1パーセントにも満たず、カトリックと プロテスタントを合わせても百万人程度であるにすぎないが、それでも、子どもたちがキリスト教の学校へ通い、成人すれば教会で結婚式を挙げるというのは、ありふれた光景である。クリスマスになると、街にはクリスマス・ムード一色になり、家庭では、「クリスマス・ケーキ」なるものを食べて祝うのも当たり前のようになっている。

 日本には、古来、神道の八百万の神々の伝統があって、6世紀半ばからは仏教も受け入れて神仏習合が続いてきたから、一神教のキリスト教、イスラム教のように崇拝する対象が明確でない面もあるかもしれない。そのことが、日本人の宗教意識を希薄にしているともいえるが、世界的にみれば、日本は、立派な仏教国である。仏教徒の数も約8千4百万人で、2億4千4百万人の中国に続いて世界第二という数字もある。日本人の信仰心にしても、本当は、あながち弱いとはいえず、長い歴史と文化を通じて、日本人の心の奥底に深く沈潜してしまっているのではないか。それで、つい、外国に出た時などに、「あなたの宗教は」と訊かれて、「無宗教」などと答えてしまうのだが、これは、たとえば、欧米のキリスト教国などでは、ちょっと理解されにくい、あるいは、誤解を招きかねない対応であることを、知っておく必要があるかもしれない。

 かつて私は、学生たちを連れて夏休みに、アメリカやイギリスで、一か月ほどのホームステイによる語学研修を毎年繰り返していたことがある。出発前から私は、オリエンテーションで、この宗教に対する感覚の違いなども教えていたが、それは、ホームステイ先の家庭での不必要な誤解や不当な軽侮を防ぐためであった。欧米というのは、キリスト教文化である。古来、生存条件の厳しい自然環境の中で肉食に依存しなければ生きていけなかったヨーロッパ人は、聖書の後ろ盾を得て人間と動物を峻別し、人間でない動物は食料にするために日常的に殺しても良心の呵責を感じることはなかった。そして、この人間でない動物は殺しても許されるという論理は、キリスト教徒でない者は人間ではないから殺してもよいという論理につながっていく。キリスト教徒による非キリスト教徒の大量殺戮がヨーロッパの歴史のあちらこちらに深く刻み込まれているのはそのためである。

 かつての太平洋戦争の時でも、イギリス軍の捕虜になった京都大学の会田雄次氏が『アーロン収容所』で生々しく描いたように、イギリス兵は日本兵を全く人間とは思っていなかったことがよくわかる。会田氏が掃除のためにイギリス人女兵士の部屋のドアを開けたとき、たまたま中に全裸の女兵士がいた。入って来たのが人間ならば金切り声を上げるに違いないのだが、日本兵は人間ではなく、犬が入ってきたようなものだから、その裸の女兵士は眉一つ動かさず平気であったという。私が留学した1950年代のアメリカでも、これは住んでみるとわかるのだが、日本人を人間とは思っていないアメリカ人は少なくはなかった。

 いま日本では、毎年、8月になると、「終戦の日」を前にして、10万人を焼き殺した1945年3月10日の東京大空襲や、20万人を一瞬にして灰にした8月6日、9日の広島、長崎原爆投下関連の記録や報道が繰り返しテレビなどで流される。原爆投下は、日本の降伏を早めて、米軍、日本軍の死傷者を少なくするためであったとするアメリカ側の世論は、いまでも変わっていないようだが、彼らも「非キリスト教徒の日本人は人間ではない」という論理をいまだにどこかで引きずっているのかもしれない。非常事態でなければ、表面に出ないだけのことである。私は時々、彼らが、もし相手が日本のような「異教徒」の国ではなくキリスト教徒の国であったならば、たとい戦争の場合でも、あのような大量殺戮や原爆投下をなし得たであろうかと、思うことがある。





   将来を楽観できないでいる日本人     (2016.08.24)


 日本、インド、インドネシアの3国の民間機関による世論調査で、自国の将来についての意識調査の結果が8月19日に明らかにされた。「楽観的」「どちらかといえば楽観的」と答えた人は、日本では20.7パーセントにとどまったが、インドネシアでは65.3パーセント、インドでは75.9パーセントに上ったという。(「朝日」2016.08.20) 豊かな国であるはずの日本で、将来に展望を持てないでいる人が多いことに驚かされる。それにしても、インドやインドネシアに比べても、なぜこれほどまでに日本では将来を悲観する人が多いのであろうか。その理由としては、「急速な高齢化や人口減少に有効な対策が提示されていない」が84.7パーセントで、最も多かったと世論調査は伝えている。

 「自国の民主主義が機能しているか」という問いに対しては、肯定する回答が日本では46.7パーセント、インドネシアでは47.1パーセント、インドでは65パーセントとなっている。機能していないと答えた人に理由を聞くと、日本では、「選挙に勝つことだけが自己目的となり政治が課題に真剣に向かい合っていない」が60.2パーセントで最も多かった。政党に期待できるかを問う設問でも、肯定的な回答は15.5パーセントにとどまり、日本では、政党政治への不信感も高いようである。インドやインドネシアと比べれば、日本はもっと進んだ民主主義の国だと多くの日本人は思ってきたに違いないが、こうしてみると、日本人は民主主義でも満足できず、将来に対しても、際立って悲観的ということになる。別の言い方をすれば、幸福度が低いということであろう。

 国連は毎年、「世界幸福度報告書」を発表している。この幸福度は、一人当たりの国内総生産(GDP)や健康寿命等を指標にして算出されているものだが、これらの指標では世界最高水準で有利なはずの日本の順位は今年の発表では、157か国中53位である。しかも、昨年の46位から7つも順位を下げている。本年4月に来日した、「世界で最も貧しい大統領」と言われたウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカ氏が、日本人に向けたメッセージで「日本国民は幸せなのか?」と問いかけたことなども思い出される。私は、日本人が将来に希望を持てず、幸福度も高くない理由は、世論調査に示された「急速な高齢化や人口減少に有効な対策が提示されていない」というような世俗的な理由以上に、科学文明の先端を走りながら、とどまることを知らないその進歩・発達に盲従しようとしてきた日本人のものの見方や考え方にも問題があるように思えてならない。

 人類は、近代に入り、科学や医学の分野で目覚しい発展を遂げてきた。原子を開放し、月にまで人を送り、人間の肉体を生きたまま輪切りにして見るなど、特に今世紀における技術革新は、まさに目を見張るばかりであった。その結果、世界中で、多くの人々が便利さと快適な暮らしを享受し、海外旅行は日常茶飯事となり、人の平均寿命も20年以上も延ばすことがかなえられた。ところが、このような技術革新は、負の面でも人間に暗い影を落とした。原子爆弾ばかりでなく、平和利用と称してもてはやされた原子力発電でさえ、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島などの大事故が起きたし、フロンガスによるオゾン層の破壊や、硫黄酸化物・窒素酸化物による「大気汚染」、地球温暖化の問題も未解決のままである。そして世界中で、テロが続発し、飢えに苦しみ、貧富の格差に生活を脅かされている人々が後を絶たない。日本にも、いま、その余波が及んでいるのである。たまたま、もう15年も前に書かれた佐藤愛子さんの『私の遺言』を読み返していたら、次のように書かれているところがあった。

