私が体験してきた不思議なこと(1)      (身辺雑記 No.110)  


 私はいままで八十数年を生きてきて、これまで、いくつかの不思議なことを経験してきた。そのなかには神秘体験といってもいいようなものも含まれている。通常はありえない事態に遇ったこともある。きわどいところで命びろいをしたことも一度や二度ではなかった。それらの主なものをここで取り上げておきたい。世の中には偶然はないというが、それを改めて考え直すよすがにもなるかもしれない。私が体験してきたこれらのことがすべて必然としたら、個々の出来事に対しても、新たな視点が加わることになる。そして、それは、何よりも、私は生かされて生きてきたという認識につながっていく。確かに私は、生かされて生きてきた。そのことをかみしめながら、個々の体験を改めて振り返ってみたい。


 1.尻無川のほとりで

 昭和10年(1935年)、5歳の私は大阪市大正区の尻無川のほとりに住んでいた。まだ30代の若かった父が勤めていた鉄鋼会社からあまり遠くない小さな借家であった。近くに尻無川の対岸との間を往復する渡し船の発着場「甚兵衛渡し」があり、その斜め前には、道路を挟んで家主の伊藤さんの大きな二階家があった。その伊藤さんの家には、私より2歳年長の男の子で「カズちゃん」がいた。
 その年のお盆が過ぎた頃だから、8月の下旬であったかもしれない。カズちゃんと私は、連れ立って、家の前の尻無川へでかけた。お盆の終わりには、木の舟に果物や菓子をのせて川へ流すみ霊送りの風習がある。この木の舟は、30センチくらいの小さなものから1メートルにもなるような大きなものまで様々で、それらが尻無川から一旦海まで流されたあと、波にもまれ風に吹かれて、たまに、川岸へ帰ってくることがある。そのような舟を見つけて持ち帰ろうというのである。うまくいけば大変な「収穫」になるはずであった。
 川岸の一部には、多くの原木が筏に組まれて繋ぎ止めてある。その筏の上に乗って一番端まで来たところでカズちゃんと私は、根気よく空っぽになった舟が流れ着くのを待っていた。いまなら、大人の監視の目がうるさく、とてもそんなまねは出来ないに違いない。しかしその頃は、周りに人々がいることもあまりなく、親たちも、子どもたちの遊びにはほとんど干渉しないのが当たり前であった。その日は、晴天で暑かった。それでも1時間ほどは待ち続けたであろうか。やっと、遠くからかなり大きな木の舟が近づいてきた。すぐ目の前に来てからは、カズちゃんと私は、棒切れで水を叩きながら、なんとかその舟を引き寄せようと必死になった。私は小さな手を力いっぱいに伸ばした。それでも届かないので、もっと手を伸ばそうと身を乗り出し、そして、水に落ちた。
 5歳の私は泳ぎはまだできない。私は水の中で泣き叫びながら沈んでいった。口からも鼻からも水が入ってきて苦しい。息ができずにばたばた手足を動かしているうちに、一度、上へ上がってきた。しかし、振り回している私の手は何にも触れることなく、また小さい体はぶくぶくと沈んでいった。筏の上で、私が落ちたのを見た7歳のカズちゃんも、ことの重大さはわかったであろう。手で水をかきまわしながら、懸命に私を掴まえようとしていた。そのカズちゃんの手に、もがきながら2度目に上がってきた私の手がちょっと触れた。しかし、二つの手は結ばれることなく、するりと抜けて、私はまた、ぶくぶくと水の中を沈んでいった。青白い水のなかで私はばたばた手足を動かしながら泣き叫んでいる。かなりの水を飲んで、苦しい。もうあれが限度であったろう。死が迫っていた。そして3度目、ぶくぶくとまた上へ上がっていった時に、私の小さな手ははじめてカズちゃんの手をしっかりと捉えたのである。
 もうあれから80年以上経っているが、いまではこのあたりの川岸にも高いコンクリートの護岸壁が連なり、渡し場へ通ずる広い道路には高層アパートが建っていたりして、昔の面影はほとんどない。しかし、尻無川自体は、同じ場所を昔も今も同じように流れているはずだから、甚兵衛渡しからは、かつて私が溺れかかった場所は、ほぼ正確に特定できる。私は、後年、東京や札幌に住むようになってからも、大阪へ出かけてその場所に何度か行ってみたことがあった。かつては、私は、この場所で溺れかかっても救われたことを九死に一生を得た偶然の幸運のように考えていた。しかし、おそらくそれはそうではないであろう。もともと偶然というのはないのである。あの時、私の手を捉えた7歳のカズちゃんの手は、まぎれもなくそれは、神の手であった。


 2.奇跡的な飛び方をしたグライダー

 昭和15年(1940年)の3月、父は長年勤めていた大阪市大正区の伸鉄会社を退社し、生野区の田島に自分の小さな鉄工場をもつことになった。家も広々とした新築の二階家へ引っ越した。学校は、それまで通っていた新千歳尋常小学校は3年生までで、4月からは、生野尋常小学校へ転校して4年生になった。父は、春に創業したばかりの鉄工場の経営で忙しくしていたが、秋頃から、度々、当時の関釜連絡船で玄界灘を渡って、朝鮮の仁川へ出張するようになっていた。大阪の大手の鉄工会社が仁川の郊外に1万坪の大きな工場を建設することになり、父がその工場の主力部門になる圧延工場の設計と建造を任されたのである。
 父は、家にいるときには夜遅くまで、大きな図面を広げて、機械や工場の設計に取り組んでいた。はじめのうちは、自分の鉄工場の経営もあって、大変であったようである。しかし、やがてその父自身の鉄工場の経営も、一年で終わることになった。自分が設計した仁川の工場の建設が完成すれば、父がその工場長となって赴任することが決まったからである。翌年、昭和16年(1941年)の3月末に、私たち家族は当時の関釜連絡船、金剛丸で玄界灘を渡って、朝鮮の仁川に住むことになった。
 仁川では旭国民学校(当時、小学校は国民学校といわれるようになった)5年生になった。「外地」の学校は概して立派で、旭国民学校も校舎は堂々とした4階建てであった。よく整備されたグラウンドも、それまでいた大阪の生野小学校に比べると4倍近くも広いように見えた。
 戦時色がだんだん色濃くなっていくなかで、私はその前年の生野小学校の時以来、模型飛行機作りに熱中していた。私は学校では成績はよかったが、国語や算数などよりも一番好きで得意なのは工作であった。旭国民学校でも、工作の先生から、私は模型飛行機の作り方で助言を求められたりして、工作の才能を認められていたかもしれない。たまたま、その年の夏休みには工作の宿題で、5年生のクラス全員が模型グライダーを作ることになった。
 夏休み明けのある日、工作の時間に、自分たちが作った模型グライダーの飛行テストが行なわれることになった。クラスの40人くらいが、それぞれ自分の模型グライダーをもって、屋上に上がった。屋上から、下のグラウンドへ向けてグライダーを飛ばすことになったのである。下のグラウンドには看視役がいて、飛ばした人が降りて取りに行く。グラウンドは広いので、真ん中より遠くまで飛ぶことはあまりない。中には、それよりも遠く、グラウンドの端近くまで飛ぶのもあったがそれは稀であった。20人くらい飛ばしたところで、私の番になった。
 私も、グライダーを手にもって、やや下向きにグラウンドへ向けて手放したのだが、私のグライダーは、どんどん降下していくことはなかった。少し飛んだところで、逆に高度をぐんぐん上げ、高い高度を保ったまま、まっしぐらにグラウンドの端を軽く越えて、500メートルほど離れた仁川神社のほうへ向かって飛び続けた。採点をしていた工作の先生もまわりの子供たちも、みんなが声もなく呆然とした。もう、そのグライダーを取りにいける距離ではなかった。
 ところが、仁川神社の近くまで飛んで、ほとんど小さく見えなくなっていたそのグライダーは、急に大きく弧を描いて、今度は、一直線に旭国民学校へ向かってきたのである。機影はぐんぐん大きくなってきた。私は、何とか無事に、学校のグラウンドに落ちることを祈った。しかし、私のグライダーは、グラウンドへは落ちなかった。
 グラウンドよりははるかに高い上空を戻ってきたグライダーは、先生や私たちが呆然と見つめている屋上の上を飛び越え、今度は、反対側の深い木立ちの奥のギリシア正教の大伽藍のほうへ向かった。またグライダーの影は小さくなって、ほとんど見えなくなってしまった。
 折角Uターンして帰ってきてくれたのに、と私は悲しかった。もうグライダーを取り戻すことは不可能に思われた。裏の深い木立ちの奥では、落ちたグライダーを探し出すすべもない。と、その時、なんと私のグライダーは、再び上空でUターンしたらしく、小さな機影を見せ始めたのである。みんなが一斉にどよめいた。
 小さな機影は、だんだんと姿を大きくしながら、真っ直ぐに、旭国民学校の屋上へ向かってきた。飛びながら高度を徐々に下げて、屋上の高さに近づいてきた。屋上の反対側の端の低いフェンスをすれすれに飛び越えて、私が立っている足元に、私の靴とほとんど接触する間際の位置で、ぴたりと着地した。まわりはシーンと静まりかえった。
 あり得ないと思われることが現実に目の前で起こったのである。私は涙が出そうになるのをこらえながら、そっと、そのグライダーを拾い上げた。普通なら、飛ばしたあと、せいぜい数十メートルで着地するところを、数百メートルどころか、一キロ以上も飛び続けて、私のもとへ帰ってきたそのグライダーが無性に愛しかった。
 たまたま、その時に発生した上昇気流に乗ったまでだと、考えられないことはない。確かにそういうことはあるだろう。しかし、Uターンを2度も繰り返して、そのグライダーを飛ばした屋上の上の私の足もとに着地する確率は、何分の一になるのであろうか。その分母は、天文学的数字になるに違いない。
 私は宝くじのようなものは買ったことはないが、もしかしたら、毎年連続して宝くじの特賞に当選し続けるような確率なのかもしれない。私は長い間、あれはいったい何であったのだろうと考え続けてきた。奇跡といえば奇跡だが、私の見えないところで、誰かの何らかの作為があったに違いない。私はいまでは、あれは、私を見守ってくれている守護神の軽い戯れではなかったかと思ったりしている。


 3.燦然と光り輝くみ仏の姿

 昭和19年(1944年)の秋、当時の旧制仁川中学の1年生であった私は、戦局が日増しに緊迫の度合いを深めていく中で、10人ほどの級友たちといっしょに、当時の京城(現在のソウル)へ出かけて、陸軍幼年学校の入学試験を受けていた。卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、上級生は陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験していたが、当時の中学1, 2年生にとってのエリートコースが、陸軍幼年学校であった。
 翌年の2月、合格内定の通知が届いて、私の名前が他の3名の内定者の名前と共に、仁川中学の講堂入口の掲示板に大きく貼りだされた。憧れの「陸幼」に入れそうになって、私はうれしかった。しかし、その直後に私は生まれてはじめて病気になった。ある朝、急に40度を超える熱を出し、急速に、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまったのである。
 病院に運ばれるまでには、家の近くの医者の往診を受けて、2日か3日くらいは家で寝ていた。その間、高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の柔和な姿があり、じっと私を見下ろしている。そしてそのみ仏の姿からは、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。
 み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿があった。燦然とあたたかい感じがする光を放ち続けていた。私は何度も何度も見直していた。間違いなくそれはみ仏の実像であった。
 高熱にうなされながらも、少しは正気に返る時があるものであろうか。工場長をしていた鉄鋼会社も休み、片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は確かに言ったはずである。「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と。
 み仏なのになぜ神棚と言ったのかわからない。神棚は奥の部屋にあったがそれを忘れていたわけでもなかった。いま思うと、神の姿を知らず、見慣れた仏像からの連想でみ仏と思ったのかもしれないが、それでも私は、何度見直しても、み仏の姿がその場所にはっきり見えたので、その場所を指差しながら、傍らにいた父にそう言ったのである。
 父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのかもしれない。それを見て私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時たしかに思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、燦然と輝き続けた・・・・・・・。
 これは私の初めての神秘体験であったかもしれない。おそらく、人に話しても、それは高熱の時に見た幻影に違いないといわれるだけだと思っていたから、私は長い間、誰にも話そうとはしなかった。しかし、その燦然と光り輝く柔和なみ仏の姿は、いまも確かに私の心の中にある。


 4.奇跡の解熱剤「トリアノン」

 昭和20年(1945年)の2月、その時に入院したのはかなり大きな仁川総合病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。
 私は病院でも高熱を出し続けたまま、ほとんど意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれていったのはかすかな記憶があるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。
 温顔で人望の厚かった病院長は、このままでは、希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という解熱の特効薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。しかし、父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。
 院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく――それはとっくの昔になくなっているはずだから――万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」そのことを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。
 その当時の仁川市は人口30万くらいであったろうか。薬局も全市で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。
 そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながら、旭国民学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、20年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。
 父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」
 しかし父は、そのことばにもすがりつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。
 2月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。
 突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、最後のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・。
 父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って用意していた分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」
 私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。命の瀬戸際に立ったのは、5歳の時に大阪の尻無川で溺れかかって以来、これが2度目であったが、私は、ここでも死ななかった。生きるべくして生きた。昔は、あの最後の瞬間に父の脳裏にひらめかせたものは何であったのか、とよく考えたりもしたが、いまでは、この点でも疑問に思うことはない。


