ユジーンまで一週間のバス旅行  (身辺雑記 No.104)
    = 生かされてきた私のいのち (33)=


 ニューヨークからワシントンD.C までの距離は約300キロである。私が午後2時に乗ったバスは、2時間ほど走った後、フィラデルフィアに着いた。ここで途中下車をする。強い陽射しでフィラデルフィアは暑かった。バスターミナルは市街地の中にあるのが普通で、観光には便利である。歩いて行ける距離に、トーマス・ジェファソン起草の独立宣言が採択された場として知られる独立記念館があり、高さ167メートルの市庁舎(City Hall)もあるが、私は外から建物を眺めただけで、早めにバスターミナルへ引き返し、広々とした待合室で少し休んだ。近くのレストランでゆっくり夕食をとった後、ワシントンD.C行きのバスに乗り込んだのは午後8時過ぎである。バスは空いていた。広めの座席の前後の間隔はゆったりしていて、隣は空席であったから、横になって眠ることもできる。私はボルチモアに着くまでの3時間ほど、バスの中で眠った。昼間は観光して、夜になれば次の目的地までバスのなかで眠る。この日からそのパターンを私は繰り返すことになった。

 ペンシルバニア州から州境を越えて、ボルチモアはもうメリーランド州である。バスで着いた時には夜中になっていたので、ここでは観光をするつもりはなかった。ちょっとバスターミナルの外へ出てみると、建物もまばらで、そこはどうも町はずれのようであった。ターミナルの待合室はゆっくり休めるので、そこでまた、2時間ほど過ごした。ボルチモアはアメリカでは最も古い都市の一つで、町が作られたのは1797年である。南北戦争の舞台にもなり、国歌や星条旗もこの地で生まれている。ペンシルベニア炭田の開発により工業が発展し、貿易港としても栄えたようだが、私が立ち寄ったその頃からは、施設の老朽化と主産業の不況で、スラム街が生まれ、治安も悪くなりつつあると聞いていた。私はまたバスに乗り込み、車中で少し眠って、ワシントンD.Cに着いたのは早朝4時過ぎである。

 ここは、アメリカの首都のバスターミナルだけあって、待合室も広大ですみずみまで清潔であった。冷房もほどよく利いていて快適である。早朝だから乗客もあまりいない。私はソファーの上に長々と横になって、しばらくぐっすりと眠った。ワシントンD.Cには観光スポットは多いから、一人で歩きまわるのは大変である。私はターミナルのカフェテリアで朝食をとった後、一日コース(8時間)の観光バスに乗った。昼食付きで、12ドルである。9時に出発したバスは、全米各地からの旅行客でほぼ満席であった。ここでもドライバーがガイドを兼ねていて、走りながら窓外の主要な建物、史跡、公園などについて、間断なく話し続けていた。

 こうして私たち乗客は、リンカーンメモリアル、ワシントン記念塔、ホワイトハウス、ジェファーソンメモリアル、アーリントン国立墓地、硫黄島記念碑、国会議事堂などを次々に見てまわった。なかでもホワイトハウスは、案内人に従って中に入り、内部のいくつもの部屋に足を踏み入れた。当時は、入室に際しても、ボディチェックのようなものはなかった。古き良き時代といえるかもしれない。どこで昼食をとったのかは忘れたが、夕方には郊外のマウント・バーノンにある初代大統領ジョージ・ワシントンの家も訪れている。18世紀の典型的なプランテーションで、南部の地主、農園主でもあったジョージ・ワシントンの生活ぶりが種々の展示物でうかがい知ることができて興味深かった。ジョージ・ワシントンは、22歳から1799年に67歳で他界するまで、この家で過ごしたらしい。

 ワシントンD.Cでは盛りだくさんの観光を終えて、午後7時ごろ、アトランタへ向かった。この日の夜も、眠ったのはバスの中である。途中、バージニア州を通過して、ノースカロライナのダーラム、サウスカロライナのシャーロットを通ったが、このあたりは、私がその25年後には、3度目のアメリカ長期滞在で親しむようになったところである。当時は、日本からの私費による海外渡航は許されておらず、アメリカにはもう二度と行けるようになるとは思っていなかっただけに、いま振り返ると感慨深い。それらのダーラム、シャーロットなどで小休止し、その後はジョージア州に入り、ワシントンD.Cから約940キロの長距離を走って、バスは午後2時ごろ、アトランタのバスターミナルに着いた。途中の小休止の時間も含めると19時間かかっているから、バスの平均スピードはおよそ60キロくらいであったろうか。

 アトランタはいかにも南部の街という感じでバスを降りるとふわーと熱気に包まれた。バスターミナルの広々とした待合室に入ると、冷房が効いて涼しい。ふと気がつくと、それは白人用の待合室であった。外へ出てみると入口のところに、大きく 「White Only」(白人専用)の看板が掲げられている。私は白人ではないが、黄色人種はこんな場合、白人に入るのだそうである。念のために、ターミナルの隅の黒人の待合室を覗いてみると、入り口には「 Colored」(黒人用)と書かれた小さな看板が掛けられていて、白人用の5分の1もないような小さな部屋に黒人たちがひしめいていた。冷房もなく、木の長椅子が並べられているだけなのである。写真にも撮ったが、露骨な人種差別を目の当たりにしてショックを受けた。

 アトランタは、この町出身の作家マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』で有名であるが、映画にも出ているあの奴隷制度の名残がまだここには濃厚に残っているような感じである。アトランタ市自体は、第二次世界大戦中から軍需産業で発展してきたが、それも黒人たちの安い労働賃金が支えてきたのであろう。1954年、連邦最高裁判所が、公立学校における人種分離はアメリカ合衆国憲法に違反するとした判決を下すと、アトランタでも人種差別撤廃への機運が高まっていった。アトランタが公民権運動の中心地の一つになり、マーティン・ルーサー・キング牧師がその中心的役割を果たすようになるのは、1960年代に入ってからである。

 アトランタでは、暑いなかを少し周辺を歩きまわって街の様子を写真に撮っただけで、また白人用の待合室に戻って休憩した。涼しくて快適ではあるが、何か後ろめたい感じがしていた。午後4時ごろ、私はニューオーリンズへ向かうバスに乗り込んだ。アトランタからニューオーリンズまでは直線距離では約700キロである。ステイトハイウエイ(州道)29号線で南下しながら30分ほど走るとカレッジパーク(College Park) を通ったが、この東にはその当時から発着数および利用者数において全米一の忙しい空港といわれていたアトランタ空港がる。現在では、ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港と名前を変えて「世界一忙しい空港」ということになっている。

 アメリカの国土は広大であるから、長距離の旅行では飛行機を利用するのが普通で、一番安上がりであることは前にも述べた。オレゴン大学へやってくる大学対抗のフットボール試合の選手たちが、飛行機で移動しているのを知ってちょっと驚いたことがあったが、日本ではその当時、一般にはまだ、飛行機を利用することなどは考えられなかった。北海道の千歳空港もまだ無かった。羽田空港も、その年(1958年)に米軍から返還されたばかりで、空港設備の整備拡張が行なわれて旅客が増え始めるのは、さらに数年を経た1964年の東京オリンピックの頃からである。

 私の乗ったバスは、広大なアトランタ空港のそばをかすめて、南西に下り続けた。2時間近く走って、チャタフーチー川を渡る。この川が、ジョージア州とアラバマ州との州境である。私はバスの窓から飽かずに車窓に展開するアメリカ南部の風景を眺めていた。ユジーンからニューヨークへ向かう旅では、ロッキー山脈のあたりを除いて、灰色の大地がどこまでも続いていた。サウスダコタ州からミネソタ州へ入るころから、大地の灰色は少しずつ緑に変わり、ミシガン州あたりからはほぼ緑一色になって、その緑はニューヨーク州まで続いた。そして、同様の緑はさらに、アトランタからニューオーリンズへ向かう車窓にも広がっている。ステイトハイウエイ29号の周辺には、広大な農場が次々と現れては消えていく。ところどころに人家が固まって建っていたり、農場の一角に大きな納屋があったりするが、あとはどこまでも続くと思われるような緑の大地である。その緑もやがて夜の暗闇に包まれていった。夜行の長距離バスには空席が少なくはない。私は二つの座席をリクライニングにして、ぐっすりと眠った。

 ニューオーリンズには朝5時半に着いた。例によって、待合室は白人用と黒人用がはっきり区別されている。白人用は、広く、新しく、清潔であるが、黒人用を覗いてみると、小さく、黒ずんで貧弱である。そして何よりも、ここは湿度が高く亜熱帯気候で気温が摂氏で33度にもなっているのに冷房がなかった。バスターミナルのレストランに入っても、中央の厨房を挟んで、両側に白人用と黒人用に分けられている。ここでも白人用は快適で黒人用よりも3倍は広い。ミシシッピ川の河口に位置するルイジアナ州最大の港湾都市であるだけに人口も多いが、どこへ行っても、この白人、黒人の差別がつきまとって、いい感じではなかった。これは余談だが、後にオレゴン大学の学友の一人にこの白人の黒人に対する人種差別を批判したら、彼は、確かにアメリカでは白人は黒人を差別するが、日本では黄色が黄色を差別しているではないか、と反論されたことがある。

 私は朝食をすませて少し待合室で休憩した後、Gray Line の観光バスに乗った。9時半にバスターミナルを出発して、約6時間、市内の観光スポットをまわるツアーである。料金は7ドル。ジャクソン広場、セント・ルイス大聖堂、ラファエット墓地、フレンチ・クオーターなどを見てまわって、ミシシッピー川の船乗りで終わった。ついでながら、旅行中、私はいつも日本から持って来たニコンS2 のカメラで、カラースライドを撮りつづけていた。このカメラは、その前年に日本を出る時に免税で6万8千円で買ったものである。私の給料の半年分にあたる。戦後、海外で日本製品の優秀さが認められたのはニコンが初めてであったかもしれない。当時、アメリカではこのニコンS2のカメラは300ドルくらいするといわれていた。私の出国の時には、日本政府からはドルを出してもらえなかったから、緊急時にはそれを売って換金するつもりで、持ち歩いていたのである。そのニコンで、もの珍しいニューオーリンズの風景を次から次へと撮っていった。

 ニューオーリンズでは、ミシシッピー川の蒸気船乗りとフレンチ・クオ−ターが印象深い。ミシシッピー川クルーズでは、本物の外輪船に乗り込んで、ジャズのBGMが流れる中を昼食をとりながら、両岸に展開する南国の風景をカメラに収めた。フレンチ・クオ−ターでは、精巧な鉄細工のバルコニーのついたフランス植民地時代からの古い家々が珍しかった。その一角のキャナル・ストリートからは、あのテネシー・ウイリアムズの「欲望という名の電車」で知られる古い電車が走っていた。夕食をバスターミナルのレストランでとって、しばらく涼しい待合室で休んだ後、午後8時半、メンフィス行きのバスに乗り込んだ。ニューオーリンズから西に向かってテキサス州へ向かえば、約510キロでヒューストンに着くのだが、そのあたりからは果てしなく続く灰色の大地の上を走ることになる。アズベリパークのダニィーのことばに従って、西へではなく北へ向かったのだが、メンフィスまでの550キロほどの距離をバスが走っている間、私はまた、座席を2人分とって眠った。メンフィスに着いたのは、午前6時半である。

 テネシー州のメンフィスもまたミシシッピー川に面して開けた都市である。川を州境にして対岸はアーカンソー州である。テネシー州の州都はナッシュビルであるが、メンフィスは首都を抜いて、都市としてはテネシー州最大である。通運の要衝として繁栄し、南北戦争以前には、綿花産業を支える奴隷を売買するための大市場となっていた。その当時でも、メンフィスは世界最大の綿花と木材の集散地といわれていた。音楽産業も盛んで、花形歌手であったエルヴィス・プレスリーもこの街に住んでいた。人口の半分以上は黒人であったから、それだけに、公民権運動も盛んであったが、後に(1968年)清掃労働者の待遇改善を求めるストライキの応援に訪れていたマーティン・ルーサー・キング牧師は、この街で暗殺されることになる。

 メンフィスの街は治安が悪いと聞いていたので、ターミナルの待合室からは外へ出てみることはしなかった。2時間ほど休憩した後、別のバスに乗り換えて、セントルイスへ向かって北上した。バスはダウンタウンのなかを通るから、メンフィスの街並みもよく見える。中心部にはいくらかまとまって高層建築があるが、少し走ると、だだっ広い空間に低層の住宅街が広がり、やがて綿花畑などの灰色がかった緑が一面に展開するようになる。私はだんだんとこういうアメリカ南部の大地を走っていくことに慣れていった。何時間も走っていると飽きてくることもあるが、これがアメリカである。やはりよく見ておかなくてはならないと思っていた。

 セントルイスには、午後6時に着いた。ここもまた、ミシシッピー川に面していて、水運を生かした水上交通の要衝として発展してきた街である。1880年に創立された全米で2番目に古いセントルイス交響楽団は有名だが、全米で最もアフリカ系アメリカ人人口比率の高い都市のひとつで、犯罪率の高い街としても知られている。バスが市街地に入っていくと、古い赤レンガの家が多く、雨が降っていたせいか、少し薄汚い感じであった。この街のシンボルである地上 192 メートルのゲートウェイ アーチは、当時はまだ建造されていなかった。これが一般公開されたのは1967年になってからである。

 ここでは、ターミナルのレストランで簡単な夕食をとっただけで、すぐデンバー行のバスに乗った。雨は上がったばかりで、バスの窓から壮大な日没の光景を写真に収めることができた。ニューヨークを出てから5日目の夜を迎えていたが、夜行バスで次の目的地へ向かう間に眠るというパターンをこの日も繰り返した。特に疲れは感じなかったし、寝不足にもならなかった。セントルイスを出てからは、バスはミズーリ州の大平原を西に向かって走り続けた。400キロを走って西隣の州境の町カンザスシテイに着いたのは真夜中の12時である。この街は、カンザス川がミズーリ川に合流する地点を中心に広がっているはずであった。街そのものも、ミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれているようだが、夜なのでよくわからない。ここでは、バスの待合室の売店で西瓜をたべて小憩の後、コロラド州のデンバーへ向かった。オレゴンがだんだん近くなってくる。バスが西へ西へと走っていることが心強かった。

 バスは900キロくらい走ったころから、小さな山が幾つか目に入るようになり、やがて前方にロッキー山脈の山容が姿を見せ始めた。デンバーに入ると、広い道路の両側には、新しく綺麗な店が軒を連ねている。観光の町だけあって、バスの待合室の壁にはあちらこちらにコロラド山脈の美しい観光ポスターで飾られ、全米各地からの観光客も多く集まっている。私はバスターミナルの周辺を散歩しながら、何枚かの写真を撮った。時間は午後3時を過ぎていた。その日は、初めてホテルに泊まるつもりでいたが、レストランでハンバーガーを食べながら時間のやりくりを考えているうちに気が変わって、またバスに乗ってしまった。「矢の如し」とはいえないまでも、オレゴンへの帰心が募っていたかもしれない。

 つぎはユタ州のソルトレイクシティである。夕方にデンバーを出たバスは、少し混んでいて、私の隣にも若い海兵隊の兵士が座った。アメリカ人は一般に陽気で、隣に座ればすぐにいろいろと話しかけてくるものだが、この若者は感じの悪い男で、むっつり黙り込んで口を開こうとはしなかった。私も黙って、ひたすらに窓外の景色を眺めつづけていた。デンバーからソルトレイクシティまでは直線距離では約620キロだが、ロッキー山脈を通っていくために道路にも曲がりくねったり高くなり低くなったりする。変化に富んだ山々の間を縫うようにして走るバスからの景色は、見ていて飽きることはなかった。

 一時間半ほど走って、山の中の小さな町で最初の小休憩をとったあと、またバスが走り出した時には、私の隣にいた若い海兵隊員は、前に座っていた二人の若い女性の一人と座席を交換していた。二人の女性は、いかにも田舎から出てきたという粗野な感じで、そのうちの一人の隣に若い海兵隊員が座ったのである。その席にいたもう一人の女性は私の隣に座った。席を変えるくらいはいいのだが、まもなく、前の二人は抱き合って、濃厚なキスを始めた。体をくねらせ重なり合うようにして、延々と激しくキスを続けるのである。私は唖然とした。野獣のようで醜悪であった。日本式の表現では「恥も外聞もなく」ということになるだろう。公共の乗り物のなかであるにもかかわらず、まわりの乗客はみんな、見て見ぬふりをしている。これもまた「アメリカ」なのかもしれない。

 夜通し走り続けたバスは、早朝の5時頃、ユタ州ソルトレイクシティに着いた。東側には雄大なロッキー山脈を望み、西端には、広大なグレートソルトレイク(大塩湖)がひろがっている。海抜1,320メートルの高地にあるだけに、空気も澄んで、清々しい雰囲気であった。大きなバスターミナルには、シャワー・ルームの設備(Shower and Dressing Room)がある。ここでシャワーを浴び、下着も替えてさっぱりした気持ちになった。待合室は、ここも広々として快適である。ゆっくり体を休めて、観光案内書を読んだり、その日の計画をたてたりする。近くのレストランで朝食をとって、午前9時半、ソルトレイクシティと周辺をみてまわる観光バスに乗った。所要時間7時間で、料金は7ドル50セントを払った。

 ソルトレイクシティは、周知のように、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の信者たちが拓いた町である。1830年にジョセフ・スミス・ジュニアによって設立されたモルモン教は、最初はミズーリ州で教義をひろめようとしたのだが、まわりからの反発を受けて追われ、初代教祖ジョゼフ・スミス・ジュニアが暴徒の襲撃を受けて死亡した。その後、ブリガム・ヤングに率いられた一派がフロンティアを求めて西方に移動を開始し、1847年の夏、ロッキー山脈を越えてここまで来たとき、前方に広がる平地を見下ろして、「この場所に決めよう」(This is the place.)と言った。それがソルトレイクシティの始まりである。その場所、街を見下ろす丘の上には、ブリガム・ヤングの記念碑(This is the Place Monument)がそそり立っていた。

 整然と碁盤の目のように区画された街はすみずみまで清潔で美しい。そして、その中心部のテンプルスクェアの広大な敷地には、6本の尖塔をもつ大本山(Salt Lake Temple)、大礼拝堂(Tabernacle)などの壮大な建物のほか、資料館、案内所なども並んでいる。私たち観光バスの乗客は、資料館であったろうか、巨大な円筒状の建物の上から展示物で飾られている回廊をまわる様にして下へ降りていきながら、地下の、教祖が神からのお告げを受けている場面を再現している荘厳な一室までを見学して、外へ出た。宗教の街だけあって、この街では人々はみんな、フレンドリーで優しい。全米でも、犯罪率が最も少なく、住みやすい街の一つであると、バスのドライバーは話していた。

 観光バスは、街の西側に広がる大塩湖(Great Salt Lake)へも行った。何と言ってもそのスケールの大きさには圧倒される。空まで続くような広さだが、一面に真っ白な塩で覆われていて、それが水平線の彼方まで続いているのである。少し歩いてみると、表面はすべすべした氷を敷き詰めたようで、しかもハンマーで叩いても割れそうもないくらいに固く締まっていた。ドライバーの話では、この上で、自動車のスピード競技が行われることもあるということであったが、これだけの広さの平面というのは、アメリカでも、あまりほかにはないのかもしれない。