 《科学文明の進歩はもう沢山だ。私はそう思う。月は「お月さま」として天空に懸るだけでいい。他の惑星なんかへ行く必要はない。五時間かかるところを二時間に縮めたいとは思わない。夏は暑く、冬は寒いことを当然のこととして受け容れる生活がしたい――私は切にそう思う。ただし、冬の寒さ、夏の暑さが自然がもたらす純粋の暑さ寒さであることが必要だ。今の暑さは物質文明が変質させた暑熱である。だから湿度が高くて堪えられない。そこで我々はクーラーを使う。クーラーを作動させて屋内を涼しくし、屋外へ熱風と湿気を噴出させ、ますます暑熱を作り出す。そうして、昼も夜もフル作動させなければならなくなる。この循環が今の夏を作っている。このままで行けばどんなことになるのか誰にもわからない。》 (pp.241-242)

 佐藤さんは、「物質の豊かさと自由快適な暮らしを追い求めているうちに我々は心を荒廃させていった」と15年前に言っている。冒頭の世論調査の結果も、決してこれと無関係ではない。そして彼女はこう続けている。「理由のない衝動殺人、荒れる高校から中学へ、そしてついに小学生にまで荒廃が及んだと思ったら、この頃は親の児童虐待が増えだした。かつて我が国で女性の一番の美徳とされていた『母性愛』が変質してきたのである。」 この佐藤さんが書いた状況は、現在も改善されてはいない。むしろ、悪化しているとさえいえるであろう。衣食住が与えられても、足ることを知らず、さらに豊かさと快適な暮らしを求めてあくせくしているうちに、物質的欲望はますます肥大化していく。それが幸せのためには必要で当たり前と思われているのかもしれないが、それは決して「当たり前」ではない。その欲望の肥大が人を不幸にしていく最大の原因の一つであろう。私たちは、静寂のなかで自分自身と向き合い、モノから心への回帰を図っていくことが、いま、何よりも求められているように思われてならない。





    今年も巡ってきた「9月1日」           (2016.09.01)


 今年も「9月1日」が巡ってきた。1983年9月1日に、妻と長男があの大韓航空機事件に巻き込まれてから33年になる。事件の時53歳であった私も、いまは86歳になった。これだけ年月が経過すると、あの悲嘆と絶望に沈んでいた日々も、少しは遠くに霞んでしまっているような気もする。しかし、やはり忘れることはできない。思い出すたびに、心の奥底にある悲しみの塊のようなものが、突き上がってくる。いまの私は、それを穏やかに受け止めることができるが、初めの数年は、その重荷と苦痛に耐えがたい日々が続いた。真相究明活動でアメリカ軍部の謀略と人命軽視を世界へ訴えながら、大統領のレーガンや、国防長官のワインバーガー宛に糾弾と罵りの手紙を送り続けたこともあった。しかし、失われた命が返ってくるわけではない。そう思うと、あまりの空しさに生き続けていることも苦しかった。いま改めて、よくここまで生き延びてこれたものだという感慨をかみ締めている。

 世の中には「偶然」はないという。事件当時、私がアメリカ政府のフルブライト上級研究員に選ばれて渡米していたことを含めて、「必然」がいろいろと続いた。あの時「もし」そうしていたなら、事件を回避できたはずだという「もし」が私にはいくつもあったが、私は自分の意志で、それらを選ばなかった。私は何もわからず無我夢中であったが、いま考えてみると、ジグソーパズルの一コマ一コマが決められた位置にきちんとはめ込まれていくように、私は自分の必然の道を歩いてきた――というより、歩かされてきた。そして、その道はロンドンへも伸びて、1992年2月に大英心霊協会でアン・ターナーに逢うまで続いたのだと思う。必然の道を歩んできたということは、大いなる存在に導かれてきたということである。随分長い間の紆余曲折を経て、私はやっと、自分の力で生きてきたのではなくて、生かされてきたことを、身に染みて理解するようになった。

 私は、なぜ自分がこのような苦しい体験を背負わねばならなかったのか、長い間、わからなかった。いまでは私なりにわかる。生とは何か、死とは何か、という重大な問題についても、私は何もわからず、長い間、無知のまま過ごしてきた。いまは、少しは理解することができて、やがて迎えるであろう自分の死についても、穏やかに受け入れられるような気がしている。世の中の名誉、地位、財産などに対する執着や物欲もいつの間にか殆ど消えていった。そして何よりも、これは揺るぎのない確信として、妻も長男も生き続けていることを知り得たことが有り難い。本当は、事件のあと何年も、あれほどまでに嘆き悲しむことはなかったのだ。不幸のどん底に落とされと思い込んで、長い間、人目も避けて萎縮していたが、気がついてみれば、私は明るい青空の下で暖かい太陽の光に包まれていた。いまでは、もしかしたら、私は誰よりも大きな恵みを与えられているのではないかと、密かに思ったりもする。





   親鸞が教える他力の救い       (2016.09.15)


 『歎異抄』の著者は親鸞(1173-1262)の弟子の唯円が、師のことばを書き留めたものと考えられているが、これがまとめられたのは、親鸞の死後二十数年を経た正応3年(1290年)頃のようである。その第4条には、つぎのように述べられている。文体が古いので少し読みにくいが、原文はこうである。

 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。

 ここでは慈悲には二つあって、浄土の慈悲は、聖道の慈悲とはっきり区別されている。聖道の慈悲とは、「自力」の慈悲である。他人やすべてのものを憐れんだり、深くいとおしんだり、自分の力で人々を助けようとするが、しかし凡夫には限界があって、自分の力だけで他の人びとを根底から救うことなどはできない。だから、早く阿弥陀如来の本願に目覚め、その大慈大悲心を体してただひたすらに念仏をとなえるべきである、と教える。これが「他力」の浄土の慈悲である。つまり、阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏の神通力にすがるのが本当の救いだ、というのである。

 この自力と他力の救いについては、私には深く考えさせられる記憶がある。あちらこちらに書いてきたが、5歳の頃、私は大阪の尻無川に浮かんでいた筏の上から水に落ちて溺れかかったことがあった。泳ぎを知らなった私は、水の中で泣きわめきながらもがいていた。一度深く沈んだ私は、もがいているうちに上へあがってくる。しかし、私の手は何にも触れることがなくまた沈んだ。そのとき一緒にいた7歳のカズちゃんは、筏の上から手を差し伸べて私を掴もうとしていたが、2度目に私が浮かび上がってきたとき、指先が少し触れただけであった。3度目に私が浮き上がってきたときにやっと、カズちゃんの手は私を捕らえた。その3度目のカズちゃんの手がなかったら、私は間違いなく溺死していたであろう。

 私は、その時のカズちゃんの手を、「神の手」であったと書いたりしてきた。現象面だけでみれば、あの時のカズちゃんの小さな手は、確かに「自力」の救いの手である。しかし、まだ幼い7歳の子が、非常事態のなかで動転しながらも、人の命を救うというようなことは滅多に出来るものではないであろう。私がカズちゃんの手の届く範囲に浮き上がってくる可能性も決して多くはない。それに、カズちゃんが驚いてすくんでしまったり、急いで大人たちを呼びに行こうとして、そこを離れてしまっても少しもおかしくはなかった。そうなれば、私の生命は、あの時終わってしまったはずである。

 あの時、カズちゃんの小さな力で、3度目に私を掴ませたのは、それは、やはり、神仏の力ではなかったか。神仏の力というのは、目に見えないから意識されることはないかもしれない。しかし、本当は、私たちはみんな、このような大きな神仏の力に守られて生かされているのである。あの時のカズちゃんの小さな手も、目に見える形では確かに「自力」であったが、真実は、目に見えない大きな力が働いた「他力」であったに違いない。親鸞も、阿弥陀如来の人を救うという本願とその神通力を確信していたからこそ、この『歎異抄』でも他力の念仏の重要性を強調しているのである。





