私が体験してきた不思議なこと(1)      (身辺雑記 No.110)  


 私はいままで八十数年を生きてきて、これまで、いくつかの不思議なことを経験してきた。そのなかには神秘体験といってもいいようなものも含まれている。通常はありえない事態に遇ったこともある。きわどいところで命びろいをしたことも一度や二度ではなかった。それらの主なものをここで取り上げておきたい。世の中には偶然はないというが、それを改めて考え直すよすがにもなるかもしれない。私が体験してきたこれらのことがすべて必然としたら、個々の出来事に対しても、新たな視点が加わることになる。そして、それは、何よりも、私は生かされて生きてきたという認識につながっていく。確かに私は、生かされて生きてきた。そのことをかみしめながら、個々の体験を改めて振り返ってみたい。


 1.尻無川のほとりで

 昭和10年(1935年)、5歳の私は大阪市大正区の尻無川のほとりに住んでいた。まだ30代の若かった父が勤めていた鉄鋼会社からあまり遠くない小さな借家であった。近くに尻無川の対岸との間を往復する渡し船の発着場「甚兵衛渡し」があり、その斜め前には、道路を挟んで家主の伊藤さんの大きな二階家があった。その伊藤さんの家には、私より2歳年長の男の子で「カズちゃん」がいた。
 その年のお盆が過ぎた頃だから、8月の下旬であったかもしれない。カズちゃんと私は、連れ立って、家の前の尻無川へでかけた。お盆の終わりには、木の舟に果物や菓子をのせて川へ流すみ霊送りの風習がある。この木の舟は、30センチくらいの小さなものから1メートルにもなるような大きなものまで様々で、それらが尻無川から一旦海まで流されたあと、波にもまれ風に吹かれて、たまに、川岸へ帰ってくることがある。そのような舟を見つけて持ち帰ろうというのである。うまくいけば大変な「収穫」になるはずであった。
 川岸の一部には、多くの原木が筏に組まれて繋ぎ止めてある。その筏の上に乗って一番端まで来たところでカズちゃんと私は、根気よく空っぽになった舟が流れ着くのを待っていた。いまなら、大人の監視の目がうるさく、とてもそんなまねは出来ないに違いない。しかしその頃は、周りに人々がいることもあまりなく、親たちも、子どもたちの遊びにはほとんど干渉しないのが当たり前であった。その日は、晴天で暑かった。それでも1時間ほどは待ち続けたであろうか。やっと、遠くからかなり大きな木の舟が近づいてきた。すぐ目の前に来てからは、カズちゃんと私は、棒切れで水を叩きながら、なんとかその舟を引き寄せようと必死になった。私は小さな手を力いっぱいに伸ばした。それでも届かないので、もっと手を伸ばそうと身を乗り出し、そして、水に落ちた。
 5歳の私は泳ぎはまだできない。私は水の中で泣き叫びながら沈んでいった。口からも鼻からも水が入ってきて苦しい。息ができずにばたばた手足を動かしているうちに、一度、上へ上がってきた。しかし、振り回している私の手は何にも触れることなく、また小さい体はぶくぶくと沈んでいった。筏の上で、私が落ちたのを見た7歳のカズちゃんも、ことの重大さはわかったであろう。手で水をかきまわしながら、懸命に私を掴まえようとしていた。そのカズちゃんの手に、もがきながら2度目に上がってきた私の手がちょっと触れた。しかし、二つの手は結ばれることなく、するりと抜けて、私はまた、ぶくぶくと水の中を沈んでいった。青白い水のなかで私はばたばた手足を動かしながら泣き叫んでいる。かなりの水を飲んで、苦しい。もうあれが限度であったろう。死が迫っていた。そして3度目、ぶくぶくとまた上へ上がっていった時に、私の小さな手ははじめてカズちゃんの手をしっかりと捉えたのである。
 もうあれから80年以上経っているが、いまではこのあたりの川岸にも高いコンクリートの護岸壁が連なり、渡し場へ通ずる広い道路には高層アパートが建っていたりして、昔の面影はほとんどない。しかし、尻無川自体は、同じ場所を昔も今も同じように流れているはずだから、甚兵衛渡しからは、かつて私が溺れかかった場所は、ほぼ正確に特定できる。私は、後年、東京や札幌に住むようになってからも、大阪へ出かけてその場所に何度か行ってみたことがあった。かつては、私は、この場所で溺れかかっても救われたことを九死に一生を得た偶然の幸運のように考えていた。しかし、おそらくそれはそうではないであろう。もともと偶然というのはないのである。あの時、私の手を捉えた7歳のカズちゃんの手は、まぎれもなくそれは、神の手であった。


 2.奇跡的な飛び方をしたグライダー

 昭和15年(1940年)の3月、父は長年勤めていた大阪市大正区の伸鉄会社を退社し、生野区の田島に自分の小さな鉄工場をもつことになった。家も広々とした新築の二階家へ引っ越した。学校は、それまで通っていた新千歳尋常小学校は3年生までで、4月からは、生野尋常小学校へ転校して4年生になった。父は、春に創業したばかりの鉄工場の経営で忙しくしていたが、秋頃から、度々、当時の関釜連絡船で玄界灘を渡って、朝鮮の仁川へ出張するようになっていた。大阪の大手の鉄工会社が仁川の郊外に1万坪の大きな工場を建設することになり、父がその工場の主力部門になる圧延工場の設計と建造を任されたのである。
 父は、家にいるときには夜遅くまで、大きな図面を広げて、機械や工場の設計に取り組んでいた。はじめのうちは、自分の鉄工場の経営もあって、大変であったようである。しかし、やがてその父自身の鉄工場の経営も、一年で終わることになった。自分が設計した仁川の工場の建設が完成すれば、父がその工場長となって赴任することが決まったからである。翌年、昭和16年(1941年)の3月末に、私たち家族は当時の関釜連絡船、金剛丸で玄界灘を渡って、朝鮮の仁川に住むことになった。
 仁川では旭国民学校(当時、小学校は国民学校といわれるようになった)5年生になった。「外地」の学校は概して立派で、旭国民学校も校舎は堂々とした4階建てであった。よく整備されたグラウンドも、それまでいた大阪の生野小学校に比べると4倍近くも広いように見えた。
 戦時色がだんだん色濃くなっていくなかで、私はその前年の生野小学校の時以来、模型飛行機作りに熱中していた。私は学校では成績はよかったが、国語や算数などよりも一番好きで得意なのは工作であった。旭国民学校でも、工作の先生から、私は模型飛行機の作り方で助言を求められたりして、工作の才能を認められていたかもしれない。たまたま、その年の夏休みには工作の宿題で、5年生のクラス全員が模型グライダーを作ることになった。
 夏休み明けのある日、工作の時間に、自分たちが作った模型グライダーの飛行テストが行なわれることになった。クラスの40人くらいが、それぞれ自分の模型グライダーをもって、屋上に上がった。屋上から、下のグラウンドへ向けてグライダーを飛ばすことになったのである。下のグラウンドには看視役がいて、飛ばした人が降りて取りに行く。グラウンドは広いので、真ん中より遠くまで飛ぶことはあまりない。中には、それよりも遠く、グラウンドの端近くまで飛ぶのもあったがそれは稀であった。20人くらい飛ばしたところで、私の番になった。
 私も、グライダーを手にもって、やや下向きにグラウンドへ向けて手放したのだが、私のグライダーは、どんどん降下していくことはなかった。少し飛んだところで、逆に高度をぐんぐん上げ、高い高度を保ったまま、まっしぐらにグラウンドの端を軽く越えて、500メートルほど離れた仁川神社のほうへ向かって飛び続けた。採点をしていた工作の先生もまわりの子供たちも、みんなが声もなく呆然とした。もう、そのグライダーを取りにいける距離ではなかった。
 ところが、仁川神社の近くまで飛んで、ほとんど小さく見えなくなっていたそのグライダーは、急に大きく弧を描いて、今度は、一直線に旭国民学校へ向かってきたのである。機影はぐんぐん大きくなってきた。私は、何とか無事に、学校のグラウンドに落ちることを祈った。しかし、私のグライダーは、グラウンドへは落ちなかった。
 グラウンドよりははるかに高い上空を戻ってきたグライダーは、先生や私たちが呆然と見つめている屋上の上を飛び越え、今度は、反対側の深い木立ちの奥のギリシア正教の大伽藍のほうへ向かった。またグライダーの影は小さくなって、ほとんど見えなくなってしまった。
 折角Uターンして帰ってきてくれたのに、と私は悲しかった。もうグライダーを取り戻すことは不可能に思われた。裏の深い木立ちの奥では、落ちたグライダーを探し出すすべもない。と、その時、なんと私のグライダーは、再び上空でUターンしたらしく、小さな機影を見せ始めたのである。みんなが一斉にどよめいた。
 小さな機影は、だんだんと姿を大きくしながら、真っ直ぐに、旭国民学校の屋上へ向かってきた。飛びながら高度を徐々に下げて、屋上の高さに近づいてきた。屋上の反対側の端の低いフェンスをすれすれに飛び越えて、私が立っている足元に、私の靴とほとんど接触する間際の位置で、ぴたりと着地した。まわりはシーンと静まりかえった。
 あり得ないと思われることが現実に目の前で起こったのである。私は涙が出そうになるのをこらえながら、そっと、そのグライダーを拾い上げた。普通なら、飛ばしたあと、せいぜい数十メートルで着地するところを、数百メートルどころか、一キロ以上も飛び続けて、私のもとへ帰ってきたそのグライダーが無性に愛しかった。
 たまたま、その時に発生した上昇気流に乗ったまでだと、考えられないことはない。確かにそういうことはあるだろう。しかし、Uターンを2度も繰り返して、そのグライダーを飛ばした屋上の上の私の足もとに着地する確率は、何分の一になるのであろうか。その分母は、天文学的数字になるに違いない。
 私は宝くじのようなものは買ったことはないが、もしかしたら、毎年連続して宝くじの特賞に当選し続けるような確率なのかもしれない。私は長い間、あれはいったい何であったのだろうと考え続けてきた。奇跡といえば奇跡だが、私の見えないところで、誰かの何らかの作為があったに違いない。私はいまでは、あれは、私を見守ってくれている守護神の軽い戯れではなかったかと思ったりしている。