 この大塩湖の別の一角では、塩が消えて、湖水が広がっている。そこでは泳ぐこともできた。水際にはいくつかの売店があり、貸水着屋やシャワー室の設備などもある。もっとも、ここで泳ぐといっても、濃い塩水だから、体はぷかぷか浮かんでしまう。「水の上で仰向けになり、コーラを飲みながらハンバーガーも食べられる」というのが謳い文句であったが、時間があったので、私も実際に水に浮かんでやってみた。ハンバーガーも食べられるというのは誇張ではなかった。

 このあと、バスはまたしばらく走って、ケネコッツ・ビンガム・キャニオン銅山を訪れた。ここは世界最大級といわれる銅採掘現場で、昔は山であったそうだが、採掘が進んだ結果、その跡は直径2キロ、深さ1キロの巨大な窪みになってしまっていた。「地上でもっとも豊かな穴」と呼ばれているのだという。その穴を下っていく螺旋状の道を超大型トラックが銅鉱石を運んでいる様子が印象深かった。すり鉢のような穴の入り口付近に観光案内所があり、採掘のための爆破の様子など鉱山を紹介するビデオや展示物などを眺めて、私たちのバスは街の中心部へ戻った。あとは、州議事堂や、ダウンタウンの図書館、美術館、コンベンションセンターなど、車窓から眺めながらひとまわりしてその日の観光は終わった。

 その日、9月4日の午後7時半、ネバダ州リノへ向かうバスに乗った。街の灯りが途切れたころから、西へ向かっているバスは、トワヤブ国立森林公園のだだっ広い山地に入っているはずであったが、バスの窓からは、暗くてほとんど何も見えない。何度か、小さな町のバス停(Bus Depot)で小休止をしたが、どこのバス停にも、賭博のスロットマシーンが置かれていた。ネバダは賭博公認の州なのである。午前6時過ぎ、リノに着いてみると、バスのターミナルのまわりにも、派手なネオンサインをつけっ放しにしている大きな賭博場が軒を連ねていた。賭博には興味はないが、その派手なネオンサインと賭博場を写真に撮っていると、みすぼらしい姿の中年の男がよろよろと近寄ってきて、ビールを飲みたいから25セントくれないか、という。朝のうちから酔っぱらっているのであろうか、ちょっと嫌な気がした。

 リノまで来ると、すぐ西隣はカリフォルニア州で、3時間ほど走れば、州都のサクラメントに着く。北に進めば、もうオレゴン州である。はるばるとバス旅行を続けてきて、ユジーンも、ここからは一日で行けるところにある。バスで一時間ほど南へ下がれば、カリフォルニア州との州境の保養地として知られるタホー湖(Lake Tahoe)がある。寄ってみたかったが、バスの時間表を調べてみるとユジーン行きのバスが午前8時に出ることがわかったので、タホー湖はあきらめ、ユジーンヘ直行することにした。リノにいたのは2時間だけで、あとは、バスの中から街の様子をみるだけになった。

 たまたま座席は、一番前であった。バスはネバダ州からまもなくカリフォルニア州に入り、シエラネバダ山脈の東側に沿って北上を続ける。300キロほど走ってモドック国立森林公園を出たあたりでとうとうオレゴン州に入った。ステイトハイウエイの前方に「オレゴン州へようこそ」(Welcome to Oregon)の大きな標識を見つけた時にはなつかしい気がした。6月13日にユジーンを出発してニューヨークへ向かって以来、約3か月ぶりのオレゴンである。乾いた大地の多いカリフォルニアと違って、鮮やかなオレゴンの緑が心地よかった。バスはさらに北上して、クラマスフォールズ(Klamath Falls)から西へ100キロほど走ってメドフォード(Medford)に着き、そこからはカスケイド山脈の西側を北上して300キロ近くを走ったところで、午後9時頃、遂にユジーンにたどり着いた。

 8月29日の朝、アズベリパークのアパートを出てから、ちょうど一週間経っていた。その間、一度もホテルには泊まらなかった。夜昼となく、私が乗り続けたグレイハウンド・バスの走行距離も、合計すれば、おそらく6,500キロくらいになるだろう。往路のニューヨークまでの4,400キロを加えると、この夏には、往復で11,000キロ近くの旅行をしたことになる。私はそれから16年後の1974年の夏には、今度は家族4人で、車にテントや寝袋、米、水などを積み込み、40日間、18,000キロのアメリカ周遊旅行をすることになるが、そのようなことはその当時は想像することもできなかった。折角の留学でアメリカへ来て、ニューヨークを見ておかなければ、もう二度とその機会は訪れないと思っていた。そのニューヨーク訪問も果たして、何とか無事にユジーンのアパートへ帰ってきた私は、一週間ぶりのベッドの感触を楽しみながら、手足を存分に伸ばして、ぐっすりと眠り込んだ。

 *(「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」にこの旅行の写真の一部が含まれている)
     (2016.02.01)




   二年目に入ったアメリカ留学           (身辺雑記 No.105)
     = 生かされてきた私のいのち (34)=


 1958年9月8日(手紙)
 9月5日の夜、無事、ユジーンに帰ってきました。前にも書きましたが、東海岸での仕事からは、あまりお金を残すことはできませんでした。その代わり、自分で汗を流して働いてみて、お金の有難さもよくわかり、体も鍛えられたし、何よりも貴重な、さまざまな体験で見聞をひろめることが出来て本当に有益であったと思っています。
 働いて得た金の中から、身廻品を買ったり、部屋代を払ったり、度々ニューヨーク見物に行ったりして、残った金が350ドル。その中、帰りのバス旅行で200ドル使い、今手許に150ドル残っていますが、往路の自動車旅行の費用100ドルを差引きますと、金銭的に得たものはほとんどありません。アルバイトに出た他の留学生達も、ぼつぼつ帰って来はじめていますが、彼等の仕事の多くは、果物などの缶詰工場でのかなりの肉体労働で、中には、1000ドル位も持ち帰っている人もいるようです。同じアルバイトでも、50ドルと1000ドルでは大きな違いですが、しかし、今度のアメリカ一周旅行の経験は金銭に代えられないもので、ぼくとしては少しも悔いがなく、本当によかったと思っています。
 旅行から帰った翌日、大学の事務局へ行ってみたら、ロックフエラー財団(日本協会)からの奨学金、前半の分、450ドルが届いていました。毎月の生活費は部屋代を含めて70ドルくらいですみますから、これで十分間に合います。残りの450ドルは、来年1月1日付で送ってくることになっています。アズベリ・パークで2か月間、一生懸命働いても350ドルしか残せなかったことを考えますと、今まで当り前のように思っていたオレゴン大学からの奨学金(授業料免除)も、今度の900ドルも、今更のごとく、容易ならぬ大金のような気がしてなりません。感謝の気持ちを失わず、残りの留学生活を、実り多いものにしなければならないと思っています。
 新学期が始まるまで、まだ二週間ありますので、のんびり休養をとったり、運動をしたりするかたわら、余裕をもって講義に備えることが出来ます。体も相かわらず至って好調ですからどうぞ御安心下さい・・・・・

 新学期は、履修登録が9月24日から始まって、授業開始は9月29日の月曜日からになっていた。9月も半ばになると、晴れたり曇ったりのうすら寒いような日々が続いた。秋を通り越して冬になってしまったような感じである。ユジーンは緑の街路樹がきれいな街だが、その木々の緑もくすんで見える。そんなある日、留学生アドバイザーのゲント教授がわざわざ私の所へ来て、池田奈美子というかつてのオレゴン大学卒業生が日本から来ているから、夕方に自分の家に来るようにと招待を受けた。ちょうど開催中のCounty Fair(郡の博覧会)へ行く予定であったのでそのことを話すと、午後4時に、博覧会入口のところまで車で迎えに来てくれることになった。

 博覧会そのものは、地方の小規模なもので、前年に訪れたカリフォルニアの州博覧会とは比較にはならなかったが、家畜や農産物、農機具などの展示のほか、ちょっとした遊園地なみの回転木馬や展望観覧車などもあって、私は田舎のお祭りの雰囲気を楽しんだ。その後、ゲント教授の家で、池田さんに会う。津田塾大学助教授の、多分まだ30歳台くらいの明るい、感じの良い人であった。教育視察ということで大学から派遣されてきたらしい。理学部助手の伊賀さん、社会学部助手の黒田さんのほか、オレゴン大学東洋美術館でアルバイトをしている津田塾大学出身のマックレーン・陽子さんも来ていた。前に少しふれたが、彼女は、夏目漱石の孫である。ユジーンで中学教師をしているアメリカ人と結婚して、オレゴン大学で仏文学の修士号をとってからは、後にオレゴン大学で日本語を教えるようになる。私たちは、ゲント教授夫妻と夕食をともにしながら、にぎやかな一夜を過ごした。

 秋学期の履修登録が始まる頃になると、次から次へと、各国からの留学生が顔を見せ始めるようになった。総数では約200名になるらしい。そのうち日本からの留学生は春学期で2人脱落していたが、新入生が4人増えて、全部で12名である。その年は、二人の教授も、京都大学と早稲田大学から研究員として一年間の予定で家族連れでやってきた。週末の一日、そのような新顔の教授や留学生を歓迎する夕食会が催された。古株の留学生がお膳立てしてくれて、私たちは3台の車に分乗し、ユジーンの街を少しドライブしたあと、ダウンタウンの中華料理店で食事をとりながら日本語のおしゃべりを楽しんだ。

 私の居た民間のインターナショナル・ハウスも、何人か入れ替わっていた。シンガポール、インド、パキスタン、フィリッピンなどからの留学生は、ほとんど東京を経由して来ている。みんな、東京はなかなか立派な街だが、英語が通じないから困ると、こぼしていた。あるパキスタンからの学生は、東京で二日過ごしたが、泊まったホテルでは支配人しか英語を話せる人はいなかったので、支配人がいないときには、思うように食事もとれなかったという。こんな笑い話もある。

 ホテルの女子従業員が適当に見繕って運んできたものを見たら、ご飯の上に妙なものが目につくので、彼が、これは何だと聞いたが、彼女は答えられない。うなぎのかば焼きであったらしいのだが、彼女は「ウナギ」が英語で言えず、思い余って、ヘビに似ているから「スネイク」と答えてしまった。ヘビに似たようなものと言いたかったのかもしれない。しかしパキスタン人の彼には通じなかった。彼は食べるのを諦めた。私に、日本のホテルでは、客にヘビを食わせるのかと言うので、「あれはウナギだ。あんなうまいものをなぜ食べなかったのか」と答えると、ウナギなら食べられたのにと、彼は残念がっていた。

 その当時の統計では、アメリカ全体での入国留学生の総数は、隣のカナダからが一番で、5,270名である。アジア諸国からのアメリカ留学生数は、1957年度で、台湾が一番多く、3,230名である。インドが2番目で、2,590名、韓国が3番目で、2,402名、その次が日本で、2,020名となっている。その後に、フィリッピンの、1,880名が続く。ただ、日本からの留学生は、私のように1,2年で早く帰国する者が多く、毎年、2,300人ほどもやってきて、3年、5年と、なかなか帰国しない台湾や韓国の留学生に比べると、実際の残留留学生の総数は、日本からの留学生が案外少ないといえるかもしれない。留学生全体の平均の成績は、韓国からの留学生が一番といわれていた。

 新学期授業開始前の土曜日、東北大学出身で博士課程の岡林さん、東京都立大学助教授の中村さん、神戸大学出身の沼田さん、それに私と、新しく入学してきた、咲原、淀川さん2人が加わって、車でクレイター・レイク国立公園へ向かった。クレーター・レイク国立公園は、オレゴン州南部に位置する国立公園である。1902年に米国で5番目の国立公園として設立された。公園の面積は741 平方キロで、公園にはクレーター・レイクと呼ばれるカルデラ湖がある。ユジーンからは直線距離では150キロだが、カスケイド山脈中を弧を描くようにして遠まわりし、ウィラメット国立森林公園などの森の中の道を通っていくことになるので200キロ以上を走ることになる。

 車は淀川さんのもので、大型車だから6人乗ってもあまり窮屈ではない。彼は、東部の大学から転学してきた留学3年目の編入生である。父親が東京外語を出た外交官で、ヨーロッパ各地に勤務していたため、兄弟のなかで日本で生まれたのは自分だけだと言っていた。私よりも若いが、アメリカ留学も3年にもなると、自分の車を乗りまわしてアルバイトをしながら充分に自活していけるらしい。こんな生活は日本では絶対に出来ないから、日本にはあまり帰りたいとは思わないと、車のハンドルをにぎりながら彼は言った。

 咲原さんは、沖縄出身でアメリカ政府のパスポートをもっていた。その当時は、まだ沖縄は日本へ復帰していなかった。沖縄復帰は1972年(昭和47年)になってからだから、まだ14年後のことである。大学卒業後、アメリカ施政下の米軍で通訳として働いているうちに、米軍の斡旋で留学生に選ばれて来たのだという。中村さんと沼田さんは、私と同じ2年目の留学生である。このうち、一番若い沼田さんはアメリカ人のように自然に英語をしゃべっていた。留学生には多かれ少なかれ英語のハンディキャップがあるものだが、彼にはそれがあまりないようであった。経営学専攻で、修士号をとるまであと2年くらいはアメリカにいるつもりだという。

 快晴に恵まれ気温も高めで、早朝の東南へ向かうステイト・ハイウエイ58号の車窓の両側に流れる緑は一段と映えて清々しい気分である。「Indian Summer(小春日和)だね」と誰かが言った。急に天気がよくなると、アメリカではそう言うのである。60マイルくらいのスピードで走り続けてクレイター・レイクには、3時間ほどで着いた。国立公園としての規模は、ニューヨークへ行く途中に立ち寄ったイエロー・ストーン国立公園とは比べるべくもないが、火口にたたえられた湖水の青は、はっと息をのむほどの鮮やかさである。湖水のまわりの岩陰には、野生のリスがたわむれ、人が近づいて行っても逃げる気配はない。火口を頂点として、なだらかにひろがる裾野は、緑の毛氈を敷き詰めたように美しかった。帰途は、別のルートで遠まわりしながら、清冽な小川の流れのほとりで、水の流れを写真に撮ったりする。ユジーンに帰り着いたのは午後7時過ぎであった。ダウンタウンで、中華料理の夕食をとって解散する。

 9月29日から授業が始まった。私はこの秋学期には、教育社会学、教育行政論、大学教育論などのほかに、Reading & Conference(専門科目研究論文指導)を二つ選んだ。このReading & Conference は、毎週与えられたテーマについて論文資料を読み、それについて指導教授の個人指導を受けながら論文を作成していくというものである。私の好きな科目であった。この日には、大学教育論の講義があった。担当は温厚な人柄のキャンブレイ教授である。私を含めて4人だけのクラスで、あとの3人は、大学講師、大学院助手、小学校校長という顔ぶれである。教授の講義のあとは、みんなでディスカッションするのが慣わしで、こういうクラスでは、やはり私にはまだ表現力不足を思い知らされて歯痒かった。

 グラハム教授担当の教育社会学の講義は、毎週土曜日だけの集中講義であった。夏休みにもいくつかの講義が開講されているように、土曜日にも開講される科目がある。聴講生には、すでに小、中、高の教員資格を持つ人が多かった。学校に勤めながら、夏休み中や、各学期の土曜日などに受講して単位をとり、修士号や博士号取得を目指すのである。このクラスでは、毎週テストがあり、関係資料の読書リポートも毎週提出しなければならない。そして、期末には論文提出も義務づけられている。かなりハードなクラスであったが、教育社会学に関心を持ち続けてきた私には、講義は興味深く有益であった。

 オレゴン大学の留学生生活も2年目に入って、いくらか大学にも講義にも慣れてきたとはいえ、勉強の厳しさは変わらない。私は寝る時間と食事の時間と講義に出る時間を除いては、ほとんどの時間を大学図書館で私に割り当てられていた小さな個室で本に囲まれて過ごした。個室の窓の外には、きれいな緑の芝生のなかに銀杏の木が一本立っていて、私は勉強に疲れると、よく、ぼんやりとこの銀杏の木を眺めた。春になると小さな芽が膨らみ始め、夏には、青々として葉が生い茂る。その緑の葉が秋を迎えて、黄色になり、やがて少しずつ散っていくようになった。私は、次の冬学期が終わる翌年の3月には何とか修士課程を終えたかった。この銀杏の木がまた春を迎えて、小さな芽が膨らみ始める頃、私は無事に日本へ帰ることになるであろうかと思ったりした。

 10月が過ぎ、11月に入った。勉強に追われる毎日で、時間があっというまに過ぎていく感じだが、私は土曜日の午後からは日曜日の夜までは、努めて机の前からは離れ、散歩や運動に出かけることにしていた。息抜きをしなければ、頭も体ももたなかった。あちらこちらの教会に呼ばれて、日本のカラースライドを見せたり、何人かの住民に頼まれて、すき焼きやてんぷらを作ったりもした。どういうわけか私の所へそんな注文がくるのである。180キロ離れたポートランドへ車を飛ばして、日本食の食材を買いに行ったこともある。私は料理が得意ではないので、都立大学の中村さんに助力を頼んで、何度かパーティーを盛り上げた。

 珍しく、インターナショナル・ハウスでも週末にパーティーを開くことになって、ハウスの経営者兼管理人のヘイゼルが、パーティーの余興に、カラースライドによる日本紹介をしてほしいといってきた。私は引き受けた。新入学生の砂原恵美子さんが音楽のピアノ専攻で声楽もやっていたと聞いていたので、彼女も招待して、日本の歌を歌ってもらうことにした。彼女は、伯父さんか誰かがアメリカに住んでいるということで、そのつてでアメリカへ来たらしい。なかなかの美人だが、英語をしゃべるのはあまり上手とはいえず、すべてに控えめで、アメリカの社会のなかでは、ちょっと頼りない感じの人であった。

 11月16日、日曜日(日記)
 午后五時半からの、インターナショナル・ハウスのパーティー準備に、へイゼル達は大童であったようだ。肥満な体で動きまわって、全く彼女はよく働く。
 リー氏の来訪で時間を食われたり、ボブの車が故障したりで、10分位約束の時間に遅れて、砂原恵美子さんを迎えにカーソンホールへ行く。出てきた彼女は、和服姿で着飾って美しいのだけれども、何だかそれほど魅力を感じないのが不思議だ。若しかしたら、魅力を感じない、のではなく、感じようとする心を抑えているからでもあろうか。でも、彼女といっしょの今夜のパーティーは、楽しかったような気がする。
 招待客のゲント教授夫妻などを含めて出席者六十名ほどの前での彼女の独唱、「荒城の月」、「さくら」、「赤トンボ」などは伴奏なしであったが、出席者たちを魅了した。こういう歌をアメリカで聞くのはぼくにとっても感慨深い。彼女に手伝わせての最後のプログラム、ぼくの、カラースライドによる日本の紹介も1時間ほどで無事に終わった。彼女と二人でいると、何人かの羨望の視線を感じたかのような起憶もある。こんな経験も、たまには持ってよいのかも知れない。でもとにかく、成功裡に終わったから、もうこれで、こんな演出は、おしまいにしたいものだ。
 ボブといっしょに、彼女をつれてユジーンホテルのコーヒーショップでお茶を飲んだ。そしてカーソンホールまで彼女を見送って帰って来たら、キーハンとエドワードが、ノックして私の部屋に入って来た。エミコがきれいだという。リー氏まで電話をかけて来て、しつこく彼女のことを聞き出そうとする。何だか騒々しい。タイプを叩きながら、頭のシンが疲れているようであった。明日のコンサートに、彼女といっしょに行くはずの約束も、急に行くのがちょっと億劫になる。