    悪人だからこそ救われる    (2016.09.21)


 「歎異抄」の第3条は、いわゆる悪人正機説である。普通は、「悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するのは当たり前ではないか」というふうに言われる。しかし、これは、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いに反しているのである。ここでいう「善人」とは、自分の力を過信し、自分の善行の見返りを信じて疑わないような人びとのことである。そういう人は、誰かに縋ろうとする気持ちが薄く、絶望のどん底からわきでるような必死の信心にも欠けることになる。だから、こういう人は、阿弥陀仏の救済の主な対象にはならない。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いを得ることができると親鸞は言う。

 これに対して、「悪人」とは、あらゆる煩悩にとりかこまれて、どんな修行によっても生死の迷いからは離れることができない凡夫のことである。そのような凡夫を阿弥陀仏は哀れに思ったからこそ、すべての悩める衆生を救うという誓いをたてられたのであった。それが阿弥陀仏の本願である。だから、阿弥陀仏が救いの対象にしているのは、誰よりもまず、煩悩に迷いさまよっている哀れな凡夫なのである。つまり、阿弥陀仏が救おうとされるのは、まず悪人であって善人ではない。それを親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」と言っているのである。この「悪人」を理解するためには、あるいは、人間は生まれつき神に背いてしまう原罪を持っているというキリスト教的な教えも参考にして考えた方がいいかもしれない。

 私たち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他の生きもののいのちを奪い、それを食べていかねばならない。他の生きものというのは、山の獣や、海や川の魚だけではない。米や麦も、野菜や果物もすべて命をもった生きものである。私たちはそれらの生命を殺し食べていくという根源的な悪を抱えた存在である。そのうえでさまざまな「業」を背負ってこの世に生きている。自然を破壊して利益を追求しようとするのも業であり、社会の富を自分に少しでも多く集中させようとする人為も業である。国益や宗教の対立から人を殺しあう者も殺し合いをさせている者も大きな業であることはいうまでもない。親鸞がいう悪人とは、そのような根源的な悪を持ち煩悩にまみれた凡人のことで、その意味では、私たちはすべて悪人なのである。親鸞も自分自身を悪人と自覚していた。そして、そのような悪人だからこそ、私たちは救われると説いたのであった。





    死後の恐怖は私たちにとって必要か    (2016.09.28)


 矢作直樹氏は現在、東京大学医学部教授で、『人は死なない』(パジリコ出版)の著者である。氏は学生時代には年間200日ほども山に入るぐらいに山登りに熱中していたが、その間に、2度も大きな転落事故にあいながら奇跡的に生き延びた。2度目の転落の時には、「もう山には来るな」という天の声を聴く。どう考えても、その声は幻聴ではなかった。それ以来、氏は山登りはやめたという。氏は霊能者ではないが、母親の死後、知り合いの霊能者から連絡があって、霊界の母親との対話が実現した。このホームページの「霊界通信集」(b-1)に、その模様を紹介している。矢作氏が、『人は死なない』を書いたのは、このような体験が背景にあったからと思われる。その矢作氏が、別の著書『死んだらどうなるのか』(PHP研究所、2013)で、つぎのように書いている箇所がある。

 愛する人たちに二度と会えなくなる。何よりも死ぬのは苦しいことだ。簡単に言えば、死への恐怖はこの二つに集約されます。本当は、死んでからも愛する人に会うことはできるかもしれません。生きている者にはわからなくても、別の世界に行けばもっと自由になれるのだと思います。そして、死ぬ瞬間には意識がなくなっていますから、現実的な苦しみは感じないでしょう。
 とはいえ、もしも死後の世界があることが明確にわかり、かつ死が苦しみを伴わないとしたら、人生の途中で自らの命を投げ捨ててしまう人が増えるでしょう。そうならないためにも、死への恐怖心は大事なものなのです。(同書p.33)

 矢作氏は、もちろん、死後の生を確信したうえで、このように書いているのであるが、「死後の恐怖が必要である」といういい方には、それなりに理由があっても、やはり、積極的に賛成することはできない。死後の恐怖は無いに越したことはないのである。私たちは、そのために、スピリチュアリズムの勉強を続けている。死後の生存を理解することで、死後の恐怖から離れ、この世に生まれてきた意味を知って、人生の様々な辛苦艱難に打克っていく。それが私たちの霊性を高めていく道であり、また、それが私たちの本来の生き方であると思うのである。しかし、そうは言っても、死後の生を理解するというのは、決して、容易ではない。だから親鸞も、この世を早く終えて浄土へ行くことに血沸き肉躍るほどの喜びを感じることができないのは、よほど私たちの煩悩が深いからであるに違いない、と言ったのである。(『歎異抄』9条)





    増え続ける日本の宅配便に思う     (2016.10.05)


 スマートフォンから商品を注文すると、1時間以内に届く。そんなサービスが、すでに昨年から、アマゾンジャパンが始めているそうである。品ぞろえは1万8千点からスタートして、拡大を続けているという。国交省が7月末に発表した統計では、昨年、2015年度の国内の宅配便数は37億4500万個で、1984年度の3億8500万個から、約30年で、10倍近く増えていることになる。急激に増えたのは、90年代後半以降のネット通販の普及によるものらしい。経済産業省の統計では、2015年のネット通販などの消費者向け電子取引は13.8兆円で、ここ5年で2倍近くに増えた。これが、野村総合研究所の試算では、2021年には、25.6兆円まで膨らむというから、空恐ろしいほどの増加ぶりである。(「朝日」2016.08.24) 

 ネット通販を利用している人たちの例がいくつか新聞に出ている。ある会社員の女性は、夜、帰宅して犬の散歩に出かける前、ペットの足ふきシートを注文して、1時間後帰宅すると、玄関前に商品が届いていた。「ワインが飲みたい」と思って注文すると、食事が終わらないうちに届けられたという。1時間以内どころか、楽天が昨年始めたサービスでは、「最短20分で届く」というのもあるらしい。そのためには、商品を積んだ複数の車が、都内の一部地域を回遊魚のように走りまわり、注文が入るとすぐに急行するのだという。「必要と思ったら、すぐ欲しい。我慢ができなくなっています」とは、このようなネット通販の常連である45歳の女性のことばである。もうこれは、深奥の魂のレベルの汚染が進んでいて、深刻な「病気」であるというほかはない。

 ことほど左様に、人間の欲望というのは肥大する。その肥大する欲望を当てにして業者はますますあの手この手のさらに細かいサービスを考え出そうとする。欲しいものが、1時間以内とか20分程度で配達されてくるというのは、一見、便利のようにはみえる。しかし、私たちは本当にそのような「便利」を必要としているのであろうか。それがなければ私たちは生活に不自由するのであろうか。ちょっと考えても、その膨大な量の運搬、配達のためには巨額の費用がかかり、資源と労力と時間を甚だしく浪費する。街のなかは混乱と喧騒の一途をたどり、無数のドライバー達は神経をすり減らしながらも、ますます低賃金で無理な労働を強いられることになるだろう。そこまでして私たちは1時間や20分の配達でモノを買わねばならないのであろうか。本当は、そんな買い物から離れたもっと「不便な」生活に戻る方が、こころの安らぎと幸せに包まれた「豊かな」生き方ができるのではないか、と思えてならないのである。





