ちょっと一息いれてアメリカのジョークを 〔16〕 (2014.02.19)
ある農夫が、市場へ出かけて家へ帰る途中、何か忘れているような気がしてならなかった。しかし、それが何であるかを思い出せなかった。
家が近づくにつれて、何かを忘れてきた感じがますます強くなり、二度、三度と馬車を止めては困惑して頭を掻きながら、懸命に何を忘れたのか思い出そうとしたが、それも無駄に終わった。
とうとう家に帰り着いた時、娘が出てきて、その農夫を見ると驚いて声を上げた。 「あら、お父さん、お母さんはどうしたの?」
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A farmer who was on his way home from market had the feeling that he
had forgotten something; but what it was he couldn't figure out.
As he neared home this conviction increased to such a degree that he
stopped his horses, scratched his head in perplexity, and tried to recall
what he had forgotten, but in vain.
At last he reached home and was met by his daughter, who looked at him
in surprise and cried, "Why Father, what have you done with Mother?"
お墓参りから伝わってくる「天の声」 (2014.02.10)
M. Y. 様
メールを有難うございました。メールを拝見して、「私はまだ地球学校で多くの方を助けなければいけません」というあなたのことばに感動を覚えています。
「悲しみや苦しみに耐えていくことの意味」のなかで私が言いたかったのは、苦しみや悲しみは誰にもあって、そこから何を学んでいくかが問われているということです。人生の荒波のなかで、もしも少しも悲しみや苦しみを体験しなかったとしたら、おそらくそれこそが本当の「不幸」で、それでは、折角この世に生まれてきても何も学ぶことが出来ずにあの世へ行くことになります。あのメールでは、Y.
I. さんが、深い悩みや苦しみを訴えてこられましたので、それで、私にも深い悩みや苦しみはあることを、返事で申し上げたのです。
世の中には、自分の家族や子供たちには、出来るだけ多くの財産や土地や家を残して、それで、少しも苦労しないで、楽な生活をさせることが幸せであると考えている人々が少なくないように思えます。しかし、それは、大切な家族や子供たちが、悲しみや苦しみの場である「上級学校」へ進学してより難しい教材を学ぶ機会を自ら取り上げて遊ばせてしまおうとしているのと同じで、おそらく、霊界へ行ってから初めて、その愚かさに気がつき後悔することになるのかもしれません。何が何でも貧乏や苦労が良いというのではありませんが、貧乏や苦労にも、自分に降りかかってくる限り、それなりの意味があるのではないでしょうか。
あなたをお墓参りに連れて行ってくれて、「君の宿命を見せてくれた人を粗末にしてはいけない」と教えてくれたのは、本当に貴重な「天の声」ですね。自分はいま生かされてここにいる。生かされているからこそ、そのことに感謝して、ご両親やご先祖に供養が出来るという、たったそれだけのことを素直に思える人は、確実に霊格を一段も二段もあげていることになるのだと思います。誰にとっても、ご先祖のなかには、生前、人間は肉体だけのものと思い込んで、不本意な生き方をしてしまったような人々がおられるかもしれません。それから、ご先祖によっては、亡くなった時の辛い思いなども、そのまま持ち続けていることを、知ってあげる必要があります。そのためにもお墓参りは決して単なる慣習ではないでしょう。だから、そのようなご先祖の霊にも優しく語りかけ、心を込めたお祈りを捧げるのが何よりの供養であり、またお祈りする人の功徳にもなるのだと思われます。
前のメールで引用した「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」というのも、もちろん、父母に対する優しさと思いやりを、すべての人々に広げていくことの大切さを述べたものにほかなりません。あなたの、「多くの方を助けなければ」というのと、基本的には同じです。いま、ご自分の使命を自覚し、お母さんも引き取って介護をしておられるあなたは、悲しみと苦しみの中から実に貴重な教えを学んでこられました。そのあなたの学びを、私もまた多くの人々といっしょに、その一部でも共有させていただきたいと思います。私へのお心遣いと、このようなこころ温まるメールをいただきましたことを、改めて厚くお礼申し上げます。
苦しみから学んで感謝の生活へ (2014.02.10)
武本先生
いつも、先生のブログを楽しみに学んでおります。心から、有難く存じます。
ところで、「悲しみや苦しみに耐えていくことの意味」のなかの先生の悩みや苦しみを読み、私は大変驚いてしまいました。そして、心配しています。私が気にしたとしても先生のお慰めにはなりはしませんが、先生のお心が穏やかに晴れやかな状態になりますよう切に願っております。いつも、更新を心待ちにしている者たちの為にもお元気でお過ごし下さいませ。
私の大切な人は、いつも、「とらえ方だよ」って教えてくれました。私は、私の持ってきた宿命のために多くの苦しみがあり、その因になったアルコール依存症の父を恨み、精神を病んだ母を憎み、私をさげすんだ肉親を恨み・・・結果、父の墓参りにも20年参りませんでした。そんな私に彼は、私を墓参りに連れて行き、そして、君の宿命を見せてくれた人を粗末にしてはいけないと教えてくれました。
今、母を引き取り介護をしている自分の環境に感謝しています。私は、まだ地球学校で多くの方を助けなければいけません。そういう使命があり、こうして人を助けるための事業経営をしているのだと思います。