 11月27日は、感謝祭で、それから30日(日曜日)までの4日間は感謝祭休暇になる。前年もそうだったが、27日には私のフレンドシップ・ファミリーのバイアリーさんから、ディナーの招待があった。ディナーのあと、私が夏のニューヨーク旅行で撮った写真をスライドで見てもらう。写真はみんな美しく、懐かしかった。翌日の夜には、京都大学の山本教授の家へ中村さん、沼田さんと訪れ、日本食をご馳走になった。ここだけは、アメリカの中の日本である。英語があまり話せない山本教授夫人を交えて、家中に日本語のおしゃべりが賑やかに響いた。

 日本では、年率10パーセントほどの実質経済成長が続いているようであった。電気釜の販売台数が100万台に達して、東京タワーの建設も始まっていた。東京―大阪間に特急こだまが6時間50分で走り始めたというニュースもあるらしい。皇太子が日清製粉社長の長女・正田美智子さんと婚約したというニュースなども話題になって、私たちは大いに飲み、食べ、しゃべって、山本教授の家を辞したのは、夜中の12時近くである。

 12月に入ると、もう15日から期末試験である。それが5日間続いて、そのあとはクリスマス休暇になる。やはり期末試験は苦しい。寸暇を惜しんで勉強に没頭する。前期末の試験で脱落した日本人留学生2人は、私がニューヨークから帰ってきた時にはもういなかった。そのうちの1人は、慶応大学出身の黒瀬さんで、彼は経営学の修士を目指して3年近くになっていた。週末などに時々私の部屋へやってきて、いっしょに食事したりもしたのだが、「アメリカで修士号をとるのは日本で博士号を取るより難しい」とよく言っていた。経営学特有の問題なのか、英語のハンディキャップがあるからかということかよくわからなかったが、期末試験の結果、修士号候補資格を失ってしまったようである。「留学生はvulnerable(傷つきやすい)だ」とも言っていたが、これはその通りで、私にも覚えがある。彼は辛かったであろう。黙って立ち去っていた。

 卒業できずに帰国した留学生が、日本を目前にして船から海中に飛び込んで自殺したという話を聞いたことがある。私もオレゴンへ来た頃は、何度か留学に失敗して日本へ帰る夢を見たことがある。日本へ帰りたい、帰りたいと思い続ける。しかし卒業できていないので帰れない。やっと日本へ帰れることになって懐かしさが溢れてくるのだが、試験で落ちて退学させられたことをはっと思い出して愕然とする、というような夢であった。憧れの留学生に選ばれ、歓呼の声で送られて日本を出たのはいいが、落第したから帰ってきたとはやはり言えない。留学生はみんなそれぞれに必死で、アメリカでは背水の陣であったといってよい。

 12月8日(日記)
 腹工合がよくなく、勉強にも終日、身が入らなかった。でも、論文、レポート、研究ノート等、提出物のカバーつけは、全部すませる。疲れてテレビの音楽に聴き入ったりする。シャワーを浴びて、ワインを少し。
 今日は太平洋戦争の開戦記念日である。しかし、感慨にふけっている余裕はない。考えてみると、日本を離れてすでに1年3か月である。砂をかむような味気ない生活の中で、毎日毎日、勉強勉強で追われて、この頃は何か無性に淋しい。しかもその淋しささえも、勉強で頭がいっぱいになっている間は、重く意識の底に沈んで、思い出すようにしてはじめて、しみじみ感ずるのである。
 アメリカ留学の中では、もしかしたら、今が一番苦しい時なのかも知れない。―― 窓の外は静かな雨。就寝午前一時半。

 12月15日から、いよいよ期末試験が始まった。しかし、グラハム教授の教育社会学だけは、毎週土曜日に開講していたので、試験も13日の土曜日であった。二時間の試験をどうにかブルーブック(答案ノート)に書き終えて、終わってから、教室でグラハム教授としばらく話を交わした。彼女は、日本へも行ったことがあるのだという。この教育社会学には、やたらに忙がしい思いをさせられたが、有益な、立派な講義であった。土曜日の午前中、連続三時間の集中講義を、常に新鮮な感覚と、飽きさせない構成で引っぱってきた彼女の教授能力には感服するほかはない。その日は、午后七時頃から、町のガールスカウトの団員が制服を着て、インターナショナル・ハウスのクリスマスツリーの飾りつけにやって来た。アメリカ人の女の子は、みんな本当に明るくて可愛いらしい。ダイアナという子が、日本にペンフレンドを持っているということで、いろいろと親しく話しかけてきた。

 キャンブレイ教授の大学教育論の試験は、15日の午前9時からであった。試験の時間には教授の研究室に来るようにと言われていた。4人だけのクラスだから、研究室のテーブルで答案を書くのかと思っていたら、教授は、問題3問と答案用のブルーブック(8ページの答案ノート)3冊を私たちに手渡して、自由な場所で正午までに書いてきて提出するようにと言った。私は、図書館の私専用の小部屋で答案に取り組んだが、デスクの前には数十冊の参考書が並べられている。いくらでもカンニングはできるが、それはしない。私はそれを前学年度の社会学の試験の時から学んでいた。キャンブレイ教授には私はその学識以上に、温厚な人柄に惹かれていた。私は教授のそばにいるだけで気持ちが和んでいた。私のもっとも好きな先生の一人で、その先生に対して恥ずかしい行為をすることはできない。

 ハーン教授の教育行政論の試験は、16日火曜日の午後7時から9時までであった。アメリカでは平気でこういう変則的なスケジュールを組む。2時間の間、一生懸命に答案用紙を埋めていって、これもなんとか無事に終えることができた。二つのReading & Conference(専門科目研究論文指導)は、毎週のリポートと期末の論文提出だけであったから、この教育行政論の試験が終わって、私は秋学期の期末試験からは解放されることになる。ハーン教授から試験の席上で返してもらった提出済みの研究ノートと論文は、両方とも評価はAで、”Very Good” となっていた。

 これで、秋学期の期末試験も、「闘いは終わった」という感じになった。A、B、C、Dの評価で、 C を二つ以上取ったら、その時点で学費免除は中止されるという条件は、いつも重苦しいプレッシャーになっていたが、この秋学期も無事に切り抜けられそうであった。大きな安堵である。疲れて、霧が立ちこもったキャンパス内の夜道をとぼとぼと歩んだ。インターナショナル・ハウスの前まで帰って来ると、クリスマスキャロルを歌って歩く少女達の一群が、霧の中からあらわれ、玄関前に立ち止まって歌い、また霧の中に消えて行った。これからは私も、アメリカで2度目のクリスマス休暇である。

 文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名。
  「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」に関連写真の一部が含まれている。

    
(2016.04.01)




  アメリカ留学を終えて帰国する     (身辺雑記 No.106)
   = 生かされてきた私のいのち (35)=


 12月31日の夕、10人ほどの留学生仲間の忘年会に出席したあと、1959年の元旦には、近く日本へ帰国する友人の山本さんを見送ってポートランドへ行った。山本さんも英語の達人であった。私より3歳上で、アメリカ文学専攻の久留米大学講師であったが、アメリカでは一年半の間、いくつかの大学で聴講を続けて、オレゴン大学では半年近く在籍しただけである。大学院は日本で終えているので、単位や学位に関係なく、自由に勉強していた。彼は、一週間ほどポートランドに滞在して、ポートランドから船で横浜へ向かう予定であった。

 1日の昼前に、山本さんとポートランドの日本領事館で開かれる毎年恒例の新年会に出席した。私は、前年に続いて2度目である。出席者は20人ほどで、当時は日本商社のアメリカ進出などはまだ殆どなかったから、大半が留学生であった。領事夫妻を囲んで、正月料理をご馳走になりながら、2時間ほど賑やかな歓談が続いた。ポートランドの街を少し歩きまわって、その日の夜は、市内の日本人経営のホテルに泊まった。その経営者は山本さんの知り合いだという。私たちは、このホテルでも、経営者から日本の正月料理を振る舞われた。ポートランドには、私も何度か訪れた“Anzen” という雑貨店があって、そこへ行くと、日本から輸入された日本食品が、たいていのものは手に入るのである。

 2日には、山本さんの女友達という小学校の教諭リンダがホテルへ車でやって来て、私たちをポートランド郊外のバンクーバーまで連れて行ってくれた。カナダのバンクーバーと名前は同じだが、これはワシントン州南端の街である。日本人の農場があるというので、訪ねていったら、オカザキさんという農場主から、歓待をうけた。夕方には、ポートランドの在米50年になるという「北米新聞」社長宅を訪問して、ここでも、雑煮、寿司、昆布、鯛、蛸、烏賊、松茸、羊羹、汁粉、ミカンなどの日本式の正月料理をご馳走になった。アメリカ人は一般に、蛸や烏賊は気味悪がって食べないし、日本のミカンはアメリカにはない。久しぶりに日本料理を満喫して、その夜はまた、山本さんと一緒に、日本人経営のホテルに泊まった。

 翌日、3日の朝、山本さんとはここで別れた。前日に打ち合わせをしてあったのだが、昨年のオレゴン旅行で泊めてもらって以来、親しくしているポートランドのオスターグレンさんの長女パトリシアが妹のキャロラインと一緒にホテルへやってきて、私をピックアップしてくれた。このオスターグレンさんというのは、前にもちょっと触れたが、北欧ノルウエー系のアメリカ人である。長女のパトリシアは高校3年生で、ゲイリーという中学1年生の弟と、その下に小学校1年生で6歳の妹キャロライン(リン)がいた。その当時は、日本では高校生が車を乗りまわすというのは考えられないことであったが、パトリシアは高校一年生の時に運転免許を取っていた。彼女の案内で、博物館、動物園、日本庭園などを見て、コロンビア・ハイウエイの景勝地区を走り、落差189メートルのマルトノマ滝(Multnomah Fall)を訪れた。5時間ほどドライブした後、パトリシアの家で夕食をご馳走になり、夜のバスでユジーンまで帰った。

 ついでながら、このオスターグレンさん一家とは、それから14年後、私が文部省在外研究員として家族同伴でオレゴンに滞在するようになってからも、家族ぐるみの付き合いが続いた。その当時は全く予想もできなかったが、私はその後もさらに、長期、短期のアメリカ生活を何度か繰り返している。その度に、この家族と会ったり、逢えない場合でも連絡を取り合ったりした。いまはもう、彼らの家に初めて泊めてもらった1958年から60年近くも経ってしまって、ご両親も亡くなり、才媛のパトリシアも大学院まで進んで結婚した後、離婚して、62歳で亡くなっている。成人して沿岸警備隊(Coast Guard)に入ったゲイリーはまだ健在で、引退後はモンタナに住んでいるが、キャロラインは病弱のまま、いまもポートランドで独身生活を続けている。今年で63歳になる。

 1959年の正月をこのようにポートランドで過ごした私は、ユジーンに帰って最後の冬学期を迎えることになった。新学期の履修登録は1月5日であった。私は指導教官のラメル教授の助言を受けながら、今学期で所定の全単位を取得して大学院が修了できるように、履修時間割を組んだ。授業は1月6日から始まった。また夥しい宿題と、発表と、論文執筆で、勉強に明け暮れる毎日が続いた。その間に、春に帰国してからの就職のことも考えなければならなかった。私は高校の教員が好きであったから、札幌南高校へ戻れるのであれば戻りたかったが、札幌南高校への就職状況は相変わらず厳しく、一旦退職して定員が埋められてしまってからは、新たに欠員が生じる可能性はほとんどなかった。東京外国語大学での主任教授であった佐藤勇先生が、前年の秋から、いろいろと大学への就職先を打診してくださっていたが、こちらも状況は厳しいようであった。

 1月24日(手紙)
 先週は写真をお送りしましが、もう届いている頃でしょうか。あの通り、相変わらず元気に過ごしていますからご安心ください。
 2月19日と20日の二日間、大学院修了資格試験がありますので、近頃は、その準備を始めています。これが最大の山場で、これが無事終われば、あとは通常の期末試験と論文だけになりますから、大学院はもう、出たのと同じようなものになります。だから、この二日間の試験がぼくの留学生活の最後の締め括りで、それさえ通れば、いよいよ帰国のための荷造りも考えることになるでしょう。
 船はいま、山下汽船と日産汽船に問合せ中です。山下汽船のものは、3月28日にこちらを出港して横浜着は4月14日。日産汽船のほうは、4月6日出港で、横浜には4月20日に着くようです。この間、山下汽船で日本へ出発した友人の山本さんは、230ドルでポートランドから乗船しましたから、ぼくの場合も、だいたい同じようになるでしょう。いずれにしても、今度のぼくの誕生日は、日本でということになると思います。
 就職のほうは、札幌南高校の英語科が昨年秋から、なんとか私の復職を図ろうと努力してくれているようですが、定員が空かない以上どうすることもできないようです。大学のほうは、東京外大の佐藤先生がいろいろと探してくださっています。こちらもなかなかの就職難で楽観できませんが、まあ、なんとかなるのではないかと思っています。相変わらず元気に過ごしていますから、どうかご安心ください・・・・・

 ここで触れている大学院修了資格試験については、1月19日に受験申請書を提出していた。事務局でチェックして、受験要件を満たしていれば、2月19日と20日の二日間、修士号取得のための資格試験を受けることになる。その試験勉強で頭が一杯になっていた1月下旬、急に左の奥歯が痛み始めるようになった。3日ほども痛みが続いて、ご飯もよく噛めないので、大学の診療所で診てもらった。診療所の歯科医師は、大したことはないと言って薬を処方してくれた。その医師は、日本へ行ったことがあるらしい。東京のタクシーの乱暴な走り方に驚ろかされたという。当時は、「神風タクシー」といわれたりもしていた。「あのタクシーに乗っていると考えれば、こんな歯の痛みぐらい何でもないないだろう」と彼は言って、笑った。診療所から帰ると、山下汽船のポートランド支店から手紙が届いていた。3月28日出港予定の山姫丸で船賃は250ドルで予約できることになった。

 2月20日(日記)
 大学院修了資格試験二日目。昨日の客観テスト300題に代わって、今日は論文テスト5題であった。時間は昨日と同じく4時間、午前8時から12時まで。文字通りの死闘である。
 8ページの答案帳3冊分、24ページの答案を書き上げた時には、精も魂もほとんど尽き果てていた。昨日の試験といい、今日の試験といい、留学生としては残酷だとしか思われないほどの苦しい試験であった。しかしそれももういい。すべては終わったのである。死力を出し切って最善を尽くしたのだから悔いるところはない。これで修士号がもらえないのであれば、いさぎよく諦めるだけである。
 過去一年半の疲れが一度に噴出してきて、ぐったりとなり、食欲も出ない。呻き声さえ上げながら、ベッドの上を転げまわり、「とうとう終わった、とうとう終わった」と何度もこころのなかで繰り返した。

 2月25日、二つの手紙を同時に受け取った。一つは、教育学部長からのもので、大学院修士課程修了資格試験、合格。まだ、期末試験が残っているが、これで、とうとう修士号をもらえる見込みがついた。もう一つの手紙は、東京外国語大学の佐藤勇先生から。学長の岩崎民平先生の推薦で、名古屋の中京大学への英語教師の職がほぼ確定ということであった。中京大学というのは、今ならフィギュア・スケートの浅田真央さんの勤め先ということで知っているが、当時はまだ何も知らなかった。岩崎先生が南山大学の諸井・英文学部長を通じて話を進めてくださったようである。「私立」は初めての経験だし、父の居る苫小牧から遠いということで、ちょっと考えさせられたが、選択の余地はなかった。私は受け入れることを決めて、岩崎学長と佐藤先生にお礼の手紙を出した。

 2月28日(日記)
 教育社会学の時間、ソシオ・ドラマを行なう。黒人が職を得て、マサチューセッツへ行くのだが、そこで黒人であることがはじめてわかって、約束の職は与えられなかった。この場合、黒人は、どういう態度乃至は解決策をとるか? というのを、ドラマで男(黒人の役)と女(黒人の妻の役)のペアで演ずるのである。なかなか面白いと思った。ドアーをバタンと手荒くしめて入って来たりするあたり、なかなかのアクターもいる。
 風邪気味で昼から少し眠る。卒業資格試験に合格して、はりつめていた気持ちが弛んだせいか、体にも何となく、抵抗力が衰えてきた感じ。
 午后五時過ぎ、比較教育のドクター・バーンのディナー・パーティーに出席する。オーストラリヤのディパイン夫妻が車で迎えに来てくれた。ディパインのワイフのスーは、子供っぽい、可愛いらしい人だ。オーストラリヤから二年前にやって来て、こちらで彼と結婚したのだという。夫妻が交替で働らいたり、学校へ行ったりしているらしい。こういう生活が出来るというのも、いかにもアメリカ的であるような気がする。
 ディナーが終って、ドクター・バーンのヨーロッパ旅行のスライドを楽しむ。数少ない教室のメンバーだけの、このようなパーティには、こころから打ちとけた親しみが感じられる。帰宅したのは十時過ぎであった。
 日本に着いた山本氏より第一信が届く。「日本の女がみすぼらしい。東京の省線は押しあい、へしあい」というのには一寸考えさせられる。就寝午前一時半。

 3月6日(手紙)
 いよいよ最後の学期も終わりに近づいてきました。論文や宿題なども殆んど全部すませていますのでぼつぼつ荷造りに取り掛かりたいと思っています。荷造りといっても、ポートランドの例のパトリシアの両親が、自動車で荷物を取りに来てくれて保管し、ぼくが行つてから船に直接積み込みますので、ロープで縛ったり、荷札をつけたりする必要もないようです。ぼくは殆んど何も持たずに身軽のままで船に乗ればいいことになります。
 こちらは、3月22日に出発して、パトリシアの家で世話になる予定です。ポートランドでは荷物を積むだけで、乗船はせず、船はそれから北へ上って、カナダのバンクーバーへ行きます。荷物を船に預けたあと、3月22日の夕方、ポートランドの日本領事館で開かれる留学生のパーティに出て、その夜はパトリシアの家に泊めてもらい、翌朝、シアトルへ向かいます。シアトルでは、ワシントン大学の友人の世話で二、三日滞在、それから国境を越えてカナダに入り、バンクーバーで、ポートランドから上って来る山姫丸に乗船する、という順序にしています。これが3月28日です。バンクーバーでも、一、二日余裕はある筈ですから、付近の見物も出来ることでしよう。カナダを少しでも見ておきたいと考えていたぼくのためには、この船の日程は都合がよいようです。
 こちらからは、バンクーバーへ行くまでの旅行の途中でも、手紙は出すつもりですし、3月28日以降、船に乗ったら、今度は、また電報で時々連絡するようにいたします。でも、そちらからは、3月14日以後は、もう手紙を出さないで下さい。3月14日以降の手紙が着く頃には、ぼくはおそらくユジーンを離れた後ですから、ぼくの所へは届きません。この手紙といっしょに、先日撮りました写真、大学院のガウンと帽子姿のものを航空便で送ります。これは、オレゴン大学の学生アルバム用のものです。アメリカ生活も残り少なくなりましたが、毎日、元気で過ごしています・・・・・・