    アメリカの海軍と陸軍の日本語学校        2016.10.12


 ドナルト・キーンさんは、1922年にアメリカのニューヨークに生まれて、現在94歳である。コロンビア大学で博士号をとって以来、日本文学者としての優れた業績に対して、1978年にケンブリッジ大学からも名誉博士を授与されている。それからも、アメリカや日本の大学から12を数える名誉博士号を授与された。1999年には、私の母校の東京外国語大学からも名誉博士号が贈られた。2008年には、日本で、外国出身の学術研究家としては初の文化勲章を受章している。2012年(平成24年)には、日本国籍を取得した。

 ドナルト・キーンさんは、1941年の日米開戦の時には、コロラド州ボールダーのアメリカ海軍日本語学校に入学している。この学校は、秀才ばかりが揃っていた。服装は私服で、軍事的なことは教えられず、4人から6人という小さなクラスで、徹底的に日本語だけを教えられた。授業は毎日4時間、予習復習が8時間、日曜だけが休みで、遊ぶ暇はなかった。学生たちはみな、半年間で、新聞が読めるようになったといわれている。在学期間は、一年間で、卒業式には、キーンさんが総代になって日本語でスピーチした。

 ドナルト・キーンさんと一緒に、1941年、この海軍日本語学校に入学して同級生であったのが、同志社大学名誉教授であったオーティス・ケリーさんである。彼はドナルド・キーンさんより一つ年上で、 2006年に亡くなっている。オーティス・ケリーさんの父フランクは、戦前の小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)の教授であった。その子のオーティス・ケリーさんは、小樽の高商官舎で生まれて小樽育ちだったから、日本語は母国語のように話すことができた。このドナルト・キーンさんとオーティス・ケリーさんの二人は、太平洋戦争中、日本軍が守備し、ひそかに奇跡的な撤退を果たした時のキスカ島に、偵察のための情報将校として、二人だけで「敵前」上陸している。

 この海軍日本語学校に対して、カリフォルニア州モントレーには陸軍日本語学校がある。1982年、私は小樽商科大学に在任中、フルブライト上級研究員として渡米し、アリゾナ大学にいた。1983年春、2年目の赴任先を探していた時、たまたまそのアリゾナ大学へ、陸軍日本語学校から講師公募の書類が届いた。私は、ドナルド・キーンさんや小樽で縁のあるオーティス・ケリーさんには、かねてから親しみを感じていた。彼らが学んだアメリカの日本語学校の教授法には特に興味があったので、この公募に応募した。論文と英語・日本語のスピーチ、教授経歴などの審査に通って、「A級講師」と認定され、私は任用通知が届くのを待っていた。

 しかし、日本語学校の事情で任用手続きに時間がかかっているうちに、ノースカロライナ州立大学への赴任が先に決まってしまった。私はモントレーには行けなかった。小樽生まれのオーティス・ケリーさんとドナルド・キーンさんの縁は海軍日本語学校で繋がり、小樽商大からアメリカへ渡った私は、陸軍日本語学校で彼らの体験を教師の立場で追体験できるはずであったが、その希望は実現しなかった。これが重大な運命の岐路になった。私は、この選択によって、1983年9月1日の事件に巻きこまれることになる。偶然というものはないといわれるが、もしあの時、陸軍日本語学校の講師になっていれば、その後の私と家族の運命は、大きく変わっていただろうと、今でも時々思うことがある。





   日本とアメリカ、二人の軍人の贖罪    2016.10.19


 去る8月15日に放映されたNHKスペシャル「ふたりの贖罪」―日本とアメリカ、憎しみを越える― は見ごたえのある番組であった。ご覧になった方も多いであろう。1941年12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲した時の総指揮官、淵田美津雄中佐と、攻撃された側のアメリカ陸軍航空隊ジェイコブ・ディシェイザー伍長をめぐる数奇な運命を描いた実話である。淵田の率いる攻撃隊350機は、この真珠湾奇襲で、2300人以上の人命を奪い、戦艦4隻を撃沈させた。淵田は、日本では、一躍、救国の英雄に祭り上げられた。天皇に特別に謁見を許され賞賛を受けて、海軍参謀に昇任した。アメリカでは、多くの仲間が殺され、復讐心に燃えたジェイコブ・ディシェイザーが、その後、1942年4月、太平洋上のアメリカ空母から飛び立って、日本本土への初めての空襲に志願して参加した。日本までの距離は1200キロで、帰りの燃料はなかった。名古屋市内を爆撃し300発の焼夷弾を投下した後は、中国に不時着した。そこは予想外の日本軍占領地域で、8人が日本軍に捕らえられ、3人が処刑されて5人が収容所に入れられた。ディシェイザーはそのうちの一人であった。

 収容所の生活は、まともな食事も与えられず過酷を極めた。ディシェイザーは激しく日本人を憎み、「人としての日本人は最低の部類に属する。私は気が狂う程、日本人が憎くてならなかった」と手記に書いている。それから一年半が過ぎ、南京の収容所にいたとき、仲間のアメリカ人捕虜が一人亡くなり、形ばかりの葬式をすることになった。その時に日本人の看守の一人が、南京の街で手に入れた聖書を差し入れてくれた。その聖書で、ディシェイザーは、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らはその為すところを知らざればなり」というイエスのことばに接して、衝撃を受けた。頑なな態度を変え、看守にも優しく挨拶するようになると、看守も焼き芋をこっそり差し入れてくれたりした。日本の敗戦で収容所から解放されたディシェイザーは、アメリカへ帰国した。大学に入って神学を学び、1948年12月、今度は牧師となって来日し、自分が爆撃し、市民をも殺傷した名古屋の街に小さな教会を建てた。それから全国に伝道してまわった。

 一方、敗戦ですべてを失った淵田美津雄は、国を滅ぼした軍人として、まわりの日本人からも白眼視されるようになっていた。公職追放を受け軍人恩給も中止されて、生活は荒れていた。米軍の軍事法廷に出廷するために上京した1949年12月、たまたま通りかかった渋谷で、アメリカ人宣教師から「私は日本の捕虜でありました」と書かれたパンフレットを受け取った。それは、ディシェイザーが書いたものであった。その中には、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らはその為すところを知らざればなり」という、あのイエスのことばもあった。淵田はそれを読んでハッとする。「彼らをお赦し下さい」という「彼ら」のなかには、自分も含まれていることを彼は知った。淵田は聖書を買って自分でも2か月かかって熟読し、そして、「自分の罪を自覚した」。淵田はディシェイザーに会いに行った。淵田は47歳、ディシェイザーは37歳になっていた。その後、淵田もキリスト教徒になり、1952年10月に渡米して、全米を伝道してまわった。「私が真珠湾を攻撃しました」というパンフレットを配って、「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生みます。そして憎悪こそが戦争を生みます」と訴えて、「神の下にこそ平和がある」と説き続けた。