 3.燦然と光り輝くみ仏の姿

 昭和19年(1944年)の秋、当時の旧制仁川中学の1年生であった私は、戦局が日増しに緊迫の度合いを深めていく中で、10人ほどの級友たちといっしょに、当時の京城(現在のソウル)へ出かけて、陸軍幼年学校の入学試験を受けていた。卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、上級生は陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験していたが、当時の中学1, 2年生にとってのエリートコースが、陸軍幼年学校であった。
 翌年の2月、合格内定の通知が届いて、私の名前が他の3名の内定者の名前と共に、仁川中学の講堂入口の掲示板に大きく貼りだされた。憧れの「陸幼」に入れそうになって、私はうれしかった。しかし、その直後に私は生まれてはじめて病気になった。ある朝、急に40度を超える熱を出し、急速に、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまったのである。
 病院に運ばれるまでには、家の近くの医者の往診を受けて、2日か3日くらいは家で寝ていた。その間、高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の柔和な姿があり、じっと私を見下ろしている。そしてそのみ仏の姿からは、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。
 み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿があった。燦然とあたたかい感じがする光を放ち続けていた。私は何度も何度も見直していた。間違いなくそれはみ仏の実像であった。
 高熱にうなされながらも、少しは正気に返る時があるものであろうか。工場長をしていた鉄鋼会社も休み、片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は確かに言ったはずである。「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と。
 み仏なのになぜ神棚と言ったのかわからない。神棚は奥の部屋にあったがそれを忘れていたわけでもなかった。いま思うと、神の姿を知らず、見慣れた仏像からの連想でみ仏と思ったのかもしれないが、それでも私は、何度見直しても、み仏の姿がその場所にはっきり見えたので、その場所を指差しながら、傍らにいた父にそう言ったのである。
 父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのかもしれない。それを見て私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時たしかに思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、燦然と輝き続けた・・・・・・・。
 これは私の初めての神秘体験であったかもしれない。おそらく、人に話しても、それは高熱の時に見た幻影に違いないといわれるだけだと思っていたから、私は長い間、誰にも話そうとはしなかった。しかし、その燦然と光り輝く柔和なみ仏の姿は、いまも確かに私の心の中にある。


 4.奇跡の解熱剤「トリアノン」

 昭和20年(1945年)の2月、その時に入院したのはかなり大きな仁川総合病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。
 私は病院でも高熱を出し続けたまま、ほとんど意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれていったのはかすかな記憶があるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。
 温顔で人望の厚かった病院長は、このままでは、希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という解熱の特効薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。しかし、父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。
 院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく――それはとっくの昔になくなっているはずだから――万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」そのことを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。
 その当時の仁川市は人口30万くらいであったろうか。薬局も全市で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。
 そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながら、旭国民学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、20年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。
 父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」
 しかし父は、そのことばにもすがりつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。
 2月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。
 突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、最後のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・。
 父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って用意していた分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」
 私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。命の瀬戸際に立ったのは、5歳の時に大阪の尻無川で溺れかかって以来、これが2度目であったが、私は、ここでも死ななかった。生きるべくして生きた。昔は、あの最後の瞬間に父の脳裏にひらめかせたものは何であったのか、とよく考えたりもしたが、いまでは、この点でも疑問に思うことはない。


 5. 間違いではなかった予言

 後年、私はアメリカ留学を終えて、昭和34年(1959年)の春、太平洋を2週間かけて船で帰国した。帰国して数日後、東京外国語大学ロシア語科主任教授の佐藤勇先生のお宅へ帰国の挨拶に訪れた時、着いてみたら、東京外大で1学年下の女子学生であったTさんが、先に来ていた。私は学生時代はアルバイトに明け暮れていて、ほとんど大学には出席していなかったから、彼女と話し合ったことはなかったが、彼女がクラスではロシア語を誰よりも流暢に話せることを友人たちから聞いて知っていた。
 佐藤先生は露和辞典の編集などもしておられたから、優秀な彼女は、そのお手伝いか何かの打ち合わせに来ていたのだろうと推測した私は、佐藤先生へのご挨拶もそこそこに、引き揚げることにした。理知的な顔つきで落ち着いた雰囲気の彼女とも、ほんの少しことばを交わしただけで、佐藤先生から昼食を一緒にと勧められたのを辞退して、お別れした。この時のTさんとの邂逅は、実は、大きな意味があったことを、その時の私は知る由もなかった。
 その後、私は名古屋の中京大学へ赴任したのだが、6月の下旬、東京の佐藤勇先生から大学へ電話での伝言があった。6月20日、土曜日の午後5時半から、栄町の中華料理店平和園で、東京外国語大学の名古屋支部同窓会が開かれるからそこで会いたいとのことであった。行ってみると、学長の岩崎民平先生のほか、英語の小川芳男先生、ロシア語の石山正三先生も来ておられた。私の中京大学就任でお世話になった南山大学の直井英文学部長とも、その席でお会いした。
 支部同窓会は、60人ほどの出席者で、盛会であった。2時間ほど、賑やかに懇談が続いて閉会になったあと、佐藤先生に誘われて、二人で近くの喫茶店へ移った。そこで、思いがけなく、佐藤先生から、この間、佐藤先生のお宅へ帰国のご挨拶に伺った時にたまたま逢ったTさんの写真と履歴書を渡されたのである。先生に、Tさんからの「結婚のプロポ―ズを頼まれた」と言われて、私はちょっと驚いた。Tさんのお姉さん二人も、大学教授のところへ嫁いでいる、というようなことも言われた。
 佐藤先生も、この「プロポーズ」には、賛成であったのであろう。もしかしたら、帰国のご挨拶に先生のお宅へお邪魔した際、たまたまTさんが来ていたのは、見合いのような意味があったのかもしれない。私に対する先生のご厚意は有り難かった。しかし、このようなプロポーズの仕方を急に目の前にして、私は戸惑っていた。アメリカから帰ったばかりで、交際を始めるというならともかく、私はまだ結婚を考えるような気持ちの余裕はなかった。私はTさんには鄭重に手紙を書いて「辞退」した。
 名古屋では中京大学の本部の前にある中京荘というアパートに住んでいた。教員では私のほかに、社会学担当の南谷教授が住んでいた。もう高校生のお子さんが二人もいるが、実家は三重のどこかで、中京大学へは単身赴任していた。円満な人柄で、私は時々、夕食時には南谷さんの部屋へお邪魔して、一緒に日本酒やビールを飲むのを楽しみにしていた。たまには、近くに住んでいる法学担当の沢登助教授もやってきて、3人で飲みながら大いに歓談することもある。
 沢登さんは、私より3歳上で、京都大学法学部の出身であった。優秀な法学者で、後年、新潟大学の教授になって法学関係の多くの著作を出版している。晩年には自らの哲学的研究の成果をまとめた『宇宙超出論』なども刊行した。
 その沢登さんは、あるいは霊感が人一倍発達した霊能者であったのかもしれない。当時、手相占いの名手として、知る人ぞ知る存在でもあった。沢登さんから手相を見てもらった女子学生が、決して他人が知っているはずのない内面の悩みや苦しみを正確に言い当てられて、わっと泣き出したという話を、誰かから聞いたこともある。
 11月の初めであったか、ある日の夕、南谷さんの部屋でいつものように3人で鍋を囲みながら酒を飲んでいた時、沢登さんは、急に私の手相を見てやろう、と言い出した。私は手相占いのようなものには関心もなく、信用もしていなかったので断ったのだが、沢登さんは、「まあまあそう言わないで見せてください」と言って、私の手相をしげしげと見つめ始めた。
 その時いろいろと言われたことは記憶にない。しかし、ただ一つ、今でも鮮明に記憶していることがある。沢登さんが、「あなたは近いうちに結婚しますね。数か月以内には、必ず結婚します」と言ったのである。私は笑い出した。それなら私にはすでに結婚話が進行していなければならない。「それは間違いです。絶対にそれはあり得ません」と私は答えた。それでも沢登さんは、「結婚する」と言い、私は「しない、あり得ない」と言い張って、それを聞いていた南谷さんも笑い出し、その話はそれで終わった。
 私はその時、酔った頭で、T さんのプロポーズを断ったことを思い出し、その余波のようなものが私のどこかに残っていたから、それを沢登さんが勘違いして感知したのではないか、と考えたりした。しかし、沢登さんのこの予言は、重大な意味を持っていたことを、後に、私は知るようになる。
 中京大学の英語担当の教授に旧制東京外語出身の室橋教授がいた。家も中京荘から近く、私は後輩ということで、一緒に長野へ旅行したりして親しくしていた。12月に入ったある日、私は、室橋さんの自宅の夕食に招待された。室橋さんにはお子さんはなく、奥さんと二人で住んでいる。日本酒を飲みすき焼きをご馳走になって、食後のよもやま話のあと、室橋さんは、ふと思い出したように奥の部屋から写真と履歴書を持ち出してきて、テーブルの上に置いた。こういう縁談があるのだが、と室橋さんは切り出した。私に勧めているようであった。
 相手は、名古屋の製菓会社の社長の娘で、県立女子大国文科出身の24歳だという。私はアメリカから帰国して半年経っていたが、渡米した時とは逆のカルチャーショックがまだ消えずにいた。結婚話についても、どういうものか、その頃はまだ考える気にはなれなかった。その何週間か前に、法学の沢登さんに、近いうちに必ず結婚すると予言されたときにも、本気で、そういうことはあり得ないと思い込んでいた。
 室橋さんは先輩だが、同僚の気安さもあって、その時も、笑い話に紛れさせて、写真と履歴書も手に取って見ようともしなかった。一度見たうえでそのまま返したら、失礼だと思ったわけでもない。私はそのあとちょっとまた歓談を続けて、写真と履歴書はテーブルの上に残したまま、室橋さんの家を辞している。
 その後2週間ほどで、昭和34年(1959年)のクリスマスであった。冬休みに入る二日前の午後、大人数の学生相手にマイクで「英文学」の授業を行っていた時、教室のドアが開いて、教務課の職員が入ってきた。私に一礼して一通の至急電報を差し出した。その時の授業は、もう少しで終わるところであったが、至急電報だから、授業中でも届けてくれたのであろう。電報は苫小牧の弟からであった。当時、父は北海道へ進出して苫小牧でアルミニウム関連の会社を経営していた。その父が市立病院で手術を受けた結果、重度の肝臓がんであったことが判明したというのである。目の前がすっと暗くなった。
 私はやっとの思いで、その授業をなんとか切り上げ、翌日、冬休み前に残っていた一つの授業を休講にしてもらって、慌ただしく身の回りの荷物をまとめて、東京へ向かった。夜遅く、荻窪の自宅に着いたが、私は母には平静を装って、父の肝臓がんのことは何も知らせなかった。翌日の朝、私は悲しみを母に覚られまいとして無理に笑顔を見せたりしながら家を出て、上野駅から苫小牧へ向かった。
 私は、その3か月前、夏休みも苫小牧で父と過ごしている。腹具合がよくないというので、父を説き伏せて市立病院に入院してもらったのだが、その時は2週間ほどでよくなったというので退院した。12月中旬には、また腹部の痛みが出てきたというので入院するという連絡は受けていたが、私は今度もしばらくすれば退院できるのであろうと軽く考えていた。冬休みに入れば苫小牧へ行くつもりで、その時には元気な父に会えることにいささかの疑いも抱いていなかった。それが、重度の肝臓がんとは一体どういうことなのか、と私は納得できなかった。
 苫小牧に着いてからは、父に覚られまいとして無理に笑顔を見せたりしながら、担当の医師に会い、院長に会い、当時がんの権威といわれていた札幌医大学長の中川先生にも頼み込んで往診をお願いした。肝臓がんの末期で余命は長くてもあと半年と聞かされて、すべての回復の望みは断たれた。3か月前の入院の時に退院させたのは明らかに担当医師の誤診であったが、いまさらそれをどうすることもできなかった。
 父はほとんど命がけで私を愛し育ててくれた。その父は、私にとって絶対的な存在であった。子どもの頃から、父が死ねば私も生きておれないなどと考えていた。絶望感に打ちのめされながら、父の最後の時間を少しでも一緒に過ごせるように私は苫小牧付近の大学へ転勤することを考えた。そして、相手がいたわけではなかったが、父の楽しみであったはずの私の結婚を、できれば父の生きているうちに実行して、新婚の二人で看病したいと思った。父の死後、父の知らない人と結婚するということには耐えられない気がしていた。
 私は、中京大学の学長へ手紙を書き、父のことを知らせて、辞職したい旨を伝えた。それから横浜の父の親しい実業家のS氏にも手紙を書いた。S氏は、父に頼まれて、かねてから私の結婚についても考えてくれていることを私は知っていた。
 年が明けて、昭和35年(1960年)の1月、私は名古屋で中京大学の学長に会って、突然の辞任申し出を詫びた。学長は状況を理解してくれたようであった。「私の娘と結婚してもらって大学を継いでもらいたいと思っていたのに残念です」と学長は言った。横浜の実業家S氏にも会った。S氏は鎌倉にいる自分の姪を私の候補として考えていたようで、早速鎌倉へ出かけて本人に会ったら、すでに婚約したい人がいると打ち明けられたと言った。しかし、その後もS氏は熱心に動いてくれて、やがて二人の候補者が浮かび上がってきた。S氏は、「二人とも甲乙をつけ難い」と伝えてきた。私も二人に会い、そのうちの一人とは、文通を始めるようになった。
 東京では、もう一つしなければならないことがあった。父の転院先を見つけることであった。父はできれば東京の大病院へ転院したいという希望があった。肝臓がんであることは伏せていたが、担当医師の病状説明に納得できなかったのであろう。しかし、私から肝臓がんの末期であるとは言えなかった。私は悩み苦しんだが、少しでも父に希望をもたせることができるのであればと、小型飛行機をチャーターして父を東京へ移すことを考えた。
 3月の中旬、文通していたYさんと婚約することになり、佐藤勇先生がYさんの家へ行ってくださった。先生は、前年の春にTさんのことがあったにもかかわらず、心から私の立場に同情してくださっていた。Yさんのご両親に会っていただき、婚約は成立した。それが妻となった富子である。私は婚約の翌日、3月10日、富子をつれて羽田から当時のプロペラ機で3時間半かかつて千歳へ飛んだ。苫小牧市立病院へ直行して病床の父に富子を紹介すると父は本当にうれしそうであった。
 その頃には、これは思いがけないことであったが、私の室蘭工業大学への就任も確定していた。父には、二人で苫小牧に住みながら、室蘭工業大学へ通勤することも伝えた。一泊して翌日、富子は再び父を見舞い、しばらく談笑して、部屋を出てエレベーターで降りていったとき、歩けなかったはずの父が立ち上がって部屋から歩いて出てきた。帰京する富子を見送りたかったのだという。その後、これも佐藤勇先生の奥様のお世話で父の東大病院への転院が3月17日に決まった。
 3月14日、昼頃まで病室で父に付き添った後、午後の飛行機で東京へ向かった。翌日の3月15日、午前中に東大病院へ行って父の入院の打ち合わせをした後、午後、池袋の三越のグリルで、私と富子は結婚式をあげた。横浜のSさんは、たまたま腎臓疾患で入院中で欠席したが、佐藤勇先生ご夫妻と富子の両親、私と富子の友人たち少人数の式であった。翌朝、私は飛行機で苫小牧へ引き返した。父は、医師の話では、もうしばらく持ちこたえるはずであったが、痛み止めのモルヒネの影響であろうか、すでに意識を失っていた。チャーターしていた東京行きの小型機の予約はキャンセルした。父は、家族全員が見守る中で、3月17日午後11時16分、大きく一つ最後の息をして、59歳の生涯を閉じた・・・・・。
 前年の11月に、中京荘で沢登さんが「数か月以内には、必ず結婚します」と言ったのは事実になった。私はあれから4か月後に確かに結婚した。しかし、その結婚には、こういう父と私の重大な運命の変転がからみあっていくことを、あの時の沢登りさんには見えていたのだろうかと、いまもふと思うことがある。