 3月10日(日記)
 ドクター・キャムブレイ個人指導の時間に出席。今日は彼の写真を見せてもらったり、ぼくが写真を撮ったりで、ディスカッションはごく少し、殆んど、よもやま話で終わった。紳士とはいかなるものであるかを、身をもって教えてくれているような人、その人柄には深く惹かれるものを感じる。
 午后2時からの比較教育は、日本の教育制度についての、ぼくの口頭発表。資料のプリントなどで大分骨折っただけにかなりの成功で、ドクター・ハーンからも大いにほめられた。冗談を交えながら和やかに、よく出来たと自分でも思う。
 夕食は三上氏とチキンとビールですます。そのあと、二人でマーケットへ行き、荷造用のダンボール箱や、おみやげ用のコーヒー等を買って帰った。本の荷造りを殆んど終える。おみやげも入れて、荷物が4つ出来上った。全部終えると11個くらいになりそうで、何時の間にか持物がふえてしまったのに驚ろく。就寝午前1時。

 このあと、3月16日から始まった期末試験も無事に終わった。試験結果が「C」になるような科目は無かったはずだから、これで大学院修士課程修了はほぼ確定したことになる。1957年8月以来の留学生活も1年7か月を経て、いよいよ幕を閉じる。厳しい、はるかな道のりを、よくここまで来れたものだと、いまさらのように幸運を感謝したい気持であった。3年前の札幌で、市教育委員会の留学生募集で候補に選ばれた頃のことを思い出す。結局、市教委の判断ミスで、私は渡米できなくなったのだが、それが引き金になって、オレゴン大学への留学に繋がった。不運が幸運に変わって、私は最初は予想もしなかった大学院の修了まで漕ぎ着けることができた。

 3月20日の夕方、期末試験が終わった後、京都大学の山本先生のお宅で、私のために送別会を開いてくれた。早稲田大学の斎藤先生、博士課程の岡林さん、都立大学の中村さん、修士課程の淀川、沼田さんらが集まって、12時過ぎまで賑やかな歓談が続いた。岡林さんはあと一年くらい、中村さんは春学期を終えてから帰る予定だという。翌日の21日も、大学関係者や街で知り合った人々への挨拶まわりで殆ど一日をつぶした。そして、22日朝、インターナショナル・ハウスのオーナーのヘイゼルの車で、見送りの友人3名と一緒にポートランドへ出発した。

 22日は日曜日なので、街には人通りもなく静まり返っていた。窓越しに見る街のたたずまいは流石に感慨深かった。そのあちらこちらに私の思い出の足跡が残っている。それらとも、これが最後の別れであった。セイラムの州議事堂を見学した後、車は一路ポートランドへ向かった。ヘイゼルの長女の家で小憩し、近くのリード・カレッジ(Reed College)の見学に出かけた。リード・カレッジは、1908年創立の、進歩的・自由主義的な雰囲気をもつリベラルアーツ・カレッジで、私学の名門の一つに数えられている。広大な緑の芝生の美しいキャンパスを歩いていたら、たまたま、この大学の庭師をしているという初老の日本人に逢った。広島出身の2世で「キノシタと申します」とちょっとたどたどしく自己紹介した。雑談しているうちに、キノシタさんは、「アメリカ人の学生というのは不思議ですね、一年毎にみるみる変わっていきますね」と言った。

 これは、全くその通りである。私もそう思っていた。だから、彼ら大学生は、顔をみれば何年生か大たいわかる、というようなことをキノシタさんも言った。入学したばかりの一年生は、高校時代のやんちゃな気分を残しているが、それが、厳しい試験で学期末毎にどんどん落とされていくうちに、2年、3年となると、目に見えて落ち着いた大人の態度が身に着き、言葉遣いまで変わっていく。それに、アメリカでは、高校を出れば、男子も女子も、親から離れて住むようになるのが普通である。カリフォルニア大学のインタナショナル・ハウスでのルームメイト、フランツがそうであったように、大邸宅に住んでいる金持ちの子でも、自立して、自分の学資は自分で稼ぐという生き方を学ぶのである。日本の大学生の多くにみられるような、苦労知らずの甘えの雰囲気は、アメリカの大学生にはない。

 リード・カレッジを出て、日本領事館の前までヘイゼルに車で送ってもらい、午後4時、そこで彼女とも別れた。走り去っていくヘイゼルの赤い車へ手を振りながら、ユジーンとのつながりが、ここでプツンと切れてしまったような気がした。この日の領事館での春のパーティーも、毎年恒例になっているが、出席した留学生は15名だけで、昨年の25名に比べるとちょっと淋しい集まりであった。今城領事が月末に任期を終えて帰国するということもあって、お別れの会のような雰囲気になった。午後6時に、パトリシアのお父さんが迎えに来てくれて、オスターグレン家へ移った。着いてみると、近所の人びとも数人招待されていて、何時の間にか、また私のための送別会になってしまった。楽しい歓談が続いて、私が寝たのは一時近くである。

 翌日、23日の朝9時、パトリシアと彼女のお父さんは、私を山下汽船の山姫丸が停泊しているというポートランド港のスティール・ブリッジへ連れて行ってくれた。山姫丸は1万6千トン、小麦を積み込んでいる最中であった。船も船員たちも、渡米の時に乗った飯野海運の隆邦丸に比べるといくらか見劣りするような感じである。ここで、パトリシアのお父さんにも手伝ってもらって、荷物を船内に運び込んだ。荷物は、その三日前に、パトリシアのお父さんがユジーンまで取りに来て、自宅で保管してくれていた。当時はまだ日本にはなかった全自動のスライド映写機と付属品、毎日のように使っていたドイツ製の「オリンピア」タイプライターなどを含めて、荷物は11個になっていた。山姫丸は、ポートランドで小麦を積み込んだ後、北上してカナダのバンクーバーで、木材を積み込む予定になっている。私はバンクーバーで、28日昼ごろまでに乗船すればよいと言われていた。

 私は、ポートランドからバスでシアトルへ行き、そこで一泊してバンクーバーへ行く予定をたてていた。それを聞いた山下汽船のエイジントの安川さんが、その日の午後、シアトルへ帰るので、彼の車にシアトルまで同乗させてくれることになった。ポートランドからワシントン州のシアトルまでは直線距離で約200キロである。そこからバンクーバーは約230キロの距離にある。私がシアトルへ立ち寄るのは、渡米の際に隆邦丸でいっしょだった三重県四日市出身の山手君に逢うためであった。山手君は、ワシントン大学で経営学を学んでいる。私がバンクーバーから帰国することを聞いて、是非一度、シアトルで逢いたいと手紙をくれていたのである。ポートランドで、荷物を積み込んだ後、パトリシアのお父さんは、私をダウンタウンまで連れて行ってくれた。レストランで昼食をとって、そこで、パトリシアと彼女のお父さんとは、固い握手を交わして、さりげなく別れた。

 午後2時過ぎ、安川さんの車に乗せてもらって、ハイウエイ99号を北上した。途中、州都オリンピアで小憩し、ワシントン州議事堂を見学したりして、シアトルに着いたのは、午後6時過ぎである。安川さんは、日本料理店で私に寿司をご馳走してくれた。電話連絡すると、山手君はすぐにその日本料理店へ迎えに来てくれた。その時、1年7か月ぶりに再会した山手君を見て、私はひどく驚いた。あの隆邦丸の船室で、恋人の写真を鏡に貼り付けてにやけていた頼りない感じの彼の姿はそこにはなかった。彼は、すっかり変わってしまっていた。私より3歳年下の彼はどっしりと落ち着いていて、優しく、小柄な体つきが一回りも二回りも大きく見えた。私は、彼が150ドルで買ったという中古車に乗せられて、彼の下宿先へ行った。見晴らしのよい高級住宅街にある大きな家で、ご主人はかなり名の売れた実業家、奥さんは共和党の政治家ということであった。

 フランス人の後裔であるという彼らは、ざっくばらんな感じのいい夫妻で、時々、ご主人の方が奥さんに言い負かされて首をすくめたりするなど、なかなか愛嬌がある。山手君は、ここへ来るまでは、さんざん下宿では苦労したらしい。部屋を借りた女主人の下着の洗濯までさせられて逃げ出したこともあるという。レストランでの深夜の掃除夫のアルバイトでは、モップが大きく重すぎて、自分の体では押しても動かなかったような経験もしたらしい。しかし、ここでは山手君はほとんど留守番役だけで、部屋代も無料のうえ、毎週小遣いまでもらっているということであった。ご夫婦を交えてのお茶飲み話のあと、山手君は、ダウンタウンのホテルまで私を車で送ってくれた。ホテルの部屋でも話は尽きず、時の過ぎるのも忘れて、彼が帰っていったのは真夜中過ぎであった。その翌日も、彼は朝からホテルへやってきて、一日中、彼の車でワシントン大学をはじめ、シアトルの周辺を案内してくれた。

 シアトルは、当時は人口50万人くらいであったろうか。かなり大きな都会で、日本人町もある。日本の食料品、雑貨、書籍、土産物など何でもあって、その町へ入っていけば、日本のどこかの町に迷い込んだような錯覚を覚えたりもする。その日の夜は、日本料理店で、山手君と鰻のかば焼きを食べて別れた。翌日、25日の朝、山手君はまたホテルへ来て、一緒に朝食をとった後、私をバスターミナルまで見送ってくれた。別れる間際に彼は私に言った。大学院を終えて帰国できる君がうらやましい。ぼくは、まだ学部に在学中で、卒業までにあと1年かかるか、2年かかるかわからない。もしかしたら、途中で帰国することになるかもしれない。しかし、アメリカへ来てよかったと思っている。散々苦労したが、もう何も怖いものはない。日本へ帰ったら、乞食をしてでも食っていける。もし君が名古屋へ行って、四日市のぼくの家を訪ねてもらえるなら、ぼくの両親に、そう言っていたと伝えて欲しい・・・・・

 3月25日、午前11時、バスターミナルを出たバスは、北上してバンクーバーへ向かった。走り出してしばらくすると、小雨が降り出した。天候が悪いせいか、国境へ近づくにつれて、車窓からの風景は灰色にくすんで、うら寂しくなっていく。ブレイン(Blaine)からいよいよカナダ領へ入るのだが、そこでは簡単な税関の検査があっただけである。カナダに入っても、バスの中から見ている限りでは、特にアメリカと変わっているわけではない。ハイウエイがいくらか傷んでいるようなところもあるが、街並みも家々の造りも、アメリカのままである。そのために、もうすでにアメリカとは別れてしまったのだという実感はあまり湧かなかった。

 バンクーバーには午後4時前に着いた。初めての土地で、バスから降りても、どちらへ向かっていいのかわからない。小雨のなかを傘をさし、バッグ一つを持って、街の中心部と覚しき方向へと歩いて行った。旅行案内所があったので、中に入って、バンクーバー・アイランド見物のインフォメーションを求めたら、エリザベス女王のような顔つきの愛想のいい美人が、親切にいろいろと教えてくれた。しばらくあちらこちら歩きまわって、少し疲れを感じ始めた頃、小さなホテルを見つけて入ってみた。なかは小奇麗で、部屋は空いているという。部屋代4ドルを、カナダドルに変換して支払いを済まし、今夜はここで泊まることにする。歩いて10分ほどのところのチャイナタウンまで出かけて、夕食は中華料理ですました。ダウンタウンはポートランドやシアトルとあまり変わらない賑やかさだが、近くの山々の頂にはまだ雪が残り、気温も低めで、やはり、どことなく、最果ての地に来たという侘びしさのようなものが感じられる。8時過ぎにはホテルへ帰り、風呂に入って、その日は早めにベッドに横になった。

 3月26日(手紙)
 この手紙がそちらに着く頃は、もう、山姫丸はカナダを出て、日本に向かってから、3、4日も経っている頃でしょうから、この手紙も、前にシアトルから出した手紙と同じように、最初の、船からの電報よりは、後になって届くのではないかと思います。
 シアトルであの手紙を出してから、バスでバンクーバーへ向い、昨日午后4時頃、こちらに着きました。カナダといっても、国境線を越えただけで、人間も、建物も、話す言葉も皆ほとんど同じですからアメリカにいるのとあまり変りません。
 昨夜はこちらのホテルにとまり、夜はぶらぶら町の見物をしました。今朝になって、ポートランドから上って来た山姫丸がこちらに着きましたので、早速ホテルから船へ引越しをし、もう食事も船でとり、食事と食事の合間には、町の見物に出かけるという風にして、のんびり最後の時間を過ごしています。
 今日は、午后3時間ばかり、観光バスで、こちらの大学や、郊外の公園などを見てまわりました。夕食後は、映画を観に行き、今船に帰ってみたらもう11時過ぎです。船の食事は相かわらずうまいので満足しています。毎食、日本のレストランで食べているようなもので、おかずも食べきれないほどたくさん出されます。
 バンクーバーは、カナダでは三番目に大きな町で人口は約40万、中国人2万5千人、日本人1万5千人も住んでいるようです。緯度も北海道よりはかなり北になっていますから、そのためか、いくらか春も遅い感じで、町を取り囲む周囲の山々には、まだ雪が白く見えたりして、一寸、北の果ての町へ来たような、うらさびしい気がいたします。山姫丸は、ポートランドでは小麦を積み終わり、このバンクーバーでは木材を積んで帰るのだそうです。
 船は明後日、28日午后5時に出港の予定で、それまではひまですから、またぶらぶらあちらこちらと足を伸ばしてみるつもりです。外国生活にも慣れてしまったせいか、カナダへ来ても、少しも不自由しないで、町の真中を、大きな顔をして歩きまわっています。
 電報は何度も打つ必要はないと思いますが、一応、3日か4日おき位に打ちます。若しその通り電報が来なかったら、それは船の無電機が古くて故障しているからだ、とでも考えていて下さい。そちらからは別に、返電はいりません。
 では手紙の連絡は、これで最後にいたします。元気で会える日のことを楽しみにしながら、日本へ向かいます。上京される時には、必ず寝台車に乗って、疲れないようにして来て下さい。

 私は、アメリカに来て以来、毎週のように、近況を伝える手紙を自宅へ送り続けてきた。国際郵便用のエア・レターを使って、折りたたんだものを近くのポストに投函する。それをこのバンクーバーでも繰り返して、この手紙が最後になった。3月27日の朝、山姫丸の船室で目を覚まし、その日一日も、バンクーバーのダウンタウンを歩きまわって過ごした。チャイナタウンに近い一角では、酔っ払いや失業者らしい人々が目立つていた。スラム街なのであろうか、人々の服装もみすぼらしい。初めてアメリカ社会との違いに触れたような気がした。山姫丸の出港は、28日午後5時の予定であったから、その日の午前中も街に出て、デパートでその頃出回り始めたパーカーのボールペンとかネクタイとかトーテンポールのミニチュアなどを買ったり、街の風景をカメラに収めたりした。

 山姫丸の出港は、延び延びになって、船が岸壁を離れた時には、日付が変わって29日の午前零時20分になっていた。山姫丸は、タグボートの力も借りずに、自力で港外へ動き出す。春とはいえ、デッキを吹き通る風は、ひんやりと冷たい。バンクーバーの街はすっかり寝静まっていて、ネオンサインや、星をちりばめたような街の灯が、少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。ああ、カナダが離れていく、アメリカが離れていく、と思った。ほんとうに、それが別れであった。ぼんやりデッキに立っていると、同じ船客の東北大学医学部医師の鈴木さんが、ウイスキーの水割りのグラス二つを手に持って出て来て、その一つを私に差しだした。彼にとっても私にとっても、いろいろと思い出深いアメリカ生活への別れのグラスである。エンジンの力強い振動を全身で感じとりながら、ああ、サヨナラだ、サヨナラだ、と何度も心の中で繰り返した。

 *文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名。
  「プロフィール」→「アメリカ留学写真集」に関連写真の一部が含まれている。

  「プロフィール」に「アメリカ留学の思い出」がある。
    
(2016.06.01)





  太平洋の船旅を終えて名古屋へ赴任する   (身辺雑記 No.107)
     = 生かされてきた私のいのち (36)=


 [船中日記]
 1959年(昭和34年)3月29日 日曜日
 朝起きてから、すぐにデッキに出てみる。船尾に、白く長く、水の泡が尾を引いて、そのはるか彼方に、まだほんのかすかに、山々の連なりが見えた。その間に白い煙が一筋高く立ちのぼっているのが不思議にはっきり見えて、何かしら郷愁を感じさせるが、それはもうカナダかアメリカか区別はつかない。船は、エンジンの音を着実に響かせながら、大海原を一路、日本へ向かって進む。
 朝食後、父宛電報、「二八ヒヨルタチ、ニホンヘムカウ、ゲンキ」。(当時、日本の市外電報料金は、10字以内が60円で、それを越えると加算される。海上の船から発信する場合は、船の位置に関係なく料金はその2倍であった。)
 時計の針を30分遅らす。昨夜の不眠が崇って眠い。部屋へ引返して、11時頃までまた眠った。
 午后から船は、低気圧圏内に入ったらしい。海はかなり荒れて、雨。時々小山のような大波が船の甲板を洗い、急造の、船首からブリッジにかけての木造橋は、あとかたもなく流されてしまった。(この木造橋は甲板の上に積みあげられた木材を航海中保守点検するためにアメリカの法令で設置を命じられたものである。これを急造するために出港が遅れた。船長はこんなものは大波ですぐ吹っ飛んでしまうと不機嫌であったが、その通りになった)。
 この船の居心地は、あまりよいものではない。或いは隆邦丸が良過ぎたから、この船が見劣りするのであろうか。部屋は狭く(乗客は5人で、2人部屋3室を数日ごとに取り換えながら使っていた)、照明が暗く、本を読むのに適さない。それに同室の何十年ぶりかで日本へ帰るというお爺さんの煙草の煙がもうもうと立ち込めている。一番居心地のよいサロンでは、日本へ里帰りとかいう子ども連れの戦争花嫁の、けたたましい笑い声の連続なのである。はじめから、何だか少し憂うつであった。
 サロンに備えつけの、日本の小説、久しぶりに二、三冊ざっと読み通す。夜は、「風と共に去りぬ」を少し。

 4月1日 水曜日
 朝のご飯は、腹にもたれる。味噌汁も、あまりうまいとは思わなくなった。やはり朝はパンと牛乳がほしい。体の調子がよくないのである。昼は赤飯、月はじめだからだそうだ。船の食事はやはりなかなか贅沢だが、ご飯はなるべく食べぬようにする。
 父宛電報、「一四三ドセントオル、一三ヒニツクヨティ」
 波は相かわらず荒い。大波の中に船がしばしば首を突込んで、その凄まじいしぶきが、ブリツヂにまで上がってひろがる。運動も出来ないのが閉口だ。もっぱら、サロンのソファーで小説を読む。五味川純平「人間の条件」第一部、第二部、第三部を読了。
 夜、キャブティンの部屋で、アメリカみやげの自動プロジェクターを使って、ぼくが撮ったカラースライドを見せる。ゆらりゆらりと揺れる船の中で、1年8か月にわたる留学生活の映像が、次々に展開する。美しいキャンパスのたたずまい、フットボール試合の熱狂ぶり、夏休みのアメリカ大陸横断旅行、師や友の姿、ハトリシアの家族達・・・・・。もうそれらは、すべて完全にぼくの手の届かない彼方にある。毎日、毎日、勉強に追われて、わびしく、苦しかった留学生活。しかし、それは今、この太平洋の船の上では、何と甘美な、なつかしいものに思われてくることか。
 オレゴン大学では、もう春の学期は始まっているはずである。インターナショナル・ハウスの連中も、勉強に明け暮れるあの生活をまた繰り返しているに違いない。ドクター・キャムブレイは、何時もの温顔で、「セイラム」の煙を、ゆっくりふかしていることであろうか。いろいろと思い出していくにつれて、何かしら、すべてのものに、感謝したいような気持ちになってくる。