 淵田は、アメリカ人聴衆の憎しみや嘲りにさらされ、時には身の危険を感じながらも、根気よく伝道活動を続けた。ハワイにも行って真珠湾を訪れた。「軍人としては後悔は一切ありませんでしたが、しかし、キリスト教徒になった今は、とても申し訳ないと思っています」と詫びた。この伝道は、1967年まで、延べ10年間に2000回も続いた。1970年10月、真珠湾攻撃を取り上げた日米合作の大作映画「トラ、トラ、トラ」(我れ奇襲に成功せり)が公開されて、淵田の存在は改めて脚光を浴びた。1975年には、アメリカのテレビ番組で、淵田はまた、ディシェイザーと再会している。しかし、この頃から淵田の体調は悪化した。その翌年、1976年5月に淵田は73歳で死去した。淵田の葬儀には、ディシェイザーも参加した。ディシェイザーは、かつての憎しみの対象であった仇敵・淵田の遺影の前で声をあげて泣いた。「淵田と私は兄弟ですから、天国でまた会えると思います」と語った。ディシェイザーは日本での29年間の伝道を終えてアメリカへ帰国後、2008年3月に95歳で亡くなった。世界平和を訴え続け、いかなる戦争にも反対する姿勢を最後まで鮮明にしていたという。





   死後の生についての潜在意識      (2016.10.26)


 人は死んだら灰になる、無に帰するだけだと思っている人は多いが、そういう人でも、知人や友人が死ぬと、「ご霊前に」と供物を捧げ、「ご冥福を祈ります」などとお悔やみを言う。霊前の「霊」とは死んだ故人のことであり、「冥福」も冥土での幸福のことだから、死んだ故人は、当然、冥土に存在していることを想定していることになる。「安らかにお眠りください」といい、「迷わずに成仏してください」と涙ながらに言ったりするのも、もし故人の存在が無に帰しているのであれば、本当は何の意味もない。人が事故で死んだりすると、その現場に花を手向けて祈り、震災などの死亡者のための慰霊祭には、大勢の人々が手を合わせて、犠牲者の霊を慰めようとする。これも世間ではまったくありふれた光景なのだが、そんな光景に、「無に帰しているのに」と異をとなえる人はいない。むしろ、美風と受け止められているであろう。なぜ、このような辻褄の合わないことになるのであろうか。

 人々が「死んだら無になる」と考える人が多い背景には、おそらく、「宗教を信じていますか」と聞かれて、「無宗教」と答える人が多いことと無関係ではないであろう。実際、日本では、欧米などに比べても、「無宗教」と答える人は多い。しかし、古来、日本には「やおよろずの神」の信仰があって、山川草木の一つ一つにも神が宿るという自然観に馴染んできた。目に見えないものを信じ、人智を超えた力を敬う感性があった。仏教も中国や朝鮮からおおらかに受け入れて、神仏混交の信仰にも慣れてきている。その名残が、いまでも、正月の初詣や、子どもたちのための七五三、お盆の墓参りであったりする。それらは日本の生活文化に深く溶け込んでいて、むしろ、日本人は豊かな宗教心をもっているのではないかと言う宗教学者もいるようである。しかし、その宗教心は、ふだんはあまり意識されることはない。これは、死後の霊魂の存在をどこかで意識しながら、「死んだら無に帰するだけ」と思っているのと、軌を一にしているのかもしれない。

 私たちは、「前世では」とか「もし今度生まれ変わったら」などと日常の言葉のなかで口に出すことが珍しくはない。「袖触れ合うも他生の縁」などという諺もある。これはもちろん、「輪廻転生」からきているもので、この思想は、古代インドにおいて、多くの思想家、またウパニシャッドによって唱えられ、それが、ヒンドゥー教や仏教にも継承されて、日本にも伝わってきたものである。東南アジア世界や東アジア世界にもひろくみられる死生観である。これとは別に、中国のように、伝統的に、死後も生前と同様の生活が続くものという考え方もある。秦の始皇帝の陵墓に附設された「兵馬俑」などがその一例である。また古代エジプトの人びとにとっては、死は新たな人生へのはじまりであった。遺体をミイラ化することを始めたのも、死後の世界で生きるための肉体が必要と考えたからであろう。欧米のキリスト教文化のなかでも、人間の死後が「無」であるとは決して説かれることはない。

 このように、世界各地で、古くから何らかの形で人間の生は続いていくと考えられてきたのは、なぜであろうか。人間は本来、霊魂に肉体が付属した霊的存在であるから、死後の世とか神仏など見えない世界とは魂のレベルで密接に繋がっている。昔からその事実を感得してきた霊能者はどこの国にも居たし、いまも居る。ところが文明の発達につれて、目に見えるものだけを対象にする物質的な感覚が肥大していくと、相対的に、見えないものへの感覚が薄れていくようになった。中でも戦後の物質的な豊かさを貪婪に求め続けてきた日本では、その傾向が強い。特に近年は科学の発達が目覚ましく、私たちの生活から考え方まで「科学万能」が支配するようになってきている。科学万能の世の中というのは、目に見えない検証不能なものは厳しく拒絶する世界である。その科学万能の世界に住みながら、それでいて霊的存在である私たちは、「死後は無である」と思っているとしても、潜在意識のどこかで、神の存在や生命の存続などの霊的真理に密かに感応している、というのがあるのかもしれない。





   宗教の定義について考える     (2016.11.02)


  杉山弘道氏は新潟大学医学部卒業の医師であるが、霊界についての関心が深く、昨年(2015年)には、『死後の世界』 (風詠社)を出している。この本の中で、宗教の定義について述べているくだりがある。氏は、死後の世界を描くこと、これが宗教であるための必要条件のひとつであるという。仏教や儒教は、その初期においては死後の世界を描かなかった。だから宗教とはいえない。しかし仏教は釈迦の死後、もともとインドにあったヒンドゥー教から六道輪廻思想を受け入れているし、儒教も孔子の死後、もともと中国にあった魂魄思想を取り入れて共に「死後の世界」を描くようになったから、それからの仏教と儒教は、宗教の仲間入りを果たしたのだと述べている。(pp.48-49)

  儒教には宗教的な側面があるのは事実だが、これを宗教というのには異論があるかもしれない。仏教は、キリスト教、イスラム教とともに、世界の三大宗教といわれているから、いまさら宗教かどうかと問われることもないであろう。しかし、仏教の宗派によっては、たとえば霊魂の存在にしても、理解に大きな差がある。かつて京都の各寺院に立命館大学の安斎育郎氏が照会したところ、「霊は存在しない」(仏光寺・浄土真宗)から、「霊は実体を持った存在」(金剛峰寺・真言宗、延暦寺・天台宗)まで、大きな差があることがわかった。同じ真言宗系の寺院でも、「霊は実体を持った存在」、「霊は観念であって実体ではない」、「霊は存在しない」など多様性が見られたという。このような傾向はおそらくいまもあまり変わっていないであろう。

 「霊は存在しない」とするお寺で、死後の世界を描けない僧侶によって行われる「葬式」というものがどういうものか、考えてみると薄ら寒い気がする。心を込めて執り行わなければならないお別れの儀式である葬儀では、この世とあの世の橋渡しをする重要な役を務めるのが僧侶である。僧侶はそのために修行を積み霊性を高める。だからこそ僧侶は敬われるべき存在だと思うのだが、「霊は存在しない」のであれば、僧侶の存在意義さえ疑われることになるだろう。冒頭の杉山氏の定義では、これは宗教ではない。ついでながら、シルバー・バーチは単純明快に、「人のために尽くすことが宗教である」と言っている。「人のために尽くす」というのは「神に尽くす」ということであり、神に尽くすことがシルバー・バーチのいう「宗教」なのである。「霊は存在しない」と考える僧侶が葬儀を執り行う場合、それは神に尽くすことになるであろうか。





   アレグザンダー博士の臨死体験に思う   (2016.11.09)