 (2017.02.01)

 



   私が体験してきた不思議なこと(2)      (身辺雑記 No.111)


 6.長男が思い定めていた他界の時期

 むかし、ロンドンの大英心霊協会で知り合った霊能者アン・ターナーを通じて、2000年6月5日付で、長男・潔典(きよのり)からの手紙を受け取ったことがあった。その手紙には、「ぼくたちは、生まれるときには、好きな家族を自分の責任で、自分で選んで生まれてくるのですね。友だちなどもやはり、生まれるときに、自分の責任と好みで選んでいるのです。こういう特別の愛があることも、いまのぼくにはわかってきました」という一節があった。そして、「ぼくがお父さんと、この世で最後の会話をしたときからも、長い年月が流れました。どうか、あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください。少し甘えながらあらためてお詫びします」という一節もある。
 1983年の夏、アメリカのノース・カロライナ州立大学の客員教授をしていた私のところへ、母親と二人でやってきて夏休みを一緒に過ごした潔典は、1983年8月30日の午後、ノース・カロライナ州ローリー・ダーラム空港から、母親と二人で帰国の途についた。フィラデルフィア経由のユナイテッド航空機でニューヨークのケネディ空港には、午後6時過ぎに到着している。それから国際線にまわって、午後11時50分発のソウル経由成田行きの大韓航空機007便に乗ったのである。
 潔典からは、ケネディ空港から、2度電話がかかってきた。無事に着いたというのが午後7時過ぎ、それから、もうチェック・インもすんで、座席も窓際が取れ、あとは乗るだけ、というのが午後9時過ぎであった。上述の手紙で「あのときの不安がっていたぼくの態度を許してください」と潔典が言っているのは、この最後の電話での会話のことである。
 いつも明るい潔典の声が、その時だけは、しどろもどろで、飛行機に乗り込む前の状況を急いで説明したあとは、慌てたように「ママと代わるから、代わるから」と言って、母親に電話が代わってしまった。妻の富子とは、普通にしばらくおしゃべりして電話が切れたのだが、私は、電話が終わった後しばらくは、何か、暗い胸騒ぎを抑えきれなかった。子供のときから素直で天真爛漫な潔典を、私はほとんど叱った記憶はない。しかし、あの時だけは、東京に着いたらかかってくるであろう電話で、「潔典、あんな電話のかけ方をしたらお父さんは心配するではないか」と、強く注意しておこうと思ったくらいである。
 実は、この電話の前にも、いくつもの潔典の不安を示す態度やことばがあった。『疑惑の航跡』(潮出版社)のなかにも書いたが、帰国前のバーベキューで、その材料を仕入れにスーパーマーケットへ行ったとき、巨大な1キロ半はありそうなステーキの塊を指差して、潔典がにこにこしながら、「死ぬ前にこんなビフテキを一度食べてみたいな」と言ったことがあった。そのようなことなどを含めて、潔典の態度やことばは、今にして思えば、私に対してそれとなく別れを告げていたのかもしれない。しかし、鈍感な当時の私は、それらからほとんど何も察知することは出来なかった。事件が起こってから初めて、愕然として、それらのすべてをまざまざと思い出したのである。
 いまの私にはわかるが、潔典は、あの時、自分がこれから死出の旅路に出ることを魂の奥深くでは知っていて、そのことを、それとなく意識し始めていたのだと思える。シルバー・バーチは、死ぬ時期というのは、本人には分かっていることで、ただ、「それが脳を焦点とする意識を通して表面に出て来ないのです・・・・ 魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります」と述べているが(栞A57-e)、潔典がケネディ空港でしどろもどろの電話をしたというのも、「それ相当の準備」がまだ終わっていない段階だったからなのかもしれない。
 その後、2005年8月31日には、東京でA師を通じての、新しいメッセージを受け取った。そのなかでは、潔典は私に対して、「有難うございます。よく耐えてくださいました。もうじきお会いしましょう。こちらで待っています。他界する時期は自分でもわかるでしょう。僕も分かっていました」と語っている。この「よく耐えて」というのは、私が妻の富子と潔典が霊界で生き続けていることを理解するようになるまでの長い悲嘆の道のりを言っているのであろう。そして、「僕も分かっていました」というのは、もちろん、潔典の他界した時期のことで、1983年9月1日〔日本時間〕を意味している。潔典は、生まれ故郷の北海道を目前にしたサハリン沖の海上で、この日の未明、母親と共に散っていった。