 4月4日 土曜日
 バンクーバーB.Cを出発して一週間になる。今日はこの中で最も不愉快を一日であった。人もあろうに、あの鈴木氏が昼間からぐでんぐでんに酔っぱらって、昼食のテーブルでは、まわりの人にまでからみ始めたのである。あきれはてた醜態だ。あれで医学博士で、あれでよく大学講師がつとまる、とつくづく情無い思い。久しぶりに、日本語の世界に戻ってきて、気が弛んだのかも知れないが「酒の上でのあやまち」なら大目にみたがる日本の情けない慣習は、打ち破っていかねばならぬ。
 夜、慶応を出た土居という名の事務会計係の部屋へ本を借りに行ってみたが、まともな本は殆んど一冊もないのに驚ろかされた。部屋の壁には、一面にアメリカ女の裸体写真がはりつけられ、それはご丁寧にも、天井にまで及んでいる。聞かされた話はもっぱら、ポートランドやサンフランシスコで彼が遊んだという女の思い出。そしてこの男は、今年の秋には船を下りて、アメリカ留学するつもりだという。アメリカ留学の目的は女と遊ぶことにあるかのような彼の口ぶりを聞いている中に、アホらしさを通り越して、何だか淋しくなってきた。
 海は相かわらず荒れ模様で、船のスピードも落ちているらしい。一日に280海里(約520キロメートル)ぐらいしか進んでいないのだそうだ。
 今日は何故か、隆邦丸の大野機関長のことが、なつかしく思い出されてならなかった。あの“神様のような”と言われていた人のあたたかい想い出は、いま再び太平洋上の船の中にいて苦い思いをしているだけに、大きな慰めである。

 4月7日 火曜日
 少し風邪気味。くしゃみが出たりする。
 朝、苫小牧の父宛に電報。「一八〇ドセンコエル。一四ヒニツクヨテイ」
 悪天候で、船の横浜到着は1日遅れるらしい。180度線は今朝3時に越えたという。日付変更線だから1日飛ぶが、それは明日の分で、4月8日は消えることになる。
 昼食時、無電室のラジオは、日本の放送を生で捉えて船内に流していた。高校野球で中京商業が勝ち進んでいることなどをニュースで聞く。
 午後、昼寝、風呂。体はまだ少しだるい。夕食後は、本を読むのはやめて、早めに寝ることにする。

 4月9日 木曜日
 日付変更線で1日飛んで、今日はいきなり 9日である。波は静か。レーダーで、はじめて15マイルの近距離ですれ違いつつあるどこかの船影を見せてもらった。
 父より電報、「アンゼンコウカイイノル、一二ヒアサコチラタツ」。
 夕食はスキヤキ。アメリカでは、ずい分インチキなぼくのスキヤキを多くの人々に食べさせて罪深いことをした、などと言ってまわりの人々を笑わせたりする。
 キャブティンの話では、東京港到着予定が14日より更に若干遅れるということなので、また苫小牧へ電報を打つ。「一四ヒヨルカ、一五ヒアサツクヨティ」。
 現在、日本との時差は二時間。NHKのラジオ放送も、生のままでかなりはっきり入るようになった。明日の皇太子の結婚式で、日本中が大分賑やかになっているらしい。高校野球で、中京商業が準決勝に臨むようになった模様もわかった。中京大学は中京商業と同系列の学校であろうが、ぼくもいよいよ、野球ばかり熱心で、勉強にはあまり興味がないような学生達を相手にすることになるのかも知れない。
 いくらか風邪気味。一等航海士に散髪してもらって、風呂に入ったら、せいせいした気分になったが、風邪にはよくなかったらしい。いくらか熱もあるようなので、大事をとって、早目に寝る。

 4月14日 火曜日
 「コンヤツキ、アスアサジヨウリクスル、アトマタシラス」、荻窪の自宅宛電報。
 今日は快晴。太平洋の波をかき分けて船足は好調だが、今日中に上陸は無理とのことであった。
 午前11時頃、はじめて、千葉の犬吠岬がかすかに肉眼に入り出す。いよいよ日本だ。遠くに薄雲のようにかすかな陸影が、きわめて緩慢にその輪郭をあらわしはじめる。犬吠岬を廻って東京湾に入る頃には、もう夕方になっていたが、その間、右側に継続して続く陸地の影像を懐かしむ。すれ違う船の数も、急に増えてきた。荻窪宛、もう一度電報。
 「アスアサ九ジ、ジヨウリクノヨテイ、イサイカイシヤニトイアワセコフ」。
 夕食後は殆んどブリッジに上ったままで、船の進行を見守る。東京湾の明かりが、点々と見え出してきた。午后8時半、沖合い2、3マイルのところまで達し、ここで、明朝の検疫を待つことになった。16日ぶりで、エンジンは止まり、急にシーンとした静寂があたりを支配する。
 東京の夜の街は、遠くに、点滅しているような光の線となって浮き上っている。ひときわ目立つ光の塔は、新しく出来た東京タワーであろうか。
 これでまた、とうとうぼくは日本へ帰って来た。明日からは日本の土をふんで、また日本での生活がはじまる。就寝前、上陸に備えて身廻り品の整理をしながら、ふと、これからのしあわせを、しみじみと祈りたい気持ちになった・・・・・・。

 太平洋を横断する帰国の船旅はこうして終わった。4月15日の朝、横浜の埠頭で、父母や家族、親戚に迎えられ、タクシー2台に分乗して久しぶりの荻窪のわが家へ向かった。父も母もうれしそうであった。私も元気な両親の姿を目の前にしてうれしかった。離れている間は苫小牧に単身赴任している父の孤独や、東京で留守を守っている母の健康なども心配であったが、元気でさえあれば、何も言うことはなかった。荻窪までの途中の道路はまだ簡易舗装が多く、車の窓からみる街の風景も低い木造家屋が密集してごたごたしているのが珍しい感じがした。アメリカについた時と逆のカルチャーショックを受け始めていたかもしれない。それでも、道にあふれているような人々の動きには、以前より何となくも活気があるように思われた。

 私がアメリカにいた1年8か月の間にも、日本の社会は少しずつ変化を見せ始めていたようである。戦後の長い間の貧困から徐々に抜け出して、経済成長率も1957年度には実質9.9パーセント、1958年度は、5.5パーセントを達成するようになっていた。国産初のジェット練習機が空を飛び、富士重工業の新車「スバル360」の発売があり、テレビも普及して、完成したばかりの東京タワーも船の中から見ている。それに4月10日の皇太子の結婚式が加わって、日本の社会にも、明るい展望が開けてきたような雰囲気があったかもしれない。新しく出た1万円札も初めて見たが、これも、日本の経済成長の一つの予兆のようなものであった。

 荻窪の自宅では、4月15日の夕、家族、親戚、それに旧制中学以来の友人の加茂君なども集まって、20人ほどの賑やかな会食になった。アメリカはまだ、一般には渡航できない夢の国で、そこから帰ってきたというだけでも珍しく思われていたかもしれない。私は、会食のあと、ここでも自動スライド映写機を持ち出して、数百枚のアメリカのカラー写真を、スクリーンに映し出して見せた。これは、父と母にも何よりのおみやげになったであろう。コダックのカラー写真の美しさは私にとっても感動的であった。みんなも食い入るようにして、写真の一枚一枚に見入っていた。オレゴン大学の広大なキャンパス、フットボール試合で熱狂する学生たち、オレゴン州一周旅行などの情景が鮮やかに蘇えった。船の中でもみんなに見せたが、何度見てもなつかしい。特にアメリカ大陸を横断してニューヨークへ行って帰った時の写真などは、日本とは全く別世界のような情景である。イエロー・ストーンの温泉、ナイヤガラの滝、エンパイアステート・ビルディング、自由の女神、ニューオーリンズでのミシシッピ川の風景、ソールトレークシティとロッキー山脈等々、見ている間、みんなは感嘆の声を上げ続けた。

 その翌日、私は東京外国語大学の佐藤勇先生のご自宅へ電話で帰国のご挨拶をして、一度、中京大学へ行って帰ってから、19日の日曜日にご自宅へお伺いすることのご了解を得た。就職でお世話になった岩崎学長にも電話をして、次の日の朝、お目にかかることにした。夕方には、父は高岡まわりで苫小牧へ帰るので、父と一緒に家を出て上野駅まで見送った。高岡には、父の会社の取引先の立山アルミ工業がある。今ではこの会社も大きく伸びて、日本各地に支店や営業所を持っているが、当時の社長の竹平栄二氏と専務取締役の上杉秀弥氏は、父と親しかった。社長も人格者で偉い人であったが、専務の上杉氏は、後に高名になる「京セラ」の稲森和夫氏を思わせるような高邁な経営哲学の持ち主であった。何年か経ってからは私も、人間の生き方、ものの考え方などについて個人的にいろいろと氏から教えをうけたりするようになる。

 つぎの日、午前10時半、駒込の岩崎民平学長宅を訪れた。岩崎学長は、当時、研究社の英和辞典などの編者としても有名で、私も学生の頃は、ロシア学科であったが先生の英文科の講義も自由選択して受講している。家も堂々とした立派な造りであった。アメリカから持ってきた大きなコーヒーの缶をお土産に差し上げると、コーヒー好きの先生はたいへん喜ばれた。中京大学学長宛の名刺にひとこと紹介のことばを書いてくださったのをいただいて、私はその日の午後、名古屋へ向かった。久しぶりの東海道線沿線の景色はなつかしかった。しかし、広大なアメリカの景観とはやはりどこか違う。富士山がきれいに見えたが、どういうものか、大きいとも高いとも思えなかった。

 名古屋駅には午後6時過ぎについた。急行で5時間半くらいであったが、昔にくらべると随分らくになった感じである。名古屋は街のなかへ入っていくのはほとんど初めてであった。あいにく雨が降っていた。私はタクシーで中京大学の付近の旅館へ行ってくれるように頼んだのだが、駅からはかなり遠いらしい。タクシーは少し迷い、30分以上も走ってやっと旅館「魚半」に入った。初走80円(2キロメートル単位)のタクシー代は500円であった。私は少しずつ日本円を使う感覚を取り戻しつつあったが、アメリカでなら、これだけ走ると、10ドルは取られたかもしれない。樹木に囲まれた静かな環境のなかのこの旅館は、昔は誰かの別荘だったそうだが、古風な昔ながらの和室の感触に気持ちが和んだ。私はゆっくりと風呂に入り、和食の夕食を楽しんだ後、ぐっすりと眠った。

 翌朝、宿泊費の清算をしたら、1500円だった。この金額は、ドルになおせば4ドルにもならない。これは前にも触れたが、当時の公定為替レートは1ドル360円でも、日本では一般には手に入れることはできなかった。アメリカの大都市の銀行などでは、1ドル420〜30円くらいであったから、帰国して間もない当初は、日本の物価はひどく安いような錯覚をもってしまう。それだけ日本はまだ貧しかったということであろう。ついでに付け加えると、日本で観光目的の海外への渡航が自由化されるのは、東京オリンピック開催を半年後に控えた1964年4月になってからで、この時からまだ5年後のことである。しかし、自由化された1週間後にJTBが主催した「ハワイ7泊9日」の旅行費用は36万4000円もしたようである。当時の国家公務員の大卒初任給(1万9100円)の約19倍もする超高額商品であった。海外旅行は庶民にとってはまだ夢でしかなく、実際にでかけることができたのは一部の富裕層に限られていた。為替レートも引き続き1ドル360円で固定され、観光目的での外貨の持ち出しも、年間500米ドルまでに制限されていた。現在のような完全な変動相場制に移行したのは、それからさらに9年を経た、1973年2月になってからである。

 旅館から中京大学へはゆっくりと歩いて行った。大学は、郊外の昭和区八事本町にある。八事山興正寺の広い森を背にした新しい校舎で、2年前に開設されたばかりであった。今では11学部・17学科・12研究科をもつ総合大学になっているが、当時は、商学部と体育学部しかなかった。学長室で梅村清明学長と会ったが、学長はまだ50代のように若く精悍な顔つきで、教育者というよりは実業家という印象を受けた。この日は挨拶だけで、5月1日からの勤務ということになった。大学の前の道路を挟んで斜め前に中京荘という2階建ての木造アパートがあり、それを大学が全部借り上げて一部の教員と学生たちが住んでいる。その一室に私は住めることになった。事務局長の小山氏から、そのアパートへの入居を含めて、いろいろと事務的な説明を受け、就任手続きの書類などをもらった。それから車で名古屋駅まで送られ、東京へ帰った。

 翌日の日曜日、昼前にアメリカからのおみやげを持って、練馬区の佐藤先生のご自宅を訪れた。行ってみたら、東京外大で一学年下の女子学生であったTさんが、先に来ていた。私は学生時代は、アルバイトに明け暮れていて、ほとんど大学には出席していなかったから、彼女と話し合ったことはなかったが、彼女がクラスではロシア語を誰よりも流暢に話せることを友人たちから聞いて知っていた。佐藤先生は露和辞典の編集などもしておられたから、優秀な彼女は、そのお手伝いか何かの打ち合わせに来ていたのだろうと推測した私は、佐藤先生へのご挨拶もそこそこに、引き揚げることにした。理知的な顔つきで落ち着いた雰囲気の彼女とも、ほんの少しことばを交わしただけで、佐藤先生から昼食を一緒にと勧められたのを辞退して、お別れした。この時のTさんとの邂逅は、実は、大きな意味があったことを、その時の私は知る由もなかった。その日の夕方、私は横浜市鶴見区へ行って、父の親しい知人の塩田三郎氏の邸宅を訪問した。塩田氏は、父が最も信頼している実業家の一人で、私も塩田家では、家族の一員のように扱われていた。食べて、飲んで、話は尽きず、その日の夜は塩田家で泊めてもらった。

 荻窪の自宅では、二、三日、忙しい日を過ごした。大学時代に2年間無償で家庭教師をした小穴君のご両親が、正装をして挨拶に来た。小穴君は後に東京都立西高校教員になった。隣家の丸茂さんや近所の人たちも、私の帰国を聞きつけて、お祝いのことばを述べに来た。友人たちとも、何人かで大いに食べて飲んだ。旧制中学時代から親しい曲田君などは、酔いつぶれてわが家に泊まったりした。荻窪にいる間に、オレゴン大学からは、航空便で最後の期末試験の成績表が届いた。5科目のうち4科目がAで1科目がBであった。GPA(平均成績点)は3.75で、留学時の最初の期末試験成績と同じく最後の試験も「優等」で終えることが出来たようである。その後、私は北海道の苫小牧へ向かった。5月1日まで10日ほどの時間がもてたのが有り難かった。札幌南高校を退職してアメリカへ向かった時の本棚や机などの家財道具は、すべて苫小牧の家の離れに置いてある。それらのうち、必要なものを名古屋の中京荘へ送る必要があった。

 苫小牧では、まず、聖公会のハンセンさんの所へ挨拶に伺った。ニュージャージーのアズベリパークで会った奥さんのフレダも一緒で、食事を共にしながら2時間ほども話が尽きなかった。その2年前、札幌市教育委員会の手違いで、行けるはずのアメリカへ行けなくなったのを、救ってくれたのがハンセンさんである。私は、オレゴン大学の奨学金(授業料免除)とJapan Society(ロックフェラー財団・日本協会)の奨学金で大学院を終えることができたが、当初9か月の生活費に関わる奨学金は、ニュージャージーの聖公会本部から出してもらっていた。ハンセンさんが強力に推薦してくれたお陰で、それがなかったら、私はアメリカへは行けなかったであろう。あとで知ったことだが、札幌市派遣のアメリカ留学は、私の代わりに行った中学教員の福島氏が、カリフォルニア州パサデナの短期大学在学一年だけで帰国して札幌市の中学教員を続けている。1年だけでもアメリカへ行けるということが大変な名誉と恩恵と思われていた時代ではあったが、1年では、大学の学部を卒業することもできない。私は、行くべくしてオレゴンへ行ったということになるのかもしれなかった。

 苫小牧の家にいた間は、父と一緒にいるというだけで気持ちが安らいだ。敗戦で全財産を無くして以来、鉄鋼会社を建てる生涯の夢も破れて、父は苦労の連続であった。前にも触れているが、1948年(昭和23年)に大阪から東京へ移ったころは、家計もどん底で、私は大学の進学も諦めようとしたことがある。父は涙を流しながら私を叱りつけ、仕方なく私は、当時入学試験の後期日程で受験できた東京外国語大学に入ったのだが、入学後も毎日アルバイトばかりで、学校へはほとんど通わなかった。それでも曲がりなりにも卒業し、高校教員になり、アメリカ留学もできたのは、父の強力な精神的支えのお陰である。父は文字通り命がけで子供たちを守ってくれた。畑違いのアルミニューム工場を苫小牧に建て、単身赴任のような形で会社の経営にあたってきたが、経営が軌道に乗るようになってからも、私はいつもそのような父の健康を心配していた。アメリカ留学中に淋しい思いをさせたこともあって、私は一日でも長く父の傍にいたかった。

 1週間を苫小牧で過ごして、私は東京へ帰った。東京では、母と法政大学の哲学科学生であった一番下の弟が家を守っている。二人で、または一人で、苫小牧へ行ったり来たりしていた。私は東京からも、アメリカから持ち帰ったタイプライターや書籍類を名古屋へ送って、5月1日からは中京荘で住めるようにした。その後、中京大学から連絡があって、着任が5月4日(月)と決まり、その日、東京駅発9時の特急「つばめ」で名古屋へ向かった。この特急は、数か月前から運転開始になったばかりで、名古屋駅には午後1時50分に着いた。乗車時間は4時間50分に短縮されたことになる。

 中京大学では、その日は着任の挨拶だけで、事務局の人が、私を中京荘の私の部屋へ案内してくれた。苫小牧と東京から送られた荷物はすでに中に運ばれてあった。部屋は押入れ付きの真新しい6畳一間で、トイレ、洗面所、風呂、キッチンは共用である。私は、食事は歩いて5分ほどの「八事屋」という名の食堂でとることにした。翌日は「子どもの日」の休日で、5月6日に教授会が開かれ、そこで私は教職員に紹介された。教授会では、6月初めの一泊旅行なども検討された。富士五湖めぐりで、河口湖に一泊したあとは自由行動ということで、それなら私はまた東京のわが家へ寄れることになる。学内研究会というのもあって、6月の例会では、アメリカの大学生活について話をしてくれるようにと頼まれ、私は承諾した。研究室もあてがわれて、私は少しずつ、中京大学の雰囲気に馴染んでいった。