 エベン・アレグザンダー『プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界』(早川書房、2013年)という本がある。著者のアレグザンダー博士は、名門ハーバード・メディカル・スクールで長らく治療と研究にあたってきた医師で脳神経外科の世界的権威だという。博士は、危篤状態から生き延びた何人かの患者から臨死体験の話を聞いたことはあったがが、全く信じていなかった。ところが、2008年11月のある朝、54歳の博士は突然、細菌性髄膜炎に襲われ、またたく間に昏睡状態におちいってしまう。脳が病原菌に侵され、意識や感情をつかさどる領域が働かないなかで、博士は自分自身が臨死体験をした。奇跡的に生還し、回復後、その「臨死体験」のすべてを克明に書いたのが本書である。

 この本は発売されるや忽ち全米でベストセラーになり200万部を突破したという。博士の体験は、フジテレビ系「奇跡体験アンビリバボー」で紹介されたようだが、私は見過ごしていた。いま、インターネットでもいろいろと取り上げられているので、その内容を見直してみた。このアレグザンダー博士の臨死体験は、脳神経外科医自身の体験告白であるだけに説得力がある。従来の「脳の作り出した幻想に過ぎない」という批判を次から次へと「科学的に」否定していることにも大きな意味があるように思われる。

 アレグザンダー博士によれば、脳の大部分が機能停止状態になっていることが数々の彼の脳のレントゲン写真によって確認されていたのにも関わらず、死後の世界を見たのだという。脳が幻覚を見るためには脳が動いていなければならない。しかし、その彼の脳は臨死体験をした時には完全に止まってしまっていた。あらゆる可能性を検討した結果、「死後の世界は100パーセント存在したと結論せざるを得ない」と博士は述べている。

 しかし、いくら博士が自分の脳のレントゲン写真を並べて科学的な根拠を強調しても、臨死体験のようなものは夢か錯覚であると頭から思い込んでいる人々は、この真実を受け入れようとはしないかもしれない。はじめから聞く耳を持たないのである。かつて、ターミナルケアの世界的権威であったキュブラー・ロス博士は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力を続けていたが、ついに2万件でやめてしまった。その彼女が残した言葉を思い出す。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって死ねばわかることですから。」

 臨死体験というのは、いうまでもなく、あの世を垣間見た体験で、あの世の入口までは行っているが中へ入り込んだわけではない。アレグザンダー博士のシルバー・コードは切れることなく繋がったままであったから博士は生還できた。死後の世界を本当に知るためには、シルバー・コードが切れてあの世へ入り込んだ人からの情報がはるかに重要であるが、そのような情報は無いのではない。入手が極めてむつかしいわけでも決してない。すでに確固として存在していて、簡単に手に入るのである。すぐ身近なところに『新樹の通信』がある。シルバー・バーチの膨大な霊訓もある。私のホームページでは、どちらもタダで読める。

 これらの本を少しでも読めばすぐわかるものを、いまさら臨死体験の新しい事例を前にして、「死後の世界」があるのないのと問題にするというのは、ちょっと歯がゆい気もする。やはり何よりも大切なことは、シルバー・バーチが言っているように、霊的真理を受けいれる魂の準備が出来ているかどうかということであろう。アレグザンダー博士の臨死体験は、その信憑性を科学的に高めたという点で、大きな意味があるが、この博士の体験が、少しでも多くの人々に「魂の準備」ができるきっかけになってくれることを期待したい。





   日本語に入り込んだ他力の思想      (2016.11.16)


 日本語には、「・・・させて頂きます」という独特の語法がある。司馬遼太郎氏の『近江散歩』によれば、この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、「それでは帰らせて頂きます」。「あす取りに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮らせて頂いております」などと、日常的に使われるようになった。この言い方は、とくに昭和になってから東京に浸透したらしい。司馬氏は、「明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである」と書いている。

 司馬氏は、「この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本騎寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い」という。浄土真宗においては、私たちは、すべて阿弥陀如来の他力によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。こういういい方は、「絶対他力を想定してしか成立しない」と氏は述べている。

 そういわれればその通りで、この語法は、例えば英語などでは表現しにくい。「神のご加護により」などと付け加えて訳さねばならないであろう。他力を想定することによって「お蔭さまで」ということばが生まれ、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手のカネで乗ったわけではない。自分の足とカネで地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためであろう。もっともいまは「信仰」が意識されることはなく、「自然な」日本語になった。かつての近江商人は浄土真宗の信者が多かったといわれる。彼らは、京・大坂や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい「お邪魔させていただきます」などという門徒語法を口に出した。こういう浄土真宗の信者の存在が、日本各地で徐々に、「・・・させて頂きます」を広めていったことになるようである。





    学問としての死生学の限界       (2016.11.30)


 上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン氏が書いた本に、『死とどう向き合うか』(NHK出版、2011)がある。この本の中で氏は、病院などの密室に閉じ込められている死を解放して、大人も子どももすべての人が、死を自然なものとして受け止め、自由に話し合えるような雰囲気を作り上げることを訴えている。「超高齢社会を迎えた今だからこそ、死に対する世の中の意識を変え、誰もが人間らしく、笑顔のうちに死をむかえられるように、生と死を考える人の輪がさらに広がることを念願してやみません」とも述べている。(同書、p.275)

 デーケン氏は、1977年以来、25年にわたり上智大学で、「死の哲学」という講義を開講してきた。「死の問題に取り組むのは、同時に、生の問題を探求することだ」と氏はいい、死に関わりのあるテーマに対して学際的に取り組む「死生学」という学問を提唱している。欧米では、1970年代から学際的な研究が始まり、毎年のように「死生学学会」や「Death Education学会」、「死別と悲嘆学会」などが各地で開かれているらしい。日本では、長年、死をタブー視してきたために死生学への取り組みが遅れてきた、と氏はつぎのように言う。

 日本各地でも、20世紀の前半くらいまでは、わざわざ死に対する教育などと言わなくても、ほとんどの人が自宅で死を迎えていました。そのため、家族の一員の最後を看取るのは、どこの家庭でも当たり前のことであり、それが遺される人々にとっての自然な「死への準備教育」の機会になっていたのです。日本人は子どもも教育に大変な熱意を傾けます。・・・・・ところが、世界的な死のタブー化の影響からか、人生最大の試練と考えられる死に対してだけは、ほとんど教育がなされていません。多くの人が何の心構えもないまま、愛する人の死や、自分自身の死に臨んでいるのが現状でしょう。これはどう考えても不思議なことではないでしょうか。(同書、pp.17-18)

 これは氏のいうとおりで、誰にとっても「死への準備教育」が大切であることは、言を俟たない。そして、氏がこれまで取り組んできた「死生学」の普及のための努力にも敬意を表するにやぶさかではない。ただ、「死生学」という学問を標榜するがゆえに、死の問題が「学問」に束縛されてしまうことも事実である。死はきわめて霊的な事象であるが、学問では霊的な領域には踏み込もうとしないし、あくまでも科学的に検証できることを要求する。それでは「死」を半面だけしか捉えていくことはできないであろう。

 この本でも、氏はエリザベス・キュブラー・ロス博士の『死ぬ瞬間』などの紹介はしているが、彼女が臨死体験を通じて「死後の世界」を証明しようと努力したことには触れていない。「死後の世界」からの霊界通信なども取り上げてはいない。カント、マルセルなどの哲学者や、ゲーテなどの文学者の死生観を紹介したうえで、それらの説は「死後の生命が存在する可能性がある」とういう点で共通点がある。「ある」というほうの意見が多ければ多いほど、死後の生命が存在する可能性は増していることになるから、これを言い換えれば、「死後の生命が存在する蓋然性は大きい」といういい方で終わってしまっているのである。死の問題に取り組むのは大切なことだが、それを死生学として捉えようとするが故の、これはひとつの限界であるといえるかもしれない。