 5. 間違いではなかった予言

 後年、私はアメリカ留学を終えて、昭和34年(1959年)の春、太平洋を2週間かけて船で帰国した。帰国して数日後、東京外国語大学ロシア語科主任教授の佐藤勇先生のお宅へ帰国の挨拶に訪れた時、着いてみたら、東京外大で1学年下の女子学生であったTさんが、先に来ていた。私は学生時代はアルバイトに明け暮れていて、ほとんど大学には出席していなかったから、彼女と話し合ったことはなかったが、彼女がクラスではロシア語を誰よりも流暢に話せることを友人たちから聞いて知っていた。
 佐藤先生は露和辞典の編集などもしておられたから、優秀な彼女は、そのお手伝いか何かの打ち合わせに来ていたのだろうと推測した私は、佐藤先生へのご挨拶もそこそこに、引き揚げることにした。理知的な顔つきで落ち着いた雰囲気の彼女とも、ほんの少しことばを交わしただけで、佐藤先生から昼食を一緒にと勧められたのを辞退して、お別れした。この時のTさんとの邂逅は、実は、大きな意味があったことを、その時の私は知る由もなかった。
 その後、私は名古屋の中京大学へ赴任したのだが、6月の下旬、東京の佐藤勇先生から大学へ電話での伝言があった。6月20日、土曜日の午後5時半から、栄町の中華料理店平和園で、東京外国語大学の名古屋支部同窓会が開かれるからそこで会いたいとのことであった。行ってみると、学長の岩崎民平先生のほか、英語の小川芳男先生、ロシア語の石山正三先生も来ておられた。私の中京大学就任でお世話になった南山大学の直井英文学部長とも、その席でお会いした。
 支部同窓会は、60人ほどの出席者で、盛会であった。2時間ほど、賑やかに懇談が続いて閉会になったあと、佐藤先生に誘われて、二人で近くの喫茶店へ移った。そこで、思いがけなく、佐藤先生から、この間、佐藤先生のお宅へ帰国のご挨拶に伺った時にたまたま逢ったTさんの写真と履歴書を渡されたのである。先生に、Tさんからの「結婚のプロポ―ズを頼まれた」と言われて、私はちょっと驚いた。Tさんのお姉さん二人も、大学教授のところへ嫁いでいる、というようなことも言われた。
 佐藤先生も、この「プロポーズ」には、賛成であったのであろう。もしかしたら、帰国のご挨拶に先生のお宅へお邪魔した際、たまたまTさんが来ていたのは、見合いのような意味があったのかもしれない。私に対する先生のご厚意は有り難かった。しかし、このようなプロポーズの仕方を急に目の前にして、私は戸惑っていた。アメリカから帰ったばかりで、交際を始めるというならともかく、私はまだ結婚を考えるような気持ちの余裕はなかった。私はTさんには鄭重に手紙を書いて「辞退」した。
 名古屋では中京大学の本部の前にある中京荘というアパートに住んでいた。教員では私のほかに、社会学担当の南谷教授が住んでいた。もう高校生のお子さんが二人もいるが、実家は三重のどこかで、中京大学へは単身赴任していた。円満な人柄で、私は時々、夕食時には南谷さんの部屋へお邪魔して、一緒に日本酒やビールを飲むのを楽しみにしていた。たまには、近くに住んでいる法学担当の沢登助教授もやってきて、3人で飲みながら大いに歓談することもある。
 沢登さんは、私より3歳上で、京都大学法学部の出身であった。優秀な法学者で、後年、新潟大学の教授になって法学関係の多くの著作を出版している。晩年には自らの哲学的研究の成果をまとめた『宇宙超出論』なども刊行した。
 その沢登さんは、あるいは霊感が人一倍発達した霊能者であったのかもしれない。当時、手相占いの名手として、知る人ぞ知る存在でもあった。沢登さんから手相を見てもらった女子学生が、決して他人が知っているはずのない内面の悩みや苦しみを正確に言い当てられて、わっと泣き出したという話を、誰かから聞いたこともある。
 11月の初めであったか、ある日の夕、南谷さんの部屋でいつものように3人で鍋を囲みながら酒を飲んでいた時、沢登さんは、急に私の手相を見てやろう、と言い出した。私は手相占いのようなものには関心もなく、信用もしていなかったので断ったのだが、沢登さんは、「まあまあそう言わないで見せてください」と言って、私の手相をしげしげと見つめ始めた。
 その時いろいろと言われたことは記憶にない。しかし、ただ一つ、今でも鮮明に記憶していることがある。沢登さんが、「あなたは近いうちに結婚しますね。数か月以内には、必ず結婚します」と言ったのである。私は笑い出した。それなら私にはすでに結婚話が進行していなければならない。「それは間違いです。絶対にそれはあり得ません」と私は答えた。それでも沢登さんは、「結婚する」と言い、私は「しない、あり得ない」と言い張って、それを聞いていた南谷さんも笑い出し、その話はそれで終わった。
 私はその時、酔った頭で、T さんのプロポーズを断ったことを思い出し、その余波のようなものが私のどこかに残っていたから、それを沢登さんが勘違いして感知したのではないか、と考えたりした。しかし、沢登さんのこの予言は、重大な意味を持っていたことを、後に、私は知るようになる。
 中京大学の英語担当の教授に旧制東京外語出身の室橋教授がいた。家も中京荘から近く、私は後輩ということで、一緒に長野へ旅行したりして親しくしていた。12月に入ったある日、私は、室橋さんの自宅の夕食に招待された。室橋さんにはお子さんはなく、奥さんと二人で住んでいる。日本酒を飲みすき焼きをご馳走になって、食後のよもやま話のあと、室橋さんは、ふと思い出したように奥の部屋から写真と履歴書を持ち出してきて、テーブルの上に置いた。こういう縁談があるのだが、と室橋さんは切り出した。私に勧めているようであった。
 相手は、名古屋の製菓会社の社長の娘で、県立女子大国文科出身の24歳だという。私はアメリカから帰国して半年経っていたが、渡米した時とは逆のカルチャーショックがまだ消えずにいた。結婚話についても、どういうものか、その頃はまだ考える気にはなれなかった。その何週間か前に、法学の沢登さんに、近いうちに必ず結婚すると予言されたときにも、本気で、そういうことはあり得ないと思い込んでいた。
 室橋さんは先輩だが、同僚の気安さもあって、その時も、笑い話に紛れさせて、写真と履歴書も手に取って見ようともしなかった。一度見たうえでそのまま返したら、失礼だと思ったわけでもない。私はそのあとちょっとまた歓談を続けて、写真と履歴書はテーブルの上に残したまま、室橋さんの家を辞している。
 その後2週間ほどで、昭和34年(1959年)のクリスマスであった。冬休みに入る二日前の午後、大人数の学生相手にマイクで「英文学」の授業を行っていた時、教室のドアが開いて、教務課の職員が入ってきた。私に一礼して一通の至急電報を差し出した。その時の授業は、もう少しで終わるところであったが、至急電報だから、授業中でも届けてくれたのであろう。電報は苫小牧の弟からであった。当時、父は北海道へ進出して苫小牧でアルミニウム関連の会社を経営していた。その父が市立病院で手術を受けた結果、重度の肝臓がんであったことが判明したというのである。目の前がすっと暗くなった。
 私はやっとの思いで、その授業をなんとか切り上げ、翌日、冬休み前に残っていた一つの授業を休講にしてもらって、慌ただしく身の回りの荷物をまとめて、東京へ向かった。夜遅く、荻窪の自宅に着いたが、私は母には平静を装って、父の肝臓がんのことは何も知らせなかった。翌日の朝、私は悲しみを母に覚られまいとして無理に笑顔を見せたりしながら家を出て、上野駅から苫小牧へ向かった。
 私は、その3か月前、夏休みも苫小牧で父と過ごしている。腹具合がよくないというので、父を説き伏せて市立病院に入院してもらったのだが、その時は2週間ほどでよくなったというので退院した。12月中旬には、また腹部の痛みが出てきたというので入院するという連絡は受けていたが、私は今度もしばらくすれば退院できるのであろうと軽く考えていた。冬休みに入れば苫小牧へ行くつもりで、その時には元気な父に会えることにいささかの疑いも抱いていなかった。それが、重度の肝臓がんとは一体どういうことなのか、と私は納得できなかった。
 苫小牧に着いてからは、父に覚られまいとして無理に笑顔を見せたりしながら、担当の医師に会い、院長に会い、当時がんの権威といわれていた札幌医大学長の中川先生にも頼み込んで往診をお願いした。肝臓がんの末期で余命は長くてもあと半年と聞かされて、すべての回復の望みは断たれた。3か月前の入院の時に退院させたのは明らかに担当医師の誤診であったが、いまさらそれをどうすることもできなかった。
 父はほとんど命がけで私を愛し育ててくれた。その父は、私にとって絶対的な存在であった。子どもの頃から、父が死ねば私も生きておれないなどと考えていた。絶望感に打ちのめされながら、父の最後の時間を少しでも一緒に過ごせるように私は苫小牧付近の大学へ転勤することを考えた。そして、相手がいたわけではなかったが、父の楽しみであったはずの私の結婚を、できれば父の生きているうちに実行して、新婚の二人で看病したいと思った。父の死後、父の知らない人と結婚するということには耐えられない気がしていた。
 私は、中京大学の学長へ手紙を書き、父のことを知らせて、辞職したい旨を伝えた。それから横浜の父の親しい実業家のS氏にも手紙を書いた。S氏は、父に頼まれて、かねてから私の結婚についても考えてくれていることを私は知っていた。
 年が明けて、昭和35年(1960年)の1月、私は名古屋で中京大学の学長に会って、突然の辞任申し出を詫びた。学長は状況を理解してくれたようであった。「私の娘と結婚してもらって大学を継いでもらいたいと思っていたのに残念です」と学長は言った。横浜の実業家S氏にも会った。S氏は鎌倉にいる自分の姪を私の候補として考えていたようで、早速鎌倉へ出かけて本人に会ったら、すでに婚約したい人がいると打ち明けられたと言った。しかし、その後もS氏は熱心に動いてくれて、やがて二人の候補者が浮かび上がってきた。S氏は、「二人とも甲乙をつけ難い」と伝えてきた。私も二人に会い、そのうちの一人とは、文通を始めるようになった。
 東京では、もう一つしなければならないことがあった。父の転院先を見つけることであった。父はできれば東京の大病院へ転院したいという希望があった。肝臓がんであることは伏せていたが、担当医師の病状説明に納得できなかったのであろう。しかし、私から肝臓がんの末期であるとは言えなかった。私は悩み苦しんだが、少しでも父に希望をもたせることができるのであればと、小型飛行機をチャーターして父を東京へ移すことを考えた。
 3月の中旬、文通していたYさんと婚約することになり、佐藤勇先生がYさんの家へ行ってくださった。先生は、前年の春にTさんのことがあったにもかかわらず、心から私の立場に同情してくださっていた。Yさんのご両親に会っていただき、婚約は成立した。それが妻となった富子である。私は婚約の翌日、3月10日、富子をつれて羽田から当時のプロペラ機で3時間半かかつて千歳へ飛んだ。苫小牧市立病院へ直行して病床の父に富子を紹介すると父は本当にうれしそうであった。
 その頃には、これは思いがけないことであったが、私の室蘭工業大学への就任も確定していた。父には、二人で苫小牧に住みながら、室蘭工業大学へ通勤することも伝えた。一泊して翌日、富子は再び父を見舞い、しばらく談笑して、部屋を出てエレベーターで降りていったとき、歩けなかったはずの父が立ち上がって部屋から歩いて出てきた。帰京する富子を見送りたかったのだという。その後、これも佐藤勇先生の奥様のお世話で父の東大病院への転院が3月17日に決まった。
 3月14日、昼頃まで病室で父に付き添った後、午後の飛行機で東京へ向かった。翌日の3月15日、午前中に東大病院へ行って父の入院の打ち合わせをした後、午後、池袋の三越のグリルで、私と富子は結婚式をあげた。横浜のSさんは、たまたま腎臓疾患で入院中で欠席したが、佐藤勇先生ご夫妻と富子の両親、私と富子の友人たち少人数の式であった。翌朝、私は飛行機で苫小牧へ引き返した。父は、医師の話では、もうしばらく持ちこたえるはずであったが、痛み止めのモルヒネの影響であろうか、すでに意識を失っていた。チャーターしていた東京行きの小型機の予約はキャンセルした。父は、家族全員が見守る中で、3月17日午後11時16分、大きく一つ最後の息をして、59歳の生涯を閉じた・・・・・。
 前年の11月に、中京荘で沢登さんが「数か月以内には、必ず結婚します」と言ったのは事実になった。私はあれから4か月後に確かに結婚した。しかし、その結婚には、こういう父と私の重大な運命の変転がからみあっていくことを、あの時の沢登りさんには見えていたのだろうかと、いまもふと思うことがある。

 (2017.02.01)

 



   私が体験してきた不思議なこと(2)      (身辺雑記 No.111)


 6.長男が思い定めていた他界の時期

 むかし、ロンドンの大英心霊協会で知り合った霊能者アン・ターナーを通じて、2000年6月5日付で、長男・潔典(きよのり)からの手紙を受け取ったことがあった。その手紙には、「ぼくたちは、生まれるときには、好きな家族を自分の責任で、自分で選んで生まれてくるのですね。友だちなどもやはり、生まれるときに、自分の責任と好みで選んでいるのです。こういう特別の愛があることも、いまのぼくにはわかってきました」という一節があった。そして、「ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも、長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えながらあらためてお詫びします」という一節もある。
 1983年の夏、アメリカのノース・カロライナ州立大学の客員教授をしていた私のところへ、母親と二人でやってきて夏休みを一緒に過ごした潔典は、1983年8月30日の午後、ノース・カロライナ州ローリー・ダーラム空港から、母親と二人で帰国の途についた。フィラデルフィア経由のユナイテッド航空機でニューヨークのケネディ空港には、午後6時過ぎに到着している。それから国際線にまわって、午後11時50分発のソウル経由成田行きの大韓航空機007便に乗ったのである。
 潔典からは、ケネディ空港から、2度電話がかかってきた。無事に着いたというのが午後7時過ぎ、それから、もうチェック・インもすんで、座席も窓際が取れ、あとは乗るだけ、というのが午後9時過ぎであった。上述の手紙で「あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください」と潔典が言っているのは、この最後の電話での会話のことである。
 いつも明るい潔典の声が、その時だけは、しどろもどろで、飛行機に乗り込む前の状況を急いで説明したあとは、慌てたように「ママと代わるから、代わるから」と言って、母親に電話が代わってしまった。妻の富子とは、普通にしばらくおしゃべりして電話が切れたのだが、私は、電話が終わった後しばらくは、何か、暗い胸騒ぎを抑えきれなかった。子供のときから素直で天真爛漫な潔典を、私はほとんど叱った記憶はない。しかし、あの時だけは、東京に着いたらかかってくるであろう電話で、「潔典、あんな電話のかけ方をしたらお父さんは心配するではないか」と、強く注意しておこうと思ったくらいである。
 実は、この電話の前にも、いくつもの潔典の不安を示す態度やことばがあった。『疑惑の航跡』(潮出版社)のなかにも書いたが、帰国前のバーベキューで、その材料を仕入れにスーパーマーケットへ行ったとき、巨大な1キロ半はありそうなステーキの塊を指差して、潔典がにこにこしながら、「死ぬ前にこんなビフテキを一度食べてみたいな」と言ったことがあった。そのようなことなどを含めて、潔典の態度やことばは、今にして思えば、私に対してそれとなく別れを告げていたのかもしれない。しかし、鈍感な当時の私は、それらからほとんど何も察知することは出来なかった。事件が起こってから初めて、愕然として、それらのすべてをまざまざと思い出したのである。
 いまの私にはわかるが、潔典は、あの時、自分がこれから死出の旅路に出ることを魂の奥深くでは知っていて、そのことを、それとなく意識し始めていたのだと思える。シルバー・バーチは、死ぬ時期というのは、本人には分かっていることで、ただ、「それが脳を焦点とする意識を通して表面に出て来ないのです・・・・ 魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります」と述べているが(栞A57-e)、潔典がケネディ空港でしどろもどろの電話をしたというのも、「それ相当の準備」がまだ終わっていない段階だったからなのかもしれない。
 その後、2005年8月31日には、東京でA師を通じての、新しいメッセージを受け取った。そのなかでは、潔典は私に対して、「有難うございます。よく耐えてくださいました。もうじきお会いしましょう。こちらで待っています。他界する時期は自分でもわかるでしょう。僕も分かっていました」と語っている。この「よく耐えて」というのは、私が妻の富子と潔典が霊界で生き続けていることを理解するようになるまでの長い悲嘆の道のりを言っているのであろう。そして、「僕も分かっていました」というのは、もちろん、潔典の他界した時期のことで、1983年9月1日〔日本時間〕を意味している。潔典は、生まれ故郷の北海道を目前にしたサハリン沖の海上で、この日の未明、母親と共に散っていった。