 辞令については、文部省宛に私の専任講師任用の手続きをしているところだという。中京大学は、発足早々の大学だけに、講師以上の任用には、文部省の承認が必要であったらしい。私はまだ大学での教職経験はない。大学院を出たばかりでは、最初は助手として採用されるのが普通のようであった。中京大学でも、京都大学の大学院を出たばかりの人を助手として採用してきた先例があった。私の場合も、事務局長のことばでは、「とりあえず」助手としての辞令を出し、文部省の承認が下り次第、専任講師にする、ということであった。私は、5月1日付けで、「中京大学助手として採用する」という辞令をうけとり、後に、文部省の承認を経て、9月15日付けで、「専任講師」になった。

 アメリカから帰国して、すでに1か月近くが過ぎ、気になっていることがあった。シアトルで会った山手君のご両親に、彼の消息を伝えることである。彼の四日市の住所も電話番号も知らされていた。名古屋から四日市はそう遠くはない。電車で1時間もかからない距離である。私は山手君のご両親へ電話をかけ、時間を打ち合わせて、週末の一日、四日市へ向かった。山手君の父君は石油会社の社長と聞いていた。これも聞いて知っていたが、叔父の山手満男氏は、池田勇人、佐藤栄作氏らと同期の衆議院議員である(後には、第一次佐藤内閣の労働大臣になった)。タクシーで山手君の家に着いてみると、大きな堂々とした和風の邸宅であった。ご両親は待ちかねたように私を奥座敷へ招じ入れてくれた。ご両親を前にして、私は、シアトルで別れてきたばかりの山手君のことを次から次へと話した。私自身がひどく驚いたように、彼が見違えるほど逞しく変わり、優しく落ち着いた印象を受けたことも述べた。そして、彼の「いろいろと苦労はあったがアメリカへ来てよかった。僕にはもう何も怖いものはない。日本へ帰ったら、乞食をしてでも生きていける」ということばを伝えると、山手君のお父さんは大きく頷き、じっと耳を傾けていたお母さんは、ぽろぽろと、大粒の涙を落とした。

  文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名である。
  
    
(2016.08.01)





     悲しみに暮れた歳末の北帰行   (身辺雑記 No.108)
      = 生かされてきた私のいのち (37)=


 1959年(昭和34年)の5月から、中京大学では週に6時間英語を教えることになった。担当は、体育学部1、2年生の英語購読と、商学部2年の英文学である。教務担当の教授から、この「英文学」の分担を聞いたとき、私は驚いて、英文学専攻ではないから教えられない、と言ったら、英文学作品をテキストに使って、英語を教えてくれればいいのだという。履修者名簿をみると、1、2年生の英語購読は、それぞれ50人ほどのクラスであったが、商学部2年生の英文学は、160名になっている。私はまた驚いた。160名を相手にして英語など教えられるものではない。しかし、この大学では、そのような無理なクラス編成も、教員は受け入れねばならないようであった。私は、この英文学のクラスでは、マイクを使いながら、終始、緊張した授業を強いられることになった。

 6月5日、金曜日、私たちは予定されていた一泊の懇親旅行に出発した。中京大学と中京商業高校の教員合同で、約100名の参加者が午前8時、名古屋駅発の列車で富士へ向かった。私にとっては、日本でこのような団体旅行に参加するのは、その3年前、昭和31年(1956年)の秋に、札幌南高校の修学旅行に参加して以来である。やはり旅行は楽しかった。まだ着任して日も浅い私は、車中でいろいろな先生方と親しくなることができた。いつの間にか日本国内の旅行も贅沢になっていて、貸し切りの車内では、豪華な弁当が配られ、ビールや日本酒なども飲み放題で、宴会をしながら旅をしているような趣になった。少し離れた車内では、中京商業高校の若い教員の一人が、完全に酔っぱらってしまって、富士駅に着いたときには、ほとんど人事不省になっていたというようなこともあった。

 富士駅からは観光バス2台に分乗して、富士五湖めぐりに出かけた。生憎の曇天で、富士山はまったく見えない。本栖湖、精進湖、西湖の順にバスは廻っていったが、折角の湖の景観が鉛色の空のもとで重苦しく霞んでしまっていた。河口湖まできて、その日は、湖畔の富士レークホテルに入った。温泉に入ったあとは、大広間で宴会が始まったが、これはあまり品のいいものではなかった。幹事役の老教授は、宴会の席上で、猥談めいたスピーチで雰囲気を盛り上げようとしていた。留学から帰ってきてまだ日の浅かった私は、アメリカで感じていたのとは逆のカルチャーショックのようなものを感じていたかもしれない。翌日は朝から雨であった。観光バスで山中湖まで来たところで、自由解散になった。私は電車で東京へ向かい、その日の午後からは荻窪の自宅で過ごした。

 私がアメリカへ留学してから、2年ほど経っていたが、その間に、日本はやはり、確実に少しずつ、豊かになっているようであった。前にも少し触れたが、1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)における朝鮮戦争の特需によって、日本経済は大幅に拡大された。それが、1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までには急激な好景気が訪れて、世間では神武景気などと言われていた。その間、1956年(昭和31年)末には景気が大幅に後退したりしたこともあって、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられたりしていたが、その段階で、私はアメリカへ出かけている。しかし、その後、1958年(昭和33年)7月、私がまだアメリカにいる間に、景気はまた急速に持ち直して、神武景気を上回る岩戸景気が起こっていた。私が帰国して中京大学に勤め始めたころは、まだ好景気が続いている最中で、日本は、高度経済成長時代に入っていたのである。好景気によって若年サラリーマンや労働者の収入が増えはじめ、この頃から、国民の間に「中流意識」がひろがっていった。

 庶民レベルの生活でも、少しずつ、豊かさの実感が広がり始めていたかもしれない。何よりも、コメが自由に好きなだけ買えるようになった。コメの配給制度はまだ続いていたが、増配のために全国平均のヤミ米価格が、公定価格を下回るようになったのである。米屋さんが顧客にコメを買ってくれるように頼んで回るという珍現象も起こっていたようである。明るいニュースもいくつかあった。その年、1959年(昭和34年)には、4月10日に皇太子の結婚があって、私はそのニュースを、帰国直前の船の中で聞いている。4月20日は、私の誕生日だが、その日には、当時の国鉄が、新丹那熱海口で、東海道新幹線の起工式が行われた。東京―大阪間を3時間で走るというのは、夢のような話で、それが実現に向けて一歩を踏み出したわけだから、そのニュースの印象は強かった。そして、5月26日には、1964年東京オリンピック開催がIOCで決定された。このビッグニュースも日本中を沸かせた。

 当時、「三種の神器」といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫の普及も進んでいた。荻窪のわが家にも、買ったばかりの真新しい白黒テレビがあった。これも前に少し触れたが、国産初の14型が発売された1953年(昭和28年)当時は1台25万円〜30万円前後で、サラリーマンの月給の10倍もしていたから、文字通り高嶺の花であった。それが、私が帰国した1959年には5〜6万円程度にまで下がっていた。わが家のテレビも5万数千円で買っている。しかし、これでも、中京大学で私が最初にもらった月給が、17,200円であったから、14インチ型白黒テレビ一台の値段は、私の給料の3か月分に相当していたことになる。テレビの世帯普及率は、おそらくまだ20パーセント台で、これが30パーセントになり、NHKのテレビ受信契約数が500万人に達するには、さらにその一年後の、1960年8月になってからである。

 このような日本経済の高度成長とは裏腹に、一部の地方では、深刻な公害問題が発生していることを、当時のテレビは生々しく伝えた。日本の化学工業会社チッソの熊本県水俣工場が水俣湾に流した廃液による水銀汚染で水俣病を惹き起こしたのである。これは、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気で、公害の原点ともいわれた。水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぎ、魚を食べた住民の奇病が急増して、多くの人々が死んでいった。1956年(昭和31年)にすでにそれらの奇病の発生が確認されていたのだが、その年、1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されて、チッソに非難が集中するようになった。初めのうち、チッソは、「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」であると有機水銀説に異を唱えて、患者や死亡者に対する補償にも応じようとはしなかった。後に私たちは、そのような大企業の人命無視を告発した石牟禮道子さんの『苦界浄土』で、その悲惨な犠牲者の怨念の声を聞くことになる。チッソの無責任で冷淡な対応を非難した犠牲者の一人は、その怨念をこう吐き出している。

 銭は一銭もいらん。
 そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ばのんでもらおう。
 上から順々に四十二人死んでもらう。
 奥さん方にも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。
 そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。
 あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。
 それでよか。

 石牟禮さんは、そのことばを、「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と述べている。当時の日本経済の高度成長の陰には、このような名もなき一般庶民が一方的に大企業の業績拡大の犠牲になっていたことを忘れることはできない。実は、その頃、あの豊かなアメリカでも、環境汚染が進行しつつあった。それまでところかまわず撒かれていたDDTなどの有機塩素系農薬や毒性の強い有機リン剤が、現実に小鳥や益虫を殺しているばかりでなく、住民の生命まで脅かし始めていたのである。ミシシッピ川で汚染による水中酸素の欠乏のため、魚が数百万単位で死んでいくというニュースが流れたりしていた。アメリカの高度な現代文明の発達のなかで、「人間は母の胎内に宿った時から年老いて死ぬまで、恐ろしい化学薬品の呪縛の下にある」とアメリカの女流作家レーチェル・カーソンが、『沈黙の春』を書き始めたのもその頃である。

 ともあれ、アメリカ留学を終えたばかりの私は、このような環境汚染問題を惹き起こしながらも、高度経済成長の波に乗っていた日本社会の中で、新しい勤務先に慣れていこうとしていた。私は大阪生まれだから、大阪が好きだし、京都や奈良の風土や民情にも親しみを感じていた。しかし、名古屋は、言葉も含めて、人々の雰囲気は大阪や奈良・京都とは違う。東京や札幌のようでもない。どこか馴染みにくいものがあった。中京大学での授業も、やはり、あまり楽しいものではなかった。英語の学力が不十分な学生が少なくなく、学習意欲も高いとはいえなかった。週に6時間だけとはいえ、少しでも効果的に授業を進めていこうとする試みには、大きなエネルギーと対策の時間が必要であった。中京大学には、「学問とスポーツの真剣味の殿堂たれ」という校訓のようなものがあって、教室の壁などにそれが額縁に入れて掲げられている。伝統的に、スポーツを大切にする大学の方針には特に異を唱えるつもりはなかったが、野球の大学対抗試合のような時には、授業を一斉に休講にして、教員も学生も全員で貸し切りバスに乗って応援に出かけるという風潮には、私は、ちょっとした違和感を感じざるをえなかった。

 5月下旬に、学内研究会で、スライド写真の映写を交えて、「アメリカの学生生活」と題する2時間の講話を終えた後、6月中旬には、資料をまとめて「アメリカの教育とその社会的背景」というタイトルで研究発表を行った。出席者は、学長を含めて十数名で、質疑応答が行われた。これはその後、論文にして、中京大学の「中京論叢」に発表した。帰国後、初めての論文である。この研究発表会が終わってまもなく、東京の佐藤勇先生から大学へ電話での伝言があった。教務課の職員がその伝言を受け取ってくれたが、6月20日、土曜日の午後5時半から、栄町の中華料理店平和園で、東京外国語大学の名古屋支部同窓会が開かれるからそこで会いたいとのことであった。行ってみると、学長の岩崎民平先生のほか、英語の小川芳男先生、ロシア語の石山正三先生も来ておられた。私の中京大学就任でお世話になった南山大学の直井英文学部長とも、その席でお会いした。

 支部同窓会は、60人ほどの出席者で、盛会であった。2時間ほど、賑やかに懇談が続いて閉会になったあと、佐藤先生に誘われて、二人で近くの喫茶店へ移った。そこで、思いがけなく、佐藤先生から、この間、佐藤先生のお宅へ帰国のご挨拶に伺った時にたまたま逢ったTさんの写真と履歴書を渡された。先生に、Tさんからの「結婚のプロポ―ズを頼まれた」と言われて、私はちょっと驚いた。Tさんのお姉さん二人も、大学教授のところへ嫁いでいる、というようなことも言われた。佐藤先生も、この「プロポーズ」には、賛成であったのであろう。もしかしたら、帰国のご挨拶に先生のお宅へお邪魔した際、たまたまTさんが来ていたのは、見合いのような意味があったのかもしれない。私に対する先生のご厚意は有り難かった。しかし、このようなプロポーズの仕方を急に目の前にして、私は戸惑っていた。

 私はもう29歳にもなっていて、結婚について考えるのに決して早すぎる歳ではなかった。父も母も、私の結婚に大きな期待と希望を抱いているらしいことも感じていた。父が、かねてから、父の信頼する横浜市鶴見区の実業家・塩田三郎氏に、結婚相手を探してくれるよう依頼していることも知っていた。塩田氏からも、私と会って一緒に飲んだりするような時などに、時々、父の願望などを聞かされていた。私に勧めたい女性がいるような口ぶりもあったような気がする。私は、アメリカ留学から帰るまでは勉強に追われる毎日で、結婚のことについて考える余裕もまったくなかったが、それでも、どこかに頭の中で、塩田氏の存在が、結婚については安心感のようなものを与えてくれていたかもしれない。それが、急に、佐藤先生からの縁談に直面することになった。一日、二日、熟慮した後、私は履歴書にあるTさんの住所宛に、手紙を書いた。

 ・・・・・・結婚には、いろいろと条件が揃うことが大切だと思いますが、その中でも、結婚することによって二人が必ず幸せになれるという冷静な判断が必要であり、そのためには、二人がお互いに心の底までよく理解しあい、深く強い愛情で結ばれていなければならないと考えます。従って、そのような前提条件がなければ、ぼくの分に余るどのように素晴らしい縁談があっても、また、それに対してぼくがどのように強い「誘惑」を感じたとしても、その話は直ちに受けるべきではなく、それが相手の人に対しても、自分自身に対しても、本当の意味で、誠実な態度であろうと思います・・・・・・、というようなことを、私は手紙に書き始めた。あるいは、この縁談も、「プロポーズ」ではなくて、「交際を始めたい」というような申し込みからスタートしていたなら、私は、このような手紙を書くこともなく、違った対応をしていたかもしれない。私は、佐藤先生へも手紙を出して、先生のご厚意に添うことのできなかったことをお詫びした。

 私は、中京大学へ赴任したあとも、ほとんど週末ごとに、東京の自宅へ帰っていた。東海道線の電車も便利になって、名古屋から5時間ほどで、東京へ着くようになっていたのは有り難かった。7月下旬から8月初旬にかけて、わが家では大きな出来事があった。それまで住み慣れた家を売却して、父が購入してくれた荻窪駅により近い新築の家に引っ越しをしたのである。新しい家は、荻窪駅から徒歩10分くらいの閑静な住宅街にあって、門から玄関までの間は細長い前庭になっている。中に入ると、玄関脇の3畳の和室のほか、8畳と6畳の和室、6畳の洋室、それに6畳ほどのダイニングキッチンがついていた。8畳と6畳の和室の南側には板敷の縁側があって、陽当たりがよく、庭は20坪ほどであまり広くはないが、金木犀や百日紅の木などが植えられている。苫小牧の家では、お手伝いさんが家事の世話をし、離れに妹夫婦が住んで、父の事業を手伝っていた。荻窪には、母と法政大学の学生であった弟が住み、時々、苫小牧との間を往復していた。引っ越しが終わって少し落ち着いたころ、中京大学も夏休みに入り、私は、荻窪の新居に2、3日滞在した後、苫小牧へ向かった。

 それから約1か月、私は苫小牧で父と共に過ごした。父は、少し疲れているようにも見えたが、いつものように明るく元気であった。ハンセンさんとも何度か会っている。苫小牧から太平洋岸の海岸線を東南に下っていくと、一時間ほどで鵡川のほとりの平取に着く。その当時は、まだ苫小牧港は掘削されていなかった。平取に聖公会の教会があって、近くには、アイヌの人々の集落もある。ハンセンさんの車に乗せてもらって、教会での集会に参加したり、アイヌの集落を訪れたりした。私はここで、イギリス人の聖公会宣教師ジョン・バチェラーの養女となっていた八重子バチェラーに会っている。八重子さんは、アイヌ豪族の向井富蔵の娘で、1908年(明治41年)、ジョン・バチェラーに連れられてイギリスに行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命された人である。短歌の歌集『若きウタリに』などの著書もある。その時、元気に話し合った彼女は、その3年後、1962年に関西旅行中、京都で亡くなった。77歳であった。

 苫小牧にいる間に、私は札幌へも出かけて、かつての札幌南高校の教え子たちにも会っている。教え子の一人の家に、40人ほどが集まって、私はアメリカ留学中に撮ったスライド写真を見せながら、アメリカの学生生活や、アメリカ旅行の話をした。2年ぶりの教え子たちとの再会は楽しかった。その頃、姉たちも東京から来て、みんなで登別へ行き、温泉ホテルに泊まったりしている。洞爺湖や支笏湖にもみんなで行った。家族が多く集まるというのは楽しいことである。父も嬉しそうであった。しかし、その父が、8月下旬に胃痛を訴えるようになった。数日経ってもよくならないので、嫌がる父を説き伏せて、苫小牧市立病院に入院してもらい、治療を受けることにした。父は強靭な精神力と忍耐力の持ち主で、仕事には熱中するあまりいつも過労に陥っているのではないかと心配であった。この機会に、病院でゆっくり休んでもらえばいいと思ったりした。入院1週間ほどで、主治医の松井医師から、腹具合も治まったからと言われて父は退院し、私も一安心して、9月8日に東京へ帰った。

 夏休み後の授業が始まって、学生たちとの接触にもだんだん慣れていった。クラスによっては、かなり熱心に反応し、私もやりがいを覚えるようになっていた。金曜日には私の受け持つ授業はなかったので、木曜日か金曜日には、たいてい東京へ帰っていたが、9月25日からの週末は、台風第15号が日本に接近して東京の天気も荒れ始めていた。翌日26日には、この稀に見る大型の台風は、強い勢力を保ったまま、遂に潮岬に上陸して、紀伊半島から東海地方を通過し、東海地方のみならず、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした。人的被害は、紀伊半島の和歌山県、奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県を中心に犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人にのぼった。全壊家屋36,135棟、半壊家屋113,052棟、流失家屋4,703棟、床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻等の記録も残っている。この台風は、明治維新以来最大の被害を出した台風で、後に「伊勢湾台風」と呼ばれるようになる。

 この伊勢湾台風で、被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災したといわれている。中京大学でも、教職員と学生の十数人が被災者になった。なかでも、経済学の鈴木教授の場合は、自宅が全部水で流され、高校生のご長男が押し寄せてきた流木に挟まれて死亡している。数日後、大学で顔を合わせたとき、鈴木教授はすっかりやつれ果てていた。お気の毒で、私はお慰めの言葉も出なかった。大学は、10月2日まで臨時休校になった。予定されていた前期試験も延期された。私が住んでいた中京荘の部屋も、私の留守中、台風で窓ガラスが割れ、雨風が吹き込んでいたようだが、有り難いことに、中京荘に住んでいた学生たちの何人かが、ドアをこじ開けて中に入り、机や書籍、布団類を別の安全な部屋へ運んでくれていた。濡れた畳の一部も入れ替えたりして、やっとまた、もと通りの生活に戻れたのは、10月5日以降である。