 7. ノース・カロライナへの道

 1982年(昭和57年)2月8日(月)の早朝に発生した東京・千代田区赤坂見附のホテル・ニュージャパンの火災は、死者33名、負傷者34名を出す大惨事となった。当時、小樽商科大学に在職して札幌に住んでいた私は、この日の夕方、空路で羽田に着いて東京に滞在していた。その翌日、フルブライト上級研究員の最終口頭試験に臨むためであった。この「フルブライト上級研究員」は、いま振り返ってみると、始めから終わりまで、異常な、不思議な陰影がつきまとっていた。最後には、慟哭の悲劇で幕を閉じた。
 フルブライト試験会場の山王ビルは、その火災を起こしたホテル・ニュージャパンに隣接していた。私がかつて通っていた高校は、その裏側の丘の上にあったので、この辺の地理には私は詳しかった。久しぶりに現地を訪れた時、ホテル・ニュージャパンは前日の火災の惨状をまだそのまま残していた。黒こげになったホテルの窓のいくつかからは、宿泊客が脱出を試みたと思われるシーツを繫ぎ合わせてロープ状にしたものが何本も汚れた壁に垂れ下がったままになっていた。私は不吉な影を追い払うようにして、フルブライトの試験場に入った。
 フルブライトの書類審査は前年の秋から始まっていた。その時の口頭試験は予備審査を通過したあとの最終段階であったので、その合否については、まもなく通知がくると思われた。通常は最終段階の口頭試験から一か月もかからないことを私は聞いていた。しかしその年に限って、合否の通知は、1か月過ぎても、2カ月経っても来なかった。
 大学で教えている場合、一年も海外へ出かけるような長期出張には、当然ながら留守中の授業担当者を非常勤で手当てするなどの措置が必要になるから、少なくとも半年以上の余裕をもって申請しなければならない。5月に入って、もうこれ以上は待てないから、大学に迷惑をかけないためにも、フルブライトへは辞退の連絡をしなければならないのではないかと考え始めたころ、やっと、「上級研究員」決定の通知が届いた。後でわかったことだが、アメリカの不景気による政府の財政難で、その年に限って、予算決定が大幅に遅れたからであったらしい。
 私は9月中旬に、1983年9月14日までの一年間の予定でアメリカのアリゾナ大学へ向かうことになった。妻とアリゾナ大学への編入が決まった長女が同行し、東京外国語大学在学中の長男は東京に残る予定であった。ところがその後、当時、東京・荻窪の実家に住んでいた妻の母親が胃がんに冒されていることがわかって、妻は急遽、渡米を取りやめ、看病のために東京に残ることになった。私と長女だけが渡米して、アリゾナのツーソンに住み始めた。妻の母親、山本雪香はその年は持ち越したが、翌年、1983年の2月に亡くなった。母親に付き添って看病に明け暮れていた妻は、悲しみと過労で、葬儀のあと寝込んでしまった。
 長男の潔典は、はじめの予定では、1982年9月に私と妻が長女と渡米した後は、翌年3月からの春休みに、アリゾナへ来て家族と合流することにしていた。それが私たち家族にとっては2度目のアメリカ生活になるはずであった。1973年の暮れから1975年の初めにかけて私は文部省在外研究員としてアメリカのオレゴン州に滞在したが、その時は家族4人が一緒であった。1983年の春休みに長男が来れば、またアリゾナのツーソンで家族水入らずのアメリカ生活ができることになる。
 私はその時も子供たちに貴重な教育の機会を与えることに執着していた。しかしそれも、妻の母親の葬儀と、その後の妻の体調不良で、妻と長男の渡米は諦めなければならなかった。次のチャンスは、夏休みしかない。しかし、夏休みをアメリカで過ごすためには、私のフルブライト上級研究員の滞在期間を少なくともあと半年は延長する必要があった。
 フルブライトの上級研究員の場合、通常であれば、滞在期間を延長するのはあまり困難ではない。一年後の9月以降、どこかの大学で研究を続けるか教えるかして、給与を受け取る形を整えればよいことになっていた。私は妻と長男の春休みの渡米が困難になった時点で、私の研究分野に沿うような教育・研究担当者の公募があれば応募することを考えるようになった。アメリカは大学の数も多いし、「フルブライト」にはそれなりの権威が認められていたから、私は何とかなるのではないかと思っていた。
 しかし、現実は予想外に厳しかった。その年に限って、アメリカの大学は、私の居たアリゾナ大学を含めて、軒並みにあまり前例のない大幅な予算削減に苦しんでいたからである。アリゾナ大学卒業生の就職も「最悪の状況」といわれていた。
 そんな折に、12月中旬、カリフォルニア州モントレーのアメリカ海軍語学校から、私が所属していたアリゾナ大学言語学部に、日本語講師公募の書類が送られてきた。私はここの外国語教育には関心があった。効率の高いことで知られているこの学校独特の外国語教授法の実態を知りたいと思ってきた。私はアメリカ海軍語学校の教員公募に応募することにした。これが無事に通って、翌年9月からカリフォルニアへ移ることになれば、家族との再会もカリフォルニアにすればよい。それは望ましいことでもあった。
 私は、履歴書、研究業績一覧表などと共に、要求された英文のエッセイと日本語のエッセイを新しく書いた。与えられたテーマについて、英語と日本語でそれぞれに口頭で録音テープに吹き込むという作業も済ませた。12月29日に応募書類とテープをアメリカ海軍語学校へ送った。念のために、アリゾナ大学言語学部の掲示板に貼り出されていた公募書類のうち、マサチューセッツ大学、プリンストン大学、ノースカロライナ州立大学にも、同様の応募書類を発送した。応募書類の作成で明け暮れしているうちに、何時の間にか、アリゾナの砂漠の町での1982年は過ぎていった。
 翌年の1983年3月25日から3日間、サンフランシスコのヒルトンホテルで言語学会が開かれた。言語学、外国語教育の研究者が全米から集まることになっていて、アリゾナ大学からも十数人の教授、助教授、大学院学生と共に私も参加した。アリゾナのツーソン空港からロサンゼルスを経由して約1,300キロを飛んで10時過ぎにサンフランシスコに着き、学会会場のヒルトンホテルへ向かった。
 アメリカでは、学会は求人の場合の候補者選考の場にもなっていた。研究発表のプログラムが終わると、別室に設けられたPlacement Service(就職斡旋)の部屋で、教員を公募している幾つかの大学が机を並べて、求職中の教員、大学院学生たちと面談することになっていた。学会二日目の午後、私はここでノースカロライナ州立大学のK教授に会った。K教授は私の採用に強い意欲を示していた。この時の面談でも、4月中旬には正式に決定できるだろうと言った。
 アメリカ海軍語学校からもポジティブな反応が続いていた。1月下旬以降、私のパスポートとビザの写しを求めてきたり、私の1974年からのオレゴン大学客員教授時代の勤務内容についての照会があったりした。4月1日には、Notice of Rating (資格査定通知)が届いた。アメリカ海軍語学校独特の査定で、総合点数99点、1級インストラクター(GS-7)という書類が届き、「GS-7」に対応する俸給表なども同封されていた。
 しかし、任用予定については何も触れていなかった。電話でそのことを問い合わせると、予算の決定があり次第、任用については追って知らせるというような返事であった。ここでもまた予算であった。私は滞在期間延長を在籍中の小樽商科大学へ申請するかしないかの決断を迫られていたので、少し考えて、5月末までにアメリカ海軍語学校の任用が決定されなければ、赴任することはできない、と手紙を出した。
 それまでに、応募書類を出していたマサチューセッツ大学からは、1年間だけの短期任用は受け入れられないという返事があり、プリンストン大学からは、求人の対象は教授クラスではなく若手の大学講師クラスに絞っているという返事を受けていた。4月初めの時点で、滞在期間延長のための就職可能性が残されていたのは、アメリカ海軍語学校とノースカロライナ州立大学の二つだけになった。
 ところが、そのノースカロライナ州立大学のK教授から4月中旬に手紙がきて、任用決定が少し遅れるかもしれないといってきた。さらにその後電話がきて、遠慮がちに、フルタイムで駄目の場合、パートタイムでも教えてもらえるかと聞いてきた。やはり予算削減で苦しんでいるようであった。パートタイムで週6時間教えて、給料はフルタイムの半分になるのだという。私はパートタイムでもいいから任用を決定してくれればそれに従うと答えた。給料の多寡よりも、滞在延長手続きのためには、任命決定書を早く小樽商科大学の人事委員会に提出する必要があった。
 その年のアリゾナ大学の講義は、5月初めにすべて終わって、5月6日からは期末試験であった。娘の場合は、5月12日の人類学の試験が最後で、翌日からは夏休みに入る。5月30日からは、フルブライトの年次集会が予定されていた。アメリカ全土に散らばっているフルブライト研究員たちが呼び集められ、一堂に会して総会と研究分野別の研究会に出席するのである。
 たまたま会場は、ノースカロライナ大学(University of North Carolina)の所在地チャペルヒルであった。通常、各州には二つの代表的な州立大学があって、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)のほうは首都のローリーにある。私はこの年次集会に出席している間に、ローリーへ行って、ノースカロライナ州立大学のK教授にも会うことになっていた。
 そのノースカロライナ州立大学の任用は5月の20日を過ぎても、まだ決定の連絡はなかった。アメリカ海軍語学校のほうも、任用通知はまだ届いていなかった。私は悩みながら、滞在延長は取りやめて帰国することも考えるようになっていた。いずれにせよ、私のアリゾナでの生活はまもなく終わろうとしていた。
 その頃、アリゾナ大学で私の世話役になっていたベイリー教授から、砂漠の中での朝食会に招待された。私の親しい友人で牧師のウエンガーさんが日本文化研究で博士号をとって、カリフォルニアの大学への就職が決まっていた。そのウエンガーさんや私に対する送別会のつもりであったようである。
 5月28日の土曜日、午前6時半に、私と娘はベイリー教授の家に着いた。ベイリー教授一家4人、ウエンガーさんの家族4人、それにアリゾナ大学で博士課程にいる日本人留学生3名を含めて、総勢13名が3台の車に分乗して砂漠へむかった。町の中心部から東へ約40分、ツーソンでは一番高いレモン山へ行く途中に、ベイリー教授の目指す場所があった。灌木の中の空き地にテーブルを組み立て、持参のコーヒー、サンドイッチ、果物などで朝食をとりながら、とりとめのないおしゃべりを楽しんだ。
 朝早いうちは何とかしのげるが、日中の気温は摂氏で40度近くに上がるので、長くは居れない。一時間ほど過ぎて、そろそろ引きあげようとしていた時、近くの灌木の陰でドーンという車がぶつかったような音がした。皆でかけつけてみると、なんとそこには、朝食後その辺で遊んでいたベイリー教授の長男で15歳のショーンが、小型トラックにはねられて倒れていたのである。騒然となった。救急車を呼んでショーンを病院へ運んだが、ショーンは死んだ。
 私は大きなショックを受けた。フルブライトの年次集会に出なければならなかったが、旅行どころではないような気がしていた。私は鉛を飲み込んだような重い体と気持ちを引きずったまま、次の日の夜、深夜便でツーソンからフェニックスを経由してノースカロライナのローリー・ダーラム空港へ向かった。3,200キロの空の旅を私はぐったりして殆ど眠ったまま過ごした。
 チャペルヒルでは会場の「ホテル・ヨーロッパ」で、5月31日の晩さん会から年次大会は始まった。世界各国から選ばれて集まっている百数十人の研究員たちは、ホテルの部屋を割り当てられ、翌日から、午前、午後、夜間の三回に分けて、いくつかの研究発表や分科会が開かれた。世界の人種問題、教育問題、経済問題、文化の違いと国際交流、世界情勢のなかのアメリカの役割、研究者、ジャーナリストの使命等々熱心な発表と討論が続いたが、私はまだ、ショーンの突然の死の後遺症が強く残っていて、会場の雰囲気になじめず上の空であった。発言するのも苦しかった。
 2日目は、午前中にチャペルヒルの街とノースカロライナ大学を見学して、午後は研究会と討論、3日目も午前中はディユーク大学を見学して、午後の総会で年次大会は終わった。私はノースカロライナ州立大学のK教授に迎えられて、40キロ離れたローリーに移り、その夜はK教授の自宅で、日本食の夕食をご馳走になった。
 私の任命については、学内の処理はすべて終わっていて、大学財務部の予算決定を待っている段階だという。K教授は、フルブライト教授をパートタイムで来てもらうのは申し訳ないといいながら、手続きが遅れてしまっていることを何度も私に詫びた。来週にも決定は降りるはずだから、私たちのアパート探しも心がけておくとも言った。
 次の日の午後、私は泊まっていたローリーのヒルトンホテルで、フルブライト年次大会に出席していた東北学院大学教授の鈴木氏とたまたま出会った。鈴木氏は図書館学の専門家でノースカロライナ州立大学図書館を午前中訪れていたという。私は鈴木さんに誘われて、午後の時間を一緒にすごした。Roleigh Little Theaterへ行き、ミュージカル「Southern Pacific」を観た。しかし、やはりミュージカルを楽しめる気分にはなれなかった。劇場を出てからは、ダウンタウンで日本風居酒屋の店を見つけて夕食をとり、その後はヒルトンホテルへ帰って、鈴木さんの部屋で深夜の12時近くまで缶ビールを何本も飲みながら話し込んだ。
 少し酔いがまわってきたせいもあったかもしれない。私は苦しい胸の内を曝け出して、鈴木さんにツーソンでのショーンの死の話をした。いま滞在延長の予定が思い通りに進んでいないこともあって、延長はしないで帰国するかどうか迷っているところだと言った。その時、鈴木さんは、「実は」と、自分の息子さんの話をした。前年の春、そのショーンと同じ15歳の長男が、小児がんで亡くなったのだという。
 亡くなる1週間前には病院から仙台の自宅へ移っていたが、夜中に長男が声を殺して泣いている様子が病室の外へ伝わってきて悲しかったと鈴木さんは打ち明けた。9月に日本へ帰っても、位牌の前に座るのが辛いとも言った。私はここでも、彼の息子さんの死が他人事ではないような気がして、暗く沈みこんだ。ふらふらと深夜の自室に戻り、ベッドの上に倒れるようにして眠った。
 ローリーからツーソンに帰ってから一週間が過ぎても、ノースカロライナ州立大学の任用通知書は届かなかった。私はやっと決心して、滞在延長は取りやめることにした。私のフルブライトの滞在期限は9月14日となっていたが、それまでに帰国することをフルブライト委員会に伝える手紙を書いた。規定による帰国旅費の支給申請書も作り、6月15日の朝、近くのポストに投函した。辛い気持ちで何もする気がおこらず、その時はそのままアパートへ引き返した。その、ほんの20分ほどの留守の間に、ノースカロライナ州立大学からの速達便が届いていた。任用通知書であった。私は呆然となった。
 しばらく苦しみながら考えた後、私はノースカロライナへ赴任することにした。先ほどフルブライトへの書類を投函したばかりのポストの前で一時間以上も待って、やがて現れた郵便物集配人に事情を話し、私の手紙を取り戻したいと言った。集配人は、規則でここでは返却できないので、郵便局本局へ身分証明書を持参して受け取りに行くように、と答えた。
 翌日、私は言われたように郵便局の本局へ行って、フルブライト宛の書類を取り戻した。そしてアパートへ帰ってみると、今度は、アメリカ海軍語学校からの手紙が届いていた。予算措置ができて、これから任用手続きを始めるからもう少し待ってもらいたい、というのである。手続きを始めるのはいいが、それでまた少し待てといわれても、私にはもう待つ余裕はない。私は、アメリカ海軍語学校のほうは無視することにした。
 7月1日、車に荷物をいっぱい積みこんで、私と娘はツーソンを後にした。アリゾナのツーソンからノースカロライナのローリーまで、直線距離は3,000キロだが、その間に、車では、ニューメキシコ、テキサス、アーカンソー、テネシー州などを通過して行かねばならない。途中、名所旧跡などに立ち寄りながら、私たちの車は3,400キロを走って、10日目の7月10日、ローリーの近くまでたどり着いた。
 翌日には、大学から北へ30キロほどの2LDKで90平方メートルくらいのアパートを契約した。7月12日に引っ越しをして、14日に電話がついたので、東京の留守宅へ電話した。妻の富子に、これからでもこちらへ来れるようであれば来てはどうか、と言った。
 私からの電話を受けて、東京では、ニューヨーク行きの航空券を手に入れるために八方手を尽くしたらしい。しかし急のことで、どこの航空会社の予約も取れなかった。キャンセル待ちの大韓航空の航空券でそれもソウル経由のものが8月3日になってやっと取れ、妻の富子と長男の潔典は、その二日後に慌ただしくニューヨークへ飛んできた。私と娘は、その前日にローリーを車で出発して、アメリカ時間の8月5日午後9時過ぎ、ケネディ国際空港で富子と潔典との一年ぶりの再会を果たした。
 それから25日間、私たちはまた家族4人になって、かつてオレゴンに住んでいた時にそうしたように、車で東部諸州やノースカロライナ州の周辺を旅してまわった。そして、8月30日の朝、思い出深いアメリカ2度目の滞在を終えて、富子と潔典は帰国の途についた。ローリー・ダーラム空港からフィラデルフィア経由でケネディ空港へ飛び、そこで大韓航空機に乗ったのである。しかし、その大韓航空007便は、遂に富子と潔典を無事に日本へ帰してはくれなかった。
 事件のあと何年も経って、私は「溺れる者は藁をも掴む」心境で仏典や聖書を学び、霊界の本を読み、霊界からのメッセージを求めて次々と数十人の霊能者と接触したりもした。そして、少しずつ霊的真理に目覚めていった。やがて霊界の富子と潔典とも「文通」できるようになり長年の悲嘆と苦しみからも抜け出していった。
 その過程で、私がなぜあのような国際的な大事件に遭遇して妻と長男を失わねばならなかったのかを理解するようにもなった。このことについては、いままでに数多くの霊界からのメッセージや「証言」が寄せられている。たとえば、その一つの例として、潔典は霊界からこう伝えてきたことがあった。「お父さんなら、頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです。でも必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、一人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせ、同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすことを、その聡明さによって、やってくれるということが期待されたからです。」(1999. 6. 5)
 同様の「証言」は霊能者のA師を通じても幾つかあった。つぎのように言われたこともある。「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。」(2004.06.05)
 これらの霊界からの「証言」やメッセージについては、私は『天国からの手紙』(第6章以下)などにも書いてきた。「世の中が偶然によって動かされることはありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません」と、シルバー・バーチは言っている。事件によって私が悲嘆のどん底に突き落とされたとしても、それは私にとって必要なことが必然的にもたらされたということになるのであろう。いまになって事件に至るまでの過程を逆に振り返ってみると、思い当たるようなことがいくつも出てくる。
 まず、私は、フルブライトを受験して合格しなければならなかった。その決定がその年に限って異常に遅れたにも拘わらず、私はフルブライトを諦めるのではなく、受け容れてアメリカへ向かわねばならなかった。アメリカではアリゾナに一年居て帰国するのではなく、家族を呼び寄せるためにも、滞在延長をしなければならなかった。それも給与の高いアメリカ海軍語学校のモントレーで教えることによってではなくて、ノースカロライナ州立大学での給与の低い教職でなければならなかった。そうでなければ、それらの選択肢のうちの一つにでも私が別の選び方をしていれば、私は事件に巻き込まれることはなくなっていたはずなのである。今にして思えば、私は抗うこともできずに、ただ与えられた道を歩んできたとしか考えられない。
 シルバー・バーチはこうも言っている。「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのか、といった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし、すべてはちゃんとした計画があってのことです。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。」
 ―― いまの私には、こういうことばも私なりに理解できるような気がしている。確かに私は、「何ものかによって一つの道に導かれて」きた。その結果、私はあの年にあのような事件に遇った。それは私の宿命であった。そして、そのことをも含めて、私は今まで、大宇宙の大いなる力によって導かれ、生かされてきたのである。