 7. ノース・カロライナへの道

 1982年(昭和57年)2月8日(月)の早朝に発生した東京・千代田区赤坂見附のホテル・ニュージャパンの火災は、死者33名、負傷者34名を出す大惨事となった。当時、小樽商科大学に在職して札幌に住んでいた私は、この日の夕方、空路で羽田に着いて東京に滞在していた。その翌日、フルブライト上級研究員の最終口頭試験に臨むためであった。この「フルブライト上級研究員」は、いま振り返ってみると、始めから終わりまで、異常な、不思議な陰影がつきまとっていた。最後には、慟哭の悲劇で幕を閉じた。
 フルブライト試験会場の山王ビルは、その火災を起こしたホテル・ニュージャパンに隣接していた。私がかつて通っていた高校は、その裏側の丘の上にあったので、この辺の地理には私は詳しかった。久しぶりに現地を訪れた時、ホテル・ニュージャパンは前日の火災の惨状をまだそのまま残していた。黒こげになったホテルの窓のいくつかからは、宿泊客が脱出を試みたと思われるシーツを繫ぎ合わせてロープ状にしたものが何本も汚れた壁に垂れ下がったままになっていた。私は不吉な影を追い払うようにして、フルブライトの試験場に入った。
 フルブライトの書類審査は前年の秋から始まっていた。その時の口頭試験は予備審査を通過したあとの最終段階であったので、その合否については、まもなく通知がくると思われた。通常は最終段階の口頭試験から一か月もかからないことを私は聞いていた。しかしその年に限って、合否の通知は、1か月過ぎても、2カ月経っても来なかった。
 大学で教えている場合、一年も海外へ出かけるような長期出張には、当然ながら留守中の授業担当者を非常勤で手当てするなどの措置が必要になるから、少なくとも半年以上の余裕をもって申請しなければならない。5月に入って、もうこれ以上は待てないから、大学に迷惑をかけないためにも、フルブライトへは辞退の連絡をしなければならないのではないかと考え始めたころ、やっと、「上級研究員」決定の通知が届いた。後でわかったことだが、アメリカの不景気による政府の財政難で、その年に限って、予算決定が大幅に遅れたからであったらしい。
 私は9月中旬に、1983年9月14日までの一年間の予定でアメリカのアリゾナ大学へ向かうことになった。妻とアリゾナ大学への編入が決まった長女が同行し、東京外国語大学在学中の長男は東京に残る予定であった。ところがその後、当時、東京・荻窪の実家に住んでいた妻の母親が胃がんに冒されていることがわかって、妻は急遽、渡米を取りやめ、看病のために東京に残ることになった。私と長女だけが渡米して、アリゾナのツーソンに住み始めた。妻の母親、山本雪香はその年は持ち越したが、翌年、1983年の2月に亡くなった。母親に付き添って看病に明け暮れていた妻は、悲しみと過労で、葬儀のあと寝込んでしまった。
 長男の潔典は、はじめの予定では、1982年9月に私と妻が長女と渡米した後は、翌年3月からの春休みに、アリゾナへ来て家族と合流することにしていた。それが私たち家族にとっては2度目のアメリカ生活になるはずであった。1973年の暮れから1975年の初めにかけて私は文部省在外研究員としてアメリカのオレゴン州に滞在したが、その時は家族4人が一緒であった。1983年の春休みに長男が来れば、またアリゾナのツーソンで家族水入らずのアメリカ生活ができることになる。
 私はその時も子供たちに貴重な教育の機会を与えることに執着していた。しかしそれも、妻の母親の葬儀と、その後の妻の体調不良で、妻と長男の渡米は諦めなければならなかった。次のチャンスは、夏休みしかない。しかし、夏休みをアメリカで過ごすためには、私のフルブライト上級研究員の滞在期間を少なくともあと半年は延長する必要があった。
 フルブライトの上級研究員の場合、通常であれば、滞在期間を延長するのはあまり困難ではない。一年後の9月以降、どこかの大学で研究を続けるか教えるかして、給与を受け取る形を整えればよいことになっていた。私は妻と長男の春休みの渡米が困難になった時点で、私の研究分野に沿うような教育・研究担当者の公募があれば応募することを考えるようになった。アメリカは大学の数も多いし、「フルブライト」にはそれなりの権威が認められていたから、私は何とかなるのではないかと思っていた。
 しかし、現実は予想外に厳しかった。その年に限って、アメリカの大学は、私の居たアリゾナ大学を含めて、軒並みにあまり前例のない大幅な予算削減に苦しんでいたからである。アリゾナ大学卒業生の就職も「最悪の状況」といわれていた。
 そんな折に、12月中旬、カリフォルニア州モントレーのアメリカ海軍語学校から、私が所属していたアリゾナ大学言語学部に、日本語講師公募の書類が送られてきた。私はここの外国語教育には関心があった。効率の高いことで知られているこの学校独特の外国語教授法の実態を知りたいと思ってきた。私はアメリカ海軍語学校の教員公募に応募することにした。これが無事に通って、翌年9月からカリフォルニアへ移ることになれば、家族との再会もカリフォルニアにすればよい。それは望ましいことでもあった。
 私は、履歴書、研究業績一覧表などと共に、要求された英文のエッセイと日本語のエッセイを新しく書いた。与えられたテーマについて、英語と日本語でそれぞれに口頭で録音テープに吹き込むという作業も済ませた。12月29日に応募書類とテープをアメリカ海軍語学校へ送った。念のために、アリゾナ大学言語学部の掲示板に貼り出されていた公募書類のうち、マサチューセッツ大学、プリンストン大学、ノースカロライナ州立大学にも、同様の応募書類を発送した。応募書類の作成で明け暮れしているうちに、何時の間にか、アリゾナの砂漠の町での1982年は過ぎていった。
 翌年の1983年3月25日から3日間、サンフランシスコのヒルトンホテルで言語学会が開かれた。言語学、外国語教育の研究者が全米から集まることになっていて、アリゾナ大学からも十数人の教授、助教授、大学院学生と共に私も参加した。アリゾナのツーソン空港からロサンゼルスを経由して約1,300キロを飛んで10時過ぎにサンフランシスコに着き、学会会場のヒルトンホテルへ向かった。
 アメリカでは、学会は求人の場合の候補者選考の場にもなっていた。研究発表のプログラムが終わると、別室に設けられたPlacement Service(就職斡旋)の部屋で、教員を公募している幾つかの大学が机を並べて、求職中の教員、大学院学生たちと面談することになっていた。学会二日目の午後、私はここでノースカロライナ州立大学のK教授に会った。K教授は私の採用に強い意欲を示していた。この時の面談でも、4月中旬には正式に決定できるだろうと言った。
 アメリカ海軍語学校からもポジティブな反応が続いていた。1月下旬以降、私のパスポートとビザの写しを求めてきたり、私の1974年からのオレゴン大学客員教授時代の勤務内容についての照会があったりした。4月1日には、Notice of Rating (資格査定通知)が届いた。アメリカ海軍語学校独特の査定で、総合点数99点、1級インストラクター(GS-7)という書類が届き、「GS-7」に対応する俸給表なども同封されていた。
 しかし、任用予定については何も触れていなかった。電話でそのことを問い合わせると、予算の決定があり次第、任用については追って知らせるというような返事であった。ここでもまた予算であった。私は滞在期間延長を在籍中の小樽商科大学へ申請するかしないかの決断を迫られていたので、少し考えて、5月末までにアメリカ海軍語学校の任用が決定されなければ、赴任することはできない、と手紙を出した。
 それまでに、応募書類を出していたマサチューセッツ大学からは、1年間だけの短期任用は受け入れられないという返事があり、プリンストン大学からは、求人の対象は教授クラスではなく若手の大学講師クラスに絞っているという返事を受けていた。4月初めの時点で、滞在期間延長のための就職可能性が残されていたのは、アメリカ海軍語学校とノースカロライナ州立大学の二つだけになった。
 ところが、そのノースカロライナ州立大学のK教授から4月中旬に手紙がきて、任用決定が少し遅れるかもしれないといってきた。さらにその後電話がきて、遠慮がちに、フルタイムで駄目の場合、パートタイムでも教えてもらえるかと聞いてきた。やはり予算削減で苦しんでいるようであった。パートタイムで週6時間教えて、給料はフルタイムの半分になるのだという。私はパートタイムでもいいから任用を決定してくれればそれに従うと答えた。給料の多寡よりも、滞在延長手続きのためには、任命決定書を早く小樽商科大学の人事委員会に提出する必要があった。
 その年のアリゾナ大学の講義は、5月初めにすべて終わって、5月6日からは期末試験であった。娘の場合は、5月12日の人類学の試験が最後で、翌日からは夏休みに入る。5月30日からは、フルブライトの年次集会が予定されていた。アメリカ全土に散らばっているフルブライト研究員たちが呼び集められ、一堂に会して総会と研究分野別の研究会に出席するのである。
 たまたま会場は、ノースカロライナ大学(University of North Carolina)の所在地チャペルヒルであった。通常、各州には二つの代表的な州立大学があって、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)のほうは首都のローリーにある。私はこの年次集会に出席している間に、ローリーへ行って、ノースカロライナ州立大学のK教授にも会うことになっていた。
 そのノースカロライナ州立大学の任用は5月の20日を過ぎても、まだ決定の連絡はなかった。アメリカ海軍語学校のほうも、任用通知はまだ届いていなかった。私は悩みながら、滞在延長は取りやめて帰国することも考えるようになっていた。いずれにせよ、私のアリゾナでの生活はまもなく終わろうとしていた。
 その頃、アリゾナ大学で私の世話役になっていたベイリー教授から、砂漠の中での朝食会に招待された。私の親しい友人で牧師のウエンガーさんが日本文化研究で博士号をとって、カリフォルニアの大学への就職が決まっていた。そのウエンガーさんや私に対する送別会のつもりであったようである。
 5月28日の土曜日、午前6時半に、私と娘はベイリー教授の家に着いた。ベイリー教授一家4人、ウエンガーさんの家族4人、それにアリゾナ大学で博士課程にいる日本人留学生3名を含めて、総勢13名が3台の車に分乗して砂漠へむかった。町の中心部から東へ約40分、ツーソンでは一番高いレモン山へ行く途中に、ベイリー教授の目指す場所があった。灌木の中の空き地にテーブルを組み立て、持参のコーヒー、サンドイッチ、果物などで朝食をとりながら、とりとめのないおしゃべりを楽しんだ。
 朝早いうちは何とかしのげるが、日中の気温は摂氏で40度近くに上がるので、長くは居れない。一時間ほど過ぎて、そろそろ引きあげようとしていた時、近くの灌木の陰でドーンという車がぶつかったような音がした。皆でかけつけてみると、なんとそこには、朝食後その辺で遊んでいたベイリー教授の長男で15歳のショーンが、小型トラックにはねられて倒れていたのである。騒然となった。救急車を呼んでショーンを病院へ運んだが、ショーンは死んだ。
 私は大きなショックを受けた。フルブライトの年次集会に出なければならなかったが、旅行どころではないような気がしていた。私は鉛を飲み込んだような重い体と気持ちを引きずったまま、次の日の夜、深夜便でツーソンからフェニックスを経由してノースカロライナのローリー・ダーラム空港へ向かった。3,200キロの空の旅を私はぐったりして殆ど眠ったまま過ごした。
 チャペルヒルでは会場の「ホテル・ヨーロッパ」で、5月31日の晩さん会から年次大会は始まった。世界各国から選ばれて集まっている百数十人の研究員たちは、ホテルの部屋を割り当てられ、翌日から、午前、午後、夜間の三回に分けて、いくつかの研究発表や分科会が開かれた。世界の人種問題、教育問題、経済問題、文化の違いと国際交流、世界情勢のなかのアメリカの役割、研究者、ジャーナリストの使命等々熱心な発表と討論が続いたが、私はまだ、ショーンの突然の死の後遺症が強く残っていて、会場の雰囲気になじめず上の空であった。発言するのも苦しかった。
 2日目は、午前中にチャペルヒルの街とノースカロライナ大学を見学して、午後は研究会と討論、3日目も午前中はディユーク大学を見学して、午後の総会で年次大会は終わった。私はノースカロライナ州立大学のK教授に迎えられて、40キロ離れたローリーに移り、その夜はK教授の自宅で、日本食の夕食をご馳走になった。
 私の任命については、学内の処理はすべて終わっていて、大学財務部の予算決定を待っている段階だという。K教授は、フルブライト教授をパートタイムで来てもらうのは申し訳ないといいながら、手続きが遅れてしまっていることを何度も私に詫びた。来週にも決定は降りるはずだから、私たちのアパート探しも心がけておくとも言った。
 次の日の午後、私は泊まっていたローリーのヒルトンホテルで、フルブライト年次大会に出席していた東北学院大学教授の鈴木氏とたまたま出会った。鈴木氏は図書館学の専門家でノースカロライナ州立大学図書館を午前中訪れていたという。私は鈴木さんに誘われて、午後の時間を一緒にすごした。Roleigh Little Theaterへ行き、ミュージカル「Southern Pacific」を観た。しかし、やはりミュージカルを楽しめる気分にはなれなかった。劇場を出てからは、ダウンタウンで日本風居酒屋の店を見つけて夕食をとり、その後はヒルトンホテルへ帰って、鈴木さんの部屋で深夜の12時近くまで缶ビールを何本も飲みながら話し込んだ。
 少し酔いがまわってきたせいもあったかもしれない。私は苦しい胸の内を曝け出して、鈴木さんにツーソンでのショーンの死の話をした。いま滞在延長の予定が思い通りに進んでいないこともあって、延長はしないで帰国するかどうか迷っているところだと言った。その時、鈴木さんは、「実は」と、自分の息子さんの話をした。前年の春、そのショーンと同じ15歳の長男が、小児がんで亡くなったのだという。
 亡くなる1週間前には病院から仙台の自宅へ移っていたが、夜中に長男が声を殺して泣いている様子が病室の外へ伝わってきて悲しかったと鈴木さんは打ち明けた。9月に日本へ帰っても、位牌の前に座るのが辛いとも言った。私はここでも、彼の息子さんの死が他人事ではないような気がして、暗く沈みこんだ。ふらふらと深夜の自室に戻り、ベッドの上に倒れるようにして眠った。
 ローリーからツーソンに帰ってから一週間が過ぎても、ノースカロライナ州立大学の任用通知書は届かなかった。私はやっと決心して、滞在延長は取りやめることにした。私のフルブライトの滞在期限は9月14日となっていたが、それまでに帰国することをフルブライト委員会に伝える手紙を書いた。規定による帰国旅費の支給申請書も作り、6月15日の朝、近くのポストに投函した。辛い気持ちで何もする気がおこらず、その時はそのままアパートへ引き返した。その、ほんの20分ほどの留守の間に、ノースカロライナ州立大学からの速達便が届いていた。任用通知書であった。私は呆然となった。
 しばらく苦しみながら考えた後、私はノースカロライナへ赴任することにした。先ほどフルブライトへの書類を投函したばかりのポストの前で一時間以上も待って、やがて現れた郵便物集配人に事情を話し、私の手紙を取り戻したいと言った。集配人は、規則でここでは返却できないので、郵便局本局へ身分証明書を持参して受け取りに行くように、と答えた。
 翌日、私は言われたように郵便局の本局へ行って、フルブライト宛の書類を取り戻した。そしてアパートへ帰ってみると、今度は、アメリカ海軍語学校からの手紙が届いていた。予算措置ができて、これから任用手続きを始めるからもう少し待ってもらいたい、というのである。手続きを始めるのはいいが、それでまた少し待てといわれても、私にはもう待つ余裕はない。私は、アメリカ海軍語学校のほうは無視することにした。
 7月1日、車に荷物をいっぱい積みこんで、私と娘はツーソンを後にした。アリゾナのツーソンからノースカロライナのローリーまで、直線距離は3,000キロだが、その間に、車では、ニューメキシコ、テキサス、アーカンソー、テネシー州などを通過して行かねばならない。途中、名所旧跡などに立ち寄りながら、私たちの車は3,400キロを走って、10日目の7月10日、ローリーの近くまでたどり着いた。
 翌日には、大学から北へ30キロほどの2LDKで90平方メートルくらいのアパートを契約した。7月12日に引っ越しをして、14日に電話がついたので、東京の留守宅へ電話した。妻の富子に、これからでもこちらへ来れるようであれば来てはどうか、と言った。
 私からの電話を受けて、東京では、ニューヨーク行きの航空券を手に入れるために八方手を尽くしたらしい。しかし急のことで、どこの航空会社の予約も取れなかった。キャンセル待ちの大韓航空の航空券でそれもソウル経由のものが8月3日になってやっと取れ、妻の富子と長男の潔典は、その二日後に慌ただしくニューヨークへ飛んできた。私と娘は、その前日にローリーを車で出発して、アメリカ時間の8月5日午後9時過ぎ、ケネディ国際空港で富子と潔典との一年ぶりの再会を果たした。
 それから25日間、私たちはまた家族4人になって、かつてオレゴンに住んでいた時にそうしたように、車で東部諸州やノースカロライナ州の周辺を旅してまわった。そして、8月30日の朝、思い出深いアメリカ2度目の滞在を終えて、富子と潔典は帰国の途についた。ローリー・ダーラム空港からフィラデルフィア経由でケネディ空港へ飛び、そこで大韓航空機に乗ったのである。しかし、その大韓航空007便は、遂に富子と潔典を無事に日本へ帰してはくれなかった。
 事件のあと何年も経って、私は「溺れる者は藁をも掴む」心境で仏典や聖書を学び、霊界の本を読み、霊界からのメッセージを求めて次々と数十人の霊能者と接触したりもした。そして、少しずつ霊的真理に目覚めていった。やがて霊界の富子と潔典とも「文通」できるようになり長年の悲嘆と苦しみからも抜け出していった。
 その過程で、私がなぜあのような国際的な大事件に遭遇して妻と長男を失わねばならなかったのかを理解するようにもなった。このことについては、いままでに数多くの霊界からのメッセージや「証言」が寄せられている。たとえば、その一つの例として、潔典は霊界からこう伝えてきたことがあった。「お父さんなら、頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです。でも必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、一人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせ、同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすことを、その聡明さによって、やってくれるということが期待されたからです。」(1999. 6. 5)
 同様の「証言」は霊能者のA師を通じても幾つかあった。つぎのように言われたこともある。「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。」(2004.06.05)
 これらの霊界からの「証言」やメッセージについては、私は『天国からの手紙』(第6章以下)などにも書いてきた。「世の中が偶然によって動かされることはありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません」と、シルバー・バーチは言っている。事件によって私が悲嘆のどん底に突き落とされたとしても、それは私にとって必要なことが必然的にもたらされたということになるのであろう。いまになって事件に至るまでの過程を逆に振り返ってみると、思い当たるようなことがいくつも出てくる。
 まず、私は、フルブライトを受験して合格しなければならなかった。その決定がその年に限って異常に遅れたにも拘わらず、私はフルブライトを諦めるのではなく、受け容れてアメリカへ向かわねばならなかった。アメリカではアリゾナに一年居て帰国するのではなく、家族を呼び寄せるためにも、滞在延長をしなければならなかった。それも給与の高いアメリカ海軍語学校のモントレーで教えることによってではなくて、ノースカロライナ州立大学での給与の低い教職でなければならなかった。そうでなければ、それらの選択肢のうちの一つにでも私が別の選び方をしていれば、私は事件に巻き込まれることはなくなっていたはずなのである。今にして思えば、私は抗うこともできずに、ただ与えられた道を歩んできたとしか考えられない。
 シルバー・バーチはこうも言っている。「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのか、といった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし、すべてはちゃんとした計画があってのことです。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。」
 ―― いまの私には、こういうことばも私なりに理解できるような気がしている。確かに私は、「何ものかによって一つの道に導かれて」きた。その結果、私はあの年にあのような事件に遇った。それは私の宿命であった。そして、そのことをも含めて、私は今まで、大宇宙の大いなる力によって導かれ、生かされてきたのである。


 8.潔典のおもちゃの時計のことなど

 長男の潔典は、1981年4月に東京外国語大学英文科に入学してからは、札幌から上京して、多摩市永山のアパートに住んでいた。大韓航空機事件に巻き込まれた1983年の夏も、このアパートから母親と一緒に、当時アメリカにいた私のところへ出発して、ついにこのアパートには帰ることはなかった。
 このアパートの潔典の勉強部屋に、潔典がなにかの付録か懸賞でもらったらしい子供っぽい時計が残されていた。五百円玉よりちょっと大きいくらいのゲーム・ウオッチで、値段にすれば、おそらく千円もしないかもしれない。茶目っ気のある潔典は、その時計を、自分の机の脇の電気スタンドにぶら下げていた。
 私は、事件後しばらくは辛くて部屋にも入れなかったが、2年くらい経ってからであったろうか、ぼんやり潔典の机に座っていると、急に「タタタータタ、ターララ、ラーラ・・・・・」と、時計が鳴り出しのである。私はちょっと驚いて、初めてこの「ムッシーちゃん」と名付けられた小さなおもちゃの時計が鳴ることに気づいたのである。
 12時15分に鳴り出して、15秒ほどで終わるこのメロディーは、その後何年間も鳴り続けた。鳴り続けるだけでなく、画面の人形が可愛らしく踊るのである。それだけ、電池の消耗も大きいはずだが、私は、いつまでも鳴り続け、踊り続けるこの時計の「異常」に気がついて、7、 8年目くらいからは、ときどきビデオで時計の時間を音と映像とともに記録するようになっていた。
 事件後10年になる1993年の夏、ロンドンでアン・ターナーにこの時計のことを話すと、彼女は「あなたに霊界のことを理解させるために、この時計は10年間鳴り続けてきたが、いまあなたは理解し始めている。それで、まもなく動くのを止めるだろう。止まっても新しくバッテリーを入れ替える必要はない。そのままにしておけばよい」と言った。
 このビデオの録画は、1994年1月6日までの記録が残っている。文字盤の人形が踊り、ちゃんとメロディーが鳴っている。普通は1年か2年で止まってしまうと思われるのに、このおもちゃの時計は、11年以上も毎日、画面の人形が踊って鳴り続けたことになる。
 2003年9月1日は、事件後20周年で、私は、北海道・稚内での慰霊祭に参加し、札幌の自宅では、長年そのままになっていた妻や長男の遺品などの整理を始めていた。長男の潔典の部屋には、高校時代まで使っていた机が元のままの状態でおいてあった。その机の引き出しを、初めて開けてみたら、小さなトランジスタ・ラジオがひとつ出てきた。大学に入ってからは、性能のいい別のラジオを使っていたから、このトランジスタ・ラジオは、その時の時点で、おそらく22年以上もこの引き出しのなかで眠り続けたことになる。
 私は、自分のラジオを5年くらい放置して、なかの電池が腐食で流れ出したことがあったのを思い出して、この潔典のラジオも電池だけは抜き出しておこうと思った。その時、なにげなくスイッチを入れてみたら、ラジオから大きな音響で音楽が流れ出して、驚ろかされた。このラジオは、電池は入れ替えていないのに、22年以上経ってからでも、普通に使用できたのである。
 1982年に、フルブライト上級研究員として、アリゾナ大学へ行ったとき、私はコンパクトなコニカ製のカメラを持っていった。翌年の夏に、当時留学生としてアリゾナ大学に在学していた娘と二人でノース・カロライナ大学へ移ったとき、そこへ、東京からやってきた妻と長男が合流して、家族4人でいろいろなところを旅行したが、そのおりおりの写真を撮ったのもこのコニカのカメラである。大韓航空機に乗るためにニューヨークへ向かう妻と長男を見送って、ノース・カロライナのローリー・ダーラム空港で二人の最後の写真を撮ったあとは、このカメラは使ったことはなかった。
 当時のカメラは、まだほとんど手動式であったが、日付を写し込む部分だけは、電池を使っていた。2004年になって、私はそのことを思い出して、しまいこんであったそのコニカのカメラを取り出してみたのである。1981年に買って、もう23年にもなるそのカメラの日付は、閏年の誤差も自動修正して正確に、正しい日付を示していた。念のために、その後何年かして購入したたペンタックスとミノルタの一眼レフカメラをみてみると、いずれも、10年もたっていないのに、日付機能は電池切れで、消えてしまっていた。
 潔典のおもちゃの時計が11年以上も、画面の人形が踊り、鳴り続けたというのは、アン・ターナーに言われるまでもなく、とても偶然とは思えないが、潔典のラジオが22年以上たっても大きな音響を失わず、潔典たちの最後の写真を収めたカメラは、その日付が23年たっても正常に表示されていた、というのはちょっと不思議な気がする。これらもまた、単なる偶然ではないのかもしれない。