 10月14日の朝、学校へ行ってみると、教務課の掲示板に、私の専任講師資格が文部省に承認されたという掲示が出ていた。9月15日付けの辞令ももらって、月給も2万円近くに上がった。当時はまだ、日本の好景気は続いていたようで、輸出量も戦前の水準を回復して、経済成長率も、年率で実質10パーセントにもなっていた。池田内閣が、所得倍増計画を発表したのは、その一年後のことである。私は名古屋でも、時間があれば栄町あたりの映画館へよく出かけていたが、繁華街の人通りにも、活気が感じられるようになっていた。

 中京荘では、教員では私のほかに、社会学担当の南谷教授が住んでいた。もう高校生のお子さんが二人もいるが、実家は三重のどこかで、中京大学へは単身赴任していた。円満な人柄で、私は時々、夕食時には南谷さんの部屋へお邪魔して、一緒に日本酒やビールを飲むのを楽しみにしていた。たまには、近くに住んでいる法学担当の沢登助教授もやってきて、3人で飲みながら大いに歓談することもある。沢登さんは、私より3歳上で、京都大学法学部の出身であった。優秀な学者で、後年、新潟大学の教授になって法学関係の多くの著作を出版している。晩年には自らの哲学的研究の成果をまとめた『宇宙超出論』なども刊行した。その沢登さんは、あるいは霊感が人一倍発達していたのかもしれない。当時、手相占いの名手として、知る人ぞ知る存在でもあった。沢登さんから手相を見てもらった女子学生が、決して他人が知っているはずのない内面の悩みや苦しみを正確に言い当てられて、わっと泣き出したという話を、誰かから聞いたこともある。

 11月の初めであったか、ある日の夕、南谷さんの部屋でいつものように3人で鍋を囲みながら酒を飲んでいた時、沢登さんは、急に私の手相を見てやろう、と言い出した。私は手相占いのようなものには関心もなく、信用もしていなかったので、断ったのだが、沢登さんは、「まあまあそう言わないで見せてください」と言って、私の手相をしげしげと見つめ始めた。その時いろいろと言われたことは記憶にない。しかし、ただ一つ、今でも鮮明に記憶していることがある。沢登さんが、「あなたは近いうちに結婚しますね。数か月以内には、必ず結婚します」と言ったのである。私は笑い出した。それなら私にはすでに結婚話が進行していなければならない。「それは間違いです。絶対にそれはあり得ません」と私は答えた。それでも沢登さんは、「結婚する」と言い、私は「しない」と言い張って、それを聞いていた南谷さんも笑い出し、その話はそれで終わった。私はその時、酔った頭で、Oさんのプロポーズを断ったことを思い出し、その余波のようなものが私のどこかに残っていたから、それを沢登さんが勘違いして感知したのではないか、と考えたりした。しかし、沢登さんのこの予言は、重大な意味を持っていたことを、後に、私は知るようになる。

 11月15日の日曜日、この日は、中京大学主催の英語弁論大会が中京大学で行われた。朝日新聞社後援で、審査員は、英語担当の室橋教授と私のほか、アメリカ領事館の副領事パーキンズ氏と領事館員の大阪外国語大学卒業生・水上氏の4人である。参加者は、名古屋市内から高校生19人が集まった。中京大学の名を広めるためにも、この種の行事には、梅村学長も熱心であった。参加者のなかから、1位、2位、3位までに、賞状と賞品を授与したあと、学長は私たち審査員4人を、昭和区八事の料亭八勝館へ招待してくれた。通されたのは、昭和25年の愛知国体の際、昭和天皇・皇后両陛下の宿泊所になった御幸の間である。アメリカ領事館の副領事がいたからかもしれないが、過剰接待のような気がした。私たちは、豪華な料理と酒を楽しみ、パーキンズ氏と水上氏は、学長から謝礼の袋とお土産ももらって、車で送られ上機嫌で帰っていった。

 英語担当の室橋教授は、古い東京外国語学校時代の英文科の卒業生である。家が大学の近くであったので、時々、私を夕食に招待してくれたりした。室橋さんは、フランス語の古橋教授と親しく、11月下旬、私を誘ってくれて、3人で長野県湯田中の渋温泉へ出かけたことがある。宿泊した「ひしや旅館」で、ゆっくり温泉に浸かって、夕食時にはご馳走を前にして飲みながら遅くまで歓談した。翌朝、バスで志賀高原の丸池まで行ったが、遠くにはすでに雪を頂いている日本アルプスやその麓に広がる雲海なども眺めることができて、粗削りでスケールの大きなアメリカとは違った繊細な山並みの美しさを感じさせられた。その丸池には、その数年前、東京外大卒業の前年、ロシア学科のクラスメイト数人で行ったことがあったが、その頃はみんな貧乏で、持参のテントを張って、食事も自分たちで作って食べている。

 長野旅行から暫くして、私はまた、室橋さんの自宅の夕食に招待された。室橋さんにはお子さんはなく、奥さんと二人で住んでいる。日本酒を飲みすき焼きをご馳走になって、食後のよもやま話のあと、室橋さんは、ふと思い出したしたように奥の部屋から写真と履歴書を持ち出してきて、テーブルの上に置き、こういう縁談があるのだが、と切り出した。私に勧めているようであった。相手は、名古屋の製菓会社の社長の娘で、県立女子大国文科出身の24歳だという。私はどういうものか、その頃はまだ、結婚話には乗り気になれなかった。その何週間か前に、法学の沢登さんに、近いうちに必ず結婚すると予言されたときにも、本気で、そういうことはあり得ないと思い込んでいた。室橋さんは先輩だが、同僚の気安さもあって、その時も、笑い話に紛れさせて、写真と履歴書も手に取って見ようともしなかった。一度見たうえでそのまま返したら、失礼だと思ったわけでもない。私はそのあとちょっとまた歓談を続けて、写真と履歴書はテーブルの上に残したまま、室橋さんの家を辞している。

 12月も半ばを過ぎる頃になると、街ではクリスマスのデコレーションが目立つようになってきた。私には、クリスマスどころではなかった貧しい頃の年末の印象が強く残っていたが、これも日本が豊かになってきた一つの象徴であったかもしれない。留学から帰ってきて最初のクリスマスで、アメリカには、私がクリスマスカードを送る予定の友人、知人が沢山いる。クリスマスプレゼントを贈りたい人も、少なくはない。私はせっせとクリスマスカードを書いて送り、栄町のデパートへ出かけて、何人かにプレゼントを選んで送る手続きをすませた。

 ちょうどその頃、苫小牧の妹から、父がまた胃痛などを訴えるようになったので、苫小牧市立病院に入院することになった、という手紙が届いた。当時はまだ、電話は一般に普及しておらず、中京荘にも電話はなかった。私が苫小牧や荻窪の自宅へ電話をかける場合も、郵便局へ出かけて、長距離通話を申し込み、電話局の交換が繋いでくれるまで、高料金の「至急」でも1時間も2時間も待たねばならなかった。妹からの手紙はちょっと心配であったが、夏に入院した時には、1週間ほどで退院している。今度もまた、1週間もすれば退院できるであろうと私は思った。もう少しで、大学も冬休みに入る。私は冬休みに入り次第、苫小牧に行くつもりにしていたが、とりあえず、東京の弟に連絡して、苫小牧へ行き、父に付き添うように頼んでおいた。母は持病の胃病で医師の往診をうけていたので、旅行するには無理があった。

 一週間ほどが過ぎて、冬休みに入る二日前の午後、大人数の学生相手にマイクで「英文学」の授業を行っていた時、教室のドアが開いて、教務課の職員が入ってきた。私に一礼して一通の至急電報を差し出した。その時の授業は、もう少しで終わるところであったが、至急電報だから、授業中でも届けてくれたのであろう。電報は苫小牧の弟からであった。市立病院で父が手術を受けた結果、重度の肝臓がんであったことが判明したというのである。目の前がすっと暗くなった。私はやっとのことで、その授業をなんとか切り上げ、翌日、冬休み前に残っていた一つの授業を休講にしてもらって、慌ただしく身の回りの荷物をまとめて、東京へ向かった。夜遅く、荻窪の自宅に着いたが、私は母には平静を装って、父の肝臓がんのことは何も知らせなかった。翌日の朝、私は悲しみを母に覚られまいとして無理に笑顔を見せたりしながら家を出て、上野駅から苫小牧へ向かった。

  *文中の人名は特にその必要がないと思われる場合を除き仮名である。
  
    
(2016.10.01)





      新しい夜明けを迎えることもなく    (身辺雑記 No.109)
       =生かされてきた私のいのち (38)=


 苫小牧に着いた私は、すぐに苫小牧市立病院へ向かった。3階の個室で新聞を読んでいた父は、少し痩せているようだが見た目には元気そうであった。私は中京大学で書いた私の最初の論文「アメリカにおける社会階層と教育の諸問題」の小冊子を父に見せたり、名古屋での生活ぶりを話したりして、話題を病気からは逸らせようとしていた。その3か月前、私が夏休みに苫小牧にいた時には、父は確かに腹具合が悪いからということでこの病院に入院した。しかし、主治医の松井医師から、よくなったといわれて2週間足らずで退院しているのである。それからたった3か月、いまさら肝臓がんで手の打ちようがないというのはどういうことか。

 私は松井医師に会って、その説明を求めた。松井医師は40代の温厚な人柄である。誠意を尽くしていろいろと説明してくれたが、要するに夏の段階では肝臓がんを見落としていたのである。父にはがんであることを伏せながら、痛み止めを含めてできるだけの治療を続けているという。私は崩れ折れそうになるのを懸命に耐えていた。医師の過失であれ未熟さであれ、いまさら過ぎたことを問題にしても仕方がない。それでも、何とか父を救う方法はないのかと、私は松井医師に同席してもらって院長にも会った。何枚ものレントゲン写真を前にして、院長も肝臓がんでこの状態では処置の施しようがない、と言った。

 院長も松井医師も北海道大学医学部の出身で、苫小牧市立病院の医師は、北海道大学系が多かった。彼らの北大時代の指導教官であった中川先生が、がん治療の権威といわれて、当時、札幌医科大学の学長を務めていた。私は院長に対して、中川先生に父の診察をしてもらうことを強く要請した。苫小牧と札幌の距離は約60キロである。道路はまだ舗装されていなかったので車で2時間近くかかる。私は院長を説き伏せて、中川先生に往診を承諾してもらい、翌日、迎えのハイヤーを札幌へ送った。

 中川先生は、午後、苫小牧市立病院に着いて、院長と松井医師を伴い、父の診察をした。その後しばらく医師団の話し合いがあって、私は院長室で、中川先生から所見を聞かされた。松井医師の診断と同じであった。末期がんで、この段階では見守るほかはなく、余命は3〜4か月と告げられた。私はうなだれてそれを聞いているしか為すすべもなかった。一縷の望みも断たれた。一大事であった。子供の頃の私は、父が死ぬようなことがあれば自分も生きていることはできないと考えていた。いまその父が死の宣告をうけている。私は涙が出そうになるのを懸命にこらえていた。父の病室に入るときには、呼吸を整え、必死に平静を装っていた。

 中川先生は、父の診察を終えたその日の夕、院長と松井医師を含めた病院の医師たち十数人に囲まれて、苫小牧の料亭での夕食会に出席した。苫小牧市立病院の医師たちにとっては、大学時代の恩師を迎えて忘年会のような気分であったろう。その時の彼らは私とは全く違う別世界にいた。それはそれで非難されるべきことではなかった。その夕食会が終わった頃、私は料亭へ出かけて中川先生に会い、手配しておいたハイヤーで札幌へ送り出した。先生にわざわざ札幌から来ていただいたお礼のことばを述べながらも、私はひどく辛い気がしていた。

 弟と妹を病室に残して、重い気持ちを引きずりながら私は人気のない苫小牧の家へ戻った。悲しんでばかりもいられなかった。父の余命が最短で3か月とすると、その3か月にしなければならないことを必死になって考えた。一日、二日、考え続けて、つぎのことを決めた。
  1.中京大学は辞めて、苫小牧付近の大学へ転職する。
  2.父の最大の期待であり喜びであるはずの私の結婚を父が生きているうちに実行する。

 中京大学の授業は1月末でほぼ終わり、入学試験も2月中旬には終わる。それからは実質的には春休みである。少なくとも最後の1か月くらいは、私は継続して父の傍で過ごすことができるはずであった。私は梅村学長へ手紙を書き、事情を詳しく記して、3月末で辞職したい旨を伝えることにした。転職先としては、苫小牧には当時はまだ大学はなかったので、室蘭の室蘭工業大学と札幌の北海道教育大学へ転職希望の手紙を出すことにした。急な転職希望で、時期も遅すぎる。先行きが全く見通せなかったが、ほかに取るべき道はないように思われた。

 問題は、私の結婚であった。東京外国語大学の佐藤先生や中京大学の室橋さんからの縁談を受け入れなかったことはあったが、私に相手がいたわけではない。ただ、横浜市鶴見の父の親しい実業家・塩田さんが私の結婚を考えてくれていることは知っていた。私は塩田さんに手紙を書き、父の生きているうちに結婚して、出来れば新婚夫婦でほんの少しでも父の看病をしたい、と切羽詰まった気持ちを伝えた。父の死んだあと、父の知らない人と結婚するという考えには耐えられなかった。

 1959年の年の暮は慌ただしく過ぎていき、1960年の正月は、病室で父の傍で過ごした。信仰心の厚い父に代わって、近くの神社に初詣をした。父には、会社を手伝っていた妹夫婦と2歳になろうとする長女、それに弟と私が交代で付き添っていたが、東京で留守宅を守っている母も呼び寄せなければならないと思った。鶴見の塩田さんからは、速達便が届いて、父への見舞と、東京へ帰ったら一度自宅へ来てくれるようにと伝えてきた。私は1月3日に苫小牧を発ち、塩田さんに連絡したうえで5日に鶴見へ行った。

 塩田さんは、年末の私からの手紙で、私の結婚のことをいろいろと心配してくれていたようである。私は知らなかったが、塩田さんには鎌倉に住んでいた姪がいて、その姪の Cさんをかねてから私の結婚相手の候補として考えていたらしい。私の手紙を読んで、塩田さんは正月に鎌倉へ行き、早速Cさんに打診してみたという。ところが、そのCさんには付き合っていた人がいて、クリスマスには婚約を済ませたばかりであることがわかった。塩田さんは残念がっていたが、ほかにも心当たりがないわけではないから、努力してみると言ってくれた。

 新年の中京大学の講義は1月6日からであった。私は梅村学長に会って、すでに手紙に書いたことを繰り返し述べて、不本意な退職願を出したことを深くお詫びした。梅村学長は私の事情を理解してくれたようであった。「自分の娘と結婚して将来は大学を継いでもらおうと思っていたのに残念だ」とも言ったが、私にはただ空しく虚ろに響いた。悲しみを振り切るように、残された最後の授業に没頭して、1月下旬からの期末試験も終えた。2月14日の日曜日に入学試験があり、その採点などの学務が終わると、中京大学では冬休みに入った。私は、それまでの間、毎週、名古屋と東京を往復し、日程を遣り繰りして、苫小牧にも一度行っている。

 前年の暮に出しておいた室蘭工業大学と北海道教育大学への転職希望の手紙に対して、北海道教育大学からは、教官の欠員はなく、公募の予定もないことを知らせてきた。ところが、室蘭工業大学のほうは、1月下旬、思いがけず大賀悳二学長から直々に手紙が届いて、正式履歴書、論文業績一覧表などを送ってほしいといってきた。その後、選考委員会で協議した結果、専任講師として採用を検討している旨、伝えてきた。教官定員1名の増加が文部省に承認され、大蔵省の予算措置を待っている状況であったらしい。やがてそれも無事に通って、2月22日付けで、事務局長から採用決定の通知書を送ってきた。たまたま室蘭工業大学の教官定員増と私の転職希望が重なって、不幸中の幸いであったといえるかもしれない。中京大学の割愛承諾書も届いて、4月1日付けでの私の室蘭工業大学専任講師就任が確定した。

 鶴見の塩田さんは、私の結婚相手探しに熱心に動いてくれていて、2月上旬には二人の候補が浮かび上がっていた。そのうちの一人は、塩田さんの知人で、鋼材会社社長の長女の Iさんであった。もう一人はYさんで、これは父からその名前が伝えられていたらしい。塩田さんは、私と Iさんとの見合いの席を設定し、Yさんの家へは自分で出かけて両親に会い、私との交際を認めてもらっていた。塩田さんは、IさんともYさんとも会っていた。どちらも人柄がよく、甲乙をつけ難いと塩田さんは言っていた。

 2月の12日に、私は親代わりの塩田さん夫妻とともに、Iさんと横浜の料亭で会った。相手の両親も同席した。Iさんの父親はかなりの資産家だそうで、関東一円にいくつかの支社や工場をもっている。Iさんは、女子大英文科を前年に出たばかりで、卒業後は、父親の会社の本社秘書課に勤めていた。ゴルフが趣味で、休日にはよくゴルフにでかけているらしかった。見合いの後、2,3日経って、塩田さんを通じて Iさんからの返事があった。婚約には異存はないが、北海道への転職はやめて東京に住むことはできないか、と言ってきているという。

 それを聞いて私は内心で苦笑した。金持ちの傲慢さかな、と思った。こんな小さな国に住んでいて、東京も北海道もないだろうという気持ちが私にはあった。塩田さんは実業家であるだけに、Iさんのお父さんが多くの資産を築き上げてきた事業経営能力を高く評価していたが、私は、資産家に対する羨望のようなものは、殆ど全く持っていなかった。これは、贅沢を好まず、金銭には至って無欲恬淡な母の資質を受け継いでいるからかもしれない。Iさんとの話はそこで終わった。

 塩田さんに紹介されて以来、私はYさんとも何度か会っていた。文通も始めていた。Yさんは、実は、私たちが前年の7月まで住んでいた家の近くの人である。父は隣近所の付き合いを大切にしていたから、毎年、盆暮れには、北海道から昆布やシシャモ、鮭などの特産品を数軒の家に配っていた。これは後で知ったことだが、私が新潟の栃尾高校に赴任中、父がたまたま苫小牧から東京へ帰ってきて荻窪の家にいた時、Yさんのお母さんが、特産品をもらったお礼かなにかで来訪して、父に会ったことがあるらしい。栃尾高校定時制の川又主事が、教育者であった自分の父の教え子だと言っていた話を私も聞いたことがある。Yさんのお母さんは父にYさんのこともいろいろと話していたかもしれない。母もYさんのことは知っていた。それで父は、Yさんの名前を憶えていたのであろう。

 それまでの私は、学生時代のYさんと家の近くの道で一度すれ違ったことがあるだけで、彼女とことばを交わしたことはなかった。Yさんは、女子短大家政科を出て、お茶の水の法令関係の出版社に勤めていた。私より6歳下であった。日本文学書が好きで、井上靖の全著作と作品資料を多く集めていたほか、私が大学時代に哲学を受講した串田孫一先生の作品などにも傾倒していた。Yさんのお父さんは、昔は、靖国神社前の九段で軍服などの生地を手広く扱っていたが、戦争中の東京大空襲で店も住宅も全焼して、それ以来、生活は豊かではなかったようである。北海道に住むことには、Yさんはむしろあこがれていた。私は、苫小牧の父が生きているうちに結婚するつもりであることまでは言わなかったが、話し合いと文通を深めているうちに、だんだんと彼女を結婚相手に考えるようになっていた。