    安楽死と尊厳死と延命治療     (2016.12.08 )


 安楽死とは、医師が薬物を使って人工的に患者の死期を早めることである。日本では違法であり、医師などが安楽死に関与すれば犯罪となる。しかし、アメリカの一部の州では違法ではない。オレゴン州ではブリタニー・メイナードさん(29歳)の先例がある。2014年10月6日、末期の脳腫瘍で余命半年と診断された彼女は、「11月1日に安楽死を実行します」と動画投稿サイトに予告して、その日に医師から処方された薬を飲んで自ら命を絶った。

 これに対して、尊厳死は、患者の意思により、例えばがんの終末期などに延命措置を行わない、または中止して自然死を待つことを意味する。この「尊厳死」という言葉が使われるようになったのは、アメリカでの「カレン裁判」がきっかけであった。1975年4月、ニュージャージー州のカレン・クインランさん(21歳)が急性薬物中毒で呼吸不全になり、彼女の脳は回復不能の障害を受けた。日に日にやせ衰えていく娘の無残な姿を見るに見かねて、両親が、「人口呼吸器を外して安らかに眠らせてほしい」と主治医に頼んだが、断わられた。そこで裁判で争われることになり、州の最高裁判所まで持ち込まれて、1976年3月、両親の訴えが初めて認められたのである。

 日本でも、1991年に起こった東海大学付属病院事件というのがある。同病院に入院中の58歳の男性患者が骨髄のがんと診断され、患者は激痛で苦しんでいた。患者の妻と長男は、患者が回復不能であることを知らされていたので、父親の苦痛を見かねた長男が医師に依頼して、医師は塩化カリウムの原液を注射し、患者を死に至らしめた。この医師は、殺人罪で起訴されたが、結局、1995年3月に執行猶予のついた有罪判決が確定した。「本人の明らかな意思表示のない安楽死は違法である」というのが判決の主旨であった。

 安楽死は「意図的に」最期をもたらすものだから違法であるとされるが、尊厳死は人口呼吸器を外すというようなことがあっても「自然的な」最期と考えられている。日本にはこの尊厳死に関する法律はないようだが、「犯罪」ではない。私の親しい友人で会ったWさんも、ALS(筋萎縮性側索硬化症)に冒され、人工呼吸器をつけなければならなくなった段階で、自分の意志により、人工呼吸器を選ばずに亡くなった。近頃では、医療技術の発達により、意思疎通が不可能な状態で生命だけを維持することが可能になったが、この尊厳死の観点から、そういった治療を見直す議論が起こっている。本来、人間は「自然に」死んできた。それを薬物で無理に妨げることなく、生命の自然の推移に従う。そのような自然死をできるだけ尊重するような機運が生まれてきたのも、人間の尊厳性からみれば当然のことといえるであろう。

 「週間文春」の一昨年(2014年)11月20日号で、安楽死と尊厳死に関するアンケート調査が行われたことがあった。回答総数は1143名で、安楽死と尊厳死に対する賛否を問うているものだが、参考までにその内容をつぎに引用しておきたい。

 「安楽死」にも「尊厳死」にも賛成             786人(68.8%)
 「安楽死」には反対だが「尊厳死」には賛成   213人(18.6%)
 「安楽死」には賛成だが「尊厳死」には反対   27人(2.4%)
 「安楽死」にも「尊厳死」にも反対             117人(10.2%)





   祈りとは願うことではなくて感謝すること    (2016.12.14)


 正しい祈りとは何か。それは希望が叶えられるように願ったり欲しいものを求めたりすることではなく、感謝の気持ちを捧げることである、とはよく言われることである。ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』(サンマーク出版、1997)には、この祈りについて、「あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと ―欲すること― を現実に体験することになる」と教えられている件がある。したがって、「正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ……。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから」ということばもある。

 この本では、だから祈る場合には、「決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい」と「神」から言われて、ウォルシュは、「でも、何かについて前もって神に感謝したのに、それが実現しなかったら? きっと幻滅し、腹が立ちますよ」と言うと、「神」はこう答えた。「感謝は神をあやつる手段ではない。宇宙をごまかす仕掛けではない。自分に嘘をつくことはできない。自分の心はごまかせない。口では『これこれについて、神さまに感謝します』と言いながら、内心、願いが満たされていないと信じていたら、神はもちろんあなたが信じるとおりにする。神はあなたの知っていることを知っている。あなたの知っていることは、あなたの現実になる。」

 これに対して、ウォルシュはさらに、「だが、どうして、そこにないとわかっていることに心から感謝できるのですか?」と「神」に訊ねた。その答えはこうである。「信念だ。けし粒ほどの信念があれば、山を動かすことができる。わたしがあると言えばあることがわかるだろう。あなたが求めもしないうちに応えてあげるとわたしは言っている。あなたが選ぶこと、わたしの名で選ぶことはかなえてあげると、わたしはあなたが訊ねるより前に、あらゆる方法で、あらゆる教師を通じて、言ってきた。」(pp.25-26) 神は、祈ろうとしている人の願いが何であるかは、先刻ご承知である。だから、願いを聞くまでもなく、その願いは叶えられるのである。ただし、おそらく、それが「神の目から見て正しい」願いであれば、という前提条件がつくのであろう。

 小林正観氏は、多くの著作を残して2011年に62歳で亡くなられたが、氏は生前、この「祈りとは感謝すること」を実践していた一人であった。氏は生前、多くの読者たちと、毎年6月30日に、伊勢神宮に集まって「ありがとう詣で」をしていた。これは、お願いごと、要求ごとを一切しないで、ただ、天照大神に向かって、「ありがとうございます」と感謝だけを伝えるという集まりであった。そのようなお祈りをしていると、多くの場合、反応が現れるという。その体験を氏は、『幸も不幸もないんですよ』(マキノ出版、2010)のなかで、つぎのように述べている。

 《私は何百という神社にお参りをし、ありがとうをずっと伝えてきました。
 その神社、神宮の中で、ありがとうという感謝の言葉、感謝の念に一番大きな反応を示してくださるかたが、どうも天照大神さんのような気がしています。
 拝殿の御帳に向かって手を合わせて、「ありがとうございます、ありがとうございます」と3分ほど唱えていると、私たちの場合は、多くの場合、この御帳が90度ぐらい、風もないのに上がって、ずっと向こう側が見えたりもします。
 このように、非常に大きな反応を示してくださるので、とても因果関係がわかりやすいように思います。600人がそういう現象を見ているので、多くの人がまた来年も、その次の年もという形で続けてきていますが、そういうことも「ありがとう詣で」が続く理由のようです。》(p.247)





    死にゆく人への愛のことば        (2016.12.21)


 先月のことですが、NHKの番組で、団塊スタイル「誰にでも訪れる死をどう考える?」(2016.11.04) というのがありました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。その中に、カトリックのシスターで聖心女子大学名誉教授の鈴木秀子さんが出ている場面があります。病室で最期を迎えようとしている91歳の患者に優しく語りかけている姿が印象的でした。「――吐く息とともに、心配や不安は全部外へ出ていきます。過ぎ去ったことは、全部許されています・・・・・」と語りかける84歳の鈴木さんの声を聞きながら、91歳の患者は、穏やかな顔で亡くなっていきました。