 9.深夜のバルト海で見た赤く光る飛行物体

 2003年9月28日の夕方、私は北欧スウェーデンのストックホルムから、フィンランドのヘルシンキへ向かう3万5千トンのフェリー・ガブリエラ号に乗っていた。6階の海側の個室の窓から見えていたバルト海は、曇天で6時頃には真っ暗になって、どこまでも深い闇がひろがっていた。
 船内のレストランでヴァイキング料理の夕食をすませて、8時半頃部屋へ戻っていた私は、翌日の忙しい行程に備えて、10時すぎにはもうベッドに横になっていた。まだ時差ぼけから抜けていなかったからであろうか、夜中に私はふと目を覚まし、時計を見ると午前零時であった。3万5五千トンの巨体は船底の方で鈍いエンジン音を響かせているだけで、船はほとんど波で揺れることもなく、粛々と進んでいるようである。私はカーテンを開けて、夜のバルト海に目を向けてみた。
 私は、船旅は好きなほうで、1957年にアメリカ留学で二週間をかけて太平洋を船で渡って以来、船室から夜の海を眺めるという経験は、海外でも日本でも少なくはない。船室の窓から、月夜の美しい海原を眺めたことは何度もあったし、曇り空で、真っ暗闇の海を航行しているときには、全く何も見えないこともよく知っている。しかし、その夜の場合は、様子が違っていた。
 曇天の暗い海上の遠くの方で、赤い光が、すーと流れ星のように流れていくのが見えたのである。よく見ると、それは水平に、そして、左右に素早く動いていて、流れ星でないことはすぐわかった。しかも、それが、三本の線になったり、四本、五本の線に増えたりするのである。みんな、鮮明に赤く光っている。私はその不思議な光景に、眼を凝らして、何とかその正体を見極めようとした。
 それらの赤い光は、それが素早く飛んでいるから赤い線に見えたのだが、船からは遠く、おそらく百メートルも二百メートルも離れていたように思える。ずっと見続けていると、たまに船のそばまで近づいてくる光があって、船の近くでは、船の灯りを受けたからなのであろうか、一瞬、白く見え、そして羽ばたいていたような気がした。それで、私は、遠くの赤く光る物体も、鳥ではないだろうかと推測したのある。
 しかし、赤色に光って飛ぶ鳥などというものは、常識で考えても、とてもあり得るとは思えない。蛍や、洞窟の中でかすかに光る苔などは、私も見たことがあったが、鳥の類が光るはずがない、と何度も思った。
 真夜中の真っ暗闇の海の上のこどだから、もし物体が光るとすれば、それは船からの光を反射している、と考えられないことはない。しかし、その可能性もなかったようである。「光の明るさは距離の二乗に反比例する」ことも私の頭の片隅にはあって、何度も暗い海を眺めまわしたのだが、真夜中の船から漏れている明かりは、船のすぐそばの波の動きをわずかに捉えているだけであった。50メートルや100メートルの、あるいは200メートルもあるような遠方の空中の物体に船体の光が届くはずがないこともすぐにわかった。
 あまりに不思議なので、私は、幻覚でも見ているのではないかと何度も思ったりした。しかし、何度見直しても、やはり間違いではない。赤い光は、断続的に、しかし、何度も何度も暗い夜空に赤い線を引きながら、左右に速い速度で直線的に飛んでいた。
 いつまでも見ているわけにもいかず、眠らないでいると、翌日からの予定にも差し支えてくる。私はいったんは寝ることにしたが、念のために目覚ましを3時にセットして、3時に起きあがり、もう一度、窓の外を眺めてみた。赤い光が間違いないか、再度、確認しておこうと思ったのである。外は相変わらず、漆黒の闇であった。そしてやはり、赤い光を発する物体が、左右に速い速度で飛んでいた。ちょうど流れ星が横に流れているような感じで、鮮明に目に映ったのである。それは決して、幻覚ではなかった。
 翌日、私は現地の人に、「この海ではこういう光景が見られるのか」と訊いてみようと思ったが、どう考えても幻覚だと一笑に付されそうで、訊くのはやめた。帰国してから、山科鳥類研究所へ電話し、手紙も出して、その実体を知ろうとしたが、やはり、「鳥が赤い光を出して飛ぶことはあり得ない」ということで、その実体を探索する道は絶たれてしまった。
 そのまま、わからないまま数年が経過して、私は、思い切って、霊能者のA師に、この問題を持ち出してみた。バルト海で私が見たあの物体は何か、なぜ飛んでいたのか、私にだけ見えた現象なのかを、霊視で見てもらおうと思ったのである。私は何とか知りたい一心でA師に縋りついたのだが、A師にとっては、別に難題でも不思議でもなかったようであった。A師は、よどみなく、つぎのように答えてくれた。

 《他の人にも見えることがありますが、でも、全員が見えるということではありません。人の中の何割かが見えるという程度です。その実体は何かというと、生命体です。霊界のみ霊そのものではありませんが、生命の要素が光って飛んでいるものです。物理的なものでなく、生命の発光体です。北方の寒冷の地で、しかも大海原で、生命の気が、或いは要素が、海上に沢山うごめいています。生命の要素は赤く発光することがあります。その生命の要素は、たとえば魚の霊とか、魚だけでなく魚介類など、そういった生命の要素が発光体として光ります。
 人間の亡くなったみ霊というより、大自然の、特に、陸地よりも海に関わる生命の要素が沢山、寒冷の地の澄んだ大気の中で、特に夜は、生命の要素が真っ暗がりで目立つので、ちょうどオーラのように光るのです。それと似たものとしては、日本の墓地などで、浮遊霊が火の玉のように飛んでいることに近いです。墓地に昔見えた火の玉は、主に遺体の骨の燐の部分が発光して光っているものでした。最近は火葬が徹底しているし、密閉するようになったのでほとんど見受けなくなりました。
 あなたがバルト海で見たのは、人間の霊ではなく、生き物たち、特に海系の生き物たちの生命の気です。また、あなたの心が澄んでいて、生死を乗り越え、達観視してきていたのです。自分では無我夢中で現実に対応してきたのですが、何時しか自分が実感している以上に達観して澄んだ心境になったので、余計あなたには目立って見えたのです。地球は生命に満ちあふれていて、生命は光り輝いていることをあなたに見せたのです。あなたは生命について、今生で苦しい体験を以って会得しました。普通には得がたいことでした。それがあなたに今生で与えられた贈り物です。》


 10.不思議な咲き方をしたサボテンの花

 かつて私が住んでいたアパートのベランダのサボテンは、毎年一回、一つか二つの花を数時間だけ開かせてきたのだが、2012年に限って、私の大腸がんと腹部動脈瘤の二つの病気の検査、入院、手術にタイミングを合わせるように、七回もの開花を繰り返した。
 2012年当時の、このサボテン開花の一回目は6月14日で、この翌日から大腸がんの検診を受けて、内視鏡検査でがんが発見された。2回目の開花が7月19日で、がんの切除手術を受けて退院してきた二日後のことであった。ところが、このサボテンは、その後も、三回目・8月13日、四回目・8月20日、五回目・8月24日、六回目・9月23日、そして、10月12日には七回目が開花したのである。それぞれに撮っておいた写真によって改めてその開花の日の前後を確かめてみると、退院後と入院前の一連の検査や診断で、重要な節目の日に当たっていることがわかる。
  年に一回しか開花してこなかったこのサボテンが、なぜその年に限って七回も花開いたのか、そもそもサボテンに限らず花というのは、そんなに年に何回も開くものなのか、私にはよくわからなかった。思い返してみると、2回の大きな手術の前も後も、私がなんの不安も怖れもなく穏やかに過してこれたのも、この純白の美しい花によっても見守られていたからかもしれない。
 このサボテンが、2012年に、七回もの開花を繰り返しことには何か意味があるのではないかと考えていた私は、その翌年にはこのサボテンがどういう咲き方をするのか、興味を持って見守ってきた。やはりその年、2013年も、最初の開花は異常であった。5月21日の夜、八つの蕾のうち四つが花を開かせた。夜に開いた花は、朝になって陽に当たると数時間でしぼんでしまう。この四つの花は、5月22日の昼ごろにはしぼんで、代わりに残りの四つの蕾が花を開かせた。つまり、その年は、5月21日の夜から22日の夕方までに、八つの花が一度に開いたことになる。
 それまで、二つ以上の花が一度に開いたことはなかったので、その年には、なぜこのような開き方をしたのか、ちょっと不思議であった。しかも、この八つの花が開くというのは、その後、6月16日に1輪、6月19日に7輪と、もう一度繰り返されたのである。この開花はさらに続いて、6月30日にも二つの花が開き、一週間後には、新しく一つの花が開いた。その年には、合計で19の花が6回に分けて開いたことになる。
 その開花の「異常」の意味が知りたくて、私は、2013年6月6日、その年の8つの蕾が確認できた時点で、霊能者として高名なA師に聞いてみた。A師はこう答えた。

  《「7」は生命の進化の段階を表わしています。よりよい霊的な働きは「7」で表わされます。あなたがこの世で病気になったので、富子さんや潔典さんをはじめ、あなたと繋がりがある、あなたをこころから思う霊界の存在たちが、あの世から生命力を送ってきていたのです。そのため驚くほど沢山、たて続けに咲いていました。その生命力のお陰であなたは手術がうまくいき、恢復したのです。
  そしてその霊界からの支援は、いまでも続いて今年も咲き始めています。あの世とこの世との緊密な関係が感じられます。あなた自身、霊界に大分近づきつつあります。これからますます、霊界の雰囲気や霊的存在たちの臨在感を感じられるようになることでしょう。霊界とより緊密になっていき、徐々にあの世へと移行していくことでしょう。この世の側の身辺の整理や処理なども、少しずつしていってください。》

  A師からの答えがこのようなものになるであろうことはある程度は予想していたが、それでも、7回の「7」の数字の意味は、私にとっては初耳であり、新鮮であった。その次の「霊界からの支援」については、私には十分に納得できる気がする。常日頃から、私は、霊界から妻の富子や長男の潔典が見守ってくれていることは、かなり強く意識して過ごしてきた。A師が言われるように、彼らがあの世から「生命力」を送ってきて、そのお陰で手術もうまくいったというのも、おそらくそのとおりであろう。しかし、その彼らが送ってくれていた生命力が、あのようなサボテンの花の開花という現世的な形でも示されていたことには、思い及ばなかった。

  (2017.04.01)





東京都小平霊園の先人たち        (身辺雑記 No.112) 


 東京都小平霊園は、武蔵野台地のほぼ中央、小平市と東村山市、東久留米市にまたがって住宅地と農地が混在した地域にある。65万平方メートルもの広大な広さをもっているが、霊園として利用されているのは、ほぼ半分だけで、残り半分は、緑豊かな公園として都民の憩いの場となっている。園内は、きちんと整列されたケヤキ並木が美しく、ソメイヨシノなどの桜の名所としても有名であり、春には、毎年訪れてくる花見客も多い。

 小平駅北口から表参道を北へ進むと、霊園の正門に至り、そこからは広い中央参道が道路中央の緑地帯を挟んで一直線に北へ伸びている。園内は広いので、参拝者は殆ど車で来ているようである。電車で来る人は、表参道に並ぶ石材店などから無料貸し出しの自転車を利用したりしている。正門から中央参道を1ブロック北へ進むと、最初のロータリーがあり、さらに2ブロック北に進むと、右側に13区の一劃がある。その入り口の角の、目印になるような位置にあるのが大山郁夫の墓(13区1側1番)である。上半身の青銅レリーフが壁面に埋め込まれた大きい墓である。

 大山郁夫(1880-1955)は、早稲田大学政治経済学部を首席で卒業して、早稲田大学教授になったが、後に政治家へ転じて、左派無産政党である労働農民党の委員長になった。戦後は、1950年の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補して当選している。1951年の12月には、スターリン国際平和賞を受賞したが、1955年に参院議員在職中、硬膜下血腫のため76歳で死去した。

 この13区には、13区25側9番に文学・文芸評論家として1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った青野季吉(1890-1961)の墓があり、英文学者でユーモア小説の先駆者であった佐々木邦(1883-1964)の墓(13区23側7番)もある。佐々木邦は、国際マーク・トウェイン協会名誉会員となり、1961年に児童文芸功労賞、1962年に紫綬褒章を受章しているが、81歳の時に心筋梗塞のために死去した。ほかに、13区37側1番には作家では中間小説、時代小説で活躍した浜本浩(1891-1959)の墓がある。作品の「絶唱」が映画化されて有名になった大江賢次(1905-1987)の墓も同じ13区である(13区7側?番)。

 小平霊園に入って、中央参道からこの13区の大山郁夫の墓のところを右折すると、その2ブロックの奥が36区で、その隣が37区である。そのなかに、少し広めの22平方メートルの墓地が並んでいる一角がある。そのうちの一つが武本家の墓(37区12側4番)である。墓の使用名義人は東京都の住民でなければならない規則で、私が札幌に住んでいた頃から、名義人は東京在住の下の妹の名前になっていた。その下の妹も一昨年に亡くなったので、いまは、甥の武本之近が名義人になっている。私はもう87歳にもなっているから、名義人にはならなかった。墓誌には、父母や妻の富子、長男の潔典等の名前が法名と共に刻み込まれているが、私もそう遠くない将来、それに加わることになる。私の法名は、これもすでにつけられているが、「慈光院釈昌叡」である。

 この小平霊園には、いわゆる有名人の墓も少なくはない。生前、会ったことはなくても著作などで私が親しんできた人たちが何人もいる。「袖触れ合うも他生の縁」というが、袖触れ合うことがなかったとしても、墓地が同じであれば、「他生」ではなくとも「多少」の縁はあるかもしれない。いわば同郷の縁のようなものである。そのうちの何人かの「同郷」の人たちを、ここに書き並べてみることにしたい。

 そのなかで、誰よりも私が縁のようなものを感じているのは伊藤整(1905-1969)である。小説家であり文芸評論家・翻訳家でもあった伊藤整は、北海道松前郡に生まれた。旧制小樽中学(現小樽潮陵高等学校)を経て小樽高等商業学校(現小樽商科大学)で学んでいる。小樽高商時代には、『蟹工船』などの著作で知られる小林多喜二(1903-1933)が上級生であった。伊藤整の『若い詩人の肖像』には、小樽高商の授業風景なども描かれている。彼よりも25年年下の私は、大学時代から、彼の作品に親しんでいたが、後に、伊藤整の母校、小樽商科大学で教えるようになった。1969年に伊藤 整は胃癌のため死去した。法名は海照院釋整願で、墓は4区9側36番にある。

 明治生まれの作家では、小川未明(1882-1961)の墓が23区29側6番にある。「日本のアンデルセン」、「日本児童文学の父」と呼ばれた児童文学の大御所であった。本名は小川健作で、童話の代表作としては、『金の輪』『赤い蝋燭と人魚』『月夜と眼鏡』『野薔薇』などがよく知られている。筆名の「未明」は、正しくは「びめい」とよむらしい。

 小川未明は、新潟県高田(現上越市)に生まれた。旧制高田中学(現新潟県立高田高等学校)から、早稲田大学へ進学して英文科を卒業した。在学中の明治37年(1904 )処女作『漂浪児』を雑誌に発表し、この時、坪内逍遙から「未明」の号を与えられたという。卒業直前には『霰に霙』を発表して、小説家として一定の地位を築いた。卒業後は、早稲田文学社に編集者として勤務しながら多くの作品を発表する。大正15年(1926)年、東京日日新聞に「今後を童話作家に」と題する所感を発表して、童話専従を宣言した。ロマンや詩情、ヒューマニズムなどを表現した作品が多く、子供だけでなく大人の鑑賞にも堪えうるといわれていた。

 この小川未明と同じ年に生まれたのが詩人の野口雨情(1882-1945)である。墓は 32区1側8番にある。野口雨情は、童謡・民謡作詞家としても著名で、北原白秋や西條八十と並び、童謡界の三大詩人と謳われていた。多くの名作童謡の歌詞を作ったが、なかでも、「赤い靴」、「七つの子」、「シャボン玉」、「黄金虫」、「青い眼の人形」、「あの町この町」、「雨降りお月さん」、「証城寺の狸囃子」などがよく知られている。「波浮の港」、「船頭小唄」など、昭和歌謡史に残る流行歌も残した。

 野口雨情の生家は、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に現存している。廻船問屋を営む名家であった。野口雨情は、18歳で東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、坪内逍遥の元で学んだが一年で中退。詩の世界に没頭していった。詩を雑誌に投稿しだしたのもこのころからである。22歳の時に父が他界したので、実家に戻り家督を継いだが、詩作は続けた。この頃から「雨情」の号を使い始めた。しかし、地元磯原の生活に嫌気がさし、樺太にわたって新規事業に取り組むも失敗。東京に戻ったもののしばらくして北海道に渡り、今度は、小樽日報の記者となる。このとき石川啄木と同僚となった。

 小樽日報をやめたころに二番目の子供(娘)が生後一週間で亡くなり、この時つくられた歌が「シャボン玉」とも言われている。小樽日報もあわせ6カ所の新聞社に勤めたが、母の死去により実家に戻り先祖からの全資産を管理していくことになった。植林活動や漁業組合の理事なども務めて、詩作に没頭できずに悶々としていたという。2度の離婚と再婚をくり返したあと、36歳の時に、水戸で中里つると結婚する。この頃より詩作活動を本格化させていった。1925年、43歳のときに日本童謡集の選者となり、1935年53歳で日本民謡協会を再興して理事長に就任。日本各地を旅行しながら、その地の民謡を創作した。戦時中の1945年(昭和20年)、宇都宮市にて疎開中に永眠する。享年63歳であった。本名は野口英吉である。

 明治生まれの作家では、自然主義文学の大家として知られる徳田秋声(1872-1943)の墓も23区27側29番にある。徳田秋声が生まれた1872年は明治4年で、現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として誕生した。明治維新後、没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。その小学校(現在の金沢市立馬場小学校)の一学年下には泉鏡花がいた。1888年(明治21年)第四高等中学校に入学したが、その3年後、父が死去したため第四高等学校を中途退学している。このころから読書熱が高まり、小説家を志望するようになったという。

 その後、郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などをしながら半放浪的生活を送り、1895年(明治28年)、博文館の編集部に就職する。そこで、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入った。1896年(明治29年)、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。以来、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、1900年(明治33年)「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となった。1906年(明治39年)4月末頃、秋声は本郷森川町の住居に転居して、ここが生涯の住処となった。この住居は、東京都史跡に指定されて現存している。

 1910年(明治43年)には、『足迹(そくせき)』を「讀賣新聞」に連載し、1911年(明治44年)には、私小説『黴(かび)』を、夏目漱石の推挽により「東京朝日新聞」に連載する。この二作によって、秋声は初めてといっていいほどの文壇的成功をおさめ、島崎藤村、田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた。1937年には芸術院会員になる。1943年、戦時中の昭和18年、肋膜がんのために死亡した。戒名は、徳本院文章秋声居士である。