 8.潔典のおもちゃの時計のことなど

 長男の潔典は、1981年4月に東京外国語大学英文科に入学してからは、札幌から上京して、多摩市永山のアパートに住んでいた。大韓航空機事件に巻き込まれた1983年の夏も、このアパートから母親と一緒に、当時アメリカにいた私のところへ出発して、ついにこのアパートには帰ることはなかった。
 このアパートの潔典の勉強部屋に、潔典がなにかの付録か懸賞でもらったらしい子供っぽい時計が残されていた。五百円玉よりちょっと大きいくらいのゲーム・ウオッチで、値段にすれば、おそらく千円もしないかもしれない。茶目っ気のある潔典は、その時計を、自分の机の脇の電気スタンドにぶら下げていた。
 私は、事件後しばらくは辛くて部屋にも入れなかったが、2年くらい経ってからであったろうか、ぼんやり潔典の机に座っていると、急に「タタタータタ、ターララ、ラーラ・・・・・」と、時計が鳴り出しのである。私はちょっと驚いて、初めてこの「ムッシーちゃん」と名付けられた小さなおもちゃの時計が鳴ることに気づいたのである。
 12時15分に鳴り出して、15秒ほどで終わるこのメロディーは、その後何年間も鳴り続けた。鳴り続けるだけでなく、画面の人形が可愛らしく踊るのである。それだけ、電池の消耗も大きいはずだが、私は、いつまでも鳴り続け、踊り続けるこの時計の「異常」に気がついて、7、 8年目くらいからは、ときどきビデオで時計の時間を音と映像とともに記録するようになっていた。
 事件後10年になる1993年の夏、ロンドンでアン・ターナーにこの時計のことを話すと、彼女は「あなたに霊界のことを理解させるために、この時計は10年間鳴り続けてきたが、いまあなたは理解し始めている。それで、まもなく動くのを止めるだろう。止まっても新しくバッテリーを入れ替える必要はない。そのままにしておけばよい」と言った。
 このビデオの録画は、1994年1月6日までの記録が残っている。文字盤の人形が踊り、ちゃんとメロディーが鳴っている。普通は1年か2年で止まってしまうと思われるのに、このおもちゃの時計は、11年以上も毎日、画面の人形が踊って鳴り続けたことになる。
 2003年9月1日は、事件後20周年で、私は、北海道・稚内での慰霊祭に参加し、札幌の自宅では、長年そのままになっていた妻や長男の遺品などの整理を始めていた。長男の潔典の部屋には、高校時代まで使っていた机が元のままの状態でおいてあった。その机の引き出しを、初めて開けてみたら、小さなトランジスタ・ラジオがひとつ出てきた。大学に入ってからは、性能のいい別のラジオを使っていたから、このトランジスタ・ラジオは、その時の時点で、おそらく22年以上もこの引き出しのなかで眠り続けたことになる。
 私は、自分のラジオを5年くらい放置して、なかの電池が腐食で流れ出したことがあったのを思い出して、この潔典のラジオも電池だけは抜き出しておこうと思った。その時、なにげなくスイッチを入れてみたら、ラジオから大きな音響で音楽が流れ出して、驚ろかされた。このラジオは、電池は入れ替えていないのに、22年以上経ってからでも、普通に使用できたのである。
 1982年に、フルブライト上級研究員として、アリゾナ大学へ行ったとき、私はコンパクトなコニカ製のカメラを持っていった。翌年の夏に、当時留学生としてアリゾナ大学に在学していた娘と二人でノース・カロライナ大学へ移ったとき、そこへ、東京からやってきた妻と長男が合流して、家族4人でいろいろなところを旅行したが、そのおりおりの写真を撮ったのもこのコニカのカメラである。大韓航空機に乗るためにニューヨークへ向かう妻と長男を見送って、ノース・カロライナのローリー・ダーラム空港で二人の最後の写真を撮ったあとは、このカメラは使ったことはなかった。
 当時のカメラは、まだほとんど手動式であったが、日付を写し込む部分だけは、電池を使っていた。2004年になって、私はそのことを思い出して、しまいこんであったそのコニカのカメラを取り出してみたのである。1981年に買って、もう23年にもなるそのカメラの日付は、閏年の誤差も自動修正して正確に、正しい日付を示していた。念のために、その後何年かして購入したたペンタックスとミノルタの一眼レフカメラをみてみると、いずれも、10年もたっていないのに、日付機能は電池切れで、消えてしまっていた。
 潔典のおもちゃの時計が11年以上も、画面の人形が踊り、鳴り続けたというのは、アン・ターナーに言われるまでもなく、とても偶然とは思えないが、潔典のラジオが22年以上たっても大きな音響を失わず、潔典たちの最後の写真を収めたカメラは、その日付が23年たっても正常に表示されていた、というのはちょっと不思議な気がする。これらもまた、単なる偶然ではないのかもしれない。