 鈴木さんは37年前に急な階段から落ちて、5時間の間、意識不明になったことがあります。その時に臨死体験をして光に包まれた至福の時を過ごしたのだそうです。この臨死体験のあとでは鈴木さんの死に対する考え方が大きく変わりました。それまでも頭では、「素晴らしいところへ行くとか、神さまの所へ帰るとか言っていたのだけれども、やはり体験して(死の世界を)知るということは、人がなんと言おうが揺るがせにできないものなんですよ」と、彼女は語っています。その臨死体験を彼女は、『臨死体験 生命の響き』 (大和書房 2005年)などに書いていますが、これはカトリックの世界では珍しいことで、まわりの人たちにはなかなか受け入れてもらえなかったと彼女は述べています。

 鈴木さんは、「生とは死ぬための序曲である。それほどまでに死は輝いている」と言っています。「死とは生と対立するものではなく、魂が安らぎの中に入っていく過程なのだ」とも言っています。死んでいく人に愛のことばをかけるというのは、決して誰にでもできることではありませんが、鈴木さんのように、死を十分に理解し、死について深く洞察しているからこそ、死んでいく人も安らぎを覚えてこころから耳を傾けてくれるのでしょう。「ひとりの人生の終わりというのは、この世を卒業して、意思をもって向こうの世に生まれ変わっていく素晴らしいチャンスだと思うようになりました」というような彼女のことばを聞いていますと、カトリック信者から、期せずして、スピリチュアリズムの教えを受けているような感動を覚えたりもしました。





   医師たちが死について書いた本       (2016.12.29)


 最近目を通した本の中で医師が死について書いた本が何冊かある。そのうちの一冊、長尾和宏『死の授業』(ブックマン社、2015年)は、「建前や立場を気にせず、死に方について語った」本で、授業の結果、日本の若者の死生観が炙り出された、ということになっている。その本の扉のことばには、「人は好きで生まれてきたわけではない。親も国も性別も選ばずに生まれてきた」とあった。1984年に医大を卒業したこの著者は、日本ホスピス在宅ケアの研究会理事なども務めているようだが、死後の世界については、30パーセントくらいあると思うが、70パーセントくらいは信じられないという。特にシルバー・バーチを持ち出すまでもなく、私たちは「親も国も性別も選んでこの世に生まれてくる」ことを書いている本は、医師が書いたものを含めて数多く書店にも出まわっているが、長尾医師には、そのような本は目に入らなかったのであろうか。

 帯津良一『死を生きる』 (朝日新聞出版、2009年)という本もある。著者の帯津医師は1936年生まれで、帯津三敬病院名誉院長を務めている。日本ホリスティック医学協会会長でもあり、「西洋医学だけでなく、中国医学、ホメオパシー、代替医療など様々な療法を駆使してがん診療に立ち向かい、人間をまるごと捉えるホリスティック医学の確立を目指している」と本には書かれている。帯津氏は、「虚空」がホリスティック医学の基本テーマで、「虚空に先立って死せず、虚空に遅れて生じず」の白隠禅師のことばのように、「何時の日か虚空と一体となるのがホリスティック医学の究極の目標」であるという。

 帯津医師は、脳科学者の茂木健一郎氏が、「私は、人間が死んだら無だと思っている。つまり、時間の流れの中で、私という人間にもし死ぬ時がきたとしたら、その後には、私という人間の心を支えていた物質的基盤はすべてなくなってしまい、それで終わりだということだ。いわゆる死後の世界があるとは思わない」と言っていることを紹介して、「きわめて論理的だ。脳科学者としては当然だ。敬服に値する。しかし、医療現場では困るのだ。少なくとも歓迎はできない」と述べている。(pp.27-28) 「敬服に値する」はリップサービスだと思われるが、帯津医師は、死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、「頑張ってね」でもなければ「大変だね」でもない。自分の死について考え、死についての洞察を深めるような生き方をしている人が傍にいることだ、という。これは、その通りであろう。

 おそらく帯津氏は、そのような死についての洞察を深める生き方をしてきたに違いない。「がんの末期患者には激励は酷で善意は悲しい。説法もことばも要らないのだ」とも氏は言っている。この本のなかでは、帯津医師の話を聞いて、「私たちは死んだあと、虚空に向かって150億年の旅に出るんだって。はるかなる旅が待っているの! そう考えると私、死ぬのがそれほど怖くなくなったのよ!」と言い残して死んでいった若い女性患者の話が紹介されている。この患者は帯津医師のことばに深く感謝していた。それはそれで尊いことではあるが、やはり、ここではもう一歩進んで、前回の「死にゆく人への愛のことば」で触れたような、100パーセント死後の世界を信じきっている鈴木秀子氏のような人のことばを、つい思い浮かべてしまうのである。





    気功で飛ばされていく人を見る      (2017.01.18)


 東京大学医学部教授の矢作直樹氏が書いた『人は死なない』(パジリコ株式会社、2013)には、矢作氏が平成六年(1994)の十月、北京気功ツアーに参加した時の体験談が述べられている。そのなかで氏は、気功でパーキンソン病を治してもらった70代の男性患者のことに触れている。これは「学びの栞」B59-f に引用しておいたが、気だけで病気を治すというのは、医者である氏がいうように、現代医学では解明できないことで奇跡というほかはない。氏はここで、対気で手から気を送れば、人に触れなくても飛ばすことができることについても、つぎのように自分の体験を紹介している。

 《まず、外気功の大家である黄震寰先生。航空工学の教授で六一歳とのことでしたが、見た目には四〇歳代にしかみえない。黄先生は、最初に踊りのように流れる気功の演武を披露された後、三人のお弟子さんを相手に対気を行いました。お弟子さんたちは、それこそ黄先生の体に触れるか触れないかくらいのタイミングで飛ばされていました。試しに私は、そのコロコロと飛ばされていたお弟子さんの一人と対気をしてみましたが、手刀一押しであっという間に飛ばされてしまいました。中健次郎先生のときと同じで、まるで岩と対峠したようでした。》 (pp.36-38)

 この対気で人が飛ばされるのも事実である。これについては、私も体験して知っている。むかし私は友人から聞いて、渋谷にある西野流呼吸法を教えている西野塾に半年ほど通ったことがあった。西野流呼吸法というのは、西野皓三氏が創始したもので、呼吸法で「身体の60兆個の細胞の一つ一つに働きかけ、健康で若々しい身体をつくる画期的なメソッド」であるといわれている。ここで対気が行われていたが、氏や弟子たちが手をかざして気を送るだけで気を浴びた人は後ろに飛ばされていた。矢作氏が中国で見たことを、私は渋谷で何度も見て体験している。

 20014月に私は中国の古都・西安を訪問したことがあった。その時に立ち寄った西安市西影路66号の中国人民解放軍第35医院でも私はちょっと不思議な体験をした。中年の女医から中国の気功の話が出て、たとえば、紙幣で箸を切ることも可能だという。私は、部屋にあった中国製の太い骨の箸を一本手に取って、これでも切れるかと聞くと彼女は、切れると答えた。私は、財布の中から日本の古い千円札一枚を抜き取って彼女に手渡し、長い箸の両端を両手で握って彼女の前に差し出した。彼女はしばらく千円札の皺を伸ばしたあと、気を集中してさっと千円札を振り下ろすと、箸は真っ二つに切れた。信じない人がいるかもしれないが、しかし、これも事実である。














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