 明治生まれの、作家というよりは美学者、宗教哲学者として著名な柳宗悦(1889-1961)の墓も27区13側2番にある。柳宗悦は、明治22年に、東京で海軍少将・柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を卒業する頃から同人雑誌『白樺』に参加する。東京帝國大学哲学科に進学した宗悦は、宗教哲学者として執筆していたが、西洋近代美術を紹介する記事も担当しており、やがて美術の世界へと関わっていく 。1913年(大正2年)、大学卒業してからは、ウォルト・ホイットマンの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となったといわれる。

 1914年(大正3年)、声楽家の中島兼子(柳兼子)と結婚し、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派のとも付き合うようになって、旺盛な創作活動を行った。当時、白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていた。彼らはフランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手する。1916年(大正5年)以降は、たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された。1924年(大正13年)にはソウルに「朝鮮民族美術館」を設立、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示して、その中の美を評価した。1957年(昭和32年)には、文化功労者に選ばれた。晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされ、1961年(昭和36年)春、脳出血により日本民藝館で倒れて、数日後に逝去した。享年72歳であった。

 作家、評論家として戦後の保守系マスメディアで活動した山本七平(1921-1991)の墓も1区8側21番にある。1970年に出版された『日本人とユダヤ人』は大ベストセラーになったが、山本七平は、そのほかにも、『「空気」の研究』、『日本人の人生観』、『「あたりまえ」の研究』、『日本型リーダーの条件』、『日本人とは何か』など、数多くの日本社会、日本文化、日本人についての論考を発表してきた。私も、比較文化論の考察を進めていくうえで、彼の著作からは、いろいろと影響を受けてきた。忘れられない作家の一人である。

 山本七平は、現在の東京都世田谷区三軒茶屋で、クリスチャンの両親の間に長男として生まれて、1937年 には青山学院教会で洗礼を受けた。1942年9月、太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業して、10月に陸軍近衛野砲兵連隊へ入隊した。その後、甲種幹部候補生に合格して、愛知県豊橋市の豊橋第一陸軍予備士官学校に入校する。1944年5月には、陸軍砲兵見習士官として門司を出航し、ルソン島における戦闘に参加したが、1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。マニラでの捕虜収容所生活を経て、1947年に帰国した。その後、世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店を創業し、『日本人とユダヤ人』をはじめ、多くの日本人、日本文化の著作を発表したが、1991年(平成3年)、膵臓がんで死亡した。遺骨の一部はイスラエルで散骨されたという。

 昭和期の女流作家・小説家・詩人の壺井 栄(1899-1967)の墓も小平霊園にある。10区1側4番である。彼女の代表作『二十四の瞳』は、昭和の第二次世界大戦前期の瀬戸内海の小島を舞台に、新任の若い女性教師と、小学校入学直後の12人の児童のふれあいを描いた作品である。木下恵介監督・高峰秀子主演で映画化され、香川県小豆島の名を全国に知らしめた。瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方mの敷地に『二十四の瞳 映画村』もあるらしい。敷地内の壺井栄文学館には代表作「二十四の瞳」の生原稿をはじめ、愛用品、初版本などの他、夫壺井繁治(1897-1975)の書簡なども展示されているようである。

 壺井 栄は、この小豆島の出身である。26歳で詩人壺井繁治と結婚。昭和13年(1938)処女作である『大根の葉』を発表後数多くの作品を執筆。芸術選奨文部大臣賞を始め、新潮文芸賞、児童文学賞などを受賞。代表作『二十四の瞳』が発表されたのは、昭和27年(1952)であった。私の妻からの霊界メッセージを伝えて下さった大空澄人氏も、この小豆島の出身で、この『二十四の瞳 映画村』へは何度か行かれているようである。氏の「続 いのちの波動」(2017.02.24)には、氏がこの映画村を訪れた時にインスピレーションで受けた高峰さんと壷井さんからのメッセージを、つぎのように伝えている。

 「栄さんは私の恩人、栄さんのお蔭で私は女優として成長することが出来ました。あの二十四の瞳の映画のお蔭です。私は栄さんに大変感謝しています」。(高峰秀子)

 「私の書いた二十四の瞳は高峰秀子さんという優れた女優さんに巡り合えたことによって全国的に知られるようになりました。彼女は私の恩人、大切な人なのです」。(壺井栄)

 女流作家では、宮本百合子(1905-1996)の墓が2区11側6番にある。宮本百合子は、東京の裕福な家庭に生まれ、日本女子大学英文科中退。大正5年(1916)、坪内逍遙の紹介で中条百合子(本名ユリ)の名前で『貧しき人々の群』を『中央公論』に発表した。大正7年父精一郎と渡米。翌年コロンビア大学聴講生となるが、ニューヨークで古代東洋語の研究者荒木茂と知りあい結婚して12月帰国。1924年離婚。以後ロシア文学者湯浅芳子と同居生活に入る。この間『伸子』執筆に専念した。

 1927年12月には湯浅とともにソ連に外遊した。滞在中に西欧旅行など経たのち昭和5年11月帰国。その翌月には、日本プロレタリア作家同盟に加入している。昭和7年2月、宮本顕治と結婚した。翌年12月スパイ容疑により顕治検挙。昭和9年中条から宮本へ改姓する。敗戦までの厳しい期間のなか百合子も投獄・執筆禁止などを繰り返しながら作家活動に励んだ。昭和20年10月、顕治が獄中から釈放され、夫と交わした書簡はのちに『十二年の手紙』として刊行された。戦後も社会運動・執筆活動へ精力的に取り組み多くの作品を残している。

 ほかに女流作家では、有吉 佐和子(1931-1984)がいる。墓は、25区12側15番である。古典芸能や花柳界、日本の歴史から現代の社会問題まで幅広いテーマでカバーする幅広い作品で読者を魅了したベストセラー作家として有名であった。代表作である『紀ノ川』のほか、『花岡青洲の妻』、『出雲の阿国』、『和宮様御留』、『私は忘れない』、『不信のとき』、『一の糸』、『恍惚の人』、『複合汚染』、『三婆』、『悪女について』、『海暗』、『香華』など、数多くの作品を残した。松本清張、山崎豊子と並ぶベストセラー作家として、映画、TVドラマ化された作品も多数である。

 有吉佐和子は、和歌山県和歌山市出身である。東京府立第四高女(都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女へ。その後、光塩高女、府立第五高女(都立富士高校)を経て東京女子大学短期大学部英語学科卒業。昭和27年(1952)『地唄』が芥川賞候補となり注目された。『複合汚染』は日本の公害について書き上げた代表作となった。1964年 『香華』で第10回小説新潮賞、 1967年 『華岡青洲の妻』で第6回女流文学賞、『出雲の阿国』で第20回芸術選奨文部大臣賞、昭和53年(1978) 『和宮様御留』で第20回毎日芸術賞を受賞している。1984年8月、急性心不全のため死去した。53歳の生涯であった。

 女流作家では、もう一人、私にとっては忘れられない人がいる。ノンフィクション作家で歌人でもあった辺見じゅん(1939-2011)である。角川書店の創業者角川源義の長女で、角川春樹の姉にあたる。1961年に、早稲田大学第二文学部史学専修卒業。1964年、清水真弓の名で私小説『花冷え』を刊行したが、以降は辺見じゅんの筆名に変えた。1984年に『男たちの大和』で新田次郎文学賞、1988年に『闇の祝祭』で現代短歌女流賞、1989年に『収容所からきた遺書』で講談社ノンフィクション賞を受賞している。

 私は高校時代、東京都立第一高校(現・日比谷高校)2年生の時、一年飛び級で都立豊多摩高校3年生に編入学して、その翌年、大学へ進学したのだが、辺見じゅんは、その豊多摩高校では私の後輩にあたる。私が1983年の事件後、潮出版社から『疑惑の航跡』を出版した時、「朝日新聞」の書評欄でこの本は大きく取り上げられた。その際、この本を読んだ彼女が、「心理状態の細かい部分までよく書けている」と褒めていたと潮出版社編集部の南普三氏が伝えてくれたことがある。悲歎のどん底に沈んでいた私は、作家から褒められたことが有難く、生きていくためのささやかなこころの支えになった。彼女は、2011年に、東京都武蔵野市の自宅で亡くなった。72歳であった。墓は16区1側3番にある。

 映画俳優・監督としてよく知られた佐分利信(1909-1982)の墓も小平霊園にある。2区17側15番である。彼は、北海道歌志内市出身で、昭和6年(1931)に俳優デビューした。松竹時代は上原謙、佐野周二とともに“松竹三羽烏”と呼ばれ、渋い二枚目として活躍した。 『戸田家の兄妹』(1941)、『嫉妬』(1949)、『自由学校』(1951)、『お茶漬の味』(1952)、『彼岸花』(1958)、『華麗なる一族』(1974)、『砂の器』(1974)、獄門島(1977年)などに出演している。俳優としてだけでなく、映画監督としても『女性対男性 』、『慟哭』、『叛乱』などで高い評価を受けていた。本名は石崎由雄である。

 そのほか、小平霊園には文芸評論家であった荒正人(1913-1979)の墓が16区2側7番にある。『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞したが、法政大学文学部英文学科教授在任中に死去した。戒名は、芳文院紫陽正人居士である。香川県出身の文芸評論家・十返 肇(1914-1963)は、『文壇と文学』(東方社刊)刊行以来、文壇に関する著書を数多く発表したが、舌癌で死去した。墓は41区2側1番にある。歴史、民俗学の学者として、私もその著書で親しんでいた和歌森太郎(1915-1977)は、1976年から逝去するまで、都留文科大学学長であった。墓は12区20側32番である。政治学者でお茶の水女子大学長なども務めた蝋山政道(1895-1980)は、民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在であったが、急性心不全で死去した。墓は16区20側21番にある。経済学者で東京大学名誉教授、法政大学総長であった有澤廣巳(1896-1988)の墓は、32区13側22番にある。統計学が専門で、1981年に文化功労者に選ばれた。

 さらに、実業家で電源開発初代総裁であった高碕達之助(1885-1964)の墓は39区1側8番にある。通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。千葉県出身の政治家、社会運動家の河野密(1897-1981)の墓も、23区1側16にある。東京大学卒業後、日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選して以来、12回当選したが、1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選してからは、そのまま政界を引退した。

 以上、私にとっても親しい名前の人々の墓が、小平霊園にある。「千の風になって」に歌われているように、これらの人々は、私の家族をも含めて、小平霊園に眠っているわけではないであろう。遺骨がここに収められているだけである。しかし、遺族にとっては、ここが地上での霊界への大切な接点であり祈りの場である。墓前に額ずいて、故人を偲び、こころからの対話を試みる。私もいままでそうしてきた。そう遠くない将来、私もこの小平霊園の墓地に入ることになるが、霊界では、やがて、私の家族以外のこれらの人々とも、逢うことがあるかもしれない。私はその時、小平霊園という、いわば地上での「同村の誼」で、生前いろいろと間接的ではあっても導かれてきたことを改めて感謝し、懐かしみを込めて新参者の挨拶をすることになるであろうと考えている。

 (2017.06.01)






    イエスとキリスト教についての真実 (資料)    (身辺雑記 No.113)


 よく知られているように、ヨハネの福音書(5:24)には、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の生命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と、書かれている。それに対して、シルバー・バーチは「それは間違いです」と断じている。「人間は一人の例外もなく死後も生き続ける」のが霊的真理だからである。人間は、「何かの教義や信条、あるいはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。それ自体は宗教とは何の関係もありません。因果律と同じ一つの法則なのです」とシルバー・バーチは言う。そのうえで、こう続けた。「この文句は地上に大きな混乱のタネを蒔き人類を分裂させてきた言葉の一つです。一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせないほどの流血の原因となってきたということは、何という酷い矛盾でしょうか。宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体ならしめることにあるはずです。」(シルバー・バーチの霊訓 (10)』潮文社、1988、pp. 182-183)

 シルバー・バーチは、このように、現在のキリスト教に批判的であり、聖書の教えは、イエスの本来の教えからしばしば逸脱してしまっていることを幾度も指摘している。何故こうなってしまったのか。シルバー・バーチによれば、聖書の原典は、あのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないらしい。「あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写しの写しの、そのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて記憶をたどりながら書きました。イエス曰く・・・・と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」と、シルバー・バーチは言っている。(「霊訓(5)」p.184)

 いうまでもなく、キリスト教は現代社会では最大の宗教で、イスラム教、仏教とともに世界宗教とよばれ、人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている。その信者の数は世界中で約20億人以上ともいわれている。特に近代文明の中心であった欧米社会は、キリスト教文化に強く彩られているだけに、キリスト教は世界中に、宗教界のみならず、社会的、政治的にも強い影響を及ぼしてきた。そのキリスト教が、批判されるようなことがあれば、当然、それに対する反発も強くなる。スピリチュアリズムが、キリスト教会から白眼視されるのもそのためであろう。

 しかし、現在のキリスト教を批判しているシルバー・バーチは、おそらく20億人のキリスト教信者の誰よりも、イエスの教えとイエス自身に近いところに存在している。ロンドンでの交霊会に出ていた頃でも、シルバー・バーチは、毎年2度、クリスマス(冬至)とイースター(夏至)に、この地上から引き上げて、イエスが主催される大集会に参列し、イエスに何度も直接に逢ったりしていた。(「霊訓 (11)」p. 96) イエスを最もよく知っているそのシルバー・バーチのことばに耳を傾けることは、それゆえに、キリスト教信者であるなしに関わらず、聖書に関心のある者にとっては充分に意味のあることといえるであろう。

 本稿では、真実のイエスの姿を教えようとするシルバー・バーチのことばをいくつかまとめていきたい。霊的真理は一つであるはずだから、そのことを確認していくためにも、このような資料の検討は蔑ろにはできない。そのシルバー・バーチのことばの基本的なものを抜き出して資料Aとする。また、『霊訓』第5巻、11章のキリスト教牧師との論争で、牧師が「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けたのです」と言ったのに対して、シルバー・バーチは「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」と答えているように、西暦325年に開かれた「ニケーア会議」が聖書を歪めてきた主体として極めて重要である。そのニケーア会議を資料Bとして、記録の一端にも触れていくことにしたい。さらに、「処女懐胎」として言い伝えられているイエスの誕生の真実を取り上げた一つの文献を資料Cとして付け加えておくことにする。



    資料A  シルバー・バーチのことば

 A-1(イエスの教えとスピリチュアリズムについて)

 この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知るかぎりを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。
 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽とをつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長しはじめた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられて来ました。地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫からの叡知が地上へ注がれたのです。
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説"霊的啓示の系譜″参照)ユダヤ人を両親として生まれ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね具え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不減の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来事も、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。
 では "バイブルの記録はどの程度まで真実なのか″とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なんびといえども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。そして彼らの奸計によってご存知の通りの最期を遂げ、天界へ帰ったあとすぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。臆病にして小胆な弟子たちは、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。
 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。
 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置づけるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。
 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則---愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。
 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物---それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対称とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけた仕事の延長ともいうべきこの(ズピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、またぜひとも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです。(「霊訓(3)」pp.100-105)


 A-2(人間イエスとイエス・キリストはどう違うのか)

 ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。
 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変らぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。
 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。
 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。
 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。
 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。
 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“大霊”とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。
 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。(「霊訓(9)」pp.138-140)


 A-3 (イエスの教えと間違いを犯している信奉者を混同してはならない)

 愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛はかならず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。
 イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった---自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。
 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。
 イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ”と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。
 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも“イエス崇拝”を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それは私が“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです(8巻p.18参照)。あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。
 たとえその後一段と明るい知識に照らし出された時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。
 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです。(「霊訓(9)」pp.144-147)


 A-4 (イエスも人間として立腹したことがあった)

 (イエスが両替商人を教会堂から追い出した話を持ち出して)私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった----ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。
  ・・・・・ 誰の手も届かないところに祭りあげたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります。(霊訓(5)pp.193-194)


 A-5 (キリスト教の「回心の教義」をどう思うか)

 よくご存知のはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〃たとえ全世界を得ようと己れの魂を失わば何の益かあらん〃(マルコ8-36) 〃まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのものすべて汝らのものとならん″(マタイ6-33)この文句はあなた方はよくご存知ですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〃神を侮るべからず。己れの蒔きしものは己れが刈り取るべし″(ガラテア6-7) これもよくご存知でしょう。
 神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落せると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。(「霊訓(5)」p.199)


 A-6 (キリストの赦しを受け容れることが愛の施しにはならないか)

 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する----それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変りません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。
  前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは “そう言ったと思う”という程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。
 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まも遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今もけっして多くはありません。しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。(「霊訓(5)」pp.203-204)



    資料B  ニケーア会議について


 ニケーア(ニカイアとも表記)は小アジア西部の地名で、現在はトルコ領の小都市イスニックである。この会議は、325年、コンスタンティヌス帝が主催したキリスト教教義を決する最高会議で、一般に宗教会議とも言われるが、公会議と呼ばれることもある。これ以後、この会議は何度も開催されてきた。
 その前年の324年、コンスタンティヌス帝は自らキリスト教徒であることを宣言、翌325年にニケーアに約300人の司教を集め、コンスタンティヌス帝自ら黄金の椅子に座り議長を努めた。ここでは、イエスの神性を否定するアリウス派と、イエスの神性を認めるアタナシウス派の両派が激しく論争を展開した。
 2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく中で、キリスト論や三位一体論の解釈においてさまざまな立場が現れたが、その中で正統的でないとみなされたものを支持するものもおり、彼らは異端とみなされて排斥された。このような場合、ある思想が正統か異端かということを判断する場合、主教(司教)一人の手におえなければニカイア公会議以前ではそれぞれの地方教会において会議を開いて解決するのが一般的になっていた。
 しかし、3世紀にアリウス派の思想が論議になるにいたって、地域の主教(司教)や地方教会会議だけでは解決が難しい事態となった。これは放置すればキリスト教の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の民心統一に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても頭の痛い問題だった。ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることになったのである。
 会議は一連の問題の議決およびアリウスとその一派の追放を決定して閉会した。しかし、この後も政治的な意図と神学論争を含んだ争いによって一度はアリウスの名誉回復がおこなわれ、アタナシオスたちが弾劾されるなど状況は二転三転、三位一体論争の解決にはなお多くの時間がかかることになる。見過ごすことができないのは、この公会議で、コンスタンティヌスに都合のいいように、聖書にいろいろな改ざんが為されたことである。それを示す資料の一つとして、D.ダドレー『第一回ニケーア公会議の真相』(近藤千雄訳編)から、その一部を抜粋しておきたい。原著名は次のとおりである。