 9.深夜のバルト海で見た赤く光る飛行物体

 2003年9月28日の夕方、私は北欧スウェーデンのストックホルムから、フィンランドのヘルシンキへ向かう3万5千トンのフェリー・ガブリエラ号に乗っていた。6階の海側の個室の窓から見えていたバルト海は、曇天で6時頃には真っ暗になって、どこまでも深い闇がひろがっていた。
 船内のレストランでヴァイキング料理の夕食をすませて、8時半頃部屋へ戻っていた私は、翌日の忙しい行程に備えて、10時すぎにはもうベッドに横になっていた。まだ時差ぼけから抜けていなかったからであろうか、夜中に私はふと目を覚まし、時計を見ると午前零時であった。3万5五千トンの巨体は船底の方で鈍いエンジン音を響かせているだけで、船はほとんど波で揺れることもなく、粛々と進んでいるようである。私はカーテンを開けて、夜のバルト海に目を向けてみた。
 私は、船旅は好きなほうで、1957年にアメリカ留学で二週間をかけて太平洋を船で渡って以来、船室から夜の海を眺めるという経験は、海外でも日本でも少なくはない。船室の窓から、月夜の美しい海原を眺めたことは何度もあったし、曇り空で、真っ暗闇の海を航行しているときには、全く何も見えないこともよく知っている。しかし、その夜の場合は、様子が違っていた。
 曇天の暗い海上の遠くの方で、赤い光が、すーと流れ星のように流れていくのが見えたのである。よく見ると、それは水平に、そして、左右に素早く動いていて、流れ星でないことはすぐわかった。しかも、それが、三本の線になったり、四本、五本の線に増えたりするのである。みんな、鮮明に赤く光っている。私はその不思議な光景に、眼を凝らして、何とかその正体を見極めようとした。
 それらの赤い光は、それが素早く飛んでいるから赤い線に見えたのだが、船からは遠く、おそらく百メートルも二百メートルも離れていたように思える。ずっと見続けていると、たまに船のそばまで近づいてくる光があって、船の近くでは、船の灯りを受けたからなのであろうか、一瞬、白く見え、そして羽ばたいていたような気がした。それで、私は、遠くの赤く光る物体も、鳥ではないだろうかと推測したのある。
 しかし、赤色に光って飛ぶ鳥などというものは、常識で考えても、とてもあり得るとは思えない。蛍や、洞窟の中でかすかに光る苔などは、私も見たことがあったが、鳥の類が光るはずがない、と何度も思った。
 真夜中の真っ暗闇の海の上のこどだから、もし物体が光るとすれば、それは船からの光を反射している、と考えられないことはない。しかし、その可能性もなかったようである。「光の明るさは距離の二乗に反比例する」ことも私の頭の片隅にはあって、何度も暗い海を眺めまわしたのだが、真夜中の船から漏れている明かりは、船のすぐそばの波の動きをわずかに捉えているだけであった。50メートルや100メートルの、あるいは200メートルもあるような遠方の空中の物体に船体の光が届くはずがないこともすぐにわかった。
 あまりに不思議なので、私は、幻覚でも見ているのではないかと何度も思ったりした。しかし、何度見直しても、やはり間違いではない。赤い光は、断続的に、しかし、何度も何度も暗い夜空に赤い線を引きながら、左右に速い速度で直線的に飛んでいた。
 いつまでも見ているわけにもいかず、眠らないでいると、翌日からの予定にも差し支えてくる。私はいったんは寝ることにしたが、念のために目覚ましを3時にセットして、3時に起きあがり、もう一度、窓の外を眺めてみた。赤い光が間違いないか、再度、確認しておこうと思ったのである。外は相変わらず、漆黒の闇であった。そしてやはり、赤い光を発する物体が、左右に速い速度で飛んでいた。ちょうど流れ星が横に流れているような感じで、鮮明に目に映ったのである。それは決して、幻覚ではなかった。
 翌日、私は現地の人に、「この海ではこういう光景が見られるのか」と訊いてみようと思ったが、どう考えても幻覚だと一笑に付されそうで、訊くのはやめた。帰国してから、山科鳥類研究所へ電話し、手紙も出して、その実体を知ろうとしたが、やはり、「鳥が赤い光を出して飛ぶことはあり得ない」ということで、その実体を探索する道は絶たれてしまった。
 そのまま、わからないまま数年が経過して、私は、思い切って、霊能者のA師に、この問題を持ち出してみた。バルト海で私が見たあの物体は何か、なぜ飛んでいたのか、私にだけ見えた現象なのかを、霊視で見てもらおうと思ったのである。私は何とか知りたい一心でA師に縋りついたのだが、A師にとっては、別に難題でも不思議でもなかったようであった。A師は、よどみなく、つぎのように答えてくれた。

 《他の人にも見えることがありますが、でも、全員が見えるということではありません。人の中の何割かが見えるという程度です。その実体は何かというと、生命体です。霊界のみ霊そのものではありませんが、生命の要素が光って飛んでいるものです。物理的なものでなく、生命の発光体です。北方の寒冷の地で、しかも大海原で、生命の気が、或いは要素が、海上に沢山うごめいています。生命の要素は赤く発光することがあります。その生命の要素は、たとえば魚の霊とか、魚だけでなく魚介類など、そういった生命の要素が発光体として光ります。
 人間の亡くなったみ霊というより、大自然の、特に、陸地よりも海に関わる生命の要素が沢山、寒冷の地の澄んだ大気の中で、特に夜は、生命の要素が真っ暗がりで目立つので、ちょうどオーラのように光るのです。それと似たものとしては、日本の墓地などで、浮遊霊が火の玉のように飛んでいることに近いです。墓地に昔見えた火の玉は、主に遺体の骨の燐の部分が発光して光っているものでした。最近は火葬が徹底しているし、密閉するようになったのでほとんど見受けなくなりました。
 あなたがバルト海で見たのは、人間の霊ではなく、生き物たち、特に海系の生き物たちの生命の気です。また、あなたの心が澄んでいて、生死を乗り越え、達観視してきていたのです。自分では無我夢中で現実に対応してきたのですが、何時しか自分が実感している以上に達観して澄んだ心境になったので、余計あなたには目立って見えたのです。地球は生命に満ちあふれていて、生命は光り輝いていることをあなたに見せたのです。あなたは生命について、今生で苦しい体験を以って会得しました。普通には得がたいことでした。それがあなたに今生で与えられた贈り物です。》


 10.不思議な咲き方をしたサボテンの花

 かつて私が住んでいたアパートのベランダのサボテンは、毎年一回、一つか二つの花を数時間だけ開かせてきたのだが、2012年に限って、私の大腸がんと腹部動脈瘤の二つの病気の検査、入院、手術にタイミングを合わせるように、七回もの開花を繰り返した。
 2012年当時の、このサボテン開花の一回目は6月14日で、この翌日から大腸がんの検診を受けて、内視鏡検査でがんが発見された。2回目の開花が7月19日で、がんの切除手術を受けて退院してきた二日後のことであった。ところが、このサボテンは、その後も、三回目・8月13日、四回目・8月20日、五回目・8月24日、六回目・9月23日、そして、10月12日には七回目が開花したのである。それぞれに撮っておいた写真によって改めてその開花の日の前後を確かめてみると、退院後と入院前の一連の検査や診断で、重要な節目の日に当たっていることがわかる。
  年に一回しか開花してこなかったこのサボテンが、なぜその年に限って七回も花開いたのか、そもそもサボテンに限らず花というのは、そんなに年に何回も開くものなのか、私にはよくわからなかった。思い返してみると、2回の大きな手術の前も後も、私がなんの不安も怖れもなく穏やかに過してこれたのも、この純白の美しい花によっても見守られていたからかもしれない。
 このサボテンが、2012年に、七回もの開花を繰り返しことには何か意味があるのではないかと考えていた私は、その翌年にはこのサボテンがどういう咲き方をするのか、興味を持って見守ってきた。やはりその年、2013年も、最初の開花は異常であった。5月21日の夜、八つの蕾のうち四つが花を開かせた。夜に開いた花は、朝になって陽に当たると数時間でしぼんでしまう。この四つの花は、5月22日の昼ごろにはしぼんで、代わりに残りの四つの蕾が花を開かせた。つまり、その年は、5月21日の夜から22日の夕方までに、八つの花が一度に開いたことになる。
 それまで、二つ以上の花が一度に開いたことはなかったので、その年には、なぜこのような開き方をしたのか、ちょっと不思議であった。しかも、この八つの花が開くというのは、その後、6月16日に1輪、6月19日に7輪と、もう一度繰り返されたのである。この開花はさらに続いて、6月30日にも二つの花が開き、一週間後には、新しく一つの花が開いた。その年には、合計で19の花が6回に分けて開いたことになる。
 その開花の「異常」の意味が知りたくて、私は、2013年6月6日、その年の8つの蕾が確認できた時点で、霊能者として高名なA師に聞いてみた。A師はこう答えた。