先生、もうすぐ春がきますね。冬は春に繋がる季節です。どうか、お幸せにお過ごしくださいます様願っています。
M. Y.
悲しみや苦しみに耐えていくことの意味 (2014.02.03)
Y. I. 様
長文のメールを拝見しました。信頼も尊敬もできない肉親との絶縁を決意して独りで生きる道を選ばれたあなたは、このメールで「仕事にも家族にも友人にも恵まれ、満ち足りた人生を送る人々に、私が直面している苦しみなどわかろうはずはありません」と書かれています。多分、それはその通りでしょう。しかし、もしかしたら、そのあなたに、ひとつ見逃している視点があるかもしれません。あなたは、おそらく、いくつも前の過去世で、すでに、仕事にも家族にも友人にも恵まれ、満ち足りた人生を何度も繰り返して送ってこられたであろうことです。いまのあなたは、そのような満ち足りた生活から学ぶべきことは十分に学び、いわば「卒業」して、より高度な修行をするために、この世に生まれてきたのではなかったでしょうか。私はいま、そういう感じをもちながら、改めてあなたからのメールを読み直し、これを書き始めています。
私は、いままで、肉親の死に直面した方々などから数多くのメールをいただき、その都度、私なりに返事を差し上げてきました。その要点は、人は死んでも死なないということを、私が学んできたままにお伝えすることであったと思います。私たちは霊を伴った肉体であるよりも、肉体を伴った霊であり、霊というのは永遠で死ぬことはない。それを知ることが、肉親を失った悲歎から立ち直る第一歩になるというようなことを、私はよく書いてきました。
また、人生を生きていく上での苦しみや悩みなどで、いろいろと相談をもちかけられたことも少なからずあります。もとより私は、人生問題の専門家でもありませんし、覚者、高僧のように悟りを開いているわけでもありませんから、本来ならば、お答えできないのですが、それでも、少しでもお役に立てばと考えたりして、敢えて私自身の体験談などをさらけ出してきたこともあります。それも、要するに、人生を永遠の生命の観点から見つめ直すと、悩みや苦しみも違った捉え方ができるのではないかと、いうようなことでした。この世は、霊性向上のための修行の場であり、生まれ変わりを繰り返す中で、悩みや苦しみを乗り越えていくことに意味があると、私が学んできたことを、書いたりしてきたのです。
ところが、あなたは、このような霊的真理といえるようなことは、すでに私以上にご存知のように思われます。あなたは、若い女性としては最高の教育を受けられて博士号もとり、そのうえ何よりも、私にはない霊能力をも与えられています。あなたご自身がメールの中で、孤独のなかの闘いや内的葛藤の試練を経験してきたことは「霊的真理に出会い、ミディアムとしてあの世とこの世の架け橋になるため」であったと、書いておられるようにです。そのあなたに、私が、あなたより倍近い年数の人生を生きてきたとはいえ、どのような返事が書けるでしょうか。少なくとも、私が学んできた霊的真理の数々をここで繰り返すのは意味がありません。あなたが言われる、「異なる苦労を背負った人間同士はどうしても共感しあえないのか」という疑問に対しても、あなたはすでにその疑問に対する答えはご存知で、この長いメールのあちらこちらで触れておられます。
あなたからのメールはプリントにするとA4版で4枚の長さになりますが、そのなかで、あなたは「孤独の中の闘い」と「内的葛藤」について、いろいろと書いておられます。それがあなたにとって、強い不安と精神的ストレスを惹き起こすような深刻なものであったことも、読ませていただいて私にもよくわかります。よくわかるのは、実は、あなたに極めて近い心情で、私にも深い悩みや苦しみが今もあるからです。それは、厳密にはあなたとは異なる悩みや苦しみかもしれませんが、強い不安と精神的ストレスで、夜も眠れないようなことがあるのは、あなたと同じです。夜中に起き出して「般若心経」を何度も繰り返したりします。私は全く予想外に降りかかってきたこの自分の悩みや苦しみを、おそらく私の今生での最後の「教材」として、「卒業」の前にそこから学ぶべきことは何かを考えたりしています。
考えてみますと、人生は「五濁悪世」などといわれたりしますが、それぞれに与えられる「教材」が同じであるはずはなく、私たちはみんなが異なる体験をしながらその教材を消化していきます。大学の教材と中学、高校の教材が異なるように、大学生と中、高校生の学生の学びのレベルや内容は決して同じではありません。同じ学校の同じクラスでも学ぶ能力は一人ひとり違います。中、高校生が大学の教材に「共感」することもないのでしょう。しかし、あなたのように、博士課程を終えた人同士は、博士論文作成の経験も共有していますし、異なったテーマの「教材」への共感もおそらく容易です。その共感を、中、高校の「教材」に対する理解や共感に広げていくことも、決して難しくはありません。それが、結局、あなたが「キサー・ゴータミーの悟り」で紹介されているような、「苦しみからの解放が、つらい個人的な経験を延々と語り続けることによって達成されることは決してない。解放は、痛みに耐えながら、個人を超越した段階に至ることができたときに訪れるのだ」というようなことばに繋がっていくのだと思われます。