  History of the First Council of Nice
           A World’s Chiristian Convention in 325 A.D.
  (The 7th edition)
               By Dean Duddley, attorney-at-law
              Published in 1925 by Peter Ecker Publishing Co., New York


 B-1 ( 「序論」から)

 英語のCouncil, Synod,Conventionはいずれも「会議」を意味する同義語である。有名な『ニケーア公会議』の前にもキリスト教界の会議はいくつも開かれているのであるが、それらはEcumenicalでなかった、つまり全キリスト教界的なものではなかった。多分、初期の頃は指折り数えるほどの教会から司教Bishopが出席するだけだったのが次第に影響力を伸ばし、代表する地域が広がっていったのであろう。
 イエスの使徒たちが伝道していた時代においては、その使徒たちが司教を選んでいたが、やがてその使徒の門弟たちが選んだ上でその教区の信者たちの認可を得るようになった。さらに時代が進むと、広い教区の代表が集まって新しい司教を指名するようになったが、それでもやはり住民の認可が必要だった。それが『ニケーア公会議』において大きく改められた。その具体的内容は本文で扱うとして――
 その『公会議』の経緯を見ていくことによって、われわれは当時のローマにおけるキリスト教界の特殊事情を垣間見ることになる。即ち、「大帝」と呼ばれたコンスタンティヌスConstantine the Greatの存在が圧倒的な影響を及ぼしていたことである。残念なことに、見てくれも勇猛さにおいても大帝の称号に相応しかった男が、晩年にいたってライバルや血縁者に残虐非道の限りを尽くして、その歴史に拭いきれない汚点を残してしまった。
 彼自身、洗礼の儀式を行なったくらいでその罪が洗い流され魂が清められると本気で信じたとは思えないが、彼の周りにはおべんちゃらの上手な取り巻き連中がいて、正義にかこつけてそういう教義をこしらえ、彼にひそむ醜悪きわまる人間性を操ったのである。
 ただ彼も、臣下の者たちに自分が天国に行きたいという願望を持っていることを意思表示していたことは間違いない。というのは、大きな金貨の片面に部分的にヴェールのかかった自分の姿を刻ませ、裏面には自分が乗ったチヤリオツト[二ないし四頭立ての古代ローマの戦車]が天翔けり、それを受け止めようとする手が天上から差し出されている光景を刻ませているからである。
 私は一六〇四年に英語に翻訳されロンドンで出版されたメヒーアMexiaというスペイン人の書物を読んで、著者がコンスタンティヌスの生涯についての叙述の最後の部分で妙なことを言っているのに興味を抱いた。それは、彼の姿格好が悪逆非道の行為と似つかわしくないと述べている部分で、しかし「それらの行為は過ってはいなかったのであろう」と   一転して弁護し、なぜならば聖ヒエロニムスSt.Jerome[五世紀初頭のキリスト教を代表する修道士でラテン語聖書の完成者]を初めとする聖人や教皇が彼のことを立派なクリスチャンであり永遠なる至福の継承者であると明言しているから、と述べているのである。
 近代のプロテスタント系の書物での評価はそんな甘いものではない。アリウス派Arians[四世紀のアレキサンドリアの神学者Ariusの一派で“三位一体説”を否定した。そもそも「ニケーア公会議」の目的は“三位一体説”を論ずることにあった]の書物が一冊も存在しないのは一体なぜなのか?“三位一体論者”たちが一冊残らず焼き棄ててしまったのである。
 当時は、キリスト教の慣例として異端の信者は懲らしめ、異端の書物は焼き棄てていた。政治制度の大きな側面を担うものとしては、当時の宗教はまだまだ幼稚なもので、為政者がその戒律その他を好きなように改めていた。その目的は自分たちの見栄と欲望を満たすことでしかなく、しかもそれが「イエス・キリスト」の名のもとに行なわれた。もしイエス自身がその場にいれば、恥ずかしくかつ嘆かわしい思いをしたことであろう。
 《復活祭》Easter Festivalも本来ならユダヤ教の最大の祝日である《過ぎ越しの祭》Passoverの日にするのが最もふさわしいはずであったが、これもコンスタンティヌスの気まぐれな思いつきで変更された。彼は神がユダヤ民族を最も愛されたというユダヤの言い伝えを認めざるを得ない立場に追い込まれながらも、それまでローマが嫌い迫害してきたユダヤ民族そのものへの嫌悪感が捨てきれなかったのである。
 《安息日》Sabbathの変更も同じく理不尽な偏見からだった。ユダヤ人にとっては土曜日が安息日であり、ローマ人のキリスト教徒にとってもそれで何の不都合もなかったのであるが、日曜日が聖なる日だと言い張って、それ以外は頑として許さなかった。イエス自身も日曜日が聖なる日だとは言っていない。
 その日曜日の祈りをする時に膝を折ることを禁じている戒律もある。スタンレー博士Dr.A.P.Stanleyによると、これはイエスの使徒たちが説教しながら立ったまま祈ったからだと言う。しかし私は、ひざまずくということは卑下することであるという考えから、勝利と喜びの日である日曜日にひざまずくことを禁じたのではないかと推察している。
 キリストが死者から甦って死と地獄に打ち勝った日は日曜日だったと信じられている。となると、ひざまずくことは敵に屈することであるから、祈る時に膝を屈することはふさわしくないとされたのであろう。ちなみに、ニケーアにおける会議で祈りの儀式がいっさい行なわれなかったのも不思議である。
 さらには去勢された者が司教の職につくことを禁じた戒律もある。かつては男性としての機能を削ぎ落とすことが宗教性を高揚すると見なされた時代があったのである。そうした愚かさを止めさせるためには、司教職を剥奪するという、さらに強硬な手段に訴えたのである。
 コンスタンティヌスは証聖者(迫害に屈しないで信仰を守った者)や禁欲に徹する修道士には最大限の敬意を表し、拷問で受けた傷痕に口づけをすることで神の資質を授かると信じていた。多分これは敬虔な司教たちの心をつかむ意図もあったと思われるが、コンスタンティヌスが言い出す教義のウラには必ず狡猾な打算があった。修道士、修道女、隠遁者、その他、人間的安楽や快楽を拒否した生活を送っている者を賞賛し、恩着せがましく保護した。ぼろを着て不潔な環境で動物のように草類を食べて生きるということが、初期のキリスト教の教父たちにとっては、もっとも神聖な生き方とされたのである。
 キリストの生きざまに倣おうとすれば、およそそうした生き方は生まれて来ない。にもかかわらず、そうしたクリスチャンが殉教者とともに「列福者」(奇跡を行なった人)として賞賛されてきたのである。
 「偉大にして聖なる会議」と呼ばれるニケーア会議において聖書の文句が一節でも朗読されたという記事が見られないのも不思議である。聖ヒエロニムスの記録によると、プロテスタントの外典とされている『ユデテ書Book of Judith』がその公会議において真正なる書として承認されたことを教父たちから聞いたというのであるが、それ以外の初期の記録にはそういう記述は見られない。
 歴史家がたびたび述べていることであるが、その当時の教父たちはいわゆる「聖典」の記述を今日とは違った解釈をしていたようで、例えばコンスタンティヌスはかの有名な『聖人に贈る式辞Oration to the Saints』の中で「エデンの東」はどこかの別世界にあるかの表現をしており、テルトウリアヌスTertullianを始め、タティアノスTatian、アレキサンドリアのクレメンテClement、その弟子のオリゲネスOrigen、聖ヒエロニムス等々のキリスト教神学者も同じである。
 三二五年の公会議で採択された新しい宗教の支持者に回ったギリシャの神学者の中にも、すぐにそれらしき文書を書いて有名な弟子や殉教者の名前を付し、掘り出し物でも発見したかのように装って提出した者がいたようである。その種の神学者の魂胆は軽蔑して余りあるものがあるが、いかにもそれらしき体裁をしているので真正なものとして認可されているものがあるのである。
 例えば『ヘブル人への手紙The Epistle to the Hebrews』がその良い例で、パウロの署名が入ってはいるが、これはいわゆる『ロマ書The Epistle of Paul to the Romans』 に倣って誰かが書いたもので、確かにパウロの思想が入ってはいても、これをパウロ自身が書いたと信じる専門家は今はいない。
 『ヨハネ黙示録』も怪しい文書であり、四つの福音書についても、近代の聖書学者の研究によって原文にはなかったはずと断定されている箇所がいくつも指摘されている。例えば『ヨハネ福音書』の冒頭の文句、即ち「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった」は用語も表現もプラトン哲学とそっくりであるが、ガリラヤの湖で兄のヤコブとともに漁師をしていたヨハネが、いくら学問好きだったとは言え、その一文で文書を書き始め、しかも、それが『ニケーア信条』の根幹をなす思想となっていることを弁護できる人がいるであろうか。
 初期の時代に、真面目で信心深いクリスチャンの間でよく読まれた文書に『ハーマスの羊飼いShepherd of Hermas』というのがあったが、著者は不明で、読んでみるとなるほど敬虞な用語を用いているが、文章は稚拙である。
 いわゆる『ニケーア信条』を支持した教父たちは、反対派の文書は詩文で書かれているから詩人が書いたものであり、したがって神の啓示ではないと論駁した。しかし、そうなると旧約聖書はほとんどが詩文で書かれているという事実をどう弁護するのであろうか。また、世界各地の宗教を見ても、太古の宗教的文献は大半が神聖な雰囲気をもった詩文で書かれている事実を見落としてはならないであろう。
 私が思うに、宗教の根幹を占める信仰と憧れは一種独特の詩的テーマであって、決して科学的推論や歴史的事実から生まれたものではない。だからこそ誰にでも親しめるのである。もしも神学上の教理の論理的根拠や証拠を検討しなければならないとしたら、それができるほどの知的能力をそなえた者はまずいないであろう。
 となると、必然的に信仰というものは、誰かが述べたことや実体験したことに基盤を置くことになる。詩文で書かれていても散文で書かれていても、それが代々の慣習であり先祖から受け継いだものであれば、その中に自分が良いと思うもの、あるいは自分にとって都合が良いものを見つけて、それを自分の信仰としていく傾向がある。「暗黒時代」と呼ばれたあの身の毛もよだつ悪逆非道の時代から引き継がれた信仰が、今日なお残っている事実がそれを雄弁に物語っている。
 これを改め理不尽な教理をなくしていくのは科学の責任である。ハックスレーThomas HuxleyやティンダルJohn Tyndall(いずれも十九世紀末の英国の科学者)のような大学者が伝統の誤謬や教説の不条理を指摘しているのは当然のことである。
 コンスタンティヌスは、知性の深さと洞察力においては“大帝”の名にふさわしい人物ではなく、ただ抜け目がなく、機を見るに敏で、何ごとにつけてエネルギッシュで、その上際限のない野心に駆られて行動したからこそ、彼よりも偉大な人物でも克服できなかったであろうほどの困難を凌いで行ったまでのことである。
 彼は自然科学については基本的原理すら知らなかった。そこから生まれる軽信性と迷信性が、唯一、彼の邪悪な性向を抑制する働きをしていた。が、ある時期から“国の王”たる自分と“天の王”たる神とを同等に考えるようになり、勝手に法律をこしらえ、好きなように臣下を殺し、敵に対しては剣でも火でも使って徹底的に報復してよいと思い込むようになった。そして、勝てばそれは神が許したことの証しである――正しくなかったらその行為を許されなかったはずだ、という都合の良い論理で押し通した。
 司教たちも彼におもねて勝手な教えを説いた。例えば神は「一人息子のイエスを人類の贖い主として地上へ送り十字架にかけられた。だから、国王たる者は国のためであれば我が子を犠牲にしてもよろしいのです、と。
 こんな気違いじみた教えを真に受けたコンスタンティヌスは、その極悪性を感じぬまま数々の血なまぐさい犯罪を重ねていった。その性格と行為とが、彼みずからでっち上げたキリスト教に暗い影を落とすことになる。
 『ニケーア公会議』は信仰というものを強制的に押しつけようとした政治的暴挙の最たるもので、これほど理不尽なやり方は、偉大なる知性に恵まれた人間のやったこととしては世界の歴史でも類を見ないものである。近代英国の知性を代表するミルJohn Stuart Millは名著『自由論』の中でこう述べている。

 キリスト教を容認した最初のローマ皇帝がマルクス・アウレリウスでなくコンスタンティヌスだったことは、世界のあらゆる歴史の中でも最大の悲劇の一つであろう。もしもそれがコンスタンティヌスの治世下ではなくマルクス・アウレリウスの治世下であったなら、世界のキリスト教はどれほど違ったものとなっていただろうかと思うと、胸の痛む思いがする。

 イエス・キリストが永遠の煉獄という教理を説いたか否かは神学者の間でも疑問とされている。ローマ・カトリック教会では神話でいうシーオールSheol、タルタロスTarutarus、ハデスHades等に倣って地獄説を取り入れたが、この手法はその他の教理や形式や儀式についても同じであって、多くのものが古い宗教からの借用である。
 イエスの説いていることを読む限りでは、日常生活で人のためになることを心がけた生き方こそ、神 Godへの真実の信仰の道であるように思えるのだが……


  B-2 (「第1章 会議の目的と結末」から)

 『ニケーア公会議』の最大の目的はイエスの神性と、物的宇宙を創造した根源的エネルギーとキリスト神との明確な関係を、堅固な基盤のもとに討議し決着をつけることにあった。というのは、いわゆる「アリウス論争the Arian contoroversy」によって教会のみならず社会一般の人たちも思想・信仰に混乱をきたしていたからであるが、実はそれ以外にも教義や規律にもさまざまな問題点があった。その中でも重要だったのはメレティウス派Meletiansが打ち出した新しいドグマと、同じくノヴァティアヌス派Novatiansのドグマ、それに「過ぎ越しの祭」を祝う最も適切な日はいつかという問題もあったのである。
 キリスト教学者のモスハイム博士 Dr. Mosheimによると、コンスタンティヌスはもともと宗教というものに無関心だったのが、紀元三一三年頃からキリスト教に好感を抱くようになった。それはどうやらエジプト人の司教―多分スペインのコルドバの司教ホシウスHosiusであろう― がローマまでやって来て、皇帝にキリスト教を説いたから、というのが歴史家ゾシムスZosimusの推察である。
 しかし皇帝自身は他の宗教も人類にとって有用なものと考えていた。なのに急に公会議を召集してキリスト教だけを公認し、在来の宗教をすべて廃棄するようにとの勅令を出した、その理由をみずから述べたのは、それから数年後、他界する少し前である。これについては英国国教会の前出のスタンレー神学博士が、的を射た決定的な観測を述べている。
 それは、マクセンティウスMaxentiusを征服した頃に彼は家族や親族に対して身の毛もよだつ残虐行為を行ない、その事実をひた隠しにしようとしたが、世間に漏れていた。そんな時にパレスチナにいたコンスタンティヌスは、次のようなローマの奢侈と悪逆非道を揶揄した詩文が刻印されているのを見た。

   サトゥルヌスの黄金時代を取り戻すのは一体だれか?
   いま宝石で輝いてはいるが、またネロが支配するのか?
         [サトウルヌスは黄金時代を支配したローマ神話の神]

 これにショックを受けて沈み込んでいる大帝のもとに母親のヘレナを連れてホシウスが訪れ、キリスト教を信ずる者に許されないことは何もないのです、と説いて慰めたという。が、コンスタンティヌスが犯した罪悪でれっきとした証拠のあるものだけでも数かぎりないが、嫌疑のあるものや伝説的に伝えられているものを数え上げたらキリがない。そうした罪悪への死後の報いに恐れをなしたコンスタンティヌスはキリスト教を国教とすることを考え始める。
 相談を持ちかけられた当時の有力な司教たちは、すでに政敵をことごとく制圧したコンスタンティヌスに取り入るために、大帝にとって都合の良い宗教思想や教義・信条をもっともらしくでっち上げ、それを発表し国教とするための公的会議を開催することにする。それが『ニケーア公会議』の開催にいたる真相である。
 開かれた会議は、正確な日数は定かでないが、100日以上の日数を費やしながら、最後は強引な採決によって、最大の論的であるアリウス派を退けて、予定していた通りの目的を果たす。
 しかし、時とともにアリウス派が再び息を吹き返し皇帝派を慌てさせる。が、アリウスを暗殺するなどの強引とも悪辣ともいえる手段で、ついにアリウス派をキリスト教界から抹殺してしまう。
 かくして『ニケーア公会議』は“第一回”という由緒と、“総会”という公的性格とその華々しさ、それに討議の重厚さも加わって、キリスト教界に前例がないだけでなく、宗教の歴史にもこれに比肩しうるものはないであろう。


 B-3 (「第3章 公会議を開催せざるを得なくなった要因」から)

 シリア生まれのキリスト教史家で司祭でもあったセオドレットTheodoretによると、悪名高い暴君たち、即ちマクセンティウスMaxentius、マクシミンMaximin、リシニウスLiciniusが他界した後は、教会に対して猛威をふるった悪逆非道の嵐も収まった。教会への敵意の風も凪ぎ、静寂が訪れた。
 それを推進したのが、ほかならぬコンスタンティヌスである。当時はまだ王子だった。人間によって召されたのではない、人間を通して召されたのでもない、神によって召された、まさしく「神の申し子」として最高の賞賛をもって迎えられた。
 彼は偶像崇拝とそれへの生贅を禁じる法律を制定し、教会の設立を奨励した。その教区の役人の職にはキリスト教信者を任命し、司教には敬虔なる敬意を表するように命じ、侮辱するような行為を働いた者は死刑に処するとまで定めた。
 一方、前皇帝たちが破壊した教会を建て直し、しかも、前より広くかつ豪華にした。教会関係の行事は晴れやかに、また賑々しく行なわれ、キリスト教反対派の行事は不人気で没落していった。偶像を祭った寺院は閉鎖され、他方、教会ではしばしば行事が催され、祝祭が行われるようになって行った。
 ローマで暴君たちが悪逆無道をほしいままにしていた頃、アレクサンドリアはエジプトの首都であることは無論のこと、隣接するテーベやリビアの首都的な役割を果たしていて、その地域で宗教的にもっとも大きな影響力をもっていた教父はペテロPeterであったが、ローマの圧制はエジプトまで及び、ついに殉教した。
 ペテロの跡を継いでアキラスAchillasが司祭となったが、あまり長続きせず、三二一年にはアレクサンドルAlexanderが司祭となった。このアレクサンドルはキリスト教神学の大の信奉者で、当時同じアレクサンドリア教会の所属でボーカリスBaucalisと呼ばれる教区の司祭だったアリウスと対立することになる。
 アリウス神学の中心的存在だったアリウスは厳しい禁欲主義者で、神学についてのみならず人間的にも尊敬を集めていた。宗教史家のソクラテスはアリウス神学について次のように述べている。