  《「7」は生命の進化の段階を表わしています。よりよい霊的な働きは「7」で表わされます。あなたがこの世で病気になったので、富子さんや潔典さんをはじめ、あなたと繋がりがある、あなたをこころから思う霊界の存在たちが、あの世から生命力を送ってきていたのです。そのため驚くほど沢山、たて続けに咲いていました。その生命力のお陰であなたは手術がうまくいき、恢復したのです。
  そしてその霊界からの支援は、いまでも続いて今年も咲き始めています。あの世とこの世との緊密な関係が感じられます。あなた自身、霊界に大分近づきつつあります。これからますます、霊界の雰囲気や霊的存在たちの臨在感を感じられるようになることでしょう。霊界とより緊密になっていき、徐々にあの世へと移行していくことでしょう。この世の側の身辺の整理や処理なども、少しずつしていってください。》

  A師からの答えがこのようなものになるであろうことはある程度は予想していたが、それでも、7回の「7」の数字の意味は、私にとっては初耳であり、新鮮であった。その次の「霊界からの支援」については、私には十分に納得できる気がする。常日頃から、私は、霊界から妻の富子や長男の潔典が見守ってくれていることは、かなり強く意識して過ごしてきた。A師が言われるように、彼らがあの世から「生命力」を送ってきて、そのお陰で手術もうまくいったというのも、おそらくそのとおりであろう。しかし、その彼らが送ってくれていた生命力が、あのようなサボテンの花の開花という現世的な形でも示されていたことには、思い及ばなかった。

  (2017.04.01)





東京都小平霊園の先人たち        (身辺雑記 No.112) 


 東京都小平霊園は、武蔵野台地のほぼ中央、小平市と東村山市、東久留米市にまたがって住宅地と農地が混在した地域にある。65万平方メートルもの広大な広さをもっているが、霊園として利用されているのは、ほぼ半分だけで、残り半分は、緑豊かな公園として都民の憩いの場となっている。園内は、きちんと整列されたケヤキ並木が美しく、ソメイヨシノなどの桜の名所としても有名であり、春には、毎年訪れてくる花見客も多い。

 小平駅北口から表参道を北へ進むと、霊園の正門に至り、そこからは広い中央参道が道路中央の緑地帯を挟んで一直線に北へ伸びている。園内は広いので、参拝者は殆ど車で来ているようである。電車で来る人は、表参道に並ぶ石材店などから無料貸し出しの自転車を利用したりしている。正門から中央参道を1ブロック北へ進むと、最初のロータリーがあり、さらに2ブロック北に進むと、右側に13区の一劃がある。その入り口の角の、目印になるような位置にあるのが大山郁夫の墓(13区1側1番)である。上半身の青銅レリーフが壁面に埋め込まれた大きい墓である。

 大山郁夫(1880-1955)は、早稲田大学政治経済学部を首席で卒業して、早稲田大学教授になったが、後に政治家へ転じて、左派無産政党である労働農民党の委員長になった。戦後は、1950年の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補して当選している。1951年の12月には、スターリン国際平和賞を受賞したが、1955年に参院議員在職中、硬膜下血腫のため76歳で死去した。

 この13区には、13区25側9番に文学・文芸評論家として1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った青野季吉(1890-1961)の墓があり、英文学者でユーモア小説の先駆者であった佐々木邦(1883-1964)の墓(13区23側7番)もある。佐々木邦は、国際マーク・トウェイン協会名誉会員となり、1961年に児童文芸功労賞、1962年に紫綬褒章を受章しているが、81歳の時に心筋梗塞のために死去した。ほかに、13区37側1番には作家では中間小説、時代小説で活躍した浜本浩(1891-1959)の墓がある。作品の「絶唱」が映画化されて有名になった大江賢次(1905-1987)の墓も同じ13区である(13区7側?番)。

 小平霊園に入って、中央参道からこの13区の大山郁夫の墓のところを右折すると、その2ブロックの奥が36区で、その隣が37区である。そのなかに、少し広めの22平方メートルの墓地が並んでいる一角がある。そのうちの一つが武本家の墓(37区12側4番)である。墓の使用名義人は東京都の住民でなければならない規則で、私が札幌に住んでいた頃から、名義人は東京在住の下の妹の名前になっていた。その下の妹も一昨年に亡くなったので、いまは、甥の武本之近が名義人になっている。私はもう87歳にもなっているから、名義人にはならなかった。墓誌には、父母や妻の富子、長男の潔典等の名前が法名と共に刻み込まれているが、私もそう遠くない将来、それに加わることになる。私の法名は、これもすでにつけられているが、「慈光院釈昌叡」である。

 この小平霊園には、いわゆる有名人の墓も少なくはない。生前、会ったことはなくても著作などで私が親しんできた人たちが何人もいる。「袖触れ合うも他生の縁」というが、袖触れ合うことがなかったとしても、墓地が同じであれば、「他生」ではなくとも「多少」の縁はあるかもしれない。いわば同郷の縁のようなものである。そのうちの何人かの「同郷」の人たちを、ここに書き並べてみることにしたい。

 そのなかで、誰よりも私が縁のようなものを感じているのは伊藤整(1905-1969)である。小説家であり文芸評論家・翻訳家でもあった伊藤整は、北海道松前郡に生まれた。旧制小樽中学(現小樽潮陵高等学校)を経て小樽高等商業学校(現小樽商科大学)で学んでいる。小樽高商時代には、『蟹工船』などの著作で知られる小林多喜二(1903-1933)が上級生であった。伊藤整の『若い詩人の肖像』には、小樽高商の授業風景なども描かれている。彼よりも25年年下の私は、大学時代から、彼の作品に親しんでいたが、後に、伊藤整の母校、小樽商科大学で教えるようになった。1969年に伊藤 整は胃癌のため死去した。法名は海照院釋整願で、墓は4区9側36番にある。

 明治生まれの作家では、小川未明(1882-1961)の墓が23区29側6番にある。「日本のアンデルセン」、「日本児童文学の父」と呼ばれた児童文学の大御所であった。本名は小川健作で、童話の代表作としては、『金の輪』『赤い蝋燭と人魚』『月夜と眼鏡』『野薔薇』などがよく知られている。筆名の「未明」は、正しくは「びめい」とよむらしい。

 小川未明は、新潟県高田(現上越市)に生まれた。旧制高田中学(現新潟県立高田高等学校)から、早稲田大学へ進学して英文科を卒業した。在学中の明治37年(1904 )処女作『漂浪児』を雑誌に発表し、この時、坪内逍遙から「未明」の号を与えられたという。卒業直前には『霰に霙』を発表して、小説家として一定の地位を築いた。卒業後は、早稲田文学社に編集者として勤務しながら多くの作品を発表する。大正15年(1926)年、東京日日新聞に「今後を童話作家に」と題する所感を発表して、童話専従を宣言した。ロマンや詩情、ヒューマニズムなどを表現した作品が多く、子供だけでなく大人の鑑賞にも堪えうるといわれていた。

 この小川未明と同じ年に生まれたのが詩人の野口雨情(1882-1945)である。墓は 32区1側8番にある。野口雨情は、童謡・民謡作詞家としても著名で、北原白秋や西條八十と並び、童謡界の三大詩人と謳われていた。多くの名作童謡の歌詞を作ったが、なかでも、「赤い靴」、「七つの子」、「シャボン玉」、「黄金虫」、「青い眼の人形」、「あの町この町」、「雨降りお月さん」、「証城寺の狸囃子」などがよく知られている。「波浮の港」、「船頭小唄」など、昭和歌謡史に残る流行歌も残した。

 野口雨情の生家は、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に現存している。廻船問屋を営む名家であった。野口雨情は、18歳で東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、坪内逍遥の元で学んだが一年で中退。詩の世界に没頭していった。詩を雑誌に投稿しだしたのもこのころからである。22歳の時に父が他界したので、実家に戻り家督を継いだが、詩作は続けた。この頃から「雨情」の号を使い始めた。しかし、地元磯原の生活に嫌気がさし、樺太にわたって新規事業に取り組むも失敗。東京に戻ったもののしばらくして北海道に渡り、今度は、小樽日報の記者となる。このとき石川啄木と同僚となった。

 小樽日報をやめたころに二番目の子供(娘)が生後一週間で亡くなり、この時つくられた歌が「シャボン玉」とも言われている。小樽日報もあわせ6カ所の新聞社に勤めたが、母の死去により実家に戻り先祖からの全資産を管理していくことになった。植林活動や漁業組合の理事なども務めて、詩作に没頭できずに悶々としていたという。2度の離婚と再婚をくり返したあと、36歳の時に、水戸で中里つると結婚する。この頃より詩作活動を本格化させていった。1925年、43歳のときに日本童謡集の選者となり、1935年53歳で日本民謡協会を再興して理事長に就任。日本各地を旅行しながら、その地の民謡を創作した。戦時中の1945年(昭和20年)、宇都宮市にて疎開中に永眠する。享年63歳であった。本名は野口英吉である。

 明治生まれの作家では、自然主義文学の大家として知られる徳田秋声(1872-1943)の墓も23区27側29番にある。徳田秋声が生まれた1872年は明治4年で、現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として誕生した。明治維新後、没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。その小学校(現在の金沢市立馬場小学校)の一学年下には泉鏡花がいた。1888年(明治21年)第四高等中学校に入学したが、その3年後、父が死去したため第四高等学校を中途退学している。このころから読書熱が高まり、小説家を志望するようになったという。

 その後、郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などをしながら半放浪的生活を送り、1895年(明治28年)、博文館の編集部に就職する。そこで、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入った。1896年(明治29年)、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。以来、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、1900年(明治33年)「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となった。1906年(明治39年)4月末頃、秋声は本郷森川町の住居に転居して、ここが生涯の住処となった。この住居は、東京都史跡に指定されて現存している。

 1910年(明治43年)には、『足迹(そくせき)』を「讀賣新聞」に連載し、1911年(明治44年)には、私小説『黴(かび)』を、夏目漱石の推挽により「東京朝日新聞」に連載する。この二作によって、秋声は初めてといっていいほどの文壇的成功をおさめ、島崎藤村、田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた。1937年には芸術院会員になる。1943年、戦時中の昭和18年、肋膜がんのために死亡した。戒名は、徳本院文章秋声居士である。

 明治生まれの、作家というよりは美学者、宗教哲学者として著名な柳宗悦(1889-1961)の墓も27区13側2番にある。柳宗悦は、明治22年に、東京で海軍少将・柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を卒業する頃から同人雑誌『白樺』に参加する。東京帝國大学哲学科に進学した宗悦は、宗教哲学者として執筆していたが、西洋近代美術を紹介する記事も担当しており、やがて美術の世界へと関わっていく 。1913年(大正2年)、大学卒業してからは、ウォルト・ホイットマンの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となったといわれる。