ここで、「教材」ということばを使いながら、ひとつ思うことがあります。たとえば人間関係で、ひとりの傲慢な性格と優しさや思いやりの欠如が、まわりに深刻な影響を及ぼしていくことがよくあります。もちろん、「加害者」の本人はそれに気がついていないのが普通です。気がついておれば、「被害者」に深刻な影響を及ぼしてくことを止めるであろうからです。しかし、気がつくだけの「能力」をいつまでも持てない人もいます。能力が持てないというのは自分に与えられている教材を消化できていないということで、「自分には何も落ち度がない」としか考えることが出来ません。この場合、「被害者」はいつまでも被害者のままで、救われることはないのでしょうか。そうではないはずです。それが希望です。被害を受けながら、悩み苦しみながら、その教材を学び、消化して、より高い「教材」に取り組んでいける能力を身につけていくのではないでしょうか。つまり、「加害者」がいなかったら、「被害者」もいないことになり、肝心の「教材」そのものもなくなってしまうことになってしまうのです。「加害者」は恩人とまではいえないにしても、少なくとも霊性向上のためには「なくてはならない人」ということはいえるのかもしれません。
少し話は逸れますが、私は先ほどまで、親鸞の生涯を考えていました。親鸞は29歳から35歳くらいまでの法然上人の吉水道場での修業の後は、62歳ころまでの20余年間、越後から関東へと配流や流浪の旅を続けます。それからも専修念仏者に対する圧迫を受けたりしながら窮乏生活を続けて、晩年の84歳の時には、信仰上の問題で長男の善鸞を義絶までしています。さんざん苦労を重ねた後で、わが子とも縁を切るというのは、84歳の親鸞にとってはどれほど辛いことであったでしょう。しかし、それでも遺された著作にみられるように、絶対他力信仰による安心立命の境地の中で、90歳という長寿を全うしました。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」というような「歎異抄」のことばも残しています。こういう親鸞の苦難の生涯も、「痛みに耐えながら個人を超越」した軌跡であったといえるのではないでしょうか。
ちょっと一息いれてアメリカのジョークを 〔15〕 (2014.01.08)
セールスマン:「坊や、ママは家にいるの?」
サム坊や:「うん、いるよ」
セールスマン:(玄関のドアを何度かノックしても返事がないので)
「坊やはママが家にいると言わなかったかな」
サム坊や:「うん、言ったよ。でも、ボクのうちはここではないんだ」
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Salesman: "Sonny, is your mother at home?"
Little Sammy: "Yes, sir."
Salesman (after knocking for some time and getting no answer) :
"I thought you said she was at home?"
Little Sammy: "Yes, sir, but I don't live here."
新年明けましておめでとうございます (2014.01.01)
2003年3月にこのホームページを開設して以来、今年で11年になろうとしています。生と死を主題にして共に学んでいきたいという、ささやかな試みですが、昨年末までにはアクセス数が
454,405 となって、新年を迎えました。
全国各地で、そして、アメリカやイギリスなどを含めて海外からも、このホームページをご覧くださっている方々に、改めて衷心より厚くお礼を申し上げます。
一昨年の思いがけない大病から立ち直り、多くの皆様に支えられながら、昨年もなんとか、このホームページを継続することができました。今年も体力と気力が続く限り、楽しみながら更新を続けていきたいと思っています。
新しい年のはじめにあたり、今年がどうか佳い年でありますように、皆様のご健勝とご多幸をこころからお祈り申しあげます。
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