 アレクサンドリアのペテロが三一一年に殉教し、その跡を継いだのはアキラスであったが、さらにその跡を継いだのがアレクサンドルで、ある日、司教としての権限のもとに、問題のドグマである《三位一体説》を教会の長老を初めとする全司教の前で説いた。それは、多分、よほど哲学的な内容のものであったものと思われる。

 その出席者の中にアリウスという名の司教がいた。同じ管区に所属しているので当然アレクサンドルの教説は三世紀のサベリウスSabelliusというリビア大司教の教説、即ち神性を帯びた存在は宇宙に一人しかいないという説に立脚したものとばかり思っていたので、その意外な変節に黙っていられなくなった。
 アリウスはその点を指摘して痛烈に反駁した。彼はこう指摘した―「無始無終の存在である“父”なる存在によって生み出された“子”なる存在には“始まり”がある。となると、その“子”には“存在しなかった時”があることになる。従ってその“子”は“無”から生じたという理屈になる」
 これはまったく新しい発想で、居合わせた若い司教たちに斬新な思考の糧を与え、それによって点火された小さな炎が瞬く間に大きく燃え上がることになる。
 このアリウスという人物についてエピファニウスEpiphaniusはこう描写している。

 目立って背の高い男で、太く長い眉毛をし、その風貌には禁欲生活から生まれる厳しさがあった。衣服にもそれが反映していて、チュニック[膝の上まで届く上着]には袖がなく、ベスト[下着]も普通の半分の長さしかなかった。が、話しぶりは穏やかで、聞く者に好感を与え魅了するものがあった。

 アリウスはコンスタチノープルで急死している。西暦三三六年のことで、多分彼の存在を疎ましく思う一派の者によって毒殺されたとされている。彼の死を喜ぶ者が多かったという。
 そもそも《三位一体論》はプラトンに発し、プラトン学派が引き継いで説いてきたもので、哲学的な要素をもつものである。これに引きかえ、アレクサンドルの説はあくまでもキリスト教という一宗教の教説にすぎない。しかも子が父と同等で、資質も同一であるというのは矛盾している―神の御子はあくまでも創造物であり、こしらえられたものであり、従って存在しなかった時があることになり、それが無始無終の絶対神と同一であるはずがないわけである。
 アリウスはその矛盾を、他の誤った教義とともに、教会だけでなく、あらゆる集会や総会で説き、時には個人の家に出向いて説くこともあった。
 これに手を焼いたアレクサンドルは、諌言と議論でアリウスの間違いを説得しようとしたが収まらず、ついに地位を利用した強権でアリウスを“不敬”のかどで告発し、司教の職から追放するという愚挙に出た。その時の言い訳として引用したのがマタイ伝のイエスの言葉 ―「もしも右目が罪を犯したならば、その目を抉り出して捨てるがよい」であった。
 コンスタンチノープルの弁護士ソクラテスの記述によると、アレクサンドルはアリウスを罷免したのち、まずアレクサンドリアでの集会における司教との交流を禁じ、さらに三二一年には、エジプトとリビアの長老一〇〇人が出席する長老会への出席も禁じた。しかし、この集会では賛否両論が噴出して、かえって紛糾した。


 B-4 (「第5章 エウセビウス宛てのアリウスの書簡」から)

 エウセビウス殿へ
 貴兄も支持してくださっている「イエス人間説」を否定せんとして、監督アレクサンドル司教からの不当な仕打ちに遭っているアリウスより、一筆啓上申し上げます。
 私の父アンモニウスはこれからニコメディア[古代小アジア北西部の都市]へ向けて出発するところですが、あなたにくれぐれも宜しくとのことです。同時に私は、貴兄が神Godと主イエスとの関係のことで同志たちに対して抱いておられる心情に、深甚なる敬意を表するものです。アレクサンドル司教は我々に対する圧力を強めており、その仕打ちは酷いものです。我々も大いに難儀しているところです。
 私に加担する者は無神論者として国外へ退去させられました。彼の説くところ、即ち、”父”は無限の過去から存在し、“御子”もまた無限の過去から存在している、という説に同調しないからです。“父”と“御子は同じである/“父”が創造されたものでないように、“御子”もまた創造されたものではない/常に存在し、いつから存在が始まったということがない/観念的にも時間的にも、神がイエスに先立って存在したわけではない/神とイエスは常に存在していたのである/それでいて、イエスは神から出でたのである、と。
 ご兄弟のカエサレアのエウセビウス司教を初めとして、テオドティオスTheodotius、ポーリヌスPaulinus、アタナシオスAthanasius、グレゴリーGregory、イーティオスEtius、その他、東洋の司教のすべてが、神は御子に先立って存在していたとの説に賛同したために、大変な非難を受けております。フィロゴニウスPhilogonius、ヘラニカスHellanicus、それにマカリオスMacariusは、もともと自説というものを持たない無教養の連中で、アレクサンドルの説に賛同しております。
 そのうちの一人は“御子”は“父”から吐き出された“ことば”であると言い、また一人は“父”から放たれた“光”であると言い、また、“父”と同じく“始まりのない存在”であると言います。我々に言わせれば聞くに値しない不敬この上ない説ですが、彼らに言わせれば我々の説こそ万死に値する冒涜だそうです。
 我々の説は、“御子”は始まりのない存在ではない/が、いかなる意味においても、部分的にせよ、被創造物でもない/その存在はいかなる物質にも依存していない/が、固有の意志と意図をもって、完全なる神として、時を超越して存続してきた/肉体をまとって出現し、それでいて変わることのない唯一の存在である/存在を与えられる、あるいは創造されるといった次元の存在ではない/我々はそう主張し、そう信じ、そう説いてきたし、今もそう説いています。
 この説が非難されるのは、“御子”には始まりがあるが、“父”には始まりがないとしている点です。我々への迫害は要するにその一点なのです。その存在をいかなる物質にも依存していないとする点も、彼らが非難するところです。イエスは神の一部ではないし、いかなる物質もまとっていないというのが我々の主張であり、それを不敬として彼らは我々に迫害を加えるのです。後は推して知るべしです。



    資料C  イエス誕生の真実について


 イエスは神ではなく一人の人間であったということは、シルバー・バーチも何度も述べているが、そのような「イエス人間説」について書かれた一冊の本がある。フロリゼル・フォン・ロイター『イエス・キリスト――失われた物語』(近藤千雄訳、ハート出版、2002年)[Florizel von Reuter: The Master From Afar ; Psychic Press Ltd, London, 1973]である。
 現著者のロイターは、ウイーン国立音楽院のバイオリン科教授を長年務めた人物である。イギリスやドイツでスピリチュアリズムについての講演を行ったりして、コナン・ドイルとも親交があった。彼には自動書記の能力があって、ある日、いつものように机に向かっていると、いわく言い難い衝動に駆られて鉛筆を握り、書き始めた、というよりは書かされたのがこの本である。物語が進むにつれて、彼は「通信霊」の存在も感じ取ることができるようになる。その霊は、イエスについてバイブルとは異なる実像を掲示する使命を帯びていることを霊感的に伝えてきたという。こうして、書き上げられてみると400ページにもなる物語になっていた、というのが本書である。ここでは、そのうちの一部、イエスの誕生にまつわる部分だけを引用しておきたい。


 C  (同書、第一幕[6]より)

 マグダラの町近くにテントを張り終えた時、ペテロが安堵の気持をこう述べた。
 「どうやらこれまでは神も我々に味方をしてくださってるようだ。ナザレの不穏分子に捕まらなかっただけでも、もっけの幸いと感謝しなくては……」
 「ナザレの住民のすべてが先生を憎んでいるわけではあるまい。中には仲間たちの態度に疑問を抱いている者もいるだろうに……」とネーサンが言うと、イエスがしみじみと言う。
 「そうとばかりも言えないのではないかと思っているところだ。ナザレの町から数百人もの赤子が虐殺されたのだ。私は心の底からナザレ人に詫びたい気持だ。ただ、私の両親のヨセフとマリアについての噂には誤解があるようだ。
 ちょうど良い機会なので、私の生い立ちについて、その真実を隠すことなく二人に話しておこうと思う。エスターも長旅で疲れて寝てしまったようなので、都合が良い。私の悲しい身の上話は若いエスターにはきつ過ぎるかも知れないからね」
 「先生が聞かせたいと思われるのであれば、私たちはどんなことでも聞かせていただきましょう。しかし、先生の胸の痛むことまでお話いただかなくても結構です」
 「いや、私は率直に話したいのだ。母に何一つやましいことがないことが分かっていただけるので、なおのことすべてを語らせてもらいたのだ」そう言ってイエスは真剣なまなざしで語りはじめた。
 「母はナザレ近郊の羊飼いの娘だった。十三歳になろうとする頃に、酪農家のお手伝いとしてナザレの町へ働きに出かけるようになった。仕事といっても朝と夕方に村はずれの井戸から水を汲んでくるような、ラクなものだったらしい。母が私の実の父と出会ったのは、その井戸のところだったのだ」
 「実のお父さん? ヨセフですか?」と、ヤイロがけげんな顔で聞く。
 「違うのだ。ヨセフは義理の父親なのだ。本当の父親はユダヤ人ではない。カナンで生まれたのは事実だが、両親はヒッタイト[紀元前十九~十二世紀に大帝国を築いた小アジアの古代民族]の末裔で、よそ者だった。
 父が成人に達した頃はヒッタイトもすでにローマの支配下にあった。名をハンデラといい、召し使いとしてローマ兵に仕えていて、そのローマ兵の任地がナザレになったことに伴い、父もナザレへやって来た。そこで母を見初めたわけだ。
 井戸は昔から多くの者が集う場所だ。母はその中でも朝いちばんに水を汲みに来たらしいが、ある日からハンサムな若者を見かけるようになる。父も朝いちばんの仕事が水汲みだったらしい。聞くところによると、母は今でも大変な美人らしいから、当時はよほどの美少女だったのだろう。一週間あまりも毎日のように顔を合わせているうちに互いに恋心が芽生え、好き合うようになった。
 この初恋は母にとっては神聖と言えるほど清らかな思い出だったらしく、自分の口からは一度も聞かされたことはなかった。いま話したことはすべて義理の父であるヨセフが、私が理解できる年齢になってから語ってくれたことだ。こんな美しい話があるだろうか? が、これが思いもよらない方向へ発展してしまう。父の主人であるローマ兵が本国への帰還を命ぜられたのだ。
 父の身分は、奴隷のように拘束はされていなかったが、常に主人と行動を共にしなければならない。ということはローマへ行かなければならないわけだ。が、恋人を連れて行くなどということはとんでもないことで、そこで別れたら永久の別れとなることは明らかだった。そこで二人は脱走を考えた。
 いま私は“脱走”という言い方をしたが、いわれもなく拘束された者が自由を求めても、それは脱走ではないと思う。しかし、ローマの側に言わせれば文句なしに脱走だ。許し難い脱走だ。ハンデラがいつになっても姿を見せないので、ローマ兵は一人で本国へ帰ってその旨を報告する。本部はこれに追随する者が出ることを恐れて、さっそく騎馬隊をナザレに送って徹底した捜索を始める。
 その時父は、母とともに母の実家に逃げ込んでいた。母の両親は二人から事情を聞かされその愛が真実のものであることを確認すると、親しくしているラビ[ユダヤ教の聖職者]を呼んで形ばかりの結婚式を執り行なってもらい、ハンデラではその夜のうちにエジプトへ向かわせ、ほとぼりが冷めた頃を見計らってマリアに跡を追わせることにした。その夜二人は初めて結ばれたのだった。
 しかし、悲劇が待っていた。真夜中に出立した父は、エジプトとの国境線を越えようとしているところをローマ兵に発見されて取っ組み合いとなり、奪った刀がそのローマ兵に刺さってしまった。多勢に無勢で逮捕された父は本部に連行され、脱走と殺人の罪で礫刑に処せられ、見せしめのために、その事実を書いた立て札がユダヤ全土に立てられた。
 それを見た母が何と書いてあるのかを通りかかった人に尋ねてその事実を知り、その場に卒倒した。初め村人たちは刑のむごさに気を失ったものと思ったらしいが、その後すべての事実が明るみになって態度が変わったらしい。
 その母にはすでに小さな生命が宿っていた。この私だ。次第にお腹が目立ってきたために、噂が気になり始めた。が、両親もラビも事実を語る勇気はなかった。そこへ天の助けがあった。最近になってナザレの町にヨセフという名の独り身の大工が店を出し、お手伝いを募集していることが分かった。また、その男は母親がエジプト人で、言葉もアラム地方の方言を話しているために、ナザレの人間からは今ひとつ親しみをもたれていないことも分かった。
 窮地にあった母はその大工のところへ行って事実をありのままに話し、お手伝いとして働らかせてほしいと頼んだ。ユセフも事情を理解して母を雇うことにした。するとその夜のことだ。ユセフの夢に天使が現われ、昨日訪れた娘に宿っている子はユダヤ民族を解放する使命を帯びて生まれてくる……お手伝いとしてではなく妻として娶り、その子の生育をそなたが見守ってやってほしい、と告げた。
 その生々しさにユセフは感動し、翌朝すぐに母の両親を訪ねて、マリアをお手伝いとしてではなく妻として正式に娶りたいと申し出た。これから先のことは一々述べるまでもないだろう」
 「素晴らしい愛情物語ではありませんか。それに、ヨセフの夢のお告げが先生の使命を告げております」とヤイロが感慨深げに言う。「先生の誕生後の話はすでにお聞きしております。エジプトへ行かれたとのことですが、エジプトのどこですか?」
 「ヨセフの母方の親戚が何人かコプトスにいるというので、我々はまずそれを頼りに赴いたのだが、その辺りもローマの目が行き届いていて危険だというので、我々は小船を雇ってイタケ島へ向かったのだった。ギリシャ西岸沖にあるイオニア諸島の中のいちばん小さい島だ。これは正解だったと思う。穀類とオリーブオイルとワインと干しぶどうを主な産物とする貧しい島で、それだけにローマは目もくれず、贅沢を言わなければのんびりと暮らせる、いい島だった。
 島の住民はみんな大らかで、新参者の我々を気持よく受け入れてくれて、父の大工の仕事を次々と持ってきてくれたようだ。私も子供なりに父の手伝いをし、技術を身につけていった。そういう生活が十二歳まで続き、それまでは一歩も島から出たことはなかった。
 その間に母は四人の男の子と一人の女の子を生んでいる。が、両親は最初の子である私をいちばん大事にしてくれた。どこの家でも同じだといえば確かにそうだが、ヨセフにとって私は義理の子だ。なのに父はそういう態度を片鱗も見せず、私を実の子のように育ててくれた。そういう父を母は心から尊敬していた」
 「故郷へ帰りたいと思われたことは一度もなかったのですか? とくにヘロデ王が死んだ後とかに……」
 「そのことを両親は何度か話し合ったようだが、ヨセフにはこれといって縁はないし、そのうちへロデの後継者のアルケラオスが反乱を鎮圧するために三千人ものユダヤ人を虐殺したとの話を耳にして、やはりその島がいちばん安全だということになったようだ。
 私にとって大きな精神的転換期となったのは、十二歳の時に家族みんなでギリシャ本土へ旅行した時だった。ローマの操り人形のアルケラオスによる“ユダヤの王”抹殺の恐怖が両親の脳裏からすっかり消えたのであろう。我々は二、三週間にわたって島を離れ、のんびりと旅行を楽しんだのだった。
 私がギリシャ建築と彫刻の素晴らしさに触れたのはその時だった。オクタビアヌス〔アウグストウス皇帝〕によって建設されたエピルス地方の首都ニコポリスの至るところにある豪華な寺院、同じく皇帝アウグストウスがアントニウスとクレオパトラを破った記念として海神ポセイドンに捧げた円形劇場に、私はただただ庄倒されるばかりだった。こうしてギリシャ精神の真髄に初めて触れた時が、私が生涯でもっとも大きな幸せを味わった時だったように思う」
 「伸び盛りの少年にとって、それは計り知れない貴重な体験だったことでしょう」とネーサンが言う。「ギリシャ語もすでに幾らかは話せたのでしょう?」
 「小さいとはいえギリシャの島に十年以上もいたわけだから、言葉には不自由しなかった。芸術的な美の裏に託されたギリシャ人の宗教的な概念が理解できるようになったのは、そのお蔭だ。ギリシャ人は何よりも“美”から宗教的インスピレーションを感得しており、彼らが崇拝する神々は芸術と詩歌の勝利の象徴でもあるわけだ。
 それは当然多神教であるわけだが、基本的な唯一絶対神の概念も変わることなく残っていた。それをゼウスと呼び、その神性を細かく分けて小さな神々としているわけだ。我々ユダヤ人は絶対神をヤハウェ[エホバ]と呼び、これを唯一の全知全能の神として崇拝している。どちらが真実だろうかと思いあぐねているうちに、こんな体験をした。
 ある日エコポリスで友だちと遊んでいるうちに、シナゴーグ[ユダヤ教の礼拝堂]の前を通りかかった。何となく入りたい衝動に駆られて覗いてみると奥で数人のラビが真剣な面持ちで討議し合っていた。私に気づくと、こちらへいらっしゃいと手招きしてくれた。
 近づくと、一人のラビが私の手を取って自分の膝の上に抱き、お父さんはどういう信仰をもっているのかな、と尋ねた。信仰については義父のヨセフからいろいろ聞かされていたので、それを大まかに話してから、ギリシャには女神アフロディーテ[ビーナス]や海神ポセイドンに捧げた神殿があり、エジプトにはまた別の神々がいるという話をした。
 すると長老のラビが、そうしたことを君はどう思うか、と尋ねた。私は、日ごろ敬虔な気持で眺めていたラビが気さくな態度で接してくれることに気を良くして、唯一の神を別々の名前で呼んでいるだけではないかと思う、と生意気な意見を述べた。すると長老が、自分もそう思うが、ユダヤの大予言者の一人であるモーセが呼んだ“ヤハウェ”という名前が“真の天国の王”という意味なのでいちばん良い、という意見を述べた。ラビたちの打ち解けた雰囲気に気を良くして、私は小生意気にもこんなことを言ってしまった――ボクが大きくなったらそうした違いを全部改めて、世界中の人間が一つの神を信じるようにします、と。
 そこへ母が現われた。まだ家族で旅行している最中で、私だけがいつまでも姿を見せないので、近くの少年たちに尋ねてみると、シナゴーグへ入るところを見かけたと聞いて入ってきたらしい。私がラビたちの邪魔をしていると思った母は、厳しい口調で責めた。するとラビの一人が、これこれ、この子を叱ってはいけない。どうやらお子さんはただの子供ではなさそうだ。この年でよく宗教の奥義を理解している。他の宗教の神々への寛容心もそなえている。どうやって教育されたのかな? と尋ねた。私どもが教えたわけではございませんと母が答えると、ではこの子からあなた方が教わりなさい。この幼い年齢でこれほどの叡智をそなえているところをみると、この子は神の使命を帯びているとしか思えない。どうかこの子がやりたいと思うことをやめさせたり、親の手の届くところに留めておこうなどという狭い了見は持たないでほしい。この子の将来については神に一存がおありのようだ、と述べた。
 このエピソードを述べたのは、これが若い私の心に強烈な印象を与えたからだ。母の民族、つまりユダヤ民族のことが妙に気がかりになり、母にいろいろと質問を浴びせるようになった。受難の歴史が一通り分かったとき、私の心に何とかして屈従の束縛から解き放たねばという思いが湧いてきたのだ。
 長期の旅行から島へ帰って、私はまた学校へ通い始めた。が、正直言って、学校で学んだことよりも義理の父から教わったことの方が多かった。父は実に博学で、言葉も古代シリアの言語であるアラム語を初め、ユダヤで使われているヘブライ語、さらにはエジプト人だった母親から学んだエジプト語も堪能で、それらをすべて教えてもらった。
 しかし、エジプトもシリアもユダヤもギリシャも、今やことごとくローマの手に落ちている現実を知って、私は民族解放の先頭に立つ者の必要性を痛感せざるを得なかった。そこで十六歳になった時に、船乗りになりたいとの希望を両親に打ち明けた。シナゴーグでのラビの予言めいた話を父も母から開いていたのであろう。二人とも素直に許してくれた。運良くイタケ島に立ち寄った貨物船に欠員が出て、新たに船員を募集していることが分かり、すぐに応募した。
 こうして私の第二の人生が始まったわけだ。お蔭で私はそれまでまったく未知だった外国を訪れ、そこの慣習や道徳を知り、人類というものについての認識を広めることができた。たまにイタケ島に便のある時に帰宅することもあり、手紙を書き送って心配をかけないようにはしたが、二十歳を過ぎてからは一度も帰っていない。
 その後家族はエジプトへ移住し、さらに五年後にはガリラヤに帰ったと聞いている。
 おや、外がにぎやかになってきたな。馬車がやって来たようだ。新しく同志がやってきたのだろう。行ってみよう」  (同書、pp.28-34)