 1914年(大正3年)、声楽家の中島兼子(柳兼子)と結婚し、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派のとも付き合うようになって、旺盛な創作活動を行った。当時、白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていた。彼らはフランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手する。1916年(大正5年)以降は、たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された。1924年(大正13年)にはソウルに「朝鮮民族美術館」を設立、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示して、その中の美を評価した。1957年(昭和32年)には、文化功労者に選ばれた。晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされ、1961年(昭和36年)春、脳出血により日本民藝館で倒れて、数日後に逝去した。享年72歳であった。

 作家、評論家として戦後の保守系マスメディアで活動した山本七平(1921-1991)の墓も1区8側21番にある。1970年に出版された『日本人とユダヤ人』は大ベストセラーになったが、山本七平は、そのほかにも、『「空気」の研究』、『日本人の人生観』、『「あたりまえ」の研究』、『日本型リーダーの条件』、『日本人とは何か』など、数多くの日本社会、日本文化、日本人についての論考を発表してきた。私も、比較文化論の考察を進めていくうえで、彼の著作からは、いろいろと影響を受けてきた。忘れられない作家の一人である。

 山本七平は、現在の東京都世田谷区三軒茶屋で、クリスチャンの両親の間に長男として生まれて、1937年 には青山学院教会で洗礼を受けた。1942年9月、太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業して、10月に陸軍近衛野砲兵連隊へ入隊した。その後、甲種幹部候補生に合格して、愛知県豊橋市の豊橋第一陸軍予備士官学校に入校する。1944年5月には、陸軍砲兵見習士官として門司を出航し、ルソン島における戦闘に参加したが、1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。マニラでの捕虜収容所生活を経て、1947年に帰国した。その後、世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店を創業し、『日本人とユダヤ人』をはじめ、多くの日本人、日本文化の著作を発表したが、1991年(平成3年)、膵臓がんで死亡した。遺骨の一部はイスラエルで散骨されたという。

 昭和期の女流作家・小説家・詩人の壺井 栄(1899-1967)の墓も小平霊園にある。10区1側4番である。彼女の代表作『二十四の瞳』は、昭和の第二次世界大戦前期の瀬戸内海の小島を舞台に、新任の若い女性教師と、小学校入学直後の12人の児童のふれあいを描いた作品である。木下恵介監督・高峰秀子主演で映画化され、香川県小豆島の名を全国に知らしめた。瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方mの敷地に『二十四の瞳 映画村』もあるらしい。敷地内の壺井栄文学館には代表作「二十四の瞳」の生原稿をはじめ、愛用品、初版本などの他、夫壺井繁治(1897-1975)の書簡なども展示されているようである。

 壺井 栄は、この小豆島の出身である。26歳で詩人壺井繁治と結婚。昭和13年(1938)処女作である『大根の葉』を発表後数多くの作品を執筆。芸術選奨文部大臣賞を始め、新潮文芸賞、児童文学賞などを受賞。代表作『二十四の瞳』が発表されたのは、昭和27年(1952)であった。私の妻からの霊界メッセージを伝えて下さった大空澄人氏も、この小豆島の出身で、この『二十四の瞳 映画村』へは何度か行かれているようである。氏の「続 いのちの波動」(2017.02.24)には、氏がこの映画村を訪れた時にインスピレーションで受けた高峰さんと壷井さんからのメッセージを、つぎのように伝えている。

 「栄さんは私の恩人、栄さんのお蔭で私は女優として成長することが出来ました。あの二十四の瞳の映画のお蔭です。私は栄さんに大変感謝しています」。(高峰秀子)

 「私の書いた二十四の瞳は高峰秀子さんという優れた女優さんに巡り合えたことによって全国的に知られるようになりました。彼女は私の恩人、大切な人なのです」。(壺井栄)

 女流作家では、宮本百合子(1905-1996)の墓が2区11側6番にある。宮本百合子は、東京の裕福な家庭に生まれ、日本女子大学英文科中退。大正5年(1916)、坪内逍遙の紹介で中条百合子(本名ユリ)の名前で『貧しき人々の群』を『中央公論』に発表した。大正7年父精一郎と渡米。翌年コロンビア大学聴講生となるが、ニューヨークで古代東洋語の研究者荒木茂と知りあい結婚して12月帰国。1924年離婚。以後ロシア文学者湯浅芳子と同居生活に入る。この間『伸子』執筆に専念した。

 1927年12月には湯浅とともにソ連に外遊した。滞在中に西欧旅行など経たのち昭和5年11月帰国。その翌月には、日本プロレタリア作家同盟に加入している。昭和7年2月、宮本顕治と結婚した。翌年12月スパイ容疑により顕治検挙。昭和9年中条から宮本へ改姓する。敗戦までの厳しい期間のなか百合子も投獄・執筆禁止などを繰り返しながら作家活動に励んだ。昭和20年10月、顕治が獄中から釈放され、夫と交わした書簡はのちに『十二年の手紙』として刊行された。戦後も社会運動・執筆活動へ精力的に取り組み多くの作品を残している。

 ほかに女流作家では、有吉 佐和子(1931-1984)がいる。墓は、25区12側15番である。古典芸能や花柳界、日本の歴史から現代の社会問題まで幅広いテーマでカバーする幅広い作品で読者を魅了したベストセラー作家として有名であった。代表作である『紀ノ川』のほか、『花岡青洲の妻』、『出雲の阿国』、『和宮様御留』、『私は忘れない』、『不信のとき』、『一の糸』、『恍惚の人』、『複合汚染』、『三婆』、『悪女について』、『海暗』、『香華』など、数多くの作品を残した。松本清張、山崎豊子と並ぶベストセラー作家として、映画、TVドラマ化された作品も多数である。

 有吉佐和子は、和歌山県和歌山市出身である。東京府立第四高女(都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女へ。その後、光塩高女、府立第五高女(都立富士高校)を経て東京女子大学短期大学部英語学科卒業。昭和27年(1952)『地唄』が芥川賞候補となり注目された。『複合汚染』は日本の公害について書き上げた代表作となった。1964年 『香華』で第10回小説新潮賞、 1967年 『華岡青洲の妻』で第6回女流文学賞、『出雲の阿国』で第20回芸術選奨文部大臣賞、昭和53年(1978) 『和宮様御留』で第20回毎日芸術賞を受賞している。1984年8月、急性心不全のため死去した。53歳の生涯であった。

 女流作家では、もう一人、私にとっては忘れられない人がいる。ノンフィクション作家で歌人でもあった辺見じゅん(1939-2011)である。角川書店の創業者角川源義の長女で、角川春樹の姉にあたる。1961年に、早稲田大学第二文学部史学専修卒業。1964年、清水真弓の名で私小説『花冷え』を刊行したが、以降は辺見じゅんの筆名に変えた。1984年に『男たちの大和』で新田次郎文学賞、1988年に『闇の祝祭』で現代短歌女流賞、1989年に『収容所からきた遺書』で講談社ノンフィクション賞を受賞している。

 私は高校時代、東京都立第一高校(現・日比谷高校)2年生の時、一年飛び級で都立豊多摩高校3年生に編入学して、その翌年、大学へ進学したのだが、辺見じゅんは、その豊多摩高校では私の後輩にあたる。私が1983年の事件後、潮出版社から『疑惑の航跡』を出版した時、「朝日新聞」の書評欄でこの本は大きく取り上げられた。その際、この本を読んだ彼女が、「心理状態の細かい部分までよく書けている」と褒めていたと潮出版社編集部の南普三氏が伝えてくれたことがある。悲歎のどん底に沈んでいた私は、作家から褒められたことが有難く、生きていくためのささやかなこころの支えになった。彼女は、2011年に、東京都武蔵野市の自宅で亡くなった。72歳であった。墓は16区1側3番にある。

 映画俳優・監督としてよく知られた佐分利信(1909-1982)の墓も小平霊園にある。2区17側15番である。彼は、北海道歌志内市出身で、昭和6年(1931)に俳優デビューした。松竹時代は上原謙、佐野周二とともに“松竹三羽烏”と呼ばれ、渋い二枚目として活躍した。 『戸田家の兄妹』(1941)、『嫉妬』(1949)、『自由学校』(1951)、『お茶漬の味』(1952)、『彼岸花』(1958)、『華麗なる一族』(1974)、『砂の器』(1974)、獄門島(1977年)などに出演している。俳優としてだけでなく、映画監督としても『女性対男性 』、『慟哭』、『叛乱』などで高い評価を受けていた。本名は石崎由雄である。

 そのほか、小平霊園には文芸評論家であった荒正人(1913-1979)の墓が16区2側7番にある。『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞したが、法政大学文学部英文学科教授在任中に死去した。戒名は、芳文院紫陽正人居士である。香川県出身の文芸評論家・十返 肇(1914-1963)は、『文壇と文学』(東方社刊)刊行以来、文壇に関する著書を数多く発表したが、舌癌で死去した。墓は41区2側1番にある。歴史、民俗学の学者として、私もその著書で親しんでいた和歌森太郎(1915-1977)は、1976年から逝去するまで、都留文科大学学長であった。墓は12区20側32番である。政治学者でお茶の水女子大学長なども務めた蝋山政道(1895-1980)は、民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在であったが、急性心不全で死去した。墓は16区20側21番にある。経済学者で東京大学名誉教授、法政大学総長であった有澤廣巳(1896-1988)の墓は、32区13側22番にある。統計学が専門で、1981年に文化功労者に選ばれた。

 さらに、実業家で電源開発初代総裁であった高碕達之助(1885-1964)の墓は39区1側8番にある。通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。千葉県出身の政治家、社会運動家の河野密(1897-1981)の墓も、23区1側16にある。東京大学卒業後、日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選して以来、12回当選したが、1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選してからは、そのまま政界を引退した。

 以上、私にとっても親しい名前の人々の墓が、小平霊園にある。「千の風になって」に歌われているように、これらの人々は、私の家族をも含めて、小平霊園に眠っているわけではないであろう。遺骨がここに収められているだけである。しかし、遺族にとっては、ここが地上での霊界への大切な接点であり祈りの場である。墓前に額ずいて、故人を偲び、こころからの対話を試みる。私もいままでそうしてきた。そう遠くない将来、私もこの小平霊園の墓地に入ることになるが、霊界では、やがて、私の家族以外のこれらの人々とも、逢うことがあるかもしれない。私はその時、小平霊園という、いわば地上での「同村の誼」で、生前いろいろと間接的ではあっても導かれてきたことを改めて感謝し、懐かしみを込めて新参者の挨拶をすることになるであろうと考えている。

 (2017.06.01)














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