 2月中旬の中京大学の入学試験業務を終えてからは、私は時折東京へ出るほかは殆どの日々を苫小牧市立病院の父の病室で過ごしていた。私が、4月からは室蘭工業大学へ転職できそうなことを話すと父は喜んでくれた。室蘭工業大学には国立大学の官舎もあるのだが、大学は週3日ほど通えばいいのだから、苫小牧の家に住むつもりであることなども伝えた。そして、「それを機会に」というような言い方をして、鶴見の塩田さんが私の結婚話も進めてくれていることも伝えると、父は嬉しそうであった。「4月になれば」と、少しでも先に希望を持ってもらえるように取り繕うことは悲しかった。どうしようもない空しさの中で、私は人知れず涙を流していた。

 松井医師からは、毎日、回診の度に病状の説明を受けていたが、やはり一段と深刻さは増しているようであった。腹部が張って浣腸をしてもらったりした後は激しい痛みを感ずるようであった。つい弱音を吐いて、「何時になったら痛みがとれて楽になるのかなあ」と言ったりした。そのはっきりした答えは、私が知っている。しかし、それを顔に出すことはできなかった。

 父の入院を知った人々は会社関係者のほか、苫小牧市の福祉事業で付き合ってきた市会議員や市の企画部長などの見舞が続いていた。ハンセンさんも何度か見舞に来てお祈りをしてくれた。しかし、見舞客の来訪も、父の負担を考えて「面会謝絶」をするようになった。時には私が見舞客を外で応接することもあった。市の幹部たちが、いろいろと父に対する見舞と感謝のことばを述べて、父のことを「思いやりの心の深い偉い人だ」と褒めていたことを伝えると、父は「苫小牧の名士になったのかな」と言って上機嫌で笑い顔になったことが、滅多にない貴重な、病室での明るい一コマである。

 父は、人体の組織など医学的知識には詳しいほうであった。父からの質問があると、松井医師は懸命にがんであることを伏せて、病状の説明をしていたが、父はあまり納得していなかったかもしれない。入院が2か月にもなって、その間に徐々に病状が悪化していることを父は一番よく知っていた筈である。ある時、父の傍に一人で付き添っていた妹に、父は、「東京の病院に転院できないだろうか」と言ったらしい。妹が、「千歳までの道路は砂利道だし」と、飛行機に乗るのも体に負担がかかることが心配だと返事すると、父は、「車が揺れて痛くなるのはがまんする」と答えたという。外出から帰って、そのことを妹から聞いた時、私は深刻に考え込んだ。

 父は、子どもたちが病気になったときには、常に最高の医療機関で受診させることを心がけていた。大阪では、それは大阪大学医学部病院と大阪赤十字病院であった。子どもの時の姉の場合は、夜中に高熱をだして、近くの境川病院に入院したことがあったが、5日ほどたっても症状が改善しないのを見て、断固として退院することを告げ、そのままタクシーに乗せて大阪大学病院まで抱きかかえて行った。脳腫瘍の一種であったらしい。すぐに手術して一命を取り留めたが、手術が1日、2日遅れていたら、手遅れになるところであった。妹の場合も、父はそのようにして、奇跡的に命を救い、私の場合も、中学生の頃、肺炎から肋膜炎になり、これは前にも書いたが、父の超人的な意思と努力で、死ぬはずであった命を救われている。その父が転院を希望している気持ちは私にはよくわかっていた。父がしてきたことを、今度は私がするべきであった。

 しかし、東京の一流病院に転院しても、ここまで進んだ肝臓がんの回復が望めないことは明らかであった。念のために、そのことは札幌医大学長の中川先生に来てもらって確認している。ここで無理に転院しても、父が苦しむだけであることもよくわかっている。わかってはいても、だからといって、父の希望を無視することはできない。肝臓の末期がんであることを告げることもできない。私は、このディレンマに苦しんだ。

 それでも私は、父が一縷の望みを抱き続けられるように、身体に負担がかかっても、父の願いを叶えてあげることを考え始めるようになった。主治医の松井医師とも相談して、協力を仰いだ。父をストレッチャーに寝かせたまま、車で千歳まで行き、千歳からは小型機をチャーターして羽田まで飛ぶことを検討した。松井医師は看護婦一人と共に飛行機に同乗して東京へ行くことを承諾してくれた。あとは、全力を挙げて、東京での入院先を確保しなければならない。私は、東京の二、三の大病院と連絡を取り始め、日本航空の事務所で紹介してもらって、千歳から小型機をチャーターする検討に取りかかった。

 3月に入ってまもなく、父には東京の病院への転院先を塩田さんと相談するためということにして、東京へ向かった。東京では他にもしなければならないことがあった。Yさんと婚約して、一度、苫小牧の父に会ってもらうことであった。Yさんの家には、塩田さんが訪問してご両親に会い、Yさんと交際することの了承は取っていたが、今度は正式に婚約申し込みの手続きを踏みたいと思った。東京でYさんに会って、父の病状を詳しく話し、婚約したうえでいっしょに父に会いに行ってもらいたいというと、彼女は即座に承諾した。

 たまたま、その頃、鶴見の塩田さんは、ちょっとした肝臓の異変があって、自宅に近い病院に入院していた。塩田さんは父とほぼ同年で60歳前後のはずだが、明るく饒舌で、年よりは若く見える。お見舞に行ったら、塩田さんは病人とは思えないほど元気で、よくしゃべった。奥さんも「鬼の攪乱」だといって笑っていた。私は塩田さんに父の東京への転院希望とYさんとの婚約に進みたい旨を伝えて意見を聞いた。それだけで私は病院を出た。病床の塩田さんにYさんの家に行ってもらうことはできないので、私は、今度は恩師の佐藤勇先生に連絡を取り、Yさんと二人で練馬の佐藤先生のご自宅へ伺った。

 先生には、手紙で父の入院以来のことを知らせてあったが、Yさんとの交際についてはまだ詳しくは話していなかった。前年の6月には、佐藤先生から紹介されたOさんの縁談に応じていなかっただけに、遠慮もあった。しかし私からの話を聞いた佐藤先生はこころから私に同情してくださった。荻窪のYさんの家へ行って、婚約申し込みの使者を務めることも躊躇なく引き受けてくださった。

 3月8日の夜、佐藤先生はYさんの家へ出かけてご両親と会ってくださった。著名なロシア語学者で学会の重鎮でもあった佐藤先生は、古武士のような風格があり、人を寄せ付けないような威厳があった。塩田さんの礼をつくしての訪問で始まったYさんとの交際は、今度も礼をつくして、佐藤先生を親代わりに婚約申し入れをすることになった。もうこの段階では、父が現在重病であることを、伏せておくわけにはいかない。しかし、「父が生きているうちに」というのは、あくまでも私の立場である。相手側にとって見れば、あまりにも急で、私の身勝手と取られかねない。結婚という大きな問題には、当然、相手側の立場もあるはずである。その難しい立場の違いを越えて、佐藤先生はYさんのご両親に婚約を認めてもらった。

 3月10日の朝、私はYさんを連れて、二人で羽田へ向かった。日本航空の千歳行きに乗り込み、30人乗り位の小さなプロベラ機で3時間ほど飛んで、千歳には午後2時に着いた。当時はまだ、千歳空港は連合国軍から日本政府に返還されたばかりで、空港も航空自衛隊と共用されていた。空港のターミナルビルもまだ出来ておらず、航空自衛隊基地構内の空港営業所を通って、自衛隊基地の門から、千歳市街に出るようになっていた。タクシーで砂利道を30分ほど走り、午後3時ごろ、苫小牧市立病院に着いて、Yさんと二人で、父の病室に入った。

 父は、その日、付き添っていた妹から私たちが来るのを知らされていて、朝から心待ちにしていたようである。Yさんが深くお辞儀して、お見舞いのことばを述べると、父はうれしそうに頷いていた。痛みが出てきていたのか、父はあまりしゃべらなかった。容体が悪化していて、食事をとるのが少し難しくなっていた。婚約のこと、東京での転院先を探していること、塩田さんが入院していることなどを1時間ほど話した後、父を眠らせて、その日はYさんを苫小牧の自宅の離れに泊まらせた。

 翌日、3月11日の朝、Yさんと二人で、自宅に近いハンセンさんの教会へ立ち寄り、ハンセンさん夫妻にYさんを婚約者として紹介したあと、10時ごろ、病院へ行った。この日の父は、少し元気そうに見えた。Yさんともよく話をして、冗談話で私たちを笑わせたりもした。Yさんに背中を擦ってもらったり、手の爪を切ってもらったりして、父はうれしそうであった。私も一つ、父への恩返しができたようで、うれしかった。

 その日は、Yさんが午後2時過ぎの飛行機で東京へ帰るために、私が千歳空港まで送っていくことになっていた。昼近く、Yさんは父に深く頭を下げ、「東京でまたお目にかかります」と言って私と一緒に病室を出た。これは後で聞いた話だが、父に付き添っていた妹が、私たちをエレベーターまで見送って部屋へ帰ろうとすると、父が一人でベッドから立ち上がり、歩いて病室から出てきたのだそうである。歩けないはずの父が一人で歩いていた。妹が驚いて、「お父さん、どうしたの」と聞くと、父はちょっと照れたように、「Yさんを見送りたいと思って・・・」と答えたという。エレベーターに乗り込むのがもう少し遅かったら、と父には申し訳ない気がした。

 私たちは汽車で苫小牧から千歳まで行き、駅前で昼食をとってから、自衛隊基地の中の飛行場へ向かった。Yさんを乗せた日本航空のプロペラ機は、午後2時40分に離陸した。機影が小さくなり視界から消えてしまってから、私はまた苫小牧へ戻り、父の病室に入った。父は食事がすすまず、リンゴジュースと卵一つを喉に通すのがやっとであった。痛みを抑えるためにモルヒネの注射もしてもらっていたが、その副作用も出ていたかもしれない。

 その日の夜、苫小牧の自宅へ佐藤先生から電話がかかってきた。羽田に着いた後、Yさんが先生のご自宅を訪れて、苫小牧の父の状況などを報告したのだという。父の転院については、佐藤先生も心配してくださっていた。先生の奥さんの縁故の東京大学医学部付属病院の医長から連絡があって、3月18日には入院できることを伝えられた。Yさんも電話に出て、結婚式は先生とも相談しているが、3月15日ではどうか、ということであった。私はその予定を了解した。

 3月12日、一度、東京へ戻っていた母が、姪の一人と義兄(長姉の夫)と共に苫小牧へ来た。母には、肝臓がんであることはまだ伏せていたが、もうそんな病名に関わらず、重病であることは誰の目にも明らかであった。翌日には、下の妹と上の姉、もう一人の義兄(次姉の夫)も苫小牧に着いた。すでに苫小牧にいる上の妹夫婦と弟、それに私を含めて、ほぼ家族全員が苫小牧に集まった。

 病室に弟と下の妹を付き添いに残して、みんなが病院から家へ引き揚げた後、私は主治医の松井医師から「余命10日あまり」と告げられていることを伝えた。母は泣き出した。姉たちも涙を流した。私は、翌日の3月14日に上京し、15日にYさんとの結婚を済ませたうえで、18日には、父を東大病院へ転院させる予定になっていることも話した。転院は父の希望であったとはいえ、18日の段階でも、父が転院すると言うかどうか、また、家族としても実行すべきかどうか、状況は一段と厳しさを増していた。それに、もしかしたら父自身が、転院はもうすでに手遅れであることを感じ始めているかもしれなかった。

 3月14日の朝、東京の佐藤先生から電話があった。翌日の結婚式のことと、Yさんのご両親が私に会いたいと言っていることを伝えられた。Yさんの家にはまだ電話はなかったので、私は電報を打って、その日の夜伺うことにした。午後2時40分千歳発の日本航空機を予約して、午前中は父の傍で過ごした。18日には東京大学病院へ転院してYさんにも病室で付き添ってもらうというふうには父に話してあったが、翌日結婚式をあげることは言わなかった。「異常な」結婚で父を心配させたくなかった。その日の父は小康状態で、意識もはっきりしていた。「東大病院でお父さんの入院手続きをして、すぐ帰ってきます」と言って病室を出ようとした。父は黙って頷いていたが、ふと寂しそうな顔つきになった。それを見て、私は胸が突き刺されるような痛みを覚えた。

 その日の午後8時、荻窪のYさん宅を訪れてご両親に会った。急な結婚式を挙げることについて、私自身からの説明を聞きたかったようである。親の立場では当然の懸念であったろう。世間でいう「嫁入り支度」などは、何もする余裕がないのである。私は、嫁入り道具や金銭的負担は一切必要がないと言ったが、Yさんの母親は、そのことに少しこだわっていた。しかし、私は人の道に外れたことをしているわけではない。Yさんの気持ちに反して、自分だけの都合で彼女を引きずり込んでいるわけでもない。

 Yさんが少しでも、私についてくるのを躊躇したのであれば、私はすぐにでも交際を中止したであろう。事情はどうであれ、何が何でも結婚したいとは私も決して思っていなかった。私は子どもの頃より父を誰よりも偉い人と思い続けてきた。その父の子としての矜恃をもち、悲嘆の中でも毅然としてYさんのご両親にも対応してきた。Yさんがそのような私を十分に理解し、自ら進んで真剣に私についてきて来てくれたからこそ、いまこうして「異常な」結婚式をあげようとしている。そのことはご両親にもわかっているはずであった。2時間近くも話し合って、ご両親は、翌日の結婚式へも、充分に納得して出席してくれることになった。

 3月15日、火曜日、午前中はYさんと二人で、本郷の東大付属病院へ行って、18日に父が入院する際の手続きなどを確認した。それから池袋へ向かい、午後2時、三越デパートのグリルで形だけの結婚式をあげた。出席者は、私の親代わりの佐藤先生ご夫妻、Yさんのご両親、私と友人2人、Yさんと友人2人の10人だけである。全員平服で、記念写真を撮り、佐藤先生や友人たちからのことばがあり、そのあとはビールで乾杯して食事をしただけの簡素な結婚式であった。こうしてYさんは、私の妻となった。Yさんは、武本富子である。その日から、富子は、荻窪の私の家に住むようになった。夜、苫小牧へ電話した。18日の父の東大病院への転院のためのチャーター機の契約と松井医師、看護婦1名付き添いで同乗する手配等、すべて完了していることを義兄が伝えてくれた。

 翌日の3月16日、朝4時に起き、支度を整えて、私は羽田へ向かった。富子には18日に東大病院へ行き、父の到着を待ってくれるように言い残して、私は日本航空機の早朝一番機7時20分発に乗り11時過ぎに千歳に着いた。苫小牧までタクシーを飛ばして父の病室に入ってみると、父の状態はさらに悪化して殆ど昏睡状態になっていた。目を覚ますと痛みを訴えるので、松井医師はその度に病室に来て、モルヒネの鎮痛剤を注射していた。3月13日に言われた「余命10日」も、期待できないようであった。

 松井医師は、あと2,3日持ちこたえられるかどうか、わからないという。これでは東大病院への転院もできない。私は遂に転院を諦めた。そう決断すると、涙がどっとあふれ出た。せめて1,2週間だけでも東大病院の病室で富子と二人で父の傍に付き添うという望みも、これで断たれた。私は義兄に頼んで、18日の千歳からのチャーター機をキャンセルしてもらった。荻窪の富子にも電話した。富子から佐藤先生にも連絡して、明朝、東大病院の病室をキャンセルすることを伝えた。その夜は、私は一晩中、妹夫妻と共に父の枕元に座り続けた。

 3月17日、早朝から母も病室へやってきた。昏睡状態が続いているのを見て、母は泣いた。松井医師のことばに関わらず、母は、父の命は旦夕に迫っているという。私もそれを黙って聞いているほかはなかった。鎮痛薬の効力が切れそうになり意識を取り戻すと激痛に襲われることになる。それを避けるために、早めにまた新しく鎮痛剤を注射する、するとその副作用か何かで、昏睡状態が続く、ということの繰り返しであった。午後になって、母は意を決したように、ここで父を死なすわけにはいかない、と言い出した。「お父さんはここで死ぬのを望んでいない」、だから家に連れて帰りたい、と独り言のように、しかしきっぱりと言った。まわりの私たちは、黙って母のことばを聞いていた。その通りであるかもしれない。やがて私たちも母に同調して、松井医師にその希望を伝えた。

 午後5時すぎに、私たちは父をストレッチャーに乗せて、家へ連れて帰った。離れの一室に父を寝かせた。父の昏睡状態は続いていた。午後6時、付き添ってきた松井医師と看護婦は、鎮痛剤と睡眠薬を注射して、一度病院へ帰っていった。私たちは父の周りから父を見守るだけで何をすることもできなかった。父は明治34年(1901年)の生まれで、5月23日が誕生日であったから、あと2か月で60歳の還暦を迎えるはずであった。多くの人々から愛され誠実一筋に生きてきた父が、どうしてこんなことになるのか。「まだ59歳ではないですか」と、天に向かって訴えたい衝動があった。しかし、どう足掻いても抗うすべもない無力感に私は打ちひしがれていた。父が子供たちの命を救ったようには、私たちが父の命を救えないことが悲しかった。午後10時過ぎ、松井医師は看護婦を伴ってまた来てくれた。肝臓の機能は殆ど停止し、強い心臓の力だけが生命を維持せしめている、と松井医師は言った。母は父の手を握って泣いていた。私は幼児の頭を撫でるように、父の白髪の混じった5分刈りの頭を撫で続けた。午後11時16分、父はため息をつくように、ゆっくりと一つ大きな呼吸をした。そこで父の息は絶えた。


 (四十九日の夜の夢――父の霊前に捧げる)
 お父さん――昨夜は初めてお父さんの夢を見ました。毎日、お父さんのことで頭がいっぱいであったのに、どうしてお父さんの夢を見ないのだろうと不思議でしたが、昨夜はお父さんの夢を見ました。夢のなかでお父さんは、苫小牧の家の中の奥の座敷に、お母さんたちと座っていました。
 お父さんはもう亡くなったのだから、家の中にこうして座っているはずはない。これは夢に違いない、と外から入っていったぼくは思いました。でも、そこに居たのはやはりお父さんでした。そばに座っていた姉たちが、お父さんは生き返ったのだ、一度死んだのだけれどこうしてまた生き返ったのだと、幸せそうに声を弾ませて繰り返すので、ぼくはまだ半信半疑でしたが、その声に引き寄せられるように、お父さんの前まで進んでいきました。
 お父さんは、実に優しい慈愛にみちた顔をして静かに座っていました。そのお父さんの前にぼくも座り、お父さんの優しい顔をじっと見ているうちに、ぼくもだんだんとお父さんが本当に生き返ったのだということがわかってきました。これは夢ではないかという疑いの気持ちもいつの間にか消え去っていました。ぼくは一言もことばを口に出しませんでした。湧き上がってきた深いよろこびは声にはならず、ぼくは黙ってお父さんの膝の上に顔を伏せ、そして、静かに泣き出したのです。
 ぼくの夢のなかでの泣き声は、本当の泣き声になって、その泣き声でぼくは目が覚めました。ああ、やっぱり夢だったのかと、ぼくは深いため息をつきました。しばらくは、ぼんやりしていました。いま見たばかりのお父さんの慈愛に満ちた顔がぼくの記憶の中から消えてしまうことのないようにと、ひたすらにお父さんのことを思い続けていました・・・・・。

  「生かされてきた私のいのち」第一部 (Nos.1-38)終わり。
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