  (2017.08.01)






   人はどのようにしてあの世へ還っていくか (身辺雑記 No.114)


 1.     死とは何か

 死とは何か。人は死んだら、どうなるのか。人類は、有史以来ずっと、いろいろと想像力を掻き立てて、このことを考え、さまざまな宗教をも生み出してきた。現代でも、この問いは、いくら科学が進んでも解けない永遠の謎とされている。いったん完全に死んだ人が、もう一度甦ってきて、死んだ後のことを話してくれない限り、死後のことは決してわかるはずがないと思われているのが世間一般の常識である。
 しかし、現実には、「完全に死んだ人が、死後の生を証明してくれている」例は、いくつもある。ただ、人々は、そういうことはあり得ないと、はじめから思い込んでいるし、知ろうとはしないだけのことである。かつての私もそうであったが、長年の迷いと苦しみ、それからの学びと霊的体験を経て、いまでは、死後の生に対する確信は揺るぎないものになっている。そして、それを教えてくれたのが、3千年前に「死んだ」といわれる高位霊のシルバー・バーチであった。
 シルバー・バーチについては、いままでも何度も触れてきたので、ここでは繰り返さない。その膨大な霊言は世界中で読まれ、人類の至宝と言っていいと思うが、シルバー・バーチは、「理性で判断してください。私の言っていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんな馬鹿な、と思われたら、どうぞ信じないでください。それでいいのです」と言っていたことだけを、ここでも付言しておきたい。
 そのシルバー・バーチは、「死とは何か」について、こう述べている。

 《死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の〝玉の緒″が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。》(『シルバー・バーチの霊訓 (8)』潮文社 1986, p.103)

 世間では、「脳死が人の死である」などと医者が言ったりするが、本当の死とは、ここでいう“玉の緒”(シルバー・コード)が切れることで、肉眼で見ることはできない。このことについても、シルバー・バーチは、「霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません」と、述べている。(『霊訓 (11)』pp. 206-207)
 シルバー・コードが切断されて、肉体から離れると、やがて私たちは意識を回復する。その時の私たちは、今までと同じく手足を備えた身体のままである。ただし、その身体は霊体である。私たちは、もともと、肉体を伴った霊であって、霊を伴った肉体なのではない。だから、この場合も、死によって、本来の姿である霊体に戻ったというべきかもしれない。私たちは、死ぬ前も霊であったし、死んでからも霊である。つまり、霊として生き続けている。この意味でも、私たちにはいわゆる「死」はないといってよいであろう。本当は、私たちの生命である霊は永遠で、「死のうにも死ねない」存在なのである。


 2.  シルバー・コード

 このように、いわゆる「死」という現象は、シルバー・コードの切断をもって完結する。シルバー・コードが切れないうちは、私たちは死んだことにはならない。世に伝わる多くの臨死体験は、一旦は「死んで」霊界をかいま見ることができても、シルバー・コードが切れなかったからこの世に戻ってくることができた事例である。
 このシルバー・コードは、肉眼では見えないから、臨終に立ち会う病院の医師たちにも付き添いの家族たちにも認識されることはない。しかし、霊界からの極めて貴重な報告として、『新樹の通信』により、私たちはそれをうかがい知ることができる。『新樹の通信』には、浅野和三郎先生の次男で霊界にいる新樹氏が、父上の臨終に際して、そばに付き添い、シルバー・コードが切れていく様子も見守っていた状況が記されている。
 浅野和三郎先生(1874-1937) は、いうまでもなく、心霊研究に大きな業績を残した日本での先駆者である。旧制一高、東大英文科を卒業後、海軍機関学校の英語教授になったが、後に官職を辞して(その後任が芥川龍之介であった)、心霊研究に生涯を捧げた。1937年(昭和12年)2月、62歳の時に急性肺炎で急死する。霊界で新樹氏は、心霊研究における父の功績を訴えて、神さまに父の延命をお願いしたが、それは叶わなかった。
 しかし、新樹氏が病床で瀕死の父上を見ると、ほとんど苦痛もなさそうなので、こんなことでこちらの世界へ来るのだろうかと不審に思ったりする。そこで、或いは、回復の期待が持てるのではないかと神さまにお伺いすると、神さまは、「そうではない、こちらで守護しているから、そう見えるだけだ。これは最大の幸福である」と告げられたという。
 浅野和三郎先生の臨終の席には、兄上の正恭氏(海軍中将)も立ち会っていた。正恭氏は、浅野先生の多慶子夫人を霊媒として、霊界の新樹氏とは、伯父と甥の間の自然な対話をそれまでも何度も続けていた。その正恭氏に、新樹氏は、自分が霊視で見た父上の臨終の模様をつぎのように知らせている。

 《父が起き上がると、幽体は足の方から上の方へと離れ始めました。幽体と肉体とは、無数の紐で繋がっていますが臍の紐が一番太く、足にも紐があります。脱け出たところを見ると、父は白っぽいような着物を着ておりました。僕は足の方から幽体が脱けかけ、頭の方へと申しましたが、それはほとんど同時といってもよい位です。そして無数の紐で繋がれながら、肉体から離れた幽体は、しばらく自分の肉体の上に、同じような姿で浮いているのです。そして間もなくそれらの紐がぷつぷつと裁断されていきました。これが人生の死、いわゆる玉の緒が切れることなのです。》 (浅野和三郎『新樹の通信』潮文社、2010、pp. 36-44 現代文訳 武本昌三)

 この後、正恭氏は、「どの紐から切れ始めたか」と新樹氏に訊いている。新樹氏は、「臍のが一番先で、次が足、頭部の紐が最後でした。紐の色は白ですが、少し灰色がかっております。そして抜け出た幽体は、薄い紫がかった色です」と答えた。
 紐は音もなく切れたが、「その切れるさまは実に鮮やかで、何か鋭利な刃物ででも切られたのではないかと思われるほどでした」とも、新樹氏は答えている。そして、「僕はまのあたりに父の幽体の離れ行くさまを見て、実に何ともいえぬ感慨に満たされました。この離れた幽体は、しばらくそのままでおりましたが、やがて一つの白い塊となって、いずこへか行ってしまいました」と付け加えた。


 3. 霊界への移行

 シルバー・コードが切れて、霊界へ移行するときの模様は、かつてイギリスのユニテリアン派の牧師であったジョン・ピアボントによっても報告されている。ピアボンドは、自他共に認めたスピリチユアリストとしても著名であった。
 彼は、「みずから死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察した者として、更にまたその『死』の問題について数えきれないほど先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、肉体から離れて行く時の感じはどんなものか、という重大な質問に答える十分な資格があると信じる」と自負している。そのピアボンドが、ロングリー夫人を霊媒として、死の瞬間についてつぎのように伝えている。(以下、各引用は近藤千雄『シルバー・バーチに最敬礼』コスモス・ライブラリー、2006、pp.84-87:同書[資料]:ジョン・レナード『スピリチュアリズムの真髄』より)

 《いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目のあたりにして、さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかも知れないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体はラクな感じを覚えているものである。もちろん例外はある。が、永年病床にあって他界する場合、あるいは老衰によって他界する場合、そのほか大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしているために、大した苦痛を感じることなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化をとげているものである。》

 このように、苦悩にうちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分が死につつある事実も意識しないものであるらしい。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら「助けてくれ」と叫びつつ息を引き取っていくシーンなどは、ドラマとフィクションの世界だけの話のようである。
 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかも知れないが、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはないらしい。ピアボンドは、それを、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりとしているからである、という。意識の中枢である霊的本性はむしろ喜びに満ちあふれ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている、とも言っている。そして、ピアボンドは、自分自身が「死んだ」ときの体験についても、こう語った。

 《自分が老いた身体から脱け出る時の感じは喜びと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。肉体と霊体を結ぶ磁気性のコードが既にやせ細っていたために、霊体を肉体へ引き戻すことができなかったのである。が、その時私は無感覚だったわけでもなく、その場にいなかったわけでもない。私はすぐそばにいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。》

 このなかの、「肉体と霊体を結ぶ磁気性のコード」がシルバー・コードである。「既にやせ細っていた」というのは、シルバー・コードが切れかかっていたということであろう。ピアボンドは、自分が死んでいくとき、自分が住み慣れたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そして、いよいよ死期が到来したということを十分に意識していた。そして、自分自身のシルバー・コードが切れていく様子についても、詳細に、つぎのように観察していた。

 《私の注意は、いまだに私を肉体につないでいるコードに、しばし、引きつけられた。私自身は既に霊体の中にいた。脱け出た肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地がよい。が、細いコードはもはや霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。私の目には光の紐のように見えた。私は、これはもはや霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたように見えた。というのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。そして、その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のように丸く縮まって、やがて、既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。これで私の死の全過程が終了した。私は肉体という名の身体から永遠に解放されたのである。》

 このようにして、霊がすっかり肉体から離脱し、眠りから覚めたように新しい環境を正常に意識するようになると、霊界での新しい生活が始まることになる。しかし、死後の生を知らず、霊的に無知であった人の場合は、ここで大いに戸惑うことになるようである。シルバー・バーチは、それを、こう言っている。

 《こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐しい環境―我が家・仕事場など―をうろつきます。そして大ていは自分がいわゆる〝死者″であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気づいてくれないこと、物体にさわっても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。》(『霊訓 (12)』p.35)


 4. 霊界での生活

 私たちは、あの世へ還った時、どのような環境で暮らすことになるか。この霊界での生活は、仏典の「仏説阿弥陀経」を読んだりして私たちは微かに想像することはできる。しかしそれは、はるかに遠い夢のような話である。現実にはそんな雲を掴むようなレベルの話ではなく、かなり詳しい生活の実況が様々な形で伝えられてきている。私自身にも、霊界の妻や長男からの数多くの通信記録がある。その一端は、私のホームページや『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011)などでも紹介してきた。
 まず、霊界は階層社会で、そこに住む者の進化の程度に応じて、住む場所に段階的な階層の差ができている。私たちが他界後に落着く先は、私たちがこの世で身につけた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けない。それより低い階層には、行こうと思えば行けるが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないらしい。それをシルバー・バーチは、つぎのように述べている。

 《死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。》(『霊訓 (12)』p.34)

 私たちが正しい霊的認識をもち、すでに地上時代から死後の世界についての理解を深めていた場合は、すんなりと新しい環境に馴染んでいくといわれる。しかし、この世に生きている間、死後の生を知らず、或いは死についての間違った固定観念に固執していた者は、霊界ではその矯正の期間が設けられる。各自の必要性に応じて適当な指導霊が付けられ、いわば霊界でのオリエンテーションを受けることになるのである。
 ただし、それぞれの霊格に応じた階層に落ち着いた後も、実は、難しい問題が無くなってしまうわけではない。解決すべき問題が次から次へと現われ、それを解決することによって魂がさらに成長を続けていくのである。何の課題もなくなったら、“生きている”意味がない。この世と同じく、霊界でも、魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ、その中でもまれて霊的成長が見込まれることになる。
 霊界で、霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになる。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになる。「埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働くことも知るようになります。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいない。見せかけはすぐに剥ぎ取られてしまいます。霊界では何一つ隠しおおせることはなく、すべてが知れてしまいますが、それは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです」と、シルバー・バーチは言っている。(『霊訓 (10)』pp. 82-84)
 私たちが霊界へ移行した後、そのような霊界の厳しい摂理のなかで、具体的にどのように暮らしていくかということについては、『新樹の通信』にも、詳しい報告がある。それによると、新樹氏は、東京あたりの郊外などによく見られるような平屋建ての3室ほどの家に住んでいるらしい。その家の見取り図も、母上である多慶子夫人の霊視によって描かれている。
 新樹氏は、訪問で出かけるときは洋服を着るが、自宅でくつろいでいる時には和服で過ごしているという。家の中の書斎には、新樹氏が霊界へ来てから描いた絵のうちで、一番お気に入りの絵を壁にかけている。「庭は割合に広々ととり、一面の芝生にしてあります。これでも自分のものだと思いますから、敷地の境界を生垣にしてあります。だいたい僕ははでなことが嫌いですから、家屋の外回りなどもねずみ色がかった、地味な色で塗ってあります」などと新樹氏は伝えている。
 このように、新樹氏は霊界で自分の好きな家に住み、絵を描いたり、水泳をしたり、散歩や山登りをしたり、乃木希典元大将と一緒に霊界の伊勢神宮に参拝したりもしている。極めつけは、この『新樹の通信』を出版するにあたって、和三郎先生の序文に新樹氏が挨拶のことばを書き添えていることである。
 「このたび父から、僕がこれまでに送った通信の一部を一冊の書物にとりまとめて上梓するから、お前も何かひとつ序文を書くようにとのことで、未熟の僕には特にこれというよい考えも浮びませんが、ほんの申し訳に、少し所感を述べさせていただくことにいたします・・・・・」と書き出された新樹氏の挨拶文には、新樹氏が今もこの世に生きていて、日本の何処かから原稿を送ってきているような錯覚をさえ感じさせられる。
 新樹氏の霊界での生活ぶりについては、ここではさらに詳述する余裕はないが、このような新樹氏の生活からもうかがえることは、私たちは、もともと、霊界で生きる存在であって、この世は仮の宿であるにすぎないということである。肉体に包まれて感覚が鈍っている間は、そのことが意識にのぼらず、なかなか理解し難いだけなのであろう。
 私たちは、この世に生き、やがて年老いて死んでいく。それが世間の常識だが、本当は、死んでから、はじめて私たちは本来のいのちを生き続けるといえるのかもしれない。そのような命の真実を理解できずに、霊的真理に無知のまま霊界へ移行する者が極めて多いことに霊界では手を焼いているともいう。なかには、その無知頑迷が後遺症となって新しい霊的環境に適応できない者もいるらしい。シルバー・バーチも、そのような霊界の生活の一端を、つぎのように述べたことがある。

 《霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです・・・・・・・。
 霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。》(『霊訓 (8)』pp. 115-117)


   終わりに

 生と死については、私はいままで随分多くのことを書いてきた。「人は死なない、生命は永遠である」というようなことを口にするのは、大学教授としてはあるまじきことであるというのが、いまでも世間に根強くはびこる「常識」だが、そのような世間の無知と偏見のなかで、またこのような小文を書くのは孤独な作業である。本稿では、一般にはあまり知られていない、シルバー・コードのことなども取り上げてみた。
 最後に、ここで一つのエピソードを付け加えておきたい。アメリカのシカゴ大学精神医学部教授で『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス博士(1926-2004)は、ターミナル・ケアの世界的な権威として有名であった。彼女は、患者の臨死体験の例を2万件も集めて、生命は不滅であり、人間は「死んでも」永遠に生き続けることを人々に説いてまわった。このような言動に対する世間の無知と偏見は、アメリカでも同じである。彼女は反撥と非難に包まれ、自宅を焼かれたりもした。
 やがて、彼女は悟るようになる。人間は死後も生き続ける、本来、死というものはないのだということは、聞く耳を持った人なら彼女の話を聞かなくてもわかっている。しかしその一方で、その事実を信じようとしない人たちには、2万はおろか100万の実例を示しても、臨死体験などというものは脳のなかの酸素欠乏が生み出した幻想にすぎない、と言い張るのである。そこで彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力をついに2万件でやめてしまった。その彼女は、「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから」と、少し自嘲気味に言い放っている。(『死ぬ瞬間と臨死体験』 読売新聞社、1997、p.129)

  (2017.10.01)
















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